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源泰光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
源泰光
時代 鎌倉時代初期 - 中期
生誕 仁安2年(1167年
死没 不詳
改名 俊信→泰光
官位 従三位加賀守
主君 後白河上皇六条天皇高倉天皇安徳天皇後鳥羽天皇土御門天皇順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇四条天皇後嵯峨天皇後深草天皇
氏族 村上源氏俊房
父母 父:師光
母:後白河院女房安芸(巨勢宗成の娘)[1]
兄弟 泰光具親後鳥羽院宮内卿、尋恵、澄覚
源俊平
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源 泰光(みなもと の やすみつ)は、鎌倉時代初期から中期にかけての公卿歌人村上源氏俊房流、右京権大夫源師光の長男。官位従三位加賀守

経歴

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従五位下叙爵後、後白河院政期後期の文治3年(1187年兵部権少輔に任ぜられ、建久2年(1191年)従五位上に叙せられる。

後鳥羽院政期に入ると建久5年(1194年)正月に紀伊介を兼ねるが、同年4月に兵部権少輔を辞す代わりに正五位下に昇叙された。紀伊介の任期満了後は散位になったと見られるが、建仁3年(1203年前権大納言藤原泰通知行国である加賀守に任ぜられる。泰通の母は源師頼の娘であるため泰光にとっては叔母にあたり、泰通の取りなしで加賀守に任ぜられた可能性がある。また泰光と泰通の通字が同じく「泰」なのは、偶然の一致ではないと考えられる。

承久3年(1221年承久の乱終結後の12月に27年振りに昇叙されて従四位下に昇進する。その後も昇進は遅滞し、嘉禎2年(1237年)今度は16年ぶりの昇叙で従四位上となるなど、村上源氏の嫡流格ながら、他の源師頼の子孫らと同様、長らく官途は不遇であった。

後嵯峨院政期に入ると、宝治2年(1248年従三位に叙せられ、82歳という極めて高齢ながら公卿に列す。これは、後嵯峨院による村上源氏取立て策の一環によるものと考えられる。翌建長元年(1249年出家

人物

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勅撰歌人として、『新古今和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集和歌作品が6首採録されている[2]

官歴

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公卿補任』による。

系譜

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  • 父:源師光
  • 母:後白河院女房安芸 - 巨勢宗成の娘
  • 妻:不詳
    • 男子:源俊平

脚注

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  1. ^ 明月記嘉禄2年8月9日条。
  2. ^ 『勅撰作者部類』

出典

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