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大江朝綱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大江朝綱
時代 平安時代前期 - 中期
生誕 仁和2年(886年
死没 天徳元年12月28日958年1月20日
別名 後江相公
官位 正四位下参議
主君 醍醐天皇朱雀天皇村上天皇
氏族 大江氏
父母 父:大江玉淵
兄弟 朝典、朝衡、朝綱
養兄弟:白女
平中興
澄明、澄江、澄景、清胤、江侍従
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大江 朝綱(おおえ の あさつな)は、平安時代前期から中期にかけての公卿・学者・書家丹後守大江玉淵の子。官位正四位下参議

同じく参議に至った祖父音人が江相公と称されたことから、後江相公と称された。

経歴

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延喜11年(911年)26歳で文章生に補せられた頃には既に漢詩人として評価が高く、延喜8年(908年)の渤海使来朝の際に作った漢詩(「夏夜於鴻臚館餞北客」)が『本朝文粋』に採録されている。また、朝綱の漢詩『賦置酒如淮』に感銘した讃岐守・平中興が自分の娘を娶らせたと記されたとの逸話がある(『江談抄』)[1] 。延喜22年(922年)には方略試に及第している。

刑部丞民部丞を経て、醍醐朝末の延長6年(928年)従兄弟の大江維時と同時に従五位下叙爵したのち、大内記に任ぜられる。

朱雀朝に入り、承平3年(933年)左少弁に遷ると、承平4年(934年)従五位上、承平8年(938年正五位下天慶3年(940年)右中弁、天慶4年(941年従四位下弁官を務めながら、維時と肩を並べて昇進を重ねる。天慶4年(941年)3月に民部大輔に転じて一時的に弁官を離れるが、天慶7年(944年)右中弁に復任し、天慶8年(945年)左中弁と再び弁官を務めた。またこの間の承平4年(934年)には文章博士を兼ねる一方で、執政の藤原忠平に重用され、その上表文の多くを作成している。

天慶9年(946年村上天皇即位すると、その東宮時代に学士を務めていた維時は二階昇進して正四位下となり、天暦4年(950年)には参議として公卿に列す一方で、朝綱は従四位上への昇進に留り昇進面で差を付けられる。朝綱は天暦5年(951年)左大弁を経て、天暦7年(953年)維時に3年遅れて参議に任ぜられた。天暦8年(954年撰国史所別当として『新国史』編纂の実務面での責任者となる。天暦10年(956年正四位下に至る。

天徳元年(957年)12月28日薨去享年72。最終官位は参議正四位下行美濃権守。

人物

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漢詩に優れ、詩文は『扶桑集』『和漢朗詠集』『本朝文粋』『本朝文集』に採録されている。また、書家としての技量は小野道風と並ぶとされ[2]、書風は中国風であった。

『江談抄』や『古今著聞集』には、908年(延喜8年)に来朝した渤海使の正使裴璆(はいきゅう)が朝綱の「前途程遠し 思いを雁山之夕べの雲に馳す」と書いた漢詩(『本朝文粋』巻九)の見事さに感嘆して、919年(延喜19年)に再来日した際「後江相公は大臣の位にまで登ったか」と尋ねたのに対し日本側が「いいえ」と答えると、裴璆は「日本は賢人を用いる国ではないのですね」と侮辱したとする逸話が掲載されている。

書跡

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  • 『紀家集』(きかしゅう)[3]
延喜19年(919年)紀長谷雄の詩文集を書写したものである。伊都内親王願文のような自由軽妙な躍動がある。巻末に朝綱の記名があるので真跡であることは疑いない。

官歴

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公卿補任』による。

系譜

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  • 父:大江玉淵
  • 母:不詳
  • 妻:平中興の娘
    • 男子:大江澄明
    • 男子:大江澄江
    • 男子:大江澄景
    • 男子:清胤(943-995)
    • 女子:江侍従

脚注

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参考文献

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