源顕親
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時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 寛治2年(1088年) |
死没 | 永暦元年(1160年)7月15日 |
官位 | 正四位下、播磨守 |
主君 | 近衛天皇→後白河天皇 |
氏族 | 村上源氏顕房流 |
父母 | 父:源雅俊、母:高階業子(高階為家の娘) |
兄弟 | 顕親、顕重、顕俊、俊頼 |
妻 | 源重資の娘 |
子 | 雅範、俊光、俊長、三条公行室 |
源 顕親(みなもと の あきちか)は、平安時代後期の貴族。村上源氏顕房流、権大納言・源雅俊の子。官位は正四位下・播磨守。
経歴
[編集]鳥羽院政期では、鳥羽上皇の妃である皇后・藤原泰子の皇后宮亮や右京権大夫を歴任した。鳥羽院政期末に播磨守を務め、仁平4年(1154年)播磨守に重任されるが、保元元年(1156年)平清盛と交代して国守を辞任している。
晩年出家し、永暦元年(1160年)7月15日卒去。享年73。
梅津殿と呼ばれる山荘を所有し、没後は藤原忠通の手に渡った。
官歴
[編集]- 長治元年(1104年) 2月27日:見右兵衛佐[1]
- 保延5年(1139年) 正月:備前権守、見皇后宮亮(皇后・藤原泰子)[2]
- 久安2年(1146年) 3月19日:見右京権大夫[3]
- 仁平3年(1153年) 4月20日:見播磨守[4]
- 仁平4年(1154年) 8月2日:播磨守(重任)
- 保元元年(1156年) 日付不詳:辞播磨守?[5]
- 永暦元年(1160年) 7月15日:卒去[6]
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。