「三隈 (重巡洋艦)」の版間の差分
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|発注||([[マル1計画]]) |
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|就役||[[1935年]]8月29日 |
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|沈没||[[1942年]]6月5日 |
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|除籍||1942年8月10日 |
|除籍||1942年8月10日 |
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!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|性能諸元 |
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| style="white-space:nowrap;" |[[排水量]] |
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|航空機||3機(カタパルト2基) |
|航空機||3機(カタパルト2基) |
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|colspan="2" style="text-align: center; margin: 0 auto;"|[[ファイル:Sinking of japanese cruiser Mikuma 6 june 1942.jpg|300px|大破した三隈]]<br />大破した三隈 |
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'''三隈'''(みくま)は、旧[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[重巡洋艦]]で、[[最上型重巡洋艦]]の2番艦。三菱造船長崎造船所<!-- 1934年から三菱重工業--> |
'''三隈'''(みくま)は、旧[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[重巡洋艦]]で、[[最上型重巡洋艦]]の2番艦。三菱造船長崎造船所<!-- 1934年から三菱重工業-->にて建造された。艦名は[[大分県]]の[[日田盆地]]を流れる[[三隈川]]に因る。[[ミッドウェー海戦]]で沈没し、太平洋戦争で最初に失われた日本海軍の[[重巡洋艦]]となった。 |
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にて建造。艦名は[[大分県]]の[[日田盆地]]を流れる[[三隈川]]に因んで命名された。 |
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==艦歴== |
==艦歴== |
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=== 建造 === |
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「三隈」は[[1931年]][[12月24日]] [[三菱重工業長崎造船所|三菱造船長崎造船所]](現・三菱重工長崎造船所)にて<ref>「三菱重工業に於て建造の軍艦三隅進水の件」</ref>、計画排水量8,636トン、水線全長190.5m、[[60口径三年式15.5cm3連装砲|60口径15.5cm3連装砲塔5基]]を備えた[[軽巡洋艦|二等巡洋艦]]として起工された<ref>「第171号の9 10.9.5 三隈」p.2</ref><ref>「三菱重工業に於て建造の軍艦三隅進水の件」p.3</ref>。[[1934年]][[5月31日]] 、[[米内光政]][[佐世保鎮守府]]長官や皇族の[[伏見宮博恭王]]が見守る中で進水する<ref>「軍艦三隅進水式実況放送の件」p.3、「三菱重工業に於て建造の軍艦三隅進水の件」p.1</ref>。翌年5月末の完成を目指して艤装工事が行われていたが<ref>「軍艦三隅工事概括表変更認許の件」p.2</ref>、[[藤本喜久雄]][[少将]] が設計した[[千鳥型水雷艇]]「[[友鶴 (水雷艇)|友鶴]]」が転覆する[[友鶴事件]]が発生し、藤本の設計による[[最上型重巡洋艦]]の工事も急遽中断された<ref>「巡洋艦最上、三隅竣工期日変更の件」p.3</ref>。「最上」を調査したところ船体推進軸付近や内部構造に破損が見つかり、「三隈」も補強工事を行う<ref>「最上三隅船体部補強工事に伴ひ工事予定変更に関する件」p.2</ref>。[[1935年]][[8月29日]] に就役した時には基準排水量が1万トンを超えていたが、対外的には8,600トン公表のままだった<ref>「第25号の27.1.14三隈」p.2</ref>。 |
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| image1 = BurningMikuma.jpg |
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| caption1 = 空撮された炎上する三隈 |
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竣工した「三隈」は第四艦隊に編入されたが、1ヵ月後の[[9月26日]]、 [[三陸沖]]にて「[[第四艦隊事件]]」に遭遇する。[[1939年]][[12月30日]]、5基の15.5cm三連装砲塔を、他の日本軍重巡洋艦と共通する[[五十口径三年式二〇糎砲]](20.3cm連装砲塔)5基に換装する。15.5cm砲は用兵側からの評価が高く、後に砲塔のみ新造して[[大和型戦艦]]の副砲や軽巡洋艦「[[大淀 (軽巡洋艦)|大淀]]」の主砲に流用している。 |
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* [[1931年]][[12月24日]] [[三菱重工業長崎造船所|三菱造船長崎造船所]](現・三菱重工長崎造船所)にて起工。 |
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* [[1934年]][[5月31日]] 進水 |
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=== 緒戦 === |
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* [[1935年]][[8月29日]] 就役。第四艦隊に編入。 |
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「三隈」は[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])緒戦において姉妹艦3隻と第七戦隊([[旗艦]]:[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]])、を編成し、[[南方作戦]]に投入された。[[蘭印作戦]]にも従事し、船団護衛や上陸支援を行う。[[1942年]](昭和17年)3月1日の[[バタビア沖海戦]]では[[最上 (重巡洋艦)|最上]]と[[三隈 (重巡洋艦)|三隈]]は共同して米重巡洋艦「[[ヒューストン (重巡洋艦)|ヒューストン]]」、豪軽巡洋艦「[[パース (軽巡洋艦)|パース]]」を撃沈した。[[セイロン沖海戦]]では4隻そろって参加している。 |
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** [[9月26日]] [[三陸沖]]にて「[[第四艦隊事件]]」に遭遇。 |
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* [[1939年]][[12月30日]] 20サンチ砲(サンチは[[フランス語|仏語]]読み)に主砲換装終了。 |
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=== ミッドウェー海戦 === |
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* [[1942年]][[3月1日]] [[バタビア沖海戦]]に参加。僚艦「[[最上 (重巡洋艦)|最上]]」とともに米重巡「[[ヒューストン (重巡洋艦)|ヒューストン]]」、豪軽巡「[[パース (軽巡洋艦)|パース]]」を撃沈。 |
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{{Main|ミッドウェー海戦}} |
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** [[6月5日]] [[ミッドウェー海戦]]に参加。[[ミッドウェー島]]の西で「[[最上 (重巡洋艦)|最上]]」と衝突。本艦は損害軽微。 |
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** [[6月7日]] 大破した「最上」の護衛の命を受け、本隊から後落し退却中を米艦載機の徹底した[[波状攻撃]]を受け大破炎上。[[ミッドウェー島]]北西600浬の地点で沈没(雷撃処分説あり)。 |
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1942年6月に生起した[[ミッドウェー海戦]]で、「三隈」は[[近藤信竹]]中将指揮する[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]、第七戦隊三番艦として参加し<ref>「ミッドウエー海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」p.3</ref>、支援隊(輸送船団護衛艦隊)として第二艦隊主隊とは別行動をとった<ref>「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.5</ref>。5月28日、グアム島を出港して[[ミッドウェー島]]占領部隊(輸送船団)と合流し、作戦海域へ向かう。写真からは1番砲塔の天蓋に日の丸を描いていたのが確認できる。 |
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** 8月10日 除籍。 |
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==== ミッドウェー島砲撃命令 ==== |
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日本時間6月5日午前7時25-30分、[[南雲忠一]]中将指揮する[[第一航空艦隊|南雲機動部隊]]の主力空母「[[赤城 (空母)|赤城]]」、「[[加賀 (空母)|加賀]]」、「[[蒼龍 (空母)|蒼龍]]」は[[レイモンド・スプルーアンス]]少将率いる米軍[[第16任務部隊]]と[[第17任務部隊]]の空母「[[ヨークタウン (CV-5)|ヨークタウン]] 」(''USS Yorktown, CV-5'')、空母「[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]] 」(''USS Enterprise, CV-6'')、空母「[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]] 」(''USS Hornet, CV-8'')艦載機の攻撃で致命傷を負った。この時点で日本軍は、[[彗星 (航空機)|試作彗星爆撃機]]の偵察結果や米軍搭乗員捕虜の尋問結果から米軍戦力の正確な情報を得た<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.39、[[#プランゲ下]]61頁</ref>。[[大和型戦艦|戦艦]]「[[大和 (戦艦)|大和]]」に座乗する連合艦隊司令部([[山本五十六]]司令長官、[[宇垣纏]]参謀長、[[黒島亀人]]参謀等)は、日本軍3空母被弾時点で健在だった空母「[[飛龍 (空母)|飛龍]]」の攻撃で米空母に損害を与えたのち夜戦に持ち込めば「勝利の望みあり」と判断する<ref>[[#プランゲ下]]112頁</ref>。[[旗艦]]「赤城」から脱出後、[[長良型軽巡洋艦|軽巡洋艦]]「[[長良 (軽巡洋艦)|長良]]」に移乗していた南雲司令部(南雲中将、[[草鹿龍之介]]参謀長)も連合艦隊司令部と同じ認識を持っていた<ref>[[#プランゲ下]]88頁</ref>。 |
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ここで[[ミッドウェー島]]飛行場が問題となった<ref name="プランゲ116">[[#プランゲ下]]116頁</ref>。ハワイから増援航空兵力がミッドウェー基地飛行場に飛来し、同島基地飛行隊と米軍機動部隊により日本軍艦隊が挟み撃ちにされる可能性が生じたのである<ref>[[#戦藻録(九版)]]132頁、[[#プランゲ下]]116頁</ref>。宇垣参謀長は南雲艦隊に『ミッドウェーに対する成果、特に敵機が明朝同基地を使用し得るかにつき報告ありたし』と照会するが、南雲司令部からの返答はなかった<ref>[[#戦藻録(九版)]]132頁、[[#プランゲ下]]115頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.48</ref>。[[黒島亀人]]参謀達は夜間のうちに第二艦隊(近藤艦隊)の巡洋艦部隊でミッドウェー島を砲撃することを提案し、[[宇垣纏]]参謀長は最初反対したが、最終的に同意した<ref>[[#亀井戦記]]497頁、[[#戦藻録(九版)]]132頁、[[#プランゲ下]]116頁</ref>。日本時間午前10時10分、山本長官は連合艦隊電令作第156号『攻略部隊は一部の兵力を以って今夜AF陸上航空基地砲撃破壊すべし。AF、AO攻略は一時延期す』と発令する<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.39-40、「軍艦愛宕戦闘詳報(2)」p.4、「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.15、[[#亀井戦記]]498頁</ref>。午前11時、山本から命令を受けた[[近藤信竹]]中将・第二艦隊司令官は、[[栗田健男]]少将の第七戦隊([[熊野 (重巡洋艦)|熊野]]、[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]]、三隈、[[最上 (重巡洋艦)|最上]])、駆逐艦「[[荒潮 (駆逐艦)|荒潮]]」「[[朝潮 (朝潮型駆逐艦)|朝潮]]」に対し、6月6日夜明け前のミッドウェー島進出と砲撃を命じた<ref>[[#プランゲ下]]116頁、「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.16</ref>。近藤中将は、栗田の第七戦隊が予定どおり最も前方に進出してミッドウェー島に近い距離にいると考えていたが、実際にはかなり離れていた<ref>[[#亀井戦記]]499頁、[[#聯合艦隊作戦室]]65頁</ref>。鈴木正金(中佐・七戦隊首席参謀)は「連合艦隊は空母をやられて血迷ったか」と発言し、山内正規(最上航海長)は「横暴」という表現を使っている<ref>[[#亀井戦記]]500頁</ref>。近藤中将は第七戦隊からの報告で同戦隊の正確な位置情報(愛宕の真南120浬。上陸船団のはるか後方)を入手し、[[中島親孝]](第二艦隊通信参謀)は『いつもながら困った戦隊である』と述べている<ref>[[#聯合艦隊作戦室]]65頁</ref>。第七戦隊が夜明けまでにミッドウェー島に到着するのは困難と判断した近藤は連合艦隊に砲撃中止を求めたが、連合艦隊参謀達は特に対策を講じず、返信もなかった<ref>[[#亀井戦記]]501頁、[[#戦藻録(九版)]]132頁、[[#聯合艦隊作戦室]]66頁</ref>。 |
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「三隈」を含む第七戦隊はミッドウェー島へ向かって35ノットという最大戦速で南進した<ref>[[#吉田指揮官]]165頁</ref>。午後2時20分、栗田少将(第七戦隊司令官)は重巡洋艦の突進についてゆけない第八駆逐隊(荒潮、朝潮)に待機を命じる<ref>「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」pp.16-17</ref>。また後に空母「ヨークタウン」を撃沈する潜水艦「[[伊一六八]]」も午後5時30分に『伊168は午後11時までミッドウェー(イースタン島)敵航空基地を砲撃すべし。2300以後は第七戦隊とす』という連合艦隊命令を受信している<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.7</ref>。この間、[[第二航空戦隊]]司令官[[山口多聞]]少将率いる空母「[[飛龍 (空母)|飛龍]]」は米空母「ヨークタウン」に二波の攻撃隊を送り込んで撃破・航行不能としたが、「飛龍」もまた米軍機動部隊艦載機の攻撃により被弾して炎上した。「加賀」と「蒼龍」は既に沈没し、南雲機動部隊の残存空母は「赤城」と「飛龍」のみとなり、激しい火災のため両艦とも沈没は時間の問題だった。日本時間午後9時15分、山本長官はGF機密第303番電で『第七戦隊を含む攻略部隊(第二艦隊)、南雲機動部隊は連合艦隊主力部隊に合同せよ』と命じた<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.11、「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.23</ref>。事実上のミッドウェー島砲撃中止命令である。第七戦隊は「大和」以下連合艦隊主力部隊と合流すべく反転した<ref name="愛宕詳報弐4">「軍艦愛宕戦闘詳報(2)」p.4</ref>。ミッドウェー島砲撃可能距離まで、あと2時間程だったという<ref>[[#亀井戦記]]546頁</ref>。日本時間午後11時55分、山本長官はGF電令作第161号で明確にミッドウェー攻略作戦の中止と、各艦隊の撤退を命じた<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」pp.13-14</ref>。 |
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==== 軍艦衝突 ==== |
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第七戦隊は針路を北北西にとり、28ノットで連合艦隊主隊との合流地点へ急いだ<ref>[[#証言ミッドウェー海戦]]188頁、[[#亀井戦記]]546頁</ref>。陣形は、旗艦「[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]]」を先頭に「[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]]」、「三隈」、「[[最上 (重巡洋艦)|最上]]」と続く一列縦列(単縦陣)である。第七戦隊の反転から約1時間20分後、米潜水艦「[[タンバー (潜水艦)|タンバー]]」 (''USS Tambor, SS-198'')は数隻の艦隊を発見し、位置情報を打電した<ref>[[#亀井戦記]]547頁、[[#プランゲ下]]149頁</ref>。直後、「タンパー」は日本艦隊が接近したため急速潜航を行う<ref name="プランゲ下149">[[#プランゲ下]]149頁</ref>。同時刻、第七戦隊も右45度前方5000mに「タンパー」を発見し、旗艦「熊野」は信号灯による左緊急45度一斉回頭を命じた<ref>[[#亀井戦記]]547頁</ref>。すると岡本功(少佐・熊野当直参謀)が「左45度」1回だけでは回避角度が足りないと判断し、無線電話で追加の「緊急左45度一斉回頭」を命じた<ref>[[#亀井戦記]]548頁</ref>。このため後続艦「鈴谷」は左緊急回頭が1回だけか、2回行うのか、判断に困って混乱する。その間にも二番艦「鈴谷」は先頭艦「熊野」と衝突コースに入り、「鈴谷」は咄嗟に面舵に転じた為、単縦陣形から右方向にはじき出された<ref>[[#亀井戦記]]549頁</ref>。三番艦「三隈」は「鈴谷」が右方向に去ったことに気づかず、左に曲がる「熊野」を「鈴谷」と思い込み、衝突の危険を感じてさらに左に舵を切った<ref>[[#亀井戦記]]550頁</ref>。最後尾艦「最上」は「鈴谷」の離脱に気づかず、くわえて「熊野」を「三隈」と誤認し、左45度1回、左25度1回に変針したあと、右45度面舵に転じて「熊野」に続行した<ref>[[#亀井戦記]]551-552頁</ref>。 |
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福田徳次郎(中佐・最上副長)が「最上」前方を横切る「三隈」に気づいた時には手遅れだった<ref>[[#亀井戦記]]553頁</ref>。28ノットで進む「最上」は「三隈」の左舷中央部に衝突する。両艦の殆どの兵が衝突ではなく被雷と感じた程の衝撃であった<ref>[[#証言ミッドウェー海戦]]182頁、和田正雄(三隈通信科)談。[[#亀井戦記]]554頁、芳野三郎(兵長、最上機関科)、古田賢二(一等水兵、砲術科)</ref>。「最上」は左方向に艦首がつぶれた。「三隈」は艦橋から煙突の下に長さ20m、幅2mの破孔が生じて小火災が発生したが、浸水はわずかで、火災もすぐに消火された<ref>[[#亀井戦記]]558-559頁</ref>。だが左舷燃料タンクが損傷し、油の尾を引くようになる<ref name="プランゲ下149"/>。[[栗田健男]]少将は連合艦隊旗艦「[[大和 (戦艦)|大和]]」に対し『十一時三十分、右45度に浮上中の敵潜を認め緊急回避中、四番艦最上は其艦首を以て三番艦''三隈に衝突''、最上前進見込み立たず、三隈支障なし。地点・・・最上援護中』と報告し、「最上」と「三隈」に南西方向の日本軍拠点[[チューク諸島|トラック島泊地]]へ退避するよう命じる<ref>[[#戦藻録(九版)]]139頁、[[#亀井戦記]]556頁</ref>。その後栗田は「熊野」と「鈴谷」を率いて、主力部隊に合同すべく北西に針路をとった<ref>[[#亀井戦記]]557頁</ref>。この後第七戦隊は上級部隊に一切報告を入れず沈黙し、8日になってからようやく近藤艦隊と合流、[[中島親孝]](第二艦隊通信参謀)は[[栗田健男]]司令官と参謀達を再び『どうも困った部隊である』と評している<ref>[[#聯合艦隊作戦室]]70頁</ref>。「大和」の[[宇垣纏]]連合艦隊参謀長は「第七戦隊を二手に分けるより、戦隊全艦で「最上」を護衛した方が良かったのではないか」と指摘する<ref>[[#戦藻録(九版)]]139頁</ref>。だが強い批判ではなく、その後も栗田が譴責されるような事にはならなかった<ref>[[#吉田指揮官]]167頁</ref>。 |
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この時点での被害は、「三隈」より「最上」の方がひどかった。旗艦「熊野」が去ったため、ミッドウェー島から距離120浬地点で「三隈」は「最上」を指揮し、退避行動に移る<ref>[[#亀井戦記]]560頁</ref>。一方、「タンバー」は魚雷が残っていたにも関わらず、「最上」を追跡しなかった。スプルーアンス少将は彼の息子が乗艦する「タンバー」から第七戦隊発見の報告を受けると、米軍機動部隊を率いて南下した<ref name="プランゲ下152">[[#プランゲ下]]152頁</ref>。6月6日午前6時30分、「三隈」は米軍の[[PBY (航空機)|PBYカタリナ飛行艇]]を発見し、空襲があると判断した乗組員達の間には悲壮な空気が漂いはじめた<ref>[[#証言ミッドウェー海戦]]183頁</ref>。乗組員の予想は的中した。ミッドウェー島から発進した[[B-17 (航空機)|B-17爆撃機]]12機は付近を捜索し、損傷し油を引いた『戦艦2隻』を発見する<ref name="プランゲ下152"/>。すぐにフレミング大尉率いる[[SB2U (航空機)|SB2Uビンジゲーター急降下爆撃機]]6機、テイラー大尉率いる[[SBD (航空機)|SBDドーントレス急降下爆撃機]]6機がミッドウェー島を発進し、日本軍戦艦2隻を仕留めに向かった<ref name="プランゲ下152"/>。午前8時40分、米軍機は攻撃を開始、SBU隊指揮官フレミング大尉は対空砲火で被弾炎上し、「三隈」の四番砲塔に体当たりしたとされる<ref name="プランゲ下153">[[#プランゲ下]]153頁</ref>。米軍海兵隊は、フレミングは「三隈」に直撃弾を与えたものの、被弾して海中に突入したと記録している<ref name="プランゲ下153"/>。フレミングは勇敢な行動により[[名誉勲章|メダル・オブ・オナー(名誉勲章)]]を死後授与された<ref name="プランゲ下153"/>。続いてB-17爆撃機8機が水平爆撃を行い、至近弾3発、命中弾2発を主張した<ref name="プランゲ下153"/>。もっとも「最上」で2名が戦死したが、命中弾はなかった<ref name="プランゲ下153"/>。「三隈」の被害は不明である<ref>[[#戦藻録(九版)]]143頁、[[#亀井戦記]]562頁</ref>。第二艦隊への報告では、両艦とも被害なしだったという<ref>[[#聯合艦隊作戦室]]69頁</ref>。米軍機動部隊指揮官スプルーアンス少将は『戦艦2隻、および炎上中の空母1隻、重巡洋艦3隻見ゆ、方位324度、距離240浬、針路310度、速力12ノット』という報告を受け、南雲機動部隊を追撃し、掃討することを決意した<ref>[[#プランゲ下]]154頁</ref>。 |
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==== 三隈沈没 ==== |
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[[ファイル:BurningMikuma.jpg|right|thumb|300px|大破した「三隈」。酸素魚雷の誘爆により後部の破壊が大きい。]] |
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6月7日午前5時、「三隈」と「最上」は駆逐艦「[[荒潮 (駆逐艦)|荒潮]]」、「[[朝潮 (朝潮型駆逐艦)|朝潮]]」と合流した<ref>[[#亀井戦記]]563頁、「軍艦愛宕戦闘詳報(2)」p.4</ref>。同時刻、空母「ホーネット」索敵機は『空母1隻、駆逐艦5隻』発見を報告し、続いて『さらに戦艦1隻、重巡洋艦1隻、駆逐艦3隻見ゆ』と報告、また別の索敵機も『重巡洋艦2隻、駆逐艦3隻』の発見を報告した<ref>[[#プランゲ下]]169頁、[[#BIG E上]]137頁</ref>。[[レイモンド・スプルーアンス]]少将は南雲機動部隊にとどめをさすべく、空母「[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]] 」(''USS Hornet, CV-8'')に攻撃を命じた<ref name="プランゲ下169">[[#プランゲ下]]169頁</ref>。直ちに[[F4F (航空機)|F4Fワイルドキャット]]8機、[[SBD (航空機)|SBDドーントレス]]26機が発進する<ref name="プランゲ下169"/>。続いて午前10時45分、空母「[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]] 」(''USS Enterprise, CV-6'')からワイルドキャット12機、ドーントレス31機が発進した<ref>[[#プランゲ下]]170頁、[[#BIG E上]]137頁</ref>。スプールアンスを含めて米軍の誰も気付かなかったが、空母と戦艦を含む日本軍機動部隊の正体は、[[最上型重巡洋艦]]「三隈」、艦首を大きく破損した姉妹艦「最上」、駆逐艦「荒潮」、「朝潮」だったのである<ref name="プランゲ下169"/>。 |
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「三隈」は午前7時前後から米軍索敵機を発見し、『敵水偵2機触接、付近に水上艦艇あるものの如し。われ敵空母水上艦艇の追跡を受けつつあり、今よりウェーキ島へ向かう。地点、ウェーキの30度710浬』と発信した<ref>[[#戦藻録(九版)]]144頁、[[#亀井戦記]]566頁</ref>。午前8時25分、「最上」は『敵兵力は空母1、巡洋艦2程度と認む』と発信する<ref>「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.28</ref>。宇垣参謀長は[[近藤信竹]]中将の第二艦隊に救援命令を出すと共に、米軍機動部隊の戦力を空母1-2・特空母2隻程度と推測し、ウェーク島の航空機行動圏内に引き込んで決戦を挑むしかないと判断した<ref>[[#戦藻録(九版)]]144-145頁</ref>。近藤中将は『攻略部隊主隊は敵空母部隊を補足撃滅して三隈、最上を救援せんとす』と[[山本五十六]]連合艦隊司令長官に連絡すると<ref>「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」pp.28-29</ref>、第二艦隊兵力を率いて「三隈」「最上」救援に向かったが、駆逐艦の燃料の関係から20ノットが限界であったという<ref>[[#聯合艦隊作戦室]]70頁</ref>。近藤は部下達に、空母「[[瑞鳳 (空母)|瑞鳳]]」の航空兵力と重巡洋艦が搭載する水上偵察機部隊を用いて全力攻撃をかける覚悟を示している<ref>「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.30</ref>。[[特別攻撃隊|特攻]]を検討したと証言する「瑞鳳」搭乗員もいる<ref>川崎まなぶ『日本海軍の航空母艦 {{small|その生い立ちと戦歴}}』(大日本絵画、2009)124頁。藤井庄輔(一飛曹、55期操練)</ref>。一方、「三隈」は「最上」に「荒潮」と「朝潮」の護衛をつけると3隻を残し、[[ウェーク島]]日本軍基地から発進する[[一式陸上攻撃機]]の飛行圏内に向って単艦で退避行動を開始した<ref name="亀井戦記566">[[#亀井戦記]]566頁</ref>。曽爾章(最上艦長)や山内正規(最上航海長)は「三隈」の行動を理解しつつ、離れていく「三隈」を羨望の思いで見つめていた<ref name="亀井戦記566"/>。 |
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「エンタープライズ」の報告書によれば、6月7日は穏やかな天候で、少し低い所に雲がかかっていた<ref name="big上137">[[#BIG E上]]137頁</ref>。午前7時、「ホーネット」攻撃隊は「[[金剛型戦艦|霧島級戦艦]]」1隻に500kg爆弾2発と250kg爆弾1発の命中を主張し、「最上」、「荒潮」にも爆弾命中を主張する<ref>[[#プランゲ下]]170頁</ref>。「最上」は後部砲塔に深刻な損害を受け、艦中央部で火災が発生し、[[酸素魚雷]]を緊急投棄した<ref>[[#亀井戦記]]578頁</ref>。「最上」の撃沈を確信した米軍機は、「三隈」に目標を変更する<ref name="亀井戦記567">[[#亀井戦記]]567頁</ref>。エンタープライズ攻撃隊は28ノットで西に進む「[[戦艦]]」と「[[高雄型重巡洋艦|愛宕型重巡洋艦]]」を発見、攻撃を開始した<ref>[[#プランゲ下]]170頁、[[#BIG E上]]137頁</ref>。エンタープライズ隊は1,000ポンド爆弾5発命中、2発至近弾を主張し、さらにワイルドキャット戦闘機が12.7mm機銃を撃ちこんだ<ref name="big上137"/>。午前11時の段階で「三隈」は艦橋から艦中央部にかけて集中的に被弾し、機銃砲座の弾薬が炸裂して火災が発生、『三隈大爆発見込なし』という状態になる<ref>[[#戦藻録(九版)]]144頁、[[#プランゲ下]]172頁</ref>。 |
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最後に「ホーネット」から発進した第二波攻撃隊(ドーントレス23機)は、重巡1隻(三隈)に爆弾1発、軽巡洋艦1隻(最上)に爆弾6発の命中を主張した<ref name="プランゲ下174">[[#プランゲ下]]174頁</ref>。「ホーネット」第二波攻撃隊は「三隈」三番砲塔に1発を命中させ、破片が艦橋の天蓋から頭を出していた崎山釈夫艦長に重傷を負わせた<ref name="プランゲ下173">[[#プランゲ下]]173頁</ref>。さらに爆弾が右舷機械室と左舷後部機械室を直撃し、「三隈」は航行不能となる<ref name="プランゲ下173"/>。指揮を継承した高島秀夫(中佐・副長)は部下に脱出のための筏を作らせた<ref name="プランゲ下173"/>。この時、「三隈」攻撃に向かったB-17爆撃機6機は米潜水艦「[[グレイリング (SS-209)|グレイリング]]」(''USS Grayling, SS-209'')を誤爆し、「巡洋艦1隻撃沈」を報告している<ref name="プランゲ下174"/>。 |
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乗組員が20発被弾と推定するほど多数の爆弾を被爆した「三隈」は<ref>[[#証言ミッドウェー海戦]]185頁</ref>、火災により自艦が搭載する[[酸素魚雷]]が誘爆、致命傷となる<ref name="亀井戦記570">[[#亀井戦記]]570頁</ref>。高島副長は総員退去を命じ、彼自身は爆弾の直撃で戦死した<ref>[[#亀井戦記]]573頁</ref>。水平線の向こうから駆逐艦「荒潮」が現れて「三隈」に接近すると、乗組員は歓声を上げて「荒潮」を迎えた<ref>[[#証言ミッドウェー海戦]]186頁</ref>。「荒潮」は多数の三隈乗組員を救助したが、その最中に米軍機の攻撃を受け、後部砲塔に命中した爆弾により戦死者が続出する<ref name="亀井戦記570"/>。さらに、米軍機は海面を漂う三隈乗組員に対し、執拗な機銃掃射を繰り返す<ref>[[#亀井戦記]]571、584頁</ref>。「荒潮」は240名程を救助した段階で退避を余儀なくされ、人力操舵で「三隈」から離れた<ref>[[#亀井戦記]]584頁、[[#証言ミッドウェー海戦]]186頁</ref>。遠ざかる「三隈」になお爆弾が命中したのが目撃されている<ref>[[#亀井戦記]]584頁、[[#証言ミッドウェー海戦]]187頁</ref>。 |
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しばらくして、空母「エンタープライズ」からエド・クローガー中尉と部下のドーントレス2機が発進し、戦果の確認に向かった<ref name="big上138">[[#BIG E上]]138頁</ref>。クローガーは「最上」と駆逐艦2隻を発見できず、廃墟となった「三隈」の周囲を飛行しながら写真を撮影する<ref name="big上138"/>。「三隈」は左舷に傾斜し、右舷からは煙と蒸気がたなびき、主砲は別々の方向を向いて、完全に沈黙していた<ref name="big上138"/>。 |
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太陽が沈み米軍機空襲の危険が去ると、「最上」は「朝潮」に「三隈」脱出者の救援に向かわせた<ref>[[#亀井戦記]]585頁</ref>。空襲を受けた海域に戻った「朝潮」は「三隈」の艦影を発見できず、『三隈所在海面に至りしも艦影を認めず。付近捜索すれども空し』と報告する<ref>[[#亀井戦記]]588頁</ref>。これを受けて「最上」は『三隈所在海面に至るも艦影を見ず。確認したるものなきも沈没せる算段大なりと認む。我れ取り敢えず重傷者を収容、西航を続行す』と連合艦隊に報告し、第二艦隊との合流を急いだ<ref>[[#亀井戦記]]589頁</ref>。米軍も「三隈」の沈没の瞬間を目撃しておらず、「三隈」は人知れず沈没したことになる。6月8日午前中、第二艦隊は「三隈」の生存者を乗せた「最上」、「荒潮」、「朝潮」を収容した<ref>[[#亀井戦記]]591-592頁、「軍艦愛宕戦闘詳報(2)」p.4</ref>。 |
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「三隈」の最後を聞いた[[宇垣纏]]連合艦隊参謀長は、日記に『三隈は損傷なく専ら最上の援護に当たりしつつありしに、其身反りて斃れ最上の援護の目的を果たす。右両艦の運命こそ奇しき縁と云うべく、僚艦間の美風を発揮せるものなり』と記している<ref>[[#戦藻録(九版)]]146頁、[[#亀井戦記]]593頁</ref>。6月9日、米軍潜水艦「[[トラウト (SS-202)|トラウト]]」 (''USS Trout, SS-202'') は漂流する救命筏から2名の三隈乗組員を救助した<ref>[[#プランゲ下]]175頁</ref>。 |
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==歴代艦長== |
==歴代艦長== |
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#[[木村進 (海軍軍人)|木村進]] 大佐:1939年11月15日 - |
#[[木村進 (海軍軍人)|木村進]] 大佐:1939年11月15日 - |
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#崎山釈夫 大佐:1940年11月1日 - |
#崎山釈夫 大佐:1940年11月1日 - |
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== 脚注 == |
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{{Reflist|2}} |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* [http://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所) |
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**Ref.C05110629300「第171号の9 10.9.5 三隈」 |
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**Ref.C05110623500「第25号の27.1.14三隈」 |
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**Ref.C05023428700「第918号 9.2.3 軍艦三隅進水式実況放送の件」 |
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**Ref.C05023495700「第1754号 9.4.19 軍艦三隅進水記念絵葉書調製並に記念撮影に関する件」 |
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**Ref.C05023428800「第2075号 9.5.7 皇族の御差遣を仰度件」 |
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**Ref.C05034226600「第2023号 9.5.4 三菱重工業に於て建造の軍艦三隅進水の件」 |
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**Ref.C05034226700「第2043号 9.9.6 巡洋艦最上、三隅竣工期日変更の件」 |
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**Ref.C05034226900「第2404号 9.10.31 軍艦三隅工事概括表変更認許の件」 |
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**Ref.C05034228500「第1001号 10.4.13 最上三隅船体部補強工事に伴ひ工事予定変更に関する件」 |
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**Ref.C08030745600「昭和17年3月~ 軍艦愛宕戦闘詳報(2)」 |
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**Ref.C08030040400「昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 ミッドウエー海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」 |
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**Ref.C08030024000「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報ミッドウェー作戦(3)」 |
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**Ref.C08030024100「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報ミッドウェー作戦(4)」 |
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**Ref.C08030112500「昭和17年4月1日~昭和17年6月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)」 |
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*{{Cite book|和書|author=[[宇垣纏]]著|coauthors=[[成瀬恭]]発行人|year=1968|title=戦藻録|publisher=原書房|ref=戦藻録(九版)}} |
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* 雑誌「丸」編集部『丸スペシャルNo122 重巡最上型/利根型』(潮書房、1987年) |
* 雑誌「丸」編集部『丸スペシャルNo122 重巡最上型/利根型』(潮書房、1987年) |
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* 雑誌「丸」編集部『 |
* 雑誌「丸」編集部『{{small|写真}} 日本の軍艦 第7巻 {{small|重巡Ⅲ}}』(光人社、1990年) ISBN 4-7698-0457-1 |
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*{{Cite book|和書|author=[[橋本敏男]]|coauthors=[[田辺弥八]]ほか|year=1992|title=証言・ミッドウェー海戦 {{small|私は炎の海で戦い生還した!}}|publisher=光人社|isbn=4-7698-0606-x|ref=証言ミッドウェー海戦}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[亀井宏]]|year=1995|month=2|title=ミッドウェー戦記 {{small|さきもりの歌}}|publisher=光人社|isbn=4-7698-2074-7|ref=亀井戦記}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[吉田俊雄]]{{small|(元大本営海軍参謀)}}|year=1996|month=1|title=良い指揮官 良くない指揮官 {{small|14人の海軍トップを斬る!}}|publisher=光人社|isbn=4-7698-0746-5|ref=吉田指揮官}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[中島親孝]]|year=1997|month=10|title=聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争 {{small|参謀が描く聯合艦隊興亡記}}|publisher=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2175-1|ref=聯合艦隊作戦室}} 中島は近藤中将の第二艦隊参謀として「愛宕」に乗艦していた。 |
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* 「歴史群像」編集部『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.38 最上型重巡』(学習研究社、2002年) ISBN 4-05-602880-X |
* 「歴史群像」編集部『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.38 最上型重巡』(学習研究社、2002年) ISBN 4-05-602880-X |
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*{{Cite book|和書|author=[[ゴードン・ウィリアム・プランゲ]]著|coauthors=[[千早正隆]]訳|year=2005|title=ミッドウェーの奇跡 上巻|publisher=原書房|isbn=4-562-03874-8|ref=プランゲ上}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[ゴードン・ウィリアム・プランゲ]]著|coauthors=[[千早正隆]]訳|year=2005|title=ミッドウェーの奇跡 下巻|publisher=原書房|isbn=4-562-03875-6|ref=プランゲ下}} |
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*{{Cite book|和書|author=エドワード・P・スタッフォード 著|coauthors=井原裕司 訳|year=2007|title=空母エンタープライズ {{small|THE BIG E}} 上巻|publisher=元就出版社|isbn=978-4-86106-157-8|ref=BIG E上}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[大日本帝国海軍艦艇一覧]] |
* [[大日本帝国海軍艦艇一覧]] |
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* [[最上型重巡洋艦]] |
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{{日本の重巡洋艦}} |
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[[es:Mikuma (1935)]] |
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[[ru:Микума (1935)]] |
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2011年10月27日 (木) 16:08時点における版
艦歴 | |
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発注 | (マル1計画) |
起工 | 1931年12月24日 |
進水 | 1934年5月31日 |
就役 | 1935年8月29日 |
沈没 | 1942年6月5日 |
位置 | 北緯29度20分 東経173度30分 / 北緯29.333度 東経173.500度 |
除籍 | 1942年8月10日 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:11,200トン |
全長 | 200.6 m |
全幅 | 20.6m |
吃水 | 6.9 m(新造時) |
機関 | ロ号艦本式缶大型8基、同小型2基 艦本式タービン4基4軸 154,056馬力(新造時公試成績) |
速力 | 36.47 ノット (新造時公試成績) |
航続距離 | 14ノットで8,778海里(新造時公試成績) |
燃料 | 重油:2,178t(新造時実測値) |
兵員 | 950名(C-37計画乗員) |
兵装 (竣工時) |
60口径15.5cm3連装砲塔5基 40口径12.7cm連装高角砲4基 25mm連装機銃4基 13mm連装機銃2基 61cm3連装魚雷発射管4基 |
兵装 (主砲換装後) |
50口径20.3cm連装砲塔5基 40口径12.7cm連装高角砲4基 25mm連装機銃4基 13mm連装機銃2基 61cm3連装魚雷発射管4基 |
装甲 | 舷側:140mm 甲板:60mm |
航空機 | 3機(カタパルト2基) |
大破した三隈 |
三隈(みくま)は、旧日本海軍の重巡洋艦で、最上型重巡洋艦の2番艦。三菱造船長崎造船所にて建造された。艦名は大分県の日田盆地を流れる三隈川に因る。ミッドウェー海戦で沈没し、太平洋戦争で最初に失われた日本海軍の重巡洋艦となった。
艦歴
建造
「三隈」は1931年12月24日 三菱造船長崎造船所(現・三菱重工長崎造船所)にて[1]、計画排水量8,636トン、水線全長190.5m、60口径15.5cm3連装砲塔5基を備えた二等巡洋艦として起工された[2][3]。1934年5月31日 、米内光政佐世保鎮守府長官や皇族の伏見宮博恭王が見守る中で進水する[4]。翌年5月末の完成を目指して艤装工事が行われていたが[5]、藤本喜久雄少将 が設計した千鳥型水雷艇「友鶴」が転覆する友鶴事件が発生し、藤本の設計による最上型重巡洋艦の工事も急遽中断された[6]。「最上」を調査したところ船体推進軸付近や内部構造に破損が見つかり、「三隈」も補強工事を行う[7]。1935年8月29日 に就役した時には基準排水量が1万トンを超えていたが、対外的には8,600トン公表のままだった[8]。
竣工した「三隈」は第四艦隊に編入されたが、1ヵ月後の9月26日、 三陸沖にて「第四艦隊事件」に遭遇する。1939年12月30日、5基の15.5cm三連装砲塔を、他の日本軍重巡洋艦と共通する五十口径三年式二〇糎砲(20.3cm連装砲塔)5基に換装する。15.5cm砲は用兵側からの評価が高く、後に砲塔のみ新造して大和型戦艦の副砲や軽巡洋艦「大淀」の主砲に流用している。
緒戦
「三隈」は太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦において姉妹艦3隻と第七戦隊(旗艦:熊野)、を編成し、南方作戦に投入された。蘭印作戦にも従事し、船団護衛や上陸支援を行う。1942年(昭和17年)3月1日のバタビア沖海戦では最上と三隈は共同して米重巡洋艦「ヒューストン」、豪軽巡洋艦「パース」を撃沈した。セイロン沖海戦では4隻そろって参加している。
ミッドウェー海戦
1942年6月に生起したミッドウェー海戦で、「三隈」は近藤信竹中将指揮する第二艦隊、第七戦隊三番艦として参加し[9]、支援隊(輸送船団護衛艦隊)として第二艦隊主隊とは別行動をとった[10]。5月28日、グアム島を出港してミッドウェー島占領部隊(輸送船団)と合流し、作戦海域へ向かう。写真からは1番砲塔の天蓋に日の丸を描いていたのが確認できる。
ミッドウェー島砲撃命令
日本時間6月5日午前7時25-30分、南雲忠一中将指揮する南雲機動部隊の主力空母「赤城」、「加賀」、「蒼龍」はレイモンド・スプルーアンス少将率いる米軍第16任務部隊と第17任務部隊の空母「ヨークタウン 」(USS Yorktown, CV-5)、空母「エンタープライズ 」(USS Enterprise, CV-6)、空母「ホーネット 」(USS Hornet, CV-8)艦載機の攻撃で致命傷を負った。この時点で日本軍は、試作彗星爆撃機の偵察結果や米軍搭乗員捕虜の尋問結果から米軍戦力の正確な情報を得た[11]。戦艦「大和」に座乗する連合艦隊司令部(山本五十六司令長官、宇垣纏参謀長、黒島亀人参謀等)は、日本軍3空母被弾時点で健在だった空母「飛龍」の攻撃で米空母に損害を与えたのち夜戦に持ち込めば「勝利の望みあり」と判断する[12]。旗艦「赤城」から脱出後、軽巡洋艦「長良」に移乗していた南雲司令部(南雲中将、草鹿龍之介参謀長)も連合艦隊司令部と同じ認識を持っていた[13]。
ここでミッドウェー島飛行場が問題となった[14]。ハワイから増援航空兵力がミッドウェー基地飛行場に飛来し、同島基地飛行隊と米軍機動部隊により日本軍艦隊が挟み撃ちにされる可能性が生じたのである[15]。宇垣参謀長は南雲艦隊に『ミッドウェーに対する成果、特に敵機が明朝同基地を使用し得るかにつき報告ありたし』と照会するが、南雲司令部からの返答はなかった[16]。黒島亀人参謀達は夜間のうちに第二艦隊(近藤艦隊)の巡洋艦部隊でミッドウェー島を砲撃することを提案し、宇垣纏参謀長は最初反対したが、最終的に同意した[17]。日本時間午前10時10分、山本長官は連合艦隊電令作第156号『攻略部隊は一部の兵力を以って今夜AF陸上航空基地砲撃破壊すべし。AF、AO攻略は一時延期す』と発令する[18]。午前11時、山本から命令を受けた近藤信竹中将・第二艦隊司令官は、栗田健男少将の第七戦隊(熊野、鈴谷、三隈、最上)、駆逐艦「荒潮」「朝潮」に対し、6月6日夜明け前のミッドウェー島進出と砲撃を命じた[19]。近藤中将は、栗田の第七戦隊が予定どおり最も前方に進出してミッドウェー島に近い距離にいると考えていたが、実際にはかなり離れていた[20]。鈴木正金(中佐・七戦隊首席参謀)は「連合艦隊は空母をやられて血迷ったか」と発言し、山内正規(最上航海長)は「横暴」という表現を使っている[21]。近藤中将は第七戦隊からの報告で同戦隊の正確な位置情報(愛宕の真南120浬。上陸船団のはるか後方)を入手し、中島親孝(第二艦隊通信参謀)は『いつもながら困った戦隊である』と述べている[22]。第七戦隊が夜明けまでにミッドウェー島に到着するのは困難と判断した近藤は連合艦隊に砲撃中止を求めたが、連合艦隊参謀達は特に対策を講じず、返信もなかった[23]。
「三隈」を含む第七戦隊はミッドウェー島へ向かって35ノットという最大戦速で南進した[24]。午後2時20分、栗田少将(第七戦隊司令官)は重巡洋艦の突進についてゆけない第八駆逐隊(荒潮、朝潮)に待機を命じる[25]。また後に空母「ヨークタウン」を撃沈する潜水艦「伊一六八」も午後5時30分に『伊168は午後11時までミッドウェー(イースタン島)敵航空基地を砲撃すべし。2300以後は第七戦隊とす』という連合艦隊命令を受信している[26]。この間、第二航空戦隊司令官山口多聞少将率いる空母「飛龍」は米空母「ヨークタウン」に二波の攻撃隊を送り込んで撃破・航行不能としたが、「飛龍」もまた米軍機動部隊艦載機の攻撃により被弾して炎上した。「加賀」と「蒼龍」は既に沈没し、南雲機動部隊の残存空母は「赤城」と「飛龍」のみとなり、激しい火災のため両艦とも沈没は時間の問題だった。日本時間午後9時15分、山本長官はGF機密第303番電で『第七戦隊を含む攻略部隊(第二艦隊)、南雲機動部隊は連合艦隊主力部隊に合同せよ』と命じた[27]。事実上のミッドウェー島砲撃中止命令である。第七戦隊は「大和」以下連合艦隊主力部隊と合流すべく反転した[28]。ミッドウェー島砲撃可能距離まで、あと2時間程だったという[29]。日本時間午後11時55分、山本長官はGF電令作第161号で明確にミッドウェー攻略作戦の中止と、各艦隊の撤退を命じた[30]。
軍艦衝突
第七戦隊は針路を北北西にとり、28ノットで連合艦隊主隊との合流地点へ急いだ[31]。陣形は、旗艦「熊野」を先頭に「鈴谷」、「三隈」、「最上」と続く一列縦列(単縦陣)である。第七戦隊の反転から約1時間20分後、米潜水艦「タンバー」 (USS Tambor, SS-198)は数隻の艦隊を発見し、位置情報を打電した[32]。直後、「タンパー」は日本艦隊が接近したため急速潜航を行う[33]。同時刻、第七戦隊も右45度前方5000mに「タンパー」を発見し、旗艦「熊野」は信号灯による左緊急45度一斉回頭を命じた[34]。すると岡本功(少佐・熊野当直参謀)が「左45度」1回だけでは回避角度が足りないと判断し、無線電話で追加の「緊急左45度一斉回頭」を命じた[35]。このため後続艦「鈴谷」は左緊急回頭が1回だけか、2回行うのか、判断に困って混乱する。その間にも二番艦「鈴谷」は先頭艦「熊野」と衝突コースに入り、「鈴谷」は咄嗟に面舵に転じた為、単縦陣形から右方向にはじき出された[36]。三番艦「三隈」は「鈴谷」が右方向に去ったことに気づかず、左に曲がる「熊野」を「鈴谷」と思い込み、衝突の危険を感じてさらに左に舵を切った[37]。最後尾艦「最上」は「鈴谷」の離脱に気づかず、くわえて「熊野」を「三隈」と誤認し、左45度1回、左25度1回に変針したあと、右45度面舵に転じて「熊野」に続行した[38]。
福田徳次郎(中佐・最上副長)が「最上」前方を横切る「三隈」に気づいた時には手遅れだった[39]。28ノットで進む「最上」は「三隈」の左舷中央部に衝突する。両艦の殆どの兵が衝突ではなく被雷と感じた程の衝撃であった[40]。「最上」は左方向に艦首がつぶれた。「三隈」は艦橋から煙突の下に長さ20m、幅2mの破孔が生じて小火災が発生したが、浸水はわずかで、火災もすぐに消火された[41]。だが左舷燃料タンクが損傷し、油の尾を引くようになる[33]。栗田健男少将は連合艦隊旗艦「大和」に対し『十一時三十分、右45度に浮上中の敵潜を認め緊急回避中、四番艦最上は其艦首を以て三番艦三隈に衝突、最上前進見込み立たず、三隈支障なし。地点・・・最上援護中』と報告し、「最上」と「三隈」に南西方向の日本軍拠点トラック島泊地へ退避するよう命じる[42]。その後栗田は「熊野」と「鈴谷」を率いて、主力部隊に合同すべく北西に針路をとった[43]。この後第七戦隊は上級部隊に一切報告を入れず沈黙し、8日になってからようやく近藤艦隊と合流、中島親孝(第二艦隊通信参謀)は栗田健男司令官と参謀達を再び『どうも困った部隊である』と評している[44]。「大和」の宇垣纏連合艦隊参謀長は「第七戦隊を二手に分けるより、戦隊全艦で「最上」を護衛した方が良かったのではないか」と指摘する[45]。だが強い批判ではなく、その後も栗田が譴責されるような事にはならなかった[46]。
この時点での被害は、「三隈」より「最上」の方がひどかった。旗艦「熊野」が去ったため、ミッドウェー島から距離120浬地点で「三隈」は「最上」を指揮し、退避行動に移る[47]。一方、「タンバー」は魚雷が残っていたにも関わらず、「最上」を追跡しなかった。スプルーアンス少将は彼の息子が乗艦する「タンバー」から第七戦隊発見の報告を受けると、米軍機動部隊を率いて南下した[48]。6月6日午前6時30分、「三隈」は米軍のPBYカタリナ飛行艇を発見し、空襲があると判断した乗組員達の間には悲壮な空気が漂いはじめた[49]。乗組員の予想は的中した。ミッドウェー島から発進したB-17爆撃機12機は付近を捜索し、損傷し油を引いた『戦艦2隻』を発見する[48]。すぐにフレミング大尉率いるSB2Uビンジゲーター急降下爆撃機6機、テイラー大尉率いるSBDドーントレス急降下爆撃機6機がミッドウェー島を発進し、日本軍戦艦2隻を仕留めに向かった[48]。午前8時40分、米軍機は攻撃を開始、SBU隊指揮官フレミング大尉は対空砲火で被弾炎上し、「三隈」の四番砲塔に体当たりしたとされる[50]。米軍海兵隊は、フレミングは「三隈」に直撃弾を与えたものの、被弾して海中に突入したと記録している[50]。フレミングは勇敢な行動によりメダル・オブ・オナー(名誉勲章)を死後授与された[50]。続いてB-17爆撃機8機が水平爆撃を行い、至近弾3発、命中弾2発を主張した[50]。もっとも「最上」で2名が戦死したが、命中弾はなかった[50]。「三隈」の被害は不明である[51]。第二艦隊への報告では、両艦とも被害なしだったという[52]。米軍機動部隊指揮官スプルーアンス少将は『戦艦2隻、および炎上中の空母1隻、重巡洋艦3隻見ゆ、方位324度、距離240浬、針路310度、速力12ノット』という報告を受け、南雲機動部隊を追撃し、掃討することを決意した[53]。
三隈沈没
6月7日午前5時、「三隈」と「最上」は駆逐艦「荒潮」、「朝潮」と合流した[54]。同時刻、空母「ホーネット」索敵機は『空母1隻、駆逐艦5隻』発見を報告し、続いて『さらに戦艦1隻、重巡洋艦1隻、駆逐艦3隻見ゆ』と報告、また別の索敵機も『重巡洋艦2隻、駆逐艦3隻』の発見を報告した[55]。レイモンド・スプルーアンス少将は南雲機動部隊にとどめをさすべく、空母「ホーネット 」(USS Hornet, CV-8)に攻撃を命じた[56]。直ちにF4Fワイルドキャット8機、SBDドーントレス26機が発進する[56]。続いて午前10時45分、空母「エンタープライズ 」(USS Enterprise, CV-6)からワイルドキャット12機、ドーントレス31機が発進した[57]。スプールアンスを含めて米軍の誰も気付かなかったが、空母と戦艦を含む日本軍機動部隊の正体は、最上型重巡洋艦「三隈」、艦首を大きく破損した姉妹艦「最上」、駆逐艦「荒潮」、「朝潮」だったのである[56]。
「三隈」は午前7時前後から米軍索敵機を発見し、『敵水偵2機触接、付近に水上艦艇あるものの如し。われ敵空母水上艦艇の追跡を受けつつあり、今よりウェーキ島へ向かう。地点、ウェーキの30度710浬』と発信した[58]。午前8時25分、「最上」は『敵兵力は空母1、巡洋艦2程度と認む』と発信する[59]。宇垣参謀長は近藤信竹中将の第二艦隊に救援命令を出すと共に、米軍機動部隊の戦力を空母1-2・特空母2隻程度と推測し、ウェーク島の航空機行動圏内に引き込んで決戦を挑むしかないと判断した[60]。近藤中将は『攻略部隊主隊は敵空母部隊を補足撃滅して三隈、最上を救援せんとす』と山本五十六連合艦隊司令長官に連絡すると[61]、第二艦隊兵力を率いて「三隈」「最上」救援に向かったが、駆逐艦の燃料の関係から20ノットが限界であったという[62]。近藤は部下達に、空母「瑞鳳」の航空兵力と重巡洋艦が搭載する水上偵察機部隊を用いて全力攻撃をかける覚悟を示している[63]。特攻を検討したと証言する「瑞鳳」搭乗員もいる[64]。一方、「三隈」は「最上」に「荒潮」と「朝潮」の護衛をつけると3隻を残し、ウェーク島日本軍基地から発進する一式陸上攻撃機の飛行圏内に向って単艦で退避行動を開始した[65]。曽爾章(最上艦長)や山内正規(最上航海長)は「三隈」の行動を理解しつつ、離れていく「三隈」を羨望の思いで見つめていた[65]。
「エンタープライズ」の報告書によれば、6月7日は穏やかな天候で、少し低い所に雲がかかっていた[66]。午前7時、「ホーネット」攻撃隊は「霧島級戦艦」1隻に500kg爆弾2発と250kg爆弾1発の命中を主張し、「最上」、「荒潮」にも爆弾命中を主張する[67]。「最上」は後部砲塔に深刻な損害を受け、艦中央部で火災が発生し、酸素魚雷を緊急投棄した[68]。「最上」の撃沈を確信した米軍機は、「三隈」に目標を変更する[69]。エンタープライズ攻撃隊は28ノットで西に進む「戦艦」と「愛宕型重巡洋艦」を発見、攻撃を開始した[70]。エンタープライズ隊は1,000ポンド爆弾5発命中、2発至近弾を主張し、さらにワイルドキャット戦闘機が12.7mm機銃を撃ちこんだ[66]。午前11時の段階で「三隈」は艦橋から艦中央部にかけて集中的に被弾し、機銃砲座の弾薬が炸裂して火災が発生、『三隈大爆発見込なし』という状態になる[71]。
最後に「ホーネット」から発進した第二波攻撃隊(ドーントレス23機)は、重巡1隻(三隈)に爆弾1発、軽巡洋艦1隻(最上)に爆弾6発の命中を主張した[72]。「ホーネット」第二波攻撃隊は「三隈」三番砲塔に1発を命中させ、破片が艦橋の天蓋から頭を出していた崎山釈夫艦長に重傷を負わせた[73]。さらに爆弾が右舷機械室と左舷後部機械室を直撃し、「三隈」は航行不能となる[73]。指揮を継承した高島秀夫(中佐・副長)は部下に脱出のための筏を作らせた[73]。この時、「三隈」攻撃に向かったB-17爆撃機6機は米潜水艦「グレイリング」(USS Grayling, SS-209)を誤爆し、「巡洋艦1隻撃沈」を報告している[72]。
乗組員が20発被弾と推定するほど多数の爆弾を被爆した「三隈」は[74]、火災により自艦が搭載する酸素魚雷が誘爆、致命傷となる[75]。高島副長は総員退去を命じ、彼自身は爆弾の直撃で戦死した[76]。水平線の向こうから駆逐艦「荒潮」が現れて「三隈」に接近すると、乗組員は歓声を上げて「荒潮」を迎えた[77]。「荒潮」は多数の三隈乗組員を救助したが、その最中に米軍機の攻撃を受け、後部砲塔に命中した爆弾により戦死者が続出する[75]。さらに、米軍機は海面を漂う三隈乗組員に対し、執拗な機銃掃射を繰り返す[78]。「荒潮」は240名程を救助した段階で退避を余儀なくされ、人力操舵で「三隈」から離れた[79]。遠ざかる「三隈」になお爆弾が命中したのが目撃されている[80]。
しばらくして、空母「エンタープライズ」からエド・クローガー中尉と部下のドーントレス2機が発進し、戦果の確認に向かった[81]。クローガーは「最上」と駆逐艦2隻を発見できず、廃墟となった「三隈」の周囲を飛行しながら写真を撮影する[81]。「三隈」は左舷に傾斜し、右舷からは煙と蒸気がたなびき、主砲は別々の方向を向いて、完全に沈黙していた[81]。
太陽が沈み米軍機空襲の危険が去ると、「最上」は「朝潮」に「三隈」脱出者の救援に向かわせた[82]。空襲を受けた海域に戻った「朝潮」は「三隈」の艦影を発見できず、『三隈所在海面に至りしも艦影を認めず。付近捜索すれども空し』と報告する[83]。これを受けて「最上」は『三隈所在海面に至るも艦影を見ず。確認したるものなきも沈没せる算段大なりと認む。我れ取り敢えず重傷者を収容、西航を続行す』と連合艦隊に報告し、第二艦隊との合流を急いだ[84]。米軍も「三隈」の沈没の瞬間を目撃しておらず、「三隈」は人知れず沈没したことになる。6月8日午前中、第二艦隊は「三隈」の生存者を乗せた「最上」、「荒潮」、「朝潮」を収容した[85]。
「三隈」の最後を聞いた宇垣纏連合艦隊参謀長は、日記に『三隈は損傷なく専ら最上の援護に当たりしつつありしに、其身反りて斃れ最上の援護の目的を果たす。右両艦の運命こそ奇しき縁と云うべく、僚艦間の美風を発揮せるものなり』と記している[86]。6月9日、米軍潜水艦「トラウト」 (USS Trout, SS-202) は漂流する救命筏から2名の三隈乗組員を救助した[87]。
歴代艦長
艤装員長
- 吉田庸光 大佐:1934年5月31日 -
- 鈴木田幸造 大佐:1934年7月4日 -
艦長
- 鈴木田幸造 大佐:1935年8月29日 -
- 武田盛治 大佐:1935年11月15日 -
- 岩越寒季 大佐:1936年12月1日 -
- 入船直三郎 大佐:1937年12月1日 -
- (兼)平岡粂一 大佐:1938年11月15日 -
- 阿部孝壮 大佐:1938年12月15日 -
- (兼)久保九次 大佐:1939年7月20日 -
- 木村進 大佐:1939年11月15日 -
- 崎山釈夫 大佐:1940年11月1日 -
同型艦
脚注
- ^ 「三菱重工業に於て建造の軍艦三隅進水の件」
- ^ 「第171号の9 10.9.5 三隈」p.2
- ^ 「三菱重工業に於て建造の軍艦三隅進水の件」p.3
- ^ 「軍艦三隅進水式実況放送の件」p.3、「三菱重工業に於て建造の軍艦三隅進水の件」p.1
- ^ 「軍艦三隅工事概括表変更認許の件」p.2
- ^ 「巡洋艦最上、三隅竣工期日変更の件」p.3
- ^ 「最上三隅船体部補強工事に伴ひ工事予定変更に関する件」p.2
- ^ 「第25号の27.1.14三隈」p.2
- ^ 「ミッドウエー海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」p.3
- ^ 「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.5
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.39、#プランゲ下61頁
- ^ #プランゲ下112頁
- ^ #プランゲ下88頁
- ^ #プランゲ下116頁
- ^ #戦藻録(九版)132頁、#プランゲ下116頁
- ^ #戦藻録(九版)132頁、#プランゲ下115頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.48
- ^ #亀井戦記497頁、#戦藻録(九版)132頁、#プランゲ下116頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.39-40、「軍艦愛宕戦闘詳報(2)」p.4、「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.15、#亀井戦記498頁
- ^ #プランゲ下116頁、「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.16
- ^ #亀井戦記499頁、#聯合艦隊作戦室65頁
- ^ #亀井戦記500頁
- ^ #聯合艦隊作戦室65頁
- ^ #亀井戦記501頁、#戦藻録(九版)132頁、#聯合艦隊作戦室66頁
- ^ #吉田指揮官165頁
- ^ 「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」pp.16-17
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.7
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.11、「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.23
- ^ 「軍艦愛宕戦闘詳報(2)」p.4
- ^ #亀井戦記546頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」pp.13-14
- ^ #証言ミッドウェー海戦188頁、#亀井戦記546頁
- ^ #亀井戦記547頁、#プランゲ下149頁
- ^ a b #プランゲ下149頁
- ^ #亀井戦記547頁
- ^ #亀井戦記548頁
- ^ #亀井戦記549頁
- ^ #亀井戦記550頁
- ^ #亀井戦記551-552頁
- ^ #亀井戦記553頁
- ^ #証言ミッドウェー海戦182頁、和田正雄(三隈通信科)談。#亀井戦記554頁、芳野三郎(兵長、最上機関科)、古田賢二(一等水兵、砲術科)
- ^ #亀井戦記558-559頁
- ^ #戦藻録(九版)139頁、#亀井戦記556頁
- ^ #亀井戦記557頁
- ^ #聯合艦隊作戦室70頁
- ^ #戦藻録(九版)139頁
- ^ #吉田指揮官167頁
- ^ #亀井戦記560頁
- ^ a b c #プランゲ下152頁
- ^ #証言ミッドウェー海戦183頁
- ^ a b c d e #プランゲ下153頁
- ^ #戦藻録(九版)143頁、#亀井戦記562頁
- ^ #聯合艦隊作戦室69頁
- ^ #プランゲ下154頁
- ^ #亀井戦記563頁、「軍艦愛宕戦闘詳報(2)」p.4
- ^ #プランゲ下169頁、#BIG E上137頁
- ^ a b c #プランゲ下169頁
- ^ #プランゲ下170頁、#BIG E上137頁
- ^ #戦藻録(九版)144頁、#亀井戦記566頁
- ^ 「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.28
- ^ #戦藻録(九版)144-145頁
- ^ 「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」pp.28-29
- ^ #聯合艦隊作戦室70頁
- ^ 「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.30
- ^ 川崎まなぶ『日本海軍の航空母艦 その生い立ちと戦歴』(大日本絵画、2009)124頁。藤井庄輔(一飛曹、55期操練)
- ^ a b #亀井戦記566頁
- ^ a b #BIG E上137頁
- ^ #プランゲ下170頁
- ^ #亀井戦記578頁
- ^ #亀井戦記567頁
- ^ #プランゲ下170頁、#BIG E上137頁
- ^ #戦藻録(九版)144頁、#プランゲ下172頁
- ^ a b #プランゲ下174頁
- ^ a b c #プランゲ下173頁
- ^ #証言ミッドウェー海戦185頁
- ^ a b #亀井戦記570頁
- ^ #亀井戦記573頁
- ^ #証言ミッドウェー海戦186頁
- ^ #亀井戦記571、584頁
- ^ #亀井戦記584頁、#証言ミッドウェー海戦186頁
- ^ #亀井戦記584頁、#証言ミッドウェー海戦187頁
- ^ a b c #BIG E上138頁
- ^ #亀井戦記585頁
- ^ #亀井戦記588頁
- ^ #亀井戦記589頁
- ^ #亀井戦記591-592頁、「軍艦愛宕戦闘詳報(2)」p.4
- ^ #戦藻録(九版)146頁、#亀井戦記593頁
- ^ #プランゲ下175頁
参考文献
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- Ref.C05110629300「第171号の9 10.9.5 三隈」
- Ref.C05110623500「第25号の27.1.14三隈」
- Ref.C05023428700「第918号 9.2.3 軍艦三隅進水式実況放送の件」
- Ref.C05023495700「第1754号 9.4.19 軍艦三隅進水記念絵葉書調製並に記念撮影に関する件」
- Ref.C05023428800「第2075号 9.5.7 皇族の御差遣を仰度件」
- Ref.C05034226600「第2023号 9.5.4 三菱重工業に於て建造の軍艦三隅進水の件」
- Ref.C05034226700「第2043号 9.9.6 巡洋艦最上、三隅竣工期日変更の件」
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