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会津若松城 (福島県) | |
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会津若松城 | |
別名 | 鶴ヶ城、若松城、黒川城 |
城郭構造 | 梯郭式平山城 |
天守構造 | 層塔式 |
築城主 | 蘆名直盛 |
築城年 | 1384年 |
主な改修者 | 蒲生氏郷、加藤明成 |
主な城主 |
蘆名氏、伊達氏、蒲生氏 上杉氏、加藤氏、松平(保科)氏 |
廃城年 | 1874年 |
遺構 |
石垣、土塁、堀 再建天守・門・櫓・長屋 |
指定文化財 | なし |
位置 | 北緯37度29分15.78秒 東経139度55分47.23秒 / 北緯37.4877167度 東経139.9297861度 |
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会津若松城(あいづわかまつじょう)は、福島県会津若松市追手町にある城である。観光地名として及び地元では一般的に鶴ヶ城(つるがじょう)といい、文献史上では黒川城(くろかわじょう)、若松城、会津城とされることもある。国指定史跡名称は、若松城跡(わかまつじょうあと)という。
概要
会津若松城は旧市街地の南端に位置し、郭内(武家屋敷)と町屋敷が外濠で隔てられ、さらに郭内の内側に内濠を有する梯郭式の平山城である。城跡は都市公園鶴ヶ城公園となっており、そのほとんどが国史跡に指定されている。史跡外の三ノ丸跡には陸上競技場、市営プール及び福島県立博物館がある。また、再建された天守は若松城天守閣郷土博物館となっている。
歴史
至徳元年(1384年)、蘆名直盛が黒川城(くろかわじょう)として建造した。以後代々蘆名氏の城であった。
伊達政宗は芦名氏と連年戦いを繰り返した。天正17年(1589年)政宗は豊臣秀吉の制止を無視して蘆名義広を攻め蘆名氏を滅ぼし黒川城を手にした。しかし政宗は、天正18年(1590年)に秀吉に臣従し、会津を召し上げられた。
代わって黒川城に入ったのは蒲生氏郷で、文禄元年(1592年)より大大名に相応しい近世城郭に改造し、城下町を整備した。文禄2年(1593年)7重の天守が完成し、名前を「鶴ヶ城」に改めた。慶長3年(1598年)氏郷の子・秀行は家中騒動のために92万石から18万石に減じられ下野国宇都宮城に移された。越後国春日山城より上杉景勝が120万石で入城。慶長5年(1600年)徳川家康に反旗を翻した罪により30万石に減じられ出羽国米沢城に移された。
翌慶長6年(1601年)蒲生秀行が再び入城したが、寛永4年(1627年)嫡男の忠郷に嗣子がなく没したため、秀行の次男・忠知が後嗣となり伊予国松山城に移された。代わって伊予松山城より加藤嘉明が入封。子の明成は西出丸、北出丸を築くなど城の造築を行い、慶長16年(1611年)に起きた地震により傷んでいた天守を今日見られる5重に改築した。寛永20年(1643年)明成は改易され、出羽国山形城より3代将軍徳川家光の庶弟である保科正之が23万石をもって入城した。以後、明治維新まで会津松平氏の居城となった。
慶応4年(1868年)戊辰戦争の際には会津戦争と呼ばれる激闘が繰り広げられ城は1ヶ月の間持ちこたえ、板垣退助率いる軍も城を落とすことはできず、薩摩からの援軍の助けをかりても遂に城は落ちなかったが、その後開城した。この時、天守を含む多くの建造物が激しく傷んだ。
明治7年(1874年)までに天守閣をはじめとする建造物は総て解体されたが、本丸にあったその一部である「御三階」が市内の寺院に移築され、現存している。明治23年(1890年)城地が明治政府から松平家に払い下げされた。明治41年(1908年)に三ノ丸の東側と城外にわたり陸軍の連隊駐屯地が設置され、三ノ丸の濠や土塁が撤去されたが、本丸、二ノ丸、三ノ丸の一部、北出丸、西出丸及び付属する濠は残され、現在の史跡指定部分は保存された。大正6年(1917年)には、若松市の依頼により、旧会津藩士である東京帝大総長の山川健次郎の紹介で同帝大農科大学教授の本多静六によって「若松公園設計方針」が示され城跡の近代公園化の方針が計画された。昭和2年(1927年)までには城跡の所有者であった旧藩主の松平家との十年賦による土地譲渡契約の償還が終了し若松市の所有となった。公園近代化の方針に基づき一部の石垣等が撤去されたりしたが、昭和5年(1930年)に城跡が旧史蹟名勝天然紀念物保存法の規定により福島県によって国史跡に仮指定され、昭和9年(1934年)には文部省によって本指定された。
第二次世界大戦後、本丸内で競輪場が建設されていたこともあるが昭和32年(1957年)には城外に移転された。現在の天守閣は昭和40年(1965年)に再建されたもので、鉄筋コンクリート製。完成と同時に若松城天守閣郷土博物館として開館した。平成2年(1990年)に茶室「麟閣」(福島県指定重要文化財)が本丸の元の場所に移築復元され、平成5年(1993年)外濠跡等の外郭遺構の一部が国史跡に追加指定され、平成13年(2001年)本丸内の干飯櫓(ほしいやぐら)と南走長屋が復元された。