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3名は戦死後それぞれ[[殉職#二階級特進|二階級特進]]して、陸軍[[伍長]]となる。事件の直後2月24日には『東京朝日新聞』で「「帝国万歳」と叫んで吾身は木端微塵」、25日に『西部毎日新聞』で「忠烈まさに粉骨砕身」、『大阪朝日新聞』で「葉隠れ主義の露堂々」など、美談として広く報道され反響をよび、壮烈無比の勇士としてその武功を称えられた。軍国熱も高まり映画や歌にもなり、陸軍始まって以来ともいわれる[[弔慰金]]が集まった。 |
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しかし、'''導火線を短く切断し、予め導火線に点火して突入したところ、3人の先頭に立った北川丞が撃たれ、3人とも倒れてしまいタイムロスを生じ、戻ろうとしたところそのまま突っ込めと言われたので、その通り突入し、目的地点に到着するかしないかの内に爆弾が爆発してしまった事故'''とみるのが適切である。 |
しかし、3名の死は技術的失敗によるものという説もあり<ref>上野 1971, 江崎 1958, 三国 1984</ref>、'''導火線を短く切断し、予め導火線に点火して突入したところ、3人の先頭に立った北川丞が撃たれ、3人とも倒れてしまいタイムロスを生じ、戻ろうとしたところそのまま突っ込めと言われたので、その通り突入し、目的地点に到着するかしないかの内に爆弾が爆発してしまった事故'''とみるのが適切である。 |
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ちなみに、同時に攻撃に参加した別の班(総勢35人)や、同じ敵陣地の別方面を担当した[[工兵部隊]]も同様の攻撃を行い、戦死者はこの3人の他にも出ている。 |
ちなみに、同時に攻撃に参加した別の班(総勢35人)や、同じ敵陣地の別方面を担当した[[工兵部隊]]も同様の攻撃を行い、戦死者はこの3人の他にも出ている。 |
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[[映画]]では急きょ[[日活]]や、[[新興キネマ]]、[[河合映画製作社]]、[[東活映画社]]、福井映画社の5つの映画社が競ってドラマチックな愛国の美談として映画化。事件報道後10日足らずの3月3日に新興と河合が封切り、6日に東活、10日に日活、福井も3月17日に封切りをした。いずれも無声映画。また、いずれも映画の完成度は拙速であるのは否めなかった。日本軍の戦場での悲劇や美談をモチーフに多くの映画が劇場公開され、軍国熱をいやが上にも煽ることになった。当時の報道機関は新聞とNHKラジオだけだったため、この種の映画は大衆性の強いニュース映画でもあった。三勇士人気に便乗し多くの図案などにも採用され、さらには三勇士もののグッズ(菓子・ヘアスタイル・和服のデザイン)まで出る騒ぎとなった。小中学校の[[運動会]]競技にもなっている。当時の人気漫画「[[のらくろ]]」の昭和7年5月連載分においても、爆弾三勇士がモデルと思われる3頭の犬が活躍するエピソードが描かれている。 |
[[映画]]では急きょ[[日活]]や、[[新興キネマ]]、[[河合映画製作社]]、[[東活映画社]]、福井映画社の5つの映画社が競ってドラマチックな愛国の美談として映画化。事件報道後10日足らずの3月3日に新興と河合が封切り、6日に東活、10日に日活、福井も3月17日に封切りをした。いずれも無声映画。また、いずれも映画の完成度は拙速であるのは否めなかった。日本軍の戦場での悲劇や美談をモチーフに多くの映画が劇場公開され、軍国熱をいやが上にも煽ることになった。当時の報道機関は新聞とNHKラジオだけだったため、この種の映画は大衆性の強いニュース映画でもあった。三勇士人気に便乗し多くの図案などにも採用され、さらには三勇士もののグッズ(菓子・ヘアスタイル・和服のデザイン)まで出る騒ぎとなった。小中学校の[[運動会]]競技にもなっている。当時の人気漫画「[[のらくろ]]」の昭和7年5月連載分においても、爆弾三勇士がモデルと思われる3頭の犬が活躍するエピソードが描かれている。 |
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書籍では、[[小笠原長生]]『忠烈爆弾三勇士』(実業之日本社)、大和良作・栗原白嶺『護国の神・肉弾三勇士』(護国団)、滝渓潤『壮烈無比爆弾三勇士の一隊』(三輪書店)、宗改造『軍神江下武二伝』(欽英閣)などが出版され、1933年[[教育総監部]]による『満州事変軍事美談集』に「点火せる破壊砲を抱き、身を以て鉄条網を破壊す」と題して収められた。 |
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このような熱狂的な反応は、大手新聞ら[[報道機関|マスコミ]]によって作られたものである。新聞各紙は「まさしく『[[軍神]]』ー忠烈な肉弾三勇士に、『天皇陛下の上聞に達したい』。陸軍省は最高の賛辞」(大阪朝日・昭和7年2月25日)などの最大級の賛辞から、「肉弾三勇士の壮烈なる行動も、実にこの神ながらの民族精神の発露によるはいうまでもない。」(大阪朝日・昭和7年2月27日)というファナチックなものまで無数の記事を連日のように書き、弔慰金の金額と寄託者を一面に載せた。『大阪朝日』には34,549円、『大阪毎日』には30,575円の弔慰金が集まった。さらにキャンペーンはエスカレートし、三人の遺族の[[靖国神社]]や陸軍省訪問記事を情感たっぷりに書き、新聞購読者をより多く獲得しようとした。前述の歌もその一環である。 |
このような熱狂的な反応は、大手新聞ら[[報道機関|マスコミ]]によって作られたものである。新聞各紙は「まさしく『[[軍神]]』ー忠烈な肉弾三勇士に、『天皇陛下の上聞に達したい』。陸軍省は最高の賛辞」(大阪朝日・昭和7年2月25日)などの最大級の賛辞から、「肉弾三勇士の壮烈なる行動も、実にこの神ながらの民族精神の発露によるはいうまでもない。」(大阪朝日・昭和7年2月27日)というファナチックなものまで無数の記事を連日のように書き、弔慰金の金額と寄託者を一面に載せた。『大阪朝日』には34,549円、『大阪毎日』には30,575円の弔慰金が集まった。さらにキャンペーンはエスカレートし、三人の遺族の[[靖国神社]]や陸軍省訪問記事を情感たっぷりに書き、新聞購読者をより多く獲得しようとした。前述の歌もその一環である。 |
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教科書で取り上げるべしという意見も多く挙がり、1941年から45年までの初等国語科と唱歌教材に取り上げられた。 |
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各々の菩提寺の他、[[大谷本廟]]などに合同墓が存在する。 |
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== 関連書籍 == |
== 研究書・関連書籍 == |
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*小野一麻呂『爆弾三勇士の真相とその観察』1932年 |
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*[[江崎誠致]]『爆弾三勇士』1958年 |
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*[[三国一朗]]聞き手『証言・私の昭和史(1)』1984年 |
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==参考文献== |
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*中内敏夫『軍国美談と教科書』岩波書店 1988年 |
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2010年11月23日 (火) 01:46時点における版
爆弾三勇士(ばくだんさんゆうし)とは、日本陸軍独立工兵第18大隊(久留米)の、江下武二、北川丞、作江伊之助各一等兵3名のことである。上海事変中の1932年(昭和7年)2月22日、蔡廷楷率いる19路軍が上海郊外(現在は上海市宝山区)の廟行鎮に築いた陣地の鉄条網に対して、突撃路を築くため、点火した破壊筒を持って敵陣に突入爆破(強行破壊)し、自らも爆死した。
爆弾三勇士とは大阪毎日新聞・東京日日新聞が使用した用語であり、東京朝日新聞・大阪朝日新聞は肉弾三勇士(にくだんさんゆうし)と称した。
概要
3名は戦死後それぞれ二階級特進して、陸軍伍長となる。事件の直後2月24日には『東京朝日新聞』で「「帝国万歳」と叫んで吾身は木端微塵」、25日に『西部毎日新聞』で「忠烈まさに粉骨砕身」、『大阪朝日新聞』で「葉隠れ主義の露堂々」など、美談として広く報道され反響をよび、壮烈無比の勇士としてその武功を称えられた。軍国熱も高まり映画や歌にもなり、陸軍始まって以来ともいわれる弔慰金が集まった。
しかし、3名の死は技術的失敗によるものという説もあり[1]、導火線を短く切断し、予め導火線に点火して突入したところ、3人の先頭に立った北川丞が撃たれ、3人とも倒れてしまいタイムロスを生じ、戻ろうとしたところそのまま突っ込めと言われたので、その通り突入し、目的地点に到着するかしないかの内に爆弾が爆発してしまった事故とみるのが適切である。 ちなみに、同時に攻撃に参加した別の班(総勢35人)や、同じ敵陣地の別方面を担当した工兵部隊も同様の攻撃を行い、戦死者はこの3人の他にも出ている。
歌・映画等
彼らを題材に大阪毎日新聞・東京日日新聞や東京朝日新聞などがそれぞれ顕彰歌の歌詞を公募し、大阪毎日・東京日日が与謝野鉄幹作詞・辻順治作曲による「爆弾三勇士の歌」、東京朝日公募1席が中野力作詞・山田耕筰作曲、2席が渡部栄伍作詞・古賀政男作曲による「肉弾三勇士の歌」になった。以上2曲とも歌:江文也・日本コロムビア合唱団。
また、歌舞伎や新派、果ては文楽にまで三勇士ものが上演された。
映画では急きょ日活や、新興キネマ、河合映画製作社、東活映画社、福井映画社の5つの映画社が競ってドラマチックな愛国の美談として映画化。事件報道後10日足らずの3月3日に新興と河合が封切り、6日に東活、10日に日活、福井も3月17日に封切りをした。いずれも無声映画。また、いずれも映画の完成度は拙速であるのは否めなかった。日本軍の戦場での悲劇や美談をモチーフに多くの映画が劇場公開され、軍国熱をいやが上にも煽ることになった。当時の報道機関は新聞とNHKラジオだけだったため、この種の映画は大衆性の強いニュース映画でもあった。三勇士人気に便乗し多くの図案などにも採用され、さらには三勇士もののグッズ(菓子・ヘアスタイル・和服のデザイン)まで出る騒ぎとなった。小中学校の運動会競技にもなっている。当時の人気漫画「のらくろ」の昭和7年5月連載分においても、爆弾三勇士がモデルと思われる3頭の犬が活躍するエピソードが描かれている。
書籍では、小笠原長生『忠烈爆弾三勇士』(実業之日本社)、大和良作・栗原白嶺『護国の神・肉弾三勇士』(護国団)、滝渓潤『壮烈無比爆弾三勇士の一隊』(三輪書店)、宗改造『軍神江下武二伝』(欽英閣)などが出版され、1933年教育総監部による『満州事変軍事美談集』に「点火せる破壊砲を抱き、身を以て鉄条網を破壊す」と題して収められた。
反応
このような熱狂的な反応は、大手新聞らマスコミによって作られたものである。新聞各紙は「まさしく『軍神』ー忠烈な肉弾三勇士に、『天皇陛下の上聞に達したい』。陸軍省は最高の賛辞」(大阪朝日・昭和7年2月25日)などの最大級の賛辞から、「肉弾三勇士の壮烈なる行動も、実にこの神ながらの民族精神の発露によるはいうまでもない。」(大阪朝日・昭和7年2月27日)というファナチックなものまで無数の記事を連日のように書き、弔慰金の金額と寄託者を一面に載せた。『大阪朝日』には34,549円、『大阪毎日』には30,575円の弔慰金が集まった。さらにキャンペーンはエスカレートし、三人の遺族の靖国神社や陸軍省訪問記事を情感たっぷりに書き、新聞購読者をより多く獲得しようとした。前述の歌もその一環である。
教科書で取り上げるべしという意見も多く挙がり、1941年から45年までの初等国語科と唱歌教材に取り上げられた。
各々の菩提寺の他、大谷本廟などに合同墓が存在する。 また、東京・芝の青松寺には、彼らの銅像の一部が残されている[2]。
被差別部落出身説
なお、この3人の兵士のうち2人が被差別部落出身で、直属の上官が「あの連中は、こうした任務を与えてやれば喜んで死んでいく」と語ったとの言い伝えもあるが、この部落出身説については異説もある[3]。
- 爆弾三勇士の歌 与謝野鉄幹作詞、辻順治作曲。ポリドール・レコードより発売。
- 意想曲 爆弾三勇士 辻順治作曲。爆弾三勇士の歌B面。
- 爆弾三勇士の歌 長田幹彦作詞、中山晋平作曲。ビクターレコード発売、吹き込みはオリオン・コール。
- 肉弾三勇士の歌 渡部栄伍作詞、古賀政男作曲。肉弾三勇士の歌公募2席。肉弾三勇士の歌B面。
- 噫肉弾三勇士 三上於莵吉作詞、青葉宵三作曲。キングレコード発売、吹き込みは内田栄一。
- 三勇士 文部省唱歌、下総皖一作曲。「初等科音楽(一)」収録。
堀内敬三は、これ以外にも当時作られた軍歌は数十篇に及ぶと証言している[4]。
映画
- 肉弾三勇士 1932年3月3日公開、新興キネマ製作。監督は石川聖二、出演は生方一平(江下武二一等兵)、森山保(北川亟一等兵)、松居満(作江伊之助一等兵)、草間実(小隊長)、荒木忍(連隊長)、岬洋児(下士官)。
- 肉弾三勇士 1932年3月3日公開、河合映画製作。監督は根岸東一郎、長尾史録、吉村操、石山稔、服部真砂雄、西尾佳雄、出演は中野健二、琴糸路、飯田英二、片桐敏郎。
- 忠烈肉弾三勇士 1932年3月6日公開、東活映画製作。監督は古海卓二、出演は葉山隆一、片山専、落合幡蔵。
- 爆弾三勇士 1932年3月10日公開、日活製作。監督は木藤茂、出演は島津元(江下一等兵)、宇留木浩(作江一等兵)、城木晃(北川一等兵)、尾上助三郎(小学生)ら。
- 昭和軍神 肉弾三勇士 1932年3月17日公開、福井映画製作。監督は福井信三郎、出演は竜造寺八郎、伊集院悦。
脚注
研究書・関連書籍
- 小野一麻呂『爆弾三勇士の真相とその観察』1932年
- 江崎誠致『爆弾三勇士』1958年
- 上野英信『天皇陛下萬歳 爆弾三勇士序説』1971年(Modern Classics新書16 洋泉社 2007年 ISBN 978-4-86248-142-9)
- 三国一朗聞き手『証言・私の昭和史(1)』1984年
- 前坂俊之『太平洋戦争と新聞』講談社学術文庫1817 講談社 2007年 ISBN 978-4-06-159817-1
参考文献
- 中内敏夫『軍国美談と教科書』岩波書店 1988年
外部リンク
- 前坂俊之「爆弾三勇士の真実―軍国美談はこうして作られた!―」(PDFファイル)