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'''ノルマントン号事件'''('''Normanton Incident''')とは、{{和暦|1886}}[[10月24日]]に[[イギリス]]船籍の[[貨物船]]、ノルマントン号(Normanton、より英語に忠実な表記は「ノーマントン」)が、[[紀伊国|紀州]]沖([[和歌山県]][[東牟婁郡]][[串本町]][[潮岬]]沖)で[[座礁]][[沈没]]した事から始まった事件である。 |
'''ノルマントン号事件'''('''Normanton Incident''')とは、{{和暦|1886}}[[10月24日]]に[[イギリス]]船籍の[[貨物船]]、マダムソン・ベル汽船会社所有のノルマントン号(Normanton、より英語に忠実な表記は「ノーマントン」)が、[[紀伊国|紀州]]沖([[和歌山県]][[東牟婁郡]][[串本町]][[潮岬]]沖)で[[座礁]][[沈没]]した事から始まった紛争事件である。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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[[1886年]]([[明治]]19年)[[10月24日]]午後8時ころ、[[横浜港]]から日本人乗客25名と[[雑貨]]をのせて[[神戸港]]に向かったイギリス貨物船ノルマントン号240トンが、航行途中、暴風雨によって[[三重県]][[四日市]]より[[和歌山県]][[樫野崎]]までの沖合で[[難破]]、[[座礁]][[沈没]]した<ref name="tanaka_444">[[#田中|田中(1990)p.444]]</ref>。その際、[[ジョン・ウイリアム・ドレーク]]船長以下[[イギリス人]]や[[ドイツ人]]からなる乗組員は全員[[救命ボート]]で脱出し、[[漂流]]していたところを沿岸[[漁村]]の人びとに救助されて手厚く保護された<ref name="tanaka_444"/><ref group="注釈">うち3人は[[凍死]]しており、上陸後に埋葬された。[[#田中|田中(1990)p.444]]</ref>。 |
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沈没したノルマントン号にはイギリス人、ドイツ人、中国人、インド人、日本人らが乗船していたが、事故の際、船員であったイギリス人、ドイツ人ら[[コーカソイド|白人]]はほぼ全員が生存した一方で、乗客であった日本人25名全員が死亡した(また、インド人の乗組員も全員死亡した)。さらに、助かった船員らは[[救命ボート]]で避難していたため、船長が適切な避難誘導をせずに、乗客である日本人を取り残したのではないかとの疑念から当時の世論が沸騰した。これは当時の欧米(白人社会)に広まっていた[[人種差別]]の考えがあったと思われる。 |
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ところが日本人乗客25名はただの一人も避難できた者がおらず、船中に取り残されてことごとく[[溺死]]した<ref group="注釈">[[#井上|井上清『条約改正』(1955)]]では日本人乗客数を23名としている。また、イギリス人船員は38名と[[インド人]]給仕1名のうち助かったのは、ドレーク、イギリス人[[水夫]]25名、給仕のインド人計27名で水夫のうち13名は水死していると記している。さらに、沈没したのは25日午前1時ころ、ドレークが[[串本]]にこぎつけて救助されたのはその日の朝9時ころとしている。[[#井上|井上(1955)p.39]]</ref>。 |
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事実検証についても[[不平等条約]]の壁に阻まれ満足な解決が得られず、裁判では、「船員は救命ボートに移るように説明したが、日本人乗客は船内に籠もって出ようとしなかった(ノルマントン号は貨物船なので、日本語が話せる乗客向けのスタッフはいない)ので、やむなくそのままにした」旨を証言した[[ジョン・ウイリアム・ドレーク|J.W.ドレーク]]船長らイギリス人全員が無罪となった。その後、国民の反発に押された日本政府の抗議により、再審理がなされ、船長のみに[[禁錮]]3ヶ月の刑が言い渡された。 |
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[[ファイル:KaoruM13.jpg|150px|left|thumb|初代外務大臣の[[井上馨]]([[1880年]]の写真)]] |
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[[10月28日]]、[[松本鼎]][[和歌山県知事]]からの電報で遭難事件のあらましを知った[[第1次伊藤内閣]]の[[外務大臣 (日本)|外務大臣]][[井上馨]]は、日本人乗客が全員死亡したことに不審をもち、その場の実況調査を命令した<ref name="tanaka_444"/>。 |
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国内世論はドレーク船長以下船員の日本人乗客にとった非人道的行為とその行為に根ざす[[人種差別]]に沸騰した<ref name="fujimura_082">[[#藤村|藤村(1989)p.82]]</ref><ref name="sakata">[[#酒田|酒田(2004)]]</ref>。たとえば、『[[東京日日新聞]]』は、「船長以下20人以上の水夫も助かったのだから、1人や2人の日本人乗客とても助からないはずがない」との憤懣を記し、「西洋人乗客なら助けたのに日本人なるがゆえに助けなかったのではないか」と論じている<ref name="ienaga_102">[[#家永|家永(1977)p.102]]</ref>。また、事実検証についても[[不平等条約]]の壁に阻まれ満足な解決が得られなかったといわれる。 |
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[[11月1日]]、神戸駐在在日英国領事のジェームズ・ツループは、[[領事裁判権]]にもとづき神戸領事館内管船法衙において[[海難審判]]をおこない<ref name="tanaka_444"/>、[[11月5日]]、ツループは、ドレークの「船員は日本人に早くボートに乗り移るようすすめたが、日本人は英語がわからず、そのすすめに応じずに船内に籠もって出ようとしなかったのでしかたなく日本人を置いてボートに移った(ノルマントン号は貨物船なので、日本語が話せる乗客向けのスタッフはいない)」という陳述を認めて、船長以下全員に[[無罪]]判決を下した<ref name="inoue_039">[[#井上|井上(1955)p.39]]</ref>。 |
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[[ファイル:Normanton Incident(1886).jpg|280px|right|thumb|[[ジョルジュ・ビゴー]]「メンザレ号の救助」(『[[トバエ]]』9号、[[1887年]]6月) |
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条約改正時期尚早派の[[フランス人]]ジョルジュ・ビゴーがノルマントン号事件でのイギリスの対応を翌年のフランス船メンザレ号遭難事件を利用して批判した。ボート上のドレーク船長が「いま何ドル持っているか。早く言え。タイム・イズ・マネーだ」と言っている]] |
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この判決を知って日本国民は悲憤慷慨した。『東京日日新聞』は「いかに日本人は無知だといえ、危にのぞんで、危うきを知らず、助けをえて、助けをかりることを知らないほどの白痴瘋癲であるはずがない」と紙面で抗議した<ref name="ienaga_102"/><ref group="注釈">「白痴瘋癲(はくちふうてん)」とは馬鹿で気が狂っていること。</ref>。全国各地から[[遺族]]への[[義捐金]]が寄せられ、[[新聞]]各紙はいっそう硬化して、連日、悲しみの論説と[[弾劾]]の記事を掲げた。高名な法学者たちもドレーク船長の[[告訴]]をとなえ、在野の政客は各地に演説会をひらいてイギリスの横暴と非人道を責め、民衆に国権回復をうったえた<ref name="inoue_039"/>。 |
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社交場[[鹿鳴館]]をはじめとする[[欧化政策]]によって[[条約改正]]交渉を進めていた井上外相も沸騰する国内世論を黙止することができず、[[11月13日]]、[[内海忠勝]][[兵庫県知事]]に命じてドレーク船長らの神戸出船をおさえ、兵庫県知事名で横浜領事裁判所に[[殺人罪]]で告訴させた<ref name="tanaka_444"/>。告訴は翌14日におこなわれた。これに対し、イギリス側は神戸で[[予審]]をおこない、ついで横浜に場をうつした。[[12月8日]]、在日横浜英国領事館判事のN.ハンネンはドレークに[[有罪]][[判決]]を下し、[[禁固刑]]3か月に処したが、死者への[[賠償金]]は支払われなかった<ref name="tanaka_444"/><ref name="inoue_039"/>。 |
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== 影響 == |
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=== 大同団結運動 === |
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ノルマントン号事件は、領事裁判の不当さを日本人に痛感させた事件として歴史に残るものになった。この事件は、当時胎動しつつあった[[大同団結運動]]派によってさかんに取り上げられ、井上外交を「媚態外交」「弱腰外交」と批判し、外交の刷新、条約改正([[不平等条約]]撤廃)を要求する動きがさらに強まった<ref name="sakata"/>。 |
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当時の日本では、外国人に対する[[治外法権]]があり、日本側で裁判を行うことができなかった([[領事裁判権]])。この事件以降、不平等条約撤廃の動きが高まった。領事裁判の不当さを日本人に痛感させた事件として歴史に残るものになった。 |
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=== 演劇・歌・出版物 === |
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==== 演劇・出版 ==== |
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事件後、この事件を[[演劇]]として興行しようとする者がおり、人心の再燃を懸念した政府はこれを中止させた<ref name="tanaka_444"/>。 |
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歌は「[[抜刀隊]]」の旋律を借りて唄われた。尚、作詞作曲は不詳である。 |
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また、事件直後に『英船ノルマントン号沈没事件審判始末』が出版され、翌{{和暦|1887}}には『英国汽船諾曼頓号裁判記録』が刊行された<ref name="inoue_039"/>。 |
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「ノルマントン号沈没の歌」は、 |
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:* 岸打つ浪の音高く 夜半の嵐に夢さめて 青海原を眺めつつ わがはらからは何処ぞと |
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:* 呼べど叫べど声はなく 尋ね捜せど影はなし うわさに聞けば過ぐる月 二十五人の兄弟は |
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:* 旅路を急ぐ一筋に 外国船(とつくにぶね)とは知りつつも 航海術に名も高き イギリス船と知るからに |
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:* ついうかうかと乗せられて 浪路も遠き遠州の 七十五里も早や過ぎて 今は紀伊なる熊野浦 |
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から始まって<ref name="inoue_039"/>、途中に |
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:* 外国船の情けなや 残忍非道の船長は 名さえ卑怯の奴隷鬼は 人の哀れを外に見て |
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:* 己が職務を打忘れ 早や臆病の逃げ支度 あおの同胞を引きつれて バッテラへと乗り移る |
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:* 影を見送る同胞は 無念の涙やるせなく あふるる涙を押し拭い ヤオレにくき奴隷鬼よ |
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:* いかに人種は違うとも いかに情を知らぬとも この場に望みて我々を すてて逃るは卑怯者 |
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という歌詞をふくむものであった<ref name="ienaga_103">[[#家永|家永(1977)p.103]]</ref><ref group="注釈">歌詞中「奴隷鬼」は船長ドレークの名をもじったものである。[[#家永|家永(1977)p.103]]</ref>。 |
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=== 水難救済会 === |
=== 水難救済会 === |
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{{和暦|1889}}、水難救助のボランティア組織[[大日本帝国水難救済会]]発足のきっかけとなった<ref> |
{{和暦|1889}}、水難救助のボランティア組織[[大日本帝国水難救済会]]発足のきっかけとなった<ref>[[#西牟田|西牟田(2004)]]</ref>。 |
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== 関連図書 == |
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*『英船「ノルマントン号」沈没乗客ノ件』(『日本外交文書』19) |
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== 参考文献 == |
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* {{Cite book|和書|author=[[井上清]]|year=1955|month=9|title=条約改正|publisher=[[岩波書店]]|series=[[岩波新書]]|isbn=|ref=井上}} |
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* {{Cite book|和書|author=[[家永三郎]]・[[鈴木良一]]・[[吉村徳蔵]]ほか|editor=家永三郎|year=1977|month=11|chapter=第10章「日本資本主義とアジア」|title=ほるぷ教育体系「日本の歴史5」|publisher=[[ほるぷ出版]]|isbn=|ref=家永}} |
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* {{Cite book|和書|author=[[藤村道生]]|editor=野上毅|year=1989|month=4|chapter=条約改正-国家主権の回復|title=朝日百科日本の歴史10 近代Ⅰ|publisher=[[朝日新聞社]]|isbn=4-02-380007-4|ref=藤村}} |
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* {{Cite book|和書|author=[[田中正広]]|chapter=ノルマントン号事件|editor=国史大辞典編集委員会|year=1990|month=9|title=国史大辞典第11巻 にた-ひ|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=4-642-00511-0|ref=田中}} |
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* {{Cite book|和書|author=[[酒田正敏]]|chapter=ノルマントン号事件|editor=[[小学館]]|year=2004|month=2|title=日本大百科全書|publisher=小学館|series=スーパーニッポニカProfessional Win版|isbn= 4099067459|ref=酒田}} |
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* {{Cite book|和書|author=[[西牟田崇生]]|year=2004|month=12|title=黎明期の金刀比羅宮と琴陵宥常|publisher=[[国書刊行会]]|isbn=4336046530|ref=西牟田}}(水難救済会初代会長についての研究書) |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
2011年10月29日 (土) 03:59時点における版
ノルマントン号事件(Normanton Incident)とは、1886年(明治19年)10月24日にイギリス船籍の貨物船、マダムソン・ベル汽船会社所有のノルマントン号(Normanton、より英語に忠実な表記は「ノーマントン」)が、紀州沖(和歌山県東牟婁郡串本町潮岬沖)で座礁沈没した事から始まった紛争事件である。
概要
1886年(明治19年)10月24日午後8時ころ、横浜港から日本人乗客25名と雑貨をのせて神戸港に向かったイギリス貨物船ノルマントン号240トンが、航行途中、暴風雨によって三重県四日市より和歌山県樫野崎までの沖合で難破、座礁沈没した[1]。その際、ジョン・ウイリアム・ドレーク船長以下イギリス人やドイツ人からなる乗組員は全員救命ボートで脱出し、漂流していたところを沿岸漁村の人びとに救助されて手厚く保護された[1][注釈 1]。
ところが日本人乗客25名はただの一人も避難できた者がおらず、船中に取り残されてことごとく溺死した[注釈 2]。
10月28日、松本鼎和歌山県知事からの電報で遭難事件のあらましを知った第1次伊藤内閣の外務大臣井上馨は、日本人乗客が全員死亡したことに不審をもち、その場の実況調査を命令した[1]。
国内世論はドレーク船長以下船員の日本人乗客にとった非人道的行為とその行為に根ざす人種差別に沸騰した[2][3]。たとえば、『東京日日新聞』は、「船長以下20人以上の水夫も助かったのだから、1人や2人の日本人乗客とても助からないはずがない」との憤懣を記し、「西洋人乗客なら助けたのに日本人なるがゆえに助けなかったのではないか」と論じている[4]。また、事実検証についても不平等条約の壁に阻まれ満足な解決が得られなかったといわれる。
11月1日、神戸駐在在日英国領事のジェームズ・ツループは、領事裁判権にもとづき神戸領事館内管船法衙において海難審判をおこない[1]、11月5日、ツループは、ドレークの「船員は日本人に早くボートに乗り移るようすすめたが、日本人は英語がわからず、そのすすめに応じずに船内に籠もって出ようとしなかったのでしかたなく日本人を置いてボートに移った(ノルマントン号は貨物船なので、日本語が話せる乗客向けのスタッフはいない)」という陳述を認めて、船長以下全員に無罪判決を下した[5]。
この判決を知って日本国民は悲憤慷慨した。『東京日日新聞』は「いかに日本人は無知だといえ、危にのぞんで、危うきを知らず、助けをえて、助けをかりることを知らないほどの白痴瘋癲であるはずがない」と紙面で抗議した[4][注釈 3]。全国各地から遺族への義捐金が寄せられ、新聞各紙はいっそう硬化して、連日、悲しみの論説と弾劾の記事を掲げた。高名な法学者たちもドレーク船長の告訴をとなえ、在野の政客は各地に演説会をひらいてイギリスの横暴と非人道を責め、民衆に国権回復をうったえた[5]。
社交場鹿鳴館をはじめとする欧化政策によって条約改正交渉を進めていた井上外相も沸騰する国内世論を黙止することができず、11月13日、内海忠勝兵庫県知事に命じてドレーク船長らの神戸出船をおさえ、兵庫県知事名で横浜領事裁判所に殺人罪で告訴させた[1]。告訴は翌14日におこなわれた。これに対し、イギリス側は神戸で予審をおこない、ついで横浜に場をうつした。12月8日、在日横浜英国領事館判事のN.ハンネンはドレークに有罪判決を下し、禁固刑3か月に処したが、死者への賠償金は支払われなかった[1][5]。
影響
大同団結運動
ノルマントン号事件は、領事裁判の不当さを日本人に痛感させた事件として歴史に残るものになった。この事件は、当時胎動しつつあった大同団結運動派によってさかんに取り上げられ、井上外交を「媚態外交」「弱腰外交」と批判し、外交の刷新、条約改正(不平等条約撤廃)を要求する動きがさらに強まった[3]。
演劇・歌・出版物
演劇・出版
事件後、この事件を演劇として興行しようとする者がおり、人心の再燃を懸念した政府はこれを中止させた[1]。
また、事件直後に『英船ノルマントン号沈没事件審判始末』が出版され、翌1887年(明治20年)には『英国汽船諾曼頓号裁判記録』が刊行された[5]。
「ノルマントン号沈没の歌」
事件直後「ノルマントン号沈没の歌」という歌が無名作家により作られ、ひろく国民に流行した。当初は36節の歌詞であったが、事件解決後に補足され59節におよんだ。曲は軍歌「抜刀隊」の旋律が用いられた。
「ノルマントン号沈没の歌」は、
- 岸打つ浪の音高く 夜半の嵐に夢さめて 青海原を眺めつつ わがはらからは何処ぞと
- 呼べど叫べど声はなく 尋ね捜せど影はなし うわさに聞けば過ぐる月 二十五人の兄弟は
- 旅路を急ぐ一筋に 外国船(とつくにぶね)とは知りつつも 航海術に名も高き イギリス船と知るからに
- ついうかうかと乗せられて 浪路も遠き遠州の 七十五里も早や過ぎて 今は紀伊なる熊野浦
から始まって[5]、途中に
- 外国船の情けなや 残忍非道の船長は 名さえ卑怯の奴隷鬼は 人の哀れを外に見て
- 己が職務を打忘れ 早や臆病の逃げ支度 あおの同胞を引きつれて バッテラへと乗り移る
- 影を見送る同胞は 無念の涙やるせなく あふるる涙を押し拭い ヤオレにくき奴隷鬼よ
- いかに人種は違うとも いかに情を知らぬとも この場に望みて我々を すてて逃るは卑怯者
水難救済会
1889年(明治22年)、水難救助のボランティア組織大日本帝国水難救済会発足のきっかけとなった[7]。
関連図書
脚注
注釈
- ^ うち3人は凍死しており、上陸後に埋葬された。田中(1990)p.444
- ^ 井上清『条約改正』(1955)では日本人乗客数を23名としている。また、イギリス人船員は38名とインド人給仕1名のうち助かったのは、ドレーク、イギリス人水夫25名、給仕のインド人計27名で水夫のうち13名は水死していると記している。さらに、沈没したのは25日午前1時ころ、ドレークが串本にこぎつけて救助されたのはその日の朝9時ころとしている。井上(1955)p.39
- ^ 「白痴瘋癲(はくちふうてん)」とは馬鹿で気が狂っていること。
- ^ 歌詞中「奴隷鬼」は船長ドレークの名をもじったものである。家永(1977)p.103
出典
関連項目
参考文献
- 井上清『条約改正』岩波書店〈岩波新書〉、1955年9月。
- 家永三郎・鈴木良一・吉村徳蔵ほか 著「第10章「日本資本主義とアジア」」、家永三郎 編『ほるぷ教育体系「日本の歴史5」』ほるぷ出版、1977年11月。
- 藤村道生 著「条約改正-国家主権の回復」、野上毅 編『朝日百科日本の歴史10 近代Ⅰ』朝日新聞社、1989年4月。ISBN 4-02-380007-4。
- 田中正広 著「ノルマントン号事件」、国史大辞典編集委員会 編『国史大辞典第11巻 にた-ひ』吉川弘文館、1990年9月。ISBN 4-642-00511-0。
- 酒田正敏 著「ノルマントン号事件」、小学館 編『日本大百科全書』小学館〈スーパーニッポニカProfessional Win版〉、2004年2月。ISBN 4099067459。
- 西牟田崇生『黎明期の金刀比羅宮と琴陵宥常』国書刊行会、2004年12月。ISBN 4336046530。(水難救済会初代会長についての研究書)