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'''長谷川 和彦'''(はせがわ かずひこ、[[1946年]][[1月5日]] - )は、日本の[[映画監督]] |
'''長谷川 和彦'''(はせがわ かずひこ、[[1946年]][[1月5日]] - )は、日本の[[映画監督]]。愛称'''ゴジ'''。 |
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
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[[広島県]][[賀茂郡 (広島県)|賀茂郡]]西高屋町(現:[[東広島市]])に出生。父は[[農業協同組合]]勤務、母は[[教師]]で三人兄弟の末弟。[[1945年]]8月、母が[[原爆]]投下2日後に広島市に入り[[放射線]]を浴び、胎内5ヵ月のため胎内[[被曝]]となった。被曝2世の自分は早死にすると思い、人生を生き急ぐ原因となる<ref>『キネマ旬報』2011年3月下旬号、p.143。長谷川和彦インタビューより。</ref><ref name="20世紀">「わくわくすることを求め続けて 長谷川和彦インタビュー」『毎日ムック―シリーズ 20世紀の記憶 かい人21面相の時代 1976-1988』毎日新聞社、2000年、pp.26-27</ref>。 |
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父は[[農業協同組合]]勤務、母は[[教師]]で三人兄弟の末弟。[[1945年]]8月、母が[[原爆]]投下2日後に広島市に入り[[放射線]]を浴びる。長谷川は胎内5ヵ月のため胎内[[被曝]]となった。その後広島市翠町(現:南区翠町)で育ち[[広島大学附属中学校・高等学校|広島大学付属高校]]へ進む。高校時代は[[ジャズ]]に熱中、テナー[[サックス]]を吹きバンドも組んだが挫折。卒業後は[[東京大学]][[文学部]]英文科に進んだ。在学中は[[大学闘争]]真っ盛りの時期、しかしそれには参加せず[[アメリカンフットボール]](アメラグ)に熱中した。なお愛称の「ゴジ」は、大学時代アメフトのボールを長髪を振り乱して追う形相を、先輩が「[[ゴジラ]]そっくり」と言ったのが始まりらしい。自ら「[[麻雀]]とアメラグだけの[[ノンポリ]]フーテンだった」と話す。英文科に3年在籍、のち映画監督を目指して美学科に変わり、在学5年目の[[1968年]]、映画『神々の深き欲望』の制作スタッフ公募に応じ、[[今村昌平|今村(昌平)]]プロに入社。大学は中退した。 |
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広島市翠町(現:南区翠町)で育ち、[[広島大学附属中学校・高等学校|広島大学付属高校]]へ進む。[[鳥取県]][[米子市]]長・[[野坂康夫]]らが同級<ref>[http://www.city.yonago.lg.jp/9454.htm 高校時代の思い出/米子市ホームページ]</ref>。高校時代は[[ジャズ]]に熱中、テナー[[サックス]]を吹きバンドも組んで、ジャズミュージシャンを目指したが挫折<ref name="20世紀" />。 |
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高校卒業後は[[東京大学]][[文学部]]英文科に進んだ。在学中は[[大学闘争]]真っ盛りの時期、しかしそれには参加せず、ボート部を経て<ref name="田山">田山力哉『新しい映画づくりの旗手たち』ダヴィッド社、1980年、pp.214-221。長谷川インタビューより。</ref>、[[アメリカンフットボール]](アメラグ)に熱中し、フットボール部ではキャプテンにもなった<ref name="香取">香取俊介『人間ドキュメント 今村昌平伝説』河出書房新社、2004年、pp.276-279</ref>。「[[麻雀]]とアメラグだけの[[ノンポリ]]フーテンだった」と話す。英文科に3年在籍、のち映画監督を目指して美学科に変わる。 |
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⚫ | [[1979年]]には[[レナード・シュレイダー]](ポール・シュレイダーの兄)との共同脚本で『[[太陽を盗んだ男]]』を監督。[[沢田研二]]演じる孤独な中学[[物理]]教師がアパートで[[原爆]]を製造。国家を敵にまわし、[[ナイター]]中継の延長や[[ローリング・ストーンズ]]の日本公演を要求、 |
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大学に通う傍ら、映画監督との出会いを求めて夜にはシナリオ研究所で映画監督の[[浦山桐郎]]のゼミを受講し、浦山から[[今村昌平]]の今村プロの助監督試験を紹介されて合格。在学5年目の[[1968年]]に今村プロに入社。卒論を残すのみだったが大学は今村の命令で中退<ref name="田山" />。映画『神々の深き欲望』の制作スタッフについて沖縄ロケに参加した<ref name="香取" />。沖縄ロケでの資金枯渇や未払いなど残務処理など今村組での体験や、今村昌平流の粘る映画作りがすり込まれ、後の日活時代の助監督生活も苦しいと思ったことはないという<ref>香取、2004年、pp.281-283</ref>。 |
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⚫ | [[1982年]]、[[大森一樹]]、[[相米慎二]]、[[高橋伴明]]、[[根岸吉太郎]]、[[池田敏春]]、[[井筒和幸]]、[[黒沢清]]、[[石井聰亙]] |
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今村プロ時代に24歳で結婚<ref name="田山" />。家賃2万円のボロ家の今村プロ事務所に管理人夫婦を兼ねて住んだ<ref>香取、2004年、p,290</ref>。[[1970年]]の今村監督の『にっぽん戦後史・マダムおんぼろ生活』には助監督としてつき、その後も[[1981年]]に映画化された『[[ええじゃないか (映画)|ええじゃないか]]』の資料調べをするなど<ref>香取、2004年、p.293</ref>、3年ほど今村プロに在籍した。しかし今村プロが開店休業状態のため仕事がなく、他の独立プロで仕事をしたいと今村に申し出。[[日活]]の臨時雇いの契約助監督の仕事をあくまで出向だぞと釘を刺されながら今村から紹介され<ref>香取、2004年、pp.295-296</ref>、[[1971年]]に日活契約助監督となる。 |
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一晩にボトル1本の豪放な酒豪、さらに酒をがぶ飲みしては、あたりかまわず喧嘩を仕掛ける豪傑として知られる。[[1981年]]には[[飲酒運転]]による人身事故を起こし懲役6ヶ月の実刑を受けている。また、[[東映]]の大プロデューサー・[[俊藤浩滋]]に、[[青函トンネル]]を題材にした映画の脚本を依頼され、[[北海道]]に1ヶ月間取材旅行に行った末、飲み食いで金を全て使い切り、「[[竜飛岬]]に[[未確認飛行物体|UFO]]が降りてくる」という[[脚本]]を持って行って俊藤が激怒した<ref>[[俊藤浩滋]]・[[山根貞男]]『任侠映画伝』[[講談社]]、1999年、236-238頁</ref>など、多くの逸話を持つ。ただ、[[黒沢清]]は、見た目から想像した人柄とは大分違い、インテリでとても人に気を遣うジェントルマン、なかなかの人格者などと述べている<ref>黒沢清の映画術、51、69頁、[http://www.professionalchoice.jp/men/column/interview06/index2.html サンスター VO5 for MEN]</ref>。 |
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⚫ | 日活では[[小沢啓一]]、[[藤田敏八]]、[[西村昭五郎]]、[[神代辰巳]]らの作品に付く傍ら、『濡れた荒野を走れ』、『[[青春の蹉跌]]』、『宵待草』、[[テレビドラマ]]『[[悪魔のようなあいつ]]』などの[[シナリオ]]を書き注目された。長谷川は日本映画のプログラムピクチャーシステム体験(大手映画会社で助監督経験)を持つ最後の世代となる<ref>佐藤隆信「黒沢清の映画術」[[新潮社]]、2006年、p51</ref>。神代辰巳が監督した1974年の『青春の蹉跌』では脚本のみならず、ラストシーンとなるアメフトシーンの撮影を担当<ref>「談盟友、そして仇敵が死んだ 長谷川和彦vs[[荒井晴彦]]」『[[映画芸術]]』2002年夏・秋合併号 NO.401、編集プロダクション映芸、p.27</ref>。 |
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日活時代には、『卓のチョンチョン』というロマンポルノと『燃えるナナハン』という一般映画の監督をする話が2度あったが、正社員の社員助監督ではなく契約助監督だったことからいずれも労働組合の反対で流れる。政治に関わらないノンポリだったにも関わらず、日活撮影所を仕切る[[日本共産党]]系労働組合から[[トロツキスト]]呼ばわりされる形で撮影所を追い出され、日活に見切りをつけ<ref name="田山" /><ref name="20世紀" /><ref>『映画芸術』NO.401、p.27</ref><ref>『シネアルバム126 相米慎二映画の断章』芳賀書店、1989年、pp.54、65</ref>、[[1975年]]よりフリーとなる。同年には[[原田芳雄]]コンサート「歌う銀幕スター夢の狂演」を演出<ref>『キネマ旬報』2011年9月下旬号、p.66</ref>。 |
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傑出した二本の監督作のみで伝説的映画監督と化しているが、未だ熱烈な支持者を持っている。 |
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[[1976年]]、長谷川の噂を聞きつけた[[日本アート・シアター・ギルド|ATG]]の多賀祥介に話を持ちかけられ<ref name="田山" />、[[中上健次]]原作『蛇淫』を脚色した『[[青春の殺人者]]』で監督デビュー。“'''30歳の新鋭映画監督登場'''”と大きな話題を呼んだ。この作品はその年の[[キネマ旬報]]ベスト・テン1位に選ばれるなど、高い評価を受け、多くの映画賞を独占した。新人の第1回作品がベストワンになるのは異例であった<ref>[[田山力哉]]「新しい映画づくりの旗手たち」[[ダヴィッド社]]、1980年2月、p224</ref>。 |
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[[1978年]]に[[小林信彦]]の小説『[[唐獅子株式会社]]』の映画化に取り組むが、脚本が難航して流れる<ref>小林信彦「本音を申せば 連載 第577回 なつかしい人、笠原和夫2」『週刊文春』2009年11月5日号、p.54</ref><ref>小林信彦『コラムは笑う エンタテインメント評判記 1983-1988』筑摩書房、1989年、p.10</ref>。 |
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⚫ | 長谷川のためにキティレコードが映画部門として[[キティ・フィルム]]を設立し<ref>『甦る相米慎二』インスクリプト、2011年、pp.183-186。伊地智啓インタビュー</ref>、[[1979年]]には[[レナード・シュレイダー]](ポール・シュレイダーの兄)との共同脚本で『[[太陽を盗んだ男]]』を監督。[[沢田研二]]演じる孤独な中学[[物理]]教師がアパートで[[原爆]]を製造。国家を敵にまわし、[[ナイター]]中継の延長や[[ローリング・ストーンズ]]の日本公演を要求、[[原子力発電所|原発]]の襲撃や派手なカーチェイスなど、それまでの日本映画にないエネルギッシュな娯楽アクションに仕上げ“日本の[[スティーヴン・スピルバーグ]]”の異名を取り、キネマ旬報ベスト・テン2位、同誌読者投票1位と高評価を受け、「若手監督の旗手」と、大きな支持を受けた。しかしこの映画は興行的には振るわなかった。理由は諸説言われているが、後の[[東映]]社長の[[岡田裕介]]が当時、「題名が良くなかった」と語っている。こうした事情もあって、本作は長らく[[カルト映画]]の位置付けであったが<ref>「ぴあシネマクラブ 日本映画編 2007年最新版」 [[ぴあ]]、2006年、p363</ref>、近年{{いつ|date=2013年8月}}、一般的な評価も非常に高めており、映画誌などで<日本映画史上歴代ベストテン>にも挙げられたり、<20世紀を代表する日本映画>などと評されている<ref>[http://www.kinejun.jp/special/90alltimebest/index.html 「オールタイム・ベスト 映画遺産200」全ランキング公開]、[http://www.asahi.com/showbiz/movie/TKY200911200479.html 1位は東京物語とゴッドファーザー キネ旬がベスト10 - Asahi]、「キネ旬ムック オールタイム・ベスト映画遺産200 (日本映画編)」[[キネマ旬報社]]、2009年12月、p1-20、[http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%AA%E9%99%BD%E3%82%92%E7%9B%97%E3%82%93%E3%81%A0%E7%94%B7-DVD-%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5%92%8C%E5%BD%A6/dp/B0002L4CNI Amazon.co.jp: 太陽を盗んだ男 DVD]</ref>。 |
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[[1981年]]に起こした[[飲酒運転]]による人身事故で懲役6ヶ月の実刑を受け、[[交通刑務所]]に4ヶ月間服役<ref name="20世紀" /><ref>岡留安則「編集長日誌」『噂の真相』1983年10月号、p.128</ref><ref name="映芸28">『映画芸術』NO.401、p.28</ref>。[[1983年]]に出所して、出所を祝うパーティが開催された<ref>「パーティ ゴジとの再会を喜ぶ会」『噂の真相』1983年10月号、p.14</ref>。 |
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⚫ | [[1982年]]、[[大森一樹]]、[[相米慎二]]、[[高橋伴明]]、[[根岸吉太郎]]、[[池田敏春]]、[[井筒和幸]]、[[黒沢清]]、[[石井聰亙]]ら若手監督9人による企画・制作会社「[[ディレクターズ・カンパニー]]」(ディレカン)を設立、監督代表として取締役に就任<ref>[http://theaterkino.net/yomoyama/027.html vol.127 黒沢清の映画術- 全国映画よもやま話]</ref>。このうち、長谷川にとって一番目の弟分である相米<ref>『映画芸術』NO.401、p.29</ref>と黒沢は長谷川の口利きで業界入りしたもので、相米は長谷川の妻の知り合いという関係で日活に入って長谷川とともに日活退社して『青春の殺人者』でチーフ助監督を務め<ref name="映芸28" />、黒沢は雑誌[[GORO]]の座談会をきっかけに『[[太陽を盗んだ男]]』の脚本書きに引っ張り込まれたもの<ref>黒沢清の映画術、45-48、60頁</ref><ref>[http://www.cyzo.com/2011/12/post_9230.html 効率至上主義の真逆を突き進んだ男、伝説のシネアスト(映画人)相米慎二]</ref>。ディレカンは世間の関心を呼び、雑誌媒体の他、メンバー全員で「[[11PM]]」などテレビにも出演、これらを見て触発された若い映画人も少なくない<ref>黒沢清の映画術、69-71頁</ref>。ディレカンでは[[プロデューサー]]などの裏方的仕事にまわり、[[石井聰亙]]監督『[[逆噴射家族]]』などを製作。相米が『[[光る女]]』などで赤字を出し、ディレカンが経営難で給料遅配が続いたときは、長谷川個人で借金をして会社につぎ込んだが<ref>鈴木義昭「解散説が取沙汰されるディレクターズカンパニーの内情」『噂の真相』1988年5月号、p.59。長谷川インタビューより。</ref>、井筒和幸の『[[東方見聞録 (映画) |東方見聞録]]』での死亡事故もあり<ref>[[山根貞男]]『映画はどこへ行くか 日本映画時評'89-'92』筑摩書房、1993年、p.207</ref>、長谷川が1本も撮れないうちにディレカンは倒産した<ref>『映画芸術』NO.401、pp.32-33</ref>。 |
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その後、テレビ、ビデオ、CMなどを演出するが、『太陽を盗んだ男』以降の映画監督作品はない。デビュー作と第2作がキネマ旬報ベストテン1位と2位という華々しいスタートだったこともあり、長らく“'''次回作が見たい映画監督ナンバーワン'''”と言われ続けてきたが<ref>鈴木隆『俳優 原田美枝子 映画に生きて生かされて』[[毎日新聞社]]、2011年、58頁</ref>、余りにもブランクが長くなりすぎて、最近{{いつ|date=2013年8月}}では待望する声も少なくなってきた。 |
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この間にも、『[[戦国自衛隊 (映画)|戦国自衛隊]]』の続編企画<ref>轟夕起夫「日本一多作な男が日本一寡作な男の半生に迫る! 長谷川和彦vs三池崇史」『轟夕起夫の映画あばれ火祭り』 河出書房新社、2002年、p.237</ref>や『[[ガンヘッド]]』<ref>[[川北紘一]]『特撮魂 東宝特撮奮戦記』洋泉社、2010年、p.159</ref>、『禁煙法時代』<ref>『映画芸術』2009秋、NO.429、編集プロダクション映芸、p.16。[[種田陽平]]インタビューより。</ref>、[[菅原文太]]プロデュースの『[[吉里吉里人]]』<ref name="樋口">[[樋口尚文]]『「砂の器」と「日本沈没」70年代日本の超大作映画』筑摩書房、2004年、p.249</ref>、[[近藤真彦]]と[[中森明菜]]の『[[愛・旅立ち]]』の原型になった『PSI』<ref name="樋口" />など様々な企画があったが、本人が断ったり、途中降板するなどして実現していない。[[東映]]の[[俊藤浩滋]]プロデューサーからは、[[青函トンネル]]を題材にした映画の脚本を依頼され、[[北海道]]に1ヶ月間取材旅行に行った末、飲み食いで金を全て使い切り、「[[竜飛岬]]に[[未確認飛行物体|UFO]]が降りてくる」という[[脚本]]を持って行って俊藤が激怒した<ref>[[俊藤浩滋]]・[[山根貞男]]『任侠映画伝』[[講談社]]、1999年、236-238頁</ref>、 |
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中でも意欲的だったのは[[連合赤軍]]を題材とした作品で、シナリオ化して監督するとの構想を語っていたが<ref>白井佳夫『監督の椅子』話の特集、1981年、p.256。長谷川和彦インタビューより</ref><ref>「大友克洋との次の仕事 長谷川和彦インタビュー」『SFイズム』5号、シャピオ、1983年、p.73</ref>、その後頓挫している。2008年『[[実録・連合赤軍 あさま山荘への道程]]』を撮った[[若松孝二]]は「ゴジが撮る撮るといっていっこうに撮らないから俺が撮った」と話している<ref>[http://eigageijutsu.com/article/103758801.html 映画芸術: 映芸マンスリーVOL14]</ref>。 |
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⚫ | [[1980年代]]以降は雑誌・[[近代麻雀]]や[[週刊ポスト]]などに雀士として登場したり、ラジオ番組のレギュラーを受け持って話題になったり([[TBSラジオ&コミュニケーションズ|TBSラジオ]]の[[スーパーワイドぴいぷる]])、[[室井滋]]との同居生活などが[[マスメディア|マスコミ]]に取り上げられたりと、本業以外で名前があがっていた。雀士としては、[[井上陽水]]などを麻雀仲間に引き込み文化人と交流させた<ref><small>井上陽水が麻雀を通じて文化人と交流を持った経緯は、まず「[[話の特集]]」の[[矢崎泰久]]がベトナムに行く時の壮行麻雀大会に[[五木寛之]]に連れて行かれ、そこで矢崎、[[ばばこういち]]、[[阿佐田哲也]]に会い、この後、長谷川と知り合い、長谷川に[[近代麻雀]]に出ないかと誘われて田村光昭に会い、その繋がりで[[長門裕之]]、[[黒鉄ヒロシ]]、[[畑正憲]]らと知り合った(井上陽水全発言 井上陽水 [[えのきどいちろう]] [[1994年]]、[[ベネッセコーポレーション|福武書店]]、131頁)</small>。</ref>。第13・14・15期麻雀名人、第9期近代麻雀王位。 |
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傑出した二本の監督作のみで伝説的映画監督と化しているが、未だ熱烈な支持者を持っている<ref>[http://www.cinematoday.jp/page/A0001111 【寺島進おれの1本】第1回『太陽を盗んだ男』ー]</ref><ref>[http://pff.jp/33rd/lineup_lesson03.html 長谷川和彦に映画を聞く! - ぴあフィルムフェスティバル(PFF)]、[http://www.twitlonger.com/show/gmn5j2 河瀬直美「太陽を盗んだ男」を見て長谷川和彦に聞く! - TwitLonger ]、[http://www.timeout.jp/ja/tokyo/feature/6287 河瀨直美が世界に伝えたい日本の名画]</ref><ref>[http://prw.kyodonews.jp/opn/release/201205284627/ 屈指の問題作「太陽を盗んだ男」長谷川和彦監督が33年を経た今、改めて自作を振り返る! ]</ref><ref>[http://onojima.txt-nifty.com/diary/2005/10/post_8454.html 長谷川和彦さんに取材: newswave on line (personal edition)]</ref><ref>[http://www.timeout.jp/ja/tokyo/feature/6286 大根仁が世界に伝えたい日本の名画]</ref><ref>[http://kac-cinema.jp/archives/detail.php?id=000444 しんゆり発 5時からシネマ Vol.1 - 川崎市アートセンター アルテリオ映像館]</ref>。 |
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== 人物 == |
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寡作になった理由については、『太陽を盗んだ男』で古くからつきあいのあった後輩のチーフ助監督が映画界から消えたことにショックを受けたことが原因と語る。そのことで、自分は本当に撮りたい映画以外は撮る資格がないと考え、依頼された企画を見送っているうちにどんどんハードルが高くなってしまった結果なのだという<ref>轟、2002年、p.243</ref>。 |
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愛称の「ゴジ」は、大学時代アメフトのボールを長髪を振り乱して目をギョロギョロさせて追う形相を、「[[ゴジラ]]そっくり」と部の監督が言ったのが始まりである<ref name="田山" />。あるいは酔っぱらったときにゴジラのように破壊するからだという説もある<ref name="白井">白井佳夫『監督の椅子』話の特集、1981年、pp.226-227。長谷川和彦インタビューより</ref>。パパと言われるのが嫌で、息子と娘にも「ゴジ」と呼ばせている<ref>香取、2004年、p.295</ref>。[[ラジオ日本]]では『ゴジラ・バラエティ』というラジオ番組を持ち、DJをやっていた<ref name="20世紀" />。 |
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酒を飲んではあたりかまわず喧嘩を仕掛ける豪傑として知られ<ref>[http://www.uchidayuya.com/filmography/akame/040612.html 内田裕也オフィシャルサイト]</ref>、助監督時代から監督よりも偉そうにしていたと言われ<ref>[[中田新一]]『奔れ!助監督 奮闘昭和映画史』早稲田出版、2010年、p.51</ref>、藤田敏八の演出に口出ししたり、藤田をパキ、神代辰巳をクマと呼び捨てにしていた<ref name="田山" />。そのため生意気だというので日活スタッフの間から長谷川を懲らしめようという話が出ては、その度に先輩監督がおさめたという<ref name="松島">松島利行『日活ロマンポルノ全史 名作・名優・名監督たち』講談社、2000年、pp.247-248</ref>。 |
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しかし、映画評論家の[[白井佳夫]]は長谷川は「わざと尊大で無造作な態度」をとっているとしており<ref name="白井" />、長谷川本人も豪傑が自分の地ではないことを認めており、少年時代はガリガリに痩せて軟弱だったのが強くなりたいと願ってスポーツをして強いふりをし、ゴジというニックネームに合わせて豪傑ぶっているうちに本当に外見的にもそうなってきたと語っている<ref name="香取" />。自分の性格は、気が小さく、末っ子の甘えん坊で威張って怒鳴って甘えるともしている<ref>「談盟友、そして仇敵が死んだ 長谷川和彦vs荒井晴彦」『映画芸術』NO.401、pp.23-24</ref>。サングラスを常用<ref name="白井" />。[[黒沢清]]も、サングラスをかけた強面の見た目から想像した人柄とは大分違い、インテリでとても人に気を遣うジェントルマン、なかなかの人格者などと述べている<ref>黒沢清の映画術、51、69頁、[http://www.professionalchoice.jp/men/column/interview06/index2.html サンスター VO5 for MEN]</ref>。 |
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俳優でもツワモノに位置する[[竜雷太]]と殴り合いで五分を張った<ref>[[高瀬将嗣]]「技斗番長 活劇与太郎行進曲」『映画秘宝』[[洋泉社]]、2012年6月号、p95</ref>、[[安岡力也]]ととっくみあいの喧嘩をした<ref name="松島" />、作家の[[リチャード・ブローティガン]]を殴打して鼻骨を折った<ref>[[内藤誠]]『偏屈系映画図鑑』キネマ旬報社、2011年、p.196</ref>、焼肉店で映画監督の[[崔洋一]]から殴られて怒鳴り合いになり店にいたヤクザからうるさいと怒られると今度はそのヤクザに向かっていった<ref>[[立松和平]]『映画主義者 深作欣二』文藝春秋、2003年、p.157</ref>など、多くの逸話を持つ。 ただし自分より弱い相手とは喧嘩をしなかったと語っている<ref name="田山" />。今村昌平は、長谷川について、体が大きくて大酒飲みのわりにはひ弱、甘ったれと評し、『神々の深き欲望』のロケでは体力がなく、日射病でダウンしたと述べている<ref name="田山" /><ref>今村昌平『映画は狂気の旅である 私の履歴書』日本経済新聞社、2004年、p.149</ref>。長谷川にとって今村は多くを学んだ師匠であるが、今村プロ時代から何度も決裂寸前となり、プロデュースしてもらったデビュー作の『青春の殺人者』でも色々あり、愛憎半ばする関係だとしている<ref>香取、2004年、pp.276、302-307</ref>。 |
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一晩にボトル1本の豪放な酒豪で、[[井筒和幸]]は「ゴジと[[高橋伴明|伴明さん]]に、月25万円やるからディレカンに来ないか」と誘われたが、自分ばかりで働かせられて、ゴジたちは毎晩酒ばっかり飲み、挙句25万円会社に入れろと言われ、その金も飲み代に使われた」と話している<ref>『[[サウンドコレクション#2011年度以降|井筒和幸のナイタースペシャル]]』2013年5月30日放送</ref>。 |
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== 逸話 == |
== 逸話 == |
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[[江口洋介]]は17歳の頃、所属した事務所に出入りした長谷川や[[原田芳雄]]ら「70年代の怪物(江口談)」と[[新宿ゴールデン街]]にくっついて行き、華やかな芸能界どころでない、不良の世界を初めて覗き見た。みんな映画を熱く語りすぐに喧嘩が始まる。そこは酒とフィルムと喧嘩と[[イデオロギー]]の世界でとても面白く憧れたという<ref>「[[週刊文春]]」2011年10月6日号、「阿川佐和子のこの人に会いたい」より</ref><ref>[http://morinaga-hiroshi.com/profile/profile32.html profile32 |www.morinaga-hiroshi.combook - 森永博志]</ref>。 |
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白井佳夫の企画で[[倉本聰]]が脚本を書き[[萩原健一]]が主演する予定でクランクイン3日前に中止になった映画『純』では、チーフ助監督につく予定だったが、倉本の脚本を「おれたちが撮影現場で直し直し撮っていきゃあ、まあまあ一応の映画にゃ、なるんじゃないの!」と発言し、倉本が長谷川を外せないからと打診したが、その後はうちとけて仲良くなった<ref name="白井" />。 |
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== 映画作品 == |
== 映画作品 == |
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*[[樋口尚文]]「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」([[筑摩書房]]、2004年3月) |
*[[樋口尚文]]「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」([[筑摩書房]]、2004年3月) |
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*[[大槻ケンヂ]]「オーケンの、私は変な映画を見た!!」(キネマ旬報社、2009年4月) |
*[[大槻ケンヂ]]「オーケンの、私は変な映画を見た!!」(キネマ旬報社、2009年4月) |
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*熊谷秀夫、長谷川隆「照明技師熊谷秀夫 降る影 待つ光」(キネマ旬報社、2004年12月) |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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*{{Twitter|goji52|長谷川和彦 (goji52)}} |
*{{Twitter|goji52|長谷川和彦 (goji52)}} |
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*[http://www.jmdb.ne.jp/person/p0284260.htm 長谷川和彦作品] |
*[http://www.jmdb.ne.jp/person/p0284260.htm 長谷川和彦作品] |
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*[http://www.kinenote.com/main/public/cinema/person.aspx?person_id=89519 長谷川和彦 - KINENOTE] |
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2013年8月7日 (水) 22:06時点における版
はせがわ かずひこ 長谷川 和彦 | |
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本名 | 同じ |
別名義 | ゴジ |
生年月日 | 1946年1月5日(78歳) |
出生地 | 日本 広島県賀茂郡西高屋町(現:東広島市) |
職業 | 映画監督、脚本家 |
ジャンル | アクション、ドラマ |
活動期間 | 1968年 - 現在 |
長谷川 和彦(はせがわ かずひこ、1946年1月5日 - )は、日本の映画監督。愛称ゴジ。
経歴
広島県賀茂郡西高屋町(現:東広島市)に出生。父は農業協同組合勤務、母は教師で三人兄弟の末弟。1945年8月、母が原爆投下2日後に広島市に入り放射線を浴び、胎内5ヵ月のため胎内被曝となった。被曝2世の自分は早死にすると思い、人生を生き急ぐ原因となる[1][2]。
広島市翠町(現:南区翠町)で育ち、広島大学付属高校へ進む。鳥取県米子市長・野坂康夫らが同級[3]。高校時代はジャズに熱中、テナーサックスを吹きバンドも組んで、ジャズミュージシャンを目指したが挫折[2]。
高校卒業後は東京大学文学部英文科に進んだ。在学中は大学闘争真っ盛りの時期、しかしそれには参加せず、ボート部を経て[4]、アメリカンフットボール(アメラグ)に熱中し、フットボール部ではキャプテンにもなった[5]。「麻雀とアメラグだけのノンポリフーテンだった」と話す。英文科に3年在籍、のち映画監督を目指して美学科に変わる。
大学に通う傍ら、映画監督との出会いを求めて夜にはシナリオ研究所で映画監督の浦山桐郎のゼミを受講し、浦山から今村昌平の今村プロの助監督試験を紹介されて合格。在学5年目の1968年に今村プロに入社。卒論を残すのみだったが大学は今村の命令で中退[4]。映画『神々の深き欲望』の制作スタッフについて沖縄ロケに参加した[5]。沖縄ロケでの資金枯渇や未払いなど残務処理など今村組での体験や、今村昌平流の粘る映画作りがすり込まれ、後の日活時代の助監督生活も苦しいと思ったことはないという[6]。
今村プロ時代に24歳で結婚[4]。家賃2万円のボロ家の今村プロ事務所に管理人夫婦を兼ねて住んだ[7]。1970年の今村監督の『にっぽん戦後史・マダムおんぼろ生活』には助監督としてつき、その後も1981年に映画化された『ええじゃないか』の資料調べをするなど[8]、3年ほど今村プロに在籍した。しかし今村プロが開店休業状態のため仕事がなく、他の独立プロで仕事をしたいと今村に申し出。日活の臨時雇いの契約助監督の仕事をあくまで出向だぞと釘を刺されながら今村から紹介され[9]、1971年に日活契約助監督となる。
日活では小沢啓一、藤田敏八、西村昭五郎、神代辰巳らの作品に付く傍ら、『濡れた荒野を走れ』、『青春の蹉跌』、『宵待草』、テレビドラマ『悪魔のようなあいつ』などのシナリオを書き注目された。長谷川は日本映画のプログラムピクチャーシステム体験(大手映画会社で助監督経験)を持つ最後の世代となる[10]。神代辰巳が監督した1974年の『青春の蹉跌』では脚本のみならず、ラストシーンとなるアメフトシーンの撮影を担当[11]。
日活時代には、『卓のチョンチョン』というロマンポルノと『燃えるナナハン』という一般映画の監督をする話が2度あったが、正社員の社員助監督ではなく契約助監督だったことからいずれも労働組合の反対で流れる。政治に関わらないノンポリだったにも関わらず、日活撮影所を仕切る日本共産党系労働組合からトロツキスト呼ばわりされる形で撮影所を追い出され、日活に見切りをつけ[4][2][12][13]、1975年よりフリーとなる。同年には原田芳雄コンサート「歌う銀幕スター夢の狂演」を演出[14]。
1976年、長谷川の噂を聞きつけたATGの多賀祥介に話を持ちかけられ[4]、中上健次原作『蛇淫』を脚色した『青春の殺人者』で監督デビュー。“30歳の新鋭映画監督登場”と大きな話題を呼んだ。この作品はその年のキネマ旬報ベスト・テン1位に選ばれるなど、高い評価を受け、多くの映画賞を独占した。新人の第1回作品がベストワンになるのは異例であった[15]。
1978年に小林信彦の小説『唐獅子株式会社』の映画化に取り組むが、脚本が難航して流れる[16][17]。
長谷川のためにキティレコードが映画部門としてキティ・フィルムを設立し[18]、1979年にはレナード・シュレイダー(ポール・シュレイダーの兄)との共同脚本で『太陽を盗んだ男』を監督。沢田研二演じる孤独な中学物理教師がアパートで原爆を製造。国家を敵にまわし、ナイター中継の延長やローリング・ストーンズの日本公演を要求、原発の襲撃や派手なカーチェイスなど、それまでの日本映画にないエネルギッシュな娯楽アクションに仕上げ“日本のスティーヴン・スピルバーグ”の異名を取り、キネマ旬報ベスト・テン2位、同誌読者投票1位と高評価を受け、「若手監督の旗手」と、大きな支持を受けた。しかしこの映画は興行的には振るわなかった。理由は諸説言われているが、後の東映社長の岡田裕介が当時、「題名が良くなかった」と語っている。こうした事情もあって、本作は長らくカルト映画の位置付けであったが[19]、近年[いつ?]、一般的な評価も非常に高めており、映画誌などで<日本映画史上歴代ベストテン>にも挙げられたり、<20世紀を代表する日本映画>などと評されている[20]。
1981年に起こした飲酒運転による人身事故で懲役6ヶ月の実刑を受け、交通刑務所に4ヶ月間服役[2][21][22]。1983年に出所して、出所を祝うパーティが開催された[23]。
1982年、大森一樹、相米慎二、高橋伴明、根岸吉太郎、池田敏春、井筒和幸、黒沢清、石井聰亙ら若手監督9人による企画・制作会社「ディレクターズ・カンパニー」(ディレカン)を設立、監督代表として取締役に就任[24]。このうち、長谷川にとって一番目の弟分である相米[25]と黒沢は長谷川の口利きで業界入りしたもので、相米は長谷川の妻の知り合いという関係で日活に入って長谷川とともに日活退社して『青春の殺人者』でチーフ助監督を務め[22]、黒沢は雑誌GOROの座談会をきっかけに『太陽を盗んだ男』の脚本書きに引っ張り込まれたもの[26][27]。ディレカンは世間の関心を呼び、雑誌媒体の他、メンバー全員で「11PM」などテレビにも出演、これらを見て触発された若い映画人も少なくない[28]。ディレカンではプロデューサーなどの裏方的仕事にまわり、石井聰亙監督『逆噴射家族』などを製作。相米が『光る女』などで赤字を出し、ディレカンが経営難で給料遅配が続いたときは、長谷川個人で借金をして会社につぎ込んだが[29]、井筒和幸の『東方見聞録』での死亡事故もあり[30]、長谷川が1本も撮れないうちにディレカンは倒産した[31]。
その後、テレビ、ビデオ、CMなどを演出するが、『太陽を盗んだ男』以降の映画監督作品はない。デビュー作と第2作がキネマ旬報ベストテン1位と2位という華々しいスタートだったこともあり、長らく“次回作が見たい映画監督ナンバーワン”と言われ続けてきたが[32]、余りにもブランクが長くなりすぎて、最近[いつ?]では待望する声も少なくなってきた。
この間にも、『戦国自衛隊』の続編企画[33]や『ガンヘッド』[34]、『禁煙法時代』[35]、菅原文太プロデュースの『吉里吉里人』[36]、近藤真彦と中森明菜の『愛・旅立ち』の原型になった『PSI』[36]など様々な企画があったが、本人が断ったり、途中降板するなどして実現していない。東映の俊藤浩滋プロデューサーからは、青函トンネルを題材にした映画の脚本を依頼され、北海道に1ヶ月間取材旅行に行った末、飲み食いで金を全て使い切り、「竜飛岬にUFOが降りてくる」という脚本を持って行って俊藤が激怒した[37]、
中でも意欲的だったのは連合赤軍を題材とした作品で、シナリオ化して監督するとの構想を語っていたが[38][39]、その後頓挫している。2008年『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』を撮った若松孝二は「ゴジが撮る撮るといっていっこうに撮らないから俺が撮った」と話している[40]。
1980年代以降は雑誌・近代麻雀や週刊ポストなどに雀士として登場したり、ラジオ番組のレギュラーを受け持って話題になったり(TBSラジオのスーパーワイドぴいぷる)、室井滋との同居生活などがマスコミに取り上げられたりと、本業以外で名前があがっていた。雀士としては、井上陽水などを麻雀仲間に引き込み文化人と交流させた[41]。第13・14・15期麻雀名人、第9期近代麻雀王位。
傑出した二本の監督作のみで伝説的映画監督と化しているが、未だ熱烈な支持者を持っている[42][43][44][45][46][47]。
人物
寡作になった理由については、『太陽を盗んだ男』で古くからつきあいのあった後輩のチーフ助監督が映画界から消えたことにショックを受けたことが原因と語る。そのことで、自分は本当に撮りたい映画以外は撮る資格がないと考え、依頼された企画を見送っているうちにどんどんハードルが高くなってしまった結果なのだという[48]。
愛称の「ゴジ」は、大学時代アメフトのボールを長髪を振り乱して目をギョロギョロさせて追う形相を、「ゴジラそっくり」と部の監督が言ったのが始まりである[4]。あるいは酔っぱらったときにゴジラのように破壊するからだという説もある[49]。パパと言われるのが嫌で、息子と娘にも「ゴジ」と呼ばせている[50]。ラジオ日本では『ゴジラ・バラエティ』というラジオ番組を持ち、DJをやっていた[2]。
酒を飲んではあたりかまわず喧嘩を仕掛ける豪傑として知られ[51]、助監督時代から監督よりも偉そうにしていたと言われ[52]、藤田敏八の演出に口出ししたり、藤田をパキ、神代辰巳をクマと呼び捨てにしていた[4]。そのため生意気だというので日活スタッフの間から長谷川を懲らしめようという話が出ては、その度に先輩監督がおさめたという[53]。
しかし、映画評論家の白井佳夫は長谷川は「わざと尊大で無造作な態度」をとっているとしており[49]、長谷川本人も豪傑が自分の地ではないことを認めており、少年時代はガリガリに痩せて軟弱だったのが強くなりたいと願ってスポーツをして強いふりをし、ゴジというニックネームに合わせて豪傑ぶっているうちに本当に外見的にもそうなってきたと語っている[5]。自分の性格は、気が小さく、末っ子の甘えん坊で威張って怒鳴って甘えるともしている[54]。サングラスを常用[49]。黒沢清も、サングラスをかけた強面の見た目から想像した人柄とは大分違い、インテリでとても人に気を遣うジェントルマン、なかなかの人格者などと述べている[55]。
俳優でもツワモノに位置する竜雷太と殴り合いで五分を張った[56]、安岡力也ととっくみあいの喧嘩をした[53]、作家のリチャード・ブローティガンを殴打して鼻骨を折った[57]、焼肉店で映画監督の崔洋一から殴られて怒鳴り合いになり店にいたヤクザからうるさいと怒られると今度はそのヤクザに向かっていった[58]など、多くの逸話を持つ。 ただし自分より弱い相手とは喧嘩をしなかったと語っている[4]。今村昌平は、長谷川について、体が大きくて大酒飲みのわりにはひ弱、甘ったれと評し、『神々の深き欲望』のロケでは体力がなく、日射病でダウンしたと述べている[4][59]。長谷川にとって今村は多くを学んだ師匠であるが、今村プロ時代から何度も決裂寸前となり、プロデュースしてもらったデビュー作の『青春の殺人者』でも色々あり、愛憎半ばする関係だとしている[60]。
一晩にボトル1本の豪放な酒豪で、井筒和幸は「ゴジと伴明さんに、月25万円やるからディレカンに来ないか」と誘われたが、自分ばかりで働かせられて、ゴジたちは毎晩酒ばっかり飲み、挙句25万円会社に入れろと言われ、その金も飲み代に使われた」と話している[61]。
逸話
江口洋介は17歳の頃、所属した事務所に出入りした長谷川や原田芳雄ら「70年代の怪物(江口談)」と新宿ゴールデン街にくっついて行き、華やかな芸能界どころでない、不良の世界を初めて覗き見た。みんな映画を熱く語りすぐに喧嘩が始まる。そこは酒とフィルムと喧嘩とイデオロギーの世界でとても面白く憧れたという[62][63]。
白井佳夫の企画で倉本聰が脚本を書き萩原健一が主演する予定でクランクイン3日前に中止になった映画『純』では、チーフ助監督につく予定だったが、倉本の脚本を「おれたちが撮影現場で直し直し撮っていきゃあ、まあまあ一応の映画にゃ、なるんじゃないの!」と発言し、倉本が長谷川を外せないからと打診したが、その後はうちとけて仲良くなった[49]。
映画作品
- 性盗ねずみ小僧(1972年、脚本)
- 濡れた荒野を走れ(1973年、脚本)
- 青春の蹉跌(1974年、脚本)
- 宵待草(1974年、脚本)
- 青春の殺人者(1976年、監督)
- 太陽を盗んだ男(1979年、監督・脚本)
- 逆噴射家族(1984年、制作)
テレビドラマ
ミュージック・ビデオ
- 時任三郎「BAY SIDE STREET」(演出)
CM
- 富士銀行(現:みずほフィナンシャルグループ) 富士カード(演出) - ポール・ニューマンが出演
関連書籍
- 罵論・ザ・犯罪―日本「犯罪」共同体を語る(アス出版、1986年5月 ISBN 978-4900402126 )-栗本慎一郎、小室直樹との鼎談集。
参考文献
- 「日本映画人名事典 監督篇」(キネマ旬報社)
- 田山力哉「新しい映画づくりの旗手たち(ダヴィッド社、1980年2月)
- 樋口尚文「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」(筑摩書房、2004年3月)
- 大槻ケンヂ「オーケンの、私は変な映画を見た!!」(キネマ旬報社、2009年4月)
- 熊谷秀夫、長谷川隆「照明技師熊谷秀夫 降る影 待つ光」(キネマ旬報社、2004年12月)
脚注
- ^ 『キネマ旬報』2011年3月下旬号、p.143。長谷川和彦インタビューより。
- ^ a b c d e 「わくわくすることを求め続けて 長谷川和彦インタビュー」『毎日ムック―シリーズ 20世紀の記憶 かい人21面相の時代 1976-1988』毎日新聞社、2000年、pp.26-27
- ^ 高校時代の思い出/米子市ホームページ
- ^ a b c d e f g h i 田山力哉『新しい映画づくりの旗手たち』ダヴィッド社、1980年、pp.214-221。長谷川インタビューより。
- ^ a b c 香取俊介『人間ドキュメント 今村昌平伝説』河出書房新社、2004年、pp.276-279
- ^ 香取、2004年、pp.281-283
- ^ 香取、2004年、p,290
- ^ 香取、2004年、p.293
- ^ 香取、2004年、pp.295-296
- ^ 佐藤隆信「黒沢清の映画術」新潮社、2006年、p51
- ^ 「談盟友、そして仇敵が死んだ 長谷川和彦vs荒井晴彦」『映画芸術』2002年夏・秋合併号 NO.401、編集プロダクション映芸、p.27
- ^ 『映画芸術』NO.401、p.27
- ^ 『シネアルバム126 相米慎二映画の断章』芳賀書店、1989年、pp.54、65
- ^ 『キネマ旬報』2011年9月下旬号、p.66
- ^ 田山力哉「新しい映画づくりの旗手たち」ダヴィッド社、1980年2月、p224
- ^ 小林信彦「本音を申せば 連載 第577回 なつかしい人、笠原和夫2」『週刊文春』2009年11月5日号、p.54
- ^ 小林信彦『コラムは笑う エンタテインメント評判記 1983-1988』筑摩書房、1989年、p.10
- ^ 『甦る相米慎二』インスクリプト、2011年、pp.183-186。伊地智啓インタビュー
- ^ 「ぴあシネマクラブ 日本映画編 2007年最新版」 ぴあ、2006年、p363
- ^ 「オールタイム・ベスト 映画遺産200」全ランキング公開、1位は東京物語とゴッドファーザー キネ旬がベスト10 - Asahi、「キネ旬ムック オールタイム・ベスト映画遺産200 (日本映画編)」キネマ旬報社、2009年12月、p1-20、Amazon.co.jp: 太陽を盗んだ男 DVD
- ^ 岡留安則「編集長日誌」『噂の真相』1983年10月号、p.128
- ^ a b 『映画芸術』NO.401、p.28
- ^ 「パーティ ゴジとの再会を喜ぶ会」『噂の真相』1983年10月号、p.14
- ^ vol.127 黒沢清の映画術- 全国映画よもやま話
- ^ 『映画芸術』NO.401、p.29
- ^ 黒沢清の映画術、45-48、60頁
- ^ 効率至上主義の真逆を突き進んだ男、伝説のシネアスト(映画人)相米慎二
- ^ 黒沢清の映画術、69-71頁
- ^ 鈴木義昭「解散説が取沙汰されるディレクターズカンパニーの内情」『噂の真相』1988年5月号、p.59。長谷川インタビューより。
- ^ 山根貞男『映画はどこへ行くか 日本映画時評'89-'92』筑摩書房、1993年、p.207
- ^ 『映画芸術』NO.401、pp.32-33
- ^ 鈴木隆『俳優 原田美枝子 映画に生きて生かされて』毎日新聞社、2011年、58頁
- ^ 轟夕起夫「日本一多作な男が日本一寡作な男の半生に迫る! 長谷川和彦vs三池崇史」『轟夕起夫の映画あばれ火祭り』 河出書房新社、2002年、p.237
- ^ 川北紘一『特撮魂 東宝特撮奮戦記』洋泉社、2010年、p.159
- ^ 『映画芸術』2009秋、NO.429、編集プロダクション映芸、p.16。種田陽平インタビューより。
- ^ a b 樋口尚文『「砂の器」と「日本沈没」70年代日本の超大作映画』筑摩書房、2004年、p.249
- ^ 俊藤浩滋・山根貞男『任侠映画伝』講談社、1999年、236-238頁
- ^ 白井佳夫『監督の椅子』話の特集、1981年、p.256。長谷川和彦インタビューより
- ^ 「大友克洋との次の仕事 長谷川和彦インタビュー」『SFイズム』5号、シャピオ、1983年、p.73
- ^ 映画芸術: 映芸マンスリーVOL14
- ^ 井上陽水が麻雀を通じて文化人と交流を持った経緯は、まず「話の特集」の矢崎泰久がベトナムに行く時の壮行麻雀大会に五木寛之に連れて行かれ、そこで矢崎、ばばこういち、阿佐田哲也に会い、この後、長谷川と知り合い、長谷川に近代麻雀に出ないかと誘われて田村光昭に会い、その繋がりで長門裕之、黒鉄ヒロシ、畑正憲らと知り合った(井上陽水全発言 井上陽水 えのきどいちろう 1994年、福武書店、131頁)。
- ^ 【寺島進おれの1本】第1回『太陽を盗んだ男』ー
- ^ 長谷川和彦に映画を聞く! - ぴあフィルムフェスティバル(PFF)、河瀬直美「太陽を盗んだ男」を見て長谷川和彦に聞く! - TwitLonger 、河瀨直美が世界に伝えたい日本の名画
- ^ 屈指の問題作「太陽を盗んだ男」長谷川和彦監督が33年を経た今、改めて自作を振り返る!
- ^ 長谷川和彦さんに取材: newswave on line (personal edition)
- ^ 大根仁が世界に伝えたい日本の名画
- ^ しんゆり発 5時からシネマ Vol.1 - 川崎市アートセンター アルテリオ映像館
- ^ 轟、2002年、p.243
- ^ a b c d 白井佳夫『監督の椅子』話の特集、1981年、pp.226-227。長谷川和彦インタビューより
- ^ 香取、2004年、p.295
- ^ 内田裕也オフィシャルサイト
- ^ 中田新一『奔れ!助監督 奮闘昭和映画史』早稲田出版、2010年、p.51
- ^ a b 松島利行『日活ロマンポルノ全史 名作・名優・名監督たち』講談社、2000年、pp.247-248
- ^ 「談盟友、そして仇敵が死んだ 長谷川和彦vs荒井晴彦」『映画芸術』NO.401、pp.23-24
- ^ 黒沢清の映画術、51、69頁、サンスター VO5 for MEN
- ^ 高瀬将嗣「技斗番長 活劇与太郎行進曲」『映画秘宝』洋泉社、2012年6月号、p95
- ^ 内藤誠『偏屈系映画図鑑』キネマ旬報社、2011年、p.196
- ^ 立松和平『映画主義者 深作欣二』文藝春秋、2003年、p.157
- ^ 今村昌平『映画は狂気の旅である 私の履歴書』日本経済新聞社、2004年、p.149
- ^ 香取、2004年、pp.276、302-307
- ^ 『井筒和幸のナイタースペシャル』2013年5月30日放送
- ^ 「週刊文春」2011年10月6日号、「阿川佐和子のこの人に会いたい」より
- ^ profile32 |www.morinaga-hiroshi.combook - 森永博志