稲垣人司
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 広島県三次市 |
生年月日 | 1932年6月15日 |
没年月日 | 2000年10月15日(68歳没) |
選手情報 | |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督・コーチ歴 | |
この表について
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稲垣 人司(いながき ひとし、1932年6月15日 - 2000年10月15日)は、広島県三次市出身の高校野球指導者、監督。
来歴・人物
[編集]三次中学校(現在の三次高校)卒業後、大蔵省中国財務局に入局するが2年で退職し、石本秀一の書生となって2年間野球を学ぶ。1968年春から1970年春にかけて2年間、大東文化大学硬式野球部の2代目監督に就任。これは、初代監督の岡田悦哉が広島東洋カープ二軍バッテリーコーチに就任したためだった。広島工業高校コーチを経て1976年、創部まもない東京の創価高校監督に就任[1]。小野和義を擁して1983年夏の甲子園に同校を初出場に導いた。その後、神奈川の桐光学園監督を経て1989年、創立8年目の埼玉の花咲徳栄高校に招かれ監督就任[1]。稲垣の指導で同校は徐々に力をつけたが2000年10月15日、同校グラウンドで横浜隼人高等学校との練習試合中にベンチで倒れ、病院に運ばれたが心筋梗塞のため亡くなった。生前「死ぬ時はマウンドで死にたい」と語っていた通りの最期で、好物の大福を食した後のことだった。享年68。
甲子園出場は1回(1敗)だけだが、新設の野球部を短期間で強豪に育てる手腕は高く評価され、また石本譲りの好投手育成法も評価が高かった[2][3][4]。教え子に栗山英樹、小野和義、片岡光宏、品田操士、阿久根鋼吉、神田大介らがいる[1][5][6]。特に花咲徳栄時代は甲子園未出場ながら品田、池田郁夫、品田寛介(操士の弟)と3年連続で投手が高卒ドラフト指名されている。臨時コーチとして招かれた福岡第一高等学校では前田幸長を指導、前田も恩師として名前を挙げている[7][8]。
稲垣の後任として花咲徳栄高の監督に就任した愛弟子・岩井隆が同校を率い、2017年夏の全国高校野球選手権に於いて、埼玉県勢として夏選手権初優勝をもたらした[9][10]。岩井は「オヤジがどこかで見てて、守ってくれたんだと思います」と話した[5]。
脚注
[編集]- ^ a b c “強豪を“攻め倒した”花咲徳栄、悲願の甲子園初Vへ歴代監督がつないだバトン”. full-count (株式会社Creative2). (2017年8月24日). オリジナルの2017年8月24日時点におけるアーカイブ。 2017年8月24日閲覧。
- ^ “今日のひと: 甲子園初Vの花咲徳栄監督・岩井隆さん 「一歩一歩踏みしめながら」頂へ”. 産経新聞 (産業経済新聞社). (2017年8月24日). オリジナルの2017年8月24日時点におけるアーカイブ。 2017年8月24日閲覧。
- ^ 第430回 花咲徳栄高等学校(埼玉)「徳栄投手メソッドの原点」【vol.3】
- ^ 秘伝・投手育成「1・2・3ドリル」~フォーム・コントロール・スピードの同時強化法~
- ^ a b “花咲徳栄・岩井監督、恩師・稲垣さんに捧げる優勝「オヤジがどこかで見ててくれた」”. スポーツ報知 (報知新聞社). (2017年8月24日). オリジナルの2017年8月24日時点におけるアーカイブ。 2017年8月24日閲覧。
- ^ “【末代までの教育論】人を動かす 心を動かす”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社). (2012年12月18日). オリジナルの2013年1月14日時点におけるアーカイブ。 2017年8月24日閲覧。
- ^ “前田 幸長 - ヒーローインタビュー”. 中高生部活応援マガジン ヒーローインタビュー (株式会社HIEROPHANT). (2005年). オリジナルの2017年5月9日時点におけるアーカイブ。 2017年5月9日閲覧。
- ^ 東京スポーツ・2011年8月16日付「細く長く」〈連載9〉
- ^ “ひと:岩井隆さん 夏の甲子園で優勝した花咲徳栄の監督”. 毎日新聞 (毎日新聞社). (2017年8月24日). オリジナルの2017年8月24日時点におけるアーカイブ。 2017年8月24日閲覧。
- ^ “強豪を“攻め倒した”花咲徳栄、悲願の甲子園初Vへ歴代監督がつないだバトン”. full-count (株式会社Creative2). (2017年8月24日). オリジナルの2017年8月24日時点におけるアーカイブ。 2017年5月9日閲覧。
参考文献
[編集]- 甲子園高校野球人名事典、東京堂出版(2004年7月)