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灰吹法

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

灰吹法(はいふきほう)は、鉱石などからいったんに溶け込ませ、さらにそこから金や銀を抽出する技術。金銀を鉛ではなく水銀に溶け込ませるアマルガム法と並んで古くから行われてきた技術で、旧約聖書にも記述がある。

抽出法

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貴金属の鉱石は単体金属合金硫化物などの状態の鉱物として産するが、もともと反応性の低い元素であるため、硫化物などの化合物であっても加熱によって容易に還元され、金属となる。そのため金や銀の鉱石を融解した鉛に投じると、もともと金属状態であったり、加熱によって還元されて金属になった金や銀は容易に鉛に溶け込んで合金を生じる。この金銀が溶け込んだ鉛をキューペル(骨灰ポルトランドセメント酸化マグネシウムの粉末などで作った皿のこと)にのせて空気を通しながら約800-850℃に加熱すると、鉛は空気中の酸素と反応して酸化鉛になり、キューペルに吸収され、金と銀の合金が粒状になってキューペルの上に残る。液体金属表面張力が大きいため多孔質のキューペルの上でも液滴の形状を保つが、融解した酸化鉛は表面張力が小さく、毛管現象でキューペルに吸い込まれてしまうからである。また亜鉛といった卑金属の不純物は酸化して酸化鉛と混合し、スラグになるので、量が多い場合にはこれをかき出す。残った貴金属粒子は吹金(灰吹金)あるいは灰吹銀と呼ばれた。金を含有する灰吹銀は山吹銀と称し金銀吹分けが行われた。

残った貴金属合金粒子から金と銀を分離するには、硝酸で銀を溶解するか、電解を行えばよい。江戸時代の日本では金を含有する灰吹銀に鉛および硫黄を加えて硫化銀を分離し、金を残すという手法が採られた[1]。この方法は鉱石中の金や銀の定量分析にも利用される[2]。江戸時代の銀座においても、製造された丁銀の品位を分析する糺吹きにおいて灰吹法が用いられた[3]

灰吹法が広まることにより、酸化鉛や水銀の粉塵を吸い込んだ作業員が鉛中毒水銀中毒を発症し、例えば石見銀山では鉱山での劣悪な環境も相まって30歳まで生きられた鉱夫は尾頭付きの赤飯で「長寿」の祝いをしたほどであった。こうした中毒被害・公害の観点やコスト・効率などの理由により、今日の近代工業において粗銅地金から貴金属などを分離する方法は、電解精錬青化法に移行している。

歴史

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古代

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灰吹法の最古の事例はバビロニアで発見されており、年代はウルク文化後期と推定されている。ハブーバ・カビーラ英語版南遺跡が最古の灰吹法の証拠とされており、工房には方鉛鉱から銀を抽出した跡があり、銀の産地であるタウルス山脈にも近い[4]

1997年平成9年)、本格的調査があった飛鳥京跡の「飛鳥池工房遺跡」において、近世に導入された骨灰を用いた灰吹法と同じ原理の、凝灰岩坩堝(るつぼ)を用いた灰吹法、精錬が行われていたことが判明した[5]。国内で確認されている銀の精錬は、16世紀の「石見銀山」(島根県大田市)が最も古い例とされていたが、 これらは7世紀後半となり、国内最古の精錬となる[6]

鉱石方鉛鉱には、一般に0.03~1%の銀を含み、飛鳥池工房遺跡からも小さい方鉛鉱が出土した。方鉛鉱は、劈開面を持ち、一定の面に沿って割れる、つまりもろいので容易に粉砕できるものである。これを凝灰岩製の坩堝(るつぼ)で焼く。一般的な凝灰岩は、比較的もろく多孔質であることが特徴である。凝灰岩製の坩堝の中で焼くと、酸化され、先に溶け出し、多孔質の坩堝に吸収されるとともに、大気中に幾分蒸発する。そして、最後にが小さな粒として残される[7]。この小さな銀のを集めて、ある程度大きな塊にするために、粉末化した方鉛鉱を再び加え、ピット状の穴を開けた、凝灰岩製の坩堝(るつぼ)に詰め、炉中で熱する。方鉛鉱から溶け出した鉛は、小さな銀の粒を凝集した後に、凝灰岩に吸収され、再び銀だけが濃縮されて残る。この作業は、の濃度を上げるために、何度か繰り返されたことが想定でき、こうして、出土した直径5mm程度の銀粒ができたとみられている[8]。方鉛鉱中の銀を抽出する製錬から、それを集めて再び方鉛鉱を加えてを濃縮し、純度を上げる精錬に至る一連の作業が、まさに「灰吹法」[9]である。ここでは、の代わりに多孔質な凝灰岩坩堝(るつぼ)が直接鉛の吸収材の役目を担っている[7]

中世・近世

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日本には、戦国時代1533年石見銀山の発見に際して、博多を通じ神屋寿禎が招来した吹工、宗丹および慶寿(けいじゅ、文献により桂寿とも記される禅僧)の両名によって伝来された[10]。このとき日本に伝来した技術の系譜に関し、中国から伝来したと言う説[11]と、朝鮮から伝来したと言う説[1][12]があったが、近年では石見銀山資料館島根県立古代出雲歴史博物館が「直接的には朝鮮から伝来したものといわれる[13]。」とし、また山梨県立博物館新潟県立歴史博物館もこれにならっている[14]。15世紀後半から、朝鮮では隣国の明で銀が不足しているのに際し新たな鉱業技術を開発し銀山を開発した。この技術が戦国時代の日本に導入されたという[15]

この技術は石見銀山で用いられ、1542年には技術者が生野銀山に移住し、やがて全国に広まっていき、全国的に産金・産銀高を飛躍的に向上させたと言われており、16世紀から19世紀にかけての300年あまりの間、日本の産金、産銀を支え続けた。佐渡金山の周辺の遺跡からも、灰吹法に用いた鉛のインゴットが出土している。石見銀山の石州銀中国人や日本人などを通じて中国に輸出され、経済流通の増加に伴う決済手段不足(マネーサプライの不足)、即ちデフレーションを防ぐ役割を果たして東洋における貿易を活性化させた[16]

1591年蘇我理右衛門が泉州堺にて貴金属を含む粗銅の地金から金銀を取り出す製法の改良された方法を南蛮人から学び南蛮吹き(南蛮絞りとも)と呼ばれた[17]1630年代には大坂銅吹屋が設立され、全国の銅山から粗銅が集積されて精銅が行われ、銀を含む物は合吹き、南蛮絞り、灰吹きに由って分離された。

日本国内の鉱石から製錬された粗銅は金銀を含んでいたが、15世紀の日本にはこれを銅から分離する技術が無かったため、古くからこの技術をもつや技術が伝来していた李氏朝鮮といった大陸諸国の商人は日本から購入した粗銅から金や銀を取り出す事で差益を得ていた。粗銅から金銀を取り出す精錬(合吹き、南蛮絞り、灰吹き)は、まず銅を鉛とともに溶かしてから徐々に冷却し、銅は固化するが鉛はまだ融解している温度に保つ。すると銅は次第に結晶化して純度の高い固体となって上層に浮かび、金銀を溶かし込んだ鉛が下層に沈む[17]。この融解した状態の鉛を取り出して、骨灰の皿の上で空気を吹き付けることによって金銀を回収することが可能になり、安価な粗銅の形での海外流出が止んだ。

出典・脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ a b 小葉田淳 『日本鉱山史の研究』 岩波書店、1968年
  2. ^ 吾妻潔/著「灰吹法」『世界大百科事典24』より(平凡社、1972年)
  3. ^ 田谷博吉 『近世銀座の研究』 吉川弘文館、1963年
  4. ^ 小泉 2016, p. 24.
  5. ^ 共同通信 「7世紀後半に銀精錬 石見の源流、飛鳥に」  2007年6月28日
  6. ^ 朝日新聞 「飛鳥池遺跡で銀精錬 石見より900年早く」 2007年06月29日
  7. ^ a b 奈良文化財研究所 「古代の金・銀精錬を考える」 2007年
  8. ^ 坩堝(るつぼ)に利用したとみられる土器片などを分析。薄手の坩堝片や土器片から銀と共にビスマスなどを検出、ピット状の穴がある凝灰岩製坩堝の内壁に残る残滓から、とともにを検出した。これは、銀を熔解する作業に鉛が関与した痕跡である。
  9. ^ 「灰吹法」と呼ぶ技術は英語では「cupellation」と呼ばれる。日本で「cupellation」を「灰吹法」と呼ぶのは、を敷き詰めた坩堝(るつぼ)を用いることによると考えられている。
  10. ^ 山根俊久『石見銀山に関する研究』(石東文化研究会、1932年)
  11. ^ 山根1932や、日本学士院『明治前日本鉱業技術発達史新訂版』(野間科学医学研究資料館、1982)、田中健夫『中世海外交渉史の研究』(東京大学出版会、1959年)など
  12. ^ 小葉田淳/著「石見銀山」『世界大百科事典2』(平凡社、1988年)ISBN 4-582-02200-6 や、小葉田淳/著「石見銀山」『國史大事典第1巻』(吉川弘文館、1979年)ISBN 4-642-005013、遠藤浩巳「石見銀山の鉱山技術」(小野正敏五味文彦・萩原三雄編『中世の対外交流 場・ひと・技術』高志書院、2006年)、秋田洋一郎「十六世紀石見銀山と灰吹法伝達者慶寿禅門-日朝通交の人的ネットワークに関する一試論-」(『ヒストリア』207号、2007年11月)など
  13. ^ 石見銀山展実行委員会編『輝きふたたび石見銀山展』山陰中央新報社、2007年、p. 25.
  14. ^ 「黄金の国々 甲斐の金山と越後・佐渡の金銀山」実行委員会編『黄金の国々 甲斐の金山と越後・佐渡の金銀山』2012年、p. 7.
  15. ^ 濱下武志編『東アジア世界の地域ネットワーク』山川出版社1999年、158頁
  16. ^ 石見銀山展実行委員会 『輝きふたたび 石見銀山展』 島根県立古代出雲歴史博物館、石見銀山資料館、山陰中央新報社、2007年
  17. ^ a b 後藤在吉/著「南蛮吹」『世界大百科事典21』より(平凡社、1988年)ISBN 4-582-02200-6

参考文献

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  • 小泉龍人『都市の起源 - 古代の先進地域=西アジアを掘る』講談社〈講談社選書メチエ〉、2016年。 

外部リンク

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