渋谷武
渋谷 武(しぶや たけし、1925年(大正14年)5月27日 - 2016年(平成28年)11月26日)は、日本の政治学者。新潟大学名誉教授、新潟薬科大学名誉教授、中華人民共和国黒龍江省社会科学院名誉教授、北東アジア学会初代会長・名誉会員。
略歴
[編集]長野県長野市に出生、新潟県上越市に転居[注 1]、新潟市(現 新潟市中央区)に転居[3]。
1943年(昭和18年)3月に新潟中学校を卒業、4月に新潟高等学校に入学、1944年(昭和19年)8月に三重海軍航空隊に入隊、1945年(昭和20年)3月に新潟高等学校を卒業、1948年(昭和23年)3月に東京大学法学部政治学科を卒業[4][5]。
1948年(昭和23年)4月に新潟第一師範学校講師に就任、1951年(昭和26年)3月に新潟大学人文学部助手に就任[6]、1952年(昭和27年)1月に新潟大学人文学部講師に就任[7]、1959年(昭和34年)5月に新潟大学人文学部助教授に就任[7]、1964年(昭和39年)4月に新潟大学教養部助教授に就任[6][8][9]、1965年(昭和40年)4月に新潟大学教養部教授に就任[8][10]、1969年(昭和44年)7月に新潟大学教養部長事務取扱に就任、8月に新潟大学教養部長に就任[11][12][注 2][注 3]、1975年(昭和50年)4月から新潟大学大学院法学研究科を担当、1982年(昭和57年)4月に新潟大学法学部教授に就任[14][15]、1984年(昭和59年)4月に新潟大学法学部長・大学院法学研究科長に就任[14][16][注 4]、1991年(平成3年)3月に新潟大学を定年退官[4][15][17]、新潟大学名誉教授の称号を受称、4月に新潟薬科大学教授に就任[18]、1994年(平成6年)3月に新潟薬科大学を退職、新潟薬科大学名誉教授の称号を受称。1993年(平成5年)4月から2001年(平成13年)3月まで新潟産業大学非常勤講師を務めた[19]。
2016年(平成28年)11月26日午後9時35分に新潟市秋葉区東金沢の下越病院で誤嚥性肺炎のため死去[20]。
日本海を平和の海にしようと環日本海地域の研究者と交流し、環日本海学会(現 北東アジア学会)の設立に尽力して初代会長を務めた[20][21][22]。
関連人物
[編集]- 永井行蔵 - 新潟大学の先輩同僚。渋谷武と毎日早朝に海で手漕ぎボートに乗って釣りをしていた。ある時、高波が永井を包み込むように叩き、永井が海に落ちた。永井がボートに上がろうとしたら、ボートが横転して渋谷も海に落ちた[23]。
- 本井文哉 - 海軍大尉、回天特別攻撃隊金剛隊隊員。新潟中学校の同級生で親友[24]。太平洋戦争中、1945年(昭和20年)1月12日に西太平洋のウルシー環礁にて人間魚雷「回天」に搭乗し敵艦に突撃して戦死[25][26]。
著書
[編集]- 『ラスキの政治理論』弘文堂〈アテネ新書 109〉、1961年。
- 『アメリカの心 中国の心 私の心』中村書店、1982年。
- 『〝きょうせい〟 変化考覚書』渋谷武(私家版)、2002年。
- 『葉葉協生論』文芸社、2008年。
編著書
[編集]編書
[編集]監修書
[編集]- 『環日本海叢書 1: 国境を越える実験 環日本海の構想』多賀秀敏[編]、多賀秀敏[共監修]、有信堂高文社、1992年。
- 『環日本海叢書 2: 自治体外交の挑戦 地域の自立から国際交流圏の形成へ』羽貝正美・大津浩[編]、多賀秀敏[共監修]、有信堂高文社、1994年。
- 『環日本海叢書 3: 東北アジア史の再発見 歴史像の共有を求めて』古厩忠夫[編]、多賀秀敏[共監修]、有信堂高文社、1994年。
- 『環日本海叢書 別巻: 開放中国国際化のゆくえ 黄渤海経済圏と日本』西川潤[編]、多賀秀敏[共監修]、有信堂高文社、1995年。
- 『環日本海叢書 4: APEC時代への戦略 環日本海経済圏の新局面』小山洋司[編]、多賀秀敏[共監修]、有信堂高文社、1996年。
論文
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 『法政理論』第23巻第3・4号、2頁。
- ^ 『青山同窓会報』第71号、5面。
- ^ 『北東アジア地域研究』第23号、1・6頁。
- ^ a b 『北東アジア地域研究』第23号、1・7頁。
- ^ 『法政理論』第23巻第3・4号、2-3頁。
- ^ a b 『新潟大学二十五年史 部局編』76-77頁。『新潟大学五十年史 部局編』79頁。
- ^ a b 『新潟大学二十五年史 部局編』77頁。『新潟大学五十年史 部局編』79頁。
- ^ a b 『新潟大学二十五年史 部局編』979頁。
- ^ 『新潟大学五十年史 部局編』930頁。
- ^ 『新潟大学五十年史 部局編』79頁。
- ^ a b 『法政理論』第23巻第3・4号、3頁。
- ^ 『新潟大学二十五年史 総編』588頁。『新潟大学二十五年史 部局編』964頁。
- ^ 『新潟大学二十五年史 部局編』966頁。
- ^ a b c 『法政理論』第23巻第3・4号、4頁。
- ^ a b 『新潟大学五十年史 部局編』81頁。
- ^ 『新潟大学五十年史 部局編』105・147頁。
- ^ 『法政理論』第23巻第3・4号、1頁。
- ^ 『北東アジア地域研究』第23号、1-2頁。
- ^ 『北東アジア地域研究』第23号、2頁。『〝きょうせい〟 変化考覚書』奥付。
- ^ a b 『新潟日報』2016年12月1日付朝刊、35面。
- ^ 『現代 物故者事典 2015〜2017』291頁。『新潟県 人物・人材情報リスト 2021 第1巻』389頁。
- ^ 『北東アジア地域研究』第23号、7・11・85頁。
- ^ 『新潟大学 国文学会誌』第18号、168頁。『新潟大学 国語国文学会誌』第33号、94-95頁。
- ^ 『〝きょうせい〟 変化考覚書』21・27・181頁。『青山同窓会報』第71号、5-6面。
- ^ 人間魚雷「回天」で犠牲に、亡き兄の手紙 - 日テレNEWS
- ^ 「回天」突撃 19歳の遺書 周南の記念館に弟寄贈 | 中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター
参考文献
[編集]- 「渋谷武」『現代 物故者事典 2015〜2017』291頁、日外アソシエーツ[編]、日外アソシエーツ、2018年。
- 「渋谷武」『新潟県 人物・人材情報リスト 2021 第1巻』389頁、日外アソシエーツ[編]、日外アソシエーツ、2020年。
- 「渋谷武氏が死去 新大名誉教授 日本海の平和希求 91歳」『新潟日報』2016年12月1日付朝刊、35面、新潟日報社、2016年。
- 「特集 北東アジア学会初代会長 渋谷武先生を悼んで・編集後記 (PDF) 」『北東アジア地域研究』第23号、1-39・85頁、多賀秀敏・若月章・宮島美花・柑本英雄・髙橋和[著]、北東アジア学会、2017年。
- 『法政理論』第23巻第3・4号 渋谷武教授退職記念、新潟大学法学会[編]、新潟大学法学会、1991年。
- 『新潟大学二十五年史 総編』新潟大学二十五年史編集委員会[編]、新潟大学二十五年史刊行委員会、1974年。
- 『新潟大学二十五年史 部局編』新潟大学二十五年史編集委員会[編]、新潟大学二十五年史刊行委員会、1980年。
- 『新潟大学五十年史 部局編』新潟大学五十年史編集委員会[編]、新潟大学五十年史刊行委員会、2000年。
- 『新潟大学 国文学会誌』第18号 永井行藏先生退官記念特集号、伊狩章・箕輪真澄・屋形稔・諏訪春雄・渋谷武・ほか[著]、新潟大学国文学会[編]、新潟大学国文学会・永井行蔵先生退官記念事業会、1974年。
- 『新潟大学 国語国文学会誌』第33号、85-102頁、「名誉教授 永井行蔵先生追悼」宮崎莊平・伊狩章・諏訪春雄・渋谷武・ほか[著]、新潟大学人文学部国語国文学会[編]、新潟大学人文学部国語国文学会、1990年。
- 『〝きょうせい〟 変化考覚書』渋谷武[著]、渋谷武(私家版)、2002年。
- 「一月足らずで母校の教壇から消えた男の記 (PDF) 」『青山同窓会報』第71号、5-7面、渋谷武[著]、青山同窓会、2000年。
関連文献
[編集]- 「会長挨拶 (PDF) 」『環日本海研究』第1号、3-4頁、渋谷武[著]、環日本海学会、1995年。
- 「「環日本海学会」創設の初心 (PDF) 」『環日本海研究』第11号、1-2頁、渋谷武[著]、環日本海学会、2005年。
- 「渋谷武さん 平和訴える政治学者 「協生」で不戦問う 互いを認め合う社会に」「人間力」『新潟日報』2008年11月29日付朝刊、20面、新潟日報社、2008年。
- 「渋谷武さん 忘れられぬ「頂門の一針」」「座標軸」『新潟日報』2016年12月4日付朝刊、5面、新潟日報社、2016年。
- 「日報抄」『新潟日報』2016年12月16日付朝刊、1面、新潟日報社、2016年。
外部リンク
[編集]学職 | ||
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先代 設立 |
北東アジア学会会長 初代:1994年11月27日 - 1996年12月6日 |
次代 山村勝郎 |