源重資
時代 | 平安時代中期 - 後期 |
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生誕 | 寛徳2年(1045年) |
死没 | 保安3年10月10日(1122年11月10日) |
官位 | 従二位、権中納言 |
主君 | 後冷泉天皇→後三条天皇→白河天皇→堀河天皇→鳥羽天皇 |
氏族 | 醍醐源氏 |
父母 | 父:源経成、母:藤原泰通または藤原方正の娘 |
兄弟 | 重綱、重資、成経 |
妻 | 不詳 |
子 | 源顕親室 |
源 重資(みなもと の しげすけ)は、平安時代中期から後期にかけての公卿。醍醐源氏、権中納言・源経成の子。官位は従二位・権中納言。
経歴
[編集]康平6年(1063年)19歳で父・経成と同じく諸陵助として官途を始める。式部少/大丞を経て、後冷泉朝末の治暦3年(1067年)式部丞の労により従五位下に叙爵し、越後権守に任ぜられる。後三条朝初頭の延久元年(1069年)右馬助として京官に復す。
白河朝に入ると、承保2年(1075年)正月に右衛門佐に遷るが、同年6月には文官の少納言に転じる。のち、承保4年(1077年)従五位上、承暦5年(1081年)正五位下に昇叙される。応徳元年(1084年)右少弁に任ぜられると、寛治6年(1092年)左少弁、寛治8年(1094年)権右中弁、嘉保2年(1095年)従四位下、承徳2年(1098年)従四位上・左中弁と、白河朝末から白河院政期にかけて弁官を務めながら昇進を重ねる。この間、嘉保3年(1096年)の永長の大田楽においては源信雅らと共に小鼓を打っている。
康和2年(1100年)正四位下・蔵人頭(頭弁)に叙任され、康和4年(1102年)に正四位上に昇叙。長治3年(1106年)に装束使を務めていたが、白馬節会の際に宣命のことで怠状を召されている[1]。
嘉承元年(1106年)に63歳にして参議兼左大弁に任ぜられて公卿に列す。議政官として左大弁・勘解由長官を兼帯し、嘉承3年(1108年)従三位、永久元年(1113年)正三位と累進を重ねた。永久3年(1115年)権中納言に任ぜられ、30年間以上に亘って務めた弁官を離れる。永久5年(1117年)宮内卿を兼ねるがほどなく大宰権帥に転じて現地に赴任する。なお、重資を最後に大宰権帥は遙任化していく。元永2年(1118年)に罷申(任国赴任の際の挨拶)の儀の際に勅命で従二位に叙せられて御衣を賜った[2]。保安2年(1121年)に権帥を辞して京に戻る。翌保安3年(1122年)7月2日に出家し、同年10月10日に薨去。享年78。
重資の邸宅であった中御門邸は嘉承2年(1107年)に白河院の御所となり、嘉承3年(1108年)には藤原忠実の邸宅となっている。
官歴
[編集]註釈のないものは『公卿補任』による。
- 康平6年(1063年) 11月:諸陵助
- 康平8年(1065年) 4月24日:式部少丞
- 治暦2年(1066年) 正月:式部大丞
- 治暦3年(1067年) 正月5日:従五位下(式部丞労)。2月6日:越後権守
- 延久元年(1069年) 4月28日:右馬助
- 承保2年(1075年) 正月28日:右衛門佐。6月13日:少納言
- 承保4年(1077年) 正月6日:従五位上
- 承暦2年(1078年) 正月27日:兼紀伊権守
- 承暦5年(1081年) 正月5日:正五位下(少納言労)
- 応徳元年(1084年) 8月22日:右少弁
- 応徳3年(1086年) 2月23日:兼修理右宮城使
- 寛治3年(1089年) 正月28日:兼摂津権守
- 寛治6年(1092年) 11月8日:左少弁
- 寛治8年(1094年) 6月13日:権右中弁
- 嘉保2年(1095年) 正月5日:従四位下
- 承徳2年(1098年) 正月6日:従四位上(松尾平野行幸行事賞)。正月27日:権左中弁[3]。12月17日:左中弁[3]
- 康和2年(1100年) 7月3日:正四位下(造住吉賞)。8月14日:兼率分勾当[3]。11月24日:蔵人頭
- 康和3年(1101年) 2月9日:兼越前権守。11月28日:修理左宮城使
- 康和4年(1102年) 7月21日:正四位上(院御給)
- 長治3年(1106年) 3月11日:兼土佐権守
- 嘉承元年(1106年) 12月27日:参議、兼左大弁、元左中弁[3]
- 嘉承2年(1107年) 日付不詳:兼勘解由長官。日付不詳:兼近江権守
- 嘉承3年(1108年) 11月20日:従三位(大嘗会国司)
- 天永2年(1111年) 正月23日:兼備前権守
- 永久元年(1113年) 10月12日:正三位(日吉行幸行事賞)
- 永久3年(1115年) 4月28日:権中納言(宣命)
- 永久5年(1117年) 正月19日:兼宮内卿。12月30日:兼大宰権帥、辞宮内卿
- 元永2年(1118年) 8月2日:従二位
- 保安2年(1121年) 5月:上洛、即辞権帥
- 保安3年(1122年) 7月2日[4]:出家。10月10日:薨去