渡邉衡三
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渡邉 衡三 | |
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2013年10月13日、プリンス&スカイラインミュウジアムにて | |
生誕 |
1942年9月24日(82歳) 大阪府 |
国籍 | 日本 |
教育 | 東京大学修士課程 |
業績 | |
専門分野 | 機械工学(修論は自動車工学) |
勤務先 |
日産自動車 NISMO |
設計 | 日産スカイライン(9代目R33型と10代目R34型) |
成果 |
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渡邉 衡三(わたなべ こうぞう、1942年(昭和17年)9月24日 - )[1]は、日本の自動車技術者で、日産自動車の9代目スカイライン(R33型)と、10代目スカイライン(R34型)の開発責任者(主管)である。
経歴
[編集]日産への就職、レース車のサスペンション設計
[編集]大阪府出身。東京大学工学部機械工学科(船舶機械工学を学ぶ)を卒業後、修士課程(修論は自動車工学)を経て、1967年(昭和42年)4月、日産自動車のプリンス事業部への就職を希望し、入社。(前年の8月に、プリンス自動車工業は日産に吸収合併されていた。)[2]
大学時代には、1963年(昭和38年)の第1回日本グランプリを観戦し、プリンス車が惨敗するところも見、さらに就職の前月には、欧州でF1も観戦した。[3]
元々ブラバム等のレーシングカー設計会社への就職が夢だった事もあり、日本でレースを積極的にやっている会社はどこかと考えた時、ではR380でレース活動を行っている日産のプリンス事業部をと希望し、希望が叶った。[4] 配属先はプリンス事業部(荻窪)の第一車両設計部第二車両設計課であった。
そこの部署の二人いる課長の一人が桜井眞一郎であり、その下で主任としてシャシー関係のとりまとめをしていたのが、後に渡邉の前任者として将来、8代目スカイライン(R32型)の開発責任者(主管)を務める事になる伊藤修令であった。[4]
桜井に「レース車の設計をやりたいのですが」と話したところ、「きみ、まず生産車を勉強してからじゃなきゃ、レース車なんて造れるわけないよ」と言われたという。[4] とは言え、3代目スカイライン(ハコスカ)のGT-Rのレース車用サスペンションの設計等も、徐々に任されるようになり、R381やR382のサスペンションの設計にも関与した。[2]
レース活動の中止、安全対策部門への異動
[編集]やがて自動車の世界も排ガス対策や安全性がますます重要視され、日産もR38シリーズでのレース活動を中止する。
1969年の暮れか1970年の初頭、所属長に呼ばれ1970年(昭和45年)春、渡邉は荻窪(旧プリンス自動車の本拠地)から鶴見(旧日産の設計・開発部門の本拠地)のESV(Experimental Safety Vehicle=実験安全車)部門に異動となり、衝突安全性等の研究に3年ほど従事する。[4][3][5]
再び荻窪に戻る
[編集]そして1973年(昭和48年)、再び荻窪に戻り、第三シャシー設計部の第三シャシー設計課に配属となる。(課長は伊藤修令。)[4]
当時は、4代目スカイライン(ケンメリ)のマイナーチェンジの作業中だった。[4]
そこでは、荻窪で設計する、スカイライン、パルサー(チェリーの後継車)、ニッサン・プリンス・ホーマー等の旧プリンス系の車両のシャシーを、横並びで担当した。この期間に、ケンメリのマイナーチェンジ版の足回りやパワステの設計も担当した。[3] 渡邉によれば、この頃、御料車のニッサン・プリンス・ロイヤル(S390P-1)の部品を交換してお納めし、恩賜の煙草を下賜され、感無量だったという。[2]
当時は排ガス規制対応で多くの人を引き抜かれており、わずか2、3名で仕事を切り盛りしていた。その部署には1975年(昭和50年)まで在籍した。[4]
本社設計開発本部へ異動
[編集]本社設計開発本部では、今後開発する車の基本的なコンセプトや、戦略を決める仕事を行なった。その中には、6代目スカイライン(ニューマン・スカイライン)や、7代目スカイライン(7thスカイライン)、ブルーバードやサニーのFF化も含まれていた。[4]
車両実験部に異動
[編集]1985年(昭和60年)には車両実験部に異動し、N13型パルサー、エクサ、ラングレー、リベルタビラ等の実験を行った。[3]
R32型スカイラインの実験主担に
[編集]1987年(昭和62年)からは、栃木にて、8代目スカイライン(R32型)及び、レパードと輸出仕様車であるインフィニティ・Mの実験主担に任じられ、同車の実験を最後まで務めた。R32型のアテーサE-TSの基礎研究は、先代の7代目スカイライン(7thスカイライン)や兄弟車である日産・ローレルを四駆に改造して実験を繰り返し、予想以上の仕上がりとなり、その成果はR32型以降のスカイライン市販四駆車に惜しみなく盛り込まれた。[3]
日産の実験責任者(主管)に
[編集]1990年(平成2年)からは、日産の実験主管に任命され、日産の乗用車のマイナーチェンジ時の実験責任者に任命された。その際には北米での品質向上運動や、社内でも走行距離が長い事から初代Q45のフリートテストなどを行った。
R33型スカイラインの開発責任者(主管)に
[編集]1992年(平成4年)1月に、商品開発本部主管として、9代目スカイライン(R33型)の開発責任者を任される。(R33型の開発自体は、既に開始されていた。)
日産本社の方針として先代R32型より大きくなったが、R33型GT-R(BCNR33型)はR32型GT-R(BNR32型)より速い車に仕上げるという渡邉の目標で熟成させ、ニュルブルクリンクでのラップタイムが7分59秒と、R32より21秒縮める事に成功した。
当時のR33型GT-RのテレビCMのキャッチコピーは、「マイナス21秒ロマン」であった。[4]
引き続きR34型スカイラインの開発責任者(主管)に
[編集]渡邉によれば、10代目R34型スカイラインでは、スカイライン長年の懸案だった前後重量配分やパッケージングの改善のため、V6エンジンとV35のパッケージングの使用も考えたという。
しかしレイアウト変更やATTESA E-TSとV型エンジンの組み合わせがシーマ用のVH41DEしか存在しなかった事で開発期間が延びる懸念やVQエンジン製造のために当時月産2万機の1ラインだけでフル稼働中だったいわき工場に第二ライン新設などによる設備投資にはスカイライン1車種では賄えきれない莫大な費用がかかるとして、引き続き直6のRBエンジンを玉成し、継続使用する事となった。[2]
近況
[編集]R34型スカイラインを世に送り出した後(彼が主管として開発したBNR34型GT-Rは、最後の「スカイラインGT-R」となり、ハコスカ以来のスカイラインGT-Rの有終の美を飾った)、1999年(平成11年)には、NISMOに異動し、常務取締役として、2006年(平成18年)引退。[2]
現在は、プリンス&スカイラインミュウジアムの顧問を務めつつ、各種イベントやトークショー等で元気な姿を見せている。[6]
なお、渡邉が日産入社以降(2代目スカイラインS50系の末期以降)、設計で関与しなかったスカイラインは、5代目スカイライン(スカイライン・ジャパン)のみである。[3][7]
家族・親族
[編集]妻は岡谷鋼機元社長・岡谷正男の次女[8]。岡谷鋼機の現社長・岡谷篤一は正男の長男すなわち渡邉の義兄[8]。義母[注釈 1]は実業家・松本健次郎の孫娘[9]。義叔母[注釈 2]は物理学者・嵯峨根遼吉に嫁いだ[8]。
関連項目
[編集]参考文献
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 『ネオ・ヒストリックArchives NISSAN SKYLINE R33/R34』、ネコ・パブリッシング、2009年8月26日、ISBN 978-4-7770-0877-3、2013年8月8日閲覧。
- ^ a b c d e “日産:スカイラインにかける開発者の想い|スカイラインにかける開発者の想い|渡邉 衡三”. 日産自動車公式サイト. 2016年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年8月8日閲覧。
- ^ a b c d e f 『SEIBIDO MOOK 『日本の名車 スカイラインGT-R PGC10からR33まで、歴代GT-Rのすべて』』、成美堂出版、1997年7月10日、ISBN 4-415-09239-X、2013年8月8日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 『サクラムック21 『最強のスカイライン物語』』、笠倉出版、1997年7月10日、ISBN 4-7730-0821-0、2013年8月8日閲覧。
- ^ “日産ESV開発の思い出 - 渡邉 衡三”. sites.google.com. 2024年6月8日閲覧。
- ^ “プリンス&スカイライン・ミュウジアム 公式サイト”. 2013年8月8日閲覧。
- ^ “当館名誉館長、顧問の就任について”. プリンス&スカイライン・ミュウジアム公式サイト. 2015年8月4日閲覧。
- ^ a b c 『豪閥』、246-247頁。
- ^ 『豪閥』、246-247頁、249頁。