湯原元綱
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 慶長元年4月18日(1596年5月15日) |
別名 | 通称:平次 |
官位 | 弾正忠、豊前守 |
主君 | 尼子晴久→義久→毛利隆元→輝元 |
氏族 | 源姓湯原親王流湯原氏 |
父母 | 父:湯原春綱 |
兄弟 | 元綱、富永安綱、広綱、女(児玉元良継室) |
子 | 元経 |
湯原 元綱(ゆはら もとつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。出雲国島根郡・秋鹿郡内に本領を持つ国人。尼子氏、毛利氏の家臣。父は湯原春綱。
生涯
[編集]尼子氏が毛利氏の圧迫を受けて劣勢に追い込まれたため、永禄5年(1562年)1月に天野隆重や大谷元親、桂元忠、児玉元実の勧誘によって父・春綱と共に毛利氏に降った。以後は毛利氏家臣として吉川元春に従い、月山富田城攻めに加わった。
永禄6年(1563年)3月6日、出雲国意宇郡大草村における合戦で武功を挙げ[注釈 1][1]、父・春綱と共に毛利元就から感状を与えられた[2]。
その後は中国地方で尼子再興軍、織田氏、宇喜多氏などと戦い、天正13年(1585年)の四国攻めや天正14年(1586年)から天正15年(1587年)にかけての九州平定に従軍し武功を挙げた。
天正19年(1591年)8月26日に父・春綱が死去すると家督を相続し、天正20年(1592年)から始まる文禄の役に従軍した。
慶長元年(1596年)4月18日に死去。嫡男の元経が後を継いだ。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 『萩藩閥閲録』巻115「湯原文左衛門」