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湯原元綱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
湯原元綱
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 慶長元年4月18日1596年5月15日
別名 通称:平次
官位 弾正忠豊前守
主君 尼子晴久義久毛利隆元輝元
氏族 源姓湯原親王湯原氏
父母 父:湯原春綱
兄弟 元綱富永安綱広綱、女(児玉元良継室)
元経
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湯原 元綱(ゆはら もとつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将出雲国島根郡秋鹿郡内に本領を持つ国人尼子氏毛利氏の家臣。父は湯原春綱

生涯

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出雲国国人尼子氏家臣の湯原春綱の嫡男として生まれる。

尼子氏毛利氏の圧迫を受けて劣勢に追い込まれたため、永禄5年(1562年)1月に天野隆重大谷元親桂元忠児玉元実の勧誘によって父・春綱と共に毛利氏に降った。以後は毛利氏家臣として吉川元春に従い、月山富田城攻めに加わった。

永禄6年(1563年3月6日、出雲国意宇郡大草村における合戦で武功を挙げ[注釈 1][1]、父・春綱と共に毛利元就から感状を与えられた[2]

その後は中国地方で尼子再興軍、織田氏宇喜多氏などと戦い、天正13年(1585年)の四国攻めや天正14年(1586年)から天正15年(1587年)にかけての九州平定に従軍し武功を挙げた。

天正19年(1591年8月26日に父・春綱が死去すると家督を相続し、天正20年(1592年)から始まる文禄の役に従軍した。

慶長元年(1596年4月18日に死去。嫡男の元経が後を継いだ。

脚注

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注釈

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  1. ^ この時の合戦で湯原軍は尼子軍の首級をいくつも挙げており、父・春綱が黒田藤右衛門尉を自ら討ち取り、木村五郎兵衛野嶋助五郎を、黒崎弥市郎黒田助八郎を、岩内弥十郎が黒田助八郎の被官である黒田七左衛門を、湯原慶綱山下左内をそれぞれ討ち取った。また、木村忠三郎が敵兵の首を2つ挙げ、石橋左京谷孫兵衛谷孫七山本九郎左衛門吉岡清空入道がそれぞれ敵兵の首を1つずつ挙げている[1]

出典

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  1. ^ a b 『閥閲録』巻115「湯原文左衛門」第4号、永禄6年(1563年)3月28日付、児玉元良桂元忠宛て湯原春綱頸注文。
  2. ^ 『閥閲録』巻115「湯原文左衛門」第3号、永禄6年(1563年)3月6日付、湯原春綱・湯原元綱宛て毛利元就感状。

参考文献

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