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== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
=== 生い立ち ===
父・前光が華やかな[[鹿鳴館]]で誕生の知らせを聞いたことから'''燁子'''と名付けられる。燁子は生後7日目に[[柳原家]]に引き取られ、前光の正妻・初子の次女として入籍され、当時の[[華族]]の慣習としていったは[[里子]]に出されたちに柳原家再び戻り、養育された
父・前光が華やかな[[鹿鳴館]]で誕生の知らせを聞いたことから'''燁子'''と名付けられる。燁子は生後7日目に[[柳原家]]に引き取られ、前光の正妻・初子の次女として入籍される。前光本邸には側室の「梅」(元は[[柳原愛子]]の侍女)がおり、子のない梅は燁子の引き取りを願っていたが、正妻の初子がそれを阻止すべく燁子を自分の手元に引き取ったという。生母・りょうは[[1888年]]([[明治]]21年)、燁子3歳病死している


初子を母と定められて間もなく、当時の[[華族]]の慣習として、品川の種物問屋を営む家に[[里子]]に出され、下町の自然豊かな環境と里親家族の深い愛情の元で育つ。学齢となった6歳の時に柳原家に戻り、[[1892年]](明治25年)、麻布南山小学校に入学。
[[1888年]]([[明治]]21年)、生母・りょう病死。[[1892年]](明治25年)、麻布南山小学校に入学。[[1898年]](明治31年)、[[華族女学校]](のちの[[学習院女子中・高等科|女子学習院]])に入学。燁子は最初の結婚まで自分が妾の子とは知らなかったという。また前光には、りょう以外に年来の妾・'''梅'''がおり、子宝に恵まれなかった梅はりょうを妹のように、そしてりょう死後は燁子をわが子のように大変可愛がっていたとも言われる。


[[1894年]](明治27年)、9歳で遠縁にあたる[[子爵]]・[[北小路随光]]の養女となり、小学校も転校となる。いずれ燁子を、随光が女中に生ませた嗣子の[[北小路資武|資武]](すけたけ)の妻にする前提での縁組であった。同年に父・前光が死去し、異母兄の義光が柳原家の家督を継ぐ。
=== 最初の結婚 ===
[[1900年]](明治33年)、14歳で、[[子爵]]・[[北小路随光]]とその女中の間に生まれた嗣子の[[北小路資武|資武]](すけたけ)と結婚し、1901年(明治34年)、15歳で男子、[[北小路功光|功光]]を出産した。しかし[[知的障害]]があったといわれる資武とは早期に夫婦関係が拙くなり、5年後に離婚。実家に戻った<ref>なお、子を婚家に残し離婚しているが、このことは燁子の本意ではなかった(子を連れて帰りたかったが、当時の家族制度などから“いわば(子と)引き裂かれたと同然”の結末だった)といわれる</ref>。


=== 最初の結婚と離婚 ===
[[1908年]](明治41年)、東洋英和女学校(現・[[東洋英和女学院高等部]])に入学し、寮生活をおくる。[[佐佐木信綱]]に師事し「心の花」に短歌を発表し始めた。
北小路家で養父の随光により和歌の手ほどきを受ける。[[1898年]](明治31年)、13歳で[[華族女学校]]に入学。北小路家は経済的に豊かでない事から養父母は女学校入学を渋ったが、燁子の強い願いにより、車ではなく徒歩通学を条件として実現した。同居する資武は7歳年上で[[知的障害]]があったといわれ、思春期の盛りで燁子が他の男と同席するだけで嫉妬して暴力をふるう事もあった。燁子は資武に恐怖して嫌いぬき、結婚を急がせる養父母に泣いて抗議するが、ある日資武に「お前なんか妾の子だ」と罵倒され自分の出生を知らされる。初子を実母と思い込んでいた燁子にとっては、帰る場所を失った出来事だった。家長の決定が絶対の時代に14歳の燁子に選択の余地はなく、結婚を承諾させられ、間もなく妊娠した燁子は女学校を退学した。[[1900年]](明治33年)、北小路邸で結婚式が挙げられ、翌[[1901年]](明治34年)、15歳で男子([[北小路功光|功光]])を出産。

功光誕生の半年後、養母・久子の提案で北小路家縁の京都へ一家で引っ越す事となる。まったく友人の居ない京都での生活は、子の養育は久子に取り上げられ、子供のような夫とは夫婦の愛情も無く、燁子は孤独を深めるばかりであった。結婚から5年後、燁子の訴えにより事情を知った柳原家と話合いが持たれ、[[1905年]](明治38年)、子供は残す条件<ref>男子は婚家のものであり、爵位継承に嫡男確保は重要事項であった。</ref>で離婚が成立し、20歳で実家に戻った。

=== 幽閉生活と女学校入学 ===
東京に戻った燁子は「出戻り」として母・初子の監督下で一室に閉じ込められ、門の外に一歩も出る事のない幽閉同然の生活となる。その間、姉の信子の計らいで古典や小説を差し入れてもらい、ひたすら読書に明け暮れる日々が4年間続いた。その間、再び燁子の意向と関わりなく縁談が進められ、結納の日取りまで決められるが、燁子は家を飛び出し、品川の乳母の家に走った。しかし乳母は燁子の幽閉中に死去していた。家出した燁子を姉の信子が庇い、兄・義光夫婦の元に預けられる事となる。[[1908年]](明治41年)、兄嫁・花子の家庭教師が卒業生であった縁から、東洋英和女学校(現・[[東洋英和女学院高等部]])に編入学し、寮生活をおくる事となる。この頃、[[佐佐木信綱]]に師事し機関誌『心の花』に短歌を発表し始めた。女学校では後に翻訳者となる[[村岡花子]]と親交を深め、花子に信綱を紹介している。[[1910年]](明治43年)3月、東洋英和女学校を卒業。


=== 再婚と「筑紫の女王」時代 ===
=== 再婚と「筑紫の女王」時代 ===
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[[1961年]](昭和36年)、[[緑内障]]で両眼失明、宮崎の介護のもとに歌を詠みつつ暮した。1967年(昭和42年)に死去(81歳)。スキャンダルの末没落した実家・柳原家を後目に、晩年は平穏で幸せな生涯であった。
[[1961年]](昭和36年)、[[緑内障]]で両眼失明、宮崎の介護のもとに歌を詠みつつ暮した。1967年(昭和42年)に死去(81歳)。スキャンダルの末没落した実家・柳原家を後目に、晩年は平穏で幸せな生涯であった。

<!-- === 付記 ===
なお、兄の義光には男子はなく、次女の[[柳原徳子 (吉井徳子)|徳子]](のりこ)は歌人の[[吉井勇]]に嫁いだが、[[不良華族事件]]のため離縁となった。柳原家の男系は義光で絶えた。また義光も不良華族事件と時期を前後して、義光と男色関係にあると吹聴した男性の存在が報じられ、問題となった。その後の柳原家は養子によるものである。

半生の苦難から脱し、最後の夫とそれなりの幸せを手にした白蓮と、スキャンダルで世間の不興・失笑をかった柳原家とは、あまりにも対照的な顛末をたどったといえる。 -->


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
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*松永伍一・柳原白蓮『火の国の恋』(出版タイムズ社)[[1959年]]
*松永伍一・柳原白蓮『火の国の恋』(出版タイムズ社)[[1959年]]
*宮崎龍介「柳原白蓮との半世紀」(「新評論」[[1967年]]6月号)
*宮崎龍介「柳原白蓮との半世紀」(「新評論」[[1967年]]6月号)
*永畑道子『恋の華・白蓮事件』(文藝春秋)[[1990年]]
*永畑道子 『恋の華・白蓮事件』(文藝春秋)[[1990年]]
*[[荒俣宏]] 『黄金伝説』([[集英社]])1990年 ([[集英社文庫]]・荒俣宏コレクション)[[1994年]]
*[[荒俣宏]] 『黄金伝説』([[集英社]])1990年 ([[集英社文庫]]・荒俣宏コレクション)[[1994年]]
*[[林真理子]]『白蓮れんれん』(中央公論社)[[1998年]] のち文庫化
*[[林真理子]] 『白蓮れんれん』(中央公論社)[[1998年]] のち文庫化
*[[斎藤憐]]『恋ひ歌-宮崎龍介と柳原白蓮』(而立書房)[[2003年]]
*[[斎藤憐]] 『恋ひ歌-宮崎龍介と柳原白蓮』(而立書房)[[2003年]] 
*永畑道子『恋の華・白蓮事件』(藤原書店)[[2008年]]
*永畑道子 『恋の華・白蓮事件』(藤原書店)[[2008年]]
*井上洋子 西日本人物誌[20]『柳原白蓮』、[[西日本新聞社]]、[[2011年]]。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2013年12月11日 (水) 21:09時点における版

柳原白蓮

柳原 白蓮(やなぎわら びゃくれん、1885年明治18年)10月15日 - 1967年昭和42年)2月22日)は歌人。本名は燁子(あきこ)。大正三美人の1人。

父は柳原前光伯爵。母は前光の妾のひとりで、柳橋芸妓となっていた、没落士族の娘[1]奥津りょう(通名:おりょう)。東京に生まれた。

大正天皇の生母である柳原愛子の姪で、大正天皇の従妹にあたる。

生涯

生い立ち

父・前光が華やかな鹿鳴館で誕生の知らせを聞いたことから燁子と名付けられる。燁子は生後7日目に柳原家に引き取られ、前光の正妻・初子の次女として入籍される。前光の本邸には側室の「梅」(元は柳原愛子の侍女)がおり、子のない梅は燁子の引き取りを願っていたが、正妻の初子がそれを阻止すべく燁子を自分の手元に引き取ったという。生母・りょうは1888年明治21年)、燁子3歳の時に病死している。

初子を母と定められて間もなく、当時の華族の慣習として、品川の種物問屋を営む家に里子に出され、下町の自然豊かな環境と里親家族の深い愛情の元で育つ。学齢となった6歳の時に柳原家に戻り、1892年(明治25年)、麻布南山小学校に入学。

1894年(明治27年)、9歳で遠縁にあたる子爵北小路随光の養女となり、小学校も転校となる。いずれ燁子を、随光が女中に生ませた嗣子の資武(すけたけ)の妻にする前提での縁組であった。同年に父・前光が死去し、異母兄の義光が柳原家の家督を継ぐ。

最初の結婚と離婚

北小路家で養父の随光により和歌の手ほどきを受ける。1898年(明治31年)、13歳で華族女学校に入学。北小路家は経済的に豊かでない事から養父母は女学校入学を渋ったが、燁子の強い願いにより、車ではなく徒歩通学を条件として実現した。同居する資武は7歳年上で知的障害があったといわれ、思春期の盛りで燁子が他の男と同席するだけで嫉妬して暴力をふるう事もあった。燁子は資武に恐怖して嫌いぬき、結婚を急がせる養父母に泣いて抗議するが、ある日資武に「お前なんか妾の子だ」と罵倒され自分の出生を知らされる。初子を実母と思い込んでいた燁子にとっては、帰る場所を失った出来事だった。家長の決定が絶対の時代に14歳の燁子に選択の余地はなく、結婚を承諾させられ、間もなく妊娠した燁子は女学校を退学した。1900年(明治33年)、北小路邸で結婚式が挙げられ、翌1901年(明治34年)、15歳で男子(功光)を出産。

功光誕生の半年後、養母・久子の提案で北小路家縁の京都へ一家で引っ越す事となる。まったく友人の居ない京都での生活は、子の養育は久子に取り上げられ、子供のような夫とは夫婦の愛情も無く、燁子は孤独を深めるばかりであった。結婚から5年後、燁子の訴えにより事情を知った柳原家と話合いが持たれ、1905年(明治38年)、子供は残す条件[2]で離婚が成立し、20歳で実家に戻った。

幽閉生活と女学校入学

東京に戻った燁子は「出戻り」として母・初子の監督下で一室に閉じ込められ、門の外に一歩も出る事のない幽閉同然の生活となる。その間、姉の信子の計らいで古典や小説を差し入れてもらい、ひたすら読書に明け暮れる日々が4年間続いた。その間、再び燁子の意向と関わりなく縁談が進められ、結納の日取りまで決められるが、燁子は家を飛び出し、品川の乳母の家に走った。しかし乳母は燁子の幽閉中に死去していた。家出した燁子を姉の信子が庇い、兄・義光夫婦の元に預けられる事となる。1908年(明治41年)、兄嫁・花子の家庭教師が卒業生であった縁から、東洋英和女学校(現・東洋英和女学院高等部)に編入学し、寮生活をおくる事となる。この頃、佐佐木信綱に師事し機関誌『心の花』に短歌を発表し始めた。女学校では後に翻訳者となる村岡花子と親交を深め、花子に信綱を紹介している。1910年(明治43年)3月、東洋英和女学校を卒業。

再婚と「筑紫の女王」時代

燁子は1911年(明治44年)、27歳で、52歳の九州一の炭坑王として財をなし、政友会代議士であった伊藤鉱業社長・伊藤伝右衛門と再婚させられた。これは兄・義光貴族院議員に出馬するため資金が必要だったことと、名門との関係を結びたかった伊藤の思惑が一致した[3]政略結婚と目されたが、当時のマスコミ(主に新聞)では片や名門華族、もう一方は飛ぶ鳥落とす勢いの炭鉱成金同士の結婚ということで“黄金結婚”と大いに祝福された。伊藤は飯塚市幸袋に敷地1500坪、建坪250坪の自宅があったが、さらに福岡市天神と別府市青山に屋根を銅で葺いた別邸(どちらも赤銅(あかがね)御殿と呼ばれた)を建て、燁子を迎え入れた。

こうして燁子は「筑紫の女王」と呼ばれるようになった。しかし複雑な家族構成に悩まされる。伊藤家には妾の子、父の妾の子、妹の子、母方の従兄妹などが同居していた。また数十人もの女中や下男や使用人たちもいた。伊藤は何人もの妾がいたが、京都妻のサトの妹のユウにまで手を付けた。ユウは女中見習いとして幸袋の屋敷にいたが、伝右衛門の手が付いたことから燁子はユウをあてがう形となった。後年、白蓮は、夫を挟んで夫の妾と3人で布団を並べていたこともあると告白している。そんな懊悩、苦悩を燁子はひたすら歌に託し「心の花」に作品を発表しつづけた。

1915年大正4年)、処女歌集『踏絵』を自費出版。号を「白蓮」(信仰していた日蓮にちなむ)とした。その浪漫的な作風は「生の軌跡を華麗かつ驕慢に」(正津勉)詠って、多くの読者を惹き付けた。

こうして白蓮は歌人として名が知られるようになり、大正三美人(他は九条武子江木欣々、あるいは林きむ子)の1人として知られるようになった。

別府の赤銅御殿は白蓮を中心とするサロンとなった。そのなかで白蓮は仮想的な恋愛を楽しんだが、その1人に医学博士で歌人の久保猪之吉がいた。妻の久保より江も俳人として名を知られていた。

1918年(大正7年)、大阪朝日新聞は「筑紫の女王・燁子」を連載。1919年(大正8年)、詩集『几帳のかげ』、歌集『幻の華』刊行。

恋に生きる

1918年(大正7年)、戯曲『指鬘外道』(しまんげどう)を雑誌「解放」に発表。これが評判になり、劇団が上演を希望、その許可を求める書状が届いた。差出人は「解放」記者・宮崎龍介だった。龍介の父は孫文辛亥革命を支援した宮崎滔天、宮崎も東京帝国大学で「新人会」を結成し、労働運動に打ち込んでいた。この後ろ盾となっていたのは、東京大学吉野作造早稲田大学大山郁夫らの「黎明会」で、「解放」はその機関誌だった。

1920年(大正9年)1月31日、別府の別荘で会った宮崎は情熱を込めて社会変革の夢を語った。それから白蓮は「ねたましきかな」と詠う「恋もつ人」になった。宮崎も「ブルジョア夫人との交際はまかりならん」として「新人会」を除名になった。白蓮は春秋2回の上京の機会に宮崎と逢瀬を重ねて、やがて白蓮は宮崎の子を宿した。姦通罪のあった男尊女卑のこの頃、道ならぬ恋は命がけだった。

1921年(大正10年)10月20日、白蓮は伝右衛門と上京した機会に姿を消した。2日後の10月22日の大阪朝日新聞は「筑紫の女王、柳原白蓮女史失踪!」と報じた。内容は「同棲十年の良人(おっと。と同義)を捨てて、情人の許へ走る」というものであった。

同日の大阪朝日新聞夕刊に白蓮名義で「私は金力を以つて女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の訣別を告げます。私は私の個性の自由と尊貴を護り且培ふ為めに貴方の許を離れます」という公開絶縁状が掲載された。これは白蓮が書いた手紙を龍介の友人が書き直したものであり、友人たちによって公開が以前から計画されていたという。しかし絶縁状の公開は大きな社会的反響を呼び、当時の世論は白蓮を激しく非難する声で満ちた。特に国家主義の、黒龍会頭山満玄洋社の系譜を引く団体)の内田良平らは、国体をゆるがす大事件として白蓮や柳原家を攻撃した。この一件により、兄・義光は貴族院議員を辞職することとなった。白蓮は男児(香織)を出産した後、断髪し尼寺に幽閉の身となった。

伝右衛門は大阪毎日新聞に「絶縁状を読みて燁子に与ふ」と題し「(白蓮との結婚生活を)俺の一生の中で、最も苦しかった十年」などと表現した文を掲載したが、白蓮と宮崎を姦通罪で告訴することはしなかった。伊藤の親族には白蓮を、「重ねて4つにして遠賀川にたたきこめ」と激昂する者もいたが、伊藤は白蓮に手を出すことを禁じ、白蓮を話題にすることも許さなかった。しかし一方で、白蓮が産んだ男児の父親を確認する訴訟を起こしている。

再々婚以後

1923年(大正12年)、関東大震災の後、白蓮の産んだ子は伊藤の子ではない[4]という判決が下り、白蓮の姦通は明らかとなった。白蓮は華族から除籍され、財産も没収されて伊藤との離婚が成立した。当時、白蓮母子を預かっていた中野家は、柳原家が娘に何の援助もしないのに対し、宮崎家が定期的に白蓮のために仕送りをしていたことに感服し、柳原家の承諾なしに、宮崎に白蓮たちを引き取らせたという。宮崎と結婚、長男・香織を伴い親子3人の生活が実現した。

しかし、夫は結核を発症した。一平民となった白蓮は筆一本で必死に家計を支えた。宮崎は後に「私が動けなかった三年間は、本当に燁子の手一つで生活したようなもので」と回想している[5]

1925年(大正14年)には長女、蕗苳(ふきこ)が誕生。宮崎は結核から回復して、その後弁護士として活躍した。1931年(昭和6年)には宮崎と中国を旅行している。

1945年(昭和20年)8月11日、長男・香織が鹿屋で戦死した。このことがきっかけとなり、戦後は平和運動に参加、熱心な活動家として知られた。

1961年(昭和36年)、緑内障で両眼失明、宮崎の介護のもとに歌を詠みつつ暮した。1967年(昭和42年)に死去(81歳)。スキャンダルの末没落した実家・柳原家を後目に、晩年は平穏で幸せな生涯であった。

参考文献

  • 柳原白蓮『幻の華』1919年
  • 松永伍一・柳原白蓮『火の国の恋』(出版タイムズ社)1959年
  • 宮崎龍介「柳原白蓮との半世紀」(「新評論」1967年6月号)
  • 永畑道子 『恋の華・白蓮事件』(文藝春秋)1990年
  • 荒俣宏 『黄金伝説』(集英社)1990年 (集英社文庫・荒俣宏コレクション)1994年
  • 林真理子 『白蓮れんれん』(中央公論社)1998年 のち文庫化
  • 斎藤憐 『恋ひ歌-宮崎龍介と柳原白蓮』(而立書房)2003年 
  • 永畑道子 『恋の華・白蓮事件』(藤原書店)2008年
  • 井上洋子 西日本人物誌[20]『柳原白蓮』、西日本新聞社2011年

脚注

  1. ^ 父の新見正興は大身旗本で、咸臨丸で知られている1860年万延元年)の遣米使節団長であったが、明治維新直後に早世している。
  2. ^ 男子は婚家のものであり、爵位継承に嫡男確保は重要事項であった。
  3. ^ ただし、伊藤は上野精養軒で燁子と見合いした後、三井鉱山の有力者の説得をうけて燁子との結婚を受け入れたとする説もある(荒俣宏『黄金伝説』)。
  4. ^ この際、当時の伊藤が無精子であるという検査結果が公表されている。
  5. ^ 白蓮・宮崎の斯様の“窮状”を人づてに伝え聞き同情した白蓮の前夫・伊藤が白蓮・宮崎に経済的援助を申し出たことがあったそうだが、別離の事情が事情であった経緯を踏まえ、白蓮側から断りがあったという。

関連項目

脚注

外部リンク