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「科挙」の版間の差分

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== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 隋・唐 ===
=== 隋===
科挙は隋の文帝によって始まる。それまで九品官人法は貴族勢力の子弟を再び官僚として登用するための制度と化しており、有能な人材を登用するものと到底言いがたい存在であった。文帝は優秀な人材を集め、自らの権力を確立するため、実力によって官僚を登用するために科挙が始められた。隋より前の[[六朝時代]]は、[[世襲]]の[[貴族 (中国)|貴族]]が、家柄によって官僚になという貴族政治が行われていた。隋代科挙は[[秀才 (科挙)|秀才]]・[[明経]]・[[明法]]・[[明算 (科挙)|明算]]・[[明書]]・[[進士]]六科からり、[[郷試]]・[[省試]]の二段階であった。
科挙は隋の文帝によって始まる。隋より前の[[六朝時代]]には、[[世襲]]の[[貴族 (中国)|貴族]]が、家柄によって官僚になるという貴族政治が行われていた。それまで採用されていた九品官人法は貴族勢力の子弟を再び官僚として登用するための制度と化しており、有能な人材を登用するものと到底言いがたい存在であった。文帝は優秀な人材を集め、自らの権力を確立するため、実力によって官僚を登用するために科挙が始められた。[[九品官人法]]は廃止され地方長官人材を推薦させた上で科挙による試験が行われた。推薦よりも試験結果に重きを置かれ官僚採用が決定されることとなった。


隋代の科挙は、[[秀才 (科挙)|秀才]]・[[明経]]・[[明法]]・[[明算 (科挙)|明算]]・[[明書]]・[[進士]]の六科からなり、[[郷試]]・[[省試]]の二段階であった。隋は二代で滅びるが、科挙はその後、[[唐]]に受け継がれた。
科挙はその後、[[唐]]にも受け継がれ、この時代までは制度の本当の威力は発揮されなかった。何故なら、旧来の貴族層が、科挙の合格者たちを嫌い、なお権力を保ち続けたからである。唐においては、科挙は郷試・試の二段階であった。(貢挙)科が課せられた。それは、「身」「言」「書」「判」と呼ばれる科目ある。「身」とは、統治者としての威厳をもった風貌をいう。「言」とは、方言の影響のない言葉を使えるか、また官僚としての権威をもった下命を属僚に行えるかという点である。「書」は、[[能書家]]かどうか、文字が美しく書けるか、という点であり、「判」は確実無謬な判決を行えるか、法律・制度を正しく理解しているか、ということを問うた。そこには、貴族政治の名残りが色濃く見られる。

=== 唐===
唐では初期に秀才科は廃止され、代わりに進士科が重んじられた。中唐では、進士科は受験者千人に対し、合格者が1~2%、その次に重んじられた明経科では、受験者二千人に対し、合格率10~20%であった。進士科は、当時、士大夫に重んじられた教養である経書、詩賦、策(時事の作文問題)が試験に行われ、合格者は格別に尊重された。進士科合格者は唐代では毎年、30名ほどであった。

最終試験である省試への受験資格を得るために、国子監の管理下にあった六学(国子学、太学、四門学、律学、書学、算学)を卒業するか、地方で行われる郷試に合格する必要があった。省試は吏部の管理下にあったが、[[開元]]24年(736年)に礼部に移された。原則として、毎年、行われており、合格者の再試験である覆試もたびたび実施されている。この時に、不正が発覚し、試験官が左遷させられることもあった。

受験資格は、当時の他の諸国に比べると、広範囲にわたる。しかし、女性、商工業者、俳優、前科者、喪に服しているものなどは受験が許されていなかった。このため、商人の子弟である[[李白]]が科挙を受験できなかったという説がある。

だし、この時代までは制度の本当の威力は発揮されなかった。何故なら、旧来の貴族層が、科挙の合格者たちを嫌い、なお権力を保ち続けたからである。唐においては、科挙は郷試・試の二段階であった。しかし、その省の後、合格者が任官されるために、吏部において、実施される吏部試が行われ、「宏詞」もしくは「抜萃科」が課せられた。それは、「身」「言」「書」「判」と呼ばれる四項審査された。「身」とは、統治者としての威厳をもった風貌をいう。「言」とは、方言の影響のない言葉を使えるか、また官僚としての権威をもった下命を属僚に行えるかという点である。「書」は、[[能書家]]かどうか、文字が美しく書けるか、という点であり、「判」は確実無謬な判決を行えるか、法律・制度を正しく理解しているか、ということを問うた。そこには、貴族政治の名残りが色濃く見られる。

さらに、省試の責任者は、知貢挙といい、その年の進士合格者は、門生と称し、知貢挙を座主とよび、師弟関係を結んだ。これが後の[[朋党]]を生む原因となった。また、人物の評価を考慮した判断が重視されたため、事前運動も盛んに行われ、知貢挙に「行巻」「投巻」という詩文や、再度、「温巻」という詩文が受験者から贈られた。受験者が高官たちにも詩文を贈ることを「求知己」とよばれ、その援助を受けることを「間接」とよばれた。唐代の高官たちは、知貢挙に合格者を公的に推薦することが許され、「公薦」とよばれ、「通榜」という名簿を渡すことも行われている。これは腐敗が入りこむ余地が大きかった。

この問題点については、いずれにしても、宋代に改められることとなった。

なお、唐代では恩陰、任子などとよばれる父の官位に従い、任官される制度もまた、重視され、門閥出身者が優位を占めていた。しかし、中唐以降は、科挙出身者の勢力が拡大し、拮抗しはじめ、次第に科挙出身の官僚が主流を占めることとなった。


=== 宋 ===
=== 宋 ===

2009年10月31日 (土) 11:56時点における版

科挙の合格者発表(放榜)
貢院の号舎

科挙(かきょ、ピン音 kējǔ)とは、中国598年1905年、即ちからの時代まで行われた官僚登用試験[1]である。

概説

科挙

科挙という語は「(試験)目による選」を意味する。選挙とは郷挙里選九品官人法などもそう呼ばれたように、伝統的に官僚へ登用する為の手続きをそう呼んでいる。又、「科目」とは現代の国語数学といった教科ではなく、後述する「進士科」や「明経科」などと呼ばれる受験に必要とされる学識の課程である。 受験者は部屋分けされ、制限時間は特に無く、じっくり解いていいという試験であった。 北宋朝では、これらの科目が進士科一本に絞られたが、以後も科挙と呼ばれる。

朝の楊堅(文帝)により初めて施行されるが、隋からの時代では、貴族として生まれた者たちが高い地位を独占しており、その効力は発揮できていなかった。これが北宋の時代になると、科挙によって登場した官僚たちが新しい支配階級“士大夫”を形成し、政治・社会・文化の大きな変化をもたらしたが、科挙はその最も大きな要因だと言われている。士大夫たちは、科挙によって官僚になる事で地位・名声・権力を得て、それを元にして大きな富を得ていた。

学識のみを合否の基準とする科挙ではあるが、科挙に及第する為には:(1)幼い頃より学問のみに専念できる環境、即ち生業を営まなくても被雇傭者にならなくても生活可能な環境と、(2)学問の為に高名な学者への入門費、当時はまだ高価であった書物の多数の購入費など莫大な費用;これら2点が必要とされた。その為、科挙及第者は大半が富裕階級に限られ、支配階級たる士大夫の再生産の機構としての意味合いも強く持っていた。但し、旧来の貴族が長い家では六朝時代を通じてといった長い期間存在していたのに比べ、士大夫は長い家でも4~5代と短く、科挙に及第できなければ昨日の権門も明日には没落する状態になっていた事は、特筆すべきである。

従って、科挙の競争率は熾烈を極め、時代によって異なるが、約3000倍とも言われている。最終合格者の平均年齢も、時代によって異なるが、約36歳と言われている。及第者数に対して受験者数が増大し、カンニングをする為に、全体にびっしりと詩文の書かれた下着など、科挙の苛酷さを伝える逸話も多い。このような試験偏重主義による弊害もまた大きかった。「ただ読書のみが尊く、それ以外は全て卑しい」(万般皆下品、惟有読書高)という風潮が、科挙が廃止された後の20世紀前半になっても残っていた。科挙官僚は、詩作や作文の知識を持つ事を最大の条件として、経済治山治水など実務や国民生活には無能・無関心である事を自慢する始末であった。こういった風潮による政府の無能力化も、欧米列強の圧力が増すにつれて深刻な問題となって来た。又、太学書院などの学校制度の発達を阻碍した面を持っている事は否めない。これに対しては、王安石などにより改革が試みられた例もあったが、頓挫した。それ以後もこの風潮は収まらず、欧米列強がアジアへ侵略すると、科挙官僚は“マンダリン”と呼ばれる時代遅れの存在となり、清末の1905年光緒31年)に科挙は廃止された。

歴史

科挙は隋の文帝によって始まる。隋より前の六朝時代には、世襲貴族が、家柄によって官僚になるという貴族政治が行われていた。それまで採用されていた九品官人法は貴族勢力の子弟を再び官僚として登用するための制度と化しており、有能な人材を登用するものと到底言いがたい存在であった。文帝は優秀な人材を集め、自らの権力を確立するため、実力によって官僚を登用するために科挙が始められた。九品官人法は廃止され、地方長官が人材を推薦させた上で、科挙による試験が行われた。推薦よりも試験の結果に重きを置かれ、官僚の採用が決定されることとなった。

隋代の科挙は、秀才明経明法明算明書進士の六科からなり、郷試省試の二段階であった。隋は二代で滅びるが、科挙はその後、に受け継がれた。

唐では初期に秀才科は廃止され、代わりに進士科が重んじられた。中唐では、進士科は受験者千人に対し、合格者が1~2%、その次に重んじられた明経科では、受験者二千人に対し、合格率10~20%であった。進士科は、当時、士大夫に重んじられた教養である経書、詩賦、策(時事の作文問題)が試験に行われ、合格者は格別に尊重された。進士科合格者は唐代では毎年、30名ほどであった。

最終試験である省試への受験資格を得るために、国子監の管理下にあった六学(国子学、太学、四門学、律学、書学、算学)を卒業するか、地方で行われる郷試に合格する必要があった。省試は吏部の管理下にあったが、開元24年(736年)に礼部に移された。原則として、毎年、行われており、合格者の再試験である覆試もたびたび実施されている。この時に、不正が発覚し、試験官が左遷させられることもあった。

受験資格は、当時の他の諸国に比べると、広範囲にわたる。しかし、女性、商工業者、俳優、前科者、喪に服しているものなどは受験が許されていなかった。このため、商人の子弟である李白が科挙を受験できなかったという説がある。

ただし、この時代までは制度の本当の威力は発揮されなかった。何故なら、旧来の貴族層が、科挙の合格者たちを嫌い、なお権力を保ち続けたからである。唐においては、科挙は郷試・省試の二段階であった。しかし、その省試の後、合格者が任官されるために、吏部において、実施される吏部試が行われ、「宏詞科」もしくは「抜萃科」が課せられた。それは、「身」「言」「書」「判」と呼ばれる四項で審査された。「身」とは、統治者としての威厳をもった風貌をいう。「言」とは、方言の影響のない言葉を使えるか、また官僚としての権威をもった下命を属僚に行えるかという点である。「書」は、能書家かどうか、文字が美しく書けるか、という点であり、「判」は確実無謬な判決を行えるか、法律・制度を正しく理解しているか、ということを問うた。そこには、貴族政治の名残りが色濃く見られる。

さらに、省試の責任者は、知貢挙といい、その年の進士合格者は、門生と称し、知貢挙を座主とよび、師弟関係を結んだ。これが後の朋党を生む原因となった。また、人物の評価を考慮した判断が重視されたため、事前運動も盛んに行われ、知貢挙に「行巻」「投巻」という詩文や、再度、「温巻」という詩文が受験者から贈られた。受験者が高官たちにも詩文を贈ることを「求知己」とよばれ、その援助を受けることを「間接」とよばれた。唐代の高官たちは、知貢挙に合格者を公的に推薦することが許され、「公薦」とよばれ、「通榜」という名簿を渡すことも行われている。これは腐敗が入りこむ余地が大きかった。

この問題点については、いずれにしても、宋代に改められることとなった。

なお、唐代では恩陰、任子などとよばれる父の官位に従い、任官される制度もまた、重視され、門閥出身者が優位を占めていた。しかし、中唐以降は、科挙出身者の勢力が拡大し、拮抗しはじめ、次第に科挙出身の官僚が主流を占めることとなった。

殿試の様子

しかし、唐が滅んだ後の五代十国時代の戦乱の中で、旧来の貴族層は没落し、権力を握ることはなくなった。更に、北宋代に入ると宋の創始者趙匡胤の文治政策に則り、科挙に合格しなければ権力の有る地位に就くことは不可能になった。これ以降、官僚はほぼ全て科挙合格者で占められるようになった。また、趙匡胤は科挙の最終試験を皇帝自らが行うものと決めた。この試験は殿試と呼ばれる。これによって、科挙に合格した官僚は、皇帝自らが登用したものという感が強まり、皇帝の独裁体制を強めるものとなった。

宋代当初は、受験科目が進士科と諸科に大きく分けられていた。しかし、王安石の行った科挙制度の改革によって、諸科はほぼ廃止されて科目が進士一科に絞られた。本来、進士科は詩文などの才能を問う要素が強かったが、この時より経書歴史政治などに関する論述が中心となった。また、初めて『孟子』が受験必修の書として定められた。

この頃、答案が誰の手により作成されたものかを事前に試験官に分からないように、答案の氏名を糊付して漏洩を防止する糊名法や、記述された答案の筆跡による人物判別を防止するため答案を書き改めた謄録法も出現した。呉自牧著『夢粱録』には、南宋における科挙の実施に関する記事が示されている。

王安石の後、司馬光率いる旧法党が政権を握ると更なる科挙制度の改革が行われた。それは、進士科の中に経義を選択するもの(経義進士)とその代わりに詩賦を選択するもの(詩賦進士)が設けられた。

※ 殿試の魁選に一甲及第した進士を三魁と呼んだ。状元榜眼探花の総称である。

元・明・清

1894年の会試の題目

では一時、科挙が廃止された。これによって、士大夫の立身出世への道は絶たれた。また、読書人階級は乞食の1つ上の階級という地位に置かれた。しかし、元末に科挙は復活した。

明代に入り、科挙は複雑化した。科挙の受験資格が基本的に国立学校の学生に限られたために、科挙を受ける前に、童試(どうし)と呼ばれる国立学校の学生になるための試験を受ける必要があった。

清代に入っても、この制度は続いた。また、挙人履試会試履試といった新たな試験制度が追加されたことで、更に試験の回数が増えて複雑化した。このように科挙の試験形態が一貫して複雑化し続けた背景には、試験者の大幅な増加、豆本の持ち込みや替え玉受験などの不正行為の蔓延ということが挙げられる。しかし、このことは結果的に、そのシステムの複雑化から制度疲労を起こし、優秀な官僚を登用するという科挙の目的を果たせなくなるという事態を招いた。

だが、1840年(道光20年)のアヘン戦争以後、立場が逆転して西洋列強や日本が中国を蚕食するようになると、中国でも近代化が叫ばれるようになっていった。そして遂に、清朝末期の1905年(光緒年)に廃止された。

科挙が、中国社会においては一般常識そのものとされた儒学や文学に関して試験を行っている以上、その合格者は中国社会における常識を備えた人であると見なされており、その試験の正当性を疑う声は少数であった。逆に元初期に科挙が行われなかった最大の理由は、中国以外の地域に広大な領域を持っていた元朝にとって見れば、中国文化は征服先の一文化圏に過ぎないという相対的な見方をしていたからに他ならない。

清朝末期に中国が必要としていた西洋の技術・制度は、いずれも中国社会にはそれまで存在しなかったものばかりであり、そこでの常識だけでは決して理解できるものではなかった。中国が植民地化を避けるために近代化を欲するならば、直接は役に立たない古典の暗記と解釋に偏る科挙は廃止されねばならなかったのである。

太平天国

太平天国も、科挙を行った。特筆すべきは、女子に対して科挙を行ったことである。1851年に行われたこの科挙は「惟女子与小人為難養也」をテーマとした論文を書かせるもので、200人余りが受験した。そして傅善祥状元となった。

試験区分

文科挙

童試

考場の内部
貢院の号舍の模型

童試とは、科挙の受験資格である国立学校の学生になるための試験である。童試を受ける者は、その年齢にかかわりなく、一律に童生(どうせい)、あるいは儒童(じゅどう)と呼ばれた。

童試は3年に一回、旧暦2月に行われ、順に県試府試院試の3つの試験を受ける。県試は、各県の地方官によって行われる。県試に合格したものは、その県を管轄している府の府試を受ける。府試は、各府の地方官によって行われる。さらに府試に合格したものは、皇帝によって中央から派遣された学政による院試を受ける。この院試に受かったものは、晴れて秀才と呼ばれ、国立学校への入学資格を得る。

童試は唐代のころから童子科として存在しており、唐代は10歳以下、宋代は15歳以下が対象となっていたようであり、及第者には解試免除や授位などがなされた。ここで特筆すべきは、南宋の時代に女童子の求試が2度もあったことであり及第者も誕生している。

郷試

童試が国立学校の学生という科挙の受験資格を得る為の試験であるのに対し、郷試は科挙の本試験であり、その第一の関門となる試験であった。尚、郷試を受ける資格を持つ者は挙子と呼ばれた。

郷試は3年に1度、年、年、年、年毎に実施されることが法令で定められていた。其の期日も予め指定されていた。具体的には、8月9日に第1回の試験が始まり、8月12日に第2回の試験が、8月13日に第3回の試験が実施された。第1回の試験では四書題3問と詩題1問の試験が課され、第2回の試験では五経題5問が課され、第3回の試験では策題が課された。尚、此の3年に1度の試験の他に、恩科と呼ばれる臨時の試験が存在した。此れは、宮中に大慶事例えば天子の即位等が発生した際に特別に1回増加された科挙の試験の事である。

試験は各地の貢院で行われた。貢院とは科挙試験を行う為の施設で、各省の省府に常設の建物があった。内部には「号舎」と呼ばれる人が丁度一人入れる位の独房が蜂の巣の如く無数に集まっており、其の一つずつが厩の様な長屋の形状で連続していた。貢院の内部の大通りは「甬道」、小道は「号筒」と呼ばれた。

郷試に受かった者は挙人の称号が与えられ、次の会試を受験する権利が与えられた。

挙人履試

清朝期に新たに加えられた試験区分。事前に志願者の振るい落とし、会試の試験会場である北京貢院の混雑を避けるために設置された。会試の1ヶ月前(2月15日)に行われた。北京近郊の者に対しては、これもまた混雑の防止が目的であるが、前年の郷試の直後の9月に実施された。出題内容は四書題1問、詩題1問。成績は5等に分けられた。1~3等の者は会試を受ける権利を与えられ、4等の者は一定期間会試受験の権利が停止され、5等の者は挙人の資格が剥奪された。なお、会試は天子が行う崇高な行事とされていたので、受験者は公費で北京に赴くことができた。

会試

会試履試

清朝乾隆帝の時代に新たに加えられた試験区分。期日は4月16日、会場は殿試と同じ紫禁城保和殿。試験内容は四書題1、詩題1。学力の再確認、殿試にむけた試験会場の場慣れ、替え玉受験の防止のための本人確認を目的とした殿試の予備試験的なもの。そのため試験はかなり平易なものが作成された。成績は4等に分けられ、1〜3等の者は会試を受ける権利を与えられ、4等の者は一定期間殿試受験の権利が停止された。

殿試

殿試とは、進士に登第(合格)した者が、皇帝臨席の下に受ける試験をいう。既に進士の地位はあるが、この試験により順位を決め、後々の待遇が決まってくる。上位より3名はそれぞれ状元榜眼探花と呼ばれ、官僚としての将来が約束された。古来より「進士は月日をも動かす」と言われ巨大な官僚機構の頂点に立つ進士は一族も含めて多大な栄華を極めたのである。

郷試会試殿試の全ての試験において首席だった者を三元と呼ぶ。これは、各試験での首席合格者を郷試で解元、会試で会元、殿試で状元と呼んだことに由来している。麻雀の役満である大三元は、ここに由来している。

武科挙

武科挙

武科挙とは、科挙の武官登用試験のことを言う。一般的に言われている文官登用試験は文科挙といわれる。武挙、清代には武経と呼ばれた。文科挙と同様に武県試・武府試・武院試・武郷試・武殿試(皇帝の前でおこなわれ学科のみ)の順番で行われ、最終的に合格した者を武進士と呼んだ。試験の内容は馬騎、歩射、地球(武郷試から)と筆記試験(学科試験)が課された。

  • 馬騎 - 乗馬した状態から3本の矢を射る。
  • 歩射 - 50歩離れた所から円形の的に向かって5本の矢を射る。
  • 地球 - 高所にある的を乗馬によって打ち落とす。
  • その他 - 青龍剣の演武や石を持ち上げるなど。

矢の的に当たる本数と持ち上げる物の重さが採点基準となる。学科試験には、武経七書と呼ばれる『孫子』、『呉子』、『司馬法』、『三略』、『李衛公問対』などの兵法書が出題された。しかし、総外れもしくは落馬しない限りは合格だったり、カンニングもかなり試験官から大目に見られたりと文科挙とは違う構造をしていた。また伝統的に武官はかなり軽んじられており、同じ位階でも文官は武官に対する命令権を持っていた。

その他中国の科挙

制科

制科とは、普通の科挙では見つけられない大物を官僚に採用するため、天子の詔で不定期に実施された試験である。隋代から始められ、唐・宋時代にも行われた。清朝の1678年にも行われた記録がある。しかし、乾隆期以後は制科は著しく廃れることとなった。 科挙出身の官僚は制科出身の官僚と派閥争いを行ったが、人数が圧倒的に多い科挙出身の官僚が優位に立った。

外国への影響

ベトナム

ベトナムに於いては李朝の仁宋太寧元年(1075年)に科挙が導入され、中国が廃止した後の1919年まで存続した。ベトナムは世界で最後に科挙制度を廃止した国である。

李朝期に有能な人材を登用する為に科挙制度が導入されたが、李朝期を通じて実施された科挙の回数は4回のみで、採用人数も少なかった事から、李朝期の段階では未だ科挙が大きな影響を与えるには至っていなかったと謂える。その後、陳朝の太宋建中8年に科挙が再開された。その際、国子監が新たに設置され、太学の学生の中から試験に参加し、進士の資格を得る様になった。更に1314年、科挙出身の官僚の登用を拡大する為に正式に進士科が設けられ、より多くの人が科挙に参加できるになった。李朝期に始まったベトナムに於ける科挙制度は、陳朝期に至って広まる事となった。

陳朝滅亡後、1406年(永楽4年)から1532年迄、ベトナムは明朝によって支配された。此のことで、中国の科挙制度が後黎朝期以後のベトナムに於ける科挙制度に大きな影響を与えた。即ち、郷試会試殿試といった三段階の試験、武科挙の実施といった制度が、いずれも後黎朝期に於いてベトナムの科挙にも導入される事となったのである。また、その試験の出題内容も同時期の中国のものと似通っていた。

以上ことから、ベトナムに於ける科挙制度は最も中国の科挙制度と似通ったものであったと謂える。

朝鮮

朝鮮半島の高麗李氏朝鮮でも、中国式の科挙が導入されていた。朝鮮王朝の科挙は、法的には特別な場合ではなければ全ての良民が受験可能だったが、実際では経済的理由で貴族層である両班ではなければ受験が難しかった。朝鮮後期には三代の間に科挙の及第者を輩出しなければ、両班と認められなかった。科挙の実施は礼曹が行い、及第者からの官僚への人選は文官は吏曹が、武官は兵曹が担当する。これは、唐以来の中国の制度を準用したものである。

現在でも、科挙の名残として「高等考試」(日本の国家公務員一種試験に相当)がある。また、全国から受験者が集まるソウル特別市の公務員試験の様子を、かつて科挙受験のために漢陽(現在のソウル)に集まった状況に例えて、ニュース等で「現代版科挙」と言われる場合もある。

日本

日本でも、平安時代に科挙が導入されたが、蔭位の制と呼ばれる例外規定が設けられ、高位の貴族の子弟には自動的に官位が与えられたため、受験者の大半は下級貴族で、合格者は中級貴族に進める程度であった。このため、大貴族と呼ばれる上級貴族層には浸透せず、当時の貴族政治を突き崩すまでには至らなかった。その後、律令制の崩壊とともに廃れ、院政期から官職の世襲制化が進み、基本的に江戸時代まで続く。科挙が日本の歴史に及ぼした影響は少なかった。

しかし、明治政府では、日本にも科挙形式の官僚登用制度が導入された。1894年に始まった高等文官試験(現在の国家公務員一種試験の原型)は科挙を参考にして作られた制度であり、試験科目は儒学ではなく、西洋の近代学問となった。

その他

学問を科す試験によって官僚を登用するという科挙のシステムは、近世ヨーロッパにも紹介され、各国の官僚登用制度の手本となった。

参考文献

岩波書店『宮崎市定全集6 九品官人法』に所収。

※ 以上2冊は、岩波書店『宮崎市定全集15 科挙』に所収。

時代別・地域別の研究

関連項目

脚注

  1. ^ これを官吏登用試験とするのは誤りである。科挙時代の中国においては「官」と「吏(胥吏)」は全く違う存在である。中国の官僚制度を理解する上で「官」と「吏」を混同するのは致命的な誤りを犯す可能性があるので、注意を要する。

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