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旧約聖書(きゅうやくせいしょ)は、ユダヤ教およびキリスト教の正典。また、イスラム教においてもその一部(モーセ五書、詩篇)が啓典とされている。「旧約聖書」という呼称は旧約の成就としての「新約聖書」を持つキリスト教の立場からのもので、ユダヤ教ではこれが唯一の「聖書」である。そのためユダヤ教では旧約聖書とは呼ばれず、ヘブライ語聖書と呼ばれる。その大部分はヘブライ語で記述され、一部にアラム語が用いられている。
上記3宗教の文化圏では近代の考古学によって古代文明の詳細が明らかになるまで、世界最古の文献と信じられてきた。
呼称
『旧約聖書』とは、『新約聖書』の『コリントの信徒への手紙二』3章14節などの「古い契約」という言葉をもとに、2世紀頃からキリスト教徒によって用いられ始めた呼称である。キリスト教側の観点でしかないために最近では『ユダヤ教聖書』、『ヘブライ語聖書』、『ヘブライ語聖典』などと呼ばれることもある。
ユダヤ教においては、トーラー、ネビイーム、ケトゥビームの頭文字、TNKに母音を付した『タナハ』と呼ばれる他、『ミクラー(Miqra):朗誦するもの』と呼ばれることもある。ミクラーはクルアーンと語源を同じくしている[1]。
内容
『旧約聖書』の内容は古代イスラエル人・ユダヤ人の思想活動すべてを網羅するごとく多岐に渡っている。以下に旧約聖書に含まれる文書の概略を記す。
天地創造と部族長の物語
旧約聖書の冒頭が創世記である。その冒頭では神が7日間で世界を創り、楽園に男と女を住まわせたが、彼らが蛇の誘惑によって禁忌を犯したので楽園を追放されたという、神による天地創造と人間の堕落が語られる(創世記1-3)。以下、創世記には最初の殺人であるカインとアベルの兄弟の話(創世記4:1-16)、ノアの箱舟(創世記6:5-9:17)、バベルの塔(創世記11:1-9)などの物語が続いていく。
続いて創世記には、アブラハム・イサク・ヤコブの3代の族長の物語が記されている(創世記12-36)。アブラハムはバビロニアから出発して、カナン(現在のイスラエル/パレスチナ)にやってきた遊牧民の族長であり、神から祝福を受け諸民族の父になるという約束を与えられた(創世記12:2)。イサクはアブラハムの息子であり、彼にも子孫が栄える旨が神から約束されている(創世記26:24)。さらにその息子がヤコブであり、彼と契約を結んだ神はヤコブとその子孫にカナンの土地を与えると約束している。ヤコブはこの契約でイスラエルと改名し、彼の子孫はイスラエル人と呼ばれるようになった(創世記32:29,35:10)。ヤコブは12人の男子および数人の女子をもうけたが、男子それぞれがイスラエル十二氏族の長とされている(創世記29-30)。つまりヤコブがイスラエル/ユダヤ人の始祖である。
創世記には、この族長の3代記に続けてヤコブの末子のヨセフの物語が記されている(創世記37-50)。兄たちに殺されかけてエジプトに奴隷として売り飛ばされながら、夢占いと実力で立身出世してエジプトの宰相にまで登りつめ、飢饉に苦しむようになった父と兄たちをエジプトに呼び寄せて救う話である。創世記では、これらの他に悪徳の町であるソドムとゴモラの滅亡(創世記18:20-19:28)、ヤコブと神の格闘などの話(創世記32:23-33)が有名である。
また創世記には、多くの系図が含まれておりイスラエル周辺部族の縁起等も語られている。
モーセと律法
創世記は以上で終わり、物語は出エジプト記につながっていく。前述のヨセフの時代にエジプトに移住していたイスラエル人達は、王朝が変ったために、やがて迫害されるようになる(出エジプト1:1-14)。そこに、エジプト人として教育を受けたモーセ(出エジプト2:1-10)が、神から召命を受けて立ち上がり(出エジプト3:1-4:17)イスラエル人たちを率いてエジプトを脱出し(出エジプト5:1-15:21)、神が族長ヤコブに約束した「乳と蜜の流れる」カナンの地を目指しながら40年間シナイ半島で放浪する(出エジプト15:22-40:38、民数記)。モーセが数々の奇跡でエジプト王を威嚇し(出エジプト7:8-11:10)、追跡するエジプト軍を逃れるために海を二つに割ってその間を通っていくシーン(出エジプト13:17-30)などは有名であり、映像化もされている。現在も続くユダヤ教の行事、たとえば過越祭/除酵祭、仮庵祭などはこの出エジプトおよび荒野流浪の故事にちなむものとされており、ユダヤ文化の中でも特別で象徴的な位置を占める物語である[2]。
シナイ山でモーセとイスラエル人は神から十戒を授かり(出エジプト20:1-16)、他にも様々な祭儀規定や倫理規定、法律が言い渡される(出エジプト19:1-34:35)。十戒は多神教の禁止や偶像崇拝の禁止に始まり、殺人・姦淫・窃盗を禁止し、父母への敬愛や隣人愛などの倫理を規定するものであるが、この十戒を基にして神はイスラエル人全体と契約を結ぶ。このシナイ山での契約は、ユダヤ教の重要な原点のひとつとされている。「ヤーウェ(ヤハウェ)」という神の名はモーセの召命時に初めて明かされ(出エジプト3:13-15)、モーセ以前には「アブラハムの神」「イサクの神」「ヤコブの神」という呼ばれ方でしか知られていなかった部族の神が、名前を明かした状態で民衆全体と契約を結んだのである。
出エジプト記の他にも民数記、レビ記、申命記には、おびただしい量の法律、倫理規定、禁忌規定、祭祀規定が記されており、これらをまとめて律法(トーラー、原義は「教え」)と呼ぶ。たとえば法律としては「ある人の牛が隣人の牛を突いて死なせた場合、生きている方の牛を売って折半し、死んだほうの牛も折半する」など細かな規定に及んでいる(出エジプト21:35)。倫理規定としては「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19:18)など、禁忌規定としては豚食や鱗のない魚を食べることの禁止(レビ記11章、申命記14章など)であるとか子ヤギの肉を乳で煮てはいけない(申命14:21)だとかの細かな食物規定であり、祭祀については祭壇の寸法までが細かに指示されている(出エジプト25-28章)。民数記、レビ記、申命記は物語よりは律法の記載がほとんどであり、ユダヤ教の伝統では創世記から申命記までの五書全体を律法と呼んでいる。また、これらの律法はモーセが神から伝えられたものであるし、五書自体もモーセ自身が執筆したという聖書自身の記述と伝承があったためにモーセ五書という呼ばれ方がなされていた。イエス・キリストも「モーセの律法」と呼んでいる。[3]
申命記の最後でヨルダン川東岸から約束の地であるカナンを遠く望んだモーセは、そこでヨシュアを後継者に指名して後、モアブの地で没する。
歴史記述
申命記から続けて、ヨシュア記ではヨシュアに率いられたイスラエル人たちによってカナンの諸都市が攻略され、そこに移住していく様子が描かれる。角笛を吹き鳴らすと城壁が崩れ落ちた(ヨシュア記6:20)とされるエリコへの攻略(ヨシュア記2-6)などが有名。
ヨシュアに続いて、デボラ(士師記4-5)、ギデオン(士師記6-8)、サムスン(士師記13-16)といった軍事指導者が続いていくのだが、彼らは士師と称され、部族連合体であったイスラエル人たちの裁判官と軍事指導者の役割を兼ねていた。また、軍事判断によって神の意向を民に伝えていたことから彼らは預言者でもある。これらの士師たちの活躍を描いたのが士師記であり、女性の間諜によって髪を切られて力を失って殺されるサムスンの話などが有名である。
最後の士師がサムエルである。ここで物語はサムエル記に移り、イスラエル部族連合体が王制国家に移行する様子が描かれている。民衆の要求に応えて渋々ながらではあるがサムエルはサウルを王に指名するのである(サムエル上9-10)。
サウルはアンモン人やペリシテ人との戦争に勝つなど功績をあげるが(サムエル上11-14)、アマレク人との戦いで神の意に背いたためにサムエルから遠ざけられた(サムエル上15)。サウルに次いでサムエルから王に指名されるのが羊飼いであったダビデである(サムエル上16:1-13)。サウルとダビデとの確執は詳細に描かれるが(サムエル上16-30)、最後にサウルは戦死して(サムエル上31)、ダビデが王国を継ぐことになる。
ダビデはまず南部のユダの王となり(サムエル下2:1-7)、次いで北部のイスラエルの王となった(サムエル下5:1-5)。そしてエルサレムに遷都し(サムエル下5:6-12)、外敵を破って(サムエル下5:17-25,8:1-14など)、王国を確立して旧約聖書中最大の賛辞を受けている王である。また、詩篇に収められた歌の多くはダビデの作になるものとされており、文武に秀で神に愛でられた王として描かれている。サムエル記はこのダビデ王の治世までを描いており、そこから先は列王記に渡される。なお、キリスト教の旧約聖書でサミュエル記の前に挿入されているルツ記は外国人であったルツがダビデの曽祖父ボアズに嫁ぐ話で、キリストの贖い(買い戻し)の型であるとされる。
王国はダビデの息子のソロモン王の時代に最盛期を迎える。彼はダビデがエルサレムに運び込んだ「契約の箱」を安置するための壮麗な神殿を建築してユダヤ教の中心地としてのエルサレムを確立し、次いで自らのために豪華な宮殿を造営した。旧約聖書ではその富の噂を聞きつけて遠国からの献納が絶えなかったとしている。その中ではシバの女王の来訪などが有名であろう(列王上10章、歴代下9章)。新約聖書の中でも「ソロモン王の栄華」といった言葉が登場する。またソロモンは知恵に優れた者とされており、格言集である箴言はソロモン王に帰せられている。しかし、ソロモンは神殿や宮殿の造営を過酷な課税で賄っていたために、ことに北部の反感を買った(列王上12:4など)。王の死後、北部のイスラエル王国と南部のユダ王国に分裂することになる。
列王記はこの後、南北の王朝史を綴っていくことになる。それによれば、北部のイスラエル王国は短命な王朝が相次ぎ最後にはアッシリアに滅ぼされてしまう。また南部ユダ王国ではダビデ王の血筋が続くものの最後にはバビロニアに滅ぼされ、神殿は破壊されて多数の国民が強制連行されてしまう(バビロン捕囚)。ユダ王国では、宗教改革が行われたことが伝えれており、ヨシア王の時代にモーセの律法が再発見されたという(列王下22章)。
歴代誌はサムエル記と列王記と内容的に重複する歴史書であるが、南王国の立場から書かれていて、北王国については何も書かれていない。
バビロン捕囚での様子は旧約聖書の歴史書には記されず、預言書の中から窺い知るしかない。イザヤ書やエレミヤ書、エゼキエル書がバビロン捕囚の時代に編纂されたと推定されており、流謫の嘆きが語られているし、詩篇の中にも捕囚時代が反映しているとされる歌が収められている(詩篇137:1-6)。また、哀歌はエルサレム陥落を嘆いたとされる歌をまとめたものである。
やがてバビロニアがペルシャに滅ぼされると、ユダヤへの帰還活動が始まる。エズラ記によれば第一次帰還がキュロス王の布告で実施されるのだが、他民族の抵抗により神殿復興は叶わなかった。ダレイオス1世の時代になって神殿建設が許可され、エルサレム神殿は復興する。その後、アルタクセルクセス王の時代に「モーセの律法に詳しい書記官」であるエズラがペルシャ帝国からエルサレムに派遣されて、ペルシャ王の「献酌官」ネヘミヤと共にモーセの律法の復興運動を起こしたことがエズラ記、ネヘミヤ記で描かれている。エズラは外国人との結婚を無効宣告し、ユダヤ人の純化運動を進めた。ここで復興された神殿がハスモン王朝時代に拡張され、イエスの時代に至っている。
キリスト教の旧約聖書にあるエステル記は、この時期にペルシャ王の后になったユダヤ人女性エステルについての挿話である。
以上、旧約聖書における歴史記述を概観したが、王国時代の歴史記述が最も詳しく、バビロン捕囚以後の歴史は断片的にしか語られていない。ヘロドトスの『歴史』で有名なペルシャ戦争も、ユダヤは軍隊の通行路に当たっていたと考えられるが、旧約聖書ではまったく言及されていない。
ユダヤ教文化自体が歴史から預言文学へその興味を移してしまったかのごとく、旧約聖書での歴史記述は途切れることになる。[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。
例外として、正典ではないものの、ヘレニズム時代のマカバイ戦争とハスモン朝の勃興を描いたマカバイ記がある。ペルシャがアレクサンダー大王によって滅ぼされるとユダヤは大王の死後に成立したセレウコス朝の支配下に入るのだが、アンティオコス4世はエルサレム神殿を略奪し、ユダヤ教を迫害したためにハスモン家の主導で反乱が起こる。ユダヤ人はこの反乱によって再独立を果たし、ハスモン王朝が成立するのである。新約聖書に登場するヘロデ大王もハスモン王朝に連なっている。
預言者たちの事跡と預言書
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列王記では王朝史の他に、主に北部イスラエル王国で活躍した預言者たちの様子が描かれている。エリヤ、その弟子であるエリシャ、あるいはアモス、ホセアといった預言者たちは宮廷に属さず、在野にあって神からの言葉を吐き鋭く王政を批判した。預言者たちの批判とは、国家と民衆が神を忘れて偶像崇拝に陥っているとするものである。またミカは南部ユダ王国において神殿が破壊されることを予言した。
そもそも旧約聖書では出エジプト記の時代から、(1)民衆が神を忘れて偶像崇拝に走り、(2)それを神が見て怒るが、(3)義人が神と民衆の間をとりなす、というパターンが繰り返されてきたが、列王記以降の預言者たちの事跡もこれをなぞっている。
旧約聖書の中で三大預言者と呼ばれているのはイザヤ、エレミヤ、エゼキエルであり、ことにイザヤは大部のイザヤ書を残している。
旧約聖書にはこの他に12小預言書として、ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼファニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書などが収められている。
黙示
預言書には、しばしば世界の終末と神による新時代の到来を、特異なビジョンで描き出すことがしばしば行われた。イザヤ書24-27章、34-35章、65-66章、ゼカリヤ書9-14章、ヨエル書などにそういった記述が認められるが、もっとも有名なものはダニエル書である。この黙示の記述は新約聖書の時代にも及んでおり、福音書の中にも終末予言が現れるし(マルコ13章、マタイ24章、ルカ21:5-33)、ヨハネ黙示録なども書かれた。
知恵文学
箴言は教訓集・格言集であり、同時期のオリエント地域にもよく見られた文学形式である。コヘレトの言葉(『伝道の書』ともいう)も格言集であるが、「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」といった厭世的な章句が目立っており、旧約聖書の中でも異色の文書となっている。ヘレニズム文化の影響を強く受けた知識人の作であろうと考えられている。
ヨブ記は理不尽な不幸に見舞われた義人ヨブが、見舞いに来た友人達や神と「義」について議論をするという、思弁性の強い物語である。知恵の書は旧約聖書(ヘブライ語)の正典には含まれない「外典」であり、知恵を擬人化して描く。その他の外典としては、シラ書、バルク書などがある。[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。
詩歌
モーセ五書などには、古い歌に由来すると推定されるものが散見されるが(たとえば、ミリヤムの歌、デボラの歌など)、イスラエル王国時代になると詩篇、雅歌などに多くの詩歌がまとめて編集されるようになった。詩篇はその多くがダビデの作、雅歌はソロモンの作と伝えられているが、実際には様々な著者の作品が時間をかけて編纂されてきたものであろうと批判的な学者は推測している[4]。ユダヤ教・キリスト教の典礼に今も用いられており、ヨーロッパの近代文学にも影響を与えた。なお、雅歌は恋愛歌であり「恋しい方はミラルの匂い袋/私の乳房のあいだで夜を過ごします」「あの人が左の腕をわたしの頭の下に伸べ/右の腕でわたしを抱いてくださればよいのに」「衣を脱いでしまったのに/どうしてまた着られましょう」「秘められたところは丸い杯/かぐわしい酒に満ちている。/腹はゆりに囲まれた小麦の山。/乳房は二匹の小鹿、双子のかもしか。」のように、開放的な描写も多い。しかし、ユダヤ教は伝統的にこれをユダヤ民族に対する神の愛と解釈し、キリスト教は教会に対するキリストの愛と解釈してきた。哀歌はエルサレム陥落と神殿破壊を嘆く歌であり、伝統的にエレミヤの作であるとされている。
内容に対する意義付け
ユダヤ教にとっては(旧約)聖書は唯一の正典であり、現在も行動を律する文字通りの法である。民族の歴史を伝え、イスラエルの地を民族の故地とする精神的な基盤を与え、行為と歴史の両面において文化的な一体性を与える書でもある。
対して、将来にユダヤを復興するメシア王を約束する『旧約聖書』を、キリスト教徒はイエス・キリストの出現を約束する救済史として読む。『旧約聖書』の代名詞にも使われる「律法」はもはやキリスト教徒の戒律ではないが、キリスト教徒にとっては『旧約聖書』の完成がイエス・キリストとその使信であり依然として重要な意義をもっているとされている。
旧約聖書の成立過程
聖書の記述には誤りが無いと信じる福音派は、申命記4:2「私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また減らしてはならない」という記述等から、増補・改訂はなかったとする[5]。
マソラ本文の配列
以下の区分に従い、分類また配列する。詳細は下記の表を参照のこと。
- 律法(トーラー、原義は「教え」)
- 預言者(ネビーイーム)
- 前の預言者
- 後の預言者
- 小預言者
- 諸書(ケスービーム)
- 真理(エメス)
- 巻物(メギロース)
セプトゥアギンタ/ヴルガータの構成
ユダヤ教と若干分類法が異なり、そのため配列も異なっている。「歴史書」はユダヤ教聖書の前の預言者・後の預言者・巻物に対応し、加えてユダヤ教で旧約外典とするものを含む。またユダヤ教で認める書でも「補遺」とされるユダヤ教にない部分をもつものがある。詳しくは下記の表を参照。
(†セプトゥアギンタに含まれない書物、‡ヴルガータに含まれない書物、#正教会で正典扱いではない書物、*カトリック教会で正典扱いではない書物、“”日本ハリストス正教会における名称)
- モーセ五書
- 歴史書
- うち
- 教訓書(知恵書)
- うち
- 預言書
- 大預言書
- うち
- ダニエル書(“ダニイル書”)
- ダニエル書補遺
- アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌(ダニエル書3章)
- スザンナ(ダニエル書13章)
- ベルと竜(ダニエル書14章)
- ダニエル書補遺
- 12小預言書
- 大預言書
諸教派の旧約聖書配列の一覧
この表への注
- プロテスタントの旧約聖書には含まれない。
- カトリックと正教会のエステル記にはプロテスタント版では含めない103節がある。
- カトリックの聖書ではバルク書はエレミヤの手紙という第6章を含む。バルク書はプロテスタントの聖書には含まれない。
- カトリックと正教会ではダニエル書はプロテスタント版にはない3つの章がある。それは「アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌」「スザンナ」「ベルと竜」である。新共同訳聖書ではこれらを「ダニエル書補遺」としている。
- ヴルガータ聖書ではマカバイ書1・2はマラキのあとにおかれている。
- カトリックとプロテスタントの聖書には含まれない。
- オデス書はマナセの祈りを含む。これはカトリックとプロテスタントにはない。
- 正教会の聖書はバルク書とエレミヤの手紙が独立している。
- 正教会は詩篇が1つ多い。この1篇はダビデに帰され、カフィズマには含まれない。
- ユダヤ教(マソラ本文)では1書にかぞえる。
- 正教会の聖書では、カトリックとプロテスタントにはない「結び」がある。
正典化説
『旧約聖書』は断続的かつ長い期間に渡り、立場の異なる多くの人々や学派のようなグループが関わり、何度も大きな増補・改訂・編纂が行われ、その過程はかなり複雑なものであった、と以下の四資料仮説は推測するが、いまだに定説を見ないのが現状である。
四資料仮説
歴史的キリスト教会がモーセを記者であるとしてきたモーセ五書に関しては、それを否定する四資料仮説が19世紀より唱えられリベラル派の旧約聖書学の標準学説として知られている[6]。それによれば、ソロモン王国時代にヤハウェストと呼ばれる個人ないしグループが主に南部の部族に伝わる伝承を基にして「J資料」を書いた。その後、分裂後の北イスラエル王国でエロヒストと呼ばれる個人ないしグループが、「J資料」とは異なる伝承を基にして「E資料」を書き、これらがどこかの時点で編纂されてひとつにまとめられた。おそらくは北イスラエル王国の滅亡時にユダヤ王国へ亡命してきた人々がE資料をユダヤ王国にもたらして、そこでまとめられたのだろう。これを「JE資料」と称する。さらにユダ王国末期に申命記記者と呼ばれる個人ないしグループが主に申命記からヨシュア記以降列王記までの歴史書を書いて付け加えた(これを「D資料」と呼ぶ)。最後にバビロン捕囚期に祭司階級に属する個人もしくはグループが別に保持していた資料を用いて加筆編纂を行った(この加筆部分を「P資料」と呼ぶ)。この仮説によれば、創世記の1章1節から2章3節まではP資料、それ以降から第4章まではJ資料である。また、ノアの箱舟や、出エジプト記の葦の海でもJ資料とP資料が繋ぎ合わされている、とする。
ただし、この四資料仮説はあくまで仮説に過ぎず、細部に至るまで完全に合意されたものではない。J資料などは執筆時期をバビロン捕囚期とする説もあり500年くらい振れ幅がある[7]。それでも、バビロン捕囚期にモーセ五書から列王記までが編纂されたであろうことは学者たちの間でおおよそ合意されており、これに各種の預言書や諸書が時代を経るに従って順々に執筆されて付け加わっていったものと推測される。
なおこれらの仮説は、先にも述べたように福音派は退けているが[8]、近年においては、例えば日本基督教団出版による創世記注解がこの仮説に立たないと明言するなど、プロテスタント主流派(メインライン)においても退けられつつある[9]。
ユダヤ教内での正典化
「モーセ五書」は、紀元前4世紀頃には正典的な権威が与えられていた。「ヨシュア記」「士師記」「サムエル記」「列王記」の4書は、その後まもなく正典的な扱いを受けた。これをユダヤ教では「前の預言書」という。「後の預言書(イザヤ書など預言者の記録)」「諸書(詩歌、知恵文学など)」は、紀元前2世紀頃に正典的な地位が確立され、ユダヤ戦争後にユダヤ教を再編した1世紀の終わりごろのヤムニア会議で正典が確認された。このヘブライ語本文を、8世紀以降、マソラ学者が母音記号等を加えて編集したものがマソラ本文で、全24書である。現在のところ、これを印刷体で出版したBHS(Biblia Hebraica Stuttgartensia、1967/1977年の略)が最も標準的なテキストとして利用されている。
キリスト教内での正典化
これとは別に、紀元前250年頃からギリシア語に翻訳された「七十人訳聖書(セプトゥアギンタ)」があるが、現代残されている複数の写本はその数が一致しているわけではない[10]。パウロを含めたキリスト教徒が日常的に用い、新約聖書に引用されているのも主としてこのギリシア語の七十人訳であり、キリスト教は伝統的にこれを正典として扱ってきたが、外典と正典は区別されていた。マソラ本文系の写本からは失われたと思われる古い形態を残している可能性が認められる点で文献学上にも重要とされている[11]。マソラ本文と七十人訳聖書では構成と配列が異なる。また「七十人訳聖書」に基づいたラテン語訳の「ヴルガータ」では、収められている文書は同じだが、正典を39書としている。
ローマ・カトリック教会が聖書に対する外的権威を教会が付与したとするのに対し、プロテスタント教会は聖書の内的権威を教会が承認したと考えている[12][13]。
東方教会も西方教会も長らくこの七十人訳聖書を旧約聖書の正典と基本的にみなしてきたが、その配列や数え方には一部異なるものがある。また西方教会では正教会が正典とみなす文書の一部を外典とした。
宗教改革によるテキストの見直し
西方教会では16世紀の宗教改革時にプロテスタント教会がウルガータを退け、原語のヘブライ語で書かれた旧約聖書(マソラ本文)を採用することとなった。ローマ・カトリックはこれに対しトリエント公会議(1546年)で、39巻の旧約聖書正典に12巻の「第二正典」を加え、旧約聖書と旧約外典の区別は無視されることになった。[14][15] この結果、西方教会内でもカトリックとプロテスタントでは文書の構成が大きく異なることになった(後掲の一覧を参照のこと)。 プロテスタント諸派が「外典」として排除する書物の一部は、ローマ教会との共同訳であるエキュメニカル派の『新共同訳聖書』では「旧約聖書続編」として扱われている(聖書翻訳あるいは日本語訳聖書も参照のこと)。
翻訳
『旧約聖書』の翻訳は紀元前から行われており、そのような古い翻訳を古代訳という。古代訳は、現存するどのヘブライ語写本よりも古く、当時の解釈だけでなく、テキストそのものを推察する上でも貴重な資料となる。
『旧約聖書』の翻訳で、現在最も古く知られているものはアラム語聖書である。これは捕囚期後、当時のパレスチナで日用語となったアラム語にヘブライ語聖書を翻訳したものである。ついで紀元前4世紀から2世紀までに、ギリシア語への翻訳がアレクサンドリアでなされた。これが「七十人訳聖書(LXX)」である。キリスト教成立後、七十人訳はキリスト教徒の聖書という印象がつよまると、ユダヤ教内部で新たなギリシア語翻訳を求める動きが起き、いくつかのギリシア語翻訳が作られた。またこの時期、シリア語訳の聖書も作られた。
またキリスト教のなかで、主にラテン語を使うグループのためにラテン語訳が作られた。これを「古ラテン語訳」という。ヒエロニムスは、ヘブライ語から翻訳したラテン語翻訳聖書を作り、これがラテン教会では公式の翻訳として認められた。ヒエロニムスの翻訳を「ウルガータ」という。また中世初期にはキュリロスとメトディオスによって教会スラブ語訳が作られた。
また中世盛期から末期にかけて、フランスやドイツなど西ヨーロッパでは近代語訳の『聖書』が作られたが、これは教会で公認されなかったこと、複製の難しさなどからあまり広まらなかった。中世末期から近世初期の主な翻訳者には、ウィクリフ、エラスムス、ルター、カルヴァンなどがある。その後、『聖書』の翻訳は主にプロテスタント圏で盛んになり、その必要に後押しされるように、本文批評の発展に伴う校訂版テキストの整備が進んだ。近代に入ると、カトリックでも『聖書』の読書が奨励されるようになったことに伴い、各国語で翻訳がなされるようになった。
なおユダヤ人は、非キリスト教的な『聖書』翻訳の必要性から、上記とは系統をことにする独自の翻訳『聖書』を持っている。
旧約聖書の歴史的背景
この節では、旧約聖書の歴史的な史実性を否定する立場から記述する。
今日の研究者の多くは旧約聖書の記述がそのまま歴史的事実を示すとは考えていない。旧約聖書は複雑な編纂過程を経ているし、各文書の執筆・編纂時期もよく分からないというのが実情であり、彼らの推定する実際の歴史も合意されていることはさほど多くない。
神話・民話
神話学、民族学、考古学、古代文献学などの見解によれば、創世記などのエピソードの多くには他文化の神話・説話との共通性が見られるという[16]。ことに19世紀になってアッシリア時代の遺跡から出土した粘土板に記述されたギルガメッシュ叙事詩にはノアの箱舟とそっくりの挿話が記載されていたことは有名である。創世記の執筆に当たっては、オリエント地域で共有されていた神話・民話・説話(たとえばシリアのウガリット遺跡から発掘された粘土板文書に記されたウガリット神話)が利用されたものと推測されているが、同時に旧約聖書のオリジナリティも多くの研究者は指摘している。
イスラエル民族の起源
前14世紀頃には「アピル」と呼ばれる集団がパレスチナ(カナン)で略奪行動を行っていたことがエジプトの文書で確認できる。このアピルは、シリアやメソポタミアの文書では「ハピル」ないしは「ハビル」とも呼ばれており、民族名を指すのではなく、奴隷や傭兵にもなった非土着系のアウトロー的な社会階層を指す言葉である。多くの学者がこのアピルとその後のヘブライ人(エジプト語でイブリー)のカナン進出に何らかの関係があったと考えている[17][18]。
紀元前1207年の出来事を記したエジプトの石碑には「イスラエル人」についての言及が認められ、これがイスラエルという部族集団の実在を確認できる最古の文献である[19][20]。この部族集団の出自については不明な点が多い。
紀元前1200年頃というのは丁度「海の民」が南西の海岸平野からシリアやカナン地方に侵入してきた頃であり、それを代表するのが旧約聖書にイスラエル人のライバルとして登場するペリシテ人である。イスラエル人はこれと同時期に山岳地域からカナン地方に進出してきてペリシテ人と衝突を繰り返した[21]。最近の考古学調査では、ガリラヤ山地、中央山岳地帯、南部ユダヤのネゲブ北部などに前1200年頃から居住地域が急増し、西部に勢力を広げていったことが確認されている。この動きの中にイスラエル人たちの部族が含まれていたことは間違いが無い[22]。
この山岳地域の居住者達の出自に関しては様々な説が唱えられている。アブラハムがそうであったように外部からやってきた遊牧民が定住したとする説(しかし、南部メソポタミアからの移住は考えにくいのでメソポタミア北西部からの移住だとする[23])、カナン諸都市の周辺部に居た半遊牧民達が山地に逃れて定住したとする説、カナンの諸都市の奴隷や下層民が都市を逃れて定住したとする説、アラム地方から移住してきたとする説など様々である。おそらくは多様な出自を持つ人々であり、この中からヤハウェ神信仰を共有する部族がまとまってイスラエル部族連合が形成されたのであろうと考えられている[24]。
モーセの事件
モーセのエジプト脱走は多くの研究者によって、前13世紀のエジプト第19王朝ラメセス2世(在位前1279-1213)の時代であると推定されているが、文書資料が豊富なエジプト側には一切の記録が無い。このことから旧約聖書にあるような壮年男子だけで60万人という大規模な脱走事件が起きた(出エジプト12:37、民数記1:46)という訳ではなく、ごく少数者の脱走事件であったのだろうと推定されている[25]。前述のイスラエル部族連合の中に「カリスマ的指導者に率いられてエジプトから脱出してきた」という伝承をもつ部族があって、その伝承が部族連合全体に広がって共有されていったのだろう[26][27]。
さらにエジプト脱出の伝承に、シナイ山における神の顕現に関する伝承が結び付けられて、シナイ山での契約の物語が成立したものと考えられている。このシナイ山は今日、シナイ半島南部のジュペル・ムーサ(標高2244メートル)とされているが、これは紀元4世紀以降にそう看做されるようになっただけであり根拠は無い[28]。
なお、イスラエル人たちが神と結んだ契約については繰り返し語られているが、申命記のそれはアッシリアが属国に結ばせた宗主権条約文と類似の構造を持つことが指摘されている[29]。つまり、大国と属国との契約関係を、イスラエル人は神と自分達との契約に置き換えたのである。
族長物語の背景
アブラハム・イサク・ヤコブの3代の族長にしても、元々は別の部族が保持していた族長伝説が合わせられたと考えられている。アブラハムとイサクの記述には圧倒的に南部ユダ地方に置かれた聖所との関わりが記されているし、ヤコブの記述にはサマリア地方やヨルダン川東岸の聖所が言及されていることから、アブラハムとイサクが南部のユダヤ系、ヤコブが北部やヨルダン川東岸系の部族の族長であったことが推測されるのである[30]。イスラエル部族連合がその結びつきを強固にして、祭祀・伝承・神話を共有していく中で三代の族長の物語が形成されていったのだろうと考えられる。
カナン侵攻
このように成立したイスラエル部族連合は前12世紀頃からカナンの諸都市に敵対的に侵攻あるいは平和的な定住を行ったが、この時期を描くヨシュア記・士師記の記述がどれだけ歴史的事実に基づいているのかは不明である。たとえば、ヨシュアが角笛を吹き鳴らさせると城壁が崩れ落ちたとされるエリコであるが(ヨシュア記6章)、考古学調査によればエリコの城壁は紀元前2300年頃に崩壊しており、イスラエル人のカナン侵攻の時期にはエリコは無人であったと推測する説がある。つまりエリコ攻略は、遺跡を目にしたイスラエル人たちが創作した縁起神話と考えるのである[31]。
旧約聖書では士師が相次いで現れてイスラエル人全体を導いたように描かれている。しかし、記述を詳細に検討していくとデボラのような神の意志を伝えるシャーマン的な女性、特定地域で住民同士の様々な問題の仲裁に当たった小士師、一部部族の軍事的指導者たる大士師など様々な立場の人間が存在し、それらが「イスラエル全体を裁き導くカリスマ的軍事指導者」の系列として後世にまとめられたものと考えられる[32]。
王政の成立
しかし部族ごとの軍事行動は効率が悪く、周辺民族のようにイスラエルも王制化に踏み切って成功する[33]。ことにダビデは政治力を発揮して、南部部族と北部部族の中間に近いエルサレムに首都をおいた。エルサレムは元来モアブ人の都市であり、どの部族の聖所とも無縁だったので中立政策を立てやすかったのである。さらにダビデはヤーウェ宗教の統合の象徴ともいえる「契約の箱」をエルサレムに運んで安置し、エルサレムをヤーウェ宗教の中心地にした[34]。さらにソロモン王は神殿を造営してそれを確固たるものとした。
カナンの地は交通の要衝を占めていたので、ダビデ・ソロモン王朝は交易で富を得たと考えられている。しかし、旧約聖書で繰り返し描かれるソロモンの栄華も、当時の外国の資料で言及しているものは発見されていない[35]。
カナンへの定住と、首都エルサレムの建設は、イスラエル人の文化に大きな変化をもたらしたと考えられる。都市の生活と周辺の地中海文明との接触は、知識階層を生み出し様々な文書が書かれる事になった。旧約聖書に収められた箴言やコヘレトの言葉などの知恵文学の成立にしても、神話や伝承、歴史の編纂、詩篇や雅歌の編纂が始まったのも、都市文化の成立が背景にある。
しかしながら、イスラエル人の神は元来「奴隷の家から解放する神」であり、人間が人間を支配することを認めない神であった[36]。また、モーセの律法はもともと半遊牧生活を前提としたものである。そこに持ち込まれた王政と都市生活はヤーウェの宗教に緊張関係をもたらした。この時代以降、預言者が現れてその時代ごとの王の政治を批判するというパターンが繰り返されることになる。
預言者たちと救済史観
ダビデ・ソロモン王朝は繁栄を極めるが、小作農と地主・貴族階級との分離が進み社会矛盾が噴出するようになった。また、周辺国家との軋轢は継続し、外患は絶えなかった。そのような中で、預言者たちが現れて民に代わって王たちの政治を批判するようになる。また、預言者たちは、カナン土着信仰が持ち込まれることでヤーウェの宗教が冒涜されているとして、鋭い警告を発するようになる。
カナンの土着信仰とは男神バール信仰、女神アシェラ信仰であったり、エル信仰などであるが、これらは農作物の豊穣を約束する神であり、定住して農業と交易で生活するようになったイスラエル人にとっては、ごく自然な混宗であったろうと想像される。イスラエル部族神としてのヤーウェは戦いの神としての性格が強く、豊穣を約束する神では無かったからである。しかし、預言者たちはそうした混宗を認めず、ヤーウェ信仰の純化を厳しく王と民衆に求めた。
預言者たちの活躍にも関わらず、ユダヤ・イスラエル人たちは苦渋の歴史を歩むことになる。紀元前721年に北イスラエル王国はアッシリヤに攻められて滅び、紀元前586年に南ユダ王国はバビロンに征服され、捕囚とされる。そのような苦難の中で、救済史観が形成されて行くことになる。すなわち、イスラエル民族の苦難は神との契約を裏切った結果であり、人々が神との契約に立ち戻ることによってイスラエル民族は救われるとする。
関連項目
脚注
- ^ 山我哲雄著 『聖書時代史 旧約篇』 岩波書店〈岩波現代文庫〉 2003年、ISBN 4-00-600098-7、pp.III-Vなど
- ^ 加藤隆著 『旧約聖書の誕生』 筑摩書房、2008年、ISBN 978-4-480-84717-1、pp.61-64
- ^ 新約聖書、ルカ24:44、ヨハネ7:23
- ^ 詩篇は前300年頃にはおおよそ編纂されていたとされてきたが、今なお定説を見ない。『新版 総説 旧約聖書』 日本キリスト教団出版局、2007年、ISBN 978-4-8184-0637-7、p.427-428 などを参照。
- ^ 尾山令仁『キリスト者の和解と一致』地引網出版
- ^ R.E.フリードマン著(松本英昭訳) 『旧約聖書を推理する』 海青社、1989年、ISBN 4-906165-28-1、序章部で四資料仮説の要約史が読める
- ^ 四資料仮説については、『新版 総説 旧約聖書』 日本キリスト教団出版局、2007年、ISBN 978-4-8184-0637-7、pp.137-141や、W.H.シュミット著(木幡藤子訳) 『旧約聖書入門 上』増補改訂版 教文館、2004年、ISBN 4-7642-7145-1、pp.79-93 などを参照
- ^ ケアンズ『基督教全史』いのちのことば社
- ^ 月本昭男『創世記注解』日本基督教団出版
- ^ ローマ・カトリック教会は旧約聖書の12巻を正典としているが、ヴァチカン写本(AD350年)はマカバイ記1、2を含まず、エズラ記(ギリシア語)を含んでいる。シナイ写本(AD350年)はバルク書を含まず、マカバイ記4を含んでいる。アレクサンドリヤ写本(AD450年)はエズラ記とマカバイ4を含んでいる。尾山令仁『聖書の権威』羊群社
- ^ 秦剛平著 『乗っ取られた聖書』 京都大学学術出版会、2006年、ISBN 4-87698-820-X
- ^ アリスター・マクグラス『キリスト教神学入門』p.224教文館
- ^ 尾山令仁『聖書の権威』羊群社
- ^ A.E.マクグラス著(高柳俊一訳) 『宗教改革の思想』 教文館、2000年、ISBN 4-7642-7194-X p.194
- ^ 尾山令仁『聖書の権威』
- ^ J.G.フレーザー著(江河徹訳) 『旧約聖書のフォークロア』 太陽社〈太陽選書〉、1976年、ASIN B000J9B6LE
- ^ 山我哲雄著 『聖書時代史 旧約篇』 岩波書店〈岩波現代文庫〉 2003年、ISBN 4-00-600098-7、 p.28, pp.40-41
- ^ 加藤隆著 『旧約聖書の誕生』 筑摩書房、2008年、ISBN 978-4-480-84717-1、pp.51-52
- ^ 山我哲雄著 『聖書時代史 旧約篇』 岩波書店〈岩波現代文庫〉 2003年、ISBN 4-00-600098-7、p.42
- ^ P.グルロ著(Z.イェール・河井田研朗共訳) 『聖書入門 その歴史・文学・思想』 中央出版社、1982年、ISBN 4-8056-4714-0、pp.52-53でその記述の日本語訳が読める
- ^ 山我哲雄著 『聖書時代史 旧約篇』 岩波書店〈岩波現代文庫〉 2003年、ISBN 4-00-600098-7、pp.44-46
- ^ 山我哲雄著 『聖書時代史 旧約篇』 岩波書店〈岩波現代文庫〉 2003年、ISBN 4-00-600098-7、pp.49-52
- ^ 山我哲雄著 『聖書時代史 旧約篇』 岩波書店〈岩波現代文庫〉 2003年、ISBN 4-00-600098-7、pp.24-25
- ^ 山我哲雄著 『聖書時代史 旧約篇』 岩波書店〈岩波現代文庫〉 2003年、ISBN 4-00-600098-7、pp.52-55
- ^ 山我哲雄著 『聖書時代史 旧約篇』 岩波書店〈岩波現代文庫〉 2003年、ISBN 4-00-600098-7、pp.29-31
- ^ 山我哲雄著 『聖書時代史 旧約篇』 岩波書店〈岩波現代文庫〉 2003年、ISBN 4-00-600098-7、p.27
- ^ 加藤隆著 『旧約聖書の誕生』 筑摩書房、2008年、ISBN 978-4-480-84717-1、p.90
- ^ 山我哲雄著 『聖書時代史 旧約篇』 岩波書店〈岩波現代文庫〉 2003年、ISBN 4-00-600098-7、pp.35-36
- ^ 『新版 総説 旧約聖書』 日本キリスト教団出版局、2007年、ISBN 978-4-8184-0637-7、p.120-124
- ^ 山我哲雄著 『聖書時代史 旧約篇』 岩波書店〈岩波現代文庫〉 2003年、ISBN 4-00-600098-7、pp.17
- ^ 山我哲雄著 『聖書時代史 旧約篇』 岩波書店〈岩波現代文庫〉 2003年、ISBN 4-00-600098-7、p.37
- ^ 山我哲雄著 『聖書時代史 旧約篇』 岩波書店〈岩波現代文庫〉 2003年、ISBN 4-00-600098-7、pp.58-60
- ^ 山我哲雄著 『聖書時代史 旧約篇』 岩波書店〈岩波現代文庫〉 2003年、ISBN 4-00-600098-7、pp.67-80
- ^ 山我哲雄著 『聖書時代史 旧約篇』 岩波書店〈岩波現代文庫〉 2003年、ISBN 4-00-600098-7、pp.81-83
- ^ 山我哲雄著 『聖書時代史 旧約篇』 岩波書店〈岩波現代文庫〉 2003年、ISBN 4-00-600098-7、p.94
- ^ 山我哲雄著 『聖書時代史 旧約篇』 岩波書店〈岩波現代文庫〉 2003年、ISBN 4-00-600098-7、p.67
参考文献
- 石田友雄・木田献一・左近淑・西村俊昭・野本真也共著 『総説旧約聖書』 日本基督教団出版局、1984年、ISBN 4-8184-2025-5
- E.ヴュルトヴァイン著(鍋谷堯爾・本間敏雄訳) 『旧約聖書の本文研究 「ビブリア・ヘブライカ」入門』 日本基督教団出版局、1997年、ISBN 4-8184-0192-7
- 左近淑著 『旧約聖書緒論講義』 教文館、1998年、ISBN 4-7642-2607-3
- 榊原康夫著 『旧約聖書の写本と翻訳』 いのちのことば社、1972年、ISBN 4-264-00023-8
- 榊原康夫著 『旧約聖書の生い立ちと成立 増補改訂版』 いのちのことば社、1994年、ISBN 4-264-01501-4
- (特に正教会における聖書名につき)コストロマの主教プラトン著・(明治10年)堀江訳・伝教師パウェル松井編集『「正教会入門」 - 正教会と機密 - 』東京復活大聖堂教会…※但し配列・内容には記事内容と相違がある。
外部リンク
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- レニングラード写本 ヘブライ語旧約原典
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- リビングバイブル 日本語版 - 国際聖書協会(International Bible Society : IBS)