片岡光宏
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 広島県府中市 |
生年月日 | 1962年3月22日(62歳) |
身長 体重 |
184[1] cm 85 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 内野手、投手 |
プロ入り | 1979年 ドラフト1位 |
初出場 | 1981年7月1日 |
最終出場 | 1991年10月1日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
| |
監督歴
| |
この表について
|
片岡 光宏(かたおか みつひろ、1962年3月22日 - )は、広島県府中市出身の元プロ野球選手(内野手、投手)[2][3][4]。
来歴・人物
[編集]広島県・府中市立第二中学校卒業後、野々村直通の熱心な勧誘があり[5]、広島商業や崇徳高校といった[6]広島県内の強豪チームの誘いを辞退し[6]、「僕の力で甲子園に行ってみせる」と[6]、地元・広島県府中市立府中東高等学校に入学[6]。
府中東高校は、前身の私立北川工業時代には高橋一三や伊原春樹らを輩出した広島県東部の強豪だったが、片岡の頃は低迷し[6]、片岡入部時の部員は2人で休部同然[6]。片岡入部で甲子園が現実味を帯びて来たため、ベンチ入りピタリの部員15人に増えたが[1][6]、そのうち野球未経験者が6人いた[6]。野々村は「片岡を勧誘してとれたことが僕の野球の出発点」と話している[5]。
1978年、2年時の秋の中国大会広島予選では準決勝で広陵を完封し、たった20分休んだ後、決勝の崇徳を1点に抑えるタフネスぶりを見せた[6]。中国大会決勝では下関商業に破れたが、恵まれた体が投げ込む剛球は、前年高校No.1と称された南陽工業の「津田恒実に劣らない」と評された[6]。
1979年、3年時に入部時に公約した夢を現実のものに引き寄せ[6]、第51回選抜高等学校野球大会にエース・四番打者として出場[4][6]。"超高校級"などと騒がれたが[1][2][6]、1回戦で高松商業高校の中尾貴紀に完封を喫し、自身も打ち込まれ大敗した[7]。同年夏の甲子園県予選でも決勝に進出するが、永田利則らのいた広島商業に敗れた。高校在学中は、東京の創価高校へ練習に通い、同校監督稲垣人司の下で指導を受ける(稲垣の著書には、元々創価高も片岡をリストアップしていたと記されている)。
甲子園では初戦で打ち込まれたものの大型右腕として評価が高く[2]、浪商高校の牛島和彦、市立尼崎高校の林泰宏と共に“高校三羽烏”と騒がれ、1979年のドラフト会議で広島東洋カープから1位指名を受け入団した[3]。
外木場義郎がつけていた背番号14を引き継ぎ期待され[4]、2年目の1981年には一軍初登板を果たしたが、右ひじを故障したこともあり投手としては大成せず[4]、プロ6年目の1985年に内野手に転向した[2]。
1987年に打者として一軍に出場し、主に代打として起用された。同年7月11日の広島市民球場 (初代)での阪神戦では9回裏に代打サヨナラ本塁打を放つなど、立て続けに劇的な決勝アーチを放つ[3][8]。カープの伝説的な猛練習時代で、キャンプでは1日2000本をノルマに打ち込み、服が自分一人では脱げなくなったという[3]。同年8月15日、16日には小早川毅彦に代わって四番打者として先発出場。当時監督の阿南準郎が将来の主軸打者として大きな期待をかけ、1988年には5月からランディ・ジョンソンに代わり三塁手として抜擢される。同年は88試合に先発出場を果たし、10本塁打を放つが打率は伸び悩む[4]。
同年11月に斉藤浩行と共に本村信吾・片平哲也との2対2の交換トレードで中日ドラゴンズに移籍。
1989年には三塁手、二塁手として13試合に先発するが、中日での在籍は1年にとどまり、同年10月に北野勝則との交換により横浜大洋ホエールズに移籍。
1990年頃から椎間板ヘルニアに苦しみ、出場機会がなくなる[2]。
1991年も実績を残せず、同年11月に自由契約となり現役引退した[4]。
引退後は、広島お好み焼きが市民権を得られていない宮崎でやるのもおもしろいかな[3]、と妻の実家のある宮崎市内で広島お好み焼き店『"本格広島"かたおか』を経営する[2][3][4][9][10][11]。場所柄、毎年2月のプロ野球キャンプ期間中は多くの球界関係者が訪れる[2][4][12]。星野仙一がジャガイモの煮っ転がし、松阪牛を抑えて、広島お好み焼きが大好物1位だったことから[10]、2008年北京オリンピック「星野ジャパン」のコーチ陣の決起集会も同店で開かれた[4]。その傍ら、社会人野球クラブチーム・宮崎ゴールデンゴールズの初代監督を務めたのちに、ゼネラルマネージャーも務めた[4]。
2015年1月9日より、備後府中焼き広報大使となる[4][13]。
2017年10月28日、「道の駅びんご府中」1周年記念イベントトークショー(会場:道の駅びんご府中 屋外特設会場)に恩師・野々村直通と共に登壇[11]。
2017年10月29日、第7回府中まなびフェスタ スポーツ講演会「元プロスポーツ選手がやってくる!!」(会場:府中市立総合体育館)。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1981 | 広島 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 33 | 6.1 | 15 | 1 | 1 | 0 | 0 | 4 | 2 | 0 | 7 | 7 | 9.95 | 2.53 |
通算:1年 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 33 | 6.1 | 15 | 1 | 1 | 0 | 0 | 4 | 2 | 0 | 7 | 7 | 9.95 | 2.53 |
年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1981 | 広島 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | ---- | ---- | ---- |
1987 | 42 | 73 | 66 | 8 | 21 | 1 | 0 | 5 | 37 | 12 | 0 | 0 | 2 | 0 | 5 | 0 | 0 | 18 | 0 | .318 | .366 | .561 | .927 | |
1988 | 95 | 308 | 269 | 23 | 64 | 11 | 0 | 10 | 105 | 32 | 0 | 0 | 14 | 0 | 21 | 0 | 4 | 56 | 3 | .238 | .303 | .390 | .693 | |
1989 | 中日 | 30 | 58 | 56 | 5 | 11 | 5 | 0 | 0 | 16 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 14 | 0 | .196 | .211 | .286 | .496 |
1991 | 大洋 | 7 | 6 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | 2 | 0 | .000 | .333 | .000 | .333 |
通算:5年 | 179 | 445 | 395 | 36 | 96 | 17 | 0 | 15 | 158 | 44 | 0 | 0 | 17 | 0 | 29 | 1 | 4 | 90 | 3 | .243 | .301 | .400 | .701 |
記録
[編集]- 投手記録
- 初登板:1981年7月1日、対中日ドラゴンズ12回戦(広島市民球場)、9回表に3番手として救援登板・完了、1回1失点
- 初奪三振:1981年7月23日、対阪神タイガース16回戦(阪神甲子園球場)、8回裏に中田良弘から
- 打撃記録
- 初安打:1987年5月2日、対中日ドラゴンズ4回戦(広島市民球場)、8回裏に川端順の代打として出場、杉本正から左前安打
- 初本塁打・初打点:1987年7月9日、対読売ジャイアンツ12回戦(札幌市円山球場)、8回表に小早川毅彦の代打として出場、角三男から中越逆転決勝2ラン
- 初先発出場:1987年8月15日、対中日ドラゴンズ21回戦(広島市民球場)、4番・一塁手として先発出場
背番号
[編集]- 14(1980年 - 1984年)
- 44(1985年 - 1988年)
- 35(1989年)
- 53(1990年 - 1991年)
脚注
[編集]- ^ a b c 「"野球王国"からいざ甲子園へ!! 府中東高(広島県)」『サンデー毎日』1979年2月25日号、毎日新聞社、グラビア1–3頁。
- ^ a b c d e f g 坂本匠 (2016年2月19日). “第二の人生で生かされるプロ野球魂 セカンドキャリアの『球人力』 引退後、24年間お好み焼き屋を経営する元広島・片岡光宏”. ベースボールONLINE. ベースボール・マガジン社. 2021年11月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年4月27日閲覧。
- ^ a b c d e f “スポーツ 【赤ヘル打線の名脇役】片岡光宏「猛練習で服が脱げなくなった」”. SmartFLASH. 光文社 (2017年11月16日). 2024年4月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年4月27日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k 吉見健明 (2020年1月18日). “星野ジャパンの決起集会も開催 元広島ドラ1のお好み焼き店を人気店にした闘将の言葉”. デイリースポーツ. 神戸新聞社. 2020年9月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年4月27日閲覧。元広島ドラ1のお好み焼き店を人気店にした闘将の言葉|まいどなニュース
- ^ a b 「野々村直通インタビュー」『野球小僧』8月号増刊『高校野球小僧』2011年夏号、白夜書房、雑誌18802-8、137頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 「インサイド 『選抜の星』府中東 片岡投手の"男気"」『週刊サンケイ』1979年2月15日号、産業経済新聞社、80頁。
- ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
- ^ “「原爆の日」特集 ヒロシマの惨禍を継承へ 奪われた暮らし、冊子に収録”. 中国新聞デジタル (中国新聞社). (2021年1月10日). オリジナルの2022年7月10日時点におけるアーカイブ。 2024年4月27日閲覧。
- ^ “お好み焼き・鉄板焼き かたおか/プロ野球関連のお店/野球舌-プロ野球・メジャーリーグ・高校野球のラジオ/PODCAST”. 2019年5月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年7月12日閲覧。元広島・片岡光宏氏 お好み焼き店ながら手作りギョーザに挑戦 | 東スポのプロ野球に関するニュースを掲載
- ^ a b 宮本秦春 (2007年12月5日). “星野 美女同伴 帰国凱旋 北京五輪へ一緒に連れて行く "闘将焼き"で金メダル取り 本番は大好物お好み焼きでナインの士気高める”. 東京スポーツ (東京スポーツ新聞社): p. 1
- ^ a b “「道の駅びんご府中1周年記念イベントトークショー」を開催”. 府中商工会議所 (2017年10月22日). 2023年6月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月21日閲覧。
- ^ “福は内”. 2024年4月27日閲覧。 – 小早川毅彦オフィシャルブログ 『そこなんよ』 - Ameba Blog
- ^ “まちの観光・交流拠点として「府中市地域交流センター」がオープン 備後府中焼き店が2店舗営業を開始”. 府中商工会議所 (2015年2月1日). 2019年3月20日閲覧。
参考文献
[編集]- 『消えた男たち』(石川泰司 毎日新聞社 1986年8月)
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 片岡光宏 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)