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紀古佐美

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
紀 古佐美
時代 奈良時代後期 - 平安時代初期
生誕 天平5年(733年[1]
死没 延暦16年4月4日797年5月4日
官位 正三位大納言従二位
主君 称徳天皇光仁天皇桓武天皇
氏族 紀氏
父母 父:紀飯麻呂
広浜末成
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紀 古佐美(き の こさみ)は、奈良時代後期から平安時代初期にかけての公卿大納言紀麻呂の孫。従三位紀飯麻呂の子。官位正三位大納言従二位勲等は勲四等。

経歴

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天平宝字8年(764年藤原仲麻呂の乱終結後に従五位下叙爵し、天平神護3年(767年丹後守に任ぜられる。

光仁朝では、兵部少輔式部少輔伊勢介右少弁を歴任する。宝亀11年(780年)正月に従五位上に叙せられるが、同年3月に陸奥国伊治呰麻呂宝亀の乱を起こすと征東副使に任ぜられ、同じく副使の大伴益立と共に東国へ赴いた。翌天応元年(781年)5月陸奥守に任じられ、同年9月には乱鎮圧の功労により、三階昇進して従四位下に叙せられ、勲四等叙勲を受けた。

桓武朝に入ると、左兵衛督中衛中将と武官を務めると共に、左中弁・式部大輔を兼ね、延暦4年(785年)には従四位上・参議に叙任されて公卿に列した。同年11月安殿親王(のち平城天皇)の立太子に伴いその春宮大夫に、翌延暦5年(786年)右大弁次いで左大弁と、これまでの中衛中将と合わせて議政官として文武の要職を兼帯している。延暦6年(787年正四位下

延暦7年(788年)7月に征東大将軍に任じられ、12月に節刀を受けて蝦夷の征討に赴く[2]。翌延暦8年(789年)3月末に衣川(現在の岩手県西磐井郡平泉町付近)に陣を敷くが、1ヶ月以上に亘り軍を動かさなかったことから、5月中旬に桓武天皇の叱責を受ける[3]。これを受けて古佐美は5月末に大規模な渡河を伴う軍事行動を起こすが、蝦夷の族長であるアテルイの反撃に遭い、別将の丈部善理ら戦死25人、溺死1036人もの損害を出して大敗した(巣伏の戦い[4]

6月に入ると古佐美は進軍に当たっての兵站の困難さと、軍を維持するために大量の兵糧が必要であることを理由に朝廷の許可を得ずに征東軍を解散し、桓武天皇から再度の叱責を受けた[5]。9月に帰京して節刀を進上[6]大納言藤原継縄中納言藤原小黒麻呂らから進軍せずに大敗した状況の取り調べを受けて征東事業失敗の責任を承服する。副将軍の池田真枚安倍猨嶋墨縄官職位階を剥奪された一方で、古佐美は敗戦の責任により処断されるべきところ、これまで朝廷に仕えてきた功績を勘案され罪を免じられている[7]

以後も、延暦9年(790年)正四位上、延暦12年(793年従三位、延暦13年(794年)には正三位・中納言と順調に昇進する。延暦15年(796年)には右大臣藤原継縄の薨去に伴い、大納言に任ぜられて太政官の首班を占めた。またこの間の延暦12年(793年)には平安京遷都のために、大納言・藤原小黒麻呂と共に山背国葛野郡宇太村の土地を視察している[8]

延暦16年(797年)4月4日薨去。享年65。最終官位は大納言正三位兼行東宮傅。没後に従二位位階を贈られた。

官歴

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注記のないものは『六国史』による。

系譜

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  • 父:紀宿奈麻呂[9]
  • 母:不詳
  • 妻:不詳
  • 生母不明の子女

宇都宮氏家臣の益子氏は古佐美の子孫を称した。

脚注

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  1. ^ 公卿補任』の没年齢65歳より逆算。
  2. ^ 『続日本紀』延暦7年12月7日条
  3. ^ 『続日本紀』延暦8年5月12日条
  4. ^ 『続日本紀』延暦8年6月3日条
  5. ^ 『続日本紀』延暦8年6月9日,7月17日条
  6. ^ 『続日本紀』延暦8年9月8日条
  7. ^ 『続日本紀』延暦8年9月19日条
  8. ^ 『日本後紀』延暦12年正月15日条
  9. ^ a b c d e f g h 『公卿補任』
  10. ^ 『日本後紀』天長2年12月4日条

参考文献

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