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ノート:花火

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海外の花火にも触れて欲しい。アガサ・クリスティの作品にもでてくる。Poppy 2004年8月3日 (火) 07:27 (UTC)[返信]

日本や中国の打ち上げ花火が、川開きなど、大衆がさまざまな角度で見るため球形になったのに対し、ヨーロッパの打ち上げ花火は、王侯貴族や豪商が屋敷の背後から打ち上げて観賞するものだったため、ダイナマイトのような円柱形で、打ち上げた火花の散り方が平面的なものになった、とかですか?--RJANKA 2007年8月7日 (火) 19:37 (UTC)RJANKA[返信]


足立区の花火、観客動員数からも存在して問題ないとして戻しました。異論があるなら、こちらのどうぞ。0null0 2004年8月2日 (月) 14:22 (UTC)[返信]

写真とってきた身としては、あってもいいと思う。Shin-改 2004年8月2日 (月) 14:36 (UTC)[返信]

観客数まで書き加えれば追加してもよいかもしれませんが、そうなると花火以外のものでもなんでも単に人口密集地のものが「代表的」になってしまいます。花火そのものに特色があるのならともかく、この大会の観客数は花火の質や特色には特に関係はないのでは?今は東京は特に花火の有名な生産地でもないし、同じ都内の隅田川があれば十分では?(同じように諏訪湖のほうも8月の1つにまとめたほうがいいと感じます)Modeha 2004年8月3日 (火) 04:26 (UTC)[返信]

こういうのはたぶんあとでもめる、と思うので(既にもめてる)少し調べてみました。[1]このサイトでは、現在記事中にある大会(足立も含む)は、長野をのぞきすべて日本を代表する50の花火大会に入っています。さらに、洞爺湖、長野、足立、諏訪湖の一方、足利以外はベスト10にも入っています。このサイトの信憑性ですが、Yahoo!Japanのおすすめサイトになっているのである程度は信用してよいかと思います。ただ、東京都内ですと、やはり東京湾大華火祭のほうが評価が高いようです。東京は観客の多い花火大会は多いので、足立が入るならこっちも、あっちもという感じで結局人口密集地開催の花火大会一覧にならないよう、観衆数以外で売りがあればよいのですが。あと、足立の観衆数を探してみましたがちょっと見つかりませんでした。Modeha 2004年8月3日 (火) 06:27 (UTC)[返信]

[2]で見ると2003年の実績で54万人ということになりそうです。0null0 2004年8月3日 (火) 07:23 (UTC)[返信]


花火の表記として一部「煙火」が用いられているようですが、

  • 煙火という言葉が定義なしで出てきている
  • 文中で花火と煙火の表現が混在している

ため、非常に読みづらさを感じます。多分、火薬類取締法等では「煙火」という表現が正式に用いられているのではないかと思いますが、一般にはなじみのない表現だと思います。このため、表現を花火に統一し、煙火については例えば、「火薬類取締法では花火のことを煙火と称する」(本当かよく分かりませんが)などの説明にとどめておくのが良いかと思いますが、いかがでしょうか。Azu 2004年8月3日 (火) 04:11 (UTC)[返信]


本文中に次ぎの記載がありましたが、本文と関係の無い悪戯であると思われたので削除しました。

>メールちょうだい!!

>gohikunomenkichi@docomo.ne.jp

Liki pong 2004年8月17日 (火) 17:42 (UTC)[返信]

特定の地方の花火大会に関する外部リンクを削除しました。広告なのかどうか不明だったのと、特に代表的な花火大会でもなかったためです。日本国内で代表的といわれている花火大会への外部リンクは残しました。Modeha 2005年6月28日 (火) 11:59 (UTC)[返信]


記事を読んでいると唐突に出てくる「武藤輝彦」という人名らしき固有名詞についてですが、知名度の高い歴史上の人物ならいざしらず、最近の人物ならどこの誰で何をした人物かはっきり書いておいたほうがいいと思います。手前はこの方については存じかねますが、検索したところ、花火に関する書物を数多く著していらっしゃる煙火関係者で、最近なくなった日本人男性ということらしいのですが、その方のことを指しているのでしょうか。「日本煙火芸術協会創立者で煙火に関する書物を数多く著した花火師の武藤輝彦(1921年-2022年)」ということでよろしいのでしょうか。--釣ちごちゅが 2005年8月15日 (月) 13:09 (UTC)[返信]

代表的な花火大会に、東京都の神宮外苑花火大会が掲載されていましたが、調べたところ、3号玉10000発、創始27年ということで、民間企業が主催しているという以外に特徴がなく、また、この花火大会を入れると、10000発程度の花火大会はすべて入ってしまうためにいったん消しました。ご意見がありましたらお願いします。Modeha 2006年7月26日 (水) 12:35 (UTC)[返信]

神宮はそうですか…。1万発程度+民間企業主催となると『代表的なもの』に数えるのは難しいでしょうね。日本全国の花火大会を網羅するとなると、やはり「日本の花火大会一覧」とかのページを新たに作る必要があるかと思います。--Itasan 2006年8月7日 (月) 02:45 (UTC)[返信]

1万発でももっと特色がある(4尺玉が揚がる)等の特徴があるのならかまわないと思います。洞爺湖ロングランは400発ですが、半年間開催という特徴がありますし。3号玉1万発だと正直、弱いと思います。たとえば伊勢崎は3号玉3万発ですが載ってません。神宮を入れると当然、伊勢崎も入れろ、小山も入れろ、と、際限がなくなってしまうと思います。何かよい基準があればよいのですが。一応、私は、[3]のサイトにある100の花火大会のうちベスト50までくらいがある程度の基準になると思っています。(そうすると、現在提示中のもののうち、西日本大濠花火大会以外は全部入ってます)一応、このサイトの作者は著書もあるようなので、それを基準にしたとすれば独自の研究とは言われないと思います。Modeha 2006年8月10日 (木) 12:44 (UTC)[返信]


花火大会の一覧を、新規ページに移した方がいいと思いますが、どうでしょうか?--RJANKA 2007年8月7日 (火) 19:40 (UTC)RJANKA[返信]

「日本最古を主張する豊橋市の花火使用の記録の検証」について

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恐らく「花火=手筒花火」の様な表現など、情報が混同してしまっているのが原因で信憑性が疑われているのではないでしょうか?念の為、豊橋市商業観光課に直接問いかけて見ましょう。一度行政側の見解を頂いてから投稿した方が良いと思います。--Extasy RYO5月4日(金)9:51

当時農村地帯であった吉田に伝わったと言う表現がなされていますが、鉄砲伝来から15年後、神社に直接技術が伝来したのではなく、今川義元の配下である当時の吉田城主による吉田神社奉納が起源とされているわけですから、矛盾は無い様に思います。(鉄砲伝来から15年もあれば、ある一定の軍機能に火薬技術が伝わっていてもおかしくは無いと思われます)--122.27.112.74 5月6日(日) 10:36


吉田神社に残る記録「三河国古老伝」に「永禄元年(1558)天王祭礼祀ノ花火ト云フ事始メル」とあり、宮中秘策;寛保元年(1741年)に、初めて、花火、という用語が登場するので、三河国古老伝なるあやしげな神社の記録は、1741年以降に製作されたものであることがわかります。三河国古老伝は、1862年著の夏目可敬の「三河名所図絵」に、初めて引用されているものです。吉田神社略記に引用される羽田吉田綜録とは、山本貞晨が文化年間(一八〇四~一八)に著した『三河国吉田名蹤綜録』のことで、宮中秘策よりも後の史料です。いずれも、花火という用語を使い、手筒花火とは記載していません。19世紀編纂の史料で、花火は、吉田神社の祭礼で、1558年、または1560年開始と、明らかなウソを付いているのです。※三河に花火が伝わったのは、稲富流砲術を岡崎城に招いたからであるのは、間違いないです。あらゆる他の史料と矛盾することを、吉田神社は言っているのですよ。昭和44年に発刊された「三河煙火史」の記述によると

  • 花火は昔から岡崎を中心とした三河地方に普及発達し、全国に三河花火の名をほしいままにしておりますが、ここで三河花火の発達の歴史をたどってみましょう。現在の花火(煙火)は、もともと軍事上の火術から始まったもので、その過程で派生したものが鑑賞用に変化したものといわれております。昭和44年に発刊された「三河煙火史」の記述によると、「天文12年西洋式鉄砲及び火薬の伝来により、鉄砲は大筒をうみだし、各武将によって改良が加えられ軍事的武器へと発達し、その重要性と秘密性はますますその度合いを深めていったのである。 その中でとくに昔から火術に関係の深かったのが三河地方で、戦国時代において三河武士が千軍万馬の間にその有名をはせたのである。徳川家康は、早くより火薬の威力を利用し、三河の青年武士からなる鉄砲隊を編成するとともに、細川家を追放された稲富流砲術師範・稲富伊賀守直家を召し抱えて、鉄砲鍛冶の指導にあたらせた。 さらに津田流砲術の根来衆を加えてますます鉄砲・火術の拡充をはかり、より強大にしていったのである。かくして天下統一の偉業をなしとげたのである。反乱や一揆に対し必要以上に神経過敏であった家康がもっとも恐ろしい殺人武器である火薬およびその主剤となる硝石の採取などを幕府発祥の地である三河のみに限らせ、かつ三河においてのみ製造貯蔵を奨励したのは、全く当然のことであり、ここにおいて「お国もの」の特権が生じたのである。徳川家康の開府後は、各藩の鉄砲・火薬の製造を厳重に制約され「お国もの」の特権は更にその強大さをほこっていったのである。徳川300年の泰平の時代になるに至って、稲富流の砲術・火術である軍事用の火術は重要性が弱まり、平和の煙火へと変化し、稲富流火術は稲留流煙火となり更に分派して稲穂流をはじめその他多数の流派をうみだしていったのである。三河ものの特権がついには三河煙火の発生となっていった。稲富直家に教えを受けた三河国岩神村の沢田四郎右衛門が、その技術を受け継いでついには稲留流煙火の元祖と言われるまでにいたった。慶長17年(1612年)に足助八幡社に奉納された扁額、「扇的打図」に「尾州藩稲留派先生当国住岩神村沢田四郎右衛門行年78才」とあり、その間の関係を物語っている。」

※豊橋から、花火が創始されたわけがありませんよ。そもそも根拠史料に信憑性が全くないし、記述があやふや。--124.18.139.184 2007年5月6日 (日) 11:20 (UTC)[返信]


上記の記述は「打ち上げ花火」の様な、「手筒花火」とは全く別種の花火の事を言っているのではないでしょうか?吉田神社は何も、花火そのものの発祥という言い方はしていないように思います。今川義元の配下で、当時の吉田城主から吉田神社へと奉納されたのは、あくまで「手筒花火」という花火の種類であって、「花火」そのものでは無いと思います。とにかく、豊橋市の返答を待ちましょう。それとも、独自に調査してみては如何でしょう?。--Extasy RYO5月7日(月)20:20
豊橋市からの回答を得ました。豊橋はあくまで「手筒花火」の発祥地であり、花火そのものが豊橋から発祥したという記録は残っていません。「手筒花火」のルーツは「狼煙」であり、そもそも狼煙というのは、読んで字の如く、狼の糞などを燃やして煙を立たせる物です。そこから鉄砲及び火薬の伝来に伴って現在の様な形になった、と言う事の様です。従って、この検証は無意味であると判断し、削除をさせて頂きました。この件に関して異論があれば、それはもうWikipediaで訴える事柄ではなく、豊橋市の方へ申し出る事が望ましいと考えます。--Extasy RYO5月9日(水)19:30
花火の発祥も、手筒花火の発祥も、岡崎でしょう。豊橋は、ありえない。徳川家康が、三河に花火を広めたわけで、鉄砲という軍事技術と関係あるわけで。三州吉田藩の江戸初期の当主は、竹谷松平家、深溝松平家と松平一族になってますよ。松平(徳川)到来以前に、今川氏の武将やら、吉田神社が、花火していたなんて、ありえません。花火の用語自体、宮中秘策が初出の用語でしょう。徳川、今川の史料に、豊橋が花火の発祥など、まったく記載されていません。各種文献を当たってから、モノ言うべき。歴史というのは、自治体独占の自治体が作るものではありません。—以上の署名の無いコメントは、124.18.139.184会話/whois)さんが[2007-05-16T21:17:49]に投稿したものです(Thats-youによる付記)。

それなら貴方が直接、豊橋市や岡崎市に疑問を投げかけてみては?他の花火はともかく、手筒花火発祥が岡崎とは聞いた事がありませんし、豊橋発祥が嘘だとしたら他の自治体、特に岡崎市から豊橋市が発祥地を名乗っている事に対して反発があるでしょうし、岡崎市自体が手筒発祥地を名乗る筈です。署名も無しに自説じみた発言を繰り返すと「荒らし」と見なされ、投稿ブロックの対象になりかねませんよ!Extasy RYO 2007年5月17日 (木) 10:05 (UTC)[返信]

[4]このHPを御覧下さい。岡崎市民の方によるページの様ですが、手筒花火の豊橋発祥に関して、反発するどころかしっかり認めています。--Extasy RYO 2007年5月17日 (木) 11:13 (UTC)[返信]


三河花火の発祥は、岡崎ですよ。徳川家康以来のものです。宮中秘策にも、徳川家康が、花火を見たとあります。手筒花火というのは、花火の1種です。1558年から、吉田神社で花火をしていたという主張は、完全な捏造と思われます。19世紀編纂の東三河人作成の資料のよるものです。発祥とは、自称や宣伝によって、自治体が名乗ることによって確定するものではありません。歴史の記述が、自治体作成史料の引用だらけになってしまいますよ。自分も豊橋市美術館に確認しましたが、あやふやな回答でしたので、ほぼインチキと判断しています。以下、平凡社マイペディアの記述です。

  • 日本に花火が伝わったのは,1543 年 (天文 12) の鉄砲伝来とともに火薬の配合が伝えられた後であるが, 85 年 (天正 13) の夏,皆川山城守と佐竹衆の対陣のとき,慰みにそれぞれ敵陣に花火を焼き立てたことが見えるのが古い記録である。 1613 年 (慶長 18 年 8 月 6 日) に,花火上手 (じようず) の唐人が江戸城二の丸で上げた花火を徳川家康が見物したといわれるが,そのころから花火師が現れ,やがて撚花火や線香花火を売り歩くようになった。随筆《飛鳥 (あすか) 川》には花火売の呼声として, 〈花火花火,鼠 (ねずみ) 手,ぼたん,てん車,からくり,花火花火〉と記しているが,これは江戸時代後期のことであろう。 48 年 (慶安 1 年 6 月),70 年 (寛文 10 年 7 月), 80 年 (延宝 8 年 7 月) などに,幕府は鼠火,流星などの花火を町中で上げることを禁止する触れを出しているほどで,その流行がしのばれる。

↑どこにも、三州吉田(豊橋)は、登場しません。豊橋花火発祥は、ありえないのですよ。江戸時代初頭の藩主は、松平家ですから。今川義元、徳川家康、池田輝政、の時代にも、三州吉田発祥の記述は、ありません。 —以上の署名の無いコメントは、124.18.139.184会話/whois)さんが[2007-05-19T00:17:46]に投稿したものです(Thats-youによる付記)。

貴方は、岡崎市若しくはその周辺、西三河在住の方でしょうか?「地元びいき」と言うのはとても素晴らしい事だと思います。自分の住む地域に対してそれだけ愛着があると言う事ですから。私も豊橋市民であり、れっきとした「東三河びいき」です。ただ、それだからと言って、公共団体等が正式に認めている事柄に対して、所詮ただの民間人である私達が、自説自論だけで、捏造やインチキだと言って、叩き込む行為は明らかな反則であると思います。そういう人は他の地域どころか、自分の地域に対しても、物言いをする資格などありません。私は豊橋市も岡崎市もそれぞれ独自の歴史文化を持った素晴らしい街だと思っています。豊橋市商業観光課の方からのお話や、各種資料等を調べている中で、豊橋(吉田)も岡崎も様々な繋がりがあり、三河国そして豊橋市、岡崎市の生い立ち等が垣間見え、それだけでも感動した物です。花火に関しても、三河煙火や手筒花火に対し、異説や対立等が一切起きておらず、寧ろ三河煙火発祥は岡崎、手筒花火発祥は豊橋と、お互いの主張を認め合い、納得している印象さえあります。ですから、私も豊橋市や岡崎市等の公共団体等の意見を尊重しつつWikipediaに投稿しています。Wikipediaは自説自論を語る場ではありません。自説自論を語るのならば、また別の場所で、貴方の好きな様に行ってくれれば良いです。--Extasy RYO 2007年5月19日 (土) 00:50 (UTC)[返信]
だから、自説持論じゃないでしょう。証拠の資料を示したでしょうが。手筒花火というのは、花火の1種です。豊橋側の記述は、非常にあやふやなもので、自分も豊橋市に確認しましたが、あやふやなものでした。三河花火が、徳川家康から発祥していることは、家康が江戸幕府を開府しているわけですし、1級史料の宮中秘策の記述を、各種の辞書は引用しています。手筒花火などの花火全般と、豊橋市の手筒花火とは、分けて考える必要があります。あなたは、豊橋市の手筒花火、という呼称でページを立ち上げるべきでした。手筒花火の発祥=花火の発祥であり、他の史料と矛盾します。豊橋市の主張する年代は。豊橋市の主張する史料の史料価値は、19世紀に編纂されたもので、明らかな捏造といえます。歴史というものは、1自治体に決定権のある独占物ではありません。どうも、豊橋(東三河)の人間は、鵜呑みにする傾向があるようです。他の史料との照合もせずに。あと、手筒花火をやる祇園祭りも、京都の名称の真似ですし、吉田神社ってのも京都にあります。山本勘助の賀茂神社も、京都の真似でしたね。発祥とは、最初という意味で、オリジナル(起源)という意味です。真似ではないのです。—以上の署名の無いコメントは、124.18.139.184会話/whois)さんが[2007-05-19T13:03:06]に投稿したものです(Thats-youによる付記)。
吉田神社にも確認しましたが、宮中秘策の記述を持ち出して、矛盾点を付くと、しどろもどろになっていました。あげく、宮中秘策の記述がおかしい、徳川家康が見た花火を打ち上げたのは、吉田の人間と主張しました。実際は、外国人が打ち上げたんですけど。自治体の主張する自治体史を、他の史料との照合もなしに、引用したら、自治体によって、どんどん歴史は都合のいいように捏造できることになりますよ。ほとんどの、歴史解説本では自治体史なんて、引用されてないですよ。—以上の署名の無いコメントは、124.18.139.184会話/whois)さんが[2007-05-19T13:28:39]に投稿したものです(Thats-youによる付記)。

そんなに言うのなら、貴方御本人が岡崎市等に説得して、豊橋市や吉田神社に対して訴訟でも起こしたらどうですか?これ以上ここで私達が論じ合っても仕方ありません。一度Wikipedia:コメント依頼で情報をあるだけ求めてみましょうか?あと、くどいようですが署名忘れずに!以前、署名無しで荒らし行為を行い、投稿ブロックを掛けられたユーザーもいるのですよ!--Extasy RYO 2007年5月19日 (土) 07:46 (UTC)[返信]

《お二人へお知らせ》お節介で申し訳ありませんが、124.18.139.184様の署名を現在分まで付記、Ryo Matsuoka様の署名を最新署名「Extasy RYO」に統一致しました。また、議論のスタイルは『Wikipedia:ノートページ#一般的なノートページの書き方とレイアウト』を御参照下さいませ(そのスタイルに直しました、以後は改行を控えめにした方が宜しいかと思います)。コメント依頼が提出されていましたが、何を問題にしているのか、何を解決したいのかを依頼ページにも明確に書いた方が、他の人に親切だと思います。コメント依頼の内容が『日本の花火の最古(発祥)が豊橋か岡崎かで論議中』というのであれば、明確な資料がどちらにも存在するのであれば、出典明記で「豊橋説」「岡崎説」(+、他にもあるのであれば「その他説」)で節を分けたら如何でしょうか。花火以外にも発祥が明確でないものは沢山ありますので(ページ参考では招き猫の発祥とか卑弥呼とか、邪馬台国は何処だったのかとか、食べ物屋さんなんかはあちこちが元祖を名乗っていますし)。論議に発展している以上、どちら様も『Wikipedia:出典を明記する』『Wikipedia:検証可能性+Wikipedia‐ノート:検証可能性』の中身をよく御覧下さい(他、参照にWikipedia:著名性など)。あと、検証・照合をするにあたり、誰にでも検証可能である資料がどちらの説においても、もう何冊か必要かと思います(御二人とも是非、自力で図書館へ)。又、神社に聞いても、市役所に聞いても、ホームページを参照しても(考えようによっては、出版物を参照しても)、時代的に発祥の瞬間・現場を自分の目で見たという人なんて、今現在に生きておられない(筈)ですから、「認める」とか「インチキ」と個人で断言できるだけの明確な答えは出ないと思いますし、間違っていた場合でも、質問に答えた人、ホームページ(個人の作成したものなら、尚更信頼性が薄いので)や本でその文を書いた人を責める事は出来ないと思います。ですので、双方、何冊か検証可能である出版物を明示して、「1+1の答えについては様々な見解があり、○○著の『××(▲▲書房、199X年XX発行)ISBN -XXXXX』では、“1+1は3”と記されており、◆◆著の『++(▼▼社、200X年XX月発行) ISBN -XXXXX』では“1+1は∞”と記されている。又、最近では@大学の☆☆が『第XX回 数学教育論文発表会論文集(日本数学教育学会)』において“1+1はα”という見解を発表した」というような感じで書かれては如何でしょうか。--Thats-you 2007年5月20日 (日) 21:07 (UTC)[返信]


やり直し提案

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私もついつい熱くなってしまい、大変大人気ない書き込みをしてしまったと思います。 このノートページですが、見苦しい文面が残ってしまったので、一度削除依頼を掛けて、もう一度最初からやり直しをしたいと思っているのですが、許可頂けますでしょうか?--Extasy RYO 2007年5月26日 (土) 06:07 (UTC)[返信]

何故、今回のコメント依頼に発展する原因となった花火の論争が起きたのかを皆さんが把握する為にも、今回の件が解決するまで残すべきかと存じます。Extasy RYO様の履歴を拝見するとこのノートに書き込むより先に削除依頼に提出されていますが、「見苦しい文面」と個人的な理由で削除依頼を出しても認められないかと思います。又、削除依頼とユーザーのコメント依頼の出し方が間違っています(依頼ページを作成しないで提出している状態)。方針や手続きを読まずに提出すれば、他の方は読んでくれません。一度Wikipedia:ガイドブックの全体の通読をおすすめします。--Thats-you 2007年5月26日 (土) 21:10 (UTC)[返信]
Extasy RYOさんが追加された削除依頼は依頼ページが作成されないままログに掲載された状態になっていたため、一旦、依頼方法の不備ということでログからは除去させていただきました。(参考 追加された編集除去した編集)また、Thats-youさんも書かれていますが、見苦しくなったというのは削除依頼の理由としては認められないかと思います。『議論が混乱した(見苦しくなった)』という事実も、その後の議論の参考になるものですから。--竹富島 2007年5月30日 (水) 13:41 (UTC)[返信]

豊橋市から、花火が発祥していない動かぬ証拠、見つけました。

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東海道名所図会 1-6 / 秋里舜福編( トウカイドウ メイショ ズエ / アキサト シュンプク ) 成立年 寛政9年刊 (1797) 内容説明 京都より江戸へ至る途中の十州の名所、古蹟、神社、仏閣などの名勝図会。

○吉田 豊川/牛頭天王祠(放花炮 六月十五日祭式)/

まず、吉田神社は、牛頭天王祠と呼ばれています。ほこら、です。やしろ(社)ですらありません。

本人は、天王宮牛頭天王社または、吉田天王社と呼ばれていたと主張しています。

さらに、明治二年(1869)三月、吉田神社と改称したとなっていますが、明治2年の三河国全図;伊那県足助庁(明治2年9月設置)印では、須佐男社になっています。当時の明治政府は、須佐男社としているのです。

次に、天王祭(祇園祭り)ですが、東海道名所図会では、六月十五日祭式、ただこれだけです。どこにも、天王祭(祇園祭り)と記載ありません。

※京都の吉田神社、京都の祇園御霊会、津島天王社と津島天王祭、これらと区別つかなくなりますよね?

それから、手筒花火ですが、放花炮、とあります。手筒、花火の記載ありません。

大辞泉

ほうろく‐びや〔ハウロク‐〕【×炮録火矢/×炮録火×箭】

戦国時代の水軍が用いた火器。火薬をこめた銅製の弾丸を布で包んで漆を塗り、木筒や鋳筒から発射する。

↑瀬戸内の村上水軍発祥です。豊橋じゃありません。


以上、豊橋以外の史料では、すべて否定されています。--124.18.138.187 2007年6月18日 (月) 11:18 (UTC)[返信]

貴重な情報ありがとうございます。疑問がいくつか浮かんだので列挙してみます。まず「東海道名所図会」について、信憑性の通説的判断があるのかどうか、さらに牛頭天王祠の記述についてはどうか、の点です。この点について史料批判が求められるところです。で史料批判を自ら行うことは独自研究になってしまうため、二次文献のほうがいいでしょう。そのてん、上述の自治体史ものは「〜としている」という形の留保条件つきで書くことは可能です。次に祠がどのようなものであったかという点です。道ばたにあるような小ちゃいアレを想像してしまいがちですが、電子辞書(広辞苑)の祠をひくと修行僧が寝泊まりしたとの記述もあります。こんどは当時の祠とは何であったかという話になり、これはこれで大変なことになりそうです。みっつめは、放花炮と手筒花火は異なるものとの前提に立つことが妥当か否かの問題があります。17世紀当時「放花炮」という用語はどのように使われていたか、それは花火と確かに異なるものなのか、そのへんを決定的に示す材料がなければ何ともいいかねます。4つめは炮録火矢についてですが、これは呈示された意図が私には呑み込めませんでした。炮録火矢は瀬戸内だから手筒花火も瀬戸内ということでしょうか。それは飛躍している感があります。
もっとも、私自身も(いま知りうる限りでは)豊橋起源にはいささか懐疑的です。ルーツについては「〜では…と説明している」「〜によれば…という」の形で併記しどちらにも左袒せず、判断は読者にまかせるのがNPOVに適うのではないかと思います。124.18.138.187さんのお話は豊橋を否定するため、Extasy RYOさんをやっつけるためにという目的が前面に出ていて、結果的に材料呈示の効果を薄めてしまうのではないかと危惧します。また、個人サイト内でならともかく、wpで神社の人を貶めるのはいかがなもんでしょうか。「根拠史料に信憑性が全くないし、記述があやふや」というのは個人的感想というものではないでしょうか。--S kitahashi(Plé)2007年6月21日 (木) 20:29 (UTC)[返信]

吉田神社の成り立ちを疑問視される文章がありますが、「豊橋市史」などを見ると、色々な古文書の記述から少なくとも室町初期には「牛頭天王社」(吉田神社の旧称)が有った事が伺えます。 鎌倉や室町時代は、現在の素戔嗚社が有ったとされ、その後に吉田神社と2つに別れたとされます。素戔嗚社は現在も「天王社」と名乗る事もあります。 また、国立国会図書館アーカイブにある「東海道名所図絵」には「放花炮」には、「はなび」とフリガナがあります。この挿絵のお祭りの様子は、現在の豊橋祇園祭りと驚くほど似ています。 滝沢馬琴が1802年に「吉田の今日の花火は天下一」と激賞している事から、それよりかなり以前から花火があった事は間違いなさそうです。 松平忠利が1624年に「忠利日記」で「祇園見物候」とあり、花火かそれ以外の物か分かりませんが、お祭りを見ていた事が伺えます。

硝石さえ入手出来れば、黒色火薬は製造可能です。 長篠の戦い1575年以降は、鉄砲は各武将が用意する事となっていたので、多くの武将は火薬の扱いは出来るはずでした。 関ヶ原(1600年)後に家康に仕えた稲富直家がいたから火薬が使えたとする岡崎発祥説は少し無理があるように思えます。 東西の三河で火薬製造技術があったので、幕府が他の地域に規制したおかげで花火の発展が許されただけです。つまりどちらも規制がかかる前から花火を作っていたと考えるのが自然です。 E Mizuksohi

日本での歴史概要に関し

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日本の花火発祥に関して議論が盛り上がっているよですが、たまたま同じ節となっていたからといって江戸時代以降の歴史を削除したままというのはいかがなものでしょう?議論とは無関係の削除ですので、当該部分を記載した者として記事の復活を希望します--Yonoemon 2007年7月10日 (火) 12:53 (UTC)[返信]

外部リンク

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保護解除後、スパマー[5]の貼った innovative.jpへの外部リンクを除去してください。--fromm 2007年8月2日 (木) 16:34 (UTC)[返信]

訂正依頼

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現在は高岡地区に「済む」長男だけで組織される更進団により伝統が守られている。 -> 現在は高岡地区に「住む」長男だけで組織される更進団により伝統が守られている。

へ訂正をお願いいたします。嫦娥 2007年8月19日 (日) 05:38 (UTC)[返信]

Wikipedia:管理者伝言板#保護ページの編集依頼に依頼しました。近いうちに編集されるのではないかと思います。なお、記事本文からの引用を除去しました。--Bellcricket 2007年8月24日 (金) 09:01 (UTC)[返信]

保護の解除もしくは文章の訂正依頼

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花火大会に向かうにあたって

花火大会は無料で見られる事が多く、ボランティアの力に頼っている事も多いため、感謝をしつつマナーを意識して楽しく見物したい。

  • 混雑する会場で見物する場合、立派な椅子を用いると後方の見物人の視界を遮り、トラブルの素になる。座布団等を用意したい。
  • 雨の場合は傘ではなく雨合羽、花火の屑を避ける場合も傘ではなく防塵メガネ等を用意したい。
  • 場所取りは、人数分以上に広く取り過ぎず、譲り合いで。
  • 混雑した状況では、喫煙も迷惑になる場合が多い。
  • 道路交通が混雑するため、なるべく公共交通機関を利用したい。自家用車で来るとドライバーは飲酒も出来ない。
  • トイレが不足する事が多いため、飲食はペースを考えながら。
  • 宴会をする場合などは、花火会場から離れた場所の方が、花火が遠い点を差し引いても、快適な場合が多い。
  • 人混みで押し合わない、ごみを放置しない。
  • 帰りは騒音に注意して。

という文章ですが、~見物したい。のあとに「当日は浴衣下駄という姿でおしゃれをしている人も多く、普段と違う感覚の人もいるため、お互いにいやな思いや不便な思いにならないよう気をつけたい」と、「露天での飲食は楽しいが、他の人、特に浴衣の人や会場を汚さないように」を入れていただきたいです。--たぬき 2007年8月24日 (金) 06:32 (UTC)[返信]

わかりにくいのでスタイルを修正させていただきました。さて提案についてですが、このレベルの編集は保護解除をしないと無理です。保護ページの編集を依頼できるのは表示不具合などの訂正とガイドラインなどで定められている必要な処理(削除依頼点プレの貼り付けなど)程度なので・・・。--Marine-Blue [ 会話 履歴 ] 2007年8月24日 (金) 08:11 (UTC)[返信]
スタイル修正すみません。私はいま保護を解除したら混乱するのか疑問です。荒らしが出るでしょうか?編集合戦になるでしょうか?
この文章を入れたいのは、保護の直前、これらの文章を考えたことです、記入する直前に保護でがっくりしました。しかも自分としては害とはいえない文であり、ごみは社会問題であること、浴衣の人が多いことは事実として何らかの形で入れられる余地がほしいです。争っている部分とは違う、マナーの問題だからです。改めて保護解除を要求します。--たぬき 2007年8月24日 (金) 08:38 (UTC)[返信]
保護ページの編集依頼の方針に反しているため無理だとは思いますが、訂正に反対です。そもそも「花火大会に向かうにあたって」という項目自体、不要・不適切だと思います。百科事典の記事はマナー云々を説く場所ではありません。--氷鷺 2007年8月24日 (金) 08:44 (UTC)[返信]
それにWP:NOTではウィキペディアはガイドブックではありませんとあります。寧ろ上記のガイドブック的記述を削除すべきと思います。--目蒲東急之介 2007年8月24日 (金) 14:17 (UTC)[返信]
氷鷺さん、目蒲東急之介さんと同じ意見です。上記の記述は全文削除すべきと思います(上記の記述は個人のブログ等で行ってください)。--しいたけ 2007年9月23日 (日) 10:31 (UTC)[返信]

花火大会を分割しませんか・・・

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花火大会を分割したいと思うのですが。。。

実際、僕はログイン前の読む側に立っていたとき花火大会が花火に転送されていて不便でした。

その時は目次があった事も分からなかったですし・・・--おかやま☆りゅうせい [会話][投稿記録]2007年8月28日 (火) 01:07 (UTC)[返信]

賛成。僕もずっと思ってました。--Segadream 2007年8月28日 (火) 01:10 (UTC)[返信]
賛成します。花火大会は行事を表す項目として大切だと思います。花火の項目は歴史と花火の仕組みだけにして、花火大会日本の花火大会一覧を作ったほうがよいと思います。--たぬき 2007年8月28日 (火) 01:21 (UTC)[返信]

線香花火について

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線香花火への曖昧さ回避の部分が増えてきたので、線香花火 (曖昧さ回避)を作成したほうがいいような気がしますがどうでしょうか?--リバイバル1998 2008年10月9日 (木) 16:22 (UTC)[返信]

画像提供依頼

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現在の画像提供依頼の説明文を「打ち上げ花火でもなく、線香花火でもない花火」に変えることを提案します。この画像提供依頼の経緯を時系列でまとめると次のようになります。

本来の依頼元にあたるWikipedia:画像提供依頼/季節で依頼が今も生きているため、当記事の依頼説明文はそちらに合わせるのが妥当と思われます。変更前の「打ち上げ以外の花火(線香花火以外)」でもよいでしょうが、個人的には冒頭の書き方のほうが分かりやすいのではないかと考えます。-- Asanagi 2012年2月6日 (月) 11:10 (UTC)[返信]

「2010年1月11日 (月) 11:52 UTC」版の当事者です。ご提案の文章の方が判りやすいと思うので、「打ち上げ以外の花火(線香花火以外)」という表現を用いた当事者としては、とくに他者の意見を待たずに変更していいのではないかと思います。--NISYAN 2012年2月6日 (月) 16:31 (UTC)[返信]
上記の通り説明文を更新しました。-- Asanagi 2012年2月23日 (木) 13:27 (UTC)[返信]

花火が直接原因の事故

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もう少し増やしたいです。

池田家会話2017年8月19日 (土) 09:55 (UTC)[返信]

歴史の項の整理

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内容についてはともかく、雑多に列挙されており段落も付けられていないため、非常に読みづらいです。せめて時代ごとにでもいいので細分化してほしい。--Pneuma01会話2020年9月4日 (金) 14:02 (UTC)[返信]