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現代史
- (詳細はイスラエルの歴史を参照)
- 1798年-1878年 - セルビアのセファルディム系ラビ・イェフダー・アルカライ、聖地での贖罪の前提としての帰還を唱える(アーサー・ハーツバーグ Arthur Hertzberg、シオニズムの先駆者の一人と述べる)。
- 1799年 - ホロドクのナフマン・ブラツラフ、聖地を旅行。
- 1827年-1828年 - モージズ・モンテフィオーレ Moses Montefiore、聖地を旅行、エルサレムに巡礼し、エジプトのスルタン・ムハンマド・アリー・パシャと交友関係を結ぶ。
- 1840年 - モンテフィオーレ、ムハンマド・アリーとの関係を利用して、「儀式にキリスト教徒の血を使った」という、まるで中世のようなデマで訴えられて拘束されていたダマスカスのユダヤ教徒数名を解放、身の安全を保障させる(冤罪事件の解決)。
- 1855年 - モンテフィオーレ、エルサレムに病院と女性のための学校を設立
- 1856年 - ルートヴィヒ・フォン・フランクル、聖地巡礼。エルサレム・ユダヤ人学校(Lämel Schule)設立
- フランクル、同年ライプツィヒで「エルサレムへ Nach Jerusalem」出版。
- 1868年 - バハーウッラー、アッコーに流される
- 1872年 - ハインリヒ・グレーツ Heinrich Graetz 聖地巡礼。
- 1880年 - パレスチナに47万人のアラブ人がいた。
- 1881年 - エリエゼル・ベン・イェフダー、イスラエルの地に帰還、ヘブライ語復興・普及運動開始。
- 1882年 - 第一次アリヤー - 東ヨーロッパからの大規模な帰還
- 1897年 - 第1回シオニスト会議
- ハーティクワーがシオニズム讃歌となる。
- イズレイル・ザングウィル w:Israel Zangwill 聖地巡礼。
- ハーティクワーがシオニズム讃歌となる。
- 1898年 - テーオドール・ヘルツル、聖地巡礼。
- 1900年代 - ハシディズムの一派サトマール派運動がおこる(シオニズムに反対する、というのはデマ)。
- 1901年 - 第5回シオニスト会議:シオニズムとは国家か、文化か、宗教復興優先か、鋭い対立ののち、ヘブライ大学の創設を可決。
- 1902年 - ヘブライ語を話す家庭はわずかに10人。
- 1904年 - 第二次アリヤー:彼らは「民族主義的」理想に燃えていたため、ベン・イェフダーへの賛同者が増える。ヘブライ語で授業を行う学校が増えていく。
- 1909年 - ルーマニアからの移民がテル・アビーブ建設
- 1912年 - ヘンリエッタ・ソールド、アメリカにハダサー w:Hadassah 設立。
- 1917年11月2日 - バルフォア宣言
- 1917年12月 - 英国軍、オスマン軍を破りエルサレム入城。
- 1919年3月3日 - ファイサル・フサイニー、フェリックス・フランクファーターにシオニズムを歓迎する書簡を送る。
- 1920年2月8日 - ウィントン・チャーチル、"Illustrated Sanday Herald"紙でユダヤ人国家支持を表明。
- 1921年11月28日 - アブドゥルバハー、ハイファーで亡くなる。
- 1922年~1948年 - 77箇所以上の町や村で、非武装・非戦闘員のユダヤ人帰還者が無差別虐殺される。
- 1923年 - イギリス、ゴラン高原をシリアのフランス委任統治領として割譲
- 1923年9月1日 - 関東大震災。情報不足と不安から流言(「朝鮮人や社会主義者が井戸に毒を放り込んだ」など)が生じ、民間の自警団によって1000人をくだらない朝鮮人・琉球人などが殺される(情報のない時代の、混乱と情報不足などといったものを考慮)
- 1924年 - ユダヤ学研究所設立(ゲルショム・ショーレムら)
- 1925年 - ユダヤ・アラブ・ワーキンググループ「平和の契約 brīth šālôm」設立(ゲルショム・ショーレム、ユダ・マグネス、フーゴ・ベルクマン、エルンスト・ジーモン、ダヴィド・ベングリオンら参与)
- ヘブロン事件:ユダヤ教の聖地ヘブロンで60名のユダヤ教徒が虐殺され、3000年の歴史を持つヘブロンのユダヤ人・コミュニティーが滅亡。
- 1931年 - 第17回シオニスト会議:ダヴィド・ベングリオン、二つ以上の民族が、どちらが支配権を得るのでもない二民族共存国家構想を支持。
- 1933年 - ファイサル・フサイニー暗殺。
- ハダサー、パレスチナで活動開始。
- 1937年 - 英国政府、ユダヤ人地区とアラブ人地区の分割を提案するが、アラブ側が拒否。
- 1938年11月26日 - マハトマ・ガンジー、インドの「ハリジャン」紙に「パレスチナは「アラブ人の土地」であり、ユダヤ人は無抵抗主義でアラブの理解を勝ち取るべき」という趣旨の論文を発表。
- 1939年 - ソ連政府により、第二次大戦のユダヤ人難民のユダヤ自治区への流入が禁止される。
- マルティン・ブーバー、「アラブ・ユダヤ和解協力連盟」設立。(のちに「イフード」が分立)
- 4月 - マルティン・ブーバーとユダ・マグネス、雑誌「ハオール」にて連名でガンジーの論文に抗議。(イフード、シオニズム参照)
- マルティン・ブーバー、「アラブ・ユダヤ和解協力連盟」設立。(のちに「イフード」が分立)
- 1956年 - 第二次中東戦争。エジプトのナセル大統領のスエズ運河国有化宣言に対応して、英・仏・イスラエル連合軍がスエズ運河に侵攻。米・ソの仲介により三国は撤退。
- 1967年 - 第三次中東戦争(六日間戦争)。エジプトのナセル大統領による紅海のティラン海峡を封鎖が引き金となり、イスラエルが「防御的先制攻撃」を実施。エジプトからシナイ半島とガザ地区を、同戦争に参戦したシリアからゴラン高原を、ヨルダンから東エルサレムとヨルダン川西岸全域を奪取。六日間でイスラエルの圧倒的勝利に終わる。
- 1973年 - 第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争)。エジプトのサダト大統領がシナイ半島奪還を目的としてユダヤ教の祝日「大贖罪の日(ヨム・キプール)」にイスラエル軍に攻撃を開始。イスラエル軍の不敗神話が崩壊する。その後アリエル・シャロン将軍(現首相)が復帰、スエズ渡河作戦を実行。形勢は逆転し、17日で停戦に至る。
- 1976年 - エンテベ人質救出作戦(オペレーション・ヨナタン)。一部のパレスチナ過激派がエールフランス機をハイジャック、ユダヤ人またはイスラエル人以外を解放し、ウガンダのエンテベ空港に着陸。同国のアミン大統領の庇護のもと膠着状態が続くが、イスラエルのラビン首相は特殊部隊を派遣し、人質奪回とハイジャッカーの全員射殺に成功。その際にイスラエルの実行部隊で唯一戦死したヨナタン・ネタニヤフ中佐の名前をとり、「オペレーション・ヨナタン」と名づけられている。なお、ヨナタンはベンヤミン(ビビ)・ネタニヤフ元首相の実兄であり、同氏の対パレスチナ強硬姿勢の原点になったといわれている。
- 1977年 - サダト大統領のエルサレム訪問。これまで仇敵であったエジプトのサダト大統領がエルサレム訪問を宣言し、クネセット(イスラエル国会議事堂)で演説を行う。二年後の平和条約締結の第一歩となる。
- 1979年 - イスラエル・エジプト平和条約締結。イスラエルが占領していたシナイ半島の返還に合意し、米国のカーター大統領の仲介のもと、キャンプ・デーヴィッドにてエジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相が調印。イスラエルにとって初のアラブの隣国との平和条約となる。
- 1981年 - イラクの原子炉爆撃。かねてからフランスからの技術協力を得て原爆の開発をすすめていたイラクのフセイン大統領(当時)の野望を阻止するため、イスラエル空軍はバグダッド郊外のオシラクで建設中だった原子炉を爆撃。国際法違反として非難も浴びたが、核拡大を防いだという肯定的な見解もある。
- 1982年 - レバノン侵攻(ガリラヤ平和作戦)。レバノン南部からのパレスチナ人によるイスラエル北部へのテロ攻撃を鎮圧し、レバノン国内の少数派キリスト教徒保護と親イスラエル政権の樹立、平和条約締結を目指すという目的で、ベギン首相がレバノン侵攻を開始。アリエル・シャロン国防相に率いられたイスラエル軍は瞬く間に首都ベイルートに入城。PLOのアラファト議長の追放に成功する。しかし、その過程においてイスラエルの同盟軍であるマロン派キリスト教徒がシリアによるリーダーのバシル・ジュマイル大統領暗殺に憤激し、パレスチナ人難民の居住区であったサブラ・シャティーラ・キャンプに侵入し、虐殺事件を引き起こす。アリエル・シャロン国防相は「虐殺を傍観した不作為の罪」を問われ、国防相を辞任。また、「キリスト教徒による親イスラエル政権の樹立、平和条約の締結」もならず、イスラエルにとっては後味の悪い結果に終わる。
- 1991年-湾岸戦争が発生し、テル・アヴィヴを標的としたイラクによるスカッドミサイルの攻撃を受ける。
- 1992年-米国の主導により、マドリッド会議開催。PLOとの顔合わせの機会となる。
- 1993年-オスロ協定成立。PLOによるヨルダン川西岸及びガザ地区の自治が始まる。
- 1995年-イツハク・ラビン首相が射殺される。
- (詳細はレバントの歴史(History of Levantを参照)