陳寿
陳寿 | |
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西晋 太子中庶子 | |
出生 |
建興11年(233年)? 益州巴西郡安漢県 |
死去 | 元康7年(297年)? |
拼音 | Chén Shòu |
字 | 承祚(しょうそ) |
主君 | 劉禅→武帝(司馬炎)→恵帝朝 |
二十四史 |
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二十四史 |
司馬遷『史記』 |
班固『漢書』 |
范曄『後漢書』 |
陳寿『三国志』 |
房玄齢等『晋書』 |
沈約『宋書』 |
蕭子顕『南斉書』 |
姚思廉『梁書』 |
姚思廉『陳書』 |
魏収『魏書』 |
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李延寿『北史』 |
劉昫等『旧唐書』 |
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薛居正等『旧五代史』 |
欧陽脩『新五代史』 |
脱脱等『宋史』 |
脱脱等『遼史』 |
脱脱等『金史』 |
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張廷玉等『明史』 |
二十六史 |
柯劭忞等『新元史』 |
趙爾巽等『清史稿』 |
その他 |
班固・劉珍・蔡邕等『東観漢記』 |
中華民國版『清史』 |
中華民國版『新清史』(未完) |
中華人民共和国版『清史』 |
陳 寿(ちん じゅ、建興11年〈233年〉? - 元康7年〈297年〉?[注釈 1])は、中国の三国時代の蜀漢と西晋に仕えた官僚。字は承祚(しょうそ)。『三国志』の著者として知られる。甥は陳符・陳蒞・陳階[注釈 2]。
生涯
[編集]陳寿の生涯を書いた史料としては、唐代に編纂された『晋書』および東晋時代に編纂された『華陽国志』が存在する。しかし、相互に矛盾する記述も多く散見される[3]。
益州巴西郡安漢県を代表する名門には陳氏・趙氏・閻氏・范氏があり、「安漢四姓」と称された。陳寿の出自はそのうちの一つ「巴西陳氏」である。
陳寿は初め学識の高い譙周に師事し儒学と史学を修め、蜀漢に仕えた。その後の経歴には諸説があるが、衛将軍諸葛瞻の主簿、宮中文庫の管理者である東観秘書郎をつとめた。『晋書』によれば、当時権威を振るっていた宦官の黄皓の意思に従わなかったために、左遷や降格の待遇を度々受けたという[4][注釈 3]。また父の服喪中、病気に罹ったため下女に薬を作らせていたことが発覚し、親不孝者として謗られた[6][注釈 4]。
蜀漢滅亡後、王崇・寿良・李密・李驤・杜烈(杜軫の弟)と共に都に入った。6人は益州・梁州を代表する俊才とされた。彼らの仲は晋に仕えるうちに疎遠となっていったが、王崇一人は寬和な性格であったため、5人との友誼を保ち続けたという。暫く仕官できなかったが、同門でかつての同僚の羅憲によって推挙され、西晋に仕えた。佐著作郎(7品官)に始まり著作郎をつとめ、杜預・張華の推挙により治書侍御史・兼中書侍郎・領著作郎と官を進めた。
また益州の地方史である『益部耆旧伝』・『益部耆旧雑記』や、蜀漢の諸葛亮の文書集『諸葛亮集』を編纂し、張華・杜預・荀勗に高く評価された。この他、やはり高く評価されたという『古国志』を著した[7]。晋による三国統一後、『三国志』を完成させた。当時の人々は、陳寿には良史の才があると言って褒めた。また張華は『三国志』を高く評価し、「『晋書』を君に託したい」と称賛した[8]。『華陽国志』によれば、張華と荀勗は『古国志』を好んで読み、陳寿は過去の歴史家である班固や司馬遷にも勝ると激賞した[9]。
その後、張華は中書郎に挙げようとしたが、張華と対立していた荀勗は陳寿を厭わしく思い、官吏に誣告して外地の長広太守に左遷させた[注釈 5]。陳寿はこれを母の病気を理由に辞退したが、杜預の推薦により、検察秘書官である御史治書に任命された。しかし母(『華陽国志』によると継母)が死去したため離職し、母を遺言どおり洛陽に葬った。ところが、郷里の墳墓に葬る礼法に反しているとされ再び非難された。
都に戻った陳寿は皇太子司馬遹の太子中庶子とされたが、『晋書』によれば拝命しなかった。『華陽国志』では太子中庶子と散騎常侍を兼ねたとあり、恵帝が陳寿の才能を認める言葉を残すほど称賛し、張華も九卿に取り立てようとしたという[12]。『晋書』では太子中庶子在任中の元康7年(297年)に65歳で没したとあるが、『華陽国志』では元康9年(299年)に司馬遹が廃太子とされた後に散騎常侍とされたとあり、なおも生存している。張華は永康元年(300年)に失脚し処刑されるが、陳寿がこれに連座したという記録はなく、その後、洛陽で没したという[13]。『晋書』では元康7年(297年)に65歳で没したとあるため、生年は建興11年(233年)とされるのが一般的であるが、この没年を否定する説もある[3]。
逸話
[編集]- 『華陽国志』によると「尚書郎の李驤(李福の子)は同門の先輩であり、蜀漢に仕えていた時の仲は良好だった」といわれる。だが蜀漢が滅び晋の世になると、些細なことから両人の仲が拗れて決別し、互いに誹謗して攻撃しあったため、当時の識者に批難された[14]。後に李驤が晋に仕官しようとした時、陳寿がそれを妨害したため、李驤は仕官を諦めて蜀に戻り、在野の名士としてその生涯を終えたといわれている。[要出典]
- かつての師であった譙周は、陳寿に「卿(きみ)は必ずや学問の才能をもって名を揚げるが、きっと評判を損なわれることになるだろう。それもまた不幸ではないか。深く慎むのがよい」と忠告したという[15]。
『三国志』
[編集]『三国志』は、編纂された当時から優れた歴史書として名高かった。夏侯湛は『三国志』を見て、自らが執筆中だった『魏書』を破り捨ててしまったという[16]。南斉の劉勰は、孫盛『晋陽秋』や『魏略』、『呉録』、『江表伝』などといった著作群を、勿体ぶっていて検証しがたい内容であるか、あるいは内容が空疎で肝心なことについての記述は少ないかであると非難する一方、「陳寿の『三国志』のみは文章に洞察と知識とが行き渡っていて、荀勗と張華が司馬遷と班固に比したのも、妄りに称誉したものではない」と称賛している[17]。
『三国志』は三国の内の魏を正統として扱ったが、魏を正統とした類書はほとんどが『魏書』(王沈の著など)など、魏単独の表題としていた。蜀漢や呉の歴史は、あくまで『魏書』の中で語られたのである。これに対し陳寿は表題上は三国を対等に扱い、また本文も『魏書』『蜀書』『呉書』と三国を分けて扱ったところに大きな違いがある。また、元々は蜀漢に仕えた人物であったため、敬語の使い方などからも蜀漢を比較的よく扱おうとする姿勢が見える。隋の李徳林は『重答魏收書』において、「陳寿は蜀の人であるから、魏を漢賊とした」と述べている[18]。
『三国志』は私撰だったが、陳寿の死後に梁州大中正・尚書郎の范頵の上表を受けて『三国志』を筆写するよう勅命が下り、事実上公認の史書となった[19]。その後唐の太宗の時代に正史と認定された。なお『古国志』・『益州耆旧伝』など、『三国志』以外の彼の著作物は現存していない。
陳寿への非難
[編集]『晋書』によれば、陳寿が私怨により筆を曲げたという噂が、彼が存命していた時点で流れた。例えば、魏の丁儀の子孫達に、当人の伝記について「米1000石をいただけるなら、あなたのお父上のためによい評伝を記しましょう」と言って原稿料を要求し、それを断られたため丁儀の伝記を書かなかったという話がある[20]。また、かつて諸葛亮が自分の父を処罰し、自身が子の諸葛瞻に疎まれたことを恨んで、諸葛亮の伝記で「臨機応変の軍略は、彼の得手ではなかったからであろうか」とそれを低く評価し、諸葛瞻を「書画に巧みで、名声は実質以上であった」などと書いたのだ、といった話も伝わっている[21]。
以上、いずれも正史『晋書』に収録された逸話であるが、『晋書』という史書の正確性については批判的な評価が多い。丁儀一族は曹丕に誅殺されており、子孫は存在さえ疑わしい。また、陳寿は諸葛亮の軍事能力に疑問符を付けたとはいえ、彼の政治家としての才能は非常に高く評価しており、『諸葛氏集目録』の完成を司馬炎に奏上した中で、諸葛亮は幼少より抜群の才能、英雄の器量をもった人物で当時の人々は彼を高く評価していたとした上で、北伐の敗因を天命に帰すなど、総合的な評価としては諸葛亮を賞賛している。
諸葛瞻について肯定的な評価をしていないのは事実である。『晋書』の他にも、孫盛『異同記』には、「陳寿が諸葛瞻から恥辱を受けた恨み故に、『三国志』で諸葛瞻を悪く書いた」と語る蜀漢の長老の話を常璩が聞いたことを記しており[22]、陳寿に対する同様の悪評は、340年に完成した王隠『晋書』など類書に記録されており早くから広まっていた[注釈 6]。だが諸葛瞻については、東晋の干宝も『晋紀』において、国家を守り父の志を継いで忠孝を尽くそうとした点は評価しながらも、能力についてはさほど評価するほどではないとしている。
陳寿の曲筆を指摘するもので最も批判を受けたのが高貴郷公殺害の経緯である。西晋に仕えたという立場上、その禅譲という正統性に対して重大な瑕疵を与えうるこの件に関して陳寿は隠蔽せざるを得ず、詳細を記述していない[23][注釈 7]。唐代の考証学者劉知幾は著作の『史通』にて、先述した『晋書』の丁儀の逸話を根拠に、伝記を著す動機に誠実さが欠けるという理由で、陳寿を王沈・陸機・班固ら数々の歴史家とあわせて「記言の奸賊、戴筆の凶人」と罵倒し、「豺虎の餌として投げ入れても構わない」と激しく糾弾した[24]。また『三国志』後主伝に「蜀には史官がいないから、災祥も記録されなかった」と記したにもかかわらず、蜀志には災祥に関する記録が依然散見されることを指摘し、「史官が設けられなかったのであれば、これらの災祥は何によって記録されたのだろうか。思うに、父が髡刑を受けた辱めゆえに、悪評を加えたのだろう」と難じている[25]。
『晋書』に由来する陳寿の曲筆説を否定する論もある。明代では王志堅が『読史商語』にて、「古の時代より用兵においては、奇策なしに戦功を打ち立てた者はいない。諸葛孔明の用兵の弱点は奇策がなかったことにある。(中略)陳寿が孔明を管仲・蕭何の類と称する一方、用兵は長ずるところではなかったと述べているのは正論である。世間では陳寿が私情で〔諸葛亮を〕貶めたと言われているが、そのようなことはない」と述べている[26]。清代には王鳴盛や趙翼による反論も行われたが、これらは事実誤認があり緻密な考証とは言いがたい[注釈 8]。
また、陳寿はあくまで魏を正統な王朝として扱ったが、蜀に対しては劉備を「先主」、劉禅を「後主」と呼び、即位の際の詔をすべて掲載するなど特別扱いしており、呉の孫権が名を呼び捨てられていることに対して明らかな格差がある[27]。朱彝尊は、これを蜀を正統王朝としたい陳寿の意図が秘められていたのではないかと見ているが、魏を正統王朝としていた西晋期において陳寿の記述が問題視されていた形跡はない[28]。しかし東晋期以降、習鑿歯らによる蜀漢正統論が高まるにつれ、陳寿が蜀漢を正統としていないとして批判が加えられるようになった。その批判者の一人である劉知幾は、上記の李徳林の説に反論し、陳寿は曹操や曹丕の悪行にははっきり言及しないのに、「終始瑕疵のない」劉備のことはその長所を評価せずに短所を指弾していると主張して、「〔陳寿が〕どうして曹氏に背いて劉氏に向かい、魏を疎んで蜀に親しんでいるといえようか」と咎めている[29]。さらに時代が下ると、諸葛亮の神格化や、蜀漢正統論者の朱熹の朱子学が朝廷における儒教の公式解釈とされた事も相まって、陳寿は一層非難を浴びることになった[注釈 9]。一方で、蜀を正統としながらも晋の公式見解に沿わざるを得なかった悲劇の人という見解もみられ、その見地から不遇な人生を送ったという評価も多く行われてきた[30]。
他にも、陳寿が当時の政権である西晋自体におもねり、その正当性を高める記述を行っているという指摘が数多く存在する[31]。田中靖彦が論じるには、恩人である杜預の祖父・杜畿はその業績に比べてはるかに称賛が加えられている上、『三国志』を筆写せよという勅命は、当時の政権である晋にとって都合の良い要素を有していたからとも捉えられる[32]。さらには『三国志』という書名自体が、魏・蜀・呉のいずれにも正統性を与えておらず、ひいてはそれらを統一した晋こそが正統であり、なおかつその偉大さを礼賛することにも繋がるとしている[33]。
また渡邉義浩は、陳寿の諸葛亮批判の背景には、尹黙-譙周-陳寿に連なる「蜀学」と、諸葛亮を中心とする「荊州学」という蜀の国内における学閥の対立が存在し、陳寿が「蜀には史官がいないから災祥も記録されなかった」と述べているのは、蜀学の重んじる讖緯説を否定する諸葛亮が構築した蜀の史官制度に批判的であった(讖緯説に基づかない歴史や災祥の記録を無価値と考えていた)からだと論じている[34]。
陳寿を題材とした作品
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『晋書』陳寿伝と『華陽国志』では没年が異なり、『華陽国志』では「張華が没した300年以降」と記録されている。
- ^ 陳符と陳蒞は陳寿の兄の子、陳階は陳蒞の従弟[1]。また『三国志演義』のうち李卓吾本では、第100回の総評に「陳寿が後に史書を編むと知っていたなら、この時陳式を殺さないほうがかえって良かった」とあり、陳寿が陳式の縁戚であるかのように書かれている[2]。
- ^ 津田資久は、陳寿は卑官とはいえ中央の官職である秘書郎まで昇進しているため、黄皓との対立自体が疑わしいとしている[5]。
- ^ これは儒教の礼教において、親が死ぬと子は嘆き悲しみ、飲食も碌に摂らず痩せさらばえ、杖無しでは歩けぬ程に成るのが「孝」とされた為であり、親の服喪中に我が身を労わるのは以ての外とされていたからである。
- ^ 『華陽国志』によると、その理由は『三国志』魏志の記述が荀勗の意に沿わなかったためだというが、同書には荀勗が『三国志』を絶賛したという記載もある[10]。田中靖彦は、記述が気に入らなかったというのは口実にすぎず、司馬炎による伐呉の実施について意見が紛糾した際に、陳寿が出兵賛成派の張華についたことで政敵と見なされたのが真の原因だと論じている[11]。
- ^ 正史『晋書』は648年刊。
- ^ 裴松之は本件について、「蜀漢正統論」を唱えた最初の歴史書として知られる習鑿歯『漢晋春秋』を注に引くことで補っている。
- ^ 王鳴盛『十七史商榷』の陳寿擁護にはいくつかの事実誤認(丁儀らは単なる巧佞の臣で伝を立てられるはずがない、諸葛亮は6度も祁山に出征し、一勝も収めなかったなど)があり、反論を受けている。丁儀は曹操に高く評価され、その死を世に惜しまれたとされ、『魏略』にはその伝が立てられている。また陳寿の記した『三国志』本文によれば、諸葛亮が祁山に出たのは2度であり、北伐全体も5度で、第三次北伐では勝利も挙げている。
- ^ 陳寿同様に蜀漢の旧臣で西晋に仕えた李密(『文選』などに採録された、『陳情事表』で知られる文人)に対しても、同様の非難が浴びせられている。
出典
[編集]- ^ (中国語) 『華陽国志』巻11陳寿伝, ウィキソースより閲覧, "[陳壽]兄子符,字長信,亦有文才,繼壽著作佐郎,上廉令。符弟蒞,字叔度,梁州別駕,驃騎將軍齊王辟掾,卒洛下。蒞従弟階,字達之,州主簿,察孝廉,褒中令,永昌西部都尉,建寧、興古太守。皆辭章粲麗,馳名當世。凡壽所述作二百餘篇,符、蒞、階各數十篇。二州先達及華夏文士多為作傳,大較如此。"
- ^ 『李卓吾先生批評三国志』第100回 (PDF) . 羅貫中、李贄『李卓吾先生批評三国志』(緑蔭堂本). 古典籍総合データベース. 早稲田大学図書館. 2024年5月27日閲覧, "早知陳壽後來編史,此時不殺陳式倒好。"
- ^ a b 田中 2011, p. 70.
- ^ (中国語) 『晋書』巻82陳寿伝, ウィキソースより閲覧, "宦人黃皓專弄威權,大臣皆曲意附之,[陳]壽獨不為之屈,由是屢被譴黜。"
- ^ 田中 2011, p. 83。- 津田(2001)の孫引き、頁数不明
- ^ (中国語) 『晋書』巻82陳寿伝, ウィキソースより閲覧, "[陳壽]遭父喪,有疾,使婢丸藥,客往見之,鄉黨以為貶議。"
- ^ (中国語) 『晋書』巻82陳寿伝, ウィキソースより閲覧, "[陳壽]撰《蜀相諸葛亮集》,奏之。[...]壽又撰《古國志》五十篇、《益都耆舊傳》十篇,餘文章傳於世。"
- ^ (中国語) 『晋書』巻82陳寿伝, ウィキソースより閲覧, "[陳壽]撰魏、吳、蜀《三國志》,凡六十五篇。時人稱其善敘事,有良史之才。張華深善之,謂壽曰:「當以《晉書》相付耳。」"
- ^ (中国語) 『華陽国志』巻11陳寿伝, ウィキソースより閲覧, "吳平後,[陳]壽乃鳩合三國史,著魏、吳、蜀三書六十五篇,號《三國志》;又著《古國志》五十篇;品藻典雅。中書監荀勗、令張華深愛之,以班固、史遷不足方也。"
- ^ (中国語) 『華陽国志』巻11陳寿伝, ウィキソースより閲覧, "[張]華表令兼中書郎。而[陳]壽《魏志》有失[荀]勗意,勗不欲其處內,表為長廣太守。"
- ^ 田中 2011, pp. 85–86.
- ^ (中国語) 『華陽国志』巻11陳寿伝, ウィキソースより閲覧, "太子廢徙後,再兼散騎常侍。惠帝謂司空張華曰:「壽才宜真,不足久兼也。」華表欲登九卿,會受誅,忠賢排擯。"
- ^ (中国語) 『華陽国志』巻11陳寿伝, ウィキソースより閲覧, "[陳]壽遂卒洛下,位望不充其才,當時冤之。"
- ^ (中国語) 『華陽国志』巻11陳寿伝, ウィキソースより閲覧, "時梓潼李驤叔龍,亦雋逸器,知名當世。舉秀才,尚書郎。拜建平太守,以疾辭不就,意在州里。除廣漢太守。初與[陳]壽齊望,又相昵友。後與壽情好攜隙,還相誣攻。有識以是短之。"
- ^ (中国語) 『晋書』巻82陳寿伝, ウィキソースより閲覧, "初,譙周嘗謂[陳]壽曰:「卿必以才學成名,當被損折,亦非不幸也。宜深慎之。」壽至此,再致廢辱,皆如周言。"
- ^ (中国語) 『晋書』巻82陳寿伝, ウィキソースより閲覧, "[陳壽]撰魏、吳、蜀《三國志》,凡六十五篇。時人稱其善敘事,有良史之才。夏侯湛時著《魏書》,見壽所作,便壞己書而罷。"
- ^ (中国語) 『文心雕龍』巻4史伝第十六, ウィキソースより閲覧, "至於《後漢》紀傳,發源《東觀》。袁張所製,偏駁不倫。薛謝之作,疎謬少信。若司馬彪之詳實,華嶠之準當,則其冠也。及魏代三雄,記傳互出。《陽秋》《魏略》之屬,《江表》《吳錄》之類,或激抗難徵,或疎闊寡要。唯陳壽《三志》,文質辨洽,荀張比之於遷固,非妄譽也。"
- ^ (中国語) 『重答魏收書』, ウィキソースより閲覧, "漢獻帝死,劉備自尊崇。陳壽蜀人,以魏為漢賊。寗肯蜀主未立,已云魏武受命乎。"
- ^ (中国語) 『晋書』巻82陳寿伝, ウィキソースより閲覧, "梁州大中正、尚書郎范頵等上表曰:「昔漢武帝詔曰:『司馬相如病甚,可遣悉取其書。』使者得其遺書,言封禪事,天子異焉。臣等案:故治書侍御史陳壽作《三國志》,辭多勸誡,明乎得失,有益風化,雖文豔不若相如,而質直過之,願垂採錄。」於是詔下河南尹、洛陽令,就家寫其書。"
- ^ (中国語) 『晋書』巻82陳寿伝, ウィキソースより閲覧, "或云丁儀、丁暠有盛名于魏,[陳]壽謂其子曰:「可覓千斛米見與,當為尊公作佳傳。」丁不與之,竟不為立傳。"
- ^ (中国語) 『晋書』巻82陳寿伝, ウィキソースより閲覧, "[陳]壽父為馬謖參軍,謖為諸葛亮所誅,壽父亦坐被髡,諸葛瞻又輕壽。壽為亮立傳,謂亮將略非長,無應敵之才,言瞻惟工書,名過其實。"
- ^ 『三国志』巻35董厥伝注引孫盛『異同記』
- ^ 田中 2011, p. 78.
- ^ (中国語) 『史通』巻7曲筆第二十五, ウィキソースより閲覧, "若王沈《魏錄》濫述貶甄之詔,陸機《晉史》虛張拒葛之鋒,班固受金而始書,陳壽借米而方傳。此又記言之奸賊,載筆之兇人,雖肆諸市朝,投畀豺虎可也。"
- ^ (中国語) 『史通』巻7曲筆第二十五, ウィキソースより閲覧, "陳氏《國志.劉后主傳》云:「蜀無史職,故災祥靡聞。」案黃氣見于姊歸,群鳥墮于江水;成都言有景星出,益州言無宰相氣;若史官不置,此事從何而書?蓋由父辱受髡,故加茲謗議者也。"
- ^ 『読史商語』巻2. 中国哲学書電子化計画, 2024年5月27日閲覧, "自古用兵,未有不出奇冒險而能有功者。 諸葛孔明用兵,病在不能出竒。[...]陳壽稱孔明為管、蕭之亞,又曰用兵非其所長,此皆確論。 世謂壽稱挾私致貶,其殆不然。"
- ^ 田中 2011, p. 87.
- ^ 田中 2011, p. 76.
- ^ (中国語) 『史通』巻7探賾第二十七, ウィキソースより閲覧, "隋內史李德林著論,稱陳壽蜀人,其撰《國志》,黨蜀而抑魏。刊之國史,以為格言。案曹公之創工業也,賊殺母后,幽逼主上,罪百田常,禍千王莽;文帝臨戎不武,為國好奢,忍害賢良,疏忌骨肉。而[陳]壽評皆依違其事,無所措言。是未嘗抑魏者。劉主地謂門地,居漢宗,仗順而起,夷險不撓,終始無瑕。方諸帝王,可比少康、光武;以宗室言。譬以侯伯,宜輩秦繆、楚莊。以功烈言。而壽評抑其所長,攻其所短。亦不似黨蜀者。是則壽之意。以魏為正朔之國,典午攸承;蜀乃僭偽之君,中朝所嫉。故曲稱曹美,而虛說劉非,安有背曹而向劉,疏魏而親蜀也?此下舊有注,引陳壽《上諸葛集表》語,殊無取義,去之。夫無其文而有其說,不亦憑虛亡是者耶?"
- ^ 田中 2011, p. 83.
- ^ 田中 2011, p. 78-80.
- ^ 田中 2011, p. 81.
- ^ 田中 2011, pp. 78, 88.
- ^ 渡邉義浩『「古典中国」における史學と儒教』汲古書院、2022年、p. 107-113。
参考文献
[編集]- 『晋書』巻82陳寿伝
- 『華陽国志』巻11陳寿伝
- 田中靖彦「陳寿の処世と『三国志』」(PDF)『駒澤史学』第76巻、2011年、69-97頁、NAID 120006617337。
- 津田資久「陳寿伝の研究」『北大史学』第41号、2001年、58-74頁、NAID 40003523892。
原典訳注
[編集]- 福井重雅編『中国古代の歴史家たち : 司馬遷・班固・范曄・陳寿の列伝訳注』早稲田大学出版部、2006年。ISBN 978-4-657-06309-0。
- 陳寿撰、裴松之注『正史 三国志』今鷹真・井波律子・小南一郎訳、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉全8巻、1992-93年。
- 魏書I ISBN 4-480-08041-4
- 魏書II ISBN 4-480-08042-2
- 魏書III ISBN 4-480-08043-0
- 魏書IV ISBN 4-480-08044-9
- 蜀書 ISBN 4-480-08045-7
- 呉書I ISBN 4-480-08046-5
- 呉書II ISBN 4-480-08088-0
- 呉書III ISBN 4-480-08089-9
- 元版は『三国志 世界古典文学全集 第24巻』筑摩書房、3分冊、A1977年・B1982年・C1989年
- 今鷹真「『三国志』の特徴」、以下元版の解説
- 同「紀伝体の特質」
- 同「裴注引用史書について」
- 井波律子「陳寿の「仕掛け」」
- 吉川忠夫「陳寿と譙周」