源経長
時代 | 平安時代中期 - 後期 |
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生誕 | 寛弘2年(1005年) |
死没 | 延久3年6月6日(1071年7月5日) |
別名 | 正字:經長 |
官位 | 正二位、権大納言 |
主君 | 後一条天皇→後朱雀天皇→後冷泉天皇→後三条天皇 |
氏族 | 宇多源氏 |
父母 | 父:源道方、母:源国盛の娘 |
兄弟 | 経長、経親、経信、経隆、円信 |
子 | 養子:道良 |
源 経長(みなもと の つねなが)は、平安時代中期から後期にかけての公卿。宇多源氏、権中納言・源道方の四男。官位は正二位・権大納言。
経歴
[編集]寛仁4年(1020年)雅楽助に任ぜられ、治安2年(1022年)に後一条天皇の蔵人に補任。治安3年(1023年)式部少丞に任官する。
治安4年(1024年)従五位下に叙爵。左馬助に叙任される。万寿2年(1025年)少納言に任ぜられ、万寿4年(1027年)従五位上に叙せられる。長元2年(1029年)には五位蔵人となり、長元3年(1030年)左少弁に任官。紀伊権守・防鴨河使を兼ねた。長元5年(1032年)権中納言・藤原資平の次男・資仲の元服の際には理髪を務めている[1]。長元6年(1033年)従五位上・斎院長官に叙任。長元8年(1035年)和泉守を兼ね、右中弁に昇進。
長元9年(1036年)従四位下、続いて従四位上に叙せられる。長暦2年(1038年)権左中弁に転じ、正四位下に昇叙。長暦3年12月(1040年1月)に左中弁となり、長久2年(1041年)に左京大夫・伊予権守・周防権守を兼帯した。長久3年(1042年)蔵人頭・宮内卿を経て、長久4年(1043年)参議に任ぜられて公卿に列した。
寛徳元年(1044年)従三位・美作権守に叙任される。寛徳2年(1045年)には右大弁を兼任。永承2年(1047年)正三位・勘解由長官に叙任された。永承4年(1049年)近江権守を兼ねる。永承5年(1050年)従二位・左大弁に叙任され、播磨権守・備後権守を兼帯。天喜6年(1058年)兼職を辞任して権中納言に任ぜられた。
康平6年(1063年)正二位に叙せられる。皇后宮大夫・中宮大夫を経て、延久元年(1069年)皇太后宮大夫に任官。同年権大納言に至るが、延久3年(1071年)4月に病のため出家し、同年6月6日に67歳で薨去した。
官歴
[編集]※以下、『公卿補任』の記載に従う。
- 寛仁4年(1020年)11月29日:雅楽助に任ず。
- 治安2年(1022年)4月3日:蔵人に補す。
- 治安3年(1023年)3月29日:式部少丞に任ず。
- 治安4年(1024年)/万寿元年
- 正月7日:従五位下に叙す(皇太后宮御給)。
- 9月18日:左馬助に任ず。
- 万寿2年(1025年)正月30日:少納言に任ず。
- 万寿4年(1027年)正月5日:従五位上に叙す(少納言労)。
- 長元2年(1029年)正月5日:五位蔵人に補す。
- 長元3年(1030年)
- 正月26日:紀伊権守を兼ぬ。
- 11月5日:左少弁に任ず。
- 長元5年(1032年)7月20日:防鴨河使を兼ぬ。
- 長元6年(1033年)
- 正月7日:正五位下に叙す。
- 4月2日:斎院長官に任ず。
- 長元8年(1035年)
- 正月30日:和泉守を兼ぬ(蔵人巡)。
- 10月16日:右中弁に転ず。
- 長元9年(1036年)
- 正月7日:従四位下に叙す。
- 2月27日:従四位上に叙す(去年中宮行啓斎院賞追申之)。
- 4月18日:斎院長官を止む。
- 長暦2年(1038年)
- 6月25日:権左中弁に転じ、和泉守を辞す。
- 12月21日(1039年1月18日):正四位下に叙す(行幸春日社行事賞)。
- 長暦3年12月16日(1040年1月2日):左中弁に転ず。
- 長久2年(1041年)
- 正月23日:左京大夫・伊予権守を兼ぬ。
- 3月27日:周防権守を兼ぬ。
- 長久3年(1042年)
- 正月29日:蔵人頭に補す。
- 10月27日:宮内卿を兼ぬ。
- 長久4年(1043年)9月19日:参議に任ず。
- 長久5年(1044年)/寛徳元年
- 正月30日:美作権守を兼ぬ。
- 12月14日(1045年1月4日):従三位に叙す(為弁官之時造宮行事)。
- 寛徳2年(1045年)10月23日:右大弁を兼ね、左京大夫を辞す。
- 永承元年(1046年)9月3日:次第司長官に補す。
- 永承2年(1047年)
- 4月23日:正三位に叙す(石清水賀茂行幸行事賞)。
- 11月13日:勘解由長官を兼ぬ。
- 永承4年(1049年)2月5日:近江権守を兼ぬ。
- 永承5年(1050年)
- 9月17日:左大弁に転ず。
- 10月13日:従二位に叙す(上東門院。院司賞)。
- 永承7年(1052年)2月26日:播磨権守を兼ぬ。
- 天喜4年(1056年)2月3日:備後権守を兼ぬ。
- 天喜6年(1058年)4月25日:権中納言に任じ、右大弁・備後権守を辞す。
- 康平2年(1059年)2月8日:勅授帯剣。
- 康平4年(1061年)9月19日:勅授帯剣。
- 康平6年(1063年)11月9日:正二位に叙す(旧年石清水行幸行事賞)。
- 治暦元年12月8日(1066年1月8日):皇后宮権大夫を兼ぬ。
- 治暦2年(1066年)12月8日:皇后宮大夫に転ず。
- 治暦4年(1068年)
- 4月17日:中宮大夫を兼ぬ。
- 9月3日:大嘗会装束司長官に補す。
- 延久元年(1069年)
- 7月3日:皇太后宮大夫を兼ぬ。
- 8月22日:権大納言に任ず。
- 延久3年(1071年)
- 4月9日:病に依り職を辞す。
- 6月6日:薨去。享年67。