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「准太上天皇」の版間の差分

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太上天皇 2008年7月4日 (金) 14:28 (UTC)からの一部移転
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'''准太上天皇'''(じゅんだいじょうてんのう)とは、[[太上天皇]]に准じた待遇のこと。
'''准太上天皇'''(じゅんだいじょうてんのう)とは、[[太上天皇]]に准じた待遇のこと。


==概要==
『[[源氏物語]]』に、主人公[[光源氏]]が「太上天皇になずらふ御位」に就いた旨の記述がなされていることから、しばしばあたかもそのような具体的な地位や称号が存在したかのように誤解されるが、准太上天皇は、地位や称号ではなくあくまでも待遇である。「じゅんだいじょうてんのう」という名詞はもともと存在せず、本来は「太上天皇に准ず」「太上天皇になずらふ」と文として読み下すのが正しい<ref>ただし、[[山中裕]]のように小一条院の例が登場する以前に紫式部が「太上天皇になずらふ」存在を想定しえたかを疑問視して、紫式部の没年の通説とされる[[長元]]5年([[1016年]])説を否定して、敦明親王の皇太子辞退時には紫式部は健在でこの事実を元に執筆あるいは加筆されたとする見方もある。</ref>。
その皇族自身が天皇として即位しなかったものの、存命中に子が天皇として即位したために、太上天皇に准じた待遇を受ける例があった。


また『[[源氏物語]]』に、主人公[[光源氏]]が「太上天皇になずらふ御位」に就いた旨の記述がなされていることから、しばしばあたかもそのような具体的な地位や称号が存在したかのように誤解されるが、准太上天皇は、地位や称号ではなくあくまでも待遇である。「じゅんだいじょうてんのう」という名詞はもともと存在せず、本来は「太上天皇に准ず」「太上天皇になずらふ」と文として読み下すのが正しい<ref>ただし、[[山中裕]]のように小一条院の例が登場する以前に紫式部が「太上天皇になずらふ」存在を想定しえたかを疑問視して、紫式部の没年の通説とされる[[長元]]5年([[1016年]])説を否定して、敦明親王の皇太子辞退時には紫式部は健在でこの事実を元に執筆あるいは加筆されたとする見方もある。</ref>。
歴史上、准太上天皇の実例は、[[寛仁]]元年([[1017年]])に[[敦明親王]]が[[皇太子]]の地位を辞退する見返りとして、[[小一条院]]の院号と[[年官]][[年爵]]を与えられ、上皇同様に[[院庁]]を設置されたのが唯一である。これも「准太上天皇」という具体的な称号が与えられたわけではない。院号の授与や院庁の設置、年爵の賦与により上皇に准じた待遇を与えられたにとどまる。


なお、[[女院]]も、院号の授与、年官年爵の賦与、院庁の設置などにより、ある意味で上皇に准じた立場と言うことができる。[[正暦]]2年([[991年]])に最初の女院となった東三条院[[藤原詮子]]の待遇を定めるについては、まったく前例がない新儀であったことと、[[一条天皇]]の生母ではあるが、皇后の経歴がないために権威において一段劣る彼女をあえて[[后位|三宮]]よりも上位に位置づける必要があったことから、上皇の待遇が参考とされ、これがその後の女院の待遇の先例となった。もっとも、本来、天皇の生母への優遇措置であった女院の地位に至る要件が時代がくだるとともに次第に多様化したことから、すべての女院が上皇と同じ待遇を受けることができたわけではない。
なお、[[女院]]も、院号の授与、年官年爵の賦与、院庁の設置などにより、ある意味で上皇に准じた立場と言うことができる。[[正暦]]2年([[991年]])に最初の女院となった東三条院[[藤原詮子]]の待遇を定めるについては、まったく前例がない新儀であったことと、[[一条天皇]]の生母ではあるが、皇后の経歴がないために権威において一段劣る彼女をあえて[[后位|三宮]]よりも上位に位置づける必要があったことから、上皇の待遇が参考とされ、これがその後の女院の待遇の先例となった。もっとも、本来、天皇の生母への優遇措置であった女院の地位に至る要件が時代がくだるとともに次第に多様化したことから、すべての女院が上皇と同じ待遇を受けることができたわけではない。

=== 即位せず太上天皇待遇を受けた皇族 ===
{| border="1" cellpadding="2" cellspacing="0"
|+'''皇位に付かずに太上天皇尊号を送られた皇族'''
|-bgcolor="#EEEEEE"
!尊号を送られた者||尊号||追贈の理由
|-
|[[敦明親王]]||小一条院太上天皇||廃太子による、藤原氏の配慮
|-
|[[守貞親王]]||後高倉院太上天皇・持明院法皇||[[後堀河天皇]]の父
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|[[足利義満]]||鹿苑院太上天皇・鹿苑院太上法皇||朝廷の実権掌握、公家の配慮(子・[[足利義持]]が辞退)
|-
|[[伏見宮貞成親王]]||後崇光院太上天皇||[[後花園天皇]]の父
|-
|[[誠仁親王]]||陽光院太上天皇||[[後陽成天皇]]の父
|-
|[[閑院宮典仁親王]]||慶光院太上天皇||[[光格天皇]]の父([[尊号一件]])
|}


==脚注==
==脚注==

2008年7月23日 (水) 13:51時点における版

准太上天皇(じゅんだいじょうてんのう)とは、太上天皇に准じた待遇のこと。

概要

その皇族自身が天皇として即位しなかったものの、存命中に子が天皇として即位したために、太上天皇に准じた待遇を受ける例があった。

また『源氏物語』に、主人公光源氏が「太上天皇になずらふ御位」に就いた旨の記述がなされていることから、しばしばあたかもそのような具体的な地位や称号が存在したかのように誤解されるが、准太上天皇は、地位や称号ではなくあくまでも待遇である。「じゅんだいじょうてんのう」という名詞はもともと存在せず、本来は「太上天皇に准ず」「太上天皇になずらふ」と文として読み下すのが正しい[1]

なお、女院も、院号の授与、年官年爵の賦与、院庁の設置などにより、ある意味で上皇に准じた立場と言うことができる。正暦2年(991年)に最初の女院となった東三条院藤原詮子の待遇を定めるについては、まったく前例がない新儀であったことと、一条天皇の生母ではあるが、皇后の経歴がないために権威において一段劣る彼女をあえて三宮よりも上位に位置づける必要があったことから、上皇の待遇が参考とされ、これがその後の女院の待遇の先例となった。もっとも、本来、天皇の生母への優遇措置であった女院の地位に至る要件が時代がくだるとともに次第に多様化したことから、すべての女院が上皇と同じ待遇を受けることができたわけではない。

即位せず太上天皇待遇を受けた皇族

皇位に付かずに太上天皇尊号を送られた皇族
尊号を送られた者 尊号 追贈の理由
敦明親王 小一条院太上天皇 廃太子による、藤原氏の配慮
守貞親王 後高倉院太上天皇・持明院法皇 後堀河天皇の父
足利義満 鹿苑院太上天皇・鹿苑院太上法皇 朝廷の実権掌握、公家の配慮(子・足利義持が辞退)
伏見宮貞成親王 後崇光院太上天皇 後花園天皇の父
誠仁親王 陽光院太上天皇 後陽成天皇の父
閑院宮典仁親王 慶光院太上天皇 光格天皇の父(尊号一件

脚注

  1. ^ ただし、山中裕のように小一条院の例が登場する以前に紫式部が「太上天皇になずらふ」存在を想定しえたかを疑問視して、紫式部の没年の通説とされる長元5年(1016年)説を否定して、敦明親王の皇太子辞退時には紫式部は健在でこの事実を元に執筆あるいは加筆されたとする見方もある。

参考文献

  • 橋本義彦 「女院の意義と沿革」『平安貴族』、平凡社〈平凡社選書〉、1986年。
  • 繁田信一 『殴り合う貴族たち』 柏書房、2005年。
  • 山中裕 『源氏物語の史的研究』 思文閣出版、1997年。

関連項目