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燕文進

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
燕 文進
各種表記
ハングル 연문진
漢字 燕 文進
発音: {{{nihonngo-yomi}}}
日本語読み: えん ぶんしん
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燕 文進(えん ぶんしん、朝鮮語: 연문진生没年不詳)は、百済武王代官吏大姓八族の一つである燕氏出身の貴族官位は「扞率[1]

人物

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607年3月佐平王孝隣とともに朝貢使として中国に派遣され、煬帝に朝貢を捧げ、臣下の意を表した。派遣目的は、隋に高句麗を征伐することを要請することにあった[1]

出自

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大姓八族の一つである燕氏の出身。韓国の『斗山世界大百科事典』は、燕氏の始祖及び淵源は不詳である、と説明している[2]。しかし、朝鮮古代史学者の鄭載潤は、燕氏は大姓八族の一つであるため、土着系(=「純百済人」)とみることもできるが、大姓八族は、百済の建国者である温祚王に付き従った八家であるのに、燕氏は漢城百済が崩壊し、熊津遷都以後に台頭した一族であるため、土着系とみるのは釈然とせず、「燕」という漢姓である点、燕氏が軍事的に台頭した点、燕氏の拠点である錦江禰氏禰嵩礼塞敦禰福禰誉禰善禰軍禰寔進禰素士禰仁秀)や陳氏陳明陳春陳徳止陳微之陳法子)などの大規模中国人移民コミュニティ存在していた点などを鑑みると、燕氏は中国人移民の可能性がある、と指摘している[3]。朝鮮古代史学者の李弘稙金栄官は、燕氏を錦江流域の土着系とみる見解もあるが、百済に移住した帯方郡に土着化していた中国人とみるのが妥当と主張している[4][5][6]金栄官は、燕氏は熊津時代に活発に活動したが、泗沘遷都後の聖王十八年(540年)以後姿を消し、武王八年(607年)に燕文進が登場し、に使臣として赴くなど燕氏は活動を再開した[6]。百済は、対中国外交には中国系人士が有利であるため、中国系を起用しており(張威張茂高達会邁慕遺楊茂王茂張塞陳明王辯那王孝隣)、燕文進は中国系であることから、の使臣に起用された、と指摘している[6][7]

脚注

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  1. ^ a b “연문진(燕文進)”. 韓国民族文化大百科事典. オリジナルの2022年10月5日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20221005201650/http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Item/E0036771 
  2. ^ “연 燕”. 斗山世界大百科事典. オリジナルの2022年10月5日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20221005101120/https://www.doopedia.co.kr/doopedia/master/master.do?_method=view&MAS_IDX=101013000702692 
  3. ^ 정재윤『중국계 백제관료에 대한 고찰』高麗大学歴史研究所〈史叢 77〉、2012年、17頁。doi:10.16957/sa..77.201209.1 
  4. ^ “수서(隋書) > 동이열전(東夷列傳) > 백제(百濟) > 大業 3년(A.D.607; 百濟 武王 8)에 璋이 使者 燕文進을”. 国史編纂委員会. オリジナルの2022年11月22日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20221122103554/https://db.history.go.kr/id/jo_013r_0010_0020_0070 
  5. ^ 李弘稙『百濟人名考』新丘文化社〈韓國古代史의 硏究〉、1971年、358頁。 
  6. ^ a b c 김영관『백제 말기 중앙 귀족의 변천과 왕권』한국고대사탐구학회〈陳法子墓誌銘을 통해 본 백제사의 새로운 이해〉、2014年12月24日、65頁。 
  7. ^ 김영관『백제 말기 중앙 귀족의 변천과 왕권 - 문헌 자료의 재해석과 금석문 자료를 이용한 새로운 이해 -』한국고대사탐구학회〈韓國古代史探究 第19卷〉、2015年4月、128頁。doi:10.35160/sjekh.2015.04.19.119