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'''クリストファー・ロバート・ヒル'''(Christopher Robert Hill、[[1952年]] - )は[[アメリカ合衆国]]の[[外交官]]である。2005年より2009年まで[[アメリカ合衆国東アジア・太平洋担当国務次官補|東アジア・太平洋担当国務次官補]]・[[北朝鮮核問題]]をめぐる[[六者会合]]のアメリカ首席代表を務め
'''クリストファー・ロバート・ヒル'''(Christopher Robert Hill、[[1952年]] - )は[[アメリカ合衆国]]の[[外交官]]である。[[アメリカ合衆国東アジア・太平洋担当国務次官補|東アジア・太平洋担当国務次官補]]・[[北朝鮮核問題]]をめぐる[[六者会合]]のアメリカ首席代表や駐イラク大使を歴任した<ref>{{cite news |title=U.S. Senate confirms Chris Hill as Iraq envoy |url=http://www.reuters.com/article/politicsNews/idUSTRE53K62R20090421 |publisher=Reuters |date=2009-04-21 |accessdate=2010-10-11 | first=Susan | last=Cornwell}}</ref>。[[2010年]][[9月1日]]から[[デンバー大学]]国際学部長を務めている<ref>{{Cite news|first=Kim|last=DeVigil|url=http://blogs.du.edu/today/news/u.s.-ambassador-to-iraq-christopher-hill-to-head-dus-josef-korbel-school-of-international-studies|title=Ambassador Christopher Hill to head Josef Korbel School of International Studies|work=DU Today|publisher=University of Denver|date=2010-07-01|accessdate=2010-10-11|language=English}}</ref>


==来歴==
==来歴==
===学生時代と平和部隊===
[[:en:Bowdoin College|ボードイン・カレッジ]]で経済学士、1994年に[[:en:Naval War College|米国海軍軍事学校]]で[[修士号]]取得。既婚で、3人の子供を持つ。
父親が[[外交官]]であったため、幼少期から家族と共に世界中を転々とした<ref name=PCOLLittlecompton/>。[[ハイチ]]においてアメリカの外交官が追放された後、一家で[[ロードアイランド州]][[:en:Little Compton, Rhode Island|リトルコンプトン]]に移り住む<ref name=PCOLLittlecompton>[http://www.projo.com/news/content/christopher_hill_04-14-08_9L9N2E2_v18.39d6b02.html The Providence Journal. "He's the voice of America in talks with North Korea" by John Mulligan. April 14, 2008.]</ref> 。ここで[[プロビデンス (ロードアイランド州)|プロビデンス]]の[[:en:Moses Brown School|モーセ・ブラウン・スクール]]を[[1970年]]に卒業し<ref>[http://www.projo.com/news/content/hill_at_moses_brown_06-08-07_A25UHPN.33a3240.html Providence Journal. "Diplomat Hill's job is to solicit trust." June 8, 2007.]</ref>、[[1974年]]には[[:en:Bowdoin College|ボードイン・カレッジ]]で経済学士号を取得した<ref>[http://www.bowdoin.edu/podcasts/ Bowdoin University. "Podcast by Assistant U.S. Secretary of State Christopher R. Hill '74." February 16, 2007.]</ref>。


大学卒業後、アメリカ政府によって運用されている[[ボランティア]]プログラム「[[:en:Peace Corps|平和部隊]]」に参加することを決断した。当時を振り返りヒルは「どこにでもいる学生のように、私は卒業後何をすれば良いのか全く分からなかったので、父の人生よりは少し冒険的なことができるだろうと平和部隊に参加することにしたのです」と語っている<ref name=PCOLLittlecompton/>。
外交官としては、当初[[東ヨーロッパ]]や[[バルカン半島]]などを担当し、後に[[大韓民国]][[大使]]となった。[[1996年]]から[[1999年]]まで駐[[マケドニア共和国]]大使、[[2000年]]から[[2004年]]まで駐[[ポーランド]]大使を務めた。[[ヨーロッパ]]諸言語に通じているといわれる{{要出典|date=2008年7月}}
<ref>http://www.state.gov/r/pa/ei/biog/44553.htm - ポーランド語、セルビア・クロアチア語、マケドニア語を話すとある。</ref>。


平和部隊としては[[カメルーン]]に配属され、[[1974年]]から[[1976年]]までボランティア活動をした<ref name=PCOLPost />。この時の活動についてヒルは、[[外交]]について学ぶ最初のきっかけであったと評価している<ref name=PCOLPost />。活動先は[[信用協同組合]]であった。ここでヒルは[[取締役]]の一人が組合員の預金の60パーセントを[[着服]]していることを発見し、これを[[背任罪|背任行為]]として告発した。しかしヒルは、不正を犯した取締役がすぐに再選出されたことを知る。取締役会は、部族間の利益を注意深く反映することが最も大切であって、経営の善し悪しは問題にされなかったのだ<ref name=PCOLPost />。この出来事を通じて「何かが起こるのには必ず理由があるのであって、その理由を見つけることに最善を尽くすことは当然だ。しかし理由が分かったところで結果を変えられるとは限らない。」という教訓を得たという<ref name=PCOLPost>[http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2005/09/20/AR2005092001426.html Washington Post. "Longtime Statesman Puts Best Face Forward for U.S." by Glenn Kessler. September 21, 2005.]</ref>。
[[2005年]][[4月8日]]に[[アメリカ合衆国東アジア・太平洋担当国務次官補|東アジア・太平洋担当国務次官補]]に就任。[[2009年]][[4月21日]]に退任した。同年[[4月]]、米上院は駐イラク大使に充てる人事を可決し、フセイン政権崩壊後の四人目の駐イラク大使となっが、アラビア語も話さず、中東地域の専門家でもないヒル氏が任命されるのは異例であり、北朝鮮との交渉で多くの譲歩を重ねた事から、共和党の[[ジョン・マケイン]]上院議員らは反対票を投じた。


その後[[1994年]]に[[:en:Naval War College|米国海軍軍事学校]]で[[修士号]]取得<ref name=PCOLState>[http://www.state.gov/r/pa/ei/biog/44553.htm U.S. Department of State. "Biography of Christopher R. Hill, Assistant Secretary, Bureau of East Asian and Pacific Affairs]</ref>。
[[2010年]][[5月15日]]には近く外交官を引退する意向であると報じられた<ref>{{cite news
|url=http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20100515-OYT1T00785.htm
|title=6か国前首席代表のヒル大使、外交官引退へ
|work=YOMIURI ONLINE
|publisher=[[読売新聞]]
|date=2010-05-15
|accessdate=2010-05-16
}}</ref>。


母語である[[英語]]に加え[[ポーランド語]][[セルビア・クロアチア語]][[マケドニア語]]、[[アルバニア語]]を話す<ref name=PCOLState/>。
== 外交 ==
対[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]外交穏健派であり、批判者からはキム・ジョンヒル (Kim Jong Hill) <ref>http://english.chosun.com/w21data/html/news/200805/200805270019.html</ref>、「[[ヒル (動物)|ヒル]]並の脳ミソ」{{要出典|date=2009年2月}}と呼ばれている。


===外交官として===
== ボストン・レッドソックスファン ==
[[アメリカ合衆国国務省]]には[[1977年]]に入省した<ref name=PCOLHerald>[http://peacecorpsonline.org/messages/messages/467/2022892.html The Korea Herald "U.S. envoy ready for challenges." Augusut 14, 2005.]</ref>。その後[[1983年]]から[[1985年]]の間、経済担当官として在[[大韓民国]]アメリカ合衆国大使館に配属された<ref name=PCOLHerald/>。[[2004年]]になって同大使館に[[大使]]として着任した際には「ここには80年代に3年ほど滞在したが、過去の経験に頼りすぎてはいけないと思う。当然、当時の経験に基づいて行動することもあるわけだが、同時に最新の出来事について周りの人が言う事をかなり注意深く聞かないといけないと思う」と述べた<ref name=PCOLHerald/>。
ヒルはアメリカ[[メジャーリーグ]]チームの[[ボストン・レッドソックス]]の大ファンである。


その後、[[1996年]]から[[1999年]]まで駐[[マケドニア]]大使、[[1998年]]から[[1999年]]まで[[コソボ]]特使、[[2000年]]から[[2004年]]まで駐[[ポーランド]]大使、[[2004年]]から[[2005年]]まで駐[[大韓民国]]大使、その後[[アメリカ合衆国東アジア・太平洋担当国務次官補|東アジア・太平洋担当国務次官補]]を務めた<ref name=PCOLState/>。
[[2006年]][[12月13日]]、[[アメリカ合衆国国務省]]での[[北朝鮮核問題]]をめぐる[[六者会合]]に関する記者会見でヒルは、「ところで、今日の[[松坂大輔|マツザカ]]の交渉はどうなったかな。ボストンに向かっているのか?」と突然切り出した。話が脱線していると記者団が釘を刺すと「いや、申し訳ない。でも実に大事な話なんだ」と弁明。球団幹部らとの交渉後、[[松坂大輔]]投手がボストンに向かったことを知ると、「そうか、マツザカはボストンに来るのか! どうもありがとう。大変な[[クリスマス]]プレゼントだ。これでクリスマスに[[北京市|北京]]に行く事も苦にならない。」と話し、六者会合の長期化を気にかける記者団をからかった。'''(ヒルの発言は全て要約)'''


[[アメリカ政治学会]]に[[フェロー]]として在籍中には、[[アメリカ合衆国下院|下院]]議員の[[:en:Stephen J. Solarz|スティーブン・ソラーツ]]事務所にも在籍した<ref name=PCOLState/> 。
また、六者会合最終準備のため2006年12月16日に来日した際、[[成田空港]]に[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]の帽子をかぶって降り立っている。


[[2006年]][[11月]]、[[ジョージ・W・ブッシュ|ブッシュ]]大統領によりキャリア・ミニスターに任命された<ref name=PCOLCareerminister/>。この階級はアメリカの職業外交官の中ではキャリア・アンバサダーに次いで2番目に高い<ref name=PCOLCareerminister>[http://peacecorpsonline.org/messages/messages/467/2068979.html Washington Times. "Embassy Row" by James Morrison. November 2, 2006.]</ref>。
2007年6月20日には[[東京ヤクルトスワローズ]]-[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]の交流戦を観戦に[[明治神宮野球場]]を訪れ、レフトスタンドに陣取って観戦する姿が目撃された。

====ボスニア平和交渉====
[[ボスニア]]和平交渉団の一員として[[バルカン半島]]での紛争問題に取り組んだ。この時、同じく交渉団の一員でヨーロッパ・カナダ担当の国務次官補であったリチャード・ホルブルックの元で働き、[[1995年]]に[[デイトン合意|デイトン和平交渉]]には彼の代理として出席した。

ホルブルックはデイトン和平交渉に関する著書の中でヒルを「論理の組み立てに優れ、恐れを知らない天才」で、かつ「非常な冷静さと非常な情熱を併せ持つ」と評価している。ホルブルックはまた、この冷静さと情熱の組み合わせがもともと素晴らしいヒルの交渉スキルを更に向上させていると分析した<ref name=PCOLPost/>。ヒル本人は、交渉が成功裏に終わったのはボスニア人・セルビア人・クロアチア人は皆、交渉をまとめる意向であったためであると述べている<ref name=PCOLLittlecompton/>。

コソボ特使時代には外交上の失敗を犯した<ref name=PCOLLittlecompton/>。ヒルは「セルビア人がコソボ統治を放棄する準備が出来ていなかっため、NATO軍による爆撃をせざるを得なかった」と述べている<ref name=PCOLLittlecompton/>。この出来事についてヒルは「これは人生にも通じることだが、あらゆる手段が尽きたかどうかを知るためには本当にあらゆることを試してみなければいけない」と述べた<ref name=PCOLLittlecompton/>。

====北朝鮮との交渉====
[[2005年]][[2月14日]]、ヒルは[[北朝鮮]]の[[北朝鮮核問題|核開発問題]]をめぐる[[六者会合]]におけるアメリカ代表派遣団の団長に選出された<ref name=PCOLState/>。

[[2007年]][[6月21日]]、アメリカの高級官僚としては5年ぶりに北朝鮮を訪問し、2日間にわたって滞在した。[[平壌]]到着時には、北朝鮮の核問題交渉担当者であるリ・グンから空港で暖かくもてなしを受けた<ref name=PCOLWashingtonpost />。この時ヒルは「六者会合を進めていくことが我々の目標だ」と述べ<ref name=PCOLWashingtonpost />、続けて「今春に失われた時間を取り戻すためにも、良い議論ができることをの望んでいる。」<ref name=PCOLWashingtonpost />と述べた。この北朝鮮訪問は成功裏に終わった<ref name=PCOLWashingtonpost />。今回の訪問前に一行は東京と韓国を訪問しており、その後小さなジェット機で平壌に向かった<ref name=PCOLWashingtonpost />。国務長官であった[[コンドリーザ・ライス]]がこの訪問について[[同盟国]]である日本と韓国に伝えたのは、ヒルが東京を発つ直前であった<ref name=PCOLWashingtonpost>[http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/06/21/AR2007062100454.html?hpid=topnews Washington Post. "U.S. Official Wraps Up Sudden Visit To N. Korea" by Glenn Kessler. June 22, 2007]</ref>。

[[2007年]][[7月14日]]、北朝鮮は[[寧辺核施設]]を停止したことと、国際査察団を受け入れることを通告した<ref name=PCOLNyt07152007 />。これに対しヒルは、原子炉の停止は初めの一歩に過ぎないと表明した<ref name=PCOLNyt07152007 />。査察団が立ち入りを許されているのは[[寧辺核施設]]に過ぎないため北朝鮮の通告を実際に確認するのは難しいとされた<ref name=PCOLNyt07152007>[http://www.nytimes.com/2007/07/15/world/asia/15nuke.html?ref=world New York Times. "North Koreans say they've Shut Nuclear Reactor" by David E. Sanger. July 15, 2007.]</ref>。

[[2007年]][[9月3日]]、[[ニューヨーク・タイムズ]]はヒルが[[ジュネーブ]]にて北朝鮮側の担当者[[金桂冠]]と二日間にわたり一対一の交渉を行ったと報じた。これによると、北朝鮮は主要な核燃料生産装置を停止し、[[2007年]]末までには核開発プログラムの全体を国際社会に対し明らかにすることに合意したとされる<ref name=PCOLNyt09032007 />。また、原子炉そのものについても[[2007年]]夏には停止することにも合意した<ref name=PCOLNyt09032007 />。ヒルはこの会談について「我々が合意したことの一つは、北朝鮮が核開発プログラムの全てを明らかにし、2007年末までにはそれらを停止することだ」と記者らにコメントした<ref name=PCOLNyt09032007>[http://www.nytimes.com/2007/09/03/world/asia/03nkorea.html?hp New York Times. "Nuclear Pact Broadening, North Korea And U.S. Say" by David E. Sanger. September 3, 2007.]</ref>。

[[2007年]][[12月20日]]、[[韓国日報#コリア・タイムス|コリア・タイムス]]は国務省東アジア・太平洋担当局においてヒルのアドバイザーであったキャサリーン・スティーブンズが次期駐大韓民国大使に内定したと報道した<ref name=PCOLStephens/>。スティーブンズの韓国に対する理解と経験を買ったヒルがこの役職に推薦したと言われている<ref name=PCOLStephens/>。スティーブンズは北朝鮮の核開発を巡る協議の際にヒルのアドバイザーを務めたほか、朝鮮半島の平和条約をめぐる案件も手掛けていたと報道されている<ref name=PCOLStephens>[http://www.koreatimes.co.kr/www/news/nation/2007/12/113_15882.html Korean Times. "US Taps Female Ambassador to Seoul" by Yoon Won-sup. December 20, 2007.]</ref>。

[[2008年]][[1月8日]]、ニューヨーク・タイムズが、北朝鮮が核兵器開発プログラムの概要を明らかにする期限を逃したと報じたことについてヒルは、辛抱強く立ち向かっていくべきだと述べた<ref name=PCOLDeadline/>。ヒルはまた、「北朝鮮は不完全で誤りのある報告を今することはできるだろうが、我々は期限を過ぎたとしても完全な報告をさせるべきだと感じた」とコメントした<ref name=PCOLDeadline>[http://www.nytimes.com/2008/01/08/world/asia/08korea.html?ref=asia New York Times. "North Korea Given Time to Send Data." January 8, 2008.]</ref>。

[[2008年]][[2月7日]]、上院外交委員会において、北朝鮮との交渉は「難しく重要な」局面であると証言した<ref name=PCOLList/>。アメリカ政府は、核開発に関する計画が明らかにされるまでは北朝鮮を[[テロ支援国家]]への指定から解除することを拒否した<ref name=PCOLList/>。この際ヒルは「完全で正しいというのは、文字通り完全で正しいという意味だ。全ての核兵器・計画・物質・施設、そして核拡散活動の全容が含まれなければならない。」と述べた<ref name=PCOLList>[http://washingtontimes.com/apps/pbcs.dll/article?AID=/20080207/FOREIGN/454532536/1003 Washington Times. "Panel told nuke talks at impasse." February 7, 2007.]</ref>。

[[2008年]][[3月2日]]、[[北京]]でインタビューに答え、北朝鮮が完全に核開発計画を中止するならば、ブッシュ政権が終わる前にアメリカと北朝鮮の外交関係を樹立することが可能になると述べた<ref name=PCOLDiploamticrelations/>。ヒルは「核開発を放棄しない限り、外交関係を結ぶことはできないと北朝鮮には伝えてある。放棄が実現すれば、互いの大使館を設置するかどうかとか、これからの事を語ることが可能になる。しかし、核のある北朝鮮と外交関係を結ぶことは、あり得ない」と加えた<ref name=PCOLDiploamticrelations>[http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-norkor4mar04,1,4685659.story LA Times. "U.S. relations with North Korea possible, diplomat says" by Barbara Demick. March 4, 2008.]</ref>。

[[2008年]][[4月11日]]、[[ワシントン・ポスト]]は北朝鮮の核開発に関する暫定的な合意がまとまり、制裁の解除が決まったと報じた<ref name=PCOLPlutonium/>。この合意内容には、北朝鮮が主な核施設の稼働を停止し、[[プルトニウム]]の保有量を完全に公開することなどが含まれている<ref name=PCOLPlutonium/>。交渉団長を務めたヒルは「プルトニウムに焦点を当てたのは、核爆弾に直結する[[ウラン濃縮]]に関する疑惑を解くためである。プルトニウム自体に関して疑いはなく動かぬ証拠を握っている。」と述べた<ref name=PCOLPlutonium>[http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/04/10/AR2008041004082.html Washington Post. "U.S. Ready to Ease Sanctions on N. Korea" by Glenn Kessler. April 11, 2008.]</ref>。

====中国との関係====
ヒルはアメリカ国内ではあまり知名度は高くないが、[[中国]]においては北朝鮮の核開発問題に関する六者会合の特使として有名になった<ref name=PCOLCbsnews />。その理由の一つには、北朝鮮の[[金桂冠]]があまりメディアの前に姿を現さなかったのに対しヒルは毎日、朝晩の記者会見を行ったことと、その気さくなふるまいが挙げられる<ref name=PCOLCbsnews /> 。

六者会合に関しては、米中およびその他の地域に対して実りある成果を得るための門戸を開いたと評価した<ref name=PCOLLittlecompton/>。また、「我々は外交の場で肩と肩を並べて話し合った。中国とこのような交渉をする機会は過去に無かった。いずれ、13億人と共存していく方法を考えなくてはならないが、今回の六者会合は良い先例になったのではないか」と述べた<ref name=PCOLInterview>[http://seattletimes.nwsource.com/html/nationworld/2004357357_hillqaweb18.html Seattle Times. "Q&A: Top U.S. diplomat on N. Korean negotiations, China and the Olympics, and American image" by Kristi Helm. April 21, 2008.]</ref>。

====東アジア地域での評判====
[[ソウル]]滞在中の[[2004年]]には、大ファンである[[ボストン・レッドソックス]]が[[アメリカンリーグ]]のチャンピオンシップで宿敵[[ニューヨーク・ヤンキース]]を破って優勝したことから人生の中で最も幸せな瞬間を過ごしたと言われる。大使としてソウルに着任した際に韓国政府の外交担当者と会談した時も、[[2003年]]当時レッドソックスの抑えピッチャーだった[[金炳賢]]のことを話題にしたという<ref>[http://english.chosun.com/w21data/html/news/200408/200408170030.html Chosun. "New U.S. Ambassador a Frank, Capable Problem Solver" August 17, 2004.]</ref>。日本でもメディアから好印象をもたれた<ref name=PCOLCbsnews />。[[西武ライオンズ]]に所属していた[[松坂大輔]]がレッドソックスと契約を結んだ時、東京での会談の際にライオンズの野球帽を被って現れた<ref name=PCOLCbsnews>[http://www.cbsnews.com/stories/2007/02/13/world/main2468358.shtml CBS News. "Quiet Diplomat Is Now A Celebrity In China." February 13, 2007.]</ref>。

====ニュージーランドとの関係====
[[2006年]][[5月]]、[[ニュージーランド]]で[[1985年]]に制定された非核化政策について「過去の遺物」と述べ、アメリカ側はニュージーランドとより踏み込んだ防衛同盟関係を築きたいという考えを示した、またニュージーランドの[[アフガニスタン]]と[[イラク]]における復興支援について称賛した。非核化政策によりニュージーランドが核燃料を搭載したアメリカの戦艦の寄港を拒否していることについては「我々は、核問題に関して互いの考えを変えようとするよりは、互いに納得できることに集中するべきではないか」と述べ、、再度寄港を要求することはしない考えを示した<ref>[http://www.wsws.org/articles/2006/may2006/newz-m18.shtml World Socialist Web Site. "US offers closer defence links with New Zealand" by John Braddock. 18 May 2006]</ref>。

====イラク大使として====
[[2009年]][[3月11日]]、[[バラク・オバマ]]米大統領により駐イラク大使へ任命される。[[サム・ブラウンバック]]、[[ジョン・マケイン]]や[[:en:Lindsey Graham|リンジー・グラハム]]ら[[共和党]]所属議員からの反対に遭うも、[[4月20日]]に賛成73票、反対23票で派遣が決定した<ref>http://www.senate.gov/legislative/LIS/roll_call_lists/roll_call_vote_cfm.cfm?congress=111&session=1&vote=00159</ref>。

==受賞歴==
コソボ危機での和平交渉にの成果から、ロバート・C・フレジャー賞を受賞した<ref name=PCOLState/>。この賞は、ボスニアで命を落としたアメリカの外交官であるロバート・C・フレジャーの名にちなんでいる。

[[マケドニア]]政府からは駐マケドニア大使時代、マケドニアと米国の関係を深めた功績から名誉市民の称号を授与された。

[[2008年]][[2月]]には、パシフィック・センチュリー・インスティテューションが「ビルディング・ブリッジ賞」を授与した。この賞は、アメリカ地域とアジア地域の人々の関係を促進し、同インスティテューションが目標とする「よりよい未来への懸け橋」となった人を顕彰するために設けられている。

==私生活==
3人の子供を持つ<ref name=PCOLUsembassy>[http://seoul.usembassy.gov/april_7_2005.html Embassy of the United States, Seoul, Korea "Ambassador Christopher R. Hill To Be Sworn in as Assistant Secretary of State for East Asian and Pacific Affairs."]</ref>。

==著書==
* "The geopolitical implications of enlargement". In Jan Zielonka (ed.), ''Europe unbound—Enlarging and reshaping the boundaries of the European Union''. (Routledge, 2002). ISBN 978-0-41-528253-6.


==脚注==
==脚注==
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{{commonscat|Christopher R. Hill}}
* [http://www.state.gov/r/pa/ei/biog/44553.htm United States Department of State - Biograohy of Christopher R. Hill] - 国務省ウェブサイトによる紹介{{En icon}}
* [http://www.state.gov/r/pa/ei/biog/44553.htm United States Department of State - Biograohy of Christopher R. Hill] - 国務省ウェブサイトによる紹介{{En icon}}
*[http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2005/09/20/AR2005092001426.html Washington Post Profile] - ワシントン・ポストによる紹介{{En icon}}

*[http://chicagosociety.uchicago.edu/china/coverage.htm Speech at the University of Chicago in April 2006] - [[シカゴ大学]]において行った「中国と世界の未来」と題する講演録{{En icon}}
* "[http://www.peacecorps.gov/index.cfm?shell=learn.whatispc.notable.forserv Notable Former Volunteers / Foreign Service]". - 平和部隊の公式サイトによる紹介{{En icon}}
*[http://peacecorpsonline.org/messages/messages/467/2033043.html Peace Corps Biography of Christopher R. Hill] - 平和部隊公式サイトによる略歴
*[http://www.hlrecord.org/2.4463/asst-secretary-of-state-optimistic-on-north-korea-1.577319 Hill reviews Six-party talk strategy, expresses optimism for the future of negotiations with North Korea] - ハーバード・ロー・レビューに掲載されたヒルの論文{{En icon}}
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2010年10月12日 (火) 07:23時点における版

クリストファー・ヒル

クリストファー・ロバート・ヒル(Christopher Robert Hill、1952年 - )はアメリカ合衆国外交官である。東アジア・太平洋担当国務次官補北朝鮮核問題をめぐる六者会合のアメリカ首席代表や駐イラク大使を歴任した[1]2010年9月1日からデンバー大学国際学部長を務めている[2]

来歴

学生時代と平和部隊

父親が外交官であったため、幼少期から家族と共に世界中を転々とした[3]ハイチにおいてアメリカの外交官が追放された後、一家でロードアイランド州リトルコンプトンに移り住む[3] 。ここでプロビデンスモーセ・ブラウン・スクール1970年に卒業し[4]1974年にはボードイン・カレッジで経済学士号を取得した[5]

大学卒業後、アメリカ政府によって運用されているボランティアプログラム「平和部隊」に参加することを決断した。当時を振り返りヒルは「どこにでもいる学生のように、私は卒業後何をすれば良いのか全く分からなかったので、父の人生よりは少し冒険的なことができるだろうと平和部隊に参加することにしたのです」と語っている[3]

平和部隊としてはカメルーンに配属され、1974年から1976年までボランティア活動をした[6]。この時の活動についてヒルは、外交について学ぶ最初のきっかけであったと評価している[6]。活動先は信用協同組合であった。ここでヒルは取締役の一人が組合員の預金の60パーセントを着服していることを発見し、これを背任行為として告発した。しかしヒルは、不正を犯した取締役がすぐに再選出されたことを知る。取締役会は、部族間の利益を注意深く反映することが最も大切であって、経営の善し悪しは問題にされなかったのだ[6]。この出来事を通じて「何かが起こるのには必ず理由があるのであって、その理由を見つけることに最善を尽くすことは当然だ。しかし理由が分かったところで結果を変えられるとは限らない。」という教訓を得たという[6]

その後1994年米国海軍軍事学校修士号取得[7]

母語である英語に加えポーランド語セルビア・クロアチア語マケドニア語アルバニア語を話す[7]

外交官として

アメリカ合衆国国務省には1977年に入省した[8]。その後1983年から1985年の間、経済担当官として在大韓民国アメリカ合衆国大使館に配属された[8]2004年になって同大使館に大使として着任した際には「ここには80年代に3年ほど滞在したが、過去の経験に頼りすぎてはいけないと思う。当然、当時の経験に基づいて行動することもあるわけだが、同時に最新の出来事について周りの人が言う事をかなり注意深く聞かないといけないと思う」と述べた[8]

その後、1996年から1999年まで駐マケドニア大使、1998年から1999年までコソボ特使、2000年から2004年まで駐ポーランド大使、2004年から2005年まで駐大韓民国大使、その後東アジア・太平洋担当国務次官補を務めた[7]

アメリカ政治学会フェローとして在籍中には、下院議員のスティーブン・ソラーツ事務所にも在籍した[7]

2006年11月ブッシュ大統領によりキャリア・ミニスターに任命された[9]。この階級はアメリカの職業外交官の中ではキャリア・アンバサダーに次いで2番目に高い[9]

ボスニア平和交渉

ボスニア和平交渉団の一員としてバルカン半島での紛争問題に取り組んだ。この時、同じく交渉団の一員でヨーロッパ・カナダ担当の国務次官補であったリチャード・ホルブルックの元で働き、1995年デイトン和平交渉には彼の代理として出席した。

ホルブルックはデイトン和平交渉に関する著書の中でヒルを「論理の組み立てに優れ、恐れを知らない天才」で、かつ「非常な冷静さと非常な情熱を併せ持つ」と評価している。ホルブルックはまた、この冷静さと情熱の組み合わせがもともと素晴らしいヒルの交渉スキルを更に向上させていると分析した[6]。ヒル本人は、交渉が成功裏に終わったのはボスニア人・セルビア人・クロアチア人は皆、交渉をまとめる意向であったためであると述べている[3]

コソボ特使時代には外交上の失敗を犯した[3]。ヒルは「セルビア人がコソボ統治を放棄する準備が出来ていなかっため、NATO軍による爆撃をせざるを得なかった」と述べている[3]。この出来事についてヒルは「これは人生にも通じることだが、あらゆる手段が尽きたかどうかを知るためには本当にあらゆることを試してみなければいけない」と述べた[3]

北朝鮮との交渉

2005年2月14日、ヒルは北朝鮮核開発問題をめぐる六者会合におけるアメリカ代表派遣団の団長に選出された[7]

2007年6月21日、アメリカの高級官僚としては5年ぶりに北朝鮮を訪問し、2日間にわたって滞在した。平壌到着時には、北朝鮮の核問題交渉担当者であるリ・グンから空港で暖かくもてなしを受けた[10]。この時ヒルは「六者会合を進めていくことが我々の目標だ」と述べ[10]、続けて「今春に失われた時間を取り戻すためにも、良い議論ができることをの望んでいる。」[10]と述べた。この北朝鮮訪問は成功裏に終わった[10]。今回の訪問前に一行は東京と韓国を訪問しており、その後小さなジェット機で平壌に向かった[10]。国務長官であったコンドリーザ・ライスがこの訪問について同盟国である日本と韓国に伝えたのは、ヒルが東京を発つ直前であった[10]

2007年7月14日、北朝鮮は寧辺核施設を停止したことと、国際査察団を受け入れることを通告した[11]。これに対しヒルは、原子炉の停止は初めの一歩に過ぎないと表明した[11]。査察団が立ち入りを許されているのは寧辺核施設に過ぎないため北朝鮮の通告を実際に確認するのは難しいとされた[11]

2007年9月3日ニューヨーク・タイムズはヒルがジュネーブにて北朝鮮側の担当者金桂冠と二日間にわたり一対一の交渉を行ったと報じた。これによると、北朝鮮は主要な核燃料生産装置を停止し、2007年末までには核開発プログラムの全体を国際社会に対し明らかにすることに合意したとされる[12]。また、原子炉そのものについても2007年夏には停止することにも合意した[12]。ヒルはこの会談について「我々が合意したことの一つは、北朝鮮が核開発プログラムの全てを明らかにし、2007年末までにはそれらを停止することだ」と記者らにコメントした[12]

2007年12月20日コリア・タイムスは国務省東アジア・太平洋担当局においてヒルのアドバイザーであったキャサリーン・スティーブンズが次期駐大韓民国大使に内定したと報道した[13]。スティーブンズの韓国に対する理解と経験を買ったヒルがこの役職に推薦したと言われている[13]。スティーブンズは北朝鮮の核開発を巡る協議の際にヒルのアドバイザーを務めたほか、朝鮮半島の平和条約をめぐる案件も手掛けていたと報道されている[13]

2008年1月8日、ニューヨーク・タイムズが、北朝鮮が核兵器開発プログラムの概要を明らかにする期限を逃したと報じたことについてヒルは、辛抱強く立ち向かっていくべきだと述べた[14]。ヒルはまた、「北朝鮮は不完全で誤りのある報告を今することはできるだろうが、我々は期限を過ぎたとしても完全な報告をさせるべきだと感じた」とコメントした[14]

2008年2月7日、上院外交委員会において、北朝鮮との交渉は「難しく重要な」局面であると証言した[15]。アメリカ政府は、核開発に関する計画が明らかにされるまでは北朝鮮をテロ支援国家への指定から解除することを拒否した[15]。この際ヒルは「完全で正しいというのは、文字通り完全で正しいという意味だ。全ての核兵器・計画・物質・施設、そして核拡散活動の全容が含まれなければならない。」と述べた[15]

2008年3月2日北京でインタビューに答え、北朝鮮が完全に核開発計画を中止するならば、ブッシュ政権が終わる前にアメリカと北朝鮮の外交関係を樹立することが可能になると述べた[16]。ヒルは「核開発を放棄しない限り、外交関係を結ぶことはできないと北朝鮮には伝えてある。放棄が実現すれば、互いの大使館を設置するかどうかとか、これからの事を語ることが可能になる。しかし、核のある北朝鮮と外交関係を結ぶことは、あり得ない」と加えた[16]

2008年4月11日ワシントン・ポストは北朝鮮の核開発に関する暫定的な合意がまとまり、制裁の解除が決まったと報じた[17]。この合意内容には、北朝鮮が主な核施設の稼働を停止し、プルトニウムの保有量を完全に公開することなどが含まれている[17]。交渉団長を務めたヒルは「プルトニウムに焦点を当てたのは、核爆弾に直結するウラン濃縮に関する疑惑を解くためである。プルトニウム自体に関して疑いはなく動かぬ証拠を握っている。」と述べた[17]

中国との関係

ヒルはアメリカ国内ではあまり知名度は高くないが、中国においては北朝鮮の核開発問題に関する六者会合の特使として有名になった[18]。その理由の一つには、北朝鮮の金桂冠があまりメディアの前に姿を現さなかったのに対しヒルは毎日、朝晩の記者会見を行ったことと、その気さくなふるまいが挙げられる[18]

六者会合に関しては、米中およびその他の地域に対して実りある成果を得るための門戸を開いたと評価した[3]。また、「我々は外交の場で肩と肩を並べて話し合った。中国とこのような交渉をする機会は過去に無かった。いずれ、13億人と共存していく方法を考えなくてはならないが、今回の六者会合は良い先例になったのではないか」と述べた[19]

東アジア地域での評判

ソウル滞在中の2004年には、大ファンであるボストン・レッドソックスアメリカンリーグのチャンピオンシップで宿敵ニューヨーク・ヤンキースを破って優勝したことから人生の中で最も幸せな瞬間を過ごしたと言われる。大使としてソウルに着任した際に韓国政府の外交担当者と会談した時も、2003年当時レッドソックスの抑えピッチャーだった金炳賢のことを話題にしたという[20]。日本でもメディアから好印象をもたれた[18]西武ライオンズに所属していた松坂大輔がレッドソックスと契約を結んだ時、東京での会談の際にライオンズの野球帽を被って現れた[18]

ニュージーランドとの関係

2006年5月ニュージーランド1985年に制定された非核化政策について「過去の遺物」と述べ、アメリカ側はニュージーランドとより踏み込んだ防衛同盟関係を築きたいという考えを示した、またニュージーランドのアフガニスタンイラクにおける復興支援について称賛した。非核化政策によりニュージーランドが核燃料を搭載したアメリカの戦艦の寄港を拒否していることについては「我々は、核問題に関して互いの考えを変えようとするよりは、互いに納得できることに集中するべきではないか」と述べ、、再度寄港を要求することはしない考えを示した[21]

イラク大使として

2009年3月11日バラク・オバマ米大統領により駐イラク大使へ任命される。サム・ブラウンバックジョン・マケインリンジー・グラハム共和党所属議員からの反対に遭うも、4月20日に賛成73票、反対23票で派遣が決定した[22]

受賞歴

コソボ危機での和平交渉にの成果から、ロバート・C・フレジャー賞を受賞した[7]。この賞は、ボスニアで命を落としたアメリカの外交官であるロバート・C・フレジャーの名にちなんでいる。

マケドニア政府からは駐マケドニア大使時代、マケドニアと米国の関係を深めた功績から名誉市民の称号を授与された。

2008年2月には、パシフィック・センチュリー・インスティテューションが「ビルディング・ブリッジ賞」を授与した。この賞は、アメリカ地域とアジア地域の人々の関係を促進し、同インスティテューションが目標とする「よりよい未来への懸け橋」となった人を顕彰するために設けられている。

私生活

3人の子供を持つ[23]

著書

  • "The geopolitical implications of enlargement". In Jan Zielonka (ed.), Europe unbound—Enlarging and reshaping the boundaries of the European Union. (Routledge, 2002). ISBN 978-0-41-528253-6.

脚注

  1. ^ Cornwell, Susan (2009年4月21日). “U.S. Senate confirms Chris Hill as Iraq envoy”. Reuters. http://www.reuters.com/article/politicsNews/idUSTRE53K62R20090421 2010年10月11日閲覧。 
  2. ^ DeVigil, Kim (2010年7月1日). “Ambassador Christopher Hill to head Josef Korbel School of International Studies” (English). DU Today (University of Denver). http://blogs.du.edu/today/news/u.s.-ambassador-to-iraq-christopher-hill-to-head-dus-josef-korbel-school-of-international-studies 2010年10月11日閲覧。 
  3. ^ a b c d e f g h The Providence Journal. "He's the voice of America in talks with North Korea" by John Mulligan. April 14, 2008.
  4. ^ Providence Journal. "Diplomat Hill's job is to solicit trust." June 8, 2007.
  5. ^ Bowdoin University. "Podcast by Assistant U.S. Secretary of State Christopher R. Hill '74." February 16, 2007.
  6. ^ a b c d e Washington Post. "Longtime Statesman Puts Best Face Forward for U.S." by Glenn Kessler. September 21, 2005.
  7. ^ a b c d e f U.S. Department of State. "Biography of Christopher R. Hill, Assistant Secretary, Bureau of East Asian and Pacific Affairs
  8. ^ a b c The Korea Herald "U.S. envoy ready for challenges." Augusut 14, 2005.
  9. ^ a b Washington Times. "Embassy Row" by James Morrison. November 2, 2006.
  10. ^ a b c d e f Washington Post. "U.S. Official Wraps Up Sudden Visit To N. Korea" by Glenn Kessler. June 22, 2007
  11. ^ a b c New York Times. "North Koreans say they've Shut Nuclear Reactor" by David E. Sanger. July 15, 2007.
  12. ^ a b c New York Times. "Nuclear Pact Broadening, North Korea And U.S. Say" by David E. Sanger. September 3, 2007.
  13. ^ a b c Korean Times. "US Taps Female Ambassador to Seoul" by Yoon Won-sup. December 20, 2007.
  14. ^ a b New York Times. "North Korea Given Time to Send Data." January 8, 2008.
  15. ^ a b c Washington Times. "Panel told nuke talks at impasse." February 7, 2007.
  16. ^ a b LA Times. "U.S. relations with North Korea possible, diplomat says" by Barbara Demick. March 4, 2008.
  17. ^ a b c Washington Post. "U.S. Ready to Ease Sanctions on N. Korea" by Glenn Kessler. April 11, 2008.
  18. ^ a b c d CBS News. "Quiet Diplomat Is Now A Celebrity In China." February 13, 2007.
  19. ^ Seattle Times. "Q&A: Top U.S. diplomat on N. Korean negotiations, China and the Olympics, and American image" by Kristi Helm. April 21, 2008.
  20. ^ Chosun. "New U.S. Ambassador a Frank, Capable Problem Solver" August 17, 2004.
  21. ^ World Socialist Web Site. "US offers closer defence links with New Zealand" by John Braddock. 18 May 2006
  22. ^ http://www.senate.gov/legislative/LIS/roll_call_lists/roll_call_vote_cfm.cfm?congress=111&session=1&vote=00159
  23. ^ Embassy of the United States, Seoul, Korea "Ambassador Christopher R. Hill To Be Sworn in as Assistant Secretary of State for East Asian and Pacific Affairs."

外部リンク

公職
先代
ジェイムズ・アンドリュー・ケリー
アメリカ合衆国東アジア・太平洋担当国務次官補
第22代:2005年4月8日 - 2009年4月21日
次代
カート・キャンベル
外交職
先代
ロバート・ノーマン
在マケドニアアメリカ合衆国特命全権大使
1996年7月29日 - 1999年8月2日
次代
マイケル・アイニック
先代
ダニエル・フリード  (en
在ポーランドアメリカ合衆国特命全権大使
2000年7月27日 - 2004年4月14日
次代
ヴィクター・ヘンダーソン・アッシュ  (en
先代
トマス・ハバード  (en
在韓国アメリカ合衆国特命全権大使
2004年9月1日 - 2005年4月12日
次代
アレクサンダー・バーシュボウ  (en
先代
ライアン・クロッカー  (en
在イラクアメリカ合衆国特命全権大使
2009年4月 - 2010年8月
次代
ジェームズ・ジェフリー (en