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{{サッカー選手 |
{{サッカー選手 |
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|名前=ウルフ・キル |
|名前=ウルフ・キルステン |
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|画像の説明=2019年のキルステン |
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|愛称=Schwatte<ref name="bayer">{{Cite web|url=http://www.bayer04.de/B04-DEU/de/1303.aspx?guid=1303-4926ABD9-6989-4AC7-8157-4FFCF04777D0|title=Ulf Kirsten|publisher=Bayer 04 Leverkusen Fussball GmbH|accessdate=2016-09-13}}</ref> |
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|愛称=Der Schwatte |
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|アルファベット表記=Ulf Kirsten |
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|生年月日={{生年月日と年齢|1965|12|4}} |
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|出身地=[[リーザ]] |
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|身長=175cm<ref name="dfb">{{Cite web|url=http://datencenter.dfb.de/profil/3158|title=Ulf Kirsten Personenprofil|publisher=Deutscher Fußball-Bund|accessdate=2016-09-13}}</ref> |
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|身長=175cm |
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|体重=76kg<ref name="dfb"/> |
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|クラブ={{Flagicon|DDR |
|ユース年1=1972-1978|ユースクラブ1={{Flagicon|DDR}} {{仮リンク|BSGシュタール・リーザ|de|BSG Stahl Riesa}} |
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|ユース年2=1978-1979|ユースクラブ2={{Flagicon|DDR}} {{仮リンク|SCリーザ=レーダーアウ|de|SC Riesa-Röderau}} |
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|年=1983-1990<br/>1990-2003 |
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|ユース年3=1979-1983|ユースクラブ3={{Flagicon|DDR}} [[1.FCディナモ・ドレスデン|ディナモ・ドレスデン]] |
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|出場(得点)=154 {{0}}(57)<br/>350 (182)<!--国内リーグ戦に限る--> |
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|年1=1983-1990|クラブ1={{Flagicon|DDR}} [[1.FCディナモ・ドレスデン|ディナモ・ドレスデン]]|出場1=154|得点1=57 |
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|年2=1990-2003|クラブ2={{Flagicon|GER}} [[バイエル・レバークーゼン]]|出場2=350|得点2=182<!--国内リーグ戦に限る--> |
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|代表 |
|代表年1=|代表1={{GDRf}} U-21|代表出場1=10|代表得点1=4 |
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|代表年=1985-1990 |
|代表年2=1985-1990|代表2={{GDRf}}|代表出場2=49|代表得点2=14 |
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|代表年3=1990-2000|代表3={{GERf}}|代表出場3=51|代表得点3=21 |
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|代表成績更新日= |
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|監督年1=2003-2005|監督チーム1={{Flagicon|GER}} [[バイエル・レバークーゼン]](アシスタント) |
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|監督年2=2005-2011|監督チーム2={{Flagicon|GER}} [[バイエル・レバークーゼン|バイエル・レバークーゼンII]] |
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|監督チーム= |
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[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-1988-0513-031, Dynamo Dresden - FC Union Berlin 0-0.jpg|250px|thumb|ディナモ・ドレスデン在籍時のキルステン(右側)]] |
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'''ウルフ・キルステン'''<ref>『ワールドカップUSA'94展望号』(日本スポーツ企画出版社、1994年、63頁)、『World Cup France 98 展望&ガイド』(日本スポーツ企画出版社、1998年、66頁)、『EURO 2000 展望&ガイド』(ベースボール・マガジン社、2000年、17頁)、『DREAM ELEVEN Vol.1 ドイツ代表特集』(日本文化出版、2006年、98-100頁)、『ブンデスリーガ ドイツサッカーの軌跡』(バジリコ、2005年、378頁)</ref>(Ulf Kirsten{{#tag:ref|{{IPA-de|ˈkɪrst''ə''n}}<ref>{{cite encyclopedia|title=Kirsten|author=国松孝二ほか|encyclopedia=独和大辞典|accessdate=2016-10-08|publisher=[[小学館]]|edition=2|date=2000|isbn=4095150025|id={{全国書誌番号|98052526}}, {{ncid|BA33206388}}}}</ref><ref>Duden - Das Aussprachewörterbuch</ref>。インターネット文献の一部では「キルシュテン」とする表記もみられる。|group=注}}、[[1965年]][[12月4日]] -)は、[[ドイツ]](旧[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]])出身の元[[プロサッカー選手|サッカー選手]]。ポジションは[[フォワード (サッカー)|フォワード]]。[[1980年代]]から[[1990年代]]のドイツを代表する選手の一人であり<ref name="Dresden">{{Cite web|url=http://www.dynamo-dresden.de/verein/news/newsdetails/dynamo-dresden-gratuliert-ulf-kirsten.html|title=Dynamo Dresden gratuliert Ulf Kirsten|publisher=Dynamo Dresden.de|accessdate=2016-09-13}}</ref>、2つの異なるナショナルチームでプレーし100試合出場([[サッカー東ドイツ代表|東ドイツ代表]]49試合、[[サッカードイツ代表|ドイツ代表]]51試合)に達した初の選手である<ref name="rsssf">{{Cite web|url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/kirsten-intl.html|title=Ulf Kirsten - International Appearances|publisher=rsssf.com|accessdate=2016-09-13}}</ref>。 |
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== 経歴 == |
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'''ウルフ・キルシュテン'''(Ulf Kirsten、[[1965年]][[12月4日]] -)は、[[ドイツ]](旧[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]])出身の元[[サッカー|サッカー選手]]。ポジションは[[フォワード (サッカー)|FW]]。 |
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=== クラブ === |
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キルステンは故郷の{{仮リンク|BSGシュタール・リーザ|de|BSG Stahl Riesa}}や{{仮リンク|SCリーザ=レーダーアウ|de|SC Riesa-Röderau}}を経て、1979年に[[1.FCディナモ・ドレスデン|ディナモ・ドレスデン]]の下部組織に入団<ref name="Dresden"/>。[[1983年]]にトップチームに昇格し、同年[[8月13日]]に行われた{{仮リンク|BSGヒェミー・ライプツィヒ|de|BSG Chemie Leipzig}}戦でデビューすると<ref name="Dresden"/><ref>{{Cite web|url=http://www.rsssf.com/tablesd/ddr84.html|title=East Germany 1983/84|publisher=rsssf.com|accessdate=2016-09-13}}</ref>、ドレスデンのレギュラーに定着し1990年までにリーグ戦154試合で57得点、ヨーロッパのカップ戦においても21試合で8得点を記録した<ref name="Dresden"/>。また、2度の[[DDRオーバーリーガ]]優勝(1988-89シーズン、1989-90シーズン)と3度の{{仮リンク|FDGBポカール|en|FDGB-Pokal}}優勝(1983-84シーズン、1984-85シーズン、1989-90シーズン)に貢献し、1990年には{{仮リンク|年間最優秀サッカー選手賞 (ドイツ民主共和国)|label=年間最優秀選手賞|de|Fußballer des Jahres (DDR)}}を受賞した<ref name="Dresden"/>。 |
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[[1990年]]、イタリアの[[カリアリ・カルチョ|カリアリ]]と仮契約を結んでいたが、これを破棄し<ref>{{cite web|url=https://www.goal.com/it/notizie/daniel-fonseca-el-tigre-lesplosione-con-il-cagliari-la-manita-col-napoli-il-tandem-con-balbo-alla-roma-trofei-e-infortuni-alla-juventus/aw480b95ie2g199cj3530wic6|title=Daniel Fonseca, 'El Tigre': l'esplosione con il Cagliari, la 'manita' col Napoli, il tandem con Balbo alla Roma, trofei e infortuni alla Juventus|website=GOAL|language=ITA|date=2022-9-13|accessdate=2023-7-25}}</ref>、7月に[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデスリーガ]]1部の[[バイエル・レバークーゼン]]に移籍<ref name="kicker">{{Cite web|url=http://www.kicker.de/news/fussball/bundesliga/vereine/2009-10/225/vereinsspieler_ulf-kirsten.html|title=Ulf Kirsten - Karriere beendet|publisher=kicker.de|accessdate=2016-09-13}}</ref>。1990-91シーズン開幕戦の[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]戦でデビューすると、この試合で初得点を決めレバークーゼンのサポーターに認められた<ref name="bayer"/>。レバークーゼンでは2003年までにリーグ戦350試合に出場し182得点、ヨーロッパのカップ戦においても54試合に出場し32得点を記録した<ref name="Dresden"/>。また、1992-93シーズンの[[DFBポカール]]決勝の[[ヘルタ・ベルリン|ヘルタ・ベルリン・アマチュア]]戦では決勝点を決めてタイトル獲得に貢献<ref name="bayer"/>。[[UEFAチャンピオンズリーグ 2001-02]]では[[ミヒャエル・バラック]]らと共に準優勝に貢献した<ref name="Dresden"/><ref>{{Cite web|url=http://www.uefa.com/competitions/UCL/News/Kind=128/newsId=23850.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20020606223553/http://www.uefa.com/competitions/UCL/News/Kind=128/newsId=23850.html|title=Madrid win ninth European crown|publisher=UEFA.com|archivedate=2002-05-15|accessdate=2016-09-13}}</ref>。個人では1992-93シーズンにリーグ戦で20得点、1996-97シーズンと1997-98シーズンにはそれぞれ22得点をあげリーグ得点王となった<ref name="dfb"/><ref name="Dresden"/>。 |
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2つの異なるナショナルチームでプレーをし、100試合出場に達したサッカー史上初の選手である。 |
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その後、2002-03シーズン限りで現役を引退した<ref name="bayer"/>。 |
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身長175cmと小柄な体格にもかかわらず、ヘディングの名手として恐れられ、また大柄なディフェンスを背にしながら反転して、素早くシュートを狙う事を得意とした。このプレースタイルは往年の名FW[[ゲルト・ミュラー]]と度々比較された。 |
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== |
=== 代表 === |
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[[サッカー東ドイツ代表|東ドイツ代表]]としては[[1985年]][[5月8日]]に行われた[[サッカーデンマーク代表|デンマーク代表]]との国際親善試合でデビュー<ref name="rsssf"/>。[[1986 FIFAワールドカップ・予選]]や[[UEFA欧州選手権1988予選]]や[[1990 FIFAワールドカップ・予選]]に出場し、[[1990年]][[5月13日]]に行われた[[サッカーブラジル代表|ブラジル代表]]との国際親善試合を最後に代表から退くまで国際Aマッチ49試合に出場し14得点を記録した<ref name="rsssf"/>。 |
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クラブレベルでは、2つのクラブでプレーをした。1983年から1990年までは[[ディナモ・ドレスデン]]に在籍。[[DDRオーバーリーガ]]通算154試合出場57得点を記録した。 |
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[[サッカードイツ代表|ドイツ代表]]としては[[1992年]][[10月14日]]に行われた[[サッカーメキシコ代表|メキシコ代表]]との国際親善試合でデビューした<ref name="rsssf"/>。当時の代表監督・[[ベルティ・フォクツ]]は[[ユルゲン・クリンスマン]]のパートナーを務めることができる選手を探していたがキルステンは[[アンドレアス・トーム]]や[[シュテファン・クンツ]]らと共に1ランク下の選手と見做されていた<ref>{{Cite book|和書|title=ワールドカップUSA94展望号|volume=週刊サッカーダイジェスト1994年5月24日号増刊|publisher=[[日本スポーツ企画出版社]]|page=63}}</ref>。[[1994年]]に[[アメリカ合衆国]]で行われた[[1994 FIFAワールドカップ]]では代表メンバーに選ばれたが出場機会はなかった<ref name="rsssf"/>。 |
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1990年の[[ドイツ再統一]]後は[[バイエル・レバークーゼン]]に在籍し、ブンデスリーガ通算350試合出場182得点を記録した。得点数は歴代5位の記録である。キルステンは東ドイツ出身の優秀な選手の一人であり、ブンデスリーガで最も危険なFWとして知られたが、[[バイエルン・ミュンヘン]]や[[ボルシア・ドルトムント]]といった強豪が鎬を削っていた為、クラブレベルで獲得したタイトルは1993年の[[DFBポカール]]のみに終わった。そして2003年に現役を引退した。 |
|||
[[1996年]]の[[UEFA EURO '96]]では代表メンバーから落選したが、[[1998 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選]]では好調なプレーを維持すると<ref>{{Cite book|和書|title=WORLD CUP FRANCE 98展望&ガイド|volume=ワールドサッカーダイジェスト1998年6月号増刊|publisher=日本スポーツ企画出版社|page=165}}</ref>、[[1998年]]に[[フランス]]で開催された[[1998 FIFAワールドカップ|本大会]]でも代表入りを果たし準々決勝の[[サッカークロアチア代表|クロアチア代表]]を含む4試合に出場した<ref name="rsssf"/>。フォクツの後任として[[エーリッヒ・リベック]]が監督に就任した後も代表に招集され、[[2000年]]に[[オランダ]]と[[ベルギー]]で共同開催された[[UEFA EURO 2000]]では2試合に出場したが、同年[[6月20日]]に行われた[[サッカーポルトガル代表|ポルトガル代表]]戦を最後に代表から退いた<ref name="rsssf"/>。 |
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代表レベルでは[[サッカー東ドイツ代表|東ドイツ代表]]としては国際Aマッチ49試合出場14得点を記録。[[サッカードイツ代表|ドイツ代表]]としては国際Aマッチ51試合出場21得点を記録するなど、ほぼ均等な数字を残している。ドイツ代表としては1994年の[[1994 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ・アメリカ大会]]、1998年の[[1998 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ・フランス大会]]、2000年の[[UEFA欧州選手権2000]]に出場した。 |
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ドイツ代表としての通算成績は国際Aマッチ51試合出場21得点で<ref name="rsssf"/>、東ドイツ代表時代を含めた通算成績は国際Aマッチ100試合出場34得点となっている<ref name="dfb"/>。 |
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== エピソード == |
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*ピッチの外では豊かな[[髭|顎鬚]]の持ち主として知られ、これに着目した[[ブラウン (企業)|ブラウン社]]が電器シェーバーのCMに起用した。 |
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== |
=== 引退後 === |
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[[2003年]]限りで現役引退をすると指導者に転じ、古巣のバイエル・レバークーゼンのアシスタントコーチとして2年間の経験を積んだ後、[[2005年]]に下部組織のバイエル・レバークーゼンIIの監督に就任した<ref name="bayer"/>。また、[[2003年]][[11月16日]]に行われた引退試合に際してウルフ・キルステン財団を設立し、[[ドレスデン]]周辺地域における若者に対するスポーツの推進活動を行っている<ref name="Dresden"/>。 |
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* [http://www.leverkusen.com/whoiswho/whoiswho.php4?view=KirstenU Entry in the who's who of Leverkusen]{{de icon}} |
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[[2011年]]にレバークーゼンIIの監督を退任し、[[2012年]]からはスポーツ代理店に勤務している<ref>{{Cite web|url=https://www.welt.de/newsticker/sport-news/article109140239/Ulf-Kirsten-jobbt-in-Asien.html|title=Ulf Kirsten jobbt in Asien|publisher=welt.de|date=2012-09-11|accessdate=2016-09-13}}</ref>。 |
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{{Navboxes|title = <font color=#000000>ドイツ代表 - 出場大会</font>|titlestyle =background:#ffffff; color:#000000; |
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|list1= |
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<span/> |
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== 人物 == |
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元[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]の[[ジオバネ・エウベル・ジ・ソウザ|エウベル]]、元[[VfLボーフム]]の[[パウル・フライアー]]と共に[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデスリーガ]]の史上最速得点記録(11秒)の持ち主だった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=5350|title=【ブンデスリーガ】最速ゴール記録のベララビが8月の月間MVPに|publisher=サッカーダイジェストweb|date=2014-09-05|accessdate=2016-09-13}}</ref>。この記録は[[2002年]][[3月30日]]に行われた[[バイエル・レバークーゼン]]対[[1.FCカイザースラウテルン]]戦において打立てたものだったが<ref>{{Cite web|url=http://www.fussballdaten.de/bundesliga/2002/29/klautern-leverkusen/|title=Spielbericht 1. FC Kaiserslautern - Bayer Leverkusen|publisher=[[Fussballdaten.de]]|accessdate=2016-09-14}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.sport1.de/fussball/bundesliga/2015/08/die-schnellsten-tore-der-bundesliga-geschichte|title=Die schnellsten Tore der Bundesliga-Geschichte|publisher=sport1.de|date=2015-08-23|accessdate=2016-09-14}}</ref>、[[2014年]][[9月5日]]に行われたレバークーゼン対[[ボルシア・ドルトムント]]戦においてレバークーゼン所属の[[カリム・ベララビ]](9秒)によって塗り替えられた<ref>{{Cite web|和書|url=https://qoly.jp/2014/08/24/dortmund-leverkusen-karim-bellarabi-fastes-goal-ever|title=ドルトムント、シーズン開幕後わずか9秒で失点する(動画あり)|publisher=Qoly.jp|date=2014-08-24|accessdate=2016-09-13}}</ref>。 |
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息子の{{仮リンク|ベンヤミン・キルステン|de|Benjamin Kirsten}}も元サッカー選手であり[[ゴールキーパー (サッカー)|ゴールキーパー]]として、父親の古巣の[[1.FCディナモ・ドレスデン|ディナモ・ドレスデン]]やオランダの[[NECナイメヘン]]などに在籍した<ref>{{Cite web|url=http://www.sport1.de/internationaler-fussball/2015/12/benjamin-kirsten-spricht-bei-sport1-ueber-sein-aus-in-nijmegen|title=Benjamin Kirsten spricht bei SPORT1 über sein Aus in Nijmegen|publisher=sport1.de|date=2015-12-09|accessdate=2016-09-13}}</ref>。 |
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東西ドイツ統一後、[[ドイツ民主共和国]]の諜報機関・[[シュタージ]]の[[非公式協力者]]であったことを認めている<ref>{{Cite web|url=http://www.berliner-zeitung.de/vorwuerfe-gegen-deutschen-nationalspieler---dfb--stehen-voll-hinter-dem-spieler-erhielt-ulf-kirsten-praemien-von-der-stasi--17564394|title=Vorwürfe gegen deutschen Nationalspieler / DFB: Stehen voll hinter dem Spieler Erhielt Ulf Kirsten Prämien von der Stasi?|publisher=Berliner Zeitung|date=1994-06-03|accessdate=2016-09-14}}</ref>。なお、キルステンの所属していた[[1.FCディナモ・ドレスデン|ディナモ・ドレスデン]]には[[1978年]]から[[1989年]]の間に18人から72人の非公式協力者が登録されていた<ref>{{Cite web|url=http://www.abendblatt.de/archiv/2001/article204913921/Mielke-Macht-und-Meisterschaft.html|title=Mielke, Macht und Meisterschaft|publisher=Hamburger Abendblatt|date=2001-07-31|accessdate=2016-09-14}}</ref>。 |
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== 個人記録 == |
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=== 代表での成績 === |
|||
:出典<ref name="rsssf"/> |
|||
{| class="wikitable" style="text-align: center;" |
|||
!colspan="3"|[[サッカー東ドイツ代表|東ドイツ代表]] |
|||
|- |
|||
!年 |
|||
!出場 |
|||
!得点 |
|||
|- |
|||
|1985||7||1 |
|||
|- |
|||
|1986||9||2 |
|||
|- |
|||
|1987||9||4 |
|||
|- |
|||
|1988||8||0 |
|||
|- |
|||
|1989||11||4 |
|||
|- |
|||
|1990||5||3 |
|||
|- |
|||
!小計||49||14 |
|||
|- |
|||
!colspan="3"|[[サッカードイツ代表|ドイツ代表]] |
|||
|- |
|||
!年 |
|||
!出場 |
|||
!得点 |
|||
|- |
|||
|1992||3||0 |
|||
|- |
|||
|1993||6||2 |
|||
|- |
|||
|1994||4||3 |
|||
|- |
|||
|1995||4||1 |
|||
|- |
|||
|1996||1||0 |
|||
|- |
|||
|1997||7||5 |
|||
|- |
|||
|1998||16||5 |
|||
|- |
|||
|1999||5||1 |
|||
|- |
|||
|2000||5||3 |
|||
|- |
|||
!小計||51||20 |
|||
|- |
|||
!合計||100||34 |
|||
|} |
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=== 代表での得点 === |
|||
:出典<ref name="rsssf"/> |
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{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" |
|||
|- |
|||
|+ 東ドイツ代表 |
|||
!!align="center"| #!! 開催日 !! 開催地 !! 対戦国 !! 結果 !! 大会 |
|||
|- |
|||
| 1 || 1985年8月14日 || [[ノルウェー]]、[[オスロ]] || {{NORf}} || 1-0 || 親善試合 |
|||
|- |
|||
| 2 || 1986年2月19日 || [[ポルトガル]]、[[ブラガ]] || {{PORf}} || 3-1 || 親善試合 |
|||
|- |
|||
| 3 || 1986年10月29日 || [[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]、[[ケムニッツ|カール=マルクス=シュタット]] || {{ISLf}} || 2-0 || [[UEFA欧州選手権1988予選]] |
|||
|- |
|||
| 4 || 1987年9月23日 || 東ドイツ、[[ゲーラ]] || {{TUNf}} || 2-0 || 親善試合 |
|||
|- |
|||
| 5 || 1987年10月10日 || 東ドイツ、[[ベルリン]] || {{URSf}} || 1-1 || UEFA欧州選手権1988予選 |
|||
|- |
|||
| 6 || rowspan="2"|1987年10月28日 || rowspan="2"|東ドイツ、[[マクデブルク]] || rowspan="2"|{{NORf}} || rowspan="2"|9-1 || rowspan="2"|UEFA欧州選手権1988予選 |
|||
|- |
|||
| 7 |
|||
|- |
|||
| 8 || rowspan="2"|1989年2月13日 || rowspan="2"|[[エジプト]]、[[カイロ]] || rowspan="2"|{{EGYf}} || rowspan="2"|4-0 || rowspan="2"|親善試合 |
|||
|- |
|||
| 9 |
|||
|- |
|||
| 10 || 1989年5月20日 || 東ドイツ、[[ライプツィヒ]] || {{AUTf}} || 1-1 || [[1990 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選|1990 FIFAワールドカップ・予選]] |
|||
|- |
|||
| 11 || 1989年8月23日 || 東ドイツ、[[エアフルト]] || {{BUL1971f}} || 1-1 || 親善試合 |
|||
|- |
|||
| 12 || rowspan="3"|1990年3月28日 || rowspan="3"|東ドイツ、ベルリン || rowspan="3"|{{USAf}} || rowspan="3"|3-2 || rowspan="3"|親善試合 |
|||
|- |
|||
| 13 |
|||
|- |
|||
| 14 |
|||
|- |
|||
|} |
|||
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" |
|||
|- |
|||
|+ ドイツ代表 |
|||
!!align="center"| #!! 開催日 !! 開催地 !! 対戦国 !! 結果 !! 大会 |
|||
|- |
|||
| 1 || 1993年4月14日 || [[ドイツ]]、[[ボーフム]] || {{GHAf}} || 6-1 || 親善試合 |
|||
|- |
|||
| 2 || 1993年10月13日 || ドイツ、[[カールスルーエ]] || {{URUf}} || 5-0 || 親善試合 |
|||
|- |
|||
| 3 || 1994年4月27日 || [[アラブ首長国連邦|UAE]]、[[アブダビ]] || {{UAEf}} || 2-0 || 親善試合 |
|||
|- |
|||
| 4 || 1994年11月16日 || [[アルバニア]]、[[ティラナ]] || {{ALBf}} || 2-1 || [[UEFA EURO '96予選]] |
|||
|- |
|||
| 5 || 1994年12月14日 || [[モルドバ]]、[[キシナウ]] || {{MDAf}} || 3-0 || UEFA EURO '96予選 |
|||
|- |
|||
| 6 || 1995年9月6日 || ドイツ、[[ニュルンベルク]] || {{GEO1990f}} || 4-1 || UEFA EURO '96予選 |
|||
|- |
|||
| 7 || rowspan="3"|1997年4月2日 || rowspan="3"|[[スペイン]]、[[グラナダ]]<sup>註1</sup>|| rowspan="3"|{{ALBf}} || rowspan="3"|3-2 || rowspan="3"|[[1998 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選|1998 FIFAワールドカップ・予選]] |
|||
|- |
|||
| 8 |
|||
|- |
|||
| 9 |
|||
|- |
|||
| 10 || 1997年9月6日 || ドイツ、ベルリン || {{PORf}} || 1-1 || 1998 FIFAワールドカップ・予選 |
|||
|- |
|||
| 11 || 1997年9月6日 || ドイツ、[[ドルトムント]] || {{ALBf}} || 4-1 || 1998 FIFAワールドカップ・予選 |
|||
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| 12 || 1998年12月1日 || ドイツ、[[シュトゥットガルト]] || {{BRAf}} || 1-2 || 親善試合 |
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| 13 || rowspan="2"|1998年12月1日 || rowspan="2"|ドイツ、[[マンハイム]] || rowspan="2"|{{LUXf}} || rowspan="2"|7-0 || rowspan="2"| 親善試合 |
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| 14 |
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| 15 || rowspan="2"|1998年10月14日 || rowspan="2"|モルドバ、キシナウ || rowspan="2"|{{MDAf}} || rowspan="2"|3-1 || rowspan="2"|[[UEFA EURO 2000予選]] |
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| 16 |
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| 17 || 1999年6月4日 || ドイツ、[[レヴァークーゼン]] || {{MDAf}} || 1-1 || UEFA EURO 2000予選 |
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| 18 || 2000年4月26日 || ドイツ、[[カールスルーエ]] || {{SUIf}} || 1-1 || 親善試合 |
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| 19 || rowspan="2"|2000年6月7日 || rowspan="2"|ドイツ、[[フライブルク・イム・ブライスガウ|フライブルク]] || rowspan="2"|{{LIEf}} || rowspan="2"|8-2 || rowspan="2"|親善試合 |
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<sup>註1</sup>アルバニア国内の政情不安のため、中立地のスペインで試合が行われた<ref>{{Cite web|url=http://www.fifa.com/worldcup/news/y=1997/m=3/news=albania-play-world-cup-matches-granada-70204.html|title=Albania to Play World Cup Matches in Granada|publisher=FIFA.com|date=1997-03-07|accessdate=2016-09-13}}</ref>。 |
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== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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2023年10月11日 (水) 02:36時点における最新版
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---|---|---|---|---|---|---|
2019年のキルステン | ||||||
名前 | ||||||
愛称 | Schwatte[1] | |||||
ラテン文字 | Ulf Kirsten | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ドイツ | |||||
生年月日 | 1965年12月4日(59歳) | |||||
出身地 | リーザ | |||||
身長 | 175cm[2] | |||||
体重 | 76kg[2] | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
ユース | ||||||
1972-1978 | BSGシュタール・リーザ | |||||
1978-1979 | SCリーザ=レーダーアウ | |||||
1979-1983 | ディナモ・ドレスデン | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1983-1990 | ディナモ・ドレスデン | 154 | (57) | |||
1990-2003 | バイエル・レバークーゼン | 350 | (182) | |||
代表歴 | ||||||
東ドイツ U-21 | 10 | (4) | ||||
1985-1990 | 東ドイツ | 49 | (14) | |||
1990-2000 | ドイツ | 51 | (21) | |||
監督歴 | ||||||
2003-2005 | バイエル・レバークーゼン(アシスタント) | |||||
2005-2011 | バイエル・レバークーゼンII | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ウルフ・キルステン[3](Ulf Kirsten[注 1]、1965年12月4日 -)は、ドイツ(旧東ドイツ)出身の元サッカー選手。ポジションはフォワード。1980年代から1990年代のドイツを代表する選手の一人であり[6]、2つの異なるナショナルチームでプレーし100試合出場(東ドイツ代表49試合、ドイツ代表51試合)に達した初の選手である[7]。
経歴
[編集]クラブ
[編集]キルステンは故郷のBSGシュタール・リーザやSCリーザ=レーダーアウを経て、1979年にディナモ・ドレスデンの下部組織に入団[6]。1983年にトップチームに昇格し、同年8月13日に行われたBSGヒェミー・ライプツィヒ戦でデビューすると[6][8]、ドレスデンのレギュラーに定着し1990年までにリーグ戦154試合で57得点、ヨーロッパのカップ戦においても21試合で8得点を記録した[6]。また、2度のDDRオーバーリーガ優勝(1988-89シーズン、1989-90シーズン)と3度のFDGBポカール優勝(1983-84シーズン、1984-85シーズン、1989-90シーズン)に貢献し、1990年には年間最優秀選手賞を受賞した[6]。
1990年、イタリアのカリアリと仮契約を結んでいたが、これを破棄し[9]、7月にブンデスリーガ1部のバイエル・レバークーゼンに移籍[10]。1990-91シーズン開幕戦のバイエルン・ミュンヘン戦でデビューすると、この試合で初得点を決めレバークーゼンのサポーターに認められた[1]。レバークーゼンでは2003年までにリーグ戦350試合に出場し182得点、ヨーロッパのカップ戦においても54試合に出場し32得点を記録した[6]。また、1992-93シーズンのDFBポカール決勝のヘルタ・ベルリン・アマチュア戦では決勝点を決めてタイトル獲得に貢献[1]。UEFAチャンピオンズリーグ 2001-02ではミヒャエル・バラックらと共に準優勝に貢献した[6][11]。個人では1992-93シーズンにリーグ戦で20得点、1996-97シーズンと1997-98シーズンにはそれぞれ22得点をあげリーグ得点王となった[2][6]。
その後、2002-03シーズン限りで現役を引退した[1]。
代表
[編集]東ドイツ代表としては1985年5月8日に行われたデンマーク代表との国際親善試合でデビュー[7]。1986 FIFAワールドカップ・予選やUEFA欧州選手権1988予選や1990 FIFAワールドカップ・予選に出場し、1990年5月13日に行われたブラジル代表との国際親善試合を最後に代表から退くまで国際Aマッチ49試合に出場し14得点を記録した[7]。
ドイツ代表としては1992年10月14日に行われたメキシコ代表との国際親善試合でデビューした[7]。当時の代表監督・ベルティ・フォクツはユルゲン・クリンスマンのパートナーを務めることができる選手を探していたがキルステンはアンドレアス・トームやシュテファン・クンツらと共に1ランク下の選手と見做されていた[12]。1994年にアメリカ合衆国で行われた1994 FIFAワールドカップでは代表メンバーに選ばれたが出場機会はなかった[7]。
1996年のUEFA EURO '96では代表メンバーから落選したが、1998 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選では好調なプレーを維持すると[13]、1998年にフランスで開催された本大会でも代表入りを果たし準々決勝のクロアチア代表を含む4試合に出場した[7]。フォクツの後任としてエーリッヒ・リベックが監督に就任した後も代表に招集され、2000年にオランダとベルギーで共同開催されたUEFA EURO 2000では2試合に出場したが、同年6月20日に行われたポルトガル代表戦を最後に代表から退いた[7]。
ドイツ代表としての通算成績は国際Aマッチ51試合出場21得点で[7]、東ドイツ代表時代を含めた通算成績は国際Aマッチ100試合出場34得点となっている[2]。
引退後
[編集]2003年限りで現役引退をすると指導者に転じ、古巣のバイエル・レバークーゼンのアシスタントコーチとして2年間の経験を積んだ後、2005年に下部組織のバイエル・レバークーゼンIIの監督に就任した[1]。また、2003年11月16日に行われた引退試合に際してウルフ・キルステン財団を設立し、ドレスデン周辺地域における若者に対するスポーツの推進活動を行っている[6]。
2011年にレバークーゼンIIの監督を退任し、2012年からはスポーツ代理店に勤務している[14]。
人物
[編集]元バイエルン・ミュンヘンのエウベル、元VfLボーフムのパウル・フライアーと共にブンデスリーガの史上最速得点記録(11秒)の持ち主だった[15]。この記録は2002年3月30日に行われたバイエル・レバークーゼン対1.FCカイザースラウテルン戦において打立てたものだったが[16][17]、2014年9月5日に行われたレバークーゼン対ボルシア・ドルトムント戦においてレバークーゼン所属のカリム・ベララビ(9秒)によって塗り替えられた[18]。
息子のベンヤミン・キルステンも元サッカー選手でありゴールキーパーとして、父親の古巣のディナモ・ドレスデンやオランダのNECナイメヘンなどに在籍した[19]。
東西ドイツ統一後、ドイツ民主共和国の諜報機関・シュタージの非公式協力者であったことを認めている[20]。なお、キルステンの所属していたディナモ・ドレスデンには1978年から1989年の間に18人から72人の非公式協力者が登録されていた[21]。
個人記録
[編集]代表での成績
[編集]- 出典[7]
東ドイツ代表 | ||
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1985 | 7 | 1 |
1986 | 9 | 2 |
1987 | 9 | 4 |
1988 | 8 | 0 |
1989 | 11 | 4 |
1990 | 5 | 3 |
小計 | 49 | 14 |
ドイツ代表 | ||
年 | 出場 | 得点 |
1992 | 3 | 0 |
1993 | 6 | 2 |
1994 | 4 | 3 |
1995 | 4 | 1 |
1996 | 1 | 0 |
1997 | 7 | 5 |
1998 | 16 | 5 |
1999 | 5 | 1 |
2000 | 5 | 3 |
小計 | 51 | 20 |
合計 | 100 | 34 |
代表での得点
[編集]- 出典[7]
# | 開催日 | 開催地 | 対戦国 | 結果 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 1985年8月14日 | ノルウェー、オスロ | ノルウェー | 1-0 | 親善試合 |
2 | 1986年2月19日 | ポルトガル、ブラガ | ポルトガル | 3-1 | 親善試合 |
3 | 1986年10月29日 | 東ドイツ、カール=マルクス=シュタット | アイスランド | 2-0 | UEFA欧州選手権1988予選 |
4 | 1987年9月23日 | 東ドイツ、ゲーラ | チュニジア | 2-0 | 親善試合 |
5 | 1987年10月10日 | 東ドイツ、ベルリン | ソビエト連邦 | 1-1 | UEFA欧州選手権1988予選 |
6 | 1987年10月28日 | 東ドイツ、マクデブルク | ノルウェー | 9-1 | UEFA欧州選手権1988予選 |
7 | |||||
8 | 1989年2月13日 | エジプト、カイロ | エジプト | 4-0 | 親善試合 |
9 | |||||
10 | 1989年5月20日 | 東ドイツ、ライプツィヒ | オーストリア | 1-1 | 1990 FIFAワールドカップ・予選 |
11 | 1989年8月23日 | 東ドイツ、エアフルト | ブルガリア | 1-1 | 親善試合 |
12 | 1990年3月28日 | 東ドイツ、ベルリン | アメリカ合衆国 | 3-2 | 親善試合 |
13 | |||||
14 |
# | 開催日 | 開催地 | 対戦国 | 結果 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 1993年4月14日 | ドイツ、ボーフム | ガーナ | 6-1 | 親善試合 |
2 | 1993年10月13日 | ドイツ、カールスルーエ | ウルグアイ | 5-0 | 親善試合 |
3 | 1994年4月27日 | UAE、アブダビ | アラブ首長国連邦 | 2-0 | 親善試合 |
4 | 1994年11月16日 | アルバニア、ティラナ | アルバニア | 2-1 | UEFA EURO '96予選 |
5 | 1994年12月14日 | モルドバ、キシナウ | モルドバ | 3-0 | UEFA EURO '96予選 |
6 | 1995年9月6日 | ドイツ、ニュルンベルク | グルジア | 4-1 | UEFA EURO '96予選 |
7 | 1997年4月2日 | スペイン、グラナダ註1 | アルバニア | 3-2 | 1998 FIFAワールドカップ・予選 |
8 | |||||
9 | |||||
10 | 1997年9月6日 | ドイツ、ベルリン | ポルトガル | 1-1 | 1998 FIFAワールドカップ・予選 |
11 | 1997年9月6日 | ドイツ、ドルトムント | アルバニア | 4-1 | 1998 FIFAワールドカップ・予選 |
12 | 1998年12月1日 | ドイツ、シュトゥットガルト | ブラジル | 1-2 | 親善試合 |
13 | 1998年12月1日 | ドイツ、マンハイム | ルクセンブルク | 7-0 | 親善試合 |
14 | |||||
15 | 1998年10月14日 | モルドバ、キシナウ | モルドバ | 3-1 | UEFA EURO 2000予選 |
16 | |||||
17 | 1999年6月4日 | ドイツ、レヴァークーゼン | モルドバ | 1-1 | UEFA EURO 2000予選 |
18 | 2000年4月26日 | ドイツ、カールスルーエ | スイス | 1-1 | 親善試合 |
19 | 2000年6月7日 | ドイツ、フライブルク | リヒテンシュタイン | 8-2 | 親善試合 |
20 |
註1アルバニア国内の政情不安のため、中立地のスペインで試合が行われた[22]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ ドイツ語発音: [ˈkɪrstən][4][5]。インターネット文献の一部では「キルシュテン」とする表記もみられる。
出典
[編集]- ^ a b c d e “Ulf Kirsten”. Bayer 04 Leverkusen Fussball GmbH. 2016年9月13日閲覧。
- ^ a b c d “Ulf Kirsten Personenprofil”. Deutscher Fußball-Bund. 2016年9月13日閲覧。
- ^ 『ワールドカップUSA'94展望号』(日本スポーツ企画出版社、1994年、63頁)、『World Cup France 98 展望&ガイド』(日本スポーツ企画出版社、1998年、66頁)、『EURO 2000 展望&ガイド』(ベースボール・マガジン社、2000年、17頁)、『DREAM ELEVEN Vol.1 ドイツ代表特集』(日本文化出版、2006年、98-100頁)、『ブンデスリーガ ドイツサッカーの軌跡』(バジリコ、2005年、378頁)
- ^ 国松孝二ほか (2000). "Kirsten". 独和大辞典 (2 ed.). 小学館. ISBN 4095150025. 全国書誌番号:98052526, NCID BA33206388。
{{cite encyclopedia}}
:|access-date=
を指定する場合、|url=
も指定してください。 (説明) - ^ Duden - Das Aussprachewörterbuch
- ^ a b c d e f g h i “Dynamo Dresden gratuliert Ulf Kirsten”. Dynamo Dresden.de. 2016年9月13日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j “Ulf Kirsten - International Appearances”. rsssf.com. 2016年9月13日閲覧。
- ^ “East Germany 1983/84”. rsssf.com. 2016年9月13日閲覧。
- ^ “Daniel Fonseca, 'El Tigre': l'esplosione con il Cagliari, la 'manita' col Napoli, il tandem con Balbo alla Roma, trofei e infortuni alla Juventus” (イタリア語). GOAL (2022年9月13日). 2023年7月25日閲覧。
- ^ “Ulf Kirsten - Karriere beendet”. kicker.de. 2016年9月13日閲覧。
- ^ “Madrid win ninth European crown”. UEFA.com. 2002年5月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年9月13日閲覧。
- ^ 『ワールドカップUSA94展望号』 週刊サッカーダイジェスト1994年5月24日号増刊、日本スポーツ企画出版社、63頁。
- ^ 『WORLD CUP FRANCE 98展望&ガイド』 ワールドサッカーダイジェスト1998年6月号増刊、日本スポーツ企画出版社、165頁。
- ^ “Ulf Kirsten jobbt in Asien”. welt.de (2012年9月11日). 2016年9月13日閲覧。
- ^ “【ブンデスリーガ】最速ゴール記録のベララビが8月の月間MVPに”. サッカーダイジェストweb (2014年9月5日). 2016年9月13日閲覧。
- ^ “Spielbericht 1. FC Kaiserslautern - Bayer Leverkusen”. Fussballdaten.de. 2016年9月14日閲覧。
- ^ “Die schnellsten Tore der Bundesliga-Geschichte”. sport1.de (2015年8月23日). 2016年9月14日閲覧。
- ^ “ドルトムント、シーズン開幕後わずか9秒で失点する(動画あり)”. Qoly.jp (2014年8月24日). 2016年9月13日閲覧。
- ^ “Benjamin Kirsten spricht bei SPORT1 über sein Aus in Nijmegen”. sport1.de (2015年12月9日). 2016年9月13日閲覧。
- ^ “Vorwürfe gegen deutschen Nationalspieler / DFB: Stehen voll hinter dem Spieler Erhielt Ulf Kirsten Prämien von der Stasi?”. Berliner Zeitung (1994年6月3日). 2016年9月14日閲覧。
- ^ “Mielke, Macht und Meisterschaft”. Hamburger Abendblatt (2001年7月31日). 2016年9月14日閲覧。
- ^ “Albania to Play World Cup Matches in Granada”. FIFA.com (1997年3月7日). 2016年9月13日閲覧。
外部リンク
[編集]- ウルフ・キルシュテン - National-Football-Teams.com
- ウルフ・キルシュテン - Soccerway.com
- ウルフ・キルシュテン - FootballDatabase.eu
- ウルフ・キルシュテン - WorldFootball.net
- ウルフ・キルシュテン - Transfermarkt.comによる選手データ
- ウルフ・キルシュテン - Transfermarkt.comによる指導者データ
- ウルフ・キルシュテン - UEFA
- ウルフ・キルシュテン - Fussballdaten.de
- ウルフ・キルシュテン - Munzinger Sports Archives