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溝尾茂朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
溝尾 茂朝
時代 戦国時代-安土桃山時代
生誕 天文7年(1538年
死没 天正10年6月13日1582年7月2日
別名 通称:庄兵衛[1]
三沢秀次・秀儀・為信?[2]
明智茂朝
主君 明智光秀
氏族 三沢氏/溝尾氏
父母 三沢為虎[3]
三沢局[4][5]
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溝尾 茂朝(みぞお しげとも)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将明智光秀の家臣。明智五宿老の一人。三沢秀次と同一人物であると考えられる[6]。光秀に明智姓を賜り明智 茂朝とも呼ばれた。

姓は「三沢」も使用され発音は「みさわ」の説がある[7]

経歴

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『細川家記』の永禄11年(1568年)7月10日条に、明智光秀が足利義昭織田信長を仲介する際の光秀の家人「溝尾庄兵衛」として史料に初めて登場する[8]

天正元年(1573年)、朝倉氏滅亡後の8月から9月まで明智光秀と羽柴秀吉滝川一益越前国の占領行政を担当していたが、9月末から「三沢小兵衛秀次」、羽柴家臣・木下祐久、滝川家臣・津田元嘉の3人がそれぞれ代官として引き継ぎ、越前国北ノ庄の朝倉土佐守の旧館で業務をして「北庄ノ奉行信長殿御内三人衆」(『 朝倉始末記』)と呼ばれ、10月1日には称名寺に領地の安堵状を出している(称名寺文書)。当時、越前の守護代には桂田長俊が任じられていたが、越前の政務の実態は信長の朱印状に基づいて北ノ庄の3人の代官が政務を執行しており、寺領の安堵や年貢・諸公事を収納する事の認可を3代官の連署で許可していたり[9]と、越前支配の実権は3代官が掌握していた。

天正2年(1574年)1月19日に富田長繁率いる越前一向一揆が起こり守護代・桂田長俊を殺し、次に一揆勢は21日に3人衆を攻めたが、安居景健朝倉景胤の仲裁で、逃れて京都へ戻る[10][11]

天正3年(1575年)からの光秀の丹波攻めに従軍する。天正4年(1576年)2月に丹波攻めの途中で国人の中台、曽根の2名に重臣「三沢惣兵衛尉秀儀」として「万雑公事」を免除している[7]。天正7年(1579年)4月の光秀書状には「小兵衛」を「明智」としており明智の名字を使用していた(和田弥十郎宛光秀書状「下条文書」)[12]。 天正10年(1582年)5月には、接待役となった光秀に従って徳川家康の接待の指揮に参加したと言われる。

以上のように朝倉氏滅亡後に越前の代官となった「三沢秀次」や、丹波統治時代に光秀書状に添え状を出している「三沢秀儀」は溝尾と同一人物と推測され、明智家中の政務に大きく関与していたと思われる[13]

天正10年(1582年)、池田家本『信長公記』において本能寺の変前の重臣合議の場に明智秀満明智光忠斎藤利三藤田行政と共に参加しており信長を討つことを賛成した。なお、他の自筆『信長公記』では他4重臣のみで池田家本では太田牛一の自筆で「三沢昌兵衛」が加筆挿入されている[7][14]

本能寺の変後の山崎の戦いに参加したが、敗れて光秀と坂本城へ落ち延びようする。しかし、光秀が落ち武者狩りの百姓によって致命傷を負わされると、光秀の命令で介錯を務めた。そして光秀の首を持ち帰ろうとしたが、再び落ち武者狩りに見つかり首を竹藪の溝に隠すと坂本城へ落ち城で自害した。またその場で自害して果てたとも言われる。享年45[要出典]。光秀の首は百姓に見つかり翌日、織田信孝に差し出された(兼見卿記[15]

関連作品

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脚注・出典

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  1. ^ 通称は小兵衛、昌兵衛、惣兵衛、勝兵衛、庄兵衛など書かれるが、それぞれ同音の異表記で、どの表記が正字なのかはよくわからない。
  2. ^ 蜂須賀データーベース「三沢十左衛門,系図[1]
  3. ^ 蜂須賀データーベース「三沢十左衛門,系図[2]
  4. ^ 寛政重修諸家譜[3]
  5. ^ 蜂須賀データーベース「三沢十左衛門,系図[4]
  6. ^ 谷口克広「信長家臣人名辞典【第二版】p.458「三沢秀次」」 吉川弘文館
  7. ^ a b c 谷口研語『明智光秀 浪人出身の外様大名』〈洋泉社歴史新書y〉2014年、208-210頁。 
  8. ^ 高柳光寿『明智光秀』吉川弘文館〈人物叢書〉、1958年、6頁。 
  9. ^ 中道院文書・橋本文書
  10. ^ 藤本正行『本能寺の変 信長の油断・光秀の殺意』〈洋泉社歴史新書y〉2010年、221-222頁。 
  11. ^ 『福井県史』通史編3 近世1「織田信長と一向一揆 信長と越前支配」信長の本知安堵北庄三人衆長俊の滅亡「福井県文書館」HP 2015年3月7日閲覧
  12. ^ 谷口研語『明智光秀 浪人出身の外様大名』、210頁。 
  13. ^ 谷口克広「信長家臣人名辞典【第二版】p.458「三沢秀次」」 吉川弘文館
  14. ^ フロイス『イエズス会士日本通信』では4人。『当代記』では5人。
  15. ^ 18日浅野長政宛て秀吉書状でも「明智め山科の藪の中へ逃れ入り、百姓に首をひろわれ申し候」としている。「浅野家文書」谷口研語『明智光秀 浪人出身の外様大名』、202-207頁。 


関連項目

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