コンテンツにスキップ

「花火」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m {{画像提供依頼}}
1行目: 1行目:
{{画像提供依頼}}
'''花火'''(はなび)は、[[火薬]]と[[金属]]の粉末を混ぜたものに火を付け、燃焼時の火花を楽しむためのもの。火花に色をつけるために金属の[[炎色反応]]を利用しており、混ぜ合わせる金属の種類によってさまざまな色合いの火花を出すことができる。
'''花火'''(はなび)は、[[火薬]]と[[金属]]の粉末を混ぜたものに火を付け、燃焼時の火花を楽しむためのもの。火花に色をつけるために金属の[[炎色反応]]を利用しており、混ぜ合わせる金属の種類によってさまざまな色合いの火花を出すことができる。
多くの場合は火薬が爆発・燃焼した時に飛び散る火の粉の色や形を楽しむが、ロケット花火やへび花火、パラシュート花火のように、火薬の燃焼以外を楽しむものもある。
多くの場合は火薬が爆発・燃焼した時に飛び散る火の粉の色や形を楽しむが、ロケット花火やへび花火、パラシュート花火のように、火薬の燃焼以外を楽しむものもある。

2005年7月16日 (土) 08:29時点における版

花火(はなび)は、火薬金属の粉末を混ぜたものに火を付け、燃焼時の火花を楽しむためのもの。火花に色をつけるために金属の炎色反応を利用しており、混ぜ合わせる金属の種類によってさまざまな色合いの火花を出すことができる。 多くの場合は火薬が爆発・燃焼した時に飛び散る火の粉の色や形を楽しむが、ロケット花火やへび花火、パラシュート花火のように、火薬の燃焼以外を楽しむものもある。

日本では「火薬類取締法」により製造から消費までが規制されている。

日本では、大きく分け、取り扱いや打ち上げに免許が必要な大型の打揚花火(法令上の用語は煙火)と、玩具店などで販売され、家庭などで消費される小型のおもちゃ花火(法令上の用語は玩具花火)に分けられる。法令上は、花火と煙火は異なるものを指すことになるが、煙火という用語は一般的な用語でないため、本項目内では花火に統一する。日本煙火協会サイト内でも、一般向けの表記は「花火」にほぼ統一されている。

いくつか種類があり、日本では、の夜の風物詩とされている。一部の自治体では大規模な花火の打ち上げを「花火大会」と称して行っている。

花火大会のほか、イベントなどの開催を告げるため、また、祝砲のかわりにも使われる。なお、演劇や映画などで演出や効果の一環として流される煙(スモーク)、やパーティーなどで音とともに紙テープなどが飛ぶクラッカーも、法令上、花火(煙火)に含まれる。

打ち上げ花火 足立区の花火大会にて

花火の種類

打揚花火

「玉」とよばれる紙製の球体に「星」とよばれる火薬の玉を詰めて打ち揚げる花火である。打上げにも火薬を用いる。打ち揚げ時と同時に導火線に点火され、所定の高さに到達すると、導火線が燃え尽きて玉内部の割火薬に点火されて「玉」が破裂し、「星」が飛散する。このとき「星」には、光の尾を引きながら燃焼するもの、落下途中で破裂するもの、色が変化するものなど様々なタイプがある。「玉」の内部に「星」を均一に詰めることが重要であるが、詳細な技術は花火師の秘伝とされる。

日本の打揚花火は、打ち揚げ時に光が同心円状に広がるものが多く、花火玉そのものの形も球形をしている。これに対し、日本国外の花火は打ち揚げても円状にはならず、花火そのものの形も円筒形をしている。円筒形の花火は、球形に比べ、火薬量などを増やすことができ、華やかな光や色を出すことが可能であるが、破裂途中で色の変化をさせることは困難だとされる。かつて、日本の花火も同心円状に広がるものの製造は困難で、一部の武家花火師のみの秘伝とされていたといわれるが、明治期に鍵屋十二代目弥兵衛が技術を取得し、以後、円形の花火が多く作られるようになったとされる。

打揚花火は「割物」、「ポカ物」、「型物」などに分類される。

  • 「割物」は代表的な打揚煙火で、破裂したときに星が球状に飛散するものである。中でも星が菊の花のように尾を引いて広がるものを「菊物」、尾を引かないものを「ボタン物」とよぶ。また、二重の球状に広がるものを「芯物」という。
  • 「ポカ物」は星が飛散しないもので、ランダムな方向に星が飛んでいく「蜂」などがある。
  • 「型物」は「割物」の変形で、土星などの形に星が飛散するものである。

伝統的に打揚花火の「玉」の大きさはであらわされる。直径約6.6cmの2寸玉(2号玉)から直径約60cmの2尺玉(20号玉)、さらに3尺玉、4尺玉まである。2尺玉は直径約500m程度まで広がる。ただし、この号数表記は打ち揚げ筒の太さであって、実際の花火玉の直径はこれよりも若干小さくなる。具体的には、20号玉の直径は60cmではなく約57cmである。

代表的な打揚花火である「割物」の鑑賞のポイントとして以下のようなものがある。

  • 「玉の座りがしっかりしているか」:玉が登りつめた点で開いていることを「玉の座りがしっかりしている」という。きれいに広がるための重要なポイントである。
  • 「盆が取れているか」:星が盆のように真ん丸に見えているか。
  • 「消え口が揃っているか」:星の色が一斉に変化し、一斉に消えているかである。ただし、わざと消え口をずらしている煙火もある。
  • 星がまんべんなく広がり、歯抜けになっていないか。
  • 星の発色が良く、はっきりとした色が出ているか。さらに、星をどのように配色するかは花火師の個性が発揮される重要なポイントである。

仕掛花火

複数の花火を利用するなど作為的に仕掛けを施した花火。

枠仕掛

  • 速火線で連結した焔管(えんかん)を、木や鉄パイプ等で文字や絵を型どった枠上に並べて配置し、点火によって焔管が一斉に燃焼することにより、数分程度文字を浮かび上がらせるもの。
ナイアガラ ドイツのデュースブルク市、2004年

網仕掛(ナイアガラ)

  • 速火線で連結した焔管を数~数十メートルに渡り一列に吊し、点火によって焔管から火の粉が一斉に流れ落ちるもの。ナイアガラ滝から。

スターマイン

  • 打揚花火の玉や、星、笛等を順序よく配置し、速火線で連結し、次々と連続して打ち揚げるもの。枠仕掛けの最後に裏打ちとして使用されることもある。主に2号玉(約6cm)から4号玉(約14cm)の玉が用いられる。

立火仕掛

  • 星を連発で打ち上げるもの。「乱玉」という。
  • 筒に詰めた火薬により火の粉を噴出させるもの。「噴水」という。「三国」と呼ぶ地域もある。このうち、手持ちや抱えたまま噴出させるものは「手筒」という。

車花火

  • 円盤等の周りに火薬を詰めた筒を配置し、火薬の噴射推進力により円盤を回転させ、火の粉を円状に噴出させるもの。

流星(龍勢)、ロケット

  • 竹筒等に火薬を詰めた筒を取り付け、火薬の噴射推進力により、上空へ打ち出すもの。

ケーブル花火

  • ロケットをロープで吊し、火薬の噴射推進力によりロープに沿って走るもの。枠仕掛の点火用に使用されることもある。

おもちゃ花火

かつては玩具花火とも呼ばれたが、日本煙火協会での表記はこちらに統一されている。購入や使用に免許が不要な花火の総称で、線香花火のような手で持つものが代表的なものであるが、小型ではあっても打揚花火になっていて、筒があって上空で破裂するものも存在する。日本では、日本煙火協会が出荷品の検査を行っており、合格したものには「SFマーク」がつけられる。

ねずみ花火

炎を吹き出すタイプのひも状の花火を、円形に組んだもの。火を点けて炎が吹き出すと重心に対して回転を与える向きの力がかかるため、地面に置かれた場合、高速に回転してその勢いで地面をはい回る。円形の炎がシュシュッと音を立ててはい回る様がネズミに喩えられたためにこの名がある。最後にパンとはじけるような仕掛けを施されたものが一般的。

コマ花火

ねずみ花火の応用型で、本体が独楽(こま)状になっている。ねずみ花火よりも高速に回転できるため、うなるような音を立てて地面上で回転する。

線香花火

こよりや細いひごの先端に火薬を付けた花火。火を付けると火薬が丸くなり、小さな火花を散らすようになる。

ロケット花火

打ち上げ式の花火。打ち上げ後破裂するものと破裂しないものがある。破裂しない物の場合は打ち上げ時の大きな音を上げるように改良されているものが多い。

袋物

かつては打揚煙火(花火師の揚げる花火)として揚げられていた。昼花火の中で人気があったものである。上空で破裂した玉の中に袋が入っており、万国旗やパラシュートが降りてくる。電線にひっかかるなどの障害が生じたため、現在では打揚煙火としては全く使われず、おもちゃ花火で小さなものが若干生産されているのみである。細谷政夫によれば、おもちゃ花火のパラシュートは1931年に細谷火工によって製造が開始された。

発破

長さ数センチの小型の花火。多くの場合複数の爆竹が導火線によって結びつけられており連続して爆発するようになっている。花火としての歴史は古く、もっとも古い種類の花火とする説もある。


歴史

紀元前3世紀の中国で爆竹が使用され、これが起源だという説もあるが、最初期の花火は6世紀、中国で火薬が使われるようになるのとほぼ同時期に作られはじめたと考えられている。ただし、10世紀まで花火は存在しなかったという主張もあるが、いずれにしても、発明の地は中国であったとされる。一般的に使われ、ヨーロッパに伝わったのは13世紀以降で、初期のものは祝砲の音を大きくしたり、煙に色などがつくようにしたものだったと考えられる。最初期のものは、たとえばロケット花火に似たものを敵陣に打ち込んで火事を起こしたり相手を威嚇したりといった、武器との区別がはっきりしないものもあった。

この後、火薬と花火はヨーロッパに伝わった。ヨーロッパでの主な生産地はイタリアで、13世紀ごろから火薬と花火製造がさかんになった。この時代、ヨーロッパの花火は主に王侯貴族のものであり、王の権力を誇示するため、王が催すイベントなどで揚げられた。ロケットを除く打揚花火は、イタリアで開発されたという説もある。

日本で花火が製造されるようになったのは16世紀の、鉄砲伝来以降である。

『宮中秘策』(1741年)によれば、1613年に徳川家康が江戸城内で花火を見物したというのが、花火という語で確実に花火が使われたと分かる最も古い記録である。

ただしこれより前、1589年に、伊達政宗が仙台で花火を楽しんだという記録が『伊達家治家記録』にある、という主張がある。

このほか、1582年4月14日に、ポルトガルのイエズス会宣教師が大分県白杵の聖堂で花火を使用したという記録が『イエズス会日本年報』と『フロイス日本史』にあるともいわれる。

1585年に、現在の栃木県藤岡町で、皆川山城守と佐竹衆が、戦のなぐさみに花火を立てた、という記述もあるが、戦の最中に当時貴重だった火薬をそのようなことに使うはずがないという主張もされている。

江戸時代になり、戦がなくなると、花火を専門に扱う火薬屋が登場した。1648年には幕府が隅田川以外での花火の禁止の触れを出しており、花火は当時から人気があったとされる。当時のものは、おもちゃ花火であったと考えられる。現存する日本で最も古い花火業者は、東京(当時の江戸)の宗家花火鍵屋であり、1659年に初代弥兵衛がおもちゃ花火を売り出した。

鍵屋によれば、鍵屋がはじめて隅田川で花火を揚げたのは1711年である。当時は、鍵屋のような花火専門業者の花火は町人花火と呼ばれた。このほか、大名らが配下の火薬職人らに命じ、競って隅田川で花火を揚げたという。これらの花火は武家花火と呼ばれる。特に、火薬製造が規制されなかった尾張藩紀州藩水戸藩の3つの徳川家の花火は御三家花火と呼ばれ、江戸町人らに人気があった。なお、武家花火は、戦に用いる信号弾のようなものが進化したもので、色や形を楽しむ町人花火とは、方向性が若干異なる。

武藤輝彦によれば、打揚花火は、1751年に開発された。それ以前の花火は、煙や炎が噴き出す花火であったと考えられている。

鍵屋は第二次世界大戦期に十三代天野太道が花火製造を取りやめ、現在は打ち上げ専業業者となっている。このため、鍵屋は第二次世界大戦期まで現存したといわれることがある。

花火に関しては特に江戸での記録が多く残っているが、これ以外の地方で花火が製造されなかったわけではない。特に、外国と交易のあった九州と、長野、愛知などでは、江戸時代から花火がつくられていた。特に、三河国岡崎地方(現在の愛知県岡崎市付近)は徳川家康の出身地ということで、火薬に関する規制がゆるやかであり、江戸時代から町人が競って花火を製造した。現在も岡崎周辺におもちゃ花火問屋が多いのはこの名残だといわれる。これ以外の現在の花火の主な産地は長野県、新潟県、秋田県、茨城県で、徳川家にゆかりのある地方が多い。

明治時代になると、海外から塩素酸カリウムアルミニウムマグネシウム炭酸ストロンチウム硝酸バリウムといった多くの薬品が輸入され、それまで出せなかった色を出すことができるようになったばかりか、明るさも大きく変化した。これらの物質の輸入開始は1879年から1887年にかけて段階的に行われ、日本の花火の形は大きく変化した。これ以前の技術で作られた花火を和火、これ以後のものを洋火と言い分けることもある。

それまで、花火の製造は打ち揚げには何の免許も規制も存在しなかったが、1910年に許可制となった。これ以前の地方の花火は、農家などが趣味で製造しているものが多かったが、この後、花火師の専業化が進むことになる。

この後、花火に特に重大な影響を与えたのは第二次世界大戦で、主だった花火大会は1940年ごろを境にほとんど行われなくなった。花火製造は禁止はされないかわりに高い物品税がかけられたが、資材不足でほとんど製造されなかったためあまり影響はなかった。この時代、花火製造業者は、軍用の発炎筒などを作っていた。

終戦後は1945年9月に長野市の諏訪神社で花火が揚げられるが、翌10月に連合軍総司令部により火薬製造が禁じられた。しかし、1946年7月4日には、各地のアメリカ軍基地で日本業者がアメリカ独立祭の打ち揚げ花火を揚げ、この後1948年までにかけ、徐々に花火が解禁された。戦後初の花火大会は、1946年9月29日と30日に土浦市で開催された第14回全国煙火競技大会(現在の土浦全国花火競技大会)である。終戦後はおもちゃ花火を含め、日本の花火は海外に多く輸出されたが、現在は中国からの輸入量のほうが多く、輸出は激減している。現在でも多くの花火業者は、地元に根付いた零細・中小企業であり、技術を親の手から子の手へと伝える世襲制をとっている。

花火大会

記録ではっきりわかる古い花火大会は、隅田川花火大会(両国川開き)で、1732年(享保十七年)に発生した大飢饉とコレラの死者を弔うため、1733年(享保十八年)旧暦五月二十八日、両国の川開きに花火を催したのが始まりとされる。最初期は鍵屋が担当したが、1810年に鍵屋の分家の玉屋(創業者は玉屋清吉、のちの玉屋市兵衛)が創業し、2業者体制となり、双方が腕を競いあっていた。鍵屋と玉屋は異なる打ち上げ場所から交互に花火を上げたため、観客は双方の花火が上がったところで、よいと感じた業者の名を呼んだ。これが、花火見物でおなじみの「たまやー」「かぎやー」の掛け声の由来といわれる。当時評判がよかったのは玉屋のほうで、玉屋の掛け声ばかりで鍵屋の名を呼ぶものがいない、といわれた時代もある。ただし、玉屋は1843年(天保14年)に火災を起こし、江戸処払い命じられ、1代限りで断絶した。ただし、江戸処払いを命じられたあとは、江戸のすぐ外で細々と営業していたという説もある。

両国川開きの花火は、明治維新や第二次世界大戦などにより数度中断した。1961年(昭和36年)から1977年まで、交通事情の悪化等により中断するが、1978年(昭和53年)に「隅田川花火大会」と名前を変えて復活し、以後毎年続けられている。

打ち揚げ花火の製造には半年以上かかり、ほとんどの工程が手工業で量産が不可能である。また、危険な業種でもあることから、古くから非常に人気があったにもかかわらず、しばらく長い間、花火大会の数はあまり増えなかった。1980年ごろでも、名のある主な花火大会は10~20くらいであったとされる。しかしその後、安価な中国産花火が大量に輸入されるようになり、1985年に鍵屋十四代天野修が電気点火システムを開発すると、少人数で比較的安全に打ち上げができるようになったことから、花火大会の数は激増した。日本煙火協会によれば、2004年に行われる花火大会は200近くにのぼる。協会が把握していないものもあるため、実数では200を超えると考えられる。

代表的な花火大会

  • 洞爺湖ロングラン花火大会(北海道虻田郡虻田町、4月から10月の20時45分~21時05分、400発) - 実施日数では日本最高(年間約180日間開催)
  • 全国花火競技大会 (秋田県大仙市(旧・大曲市)、8月最終土曜日) - 70回以上続く著名な競技大会。日本煙火協会が後援する2つの競技大会のうちの1つ。集客は60万人(大仙市の人口は9.8万人)と非常に多く、市内中心部が交通規制されたり、秋田新幹線が増発されたりと対応するものの、未だに50km先の秋田市まで車で帰るとなると最大で3時間かかるほどの渋滞に見舞われる。 観光バスガイドがはじめて行くと、必ず迷子が発生したり混乱が多い。なお、テレビではNHK衛星にて生放送で放映されている。
  • 土浦全国花火競技大会(茨城県土浦市) - 著名な競技大会。日本煙火協会が後援する2つの競技大会のうちの1つ。
  • 足利花火大会栃木県足利市) - 8月第1土曜に開催、2万発、北関東を代表する歴史と規模
  • 隅田川花火大会(東京都) - 記録に残る限り最も古い。
  • 長岡まつり大花火大会 (新潟県長岡市、8月2日・3日、二日間で約2万発) - 信濃川河川敷で開催され「日本一の大花火」と称される。正三尺玉(30号玉)や10号早打ち100連発など。上越新幹線信越線など臨時列車が増発される。越後三大花火大会のひとつ。約60万人の人出。
  • 片貝まつり (新潟県小千谷市、9月9日・10日)- 四尺玉(40号玉)の打ち上げがある。また、「昼間の三尺玉」の打ち上げもある。越後三大花火大会のひとつ。
  • ぎおん柏崎まつり海の花火大会(新潟県柏崎市、約1万発) - 越後三大花火大会の残りのひとつ。海中空スターマイン・日本唯一の海上三尺玉など。尺玉(10号玉)300連発は約7分間にも及び本州日本海側最大規模。
  • 諏訪湖祭湖上花火大会(長野県諏訪市) 毎年8月15日に開催 - 約3万7千発、観衆は約45万人、輸送には普段首都圏で使用されている201系電車による臨時列車が増発される。
  • 熊野大花火大会(三重県熊野市) - 8月17日七里御浜にて開催 周囲が山に囲まれているため爆音は圧巻。国道42号は毎年30km超の渋滞、普段ほとんど乗客のないJR紀勢本線も臨時列車が多数運行されるも寿司詰め状態で花火と共に交通の混雑具合も有名。
  • 全国新作花火競技大会(長野県諏訪市) - 9月第1週に開催
  • 長野えびす講煙火大会(長野県長野市 - 11月23日開催
  • 熱海海上花火大会(夏休みに数回やるほか、秋、年末にも開催) - 海上での花火大会としては日本最大級
  • PL教団の花火大会(教祖祭PL花火芸術) - 発数では日本最大(10万~20万発)


花火の日

戦後、花火が解禁された1948年8月1日を記念し、東京本所厩橋で大規模な花火爆発事故の起きた1955年8月1日を記念し、世界最大ともいわれる教祖祭PL花火芸術の開催日8月1日を記念し、花火の日が8月1日に制定された(1967年制定)。このほか両国川開きが旧暦5月28日であったことから、5月28日を花火の日とする主張もある。

花火と事故

花火の事故としては花火工場における製造過程での事故と花火大会における実演時の事故とに大きく分けられる。花火大会における事故は、花火の危険性だけでなく多くの観客が集まるために起こりうる事故を防ぐために事前にさまざまな予防措置が運営側によって施されるようになっているが、防ぎ切れていない。 また、家庭で行なわれる花火でも、火薬の危険性を十分認識していない児童が遊戯の主体であるため、取り扱い時の不注意や、ふざけて人に向けるなど危険な行為を行なうことによって、事故を起こしがちである。また、遊戯後の火の不始末による火災の危険性もある。

従来から花火の事故は多くあったが、統計が残っているのは1950年代ごろからである。1950年代から1960年代にかけては花火工場の爆発事故が多く、毎年10名以上の死者が出ていた時代もあった。多くは花火工場が爆発し従業員が死亡するというものだったが、近隣の建造物や一般人の生命に危害を及ぼしたものもあり、これらの事故により花火製造に関する規制は徐々に厳しくなった。ただし、安全な種類の火薬を用い、保管量を守れば、そのような事故の大部分は防げたはずだという主張もある。

国によっては花火の爆音が銃声と混同されかねないことから、記念日以外は花火の使用を禁止していることもある。

火災・爆発など

  • 玩具問屋爆発事故(1955年8月1日)
    • 東京都墨田区厩橋で、おもちゃ花火問屋が爆発。死者18名。
  • 東京宝塚劇場火災事故(1958年)
    • 無許可で演出のために使われた花火が引火。劇団員3名が死亡。以後劇場での花火の使用に厳しい規制がかけられる。特に東京都内では全面禁止。(1985年に一部規制緩和)
  • 長野県花火工場爆発事故(1959年)
    • 花火工場に近接した小学校校庭で体操をしていた小学6年生児童が爆風で死亡。花火製造に規制がかけられる一因となる。
  • 横浜花火大会暴発事故(1989年)
    • 山下公園近くの沖合いで打ち揚げていた花火の火が他の花火に引火。花火師2名が焼死。
  • 鹿児島県南国花火製造所爆発事故(2003年(平成15年)4月11日
    • 煙火製造工場内の配合所、火薬類一時置場を含む複数箇所で爆発が発生、10人死亡、この事故により法令が改正され、雷薬などの配合工程において導電性のある器具の使用義務が定められ、この工程における停滞量、人数が従来より縮小された他、原材料に使われる金属の保管場所は危険区域外へ設置しなければならなくなった。

その他花火大会等の事故

  • 萬代橋事件(1948年8月23日)
    • 新潟まつり」の前身にあたる「川開き」の花火大会の際、打ち上がり始めたスターマインを見ようと、観衆が一斉に萬代橋下流側の欄干に殺到し欄干が落下、約100名の観衆が信濃川に転落。死者11名、重軽傷者29名。これ以降、花火大会の際には萬代橋を含む信濃川に架かる橋梁上での立ち止まっての花火見物は禁止されている。
  • 両国橋落下事故(1879年)
    • 両国川開きの際、混み合う見物人により橋が崩れ、花火は途中中止となる。
  • 明石花火大会歩道橋事故(2001年)
    • 花火そのものによる事故ではないが、花火大会の観客同士が歩道橋でもまれて死傷者が出た。

花火の関連する作品

外部リンク


北野武監督の映画作品「HANA-BI」についてはHANA-BIを参照。