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「ノート:福澤諭吉/過去ログ1」の版間の差分

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塾生 (会話 | 投稿記録)
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== 項目「研究史」を建てました ==
== 項目「研究史」を建てました ==
210.198.139.247 さんが2か所に分散して書き込んだ内容を集積しました。重複があるようです。また、「[[安川・平山論争]]」が別途ありますので、詳しい内容は、そちらへ書くべきでしょう。--[[利用者:柴崎力栄|rshiba]] 2009年7月20日 (月) 11:57 (UTC)
210.198.139.247 さんが2か所に分散して書き込んだ内容を集積しました。重複があるようです。また、「[[安川・平山論争]]」が別途ありますので、詳しい内容は、そちらへ書くべきでしょう。--[[利用者:柴崎力栄|rshiba]] 2009年7月20日 (月) 11:57 (UTC)

== 記述の必要性について ==
>>晩年の自伝である『福翁自伝』において、市中の人々が身なりの汚い適塾の塾生を避ける様子について「何か○△でも出て来て夫れを穢(きた)ながるやうだ、如何も仕方がない往来の人から見て○△のやうに思ふ筈だ」と記している。[6] >><BR/>この部分を福澤先生の人物・思想において記述する必要性が認められませんがいかがでしょうか。請意見--塾生 2009年8月1日 (土) 23:40 (UTC)

2009年8月1日 (土) 23:40時点における版

正式名は「福沢諭吉」でなく「福澤諭吉」なので、ページの移動をしました。

「沢」を旧字体にするのなら、「諭」と「吉」も旧字体にすべきでは?

明治の六大教育家とは?

今晩は、「明治の六大教育家に数えられる」と書いてあるのですが、この六人は誰でしょうか。新島襄大隈重信の他は?--テオフィロ 2005年6月28日 (火) 08:55 (UTC)[返信]

後知恵で恐縮ですが、明治六大教育家に詳しいようです。--N.h.n 2007年3月17日 (土) 22:04 (UTC)[返信]

福澤諭吉の思想についての疑問点3つ

疑問点1: “戦後、紙幣に顔が印刷される人物は「民主主義に貢献した日本人」とされてきた。”とありますが、そのような事実を確認できませんでした。(参考:日本銀行券の肖像になった人物

聖徳太子夏目漱石紫式部樋口一葉野口英世二宮尊徳武内宿禰岩倉具視は民主主義とは関係ないと思われます。

逆に、民主主義と関係ありそうなのは、板垣退助高橋是清伊藤博文福沢諭吉新渡戸稲造くらいです。

疑問点2: “福澤は自由民権運動に反対していた。”とありますが、該当するソースを発見できませんでした。 ソースをご存知の方はお知らせして頂けると幸いです。

疑問点3: “日清戦争には賛成しており「北京を陥落させて清朝を滅ぼすべきだ」とも主張していた、”とありますが、これも該当するソースを発見できませんでした。 日清戦争中の『時事新報』社説に当該記事があるのでしょうか? ソースをご存知の方はお知らせして頂けると幸いです。

--Ttwo 2006年11月22日 (水) 06:41 (UTC)[返信]

福沢記事に加筆した者ではないですが、「福沢諭吉は一般に日本の先駆的民主主義者だったと見られています。その肖像が、最高額紙幣一万円札を飾っていることが何よりの証拠です」担当編集者よりの部分と書いている人がいるようですね。該当部分の加筆者はこれを見たのかもしれませんね。--210.132.214.147 2006年11月22日 (水) 07:36 (UTC)[返信]
情報ありがとうございます。
担当編集者の梅田正己氏の紹介文の冒頭に、お知らせして頂いた文章がありました。ただ、一万円札の人物が先駆的民主主義者とすると、聖徳太子はどうなの?とツッコミを入れたくなりますね。
ご紹介して頂いた『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』の目次を見てみると、自由民権運動日清戦争についての考察もあるようなので、疑問点2と3に関連するソースもこの本の中にあるかもしれませんね。--Ttwo 2006年11月22日 (水) 15:50 (UTC)[返信]

疑問点(追加):  思想性と言うよりも、著作権に関した疑問ですが、「福澤と勝海舟」の部分の文章が、 http://seizaikai.exblog.jp/m2006-05-01/ にある部分の文章と酷似しています。 大丈夫でしょうか?--Mike 2008年8月17日(日)17:29 (UTC)--125.201.22.205 2008年8月17日 (日) 08:32 (UTC)[返信]

慶應義塾での呼称について

慶應義塾では福澤が先生と呼ばれ、教員が君で呼ばれるという習慣は、現在ではそうではない場合のほうが多いので訂正すべきです。一般の教員でも先生と呼ばれることが普通です。133.46.41.240 2006年12月21日 (木) 02:54 (UTC)[返信]
本文で言及されている『慶應義塾では福澤が先生と呼ばれ、教員が君で呼ばれるという習慣』は、学生や職員などが教員を(あるいは教員同士で)君づけで呼ぶという意味ではなく、組織としての慶應義塾が教員を指称する場合に「君」を用いている、という意味ではないかと思います。前者の意味での慣習は(教員がいないところでのかる愚痴・冗談は別として)廃れていると思いますが、後者の意味での慣習は現在も廃れてはいないのではないでしょうか。例えば、休講情報を『休講 月曜2限 ○○君』といった具合で掲示板に貼り出しているはずです。より意味の伝わり易い文章に改める必要はあるのかも知れません。Emonue 2007年3月18日 (日) 12:11 (UTC)[返信]

東京学士会院

東京学士会院の長は院長ではなく会長のようですから、訂正しておきますm(_ _)m。--N.h.n 2007年3月17日 (土) 20:43 (UTC)[返信]

中立性

2007年11月17日 (土) から、福澤諭吉に肯定的な文章が削除されて、逆に批判的な文章が追加されたため、内容が中立性に欠けるようになったと思います。とりあえず「観点」テンプレートを貼っておきます。--Ttwo 2007年11月22日 (木) 12:44 (UTC)[返信]

改名提案 by Gamy

項目「研究史」を建てました

210.198.139.247 さんが2か所に分散して書き込んだ内容を集積しました。重複があるようです。また、「安川・平山論争」が別途ありますので、詳しい内容は、そちらへ書くべきでしょう。--rshiba 2009年7月20日 (月) 11:57 (UTC)[返信]

記述の必要性について

>>晩年の自伝である『福翁自伝』において、市中の人々が身なりの汚い適塾の塾生を避ける様子について「何か○△でも出て来て夫れを穢(きた)ながるやうだ、如何も仕方がない往来の人から見て○△のやうに思ふ筈だ」と記している。[6] >>
この部分を福澤先生の人物・思想において記述する必要性が認められませんがいかがでしょうか。請意見--塾生 2009年8月1日 (土) 23:40 (UTC)