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「ルイ17世」の版間の差分

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2007年6月14日 (木) 18:40時点における版

ファイル:Imagelouis172.jpg.jpeg
ルイ17世

ルイ17世(Louis XVII、1785年3月27日 - 1795年6月8日)は、ルイ16世とその妻マリー・アントワネットの次男で、フランス王太子。洗礼名によりルイ・シャルル(Louis Charles)とも呼ばれる。

生涯

出生と同時にノルマンディー公の爵位を受け、兄であるルイ・ジョゼフが死亡したのちは王太子となった。姉は従兄のアングレーム公ルイ・アントワーヌ(後のシャルル10世の長男)の妃となり、フランス最後の王太子妃となるマリー・テレーズ。父ルイ16世の死後、「フランス国民の王」となった。

第2王子として誕生を喜ばれ、「赤字夫人」とまで呼ばれたマリー・アントワネットも、子どもができると一時落ち着いた生活を送るようになったという。しかし、フランス王国では絶対王政が次第に揺るぎ始めていた時代でもあったため、その人生は不運なものだった。4歳のとき兄が死亡し、わが子を亡くした悲しみからか、母マリー・アントワネットの浪費がより激しくなる。1789年7月14日にフランス革命が勃発し、10月5日にヴェルサイユ行進が起こると、国王一家はパリに移った。身の危険を感じた国王一家は、2年後ヴァレンヌ逃亡事件を起こし、民衆によってタンプル塔に監禁された。このときルイ・シャルルは6歳だった。

タンプル塔では家族と引き離され、靴屋のシモンという男が面倒を見た。しかし扱いはひどく、虐待されていたとも言われる。1793年(この年8歳になる)には父ルイ16世、母マリー・アントワネットが処刑される。ルイ16世が処刑されると、叔父プロヴァンス伯(ルイ16世の弟、のちのルイ18世)ら反革命派によって、ルイ・シャルルはフランスの新国王に指名され、ルイ17世と呼ばれた。しかし、革命まっただ中のパリで監禁された身では戴冠式を行うこともかなわず、もとよりルイ・シャルル本人は国王と呼ばれていることさえ知る由もなかった。

1795年、タンプル塔の一室でルイ・シャルルが病死しているのが見つかった。享年わずか10歳だった。

しかし、ルイ17世の遺体は明らかに15歳くらいの少年のものであったため、「ルイ17世は逃亡しており、亡くなった少年は別人なのではないか」という説も出された。そして、自分こそが逃亡した王太子だと名乗り出るものが後を絶たなかった。中でもドイツに現れたカール・ヴィルヘルム・ナウンドルフ(Karl Wilhelm Naundorff)という人物は有名だが、DNA鑑定の結果、マリー・アントワネットとは何の関係もなかったとされている。

2000年4月、マリー・アントワネットの遺髪と、ルイ17世と思われる遺体の心臓のDNA鑑定がなされた。しかし遺体の損傷が激しいため、鑑定にはかなりの時間を要することとなった。その結果は「タンプル塔の遺体はルイ17世のものに間違いない」というもので、2004年6月にようやくルイ17世のものと判定され、フランス王家の墓があるパリのサン・ドニ大聖堂に埋葬された。