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'''秋田 実季'''(あきた さねすえ)は[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[大名]]。[[安東愛季]]の長男。当初、[[出羽国]]北部にあって[[秋田郡]]など下三郡地方([[秋田県]]中部から北部にかけての地域)を領し、[[豊臣秀吉]]から本領を安堵された。[[江戸幕府]]成立後は、[[常陸国]][[茨城郡]]([[茨城県]]中部)に封じられ、[[常陸宍戸藩]]の初代藩主となった。[[秋田氏]]を当主とする[[陸奥国]][[田村郡]]([[福島県]]中部)[[三春藩]]初代藩主[[秋田俊季]]の父であるが、晩年は不遇をかこった。 |
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'''秋田 実季'''(あきた さねすえ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]・[[江戸時代]]の[[大名]]。[[安東愛季]]の長男。 |
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== 系譜 == |
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[[安東氏]]は、[[安倍貞任]]の末裔と伝承される北方の名門であり、[[鎌倉時代]]にあっては[[津軽]]([[青森県]]西部)の[[十三湊]](青森県[[五所川原市]])を本拠として勢力を拡げ、[[日本海]]交易と蝦夷沙汰を担った一族として[[蝦夷管領]]を名乗り、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]には内外に「日の本将軍」を号するほどであった。鎌倉時代後期、そのうちの一派が南下して[[雄物川]]・[[馬場目川]]下流の秋田郡に拠った。これを上国家と称し、[[出羽国]][[湊城#出羽湊城|湊城]](秋田県[[秋田市]][[土崎]])を本拠とした<ref>塩谷(1987)「安東氏とその時代」pp.93-94</ref><ref group="注釈">『秋田家系図』などでは[[応永]]年間([[15世紀]]初頭)に津軽下国家が秋田湊を討伐するという記述があるものの、江戸時代の[[菅江真澄]]の著作に描かれた男鹿半島地方の[[神社]]の[[棟札]]や[[寺院]][[境内]]の[[多宝塔]]の紀年銘などより、現在では安東一支族の秋田地方定着は鎌倉時代にさかのぼることが確実視されている。塩谷(1987)p.93</ref>。いっぽう、津軽にとどまった一族は糠部[[三戸郡]]([[青森県]]南東部)地方を本拠とする[[南部氏]]の勢力に押され、室町時代にはいったん[[蝦夷地]](現在の[[北海道]])にのがれ、そののち出羽国の[[米代川]]河口部にうつった。これが下国家である。こうして[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の安東氏は雄物川河口部に拠った上国家の湊安東氏と米代川河口部の[[檜山城]](秋田県[[能代市]])を本拠とする檜山安東氏<ref group="注釈">檜山安東氏は、[[16世紀]]に入ってからも蝦夷地の代官蠣崎氏(のちの[[松前氏]])の徴収する[[関銭]]の大半を上納させ、[[軍役]]を課すなど蝦夷沙汰権に由来する経済力と軍事力を有していた。小林(1978)p.170。原出典は海保(1976)</ref>に分立していたが、檜山安東家出身の父下国愛季の代で統合を果たし、[[男鹿半島]]の付け根部分に立地して日本海をのぞむ[[脇本城]](秋田県[[男鹿市]])に居城をうつして安東氏の全盛期を築き上げた<ref name=owada>小和田(2007)「湊騒動の顛末」pp.137-140</ref><ref>今村(1969)p.60</ref>。しかし、このころより[[南部氏]]との緊張はいっそう厳しさを増している<ref>小林(1978)pp.169-172</ref>。 |
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[[安東氏]]は[[安倍貞任]]の末裔と言われる。実に[[11世紀]]から始まる名門であり、実季は安東氏第9代、秋田氏第2代にあたる。十三湊を本拠として勢力を拡げたが、戦国期の安東氏は[[氏族]]が幾つにも分かれ抗争していたが実季の父愛季の代で統合され同時に全盛期を築き上げた。 |
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== 生涯 == |
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天正15年([[1587年]])、父の愛季が病死したため、わずか12歳で後を継ぐこととなったが、その継承に不満を持った従兄弟の[[安東通季]]が反乱を起こす([[湊合戦]])。通季は[[戸沢氏]]や[[小野寺氏]]とも通じていた。実季は機先を制して出撃するが撃退され、逆に自身が檜山に籠城するなど苦戦し、3年の歳月をかけようやく鎮圧した。この合戦は[[惣無事令]]違反と[[豊臣秀吉]]に見なされ一時問題となるが、実季の中央工作によって[[出羽国|出羽]][[秋田藩|秋田]]5万2,000石(実高15万石)の安堵を認められた。その後、[[小野寺義道]]と戦うがその隙を狙って[[南部信直]]が侵入、これとも激しく戦っている。没収された領地のうち2万5,000石は[[太閤蔵入地]]とされ、実季はその代官となった。 |
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=== 湊合戦 === |
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[[天正]]15年([[1587年]])、父の愛季が病死したため、実季は、わずか12歳で後を継ぐこととなったが、その継承に不満を持った従兄弟で12歳年長の[[安東通季]](豊島通季)が「上国湊安東氏の復興」を掲げて反乱を起こした([[湊合戦]])。通季は、[[日本海]]沿岸の海港の確保を願う内陸部の[[戸沢氏]]や[[小野寺氏]]、北奥の南部氏らの諸勢力とも通じていた。実季は天正17年([[1589年]])、機先を制して出陣したが逆に撃退され、自身が檜山城に籠城するなど苦戦を重ねてようやく鎮圧した<ref name=owada/>。通季らの軍勢は実季ら籠城側の十数倍におよび、籠城側は銃を300挺しかもたなかったが5か月以上も檜山城を守り抜いたといわれる。このときの実季の主力は檜山郡(のちの[[山本郡]])に基盤をもつ檜山衆であり、加えて、[[阿仁川]]流域地方の[[嘉成氏]]や米代川中流域の[[浅利氏]]一族などの比内衆、また、湊から檜山にうつった竹ヶ鼻伊予など20数名の湊衆が与同したといわれる<ref>今村(1969)p.62</ref>。この合戦は、津軽地域の独立をはかる[[大浦為信]]や北出羽内陸部の[[平鹿郡]]・[[比内郡]]方面への進出をはかる南部信直との抗争をまきこんで北奥羽における政治的激動の震源となった。実季は、平鹿郡・[[雄勝郡]]地方を本拠とする[[小野寺義道]]と戦うが、その隙を狙って南部信直が東方より侵入、これとも激しく戦っている。天正17年7月、[[由利郡]]の[[赤尾津氏]]や津軽の大浦氏との提携をはかることで、戸沢氏や南部氏とむすんだ通季を破ることに成功した<ref name=owada/>。天正18年(1590年)、実季は比内大館を南部氏から奪回した。これには大浦氏の助力があり、[[浅利頼平]]は大浦為信の斡旋で比内の地に戻った<ref name=itabashi>板橋(2000)pp.62-63</ref>。 |
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=== 北出羽の大名に === |
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こののち天正18年に[[奥州仕置]]がなされ、天正19年([[1591年]])には[[太閤検地]]がおこなわれた。湊合戦は、[[豊臣秀吉]]によって[[惣無事令]]違反と見なされて一時問題となったものの、実季の中央工作もあって[[出羽国]]内の所領7万8,500石余のうち約5万2,440石の安堵が認められた(ただし、実高は15万石におよんだといわれる)。旧領の3分の1にあたる約2万6,000石は[[太閤蔵入地]]として没収され、実季はその代官に任じられた<ref group="注釈">蔵入地は秋田郡の[[八郎潟]]南東岸や豊島郡(のちの[[河辺郡]])の肥沃な土地が多く、実季領と入り組んでいた。今村(1969)p.66</ref>。ここで重要なのは、永年にわたる係争の地であった比内(のちの[[北秋田郡]])の領有が確定されたことで、比内を地盤とする浅利氏・嘉成氏の領主権は否定された。そして、秋田([[南秋田郡]])・檜山・比内のいわゆる秋田下三郡に加え、豊島郡([[河辺郡]])を有する[[大名]]としての地歩がかためられた。なお、太閤蔵入地設定の理由としては、[[蔵米]]輸送ないし地払いによる運上収益よりもむしろ[[秋田杉]][[運上]]のためと考えられている<ref name=imamura>今村(1969)p.66</ref>。秋田杉運上は、[[文禄]]2年([[1593年]])の[[前田利家]]建造の[[安宅船]]の船材運上にはじまり、淀舟材木、橋板を経て、[[慶長]]2年([[1597年]])以降は[[伏見]]作事用板(太閤板)の運上として固定した<ref name=imamura/>。また、領内の土崎湊(現在の[[秋田港]])、能代湊([[能代港]])の2港を整備して、領国経済を確立させ、両港および[[越前国]][[敦賀港|敦賀湊]]([[福井県]][[敦賀市]])などでは[[米]]のほか木材を販売している<ref>塩谷(1987)「秋田杉と手工業」pp.101-102</ref><ref>今村(1969)p.66-67</ref>。 |
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[[ファイル:土崎神明社.jpg|250px|right|thumb|湊城跡地に鎮座する土崎神明社]] |
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[[秋田氏]]は俊季の幕府への忠節と、実季の妻が[[織田信長]]の姪で将軍[[徳川秀忠|秀忠]]の妻[[崇源院]]の[[従姉妹]]に当たることもあり、[[陸奥国|陸奥]][[三春藩|三春]]5万5,000石に移され存続を許された。 |
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奥州仕置後、実季はあらためて[[平城]]として雄物川河口の土崎湊に[[堀]]をともなう湊城をきづいて本拠をここにうつし、[[秋田城介]]を号して[[秋田氏]]を名乗った。また、[[大館城]]([[大館市]])・脇本城(男鹿市)・[[馬場目城]]([[五城目町]])などの要地に功臣・一族を配して、比較的安定した領国支配をきずいた<ref name=owada/>。天正18年(1590年)、実季は秀吉より[[小田原攻め]]への参陣を命じられ、これに従った。 |
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[[豊臣秀次]]を総大将とする天正19年([[1591年]])の[[九戸政実の乱]]における九戸討伐軍、文禄元年([[1592年]])よりはじまる[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]にも参陣している。文禄2年([[1593年]])の朝鮮出兵(文禄の役)での渡海割当は、『浅野家文書』によれば134名であった<ref>藤木(1978)pp.230-233</ref><ref group="注釈">『浅野家文書』によれば、[[東北地方]]の大名の割当は、[[蒲生氏|蒲生]]1,500名、[[伊達氏|伊達]]500名、[[最上氏|最上]]300名、[[南部氏|南部]]100名、由利五人衆88名、[[本堂氏|本堂]]25名、[[大崎氏|大崎]]10名であった。天正19年の『覚上公御書集』では蒲生3000名、最上500名、[[秋田氏|秋田]]250名、南部200名、津軽150名となっている。なお、『覚上公御書集』記載の員数は渡海割当だけではなく、それを含む[[軍役]]の総数である。藤木(1978)pp.230-233</ref>。文禄年間にはまた、自領の一部について[[検地]]をおこなった形跡がある<ref>加藤「豊臣政権と秋田地方」(1982)pp.202-204</ref>。文禄3年([[1594年]])成立とみられる『秋田城之助殿分限帳』では秋田領は9万8,500石、蔵入地2万9,000石余と算定された<ref>加藤(1982)pp.199-200</ref><ref group="注釈">『秋田城之助殿分限帳』によれば、蔵入地2万9,000石余については実季の家臣13名が代官となって村落の支配にあたっており、代官13名は重臣から軽輩までさまざまな階層の家臣より成る。実季直領は1万700石余で一族重臣による代官24名による支配がなされる。一族重臣24名は「三ケ一代官衆」ととばれてその分の石高は2万3,200石余、一般家臣には多種多様な家臣を含む97名で、その分は3万1,000石余であった。それ以外に、特定の職能にもとづく軽輩を主体とする直属家臣団があり、鉄砲衆45名1,250石、御鎧衆24名514名、飛脚衆12名151石という内訳であった。他に寺社領として2,303石があてられていた。加藤(1982)pp.199-200</ref>。 |
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文禄3年から文禄4年([[1594年]])にかけては、比内の浅利氏とのあいだに小競り合いが生じている。[[史料]]には比内南西部の村がこのとき「秋田よりなてきり」「秋田より放火」との記録がのこる<ref name=itabashi/>。浅利氏の家老であった片山弥伝(比内中野)、浅利七兵衛(十二所)、浅利内膳(八木橋)らは、これを機に直接、実季にしたがうこととなった<ref name=itabashi/>。[[慶長]]4年([[1599年]])から翌年にかけては本拠湊城の大規模な改築をおこなっている<ref group="注釈">湊安東氏は長期にわたって秋田市高清水丘の古代[[秋田城]]を利用していた。湊城が土崎の地にうつったのは[[織豊政権]]期に入ってからであり、[[一国一城令]]によって廃城となったのちに現在[[土崎神明社祭の曳山行事|曳山行事]]で有名な[[土崎神明社]]が建てられた。塩谷(1987)p.117</ref>。そこには、多数の[[大工]]・[[鍛冶]]・大鋸引・葺士・壁ぬりが参加したことが記録にのこされている<ref>塩谷(1987)「秋田杉と手工業」pp.117-118</ref>。 |
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=== 宍戸転封と伊勢での蟄居 === |
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慶長5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では徳川方に立ち、小野寺義道を平鹿郡[[大森城 (出羽国)|大森城]](秋田県[[横手市]][[大森町 (秋田県)|大森町]])に攻めた<ref name=jiten>鈴木(1981)p.71</ref>。これについては、[[山形城]]城主[[最上義光]]が、実季が裏では小野寺方と通じていて実は徳川方と言えないとして[[徳川家康]]に訴えている<ref name=katoh>加藤「慶長五年の明暗」(1982)pp.213-216</ref>。それに対し、実季は弁明し、家康の嫌疑を晴らすことに成功した<ref name=katoh/>。 |
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宍戸藩主となった実季は、慶長19年([[1614年]])の[[大坂の陣#大坂夏の陣|大坂夏の陣]]では豊臣方先鋒隊らと激突したものの大損害を出し、敗北を喫した。[[寛永]]7年([[1630年]])、[[元和偃武]]後も[[戦国大名]]らしい気骨が横溢していることが幕府の忌み嫌うところとなり、突如[[伊勢国]]朝熊([[三重県]][[伊勢市]]朝熊町)へ蟄居を命じられた<ref name=jiten/>。子の俊季との不和説や、従来からの檜山系・湊系による家臣間の対立が背後にあったのではないかとする見解もあるが、詳細は不明である。なお、秋田氏は嫡子俊季の幕府への忠節と、俊季の母<ref group="注釈">[[細川信良]]の娘円光院。秋田実季の正室であった。</ref>が将軍[[徳川秀忠|秀忠]]の妻[[崇源院]]<ref group="注釈">[[浅井長政]]・[[お市の方]]夫婦の三女江。いわゆる[[浅井三姉妹]]のひとり。[[織田信長]]からは[[姪]]にあたる。</ref>の[[従姉妹]]にあたることも幸いして、[[陸奥国|陸奥]][[三春藩|三春]]5万5,000石に移され存続を許された。 |
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寛永7年以降約30年にわたり、実季は伊勢朝熊の永松寺草庵にて蟄居生活を余儀なくされた<ref name=shionoya122>塩谷(1987)「秋田杉と手工業」pp.122-123</ref>。万治2年([[1660年]])、同地にて死去した。享年84。朝熊永松寺には、実季の用いた[[食器]]等の日用品が現在も残されている<ref name=shionoya122/>。 |
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== 人物 == |
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実季の帰依した[[若狭国]](福井県)[[小浜市|小浜]]の[[羽賀寺]]に僧形像がのこり<ref>[http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/zusetsu/B12/B122.htm 「図説福井県史」中世12](福井県公文書館)</ref>、福井県の有形文化財(歴史資料)に指定されている<ref>[http://info.pref.fukui.jp/bunka/bunkazai/sitei/rekishi/haga-abekisue.html 福井県の文化財](福井県)</ref>。陸奥国三春には俗身で[[束帯]]姿の木像がのこる。[[和歌]]や文筆、また、[[茶道]]にも優れた教養人であったといわれる。以下は、実季ののこした歌である。 |
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<div style="background: white; border: 1px solid black; padding: 1em;margin: 0 3em;"> |
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我が庵は 道みえぬまで 茂りぬる すすきの絲の 心ぼそしや |
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== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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=== 参照 === |
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== 参考文献 == |
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* [[今村義孝]]『秋田県の歴史』[[山川出版社]]、1969年11月。ISBN 4-634-23050-X |
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* [[小林清治]]「大名権力の形成」小林・[[大石直正]]編『中世奥羽の世界』[[東京大学出版会]]、1978年4月。 |
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* [[藤木久志]]「中世奥羽の終末」小林清治・大石直正編『中世奥羽の世界』東京大学出版会、1978年4月。 |
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* 鈴木登「安東氏」『秋田大百科事典』[[秋田魁新報社]]、1981年9月。ISBN 4-870-20-007-4 |
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* 加藤民夫「豊臣政権と秋田地方」[[塩谷順耳]]編『中世の秋田』秋田魁新報社<さきがけ新書>、1982年10月。ISBN 4-87020-017-1 |
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* 加藤民夫「慶長五年の明暗」塩谷順耳編『中世の秋田』秋田魁新報社<さきがけ新書>、1982年10月。ISBN 4-87020-017-1 |
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* 塩谷順耳「安東氏とその時代」[[田口勝一郎]]責任編集『図説秋田県の歴史』[[河出書房新社]]、1987年7月。ISBN 4-309-61105-2 |
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* 塩谷順耳「秋田杉と手工業」田口勝一郎責任編集『図説秋田県の歴史』河出書房新社、1987年7月。ISBN 4-309-61105-2 |
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* 板橋範芳「Ⅱ北秋田の歴史」『街道の日本史9 北秋田と羽州街道』[[吉川弘文館]]、2000年12月。ISBN 4-642-06209-2 |
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* [[小和田哲男]]「湊騒動の顛末」『名城と合戦の日本史』[[新潮社]]<新潮選書>、2007年5月。ISBN 978-4-10-603580-7 |
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== 関連文献 == |
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* [[海保嶺夫]]「松前家臣団の成立-道南における中世的世界の解体過程-」『松前藩と松前9』、1976年。 |
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{{先代次代|[[秋田氏|秋田氏当主]]|1587年 - 1630年|[[安東愛季|秋田愛季]]|[[秋田俊季]]|}} |
{{先代次代|[[秋田氏|秋田氏当主]]|1587年 - 1630年|[[安東愛季|秋田愛季]]|[[秋田俊季]]|}} |
2011年2月25日 (金) 05:22時点における版
時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正4年(1576年) |
死没 | 万治2年11月29日(1660年1月11日) |
別名 | 仮名:藤太郎、雅号:宗実 |
墓所 | 伊勢国朝熊栄松寺 |
官位 | 従五位下 秋田城介 |
氏族 | 秋田氏 |
父母 | 父:安東(秋田)愛季、母:畠山清信の女 |
兄弟 |
業季、秋田実季、安倍英季(小浜藩家老)、 季勝、秋田局 |
妻 |
正室:円光院(細川信良の娘) 側室:瑞峯院 |
子 |
俊季、季次、季信、季長、季則、 女(荒木高綱室)、女(津軽信建正室) |
秋田 実季(あきた さねすえ)は安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名。安東愛季の長男。当初、出羽国北部にあって秋田郡など下三郡地方(秋田県中部から北部にかけての地域)を領し、豊臣秀吉から本領を安堵された。江戸幕府成立後は、常陸国茨城郡(茨城県中部)に封じられ、常陸宍戸藩の初代藩主となった。秋田氏を当主とする陸奥国田村郡(福島県中部)三春藩初代藩主秋田俊季の父であるが、晩年は不遇をかこった。
系譜
安東氏は、安倍貞任の末裔と伝承される北方の名門であり、鎌倉時代にあっては津軽(青森県西部)の十三湊(青森県五所川原市)を本拠として勢力を拡げ、日本海交易と蝦夷沙汰を担った一族として蝦夷管領を名乗り、南北朝時代には内外に「日の本将軍」を号するほどであった。鎌倉時代後期、そのうちの一派が南下して雄物川・馬場目川下流の秋田郡に拠った。これを上国家と称し、出羽国湊城(秋田県秋田市土崎)を本拠とした[1][注釈 1]。いっぽう、津軽にとどまった一族は糠部三戸郡(青森県南東部)地方を本拠とする南部氏の勢力に押され、室町時代にはいったん蝦夷地(現在の北海道)にのがれ、そののち出羽国の米代川河口部にうつった。これが下国家である。こうして戦国時代の安東氏は雄物川河口部に拠った上国家の湊安東氏と米代川河口部の檜山城(秋田県能代市)を本拠とする檜山安東氏[注釈 2]に分立していたが、檜山安東家出身の父下国愛季の代で統合を果たし、男鹿半島の付け根部分に立地して日本海をのぞむ脇本城(秋田県男鹿市)に居城をうつして安東氏の全盛期を築き上げた[2][3]。しかし、このころより南部氏との緊張はいっそう厳しさを増している[4]。
生涯
湊合戦
天正15年(1587年)、父の愛季が病死したため、実季は、わずか12歳で後を継ぐこととなったが、その継承に不満を持った従兄弟で12歳年長の安東通季(豊島通季)が「上国湊安東氏の復興」を掲げて反乱を起こした(湊合戦)。通季は、日本海沿岸の海港の確保を願う内陸部の戸沢氏や小野寺氏、北奥の南部氏らの諸勢力とも通じていた。実季は天正17年(1589年)、機先を制して出陣したが逆に撃退され、自身が檜山城に籠城するなど苦戦を重ねてようやく鎮圧した[2]。通季らの軍勢は実季ら籠城側の十数倍におよび、籠城側は銃を300挺しかもたなかったが5か月以上も檜山城を守り抜いたといわれる。このときの実季の主力は檜山郡(のちの山本郡)に基盤をもつ檜山衆であり、加えて、阿仁川流域地方の嘉成氏や米代川中流域の浅利氏一族などの比内衆、また、湊から檜山にうつった竹ヶ鼻伊予など20数名の湊衆が与同したといわれる[5]。この合戦は、津軽地域の独立をはかる大浦為信や北出羽内陸部の平鹿郡・比内郡方面への進出をはかる南部信直との抗争をまきこんで北奥羽における政治的激動の震源となった。実季は、平鹿郡・雄勝郡地方を本拠とする小野寺義道と戦うが、その隙を狙って南部信直が東方より侵入、これとも激しく戦っている。天正17年7月、由利郡の赤尾津氏や津軽の大浦氏との提携をはかることで、戸沢氏や南部氏とむすんだ通季を破ることに成功した[2]。天正18年(1590年)、実季は比内大館を南部氏から奪回した。これには大浦氏の助力があり、浅利頼平は大浦為信の斡旋で比内の地に戻った[6]。
北出羽の大名に
こののち天正18年に奥州仕置がなされ、天正19年(1591年)には太閤検地がおこなわれた。湊合戦は、豊臣秀吉によって惣無事令違反と見なされて一時問題となったものの、実季の中央工作もあって出羽国内の所領7万8,500石余のうち約5万2,440石の安堵が認められた(ただし、実高は15万石におよんだといわれる)。旧領の3分の1にあたる約2万6,000石は太閤蔵入地として没収され、実季はその代官に任じられた[注釈 3]。ここで重要なのは、永年にわたる係争の地であった比内(のちの北秋田郡)の領有が確定されたことで、比内を地盤とする浅利氏・嘉成氏の領主権は否定された。そして、秋田(南秋田郡)・檜山・比内のいわゆる秋田下三郡に加え、豊島郡(河辺郡)を有する大名としての地歩がかためられた。なお、太閤蔵入地設定の理由としては、蔵米輸送ないし地払いによる運上収益よりもむしろ秋田杉運上のためと考えられている[7]。秋田杉運上は、文禄2年(1593年)の前田利家建造の安宅船の船材運上にはじまり、淀舟材木、橋板を経て、慶長2年(1597年)以降は伏見作事用板(太閤板)の運上として固定した[7]。また、領内の土崎湊(現在の秋田港)、能代湊(能代港)の2港を整備して、領国経済を確立させ、両港および越前国敦賀湊(福井県敦賀市)などでは米のほか木材を販売している[8][9]。
奥州仕置後、実季はあらためて平城として雄物川河口の土崎湊に堀をともなう湊城をきづいて本拠をここにうつし、秋田城介を号して秋田氏を名乗った。また、大館城(大館市)・脇本城(男鹿市)・馬場目城(五城目町)などの要地に功臣・一族を配して、比較的安定した領国支配をきずいた[2]。天正18年(1590年)、実季は秀吉より小田原攻めへの参陣を命じられ、これに従った。
豊臣秀次を総大将とする天正19年(1591年)の九戸政実の乱における九戸討伐軍、文禄元年(1592年)よりはじまる朝鮮出兵にも参陣している。文禄2年(1593年)の朝鮮出兵(文禄の役)での渡海割当は、『浅野家文書』によれば134名であった[10][注釈 4]。文禄年間にはまた、自領の一部について検地をおこなった形跡がある[11]。文禄3年(1594年)成立とみられる『秋田城之助殿分限帳』では秋田領は9万8,500石、蔵入地2万9,000石余と算定された[12][注釈 5]。
文禄3年から文禄4年(1594年)にかけては、比内の浅利氏とのあいだに小競り合いが生じている。史料には比内南西部の村がこのとき「秋田よりなてきり」「秋田より放火」との記録がのこる[6]。浅利氏の家老であった片山弥伝(比内中野)、浅利七兵衛(十二所)、浅利内膳(八木橋)らは、これを機に直接、実季にしたがうこととなった[6]。慶長4年(1599年)から翌年にかけては本拠湊城の大規模な改築をおこなっている[注釈 6]。そこには、多数の大工・鍛冶・大鋸引・葺士・壁ぬりが参加したことが記録にのこされている[13]。
宍戸転封と伊勢での蟄居
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川方に立ち、小野寺義道を平鹿郡大森城(秋田県横手市大森町)に攻めた[14]。これについては、山形城城主最上義光が、実季が裏では小野寺方と通じていて実は徳川方と言えないとして徳川家康に訴えている[15]。それに対し、実季は弁明し、家康の嫌疑を晴らすことに成功した[15]。
慶長7年(1602年)、徳川家康の命を受けて常陸の宍戸に転封された。関ヶ原戦の際に不手際があったともいわれるが、常陸国の大名佐竹氏の秋田・仙北への入部にともなうものであった[15]。このとき、姓を秋田から伊駒へと改めている(その後復姓)が、太閤蔵入地とされた旧領が豊臣氏の所領として家康によって没収されたことに対し、実季が不満を抱いたのではないかとも推測される。慶長16年1月15日(1611年2月27日)には、従来自称してきた従五位下秋田城介に正式に補任された。
宍戸藩主となった実季は、慶長19年(1614年)の大坂夏の陣では豊臣方先鋒隊らと激突したものの大損害を出し、敗北を喫した。寛永7年(1630年)、元和偃武後も戦国大名らしい気骨が横溢していることが幕府の忌み嫌うところとなり、突如伊勢国朝熊(三重県伊勢市朝熊町)へ蟄居を命じられた[14]。子の俊季との不和説や、従来からの檜山系・湊系による家臣間の対立が背後にあったのではないかとする見解もあるが、詳細は不明である。なお、秋田氏は嫡子俊季の幕府への忠節と、俊季の母[注釈 7]が将軍秀忠の妻崇源院[注釈 8]の従姉妹にあたることも幸いして、陸奥三春5万5,000石に移され存続を許された。
寛永7年以降約30年にわたり、実季は伊勢朝熊の永松寺草庵にて蟄居生活を余儀なくされた[16]。万治2年(1660年)、同地にて死去した。享年84。朝熊永松寺には、実季の用いた食器等の日用品が現在も残されている[16]。
人物
実季の帰依した若狭国(福井県)小浜の羽賀寺に僧形像がのこり[17]、福井県の有形文化財(歴史資料)に指定されている[18]。陸奥国三春には俗身で束帯姿の木像がのこる。和歌や文筆、また、茶道にも優れた教養人であったといわれる。以下は、実季ののこした歌である。
我が庵は 道みえぬまで 茂りぬる すすきの絲の 心ぼそしや
脚注
注釈
- ^ 『秋田家系図』などでは応永年間(15世紀初頭)に津軽下国家が秋田湊を討伐するという記述があるものの、江戸時代の菅江真澄の著作に描かれた男鹿半島地方の神社の棟札や寺院境内の多宝塔の紀年銘などより、現在では安東一支族の秋田地方定着は鎌倉時代にさかのぼることが確実視されている。塩谷(1987)p.93
- ^ 檜山安東氏は、16世紀に入ってからも蝦夷地の代官蠣崎氏(のちの松前氏)の徴収する関銭の大半を上納させ、軍役を課すなど蝦夷沙汰権に由来する経済力と軍事力を有していた。小林(1978)p.170。原出典は海保(1976)
- ^ 蔵入地は秋田郡の八郎潟南東岸や豊島郡(のちの河辺郡)の肥沃な土地が多く、実季領と入り組んでいた。今村(1969)p.66
- ^ 『浅野家文書』によれば、東北地方の大名の割当は、蒲生1,500名、伊達500名、最上300名、南部100名、由利五人衆88名、本堂25名、大崎10名であった。天正19年の『覚上公御書集』では蒲生3000名、最上500名、秋田250名、南部200名、津軽150名となっている。なお、『覚上公御書集』記載の員数は渡海割当だけではなく、それを含む軍役の総数である。藤木(1978)pp.230-233
- ^ 『秋田城之助殿分限帳』によれば、蔵入地2万9,000石余については実季の家臣13名が代官となって村落の支配にあたっており、代官13名は重臣から軽輩までさまざまな階層の家臣より成る。実季直領は1万700石余で一族重臣による代官24名による支配がなされる。一族重臣24名は「三ケ一代官衆」ととばれてその分の石高は2万3,200石余、一般家臣には多種多様な家臣を含む97名で、その分は3万1,000石余であった。それ以外に、特定の職能にもとづく軽輩を主体とする直属家臣団があり、鉄砲衆45名1,250石、御鎧衆24名514名、飛脚衆12名151石という内訳であった。他に寺社領として2,303石があてられていた。加藤(1982)pp.199-200
- ^ 湊安東氏は長期にわたって秋田市高清水丘の古代秋田城を利用していた。湊城が土崎の地にうつったのは織豊政権期に入ってからであり、一国一城令によって廃城となったのちに現在曳山行事で有名な土崎神明社が建てられた。塩谷(1987)p.117
- ^ 細川信良の娘円光院。秋田実季の正室であった。
- ^ 浅井長政・お市の方夫婦の三女江。いわゆる浅井三姉妹のひとり。織田信長からは姪にあたる。
参照
- ^ 塩谷(1987)「安東氏とその時代」pp.93-94
- ^ a b c d 小和田(2007)「湊騒動の顛末」pp.137-140
- ^ 今村(1969)p.60
- ^ 小林(1978)pp.169-172
- ^ 今村(1969)p.62
- ^ a b c 板橋(2000)pp.62-63
- ^ a b 今村(1969)p.66
- ^ 塩谷(1987)「秋田杉と手工業」pp.101-102
- ^ 今村(1969)p.66-67
- ^ 藤木(1978)pp.230-233
- ^ 加藤「豊臣政権と秋田地方」(1982)pp.202-204
- ^ 加藤(1982)pp.199-200
- ^ 塩谷(1987)「秋田杉と手工業」pp.117-118
- ^ a b 鈴木(1981)p.71
- ^ a b c 加藤「慶長五年の明暗」(1982)pp.213-216
- ^ a b 塩谷(1987)「秋田杉と手工業」pp.122-123
- ^ 「図説福井県史」中世12(福井県公文書館)
- ^ 福井県の文化財(福井県)
参考文献
- 今村義孝『秋田県の歴史』山川出版社、1969年11月。ISBN 4-634-23050-X
- 小林清治「大名権力の形成」小林・大石直正編『中世奥羽の世界』東京大学出版会、1978年4月。
- 藤木久志「中世奥羽の終末」小林清治・大石直正編『中世奥羽の世界』東京大学出版会、1978年4月。
- 鈴木登「安東氏」『秋田大百科事典』秋田魁新報社、1981年9月。ISBN 4-870-20-007-4
- 加藤民夫「豊臣政権と秋田地方」塩谷順耳編『中世の秋田』秋田魁新報社<さきがけ新書>、1982年10月。ISBN 4-87020-017-1
- 加藤民夫「慶長五年の明暗」塩谷順耳編『中世の秋田』秋田魁新報社<さきがけ新書>、1982年10月。ISBN 4-87020-017-1
- 塩谷順耳「安東氏とその時代」田口勝一郎責任編集『図説秋田県の歴史』河出書房新社、1987年7月。ISBN 4-309-61105-2
- 塩谷順耳「秋田杉と手工業」田口勝一郎責任編集『図説秋田県の歴史』河出書房新社、1987年7月。ISBN 4-309-61105-2
- 板橋範芳「Ⅱ北秋田の歴史」『街道の日本史9 北秋田と羽州街道』吉川弘文館、2000年12月。ISBN 4-642-06209-2
- 小和田哲男「湊騒動の顛末」『名城と合戦の日本史』新潮社<新潮選書>、2007年5月。ISBN 978-4-10-603580-7
関連文献
- 海保嶺夫「松前家臣団の成立-道南における中世的世界の解体過程-」『松前藩と松前9』、1976年。
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