「君主制廃止」の版間の差分
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== 君主制廃止論 == |
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'''君主制廃止論(くんしゅせいはいしろん)'''とは、[[王制]]を廃止し、[[共和制]]等、新たな政治体制に移行すべきとの考えのことである。 |
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</br>日本での『天皇制廃止論』が、これに相当する。 |
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=== 君主制廃止や反発への動き === |
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反君主制運動の高まりの要件を世界的に見ると、[[ネパール]]のように政情不安な場合、反政府勢力や[[共産主義]]を含む勢力が勢いを増している場合、[[君主制]]の歴史が浅いなどの理由により[[国民]]が君主制を重視していない場合、[[君主]]自体が大いに批判要素を含む場合、王室がおこす不祥事が相次いでいる場合等が挙げられる。 |
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'''[[ネパール]]''' |
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: 2001年に、[[ネパール王族殺害事件]]が起こり、新たにネパール国王に就任した[[ギャネンドラ|ギャネンドラ国王]]は議会を解散し、自分に忠誠を誓う者のみを主要閣僚に任命し、専制政治を行った。そのため、ネパールの主要各政党は国王に反発し、各地で抗議行動を行ったほか、[[ネパール共産党毛沢東主義派]](中国政府は一切の関わりはないと否定している)が各地でテロを行うなど、政情が混乱した。このため、ギャネンドラ国王は議会の復活と新憲法制定を約束し、事態を収拾させた。 |
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'''[[オーストラリア]]''' |
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: [[イギリス連邦]]の一員である[[オーストラリア]]では、イギリス女王の統治による[[立憲君主制]]から共和制への移行の是非を問う国民投票が実施されたものの、結果は現状維持が多数だった。なお、オーストラリア自体には君主はいないため、オーストラリアの共和制移行は王室の廃止にはつながらない(イギリス連邦傘下であり、王に相当するのは[[総督]]。連邦からの独立を目したものと見られる)。 |
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'''[[イギリス]]''' |
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{{出典の明記}} |
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: 近年、不祥事などで王制廃止論が唱えられ、最近の世論調査でも王制を廃止すべきという人が半数を超えることがある。しかし現在王政廃止が政治上議論はされていない{{要出典}}。<!--ここで言う「政治上」の概念が不明。前文と著しく矛盾。-->仮に王制が廃止された場合、ドメイン名にもなっている United Kingdom (連合王国)の略語のUKがUR(←United Republic=連合共和国)に変わることも考えられる。 |
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'''[[ベルギー]]''' |
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: 近年王制廃止論が唱えられ、主に[[フランデレン地域圏|フランデレン]]人の右翼によって行われている。 |
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===君主制が廃止された国=== |
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'''[[イタリア]]''' |
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: [[第二次世界大戦]]後の1946年に、サヴォイア王家が[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]独裁を許した責任を問われ、ほんのわずかの差であったが、国民投票で王政廃止が決まり、[[ウンベルト2世]]はポルトガルへ亡命した。その後、イタリア共和国憲法でサヴォイア王家直系男子のイタリア再入国禁止が決まり、2002年の憲法改正を経て、2003年までウンベルト2世の息子[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア]]は、イタリアへ帰国することができなかった。 |
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'''[[ギリシャ]]''' |
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: かつて軍事政権期には政情が不安定であったが、[[1973年]]に王制が廃止されて国王が亡命してからは政情が安定している。国王が亡命中の1973年、王制廃止の是非を問う国民投票が行われた結果、共和制派が多数を占めた。 |
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'''[[イラク]]''' |
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:[[ファイサル家]]の王制であったが[[バース党]]のクーデターによって王族が虐殺され、王制が廃止となった。 |
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'''[[イラン]]''' |
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:[[1978年]]に[[イラン革命]]が起こり[[パーレビ朝]]が廃され、[[イスラム共和制]]になった。 |
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'''[[エジプト]]''' |
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:[[ナセル]]ら青年将校によるクーデターが起こり、王制が廃止となった。 |
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'''[[アフガニスタン]]''' |
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:国王が外遊中に軍部のクーデターが起こり、王制が廃止となった。 |
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'''[[モルディブ]]''' |
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:1965年、[[イギリス]]の植民地から独立し、1968年、国民投票により[[スルタン]]制を廃止し共和制に移行した。 |
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'''[[エチオピア]]''' |
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:[[1973年]]、政情不安から陸軍の反乱が起こり、最後の皇帝である[[ハイレ・セラシエ1世]]は[[1974年]]9月、軍部によって逮捕・廃位させられた。軍部は翌年帝政を廃止し、社会主義国家建設を宣言して戒厳令を敷き、[[1987年]]には労働者党一党独裁のエチオピア人民民主共和国を樹立した。 |
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=== 君主制支持の動き === |
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'''[[タイ王国|タイ]]''' |
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: 政治家同士の対立によって流血騒動が起きたとき、[[ラーマ9世|プミポン国王]]の鶴の一声によって騒動が一気に鎮静化したため、タイ国民の国王に対する信頼は以前にも増して高まっており、タイでは王制廃止はほとんど唱えられていない。但し、タイで王政廃止の主張が展開されない理由として、タイでは王制廃止を目指す[[共産主義]]政党が最近まで非合法政党とされていたことや、[[不敬罪]]規定により王室批判は事実上不可能であることも指摘されている。2007年3月には、[[ユーチューブ]]に投稿された、プミポン国王の顔への落書き映像が“不敬である”として、政府が削除要請を拒否したユーチューブへの接続を遮断した([http://www.asahi.com/international/update/0406/TKY200704050439.html アサヒコム記事])。 |
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'''[[リヒテンシュタイン]]''' |
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: ヨーロッパ最後の絶対君主制国家と言われているが、ナチズムの台頭を君主大権の発動によって封じ、その結果中立を保つことができたためであるとされている。 |
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=== 君主制復活への動き === |
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'''[[カンボジア]]''' |
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: 内戦が激しく、そのため政情が極めて不安定になったため、国民を統合する象徴として、[[ノロドム・シハヌーク]](いわゆるシハヌーク(シアヌーク)殿下)の人気が高く、シハヌークを国王とするため、新たに立憲君主制国家としてスタートした。 |
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'''[[スペイン]]''' |
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: 独裁政治を行っていた総統[[フランシスコ・フランコ|フランシスコ・フランコ・イ・バアモンデ]]の死後、[[フアン・カルロス1世 (スペイン王)|フアン・カルロス1世]]が国王の座に就任したが、カルロス1世は国内の民主化を進め、1978年に立憲君主制国家に移行させた。立憲君主制が、民主主義の側面を打ち出しているケースの一例。ただ、共和制を目指すカタルーニャ共和党も存在する。 |
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== 君主制と共和制との関連 == |
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君主制と共和制では一般に後者の方がより民主的とする風潮が強い。理由としては君主という特権的存在による統治は必然的に腐敗や不透明さ、君主への不敬などを理由とした抑圧等を生むという長い歴史に基づく経験があり、それを批判する形で立憲制・更には共和制が登場したからである。しかし君主制にも憲法を立て君主権を制限した立憲君主制と絶対君主制との違いがあり、前者では[[不敬罪]]などが存在せず国民の合意によって君主制が支持されている場合充分民主的運営がなされうる。共和制は一般に最も民主的と思われているが、ジャコバン派統治下のフランス・旧ソ連・中国・北朝鮮・フセイン政権下のイラクなど共和国においても独裁的な政治が行われる例がある。また、共和制自体に対する理念が国民にとって十分な理解が得られているかいないかによって運用が成功するか失敗するかが決まり、実際このような理解の欠如からドイツのヒトラーの様に独裁を生んだ事例がある。<br> |
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故にその国が憲法を持ち、ある程度以上の民主的統治機構を持っている場合、君主制と共和制のどちらがその国にとって適切かは社会状況や歴史的経緯、また民衆の国家体制に対する認識の違いなどと関連するものであり、どちらの側が優れているかは一概には言いがたいのも事実である。 |
2007年5月27日 (日) 23:58時点における版
君主制廃止論
君主制廃止論(くんしゅせいはいしろん)とは、王制を廃止し、共和制等、新たな政治体制に移行すべきとの考えのことである。
日本での『天皇制廃止論』が、これに相当する。
君主制廃止や反発への動き
反君主制運動の高まりの要件を世界的に見ると、ネパールのように政情不安な場合、反政府勢力や共産主義を含む勢力が勢いを増している場合、君主制の歴史が浅いなどの理由により国民が君主制を重視していない場合、君主自体が大いに批判要素を含む場合、王室がおこす不祥事が相次いでいる場合等が挙げられる。
- 2001年に、ネパール王族殺害事件が起こり、新たにネパール国王に就任したギャネンドラ国王は議会を解散し、自分に忠誠を誓う者のみを主要閣僚に任命し、専制政治を行った。そのため、ネパールの主要各政党は国王に反発し、各地で抗議行動を行ったほか、ネパール共産党毛沢東主義派(中国政府は一切の関わりはないと否定している)が各地でテロを行うなど、政情が混乱した。このため、ギャネンドラ国王は議会の復活と新憲法制定を約束し、事態を収拾させた。
- イギリス連邦の一員であるオーストラリアでは、イギリス女王の統治による立憲君主制から共和制への移行の是非を問う国民投票が実施されたものの、結果は現状維持が多数だった。なお、オーストラリア自体には君主はいないため、オーストラリアの共和制移行は王室の廃止にはつながらない(イギリス連邦傘下であり、王に相当するのは総督。連邦からの独立を目したものと見られる)。
- 近年、不祥事などで王制廃止論が唱えられ、最近の世論調査でも王制を廃止すべきという人が半数を超えることがある。しかし現在王政廃止が政治上議論はされていない[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。。仮に王制が廃止された場合、ドメイン名にもなっている United Kingdom (連合王国)の略語のUKがUR(←United Republic=連合共和国)に変わることも考えられる。
- 近年王制廃止論が唱えられ、主にフランデレン人の右翼によって行われている。
君主制が廃止された国
- 第二次世界大戦後の1946年に、サヴォイア王家がムッソリーニ独裁を許した責任を問われ、ほんのわずかの差であったが、国民投票で王政廃止が決まり、ウンベルト2世はポルトガルへ亡命した。その後、イタリア共和国憲法でサヴォイア王家直系男子のイタリア再入国禁止が決まり、2002年の憲法改正を経て、2003年までウンベルト2世の息子ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイアは、イタリアへ帰国することができなかった。
- かつて軍事政権期には政情が不安定であったが、1973年に王制が廃止されて国王が亡命してからは政情が安定している。国王が亡命中の1973年、王制廃止の是非を問う国民投票が行われた結果、共和制派が多数を占めた。
- ナセルら青年将校によるクーデターが起こり、王制が廃止となった。
アフガニスタン :国王が外遊中に軍部のクーデターが起こり、王制が廃止となった。
- 1973年、政情不安から陸軍の反乱が起こり、最後の皇帝であるハイレ・セラシエ1世は1974年9月、軍部によって逮捕・廃位させられた。軍部は翌年帝政を廃止し、社会主義国家建設を宣言して戒厳令を敷き、1987年には労働者党一党独裁のエチオピア人民民主共和国を樹立した。
君主制支持の動き
- 政治家同士の対立によって流血騒動が起きたとき、プミポン国王の鶴の一声によって騒動が一気に鎮静化したため、タイ国民の国王に対する信頼は以前にも増して高まっており、タイでは王制廃止はほとんど唱えられていない。但し、タイで王政廃止の主張が展開されない理由として、タイでは王制廃止を目指す共産主義政党が最近まで非合法政党とされていたことや、不敬罪規定により王室批判は事実上不可能であることも指摘されている。2007年3月には、ユーチューブに投稿された、プミポン国王の顔への落書き映像が“不敬である”として、政府が削除要請を拒否したユーチューブへの接続を遮断した(アサヒコム記事)。
- ヨーロッパ最後の絶対君主制国家と言われているが、ナチズムの台頭を君主大権の発動によって封じ、その結果中立を保つことができたためであるとされている。
君主制復活への動き
- 内戦が激しく、そのため政情が極めて不安定になったため、国民を統合する象徴として、ノロドム・シハヌーク(いわゆるシハヌーク(シアヌーク)殿下)の人気が高く、シハヌークを国王とするため、新たに立憲君主制国家としてスタートした。
- 独裁政治を行っていた総統フランシスコ・フランコ・イ・バアモンデの死後、フアン・カルロス1世が国王の座に就任したが、カルロス1世は国内の民主化を進め、1978年に立憲君主制国家に移行させた。立憲君主制が、民主主義の側面を打ち出しているケースの一例。ただ、共和制を目指すカタルーニャ共和党も存在する。
君主制と共和制との関連
君主制と共和制では一般に後者の方がより民主的とする風潮が強い。理由としては君主という特権的存在による統治は必然的に腐敗や不透明さ、君主への不敬などを理由とした抑圧等を生むという長い歴史に基づく経験があり、それを批判する形で立憲制・更には共和制が登場したからである。しかし君主制にも憲法を立て君主権を制限した立憲君主制と絶対君主制との違いがあり、前者では不敬罪などが存在せず国民の合意によって君主制が支持されている場合充分民主的運営がなされうる。共和制は一般に最も民主的と思われているが、ジャコバン派統治下のフランス・旧ソ連・中国・北朝鮮・フセイン政権下のイラクなど共和国においても独裁的な政治が行われる例がある。また、共和制自体に対する理念が国民にとって十分な理解が得られているかいないかによって運用が成功するか失敗するかが決まり、実際このような理解の欠如からドイツのヒトラーの様に独裁を生んだ事例がある。
故にその国が憲法を持ち、ある程度以上の民主的統治機構を持っている場合、君主制と共和制のどちらがその国にとって適切かは社会状況や歴史的経緯、また民衆の国家体制に対する認識の違いなどと関連するものであり、どちらの側が優れているかは一概には言いがたいのも事実である。