コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「貴族院 (イギリス)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m 解消済み仮リンク記録長官を内部リンクに置き換えます (今回のBot作業のうち17.5%が完了しました)
 
(80人の利用者による、間の198版が非表示)
1行目: 1行目:
{{Infobox Legislature
{{Infobox Legislature
|background_color = #dc143c
|name = 貴族院<br/>House of Lords
|text_color = #FFFFFF
|legislature = [[w:55th Parliament of the United Kingdom|第55回イギリス議会]]
|name = {{UK}}の議会<br/>貴族院<br/>{{small|(きぞくいん)}}
|coa_pic =
|native_name = {{Lang|en|House of Lords}}
|coa_alt = Crowned portcullis in Pantone 7427 C
|legislature =
|coa_res = 300px
|coa_pic = House of Lords of the United Kingdom 2018.svg
|session_room = Houses.of.parliament.overall.arp.jpg
|coa_res = 250px
|session_alt = Wood panelled room with high ceiling containing comfortable red padded benches and large gold throne.
|coa-pic = Green Portcullis of the House of Commons
|structure1 =
|session_room = Houses.of.parliament.overall.arp.jpg
|structure1_res = 330px
|house_type = 上院
|house_type = 上院
|body = イギリスの議会
|body = イギリスの議会{{!}}イギリス議会
|foundation = 14世紀前半
|leader1_type = [[議長]]
|leader1_type = [[貴族院議長 (イギリス)|議長]]
|leader1 = {{仮リンク|フランセス・ド・ソウザ (ド・ソウザ女男爵)|label=ド・ソウザ女男爵フランセス・ド・ソウザ|en|Frances D'Souza, Baroness D'Souza}}
|leader1 = アルクリィースのマクフォール男爵<br />[[ジョン・マクフォール (アルクリィースのマクフォール男爵)|ジョン・マクフォール]]
|party1 = [[w:Non-affiliated members of the House of Lords|聖職貴族]]<ref name="Baroness D'Souza">{{cite web |url=http://www.parliament.uk/biographies/lords/baroness-d'souza/3709 |title=Baroness D'Souza Biography and Factfile |date=8 January 2014 |accessdate=8 January 2014}}</ref>
|party1 = {{仮リンク|無所属貴族院議員|label=無所属|en|Non-affiliated members of the House of Lords}}
|election1 = 2011年12月1日
|election1 = 2021年5月1日
|leader2_type = [[w:Leader of the House of Lords|指導者]]
|leader2_type = 上級副議長
|leader2 = [[w:Jonathan Hill, Baron Hill of Oareford|Lord Hill of Oareford]]
|leader2 = キンブルのガーディナー男爵<br />{{仮リンク|ジョン・ガーディナー|en|John Gardiner, Baron Gardiner of Kimble}}
|party2 = [[保守党 (イギリス)|保守党]]
|party2 = {{仮リンク|無所属貴族院議員|label=無所属|en|Non-affiliated members of the House of Lords}}
|election2 = 2013年1月7日
|election2 = 2021年5月11日
|leader3_type = 野党指導者
|leader3_type = [[貴族院院内総務|院内総務]]
|leader3 = [[w:Janet Royall, Baroness Royall of Blaisdon|Baroness Royall of Blaisdon]]
|leader3 = バジルドンのスミス女男爵<br />[[アンジェラ・スミス_(バジルドンのスミス女男爵)|アンジェラ・スミス]]
|party3 = [[労働党 (イギリス)|労働党]]
|party3 = [[労働党 (イギリス)|労働党]]
|election3 = 2010年5月11日
|election3 = 2024年7月5日
|members=781<ref name="lords_composition">{{cite web |url=http://www.parliament.uk/mps-lords-and-offices/lords/composition-of-the-lords/ |title= Lords by party, type of peerage and gender |publisher=Parliament of the United Kingdom |date=6 August 2013 |accessdate=6 August 2013}}</ref>
|leader4_type = 影の院内総務
|political_groups1=
|leader4 = ツルー男爵{{仮リンク|ニコラス・ツルー (ツルー男爵)|label=ニコラス・ツルー|en|Nicholas_True,_Baron_True}}
{{legend|#00CCFF|[[保守党 (イギリス)|保守党]] (305)|border=3px solid #00CCFF}}
{{legend|#DC241f|[[労働党 (イギリス)|労働党]] (222)|border=3px solid #DC241f}}
|party4 = [[保守党 (イギリス)|保守党]]
|election4 = 2024年7月5日
{{legend|#FDBB30|[[自由民主党 (イギリス)|自由民主党]] (57)|border=3px solid #FDBB30}}
|members = 790<ref>{{Cite web|url=https://members.parliament.uk/parties/Lords
{{legend|#DDDDDD|[[無所属]] (178)|border=3px solid #DDDDDD}}
|title=Lords by party, type of peerage and gender
{{legend|Black|[[聖職貴族]] (25)|border=3px solid black}}
|publisher=Parliament of the United Kingdom|accessdate=2021-12-20}}</ref>{{#tag:ref|議席数は不定であり、その都度変わる。この議席数は2024年5月24日時点のものである。|group=注釈}}
{{legend|#D46A4C|[[民主統一党 (北アイルランド)|民主統一党]] (4)|border=3px solid #D46A4C}}
|structure1 = File:House of Lords composition.svg
{{legend|#9999FF|[[アルスター統一党]] (3)|border=3px solid #9999FF}}
|structure1_res= 300px
{{legend|#70147A|[[イギリス独立党]] (2)|border=3px solid #70147A}}
| political_groups1 = ;[[貴族院議長 (イギリス)|議長]]
{{legend|#008142|[[プライド・カムリ]] (2)|border=3px solid #008142}}
:{{legend|#000000|議長 (1)}}
{{legend|#FF5555|[[Jeffrey Rooker, Baron Rooker|Lab Ind]] (1)|border=3px solid #FF5555}}
;'''[[聖職貴族]]'''
{{legend|#80FFE6|[[David Stevens, Baron Stevens of Ludgate|Con Ind]] (1)|border=3px solid #80FFE6}}
:{{legend|#7F00FF|主教 (25)}}
{{legend|#FF8080|[[David Stoddart, Baron Stoddart of Swindon|Ind Lab]] (1)|border=3px solid #FF8080}}
;'''[[世俗貴族]]'''
{{legend|#ffe680|[[Baroness Tonge|Ind Lib]] (1)|border=3px solid #ffe680}}
::'''[[イギリス政府|国王陛下の政府]]'''
{{legend|grey|無所属 (17)|border=3px solid grey}}
::{{legend|#DC241f|[[労働党 (イギリス)|労働党]] (177)}}
|meeting_place = [[ウェストミンスター宮殿]]
::'''[[陛下の野党|国王陛下の野党]]'''
|term length = 終身制
::{{legend|#0087DC|[[保守党 (イギリス)|保守党]](273)}}
|salary = 無報酬(経費除く)
::'''その他の野党'''
|website = {{URL|http://www.parliament.uk/lords/|UK Parliament - House of Lords}}
::{{legend|#FAA61A|[[自由民主党 (イギリス)|自由民主党]] (79)}}
::{{legend|#D46A4C|[[民主統一党 (北アイルランド)|民主統一党]] (6)}}
::{{legend|#6AB023|[[イングランド・ウェールズ緑の党|緑の党]] (2)}}
::{{legend|#48A5EE|[[アルスター統一党]] (2)}}
::{{legend|#008142|[[プライド・カムリ]] (2)}}
::{{legend|#DDDDDD|{{仮リンク|無所属貴族院議員|label=無所属|en|Non-affiliated members of the House of Lords}} (38)}}
::'''中立派'''
::{{legend|grey|[[クロスベンチャー]] (183)}}
{{fontsize|small|(2024年5月24日時点)}}
| term_length = [[終身官|終身]]
| authority =
|salary = 無報酬であるが、非課税の日当と経費が支払われる。
|last_election3 =
|next_election3 =
|voting_system1 = 非公選
|redistricting = [[Boundary Commissions (United Kingdom)|Boundary Commissions]]
|meeting_place = {{UK}}、[[ロンドン]]、<br />[[ウェストミンスター宮殿]]
|website = [http://www.parliament.uk/lords/ UK Parliament - House of Lords]
}}
}}
'''貴族院'''(きぞくいん、{{Lang-en|House of Lords}}、略称:the Lords)は、[[イギリスの議会]]を構成する[[議院]]のひとつで、[[上院]]に相当する。
{{イギリスの政治}}
'''貴族院'''(きぞくいん、{{Lang-en|House of Lords}})は、[[イギリスの議会]]を構成する[[議院]]で、[[上院]]に相当する。


[[中世]]にイングランド議会から[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]が分離したことで成立した。[[貴族]]によって構成される本院は、庶民院と異なり非公選かつ聖職貴族を除き[[終身官|終身任期制]]である。[[議会法]]制定以降は、立法機関としての権能は庶民院に劣後する。1999年以降は[[世襲貴族]]の議席が制限されており、[[一代貴族]]が議員の大半を占めている。かつては[[最高裁判所]]としての権能も有していたが、2009年に[[連合王国最高裁判所]]が新設されたことでその権能は喪失した。
== 構成 ==
[[庶民院]](House of Commons) と共に[[イギリス議会]]を構成している([[両院制]])。


== 歴史 ==
[[議会制民主主義]]の発展とともに公選制の[[庶民院]]に政治の実権が移り「貴族院」は名目的存在となった。[[1911年]]には[[議会法]]で[[下院]](庶民院)の優越が定められ、法案の最終的な決議権などは完全に下院に移った。しかし現在もその審議水準の高さで尊敬を集め、下院に再考を促す議院としての存在価値は高いと言われている。
=== 貴族院の成立 ===
[[File:Medieval parliament edward.Jpg|180px|thumb|left|議会が庶民院と貴族院に分離する前の13世紀に[[プランタジネット朝]][[イングランド王]][[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]が召集した議会を描いた絵画。]]
イギリスの統治機関の多くは1066年の[[ノルマン・コンクエスト]]後に創設された[[イングランド王]]の[[封建主義|封建]]的臣下である{{仮リンク|直属受封者|en|Tenant-in-chief|preserve=1}}(貴族)によって構成される国王諮問機関[[キュリア・レジス]](国王裁判所の意{{#tag:ref|当時は行政権・立法権・司法権を分離させる概念がまだなく、行政権も立法権も広義の意味での裁判権の中に属していた<ref name="中村(1959)16">[[#中村(1959)|中村(1959)]] p.16</ref>。|group=注釈}})から分化したものである<ref name="田中(2009)221">[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.221</ref><ref>[[#中村(1959)|中村(1959)]] p.16-18</ref>。イギリスの議会であるパーラメント([[:en:Parliament of England|Parliament of England]])もその一つである。[[ジョン (イングランド王)|ジョン王]]が1215年に発布した[[マグナ・カルタ]]12条は国王はキュリア・レジスの大会議である全般諮問会議(commune consilium、パーラメントはこれの特定の会合として発足)の同意なく、課税してはならない旨を定めている<ref name="中村(1959)20">[[#中村(1959)|中村(1959)]] p.20</ref>。


パーラメントも初期には直属受封者のみで構成されていたが<ref name="中村(1959)20">[[#中村(1959)|中村(1959)]] p.20</ref>、12世紀から13世紀にかけて[[陪審員]]制度の確立([[代議制]]への萌芽)、地方自治体の発展に伴う封建勢力の後退、[[ナイト|騎士]]や市民などの[[中流階級]]の勃興、国王と貴族の対立などが起こり<ref>[[#中村(1959)|中村(1959)]] p.21-29</ref>、そのような背景から13世紀にイングランド王はパーラメントに州や都市の代表を加えるようになった。これによってパーラメントは代議制議会の性格を有するようになった<ref>[[#中村(1959)|中村(1959)]] p.31-35</ref>。
貴族院の役割として、庶民院が通過させた法案を、専門知識を持つ貴族院議員が精査し、修正することが重視されている。また、下院の優越規定により法案を完全に阻止することはできないが、予算案などをのぞく法案の成立を1年間延期できるので、政府や庶民院、一般市民に再考を促すことができる。貴族院議員は選挙で選ばれないため、国民の支持は多いが憲法上や人権上の問題がある議題について反対しやすい。諸外国では最高裁判所が行う「憲法の番人」の役割を、イギリスでは貴族院が担ってきたともいえる。


パーラメント(以降議会)が[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]と貴族院に分離したのは、14世紀前期から中期頃と見られている。州代表の騎士と都市代表の市民が議会から分離して庶民院の実質を形成し、また下級聖職者が議会を去ったことで、議会残存部分(高位聖職者{{#tag:ref|下級聖職者は俗事目的の議会を嫌って去ったが、高位聖職者は男爵領所有者(直属受封者)でもあったため、そちらの立場を優先して議会に残り、異階級の男爵と融合していったのである<ref name="近藤(1970)上113">[[#近藤(1970)上|近藤(1970)上巻]] p.113</ref>。|group=注釈}}、伯爵、男爵{{#tag:ref|当初、貴族身分はごく少数の伯爵(Earl)と大多数の男爵(Baron)だけだった。Baronはもともと称号ではなく直属受封者を意味していた。一方Earlは特定の州に特権的支配権を持つ者の称号であった。しかし大陸から輸入された三爵位が加わり、新貴族創設が国王の[[特許状|勅許状]]のみによるようになってから、男爵も称号化し、公爵(Duke)、侯爵(Marquess)、伯爵(Earl)、子爵(Viscount)、男爵(Baron)の5等級の貴族称号の階級が確立された<ref>[[#近藤(1970)上|近藤(1970)上巻]] p.161/163-164</ref>。|group=注釈}})が貴族院の実質を持つようになったのである<ref>[[#近藤(1970)上|近藤(1970)上巻]] p.100-103/113</ref><ref>[[#中村(1959)|中村(1959)]] p.43-50</ref>。14世紀末頃までには庶民院の構成はかなり明確となり、それに伴って貴族院も明瞭になっていった<ref name="近藤(1970)上114">[[#近藤(1970)上|近藤(1970)上巻]] p.114</ref>。
イギリスの貴族院は今日でも全議員が何らかの形で爵位を持つ貴族 (lords) で構成されており、無爵でも多額納税者や勅撰議員が少なからず名を連ねていた日本のかつての[[貴族院 (日本)|貴族院]]とは様相が異なる。


フランス旧領地を回復する戦費調達のためにイングランド王は、円滑な税の徴収を欲しており、それには議会の了解を得ることが必要であった。そのため国王は議会への譲歩を進め、その譲歩の一つが制定法だった。14世紀末までには両院は立法協賛権を課税協賛権と同様に慣例として確立した<ref>[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] pp.30-31</ref><ref name="マリ(1914)236">[[#マリ(1914)|マリオット(1914)]] p.236</ref>。
議会制の長い歴史をもつ英国では、古く[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]]の時代から、国王の諮問機関として、大貴族によって構成される大会議([[キュリア・レジス]])が存在していた。そして次第に小貴族、市民代表が参加するようになり、後に世襲制の貴族階級によって構成される貴族院と、市民代表からなる[[庶民院]]の二院制が成立した。


両院の力関係でいえば、もともとは貴族院の方が圧倒的に強く、庶民院はその副次的存在として「請願者(Petitioners)」に過ぎなかった<ref>[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.223-224</ref><ref name="マリ(1914)236-237">[[#マリ(1914)|マリオット(1914)]] p.236-237</ref>。しかし封建貢納が金銭化などで形骸化すると庶民院は納税者集会の性格を強めていき、国王も無視することができない存在に成長した。[[ランカスター朝]]の[[ヘンリー4世 (イングランド王)|ヘンリー4世]]の時代の1407年には税の問題については庶民院で先議することが決定され<ref name="マリ(1914)234">[[#マリ(1914)|マリオット(1914)]] p.234</ref><ref name="神戸(2005)60">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.60</ref>、続く[[ヘンリー5世 (イングランド王)|ヘンリー5世]]の時代の1414年には法制定権上の庶民院と貴族院の同格性が確認されている<ref>[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.59-60</ref>。
[[イギリス|英国]]の貴族院議員は[[歳費]]を受領しない。貴族であることを前提として、その特権の一部として議会に招集されていることが、歳費が支給されない理由とされる。ただし下記法服貴族を除く。


議会の中心母体の一つに高級裁判所パーラメントがあったので、議会は当初より司法機能を有したが、その機能は庶民院より貴族院の方が強かった。特に14世紀末に庶民院が弾劾権(国王の大臣を貴族院に告発する権利)を確立するに及んで、司法権は貴族院にあり、庶民院にないことが明確化した。以降貴族院は、庶民院に弾劾された貴族・庶民を裁判する権利、重罪で告発された貴族を裁判する権利、そして[[下級裁判所]]の判決を覆すことができる[[最高裁判所]]としての権能を有するようになった<ref>[[#近藤(1970)上|近藤(1970)上巻]] p.118-121</ref>。
英国の貴族院は、貴族全員を招集するため定数は存在しなかった。[[薔薇戦争]]で多くの貴族が絶えた時にはわずか2桁の議員数となったこともある。しかし後世、授爵が繰り返され、また、[[20世紀]]前半には、時の首相が自党の議員数をふやす目的で推薦を繰り返したことにより、一時は議席数1200名を数えるまでになった。しかし、[[1958年]]には一代貴族法により識見秀でた者を一代限りの貴族にすることで、議員数の増大を抑制する方針が採られた。


初期のイングランド議会における貴族とは、直属受封者のうち、国王から直接に議会召集令状([[:en:writ|writ]] of summons)を出され、それによって貴族領と認定された所領を所有する者のことであった。しかし14世紀末頃から国王が[[特許状|勅許状]]で貴族称号を与えて新貴族創家を行うようになり、それ以降は貴族領の有無に関わりなく、貴族称号を持って議会に議席を有する者が貴族と看做されるようになった<ref name="中村(1959)51">[[#中村(1959)|中村(1959)]] p.51</ref><ref name="近藤(1970)上164">[[#近藤(1970)上|近藤(1970)上巻]] p.164</ref>。
しかし、[[トニー・ブレア|ブレア]]政権による貴族院改革は、92名を除いて残りの世襲貴族から議席を奪い去るに至り、現在の議席は700名ほどである。もっとも、千を超える議員がいた当時も、出席していたのは<!--延べ人数で-->せいぜい300人程度だったと言う。そのためか貴族院の定足数は議長を含めて、わずか3名とされている(議決時には40名)。


1502年の公式文書から、貴族院を構成する高位聖職者と爵位保有者を指して「[[聖職貴族]]及び[[世俗貴族]](Lords Spiritual and Temporal)」と呼ぶようになった。また貴族院(House of Lords)という呼び方もこの頃から使用されるようになり、1510年から『貴族院日誌(House of Lords journals)』の印刷が開始されている<ref name="近藤(1970)上114" /><ref name="中村(1959)70">[[#中村(1959)|中村(1959)]] p.70</ref>。
[[2007年]][[3月7日]]、貴族院に選挙制導入を求める決議案が[[庶民院]]で可決され、数年のうちに全議員もしくは大半の議員が、選挙で選ばれた者によって構成される見通しが出てきた。可決された決議案は
*改革後の貴族院は全員が選挙によるものであるべきという意見
*改革後の貴族院は、80%が選挙で、20%が任命で構成されるべきという意見
の2つの選択肢とするものだった<ref>このほかにも全員任命・20%選挙・40%選挙・50%選挙・60%選挙の各決議案があったがすべて否決された。</ref>。
また同時に、世襲貴族議員の廃止を求める決議案も可決されており、この決議案に基づき政府が貴族院改革法案を提出して成立すれば、貴族のみで構成されていた貴族院は700年の歴史に幕を閉じる可能性がある。ただし、[[トニー・ブレア]]首相(当時)、[[デービッド・キャメロン]]保守党党首(当時)は可決された決議案には共に反対しており、また貴族院では全員任命案以外は否決されたため、改革の行方がどうなるかはまだ不透明である。


=== 庶民院に対する劣後 ===
==貴族院議員==
[[File:Queen Anne in the House of Lords.jpg|180px|thumb|left|18世紀初頭の貴族院を描いた絵画([[ピーター・ティルマンズ]]画、[[ロイヤル・コレクション]])]]
貴族院議員には以下の別がある:
15世紀中期の[[薔薇戦争]]は、封建貴族を没落させ、新興中産階級を台頭させた。[[テューダー朝]]期には貴族は「王室の藩屏」と化し、独立性を失った。一方新興中産階級は次々と庶民院に出てきてテューダー朝の王権と協力関係を築き、教会を追い落とすことを狙って[[宗教改革]]を推進した<ref>[[#中村(1959)|中村(1959)]] p.66/70-71</ref>。この宗教改革で聖職貴族も発言力を低下させ、貴族院の力は低下した<ref name="田中(2009)224">[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.224</ref>。このような状況からテューダー朝期の議会は「従順議会(Docile Parliament)」とも呼ばれるが、議会が中世から獲得してきた諸権利が失われたわけではなく、庶民院の影響力はこの時期にどんどん増した<ref>[[#中村(1959)|中村(1959)]] p.68-69/71</ref>。
*[[世襲貴族]]
*[[一代貴族]]
*[[法服貴族]]
*[[聖職貴族]]


[[ステュアート朝]]期の17世紀前期までには庶民院はあらゆる王権(行政権)に介入するようになり、国王と庶民院の対立が深刻化した<ref>[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.60</ref>。17世紀半ばに[[ピューリタン革命]]が発生し、王政は廃されて[[イングランド共和国|共和政]]が樹立された。この際に「王室の藩屏」たる貴族院も廃止され、[[一院制]]になった<ref name="中村(1959)96">[[#中村(1959)|中村(1959)]] p.96</ref>{{#tag:ref|ただし1656年には護国卿[[オリバー・クロムウェル]]によって護国卿が任命した者から構成される[[第二院 (イングランド共和国)|第二院]]が創設されており、共和政期ずっと一院制だったわけではない<ref name="中村(1959)101">[[#中村(1959)|中村(1959)]] p.101</ref>。|group=注釈}}。1660年には[[王政復古]]があり、貴族院も復古したが、これは絶対王政の復古を意味するものではなく、国王は再び革命が起こらないよう腐心せざるを得なくなり、したがってますます議会に逆らうのが困難となっていった<ref>[[#中村(1959)|中村(1959)]] p.102-104</ref>。
世襲貴族議員92名には、[[ノーフォーク公]]が世襲する[[紋章院|紋章院総裁]]とチャムリー侯爵{{enlink|Marquess of Cholmondeley|a=on}}が世襲する[[式部長官]]が含まれる。[[イギリスの首相|首相]]経験者が辞任し議会に残るとき、慣習的にLife peer{{enlink|Life peer|a=on}}と呼ばれる[[一代貴族]]の爵位(貴族地位)が与えられ貴族院に残ることがある。
法服貴族の定員は12人だったが、イギリス最高裁判所の成立で、その12人は2009年8月31日をもって、法服貴族の地位を失った。


1689年の[[名誉革命]]によって[[権利の章典|権利章典]]が議会で制定された。これにより王権は大幅に制限され、議会権力の王権に対する優位が確立された<ref>[[#中村(1959)|中村(1959)]] p.116-117</ref>。これ以降、庶民院における信任を背景に政府が成立するという[[議院内閣制]](政党内閣制)が発展していく<ref name="中村(1959)121">[[#中村(1959)|中村(1959)]] p.121</ref>。そのため政治の実権は庶民院が掌握するところとなり、貴族院の影は薄くなっていった。庶民院から支持を得ているが、貴族院で多数を得ていないという政府は、しばしば[[国王大権 (イギリス)|国王大権]]の貴族創家で貴族院を抑え込むようになった<ref>[[#中村(1959)|中村(1959)]] p.169-170</ref>{{#tag:ref|たとえば、1712年の[[ユトレヒト条約]]の[[批准]]をめぐって当時の[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]政権は、[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]が多数を占める貴族院で否決される事を憂慮して、[[アン (イギリス女王)|アン女王]]の大権で12家の貴族創家を行い、トーリー党の貴族院多数状態を強引に作り出した<ref name="中村(1959)169">[[#中村(1959)|中村(1959)]] p.169</ref>。|group=注釈}}。
== 議論 ==
英国の貴族院を「'''世界で最高の演説が聞ける場所'''」と評する論者がいる。政府推薦による[[一代貴族]]は、単なる党活動家ではなく識見に優れた人士を選ぶため、庶民院よりも専門的で公平な議論がなされることが理由とされる。そのため、過去の貴族院改革によって既に庶民院・内閣の連合に従わない決定的権利を失ってしまっている以上、貴族院からこれ以上何を取り上げる必要があるのかという改革反対論は根強かった。


1707年にイングランドとスコットランドが合同して[[グレートブリテン王国]]が成立すると、[[スコットランド貴族]]のうち互選された16人が[[貴族代表議員]]としてイギリス貴族院に議席を置くことになった。また1801年にアイルランドと合同した際にも[[アイルランド貴族]]のうち28人が貴族代表議員としてイギリス貴族院に議席を有することになった<ref>[[#中村(1959)|中村(1959)]] p.168-169</ref>。
貴族院の議長は '''Lord Speaker''' と呼ばれる。貴族院議長は議事の立会人としての性格が強く、貴族院議長には庶民院議長と異なり議事規律権はなく、議事の整理は同輩議員同士が行う伝統がある。
[[File:Passing of the Parliament Bill, 1911 - Project Gutenberg eText 19609.jpg|250px|thumb|1911年、[[議会法|議会法案]]の貴族院通過を描いた絵画]]
18世紀末頃から大量の叙爵が行われるようになり、貴族院議員数が急増した。その結果、貴族院はこれまでの「比較的少数の国王の世襲的助言者」という立場から「特権階級の既得権擁護機関」と化し始めた。19世紀から[[20世紀]]初頭にかけての貴族院は、[[保守党 (イギリス)|保守党]]が政権にある時は協調し、[[自由党 (イギリス)|自由党]]が政権に就くとその改革の妨害にあたることが多かった。その結果、自由党支持層に貴族院改革の機運が高まり、自由党政権期の1911年に[[議会法]]が制定された。これにより貴族院は財政法案に関する否決・修正権限を失い、またそれ以外の法案についても庶民院において3回可決された場合は否決しても無意味となった(庶民院の優越)<ref name="中村(1959)171">[[#中村(1959)|中村(1959)]] p.171</ref>。ただしこの段階では貴族院は庶民院で通過された法案を2年も引き延ばすことが可能だった<ref name="バー(2004)116">[[#バー(2004)|バーレント(2004)]] p.116</ref>。


なお20世紀以降は貴族院議員が首相になることは憲法慣習として避けられるようになった。最後の貴族院議員の首相は1902年7月まで首相を務めた第3代[[ソールズベリー侯爵]][[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ロバート・ガスコイン=セシル]]である<ref name="田中(2009)232">[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.232</ref><ref name="神戸(2005)180">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.180</ref>。ただしこの憲法慣習は首相を任命する国王を拘束するものではなく、1963年10月には第14代[[ヒューム伯爵]][[アレック・ダグラス=ヒューム|アレグザンダー・ダグラス=ヒューム]]が任命されている。この時にはヒューム自身が憲法慣習を守るためにただちに爵位を返上して[[補欠選挙]]に出馬し、[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員へ鞍替えしている<ref name="神戸(2005)180" />{{#tag:ref|20世紀以降は首相以外の主要閣僚についても貴族院議員の就任を避ける傾向があるが、[[外務・英連邦大臣|外務大臣]]は他の主要閣僚と比べると貴族院議員が就任する例がやや多めである(初代[[ハリファックス伯爵]][[エドワード・ウッド (初代ハリファックス伯爵)|エドワード・ウッド]]、第14代[[ヒューム伯爵]][[アレック・ダグラス=ヒューム|アレグザンダー・ダグラス=ヒューム]]、第6代[[キャリントン男爵]][[ピーター・キャリントン (第6代キャリントン男爵)|ピーター・キャリントン]])。貴族院議員が外務大臣を務めている時は庶民院における外交問題の対応は首相が行う<ref name="神戸(2005)175">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.175</ref>。|group=注釈}}。
== 大法官 ==
かつては、[[大法官]] (Lord Chancellor) が貴族院議長の任にあたった。[[首相]]が出現してくるまでは、大法官は政府の最高の官職であり、現在でも形式的な序列では聖職者である[[カンタベリー大主教]](第1位)に次ぐ第2位とされ、首相よりも上位の席次にある。また、内閣の一隅を占める。また、19世紀まで大法官管轄の特別裁判所が多数機能していた。現在でも貴族院議場において開催される[[王立委員会]]の首座をつとめている。


=== 現代の貴族院改革 ===
大法官管轄の特別裁判所らの裁判所が整理された後も、大法官には貴族院が行う最高裁判所としての審理に加わる権利があった。よって後発の[[三権分立]]がはっきり認識される国々からは「'''権力分立の歩く矛盾'''」と呼ばれていた。2009年10月からは、貴族院の終審裁判所機能は[[イギリス最高裁判所]]に移管された。
[[File:Tony Blair in Saint Petersburg.jpg|250px|thumb|1997年から2007年にかけて[[イギリスの首相|首相]]を務めた[[トニー・ブレア]]。1999年の[[1999年貴族院法|貴族院法]]で世襲貴族の議席を大幅制限し、2005年の[[2005年憲法改革法|憲法改革法]]で貴族院の最高裁判所機能を除去する貴族院改革を実施した。]]
1945年に成立した[[労働党 (イギリス)|労働党]]政権は、保守党が多数を占める貴族院が議会法に基づく停止的拒否権を行使することを懸念した。これに対して保守党[[貴族院院内総務]]クランボーン子爵(後の第5代ソールズベリー侯爵)[[ロバート・ガスコイン=セシル (第5代ソールズベリー侯爵)|ロバート・ガスコイン=セシル]]は、「庶民院総選挙で明確に[[マニフェスト]](政権公約)として掲げられ、有権者の信任を得た法案について、貴族院は否決したり大幅修正してはならない」とする[[ソールズベリー・ドクトリン]]を表明した<ref name="田中(2009)233">[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.233</ref><ref name="岡田(2014)96">[[#岡田(2014)|岡田(2014)]] p.96</ref>。


1949年には議会法の改正があり、貴族院が庶民院で可決された法案の成立を引きのばせる期間はこれまでの2年から1年に短縮された<ref name="バー(2004)116" />。
英国の貴族院は、その中の12名の「常任上訴貴族」='''[[法服貴族]](非世襲・勅任)が、司法権の頂点に立つ[[最高裁判所]]をなしている'''という点に歴史的特徴があった。しかし、2009年10月に[[イギリス最高裁判所]]が設置されたためこの機能はなくなった。法服貴族のほか、大法官も審理に加わる資格があるが、現在の大法官は首相の下に立つ閣僚であり、間違いなく党派的選任であるため、通常審理参加を放棄する旨を表明する。


1958年には保守党首相[[ハロルド・マクミラン]]により[[一代貴族法]]が制定され、男女問わず一代に限り貴族院議員に登用できるようになった。これにより貴族院の党派議席配分の変更や幅広い人材登用がやりやすくなった<ref name="田中(2009)235" />。この後、労働党は世襲貴族の新設を行わない旨を宣言し、保守党もそれに倣うと見られていたが、1983年には保守党首相[[マーガレット・サッチャー]]が、その慣例を破って[[ウィリアム・ホワイトロー (初代ホワイトロー子爵)|ウィリアム・ホワイトロー]]を世襲貴族ホワイトロー子爵に推薦して話題となった<ref name="海保(1999)11" />。
また、「[[聖職貴族]]」と呼ばれる議員が存在している。[[カンタベリー]]・[[ヨーク (イングランド)|ヨーク]]の大主教および23名の上級主教、あわせて25人が貴族院議員として議席を有している。


貴族院の[[一代貴族]]の占める割合は増加の一途をたどり、貴族院改革前夜の1998年2月の時点では世襲貴族は貴族院の59%(759名)にまで減少していた(対する一代貴族は484名)<ref name="田中(2009)279" />。
== 脚註 ==

{{Reflist}}
1963年の[[1963年貴族法|貴族法]]で世襲貴族は世襲事由が生じた時から1年以内であれば自分1代についてのみ爵位を放棄し、平民になるという選択(=貴族院議員にならないので庶民院の選挙権・被選挙権を得る)ができるようになった。また、それまで貴族院議員になれなかった女性世襲貴族とスコットランド貴族も貴族院議員に列することになった<ref name="田中(2009)235" />。

1999年には[[トニー・ブレア|ブレア]]政権によって[[1999年貴族院法|貴族院法]]が制定され、世襲貴族の議席は92議席を残して削除された。以降の貴族院は一代貴族が中心となっている<ref name="田中(2009)229" />。そのためこれ以降の貴族院は身分制議会というより任命制議会に近くなっている<ref>[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.229/298</ref>。また世襲貴族の多くが去ったことで貴族院の半永久的な保守党多数状態は終わり、以降の貴族院の勢力図は保革伯仲化し、[[クロスベンチャー|中立派(クロスベンチャー)]]が重要な存在となった(貴族院の中立性)<ref name="幡新(2013)143-144">[[#幡新(2013)|幡新(2013)]] p.143-144</ref>。中立派の一代貴族は退職公務員、学者、経済人、作家、労働組合幹部、芸術・科学の第一人者などから{{仮リンク|貴族院任命委員会|en|House of Lords Appointments Commission}}が推薦して叙爵するのが一般的であるため、優れた専門性を有しているとされる(貴族院の専門性)<ref>[[#岡田(2014)|岡田(2014)]] p.90-92/</ref>。

ブレア政権が2005年に制定した[[2005年憲法改革法|憲法改革法]]により2009年から[[連合王国最高裁判所]](Supreme Court of the United Kingdom)が新設され、貴族院は中世以来保持してきた最高裁判所としての権能を失った<ref>[[#高野(2010)|高野(2010)]] p.83-84/89</ref>。

2007年3月7日に議会で貴族院の構成に関する自由投票が行われ、庶民院では全員選挙制、および80%選挙・20%任命制の意見が可決されている(貴族院では全員任命制が可決される)<ref name="田中(2009)253">[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.253</ref>。2010年の[[2010年イギリス総選挙|庶民院総選挙]]でも保守党・労働党・[[自由民主党 (イギリス)|自民党]]の主要三政党がいずれも貴族院改革に前向きな姿勢を示した。この選挙後に成立した[[デイヴィッド・キャメロン|キャメロン]]保守党・自民党連立政権は2012年6月に貴族院公選制導入の法案{{#tag:ref|キャメロン内閣が2012年に提出した貴族院改革法案は「8割公選制・2割任命制、任命制は一代貴族のみとし、世襲貴族議席は全廃。庶民院優越制度は維持。任期は3議会期(通例15年)を1期とする」ことを概要とする<ref name="山田(2013)2">[[#山田(2013)|山田(2013)]] p.2</ref>。|group=注釈}}を議会に提出したが、与党から多数の造反者が出たため、法案は撤回され、[[2015年イギリス総選挙]]後まで棚上げされることになり<ref name="山田(2013)2" />、選挙後も再提出は行われていない。

その後は{{仮リンク|2014年貴族院改革法|en|House of Lords Reform Act 2014}}や[[2015年貴族院(除名及び停止)法]]などの小規模な改革が行われている。

2024年[[2024年イギリス総選挙|庶民院総選挙]]に勝利した、労働党の[[キア・スターマー|スターマー]]政権は、[[9月5日]]、世襲貴族議員の全廃法案を提出した。法案は可決の見通しで、開院以来存在した世襲貴族議員は全く姿を消すことになる<ref>{{Cite news | author = Sam Francis| title = Labour launches bid to get rid of hereditary peers| newspaper = | pages = | language = en| publisher = | location = | agency = BBC| date = 2024-09-05| url = https://www.bbc.com/news/articles/cgl2j90ydzgo| accessdate = 2024-09-06}}</ref><ref>{{Cite news | author = Eleni Courea | title = Ministers introduce plans to remove all hereditary peers from Lords| newspaper = ガーディアン| pages = | language = en| publisher = | location = | agency = | date = 2024-09-05| url = https://www.theguardian.com/politics/article/2024/sep/05/ministers-introduce-plans-to-remove-all-hereditary-peers-from-lords| accessdate = 2024-09-06}}</ref>。

== 議員構成 ==
=== 世襲貴族 ===
{{main|世襲貴族}}


{{multiple image|footer=貴族院議場の様子。赤い議会用ローブを纏った議員でひしめく。左が現在の風景(2023年)、右が19世紀初頭の議場を描いた絵画。|align=|caption_align=center|total_width=320|image1=Lords_Chamber_(State_Opening_2023).jpg|caption1=|image2=Microcosm_of_London_Plate_052_-_House_of_Lords_edited.jpg|caption2=}}1999年の貴族院改革以前には[[世襲貴族]]は原則として全員が貴族院に議席を有していた{{#tag:ref|ただし[[アイルランド貴族]]と[[スコットランド貴族]]は[[貴族代表議員]]を除き貴族院議員とはならなかった。スコットランド貴族は1963年の[[1963年貴族法|貴族法]]によって全員が貴族院議員に列している<ref name="田中(2009)235" />。|group=注釈}}。そのため20世紀に爵位が乱発された際には議員数が1000人を超えたこともあった<ref name="海保(1999)10">[[#海保(1999)|海保(1999)]] p.10</ref>。貴族院は長年にわたって世襲貴族を中心にして構成されてきた(ただし欠席者が多かった<ref name="神戸(2005)100">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.100</ref>)。1958年に一代貴族制度が導入された後も1999年に至るまで世襲貴族が貴族院の多数を占めていた<ref>[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.236/279</ref>。

しかし1999年の[[トニー・ブレア]]政権の貴族院改革によって、世襲貴族の議席は世襲貴族議員の互選で選ばれた90名(当時の貴族院の党派に応じて案分された75名と院内役職にあった15名)に[[紋章院総裁]]{{#tag:ref|紋章誤使用に関する民事法廷{{仮リンク|騎士法廷|en|High Court of Chivalry}}の唯一の裁判官職。騎士法廷は14世紀に創設され、1737年以降は長きに渡って開廷されなかったが、1955年に裁判を行って、いまだ健在であることを見せつけた<ref name="神戸(2005)264">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.264</ref>。|group=注釈}}を世襲する[[ノーフォーク公|ノーフォーク公爵家]]、[[式部卿 (イングランド)|式部卿]]{{#tag:ref|ウェストミンスター宮殿内で両院のいずれにも属さない部分(特に女王のお召し替えの間とロイヤル・ギャラリー)を管理する役職<ref name="前田(1976)199">[[#前田(1976)|前田(1976)]] p.199</ref>。|group=注釈}}を世襲で主に担う[[チャムリー侯爵|チャムリー侯爵家]]を加えた92議席に限定され、ほとんどの世襲貴族が議席を失った<ref name="田中(2009)241">[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.241</ref><ref name="神戸(2005)101">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.101</ref>。以降、貴族院に議席を持つ世襲貴族は「'''例外貴族'''(excepted peers)」と呼ばれている<ref name="神戸(2005)101">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.101</ref>。

世襲貴族議員の任期は終身である。世襲貴族の議席に定数が設けられている現在では、ある世襲貴族議員が死去すると、世襲貴族議員の互選で世襲貴族の中から新しい議員を選出することになっている<ref name="神戸(2005)101" />。

かつては女性世襲貴族{{#tag:ref|世襲貴族の爵位の継承方法はその爵位の[[特許状|勅許状]]で決められており、特例で女系継承が認められている場合もある<ref name="神戸(2005)100">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.100</ref>。|group=注釈}}は貴族院議員になれなかったが、[[1963年貴族法]]で女性世襲貴族にも貴族院議員となる道が開かれた。また同法により世襲貴族は、爵位継承から一年以内であれば自分一代について爵位を放棄して平民になることが可能となった。これは貴族院議員たる貴族が庶民院の選挙権および庶民院議員資格を有さないことへの救済処置であった<ref name="田中(2009)235">[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.235</ref>。ただし、貴族院議員でない貴族は、爵位を放棄せずとも庶民院議員選挙権および庶民院議員資格を有する。1999年の貴族院改革後は大半の世襲貴族が貴族院議員でなくなっており、彼らはこれに該当する(これ以前は「貴族院議員ではない貴族」に該当するのは[[アイルランド貴族]]だけだった)<ref name="加藤(2002)194">[[#加藤(2002)|加藤(2002)]] p.194</ref><ref name="神戸(2005)88-89">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.88-89/108</ref>。貴族院改革後も世襲貴族が爵位一代放棄を行う権利は失われていないが、貴族院議員たる貴族(「例外貴族」)は爵位一代放棄を行うことができなくなった<ref name="神戸(2005)108">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.108</ref>。

世襲貴族は創設時に応じて[[イングランド貴族]]、[[スコットランド貴族]]、[[グレートブリテン貴族]]、[[連合王国貴族]]に分かれており<ref name="神戸(2005)100" />、また公爵(Duke)、侯爵(Marquess)、伯爵(Earl)、子爵(Viscount)、男爵(Baron)の5等級から成るが、貴族院での活動においてこれらの区別に重要性はない<ref name="田中(2009)279">[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.279</ref>。

世襲貴族創家の権限は現在でも[[国王大権 (イギリス)|国王大権]]に属するが、立憲主義の慣例に基づいて、首相の助言によるべきと考えられている<ref name="神戸(2005)100" />。もっとも王族以外への世襲貴族創家は、1984年に元首相[[ハロルド・マクミラン]]が[[ストックトン伯爵]]に叙されたのを最後に途絶えており、現在では臣民が新規に世襲貴族に叙される可能性は低い<ref name="海保(1999)11">[[#海保(1999)|海保(1999)]] p.11</ref>。

非民主性が最も強い上、かつ中立性や専門性を有しているわけでもないことから、貴族院改革論において擁護することが最も困難な存在になっている<ref name="岡田(2014)97">[[#岡田(2014)|岡田(2014)]] p.97</ref>。<gallery widths="200" heights="120">
ファイル:Duke of Norfolk (Norman Porch) 2022.jpg|現在の[[軍務伯|紋章院総裁]]の第18代[[ノーフォーク公爵]][[エドワード・フィッツアラン=ハワード (第18代ノーフォーク公)|エドワード・フィッツアラン=ハワード]]。 総裁の服飾の上に、議会用ローブを羽織る。後方に[[紋章官]]を従える。
ファイル:Official portrait of Lord Carrington crop 3.jpg|現在の式部卿の第7代[[キャリントン男爵]]{{仮リンク|ルパート・キャリントン (第7代キャリントン男爵)|en|Rupert_Carington,_7th_Baron_Carrington|label=ルパート・キャリントン}}。 国王即位([[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世]]以降)に伴って就任。
ファイル:7th Marquis of Colmondeley 2.jpg|前任の式部卿の第7代[[チャムリー侯爵]][[デイヴィッド・チャムリー (第7代チャムリー侯爵)|デイヴィッド・チャムリー]]。 式部卿として白い職杖を手に持つ。 式部卿は輪番制であり、将来、国王代替わりがあると、再びチャムリー侯爵家が式部卿を務める。
ファイル:Lord Montagu of Beaulieu 20 Allan Warren.jpg|貴族院議員として議会用ローブをまとう{{仮リンク|エドワード・ダグラス=スコット=モンタギュー (第3代ボーリューのモンタギュー男爵)|en|Edward_Douglas-Scott-Montagu,_3rd_Baron_Montagu_of_Beaulieu|label=第3代ボーリューのモンタギュー男爵エドワード・ダグラス=スコット=モンタギュー}}。
ファイル:Lady Saltoun.jpg|女性の世襲貴族(第21代[[ソルトーン卿|ソルトーン女卿]]{{仮リンク|フローラ・フレイザー (第21代ソルトーン女卿)|en|Flora_Fraser,_21st_Lady_Saltoun|label=フローラ・フレイザー}}。)
</gallery>

=== 一代貴族 ===
{{main|一代貴族}}
[[一代貴族]](Life Peer)の先例は古くは14世紀から見られるが<ref name="前田(1976)5">[[#前田(1976)|前田(1976)]] p.5</ref>、現在のイギリスの一代貴族制度は1958年の[[一代貴族法]]に基づくものである。一代貴族は爵位を世襲できないが、終身で貴族院議員となる<ref name="前田(1976)3">[[#前田(1976)|前田(1976)]] p.3</ref>。彼らには爵位の等級はなく、全員が男爵である<ref name="神戸(2005)101" />。

1999年の貴族院改革により、世襲貴族の議席は大幅に減り、一代貴族が大多数となった<ref name="田中(2009)229">[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.229</ref>。これにより貴族院は「もっぱら先祖の活躍と地位のみに基づく」世襲貴族中心の議院から本人の実績や経験に基づく一代貴族が中心の議院へと転換された<ref name="山田(2013)40">[[#山田(2013)|山田(2013)]] p.40</ref>。

一代貴族は、首相の助言に基づく国王の勅許状によって叙爵される。首相による人選は首相独自の判断による場合もあれば、政府から独立した{{仮リンク|貴族院任命委員会|en|House of Lords Appointments Commission}}の推薦に基づく場合もある<ref name="神戸(2005)101" /><ref name="岡田(2014)91">[[#岡田(2014)|岡田(2014)]] p.91</ref>。叙爵されるのは主に政界・官界・軍・司法界などで活躍した者であり、男女問わないが<ref name="神戸(2005)101" />、叙爵に明確な基準があるわけではないため、首相の裁量権が大きくなりがちである<ref name="山田(2013)41">[[#山田(2013)|山田(2013)]] p.41</ref>。2014年現在のところ確立されている首相裁量権を制限する習律としては「政党政治的叙爵に際して首相は自らが所属する政党だけではなく、他の党の人間も叙爵しなければならない」ことと「クロスベンチャー議員(中立派議員 各分野の専門家が多い)の叙爵は首相の直接指名ではなく貴族院任命委員会の指名に依らなければならない」ことの2つがある<ref name="岡田(2014)91" />。貴族院任命委員会は2000年に設立され、求人のような透明・厳格な過程でもって指名を公募し、また政党政治的指名に際してもその人物の「適格性」を評価する機能を持つ(ただしこの「適格性」評価はその人物が立派な人間であることを保証するためのものであり、議員資格に照らした適格性や任命数の統制などはこの機関では検討しない)<ref>[[#岡田(2014)|岡田(2014)]] p.91-92</ref>。

一代貴族の授爵は首相退任時(退任する首相が次の首相に叙爵候補リストを残す)と総選挙時(引退を表明した庶民院議員たちを叙する)に行われることが多い。2010年の政権交代時には退任する[[ゴードン・ブラウン|ブラウン]]労働党政権が通例を大きく超える32名の叙爵リスト(多くは労働党系 後任のキャメロンはうち29名の叙爵を女王に助言した)を残したため、「前回総選挙で各党が獲得した得票率を反映させる」ことを連立政権プログラムに掲げるキャメロン保守党・自民党連立政権としては、バランスをとるために与党系も大量に叙爵せざるをえなくなり、結果キャメロンの首相就任から1年以内に117人も一代貴族に叙され、2011年4月には一代貴族総数が792人に達した。現行制度だとこうした首相の「授爵合戦」が行われた場合に一代貴族が急増することが懸念されており、首相の裁量権を抑制する改革の必要性も唱えられている<ref name="山田(2013)41" /><ref name="岡田(2014)147" />。<gallery widths="200" heights="120">
ファイル:1stLordWensleydale.jpg|裁判官の{{仮リンク|ジェームズ・パーク (初代ウェンスレーデール男爵)|en|James Parke, 1st Baron Wensleydale|label=初代ウェンスレーデール男爵ジェームズ・パーク}}。彼への叙爵をめぐって、一代貴族論争が起きた。
ファイル:Baroness D'Souza 2013.png|議事進行中の[[フランセス・デ・スーザ|デ・スーザ女男爵フランセス・デ・スーザ]] 元[[貴族院議長 (イギリス)|貴族院議長]]。彼女も一代貴族である。
ファイル:David Cameron Official Portrait 2023 (cropped).jpg|元首相[[デーヴィッド・キャメロン|デイヴィッド・キャメロン]]。引退していたが、政界復帰に伴い一代貴族([[男爵]])に叙されて、[[リシ・スナク|スナク]]政権下の[[外務・英連邦・開発大臣|外相]]に就任した。
</gallery>

=== 法服貴族 ===
[[ファイル:Charles_Lord_Russell_LCJ_by_JD_Penrose.png|サムネイル|187x187ピクセル|法服と鬘をまとう裁判官{{仮リンク|チャールズ・ラッセル (キルオーウェンのラッセル男爵)|en|Charles_Russell,_Baron_Russell_of_Killowen|label=キルオーウェンのラッセル男爵}}。]]
イギリスでは中世から2009年まで貴族院が最高裁判所機能を有した。近代になると法曹の貴族院議員が必要との認識が高まり、1876年に[[1876年上訴管轄権法|上訴管轄権法]]が制定され、[[法律貴族|常任上訴貴族]](法服貴族、[[:en:Lords of Appeal in Ordinary|Lords of Appeal in Ordinary]])という一代貴族が置かれるようになった<ref name="前田(1976)6-7">[[#前田(1976)|前田(1976)]] p.6-7</ref>。一代貴族としてはこれが最初の制度である<ref name="田中(2009)279" />。略称で法服貴族(Law Lords)と呼ぶ<ref name="加藤(2002)153">[[#加藤(2002)|加藤(2002)]] p.153</ref>。爵位は男爵である<ref name="神戸(2005)101" /><ref name="幡新(2013)143" />。法服貴族設置後はそれ以外の貴族院議員は貴族院の司法的機能に関与してはならないとの憲法慣習ができた<ref name="加藤(2002)153" />。

この貴族は当初4人までとされていたが、その後、上訴管轄権法改正で徐々に増やされていき(1913年に6名、1929年に7名、1947年に9名)、1968年{{仮リンク|裁判法 (イギリス)|label=裁判法|en|Administration of Justice Act}}で11名に増員され、さらに1994年の裁判官定数令(Maximum Number of Judges Order)で12名になった<ref name="幡新(2013)143">[[#幡新(2013)|幡新(2013)]] p.143</ref>。12人のうち2人は{{仮リンク|スコットランド高等法院|en|High Court of Justiciary}}出身者にするのが慣例だった<ref name="神戸(2005)101" />。かつて裁判官は終身だったが、後に70歳の定年制が設けられた。しかし裁判官としての定年を迎えても一代貴族であることに変わりはないので貴族院議員としては終身である<ref name="神戸(2005)101" />。

[[2005年]]の憲法改革法により[[2009年]]から[[連合王国最高裁判所]](Supreme Court of the United Kingdom)が新設され、貴族院から最高裁判所機能が失われたのに伴い、今後新たに常任上訴貴族が任命されることは無くなった<ref name="幡新(2013)143" />。

憲法改革法の規定により最初の最高裁判所裁判官12人は常任上訴貴族が横滑りすることになり、彼らはその間貴族院登院を停止されることになった<ref name="高野(2010)84/89">[[#高野(2010)|高野(2010)]] p.84/89</ref><ref name="神戸(2005)380">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.380</ref>{{#tag:ref|最高裁判所裁判官に転じなかった常任上訴貴族が2人おり、1人は[[控訴院 (イングランド・ウェールズ)|控訴院]][[記録長官]]となったために規定により登院を停止され、1人は継続して貴族院議員であった。|group=注釈}}。ただし常任上訴貴族が一代貴族であることは変わらないので、最高裁判所裁判官を辞すれば貴族院議員の地位が復活する<ref name="古賀(2010)14">[[#古賀(2010)|古賀・奥村・那須(2010)]] p.14</ref>。最高裁判所裁判官に転じた常任上訴貴族のうち2010年9月30日に最初に退任した{{仮リンク|ニューディゲイトのサヴィル男爵マーク・サヴィル|en|Mark Saville, Baron Saville of Newdigate}}は、停止されていた貴族院登院を回復され、以降も退任によって同様に回復された。

=== 聖職貴族 ===
[[ファイル:The_Archbishop_of_Canterbury_(51111275839).jpg|サムネイル|議場にて故・[[フィリップ (エディンバラ公)|エディンバラ公]]の追悼演説を行う聖職貴族([[カンタベリー大主教]][[ジャスティン・ウェルビー]])。]]
[[イングランド国教会|国教会]]の高位聖職者である[[カンタベリー大主教]]、[[ヨーク大主教]]、{{仮リンク|ロンドン主教|en|Bishop of London}}、{{仮リンク|ダラム主教|en|Bishop of Durham}}、{{仮リンク|ウィンチェスター主教|en|Bishop of Winchester}}の5人と、そのほかの教区主教{{#tag:ref|対象となるのは国教会の42の教区から、前述の5教区とイギリス国外のみで構成される{{仮リンク|ソドー・マン教区|en|Diocese of Sodor and Man|label=}}と[[ヨーロッパ教区]]を除いた35教区の主教|group=注釈}}のうち21名をあわせた計26名は[[聖職貴族]](Lords Spiritual)として貴族院に議席を保有する。なお、聖職貴族以外の貴族院議員(世襲貴族・一代貴族・常任上訴貴族)は聖職貴族に対して[[世俗貴族]](Lords Temporal)と呼ばれる。

高位聖職者5人以外の議席は、貴族院議員たる教区主教の死亡・退任によって先任順に次の教区主教が貴族院議員となる<ref name="加藤(2002)181">[[#加藤(2002)|加藤(2002)]] p.181</ref>。ただし、2014年に女性の主教就任が認められると[[2015年聖職貴族(女性)法]]が制定され、2015年から10年間は女性主教が優先的に貴族院議員となることが定められた。

聖職貴族の議席は聖職者個人ではなくその主教位によるため、彼らは主教に留まっている間のみ貴族院議員であり、主教を辞すと貴族院議員たる地位も失う。また、主教位が変わった時にはその都度貴族院に紹介されて宣誓することになる。例えばカンタベリー大主教[[ジャスティン・ウェルビー]]は、2012年にダラム主教として<ref>[http://www.publications.parliament.uk/pa/ld201212/ldhansrd/text/120112-0001.htm#12011287000726 貴族院会議録734巻248号(2012年1月12日)]</ref>、2013年にカンタベリー大主教として<ref>[http://www.publications.parliament.uk/pa/ld201213/ldhansrd/text/130226-0001.htm#13022665001147 貴族院会議録743巻116号(2013年2月26日)]</ref>、それぞれ貴族院に紹介され、宣誓している。主教には70歳の定年が設けられているので、それまでには辞職することになるが<ref name="神戸(2005)100">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.100</ref>、カンタベリー大主教とヨーク大主教のみは大主教を退いた後に一代貴族に列するのが例となっている<ref name="田中(2009)279" />。

聖職貴族は院内で一つに固まって独自会派を形成しているが、中立派(クロスベンチャー)と同様に特定の政策に対して党議拘束を行っていない<ref name="岡田(2014)92">[[#岡田(2014)|岡田(2014)]] p.92</ref>。

貴族院議員たる国教会聖職者は庶民院議員資格を有さないが、貴族院議員でない国教会聖職者は2001年{{#tag:ref|{{仮リンク|1801年庶民院聖職者欠格法|en|House of Commons (Clergy Disqualification) Act 1801}}の規定により聖職者には庶民院議員資格がなかったが、{{仮リンク|2001年庶民院聖職者欠格廃止法|en|House of Commons (Removal of Clergy Disqualification) Act 2001}}により、貴族院議員たる国教会聖職者以外は庶民院議員から排除されないこととなった<ref name="幡新(2013)148">[[#幡新(2013)|幡新(2013)]] p.148</ref>。|group=注釈}}から庶民院議員資格を有する<ref name="神戸(2005)89">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.89</ref>。

聖職貴族は世俗貴族(世襲貴族・一代貴族)が急増した近現代においては貴族院の少数勢力に過ぎないが、[[中世]]の頃には世襲貴族の数が少なかったために貴族院の半分以上を占めている時期もあった<ref>[[#近藤(1970)上|近藤(1970)上巻]] p.169-170</ref>。たとえば[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]即位時(1509年)の貴族院は世襲貴族36人と聖職貴族48人で構成されていた<ref name="マリ(1914)184">[[#マリ(1914)|マリオット(1914)]] p.184</ref>。現行の26人という聖職貴族の議員数は1878年主教職法(Bishoprics Act 1878)の定めによる<ref name="加藤(2002)181" />。<gallery widths="200" heights="120">
ファイル:Official portrait of The Lord Archbishop of Canterbury crop 2.jpg|現在の[[カンタベリー大主教]][[ジャスティン・ウェルビー]]
ファイル:Installation of the Bishops of Barking and Colchester (14983891360) (Stephen Cottrell cropped).jpg|[[ヨーク大主教]]{{仮リンク|ステファン・コットレル|en|Stephen_Cottrell}}
ファイル:Sarah Mullally.jpg|{{仮リンク|ロンドン主教|en|Bishop of London}}{{仮リンク|サラ・マラリー|en|Sarah_Mullally}}
ファイル:Official portrait of The Lord Bishop of Durham crop 2.jpg|{{仮リンク|ダラム主教|en|Bishop of Durham}}{{仮リンク|ポール・バトラー (ダラム主教)|en|Paul_Butler_(bishop)|label=ポール・バトラー}}
ファイル:Review into Christian persecution (48306616482) (Philip Mounstephen cropped).jpg|{{仮リンク|ウィンチェスター主教|en|Bishop of Winchester}}{{仮リンク|フィリップ・モンステファン|en|Philip_Mounstephen}}
</gallery>

== 運営 ==
=== 法案審議手続き ===
[[File:House of Lords w Leon.jpg|250px|thumb|貴族院議場にある国王の玉座。<br /><small>2013年1月18日、訪英中の[[アメリカ合衆国国防長官]][[レオン・パネッタ]]の貴族院見学を案内する{{仮リンク|軍事担当大臣 (イギリス)|label=イギリス軍事担当閣外大臣|en|Minister of State for the Armed Forces}}{{仮リンク|アンドリュー・ロバサン|en|Andrew Robathan}}。</small>]]
財政法案(Finance act)については庶民院が先議権を有する<ref name="神戸(2005)65">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.65</ref>。また[[議会法]]の規定に基づき、財政法案の中でも歳入・歳出のみに関する金銭法案(Money Bill)については貴族院は1か月の遅延権を有するのみで一切修正することができない<ref name="幡新(2013)159">[[#幡新(2013)|幡新(2013)]] p.159</ref><ref name="岡田(2014)95">[[#岡田(2014)|岡田(2014)]] p.95</ref>。非財政法案は庶民院・貴族院どちらから先議しても構わない<ref name="神戸(2005)65" />。法案が財政法案に当たるかどうか判断する権限は議会法の規定により庶民院議長にある<ref name="加藤(2002)180">[[#加藤(2002)|加藤(2002)]] p.180</ref>。論争的でない法案は貴族院で先議されることが多く、政府提出法案の約3分の1は貴族院で先議されている<ref name="岡田(2014)93">[[#岡田(2014)|岡田(2014)]] p.93</ref>。法案審議の方法は貴族院も庶民院も大きな差異はないが、庶民院で先議していた場合は貴族院での審議は比較的簡潔に行われる<ref name="神戸(2005)73">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.73</ref>。

実際に法案を議会に提出する前に政府は法案骨子を{{仮リンク|グリーン・ペーパー|en|Green paper}}として公開する。またそれに対する各方面からの意見を考慮ないし反論して政策意図を世に問うホワイト・ペーパー([[白書]])を公開する。イギリスでは法案を議会に提出した後に法案やその審議を批判することは議会侮辱に相当する可能性があるため、このように法案提出前に法案の詳細を公開することで国民やマスコミの批評を受け付ける。またこの段階から議会での討論も受けるので、国民・マスコミからの批評に政府がいかに答えるかが議会内での与野党討論・修正動議提出に影響を与える<ref name="神戸(2005)66">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.66</ref>。

このやりとりを経て法案は庶民院もしくは貴族院に提出される。貴族院では、大法官(2005年まで。以降は、貴族院議員が就任した場合で以下の役を兼務していない場合)・[[貴族院院内総務]]・[[名誉帯剣紳士隊長]](貴族院与党院内幹事長)・[[女王警護ヨーマン隊長|国王警護ヨーマン隊長]](貴族院与党院内副幹事長)・{{仮リンク|侍従たる議員|en|Lord-in-Waiting}}(貴族院与党院内幹事)などに任命された与党貴族院議員たちが法案可決のための院内交渉に当たる<ref name="神戸(2005)73" />。

貴族院は庶民院と同様に本会議中心主義([[読会制]])で運営されている。第一読会は形式的なやり取りだけで終わり、法案はただちに第二読会へ送付される。第二読会は法案の概要や目的について討議し、「第二読会を終了する」との動議が可決されると委員会へ送付される。委員会では法案の内容に応じて常任委員会、全院委員会、特別常任委員会のいずれかに送付され、そこで討議されて修正を受ける。貴族院では大抵の場合、全院委員会に送付されている(貴族院議員は登院者がそれほど多くないので全院委員会で行っても弊害が少ない)。なお全院委員会以外で修正された法案は本会議に報告され、本会議の再考慮を仰ぐ。委員会に出席しなかった議員に発言の機会を与えるためである(全院委員会の場合はこの段階は省略)。続いて第三読会にかけられる。庶民院における第三読会は形式的なものだが、貴族院ではここでも修正討論が行われる。「第三読会を終了する」との動議が可決されると法案はその院を通過する<ref>[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.68-69/73</ref>。

ほとんどの場合、法案は庶民院においても貴族院においても修正を受ける。庶民院では政治的な観点での修正が主だが、貴族院では字句の整合性・法理的整合性の観点からの修正が主である。そのため貴族院での修正討論は細部にまでわたることが多い。貴族院は政治的な修正はほとんどしないので庶民院に送付されても賛成を得られるのが通常である。庶民院が貴族院の修正を否決した場合は庶民院は貴族院に否決理由を述べて再審議を要求するが、それでも両院が合意できなければ[[議会法]]に基づく処置がなされる<ref name="神戸(2005)73" />。ただし現実には議会法の定めが利用されることはほとんどなく、庶民院が貴族院の修正を否決して貴族院に戻した場合は、貴族院はそれに賛成して対決を避けるのが一般的である<ref>[[#幡新(2013)|幡新(2013)]] p.159-160</ref>。

貴族院での表決方法には発声表決と分列表決が取られている。発声表決とは貴族院議長の呼びかけに対して議員たちが「Content(賛成)」「Not Content(反対)」と声を上げ、議長が声の大きい方を可決させる表決方法である。その議長判断に対して異議が出された場合は分列表決が行われる。これは賛否に応じて二列に分かれた議員たちが議場の左右に存在する賛成者用廊下と反対者用廊下を通過して別々の入口から再度貴族院議場に入場し、その際に計算係(tellers)が数を数えてその人数の大小で表決する方法である<ref>[[#古賀(2010)|古賀・奥村・那須(2010)]] p.17-18</ref>。

=== かつての最高裁判所機能について ===
[[ファイル:Westminster,_London,_UK_-_panoramio_(4).jpg|サムネイル|250x250ピクセル|[[連合王国最高裁判所]]]]
2009年まで保持された貴族院の上訴裁判権は、14世紀中に確立されたものである<ref name="神戸(2005)109">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.109</ref>。

貴族院の上訴管轄権は古くはイングランド王国内の裁判所(とりわけ王座裁判所)の上訴に限られていたが、ウェールズやアイルランドの属領化でこれらの地域の裁判所の上訴案件も扱うようになり、さらに1707年のスコットランド統合で{{仮リンク|スコットランド高等法院|en|High Court of Justiciary}}からの上訴案件も扱うようになった(ただしスコットランド高等法院の上訴は民事のみだった)。アイルランドの上訴管轄権は、1783年に一時[[アイルランド貴族院]]へ移管されたものの、1800年のアイルランド統合で結局イギリス貴族院へ戻っている<ref name="神戸(2005)110">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.110</ref>。

上訴裁判権は貴族院の一部ではなく、貴族院全体に属するのが原則であるが、1844年の判例以降、上訴案件を扱う時の貴族院の審議は法律に明るい貴族院議員のみで行う慣例ができた。しかしそうそう法律に明るい貴族院議員がいるわけではないので、1876年には[[1876年上訴管轄権法|上訴管轄権法]]が制定され、司法官僚が法服貴族(一代貴族)として貴族院議員に登用されるようになった<ref name="神戸(2005)109" />。

1948年まで上訴案件の審議は、貴族院全体が上訴案件を裁くという形式を重んじて貴族院本会議場で行われていた。しかし戦時中に庶民院本会議場が空襲で焼失し、貴族院本会議場が庶民院の仮議場として使われるようになったのを機に上訴案件審議は委員会室で行われるようになり、1948年5月にはこれを常態化させる形で委員会室を使う事が定められた(「上訴委員会(Appellate Committee)」と呼ばれる)。1960年代には第二上訴委員会も設置され、同時並行で二案件を審議できるようになった。上訴委員会は通常5人の法服貴族(難しい問題では7人)で法廷を構成した。ただし上訴委員会で判決を下すことはできず、上訴委員会は報告を本会議に送り、本会議での採決によって判決が下された<ref name="神戸(2005)110" />。

しかし上院が最高裁判所機能を有するというのは、近代立憲主義の憲法原則とされる権力分立の観点からは問題視され、[[ヨーロッパ人権条約]](第6条で「法律にもとづいて設置された裁判所において'''独立した'''公平な裁判を受ける権利が保障される」べきことを要請)をはじめとする[[ヨーロッパ連合|EU]]法体系にも抵触する可能性が高かった。そのため[[トニー・ブレア]]政権は2005年に[[2005年憲法改革法|憲法改革法]]を制定。これに基づいて2009年10月1日をもって貴族院の最高裁判所権能は[[連合王国最高裁判所]]に移行することとなった<ref>[[#高野(2010)|高野(2010)]] p.83-86</ref>。

=== 行政権との関係 ===
慣習により現在のイギリス政府は庶民院の信任を背景に成立しているが、貴族院の信任を受ける必要はないと考えられている。20世紀を通じて労働党政権時も貴族院は常に保守党によって多数を握られていたし、1999年貴族院改革以降の貴族院はどこの党も多数派になっていないためである<ref name="#1">[[#岡田(2014)|岡田(2014)]] p.93-94</ref>。

また非公選制議会たる貴族院が問責動議を可決させるべきではないというのは貴族院内で広く認識されており、20世紀中に貴族院で問責動議が可決されたことはない<ref name="#1"/>。同様に内閣不信任決議を行った事もない。1993年に貴族院から内閣不信任動議が出されたことはあるものの、可決に至っていない。万が一可決された場合どうなるかは分からない。貴族院の内閣不信任は首相に辞任を強制する力はないかもしれないが、1世紀以上可決された事例がないので不明である<ref name="神戸(2005)179">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.179</ref>。

19世紀までさかのぼると1864年7月に庶民院・貴族院両方で行われた第3代[[パーマストン子爵]][[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|ヘンリー・ジョン・テンプル]]内閣に対する不信任動議採決で、庶民院では否決、貴族院では可決という結果が出たが、パーマストン卿は庶民院の採決の方が重いとして総辞職を拒否した事例が存在する<ref>[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.256-257</ref>。

=== 貴族院及び貴族院議員の特権・待遇・条件など ===
==== 特権 ====
歴史的に貴族院は王権と対立することが少なかったので、貴族院議員には議員特権意識は薄いが、院の自律権と貴族固有の権利として以下のような特権を保持している<ref name="神戸(2005)130">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.130</ref>。

*貴族とその従者は不可侵権(不逮捕特権)が認められている。1700年と1703年の慣習及び制定法を根拠とする。近時の例では1963年に裁判所命令違反と裁判所侮辱で民事逮捕されそうになった貴族が貴族不可侵権を主張して逮捕を免れた例([[ストートン男爵]]事件)が存在する<ref name="so">{{cite web |url=https://publications.parliament.uk/pa/ld/ldcomp/compso2010/ldctso15.htm |title=Chapter 12 Parliamentary Privilege and related matters §12.06 |work=Companion to the Standing Orders and guide to the Proceedings of the House of Lords |publisher=United Kingdom Parliament |year=2010 |access-date=13 June 2010}}</ref>。ただし、1989年に金銭未払にかかる裁判所命令違反により逮捕寸前となった貴族については「(貴族院議員の[[マンクロフト男爵]]は本件について)議員不逮捕特権の保護を受けない」との裁判所判断がなされており<ref name="so" /><ref>{{Cite book|洋書|title=『Mancroft 'upset'』|date=1989-1-13|publisher=''[[タイムズ|The Times]]''|page=2|url=https://go-gale-com.wikipedialibrary.idm.oclc.org/ps/i.do?p=TTDA&u=wikipedia&id=GALE&#124;IF0503224388&v=2.1&it=r&sid=ebsco|issue=|access-date=2022-11-14|location=''[[ロンドン|London]],[[イングランド|England]]''|volume=63290}}</ref>、一貫的ではない。(バークレイズ 対 マンクロフト卿事件)また、刑事事件の逮捕に対しては不可侵権を主張できない。この場合は会期中であっても逮捕される(庶民院議員も同様)<ref name="神戸(2005)131">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.131</ref>。
*かつては慣習上の貴族の特権として、一般刑事犯罪のうち、国事犯罪、重罪、不法投獄罪に問われている場合は、裁判所ではなく貴族院で裁かれた。その最後の例は1935年の殺人事件である。しかし1948年の刑法で貴族も一般裁判所で裁かれることになった<ref name="神戸(2005)131" />。
*貴族院も庶民院も院内における言論の自由を有する。これは14世紀末以来の慣例であり、1689年の[[権利の章典|権利章典]]9項において明文化されたことで確固たる物となった<ref>[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.124/131</ref>。具体的には両院の議員が議会内で行った言論・審議について議会外で責任を問われない権利(院内で違法な言論を行ったとしても刑事訴追も民事訴追もされない。ただし議会から懲罰はされうる<ref>[[#幡新(2013)|幡新(2013)]] p.171-172</ref>)、審議を非公開にする権利、審議の模様を伝える情報手段を統制する権利の3つである<ref name="神戸(2005)124">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.124</ref>。
*貴族院および貴族全員が、王への拝謁権を有する。庶民院も院全体としては王への拝謁権を有するが(庶民院議長が行使できる)、個々の庶民院議員には拝謁権は認められていない。対して貴族は個々が王への拝謁権が認められている。ただ現代では国王の政治的権力が制限されているので、拝謁権を行使しても事実上意味がない<ref>[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.125/131</ref>。
*庶民院と同様に議院として院内の議事を定める権利を有する。これに基づき院内を自治することができ、王権も裁判所もそれに介入することはできない<ref name="神戸(2005)131" />。
*庶民院と同様に院や議員の特権への侵害、{{仮リンク|議会侮辱|label=院への侮辱|en|Contempt of Parliament}}に対して加罰権を有する。被告は議員であるなしを問わない。被告の逮捕は院の議長の発する逮捕令状に基づいて[[黒杖官]]によって行われる(警察の協力も得る)。院の委員会で証人喚問などの審議が行った後、本会議で裁判を行う。有罪判決が下った被告には罰を与えることができる。どのような罰が下されるかは両院ごとに時代によって異なるが、大体の場合、投獄(議会はこのために[[ビッグベン]]の下に牢獄を用意している)・罰金・譴責・訓戒などの罰が下される。被告が議員だった時は登院停止や議員資格はく奪などの罰もありえる<ref>[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.99/104/126/131</ref>。実際の議会侮辱の懲罰例は1880年が最後となっている<ref name="幡新(2013)171">[[#幡新(2013)|幡新(2013)]] p.171</ref>。

==== 待遇 ====
貴族院議員は、無報酬である。ただし、日当、旅費などを受け取ることができる。日当は、166 ポンドまたは 332 ポンドの出席手当を受け取ることができる<ref>{{Cite web |url=https://www.parliament.uk/business/lords/whos-in-the-house-of-lords/house-of-lords-expenses/ |title=House of Lords expenses |access-date=2023/03/12 |publisher=UK Parliament}}</ref>。対して庶民院議員は1911年以降報酬が出されている。貴族院議員や1911年以前の庶民院議員が無報酬であるのは彼らのほとんどが大地主あるいは企業経営者の一族であって、巨額の資産を持っているからである。20世紀以降台頭した[[労働党 (イギリス)|労働党]]の議員はそうではない者が多く、労働組合からの政治献金で生計を立てていたが、労働組合の資金を政治献金に使うことを禁じる貴族院判決が出たことでそれが成り立たなくなり、代わりの救済措置として1911年から庶民院議員のみ報酬が出されるようになった。一方、貴族院議員は一代貴族であってもそれ以前の職業生活の中での蓄えと一般よりはるかに高い年金があるために無報酬でもやっていけるため、現在でも無報酬となっている<ref>[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.127-128</ref>。

聖職貴族以外の貴族院議員は原則として終身であり、辞職や除名といった制度はなく、特定の場合に議員資格を停止されるか「請暇の許可(leave of absence)」の申請ができるだけであった<ref name="岡田(2014)147">[[#岡田(2014)|岡田(2014)]] p.147</ref>。この従来の制度は{{仮リンク|2014年貴族院改革法|en|House_of_Lords_Reform_Act_2014}}制定に伴って、一定条件下における失職を認めるように改善された<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=英国の貴族院改革―ウェストミンスター・モデルと第二院|date=2015年9月30日|year=2015|publisher=成文堂|author=田中 嘉彦|edition=初版|isbn=978-4-7923-3336-2|発行者=阿部 成一|pages=165-166}}</ref>。加えて、翌年に成立した[[2015年貴族院(除名及び停止)法|2015年貴族院法]]は貴族院の議決によって、議員の除名及び登院停止を認めるに至った<ref name=":0" />。

貴族院議員は庶民院の選挙権および庶民院議員資格を有さない(貴族院議員ではない貴族・国教会聖職者は有する)<ref name="神戸(2005)88-89" />。

==== 条件 ====
貴族院議員たる地位を認められない事由として「1. 外国人、2. 二十一歳以下、3. [[大逆罪 (イギリス)|大逆罪]]に問われた者のうち刑の執行か恩赦を受けていない者、4. 不行跡で破産した者(不運で破産した者は問題にされない)、5. 貴族院の決定で追放された者」が定められている<ref name="神戸(2005)102">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.102</ref>。

裁判官の職にある者、庶民院議員である者、[[欧州議会]]議員である者は貴族院議員になれない<ref name="岡田(2014)147" />。

また国教徒以外の者([[非国教徒]]、[[カトリック]]、[[ユダヤ教徒]]など)は両院から議員資格を認められなかった時期がある。イギリスでは16世紀の[[テューダー朝]]([[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]と[[エリザベス1世]])によって[[プロテスタント]]の国教が定められて以降「プロテスタント王国」たることが国体の支柱だった。そのため1678年には[[審査法]]が制定され、両院議員から国教徒以外の者は排除された。この状態は1世紀以上続いたが、非国教徒は1828年の審査法廃止によって、カトリックは1829年の[[1829年カトリック救済法|カトリック救済法]]によって、ユダヤ教徒は1858年の{{仮リンク|1858年ユダヤ人救済法|label=ユダヤ人救済法|en|Jews Relief Act 1858}}によってそれぞれ議員資格を認められた<ref name="幡新(2013)185-187">[[#幡新(2013)|幡新(2013)]] p.185-187</ref><ref>[[#加藤(2002)|加藤(2002)]] p.253-254</ref>。

議員となった者(貴族院・庶民院問わず)は、新議会の最初の出席や王位継承があった場合に以下の{{仮リンク|忠誠宣誓 (イギリス)|label=忠誠宣誓|en|Oath of Allegiance (United Kingdom)}}を行わなければ、議院に出席し表決に参加することはできない。宣誓は以下のとおりである<ref name="前田(1976)191">[[#前田(1976)|前田(1976)]] p.191</ref>。
{{Quotation|私(氏名)は、[[エリザベス2世|エリザベス女王陛下]]、法の定めるその相続人及び承継者に対し、誠実であり、かつ真の忠順を保持することを全能の神にかけて誓います。されば神よ、授けたまえ{{#tag:ref|この宣誓は聖書([[キリスト教|キリスト教徒]]は[[新約聖書]]、[[ユダヤ教|ユダヤ教徒]]は[[旧約聖書]])を右手に掲げて持ちながら行う。手を挙げて行うスコットランド方式も認められる。また身体上の理由があれば、議院の許可を得て座りながら行うことも許される。宣誓を終えたら宣誓簿に署名して貴族院議長と握手する<ref name="前田(1976)192">[[#前田(1976)|前田(1976)]] p.192</ref>。{{仮リンク|1888年宣誓法|en|Oaths Act 1888}}以降は、神に宣誓したくない[[無神論者]]のために「私(氏名)は、[[エリザベス2世|エリザベス女王陛下]]、法の定めるその相続人及び承継者に対し、誠実であり、かつ真の忠順を保持することを、厳粛に心から真実に宣言し、確約いたします(''I... do solemnly, sincerely and truly declare and affirm that I will be faithful and bear true allegiance to Her Majesty Queen Elizabeth, her heirs and successors, according to law.'')。」とする確約の宣誓も認められるようになった<ref name="前田(1976)191">[[#前田(1976)|前田(1976)]] p.191</ref><ref>[[#幡新(2013)|幡新(2013)]] p.175/185</ref>。|group=注釈}}。<br />''I... swear by Almighty God that I will be faithful and bear true allegiance to Her Majesty Queen Elizabeth, her heirs and successors, according to law. So help me God.''|{{仮リンク|忠誠宣誓 (イギリス)|label=忠誠宣誓|en|Oath of Allegiance (United Kingdom)}}(1868年宣誓法による)}}

== 貴族院の役職 ==
=== 貴族院議長 ===
[[File:Northbrook Granville Selbourne Salisbury Vanity Fair 5 July 1882.jpg|right|thumb|250px|貴族院で演説する保守党貴族院院内総務[[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ソールズベリー侯爵]]と自由党席からそれを聞く海軍大臣[[トーマス・ベアリング (初代ノースブルック伯爵)|ノースブルック伯爵]]と外務大臣[[グランヴィル・ルーソン=ゴア (第2代グランヴィル伯爵)|グランヴィル伯爵]]。議長席に座っているのが[[大法官]](貴族院議長)[[ラウンデル・パーマー (初代セルボーン伯爵)|セルボーン伯爵]](1882年7月5日の『[[バニティ・フェア (イギリスの雑誌)|バニティ・フェア]]』誌の挿絵)。]]
中世から2009年まで貴族院議長は[[大法官]] (Lord Chancellor) が務めた。大法官は605年まで遡る事ができると言われる最も歴史ある官職であるため、現在でも臣下の宮中序列では[[カンタベリー大主教]]に次ぐ第2位とされており、首相よりも上位者である<ref name="高野(2010)85">[[#高野(2010)|高野(2010)]] p.85</ref><ref name="神戸(2005)102-103">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.102-103</ref>。大法官は貴族院において議長と裁判長(貴族院は2009年まで最高裁判所であった)を務めつつ、内閣においては法務大臣的閣僚職を務める。つまり立法権と司法権の頂点に立ち、行政でも要職にあり、また裁判官の任免権も持っていたので[[司法行政]]権能もあった。そのため[[三権分立]]論者からは最大の批判の対象となってきた<ref name="神戸(2005)102-103">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.102-103</ref>。

2003年3月には[[欧州評議会]]がイギリス政府は大法官の権能を修正すべき旨の決議を行っている<ref>[[#高野(2010)|高野(2010)]] p.86</ref>。

これを受けて、2005年の[[2005年憲法改革法|憲法改革法]]によって大法官の地位も変更されることとなった。貴族院議長たる地位を失い、また2009年から連合王国最高裁判所が新設されるのに伴って司法機能も喪失した<ref name="高野(2010)84">[[#高野(2010)|高野(2010)]] p.84</ref><ref name="神戸(2005)380">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.380</ref>。

これ以降、[[貴族院議長 (イギリス)|貴族院議長]](Lord Speaker)は貴族院議員からの互選で選出されることになった<ref name="高野(2010)84" /><ref name="神戸(2005)380" />。最初の{{仮リンク|2006年イギリス貴族院議長選挙|label=貴族院議長選挙|en|Lord Speaker election, 2006}}は2006年に実施された<ref name="古賀(2010)16">[[#古賀(2010)|古賀・奥村・那須(2010)]] p.16</ref>。

貴族院議長の任期は5年であり、2期まで務めることができる<ref name="古賀(2010)17">[[#古賀(2010)|古賀・奥村・那須(2010)]] p.17</ref>。貴族院議長は党派的行動を取らないことが期待される<ref name="古賀(2010)17" />。貴族院議長は大法官以来の沿革で庶民院議長と異なり、院の秩序を保つ権利を有しない。その権利は院全体が有する(つまり貴族院の秩序や討議準則の維持は全出席議員の責任)<ref name="神戸(2005)103">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.103</ref><ref>[[#岡田(2014)|岡田(2014)]] p.146-147</ref>。<gallery widths="200" heights="120">
ファイル:Alex Chalk (Lord Chancellor 1.5) 2023.jpg|前・[[大法官]]{{仮リンク|アレックス・チョーク|en|Alex_Chalk}}。中世から2009年まで貴族院議長を兼ねた。 なお大法官は、序列第2位の[[国務大官]]である。
ファイル:Lord Chancellor's Procession (State Opening 2023).jpg|[[貴族院議長 (イギリス)|貴族院議長]]の招請を受けて、貴族院に登院する大法官。
ファイル:Baroness Evans of Bowes Park (51111527606).jpg|議場内の様子。貴族院議長([[ノーマン・ファウラー (ファウラー男爵)|ファウラー男爵]])が中央で{{仮リンク|ウールサック|en|Woolsack}}(赤いクッション席)に腰かけている。議長の後方には貴族院のメイスが置かれている。ウールサックは2009年まで大法官専用の席だった。 なお、議長の前方に、裁判官2名が法服貴族用のウールサックに腰かけているのも確認できる。
</gallery>

=== その他の役職 ===
*[[貴族院院内総務]](Leader of the House of Lords)
*:議員職であり、閣内大臣ポスト<ref name="神戸(2005)73">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.73</ref>。貴族院与党のトップ。
*[[儀仗衛士隊隊長]](Captain of the Honourable Corps of Gentlemen-at-Arms)
*:議員職。宮中職ポストだが、貴族院与党院内幹事長(Chief Whip)の立場の者が就任するのが慣例である<ref name="前田(1976)131">[[#前田(1976)|前田(1976)]] p.131</ref>。
*[[国王親衛隊隊長]](Captain of the Yeomen of the Guard)
*:議員職。宮中職ポストだが、貴族院与党院内副幹事長の立場の者が務めるのが慣例である<ref>[[#前田(1976)|前田(1976)]] p.131-132</ref>。
*{{仮リンク|侍従たる議員|en|Lord-in-Waiting}}(Lord-in-waiting)
*:議員職。宮中職ポストだが、貴族院与党院内幹事(Whip)の立場にある3人が務めるのが慣例である<ref name="前田(1976)132">[[#前田(1976)|前田(1976)]] p.132</ref>。
*[[黒杖官]](Black Rod)
*:非議員職であり、国王により任命される。庶民院における[[守衛官]]と同じ役割を果たし、院内の秩序維持、および議長の儀杖・メイスの護持の任にあたる<ref name="神戸(2005)99,104">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.99/104</ref>。
*{{仮リンク|議会事務総長|en|Clerk of the Parliaments}}(Clerk of the Parliaments)
*:非議員職であり、国王により任命される。貴族院事務局の責任者であり、貴族院の事務を統括する。また貴族院が法案を可決した旨の公証を出したり、両院間の文書を受諾・伝達したり、国王の裁可を得た法案を法律として公示するなどの業務も行う<ref name="前田(1976)200">[[#前田(1976)|前田(1976)]] p.200</ref>。議会から庶民院が分離する前の1315年から存在する役職である。庶民院にも同じ役職として{{仮リンク|庶民院事務総長|en|Clerk of the House of Commons}}が存在する(庶民院事務総長職は1363年に設置された)<ref name="神戸(2005)99,104" />。
<gallery widths="200" heights="120">
ファイル:Lord True (Cap of Maintenance) 2023.jpg|前・[[貴族院院内総務]]{{仮リンク|ニコラス・トゥルー (トゥルー男爵)|en|Nicholas_True,_Baron_True|label=トゥルー男爵ニコラス・トゥルー}}。 現在、王璽尚書を兼ね、議会用ローブを纏いつつ、議会開会式にて尚書の職権で{{仮リンク|国王儀式帽|en|Cap_of_maintenance|label=君主の制帽}}を掲げる。
File:Official_Portrait_of_Lord_Kennedy_of_Southwark,_2024.jpg|現在の[[儀仗衛士隊隊長]]の{{仮リンク|ロイ・ケネディ (サザークのケネディ男爵)|en|Roy_Kennedy,_Baron_Kennedy_of_Southwark|label=サザークのケネディ男爵ロイ・ケネディ}}。 貴族院与党院内幹事長(Chief Whip)が務める慣例。
File:Official_portrait_of_Baroness_Wheeler_crop_2,_2019.jpg|現在の[[国王親衛隊隊長]]の{{仮リンク|マーガレット・フィーラー (フィーラー男爵)|label=フィーラー女男爵マーガレット・フィーラー|en|Margaret_Wheeler,_Baroness_Wheeler}}。 貴族院与党院内副幹事長(Deputy Chief Whip)が務める慣例。
ファイル:Checking the cellars - 52063713654.jpg|議会開会時、君主に先立って議事堂内を検索中の衛兵。左が{{仮リンク|儀仗衛士隊|en|Honourable Corps of Gentlemen at Arms}}隊員、右が{{仮リンク|国王親衛隊|en|Yeomen of the Guard}}の隊列。
File:Official_portrait_of_Lord_Collins_of_Highbury_crop_2,_2019.jpg|現在の{{仮リンク|侍従たる議員|en|Lord-in-Waiting}}の一人([[レイ・コリンズ (ハイベリーのコリンズ男爵)|ハイベリーのコリンズ男爵レイ・コリンズ]])。 コリンズ卿を含め、3名の幹事(Whip)が務める。
File:Official_portrait_of_Lord_Ponsonby_of_Shulbrede_crop_2,_2019.jpg|侍従たる議員の第4代[[シュールブリードのポンソンビー男爵]]{{仮リンク|フレデリック・ポンソンビー (第4代シュールブリードのポンソンビー男爵)|en|Frederick_Ponsonby,_4th_Baron_Ponsonby_of_Shulbrede|label=フレデリック・ポンソンビー}}。
File:Official_portrait_of_Lord_Leong_crop_2.jpg|侍従たる議員の{{仮リンク|ソニー・レオン (レオン男爵)|en|Sonny_Leong,_Baron_Leong|label=レオン男爵ソニー・レオン}}。
ファイル:Sarah Clarke 2022.jpg|現役の[[黒杖官]]{{仮リンク|サラ・クラーク (黒杖官)|en|Sarah_Clarke_(Black_Rod)|label=サラ・クラーク}}。右手に職杖を持つ。
ファイル:Simon Burton 2014.jpg|現在の貴族院における{{仮リンク|議会事務総長|en|Clerk of the Parliaments}}{{仮リンク|サイモン・バートン|en|Simon_Burton_(parliamentary_official)}}。
</gallery>

== 貴族院の意義 ==
[[File:Leon Panetta given tour of the House of Lords (2).jpg|250px|thumb|貴族院議場。<br /><small>2013年1月18日、議長席を指差すアメリカ国防長官レオン・パネッタと案内役のイギリス軍事担当閣外大臣アンドリュー・ロバサン。</small>]]
貴族院の意義については以下のような指摘がなされている。

まず庶民院(政党政治)を抑制して、その暴走を阻止することである。ヘイルシャム男爵[[クィンティン・ホッグ]]は「選挙による独裁」(elective dictatorship)を阻止することが貴族院の役割と論じている。[[ジェームズ・ブライス]]も多数決は必ずしも国民の最善の意思を表すものではないため、多数決制度の欠点を補う意味で第二院が必要との認識を示している<ref>[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.226-227</ref>。

また庶民院を補完する役割も重要である。選挙のない貴族院は有権者の顔色をうかがう必要がないため、庶民院が指摘しにくい国民に不人気だが重要な視点などを指摘しうるし、庶民院議員が選挙区サービスに忙しいのに対し、貴族院議員は政治に専念できるのでより重厚な議論も期待できる。これについて[[ウォルター・バジョット]]は「理想的な庶民院が存在する場合には、貴族院は不必要であり、またそれゆえに有害でもある。しかし現実の庶民院を見ると、修正機能を持ち、また政治に専念する第二院を並置しておくことは必要不可欠とは言えないまでも、極めて有用である」と論じている<ref>[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.226-227/238</ref>。

[[ジョン・スチュアート・ミル]]も「一般国民を代表する民主的機関の欠陥は特別な訓練と知識である。その適切な是正策は特別な訓練と知識を持つ機関を民主的機関に対置することである。一方の院が国民の感情を代表するとすれば、他方の院は実際の公務の経験によってためされ、確証され、かつ実際の経験によって強化された個人的価値観の代表する。また一方が国民の院であるとすれば、他方は政治家の院である。言いかえれば、重要な政務または仕事の経験をしたことがある、あらゆる生気あふれる公人から成る評議会とすべきだ。そのような議院は単に抑制力というだけではなく推進力ともなろう」と論じている<ref name="前田(1976)119">[[#前田(1976)|前田(1976)]] p.119</ref>。

かつての世襲貴族ばかりの状況の中では貴族院が政治への専門性を有しているのか疑問視する声もあったが<ref name="前田(1976)64">[[#前田(1976)|前田(1976)]] p.64</ref>、一代貴族制導入後の貴族院は、各分野に高度な専門知識を有する議員を擁しているといって差し支えない状態である(各分野で活躍した者が一代貴族に任命されるので)<ref>[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.234/281-284/302</ref>。また1999年に世襲貴族(保守党が多い)の議席が制限されたことで[[クロスベンチャー|中立派(クロスベンチャー)]]と呼ばれる議員たちの比重が上がり、以降は特定の政党が支配的になっておらず、庶民院よりも政党政治に中立的である<ref name="幡新(2013)143-144" /><ref>[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.239/293</ref>。この「専門性」と「中立性」により、現在でも庶民院の補完者としての貴族院の存在価値は高いと言われている<ref>[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.302</ref>。

左派寄りとされる『[[ガーディアン]]』紙のコラムで貴族院完全公選化を訴えていたコラムニストのティモシー・アッシュも2010年に貴族院に対する考えを変えたとしたうえで「(1999年貴族院改革から)この10年間、まさに英国の皮肉というべきは、この非民主的で古めかしくて時代錯誤な組織が、選挙で選ばれた政府の大衆独裁的な傾向に抗する防波堤でもあったことだ。(略)上院の特別委員会はエキスパートとして法律案を精査し、しばしば改善を加えている。公表された報告書のいくつかは第一級のものだ。公共政策の議論にとび切りの貢献をしている貴族院議員ならすぐに何人も挙げることができる。そんななかで最も優れているのは、最も非民主的に選ばれた、無所属のクロスベンチャーたちなのだ。」と論じた<ref name="山田(2013)45">[[#山田(2013)|山田(2013)]] p.45</ref>。

「国民世論や党派対立から超越した衆愚に陥らない有識者集団」として、特に「憲法の番人」としての役割を果たすことが期待される。そのため貴族院から最高裁判所機能を取り除いた2005年の憲法改革法は、貴族院の憲法院としての権威を低下させる改革とする批判も一部に存在する<ref>[[#幡新(2013)|幡新(2013)]] p.144-146</ref>。

庶民院の修正の院として第二院を置くこと自体はイギリス社会に広く認知されており、[[一院制]]移行論は主流を為していない<ref>[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.229/299</ref>。一方で「民主的正当性」を重視する立場からは貴族院は批判される。世襲貴族はもちろんのこと、一代貴族も任命制であり、民意の委託を受けているわけではないためである<ref>[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.236-237</ref>。そのため第二院も公選制へ移行すべきとする議論があるが、「専門性」や「中立性」など貴族院の利点とされる要素を公選制のもとでも保てるのかが問題となる。どのぐらいの割合を公選制とするのか、どのような選挙制度にするのか、庶民院との差別化をどのように行うか、どのように政党化を抑止するのかなどに論点がある<ref name="田中(2009)299">[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.299</ref>。

イギリスには「壊れていない物を直すな」という格言があり、貴族院改革反対論者はこの格言をしばしば引用する。2012年のキャメロン政権の公選制導入の貴族院改革法案も反対が多く挫折した<ref name="山田(2013)45" />。

存在意義の具体例として、近年では[[イギリスの欧州連合離脱#2019年10月以後2020年1月までの推移|EU離脱法案]]を巡る審議が挙げられる。2020年1月に、貴族院は[[ボリス・ジョンソン|ジョンソン首相]]の意向に反して、離脱後も英国に住む[[欧州連合|EU]]出身者の在留資格や[[難民]]の子供の保護を保証する内容を含む修正案を可決した<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.reuters.com/article/britain-eu-lords-idJPKBN1ZJ2CU|title=英上院、EU離脱関連法巡り政権の意向に反する修正案可決|publisher=Reuters|accessdate=2020-04-18}}</ref>{{#tag:ref|ただ、この法案はその後下院で否決されたため、上院の抵抗は無駄に終わった。|group=注釈}}。

== 貴族院の現況 ==
=== 現在の役職 ===
2024年7月26日現在のイギリス貴族院の主な役職者は次の通り。
[[File:Lord_McFall_of_Alcluith_(Lord_Speaker_1.66)_2023.jpg|サムネイル|240x240ピクセル|現在の貴族院議長アルクリィースのマクフォール男爵[[ジョン・マクフォール (アルクリィースのマクフォール男爵)|ジョン・マクフォール]]。

伝統的な議長の制服を羽織る。]]
*[[貴族院議長 (イギリス)|貴族院議長]]:アルクリィースのマクフォール男爵[[ジョン・マクフォール (アルクリィースのマクフォール男爵)|ジョン・マクフォール]](2021年 -)({{仮リンク|無所属貴族院議員|label=無所属|en|Non-affiliated members of the House of Lords}})<ref>{{cite web |url=https://www.parliament.uk/business/news/2021/april/lord-speaker-election-result/ |publisher=[[Parliament of the United Kingdom|UK Parliament]] |title=Lord McFall of Alcluith is next Lord Speaker |date=21 April 2021 |accessdate=21 April 2021}}</ref>
*貴族院上級副議長:キンブルのガーディナー男爵{{仮リンク|ジョン・ガーディナー (キンブルのガーディナー男爵)|en|John_Gardiner,_Baron_Gardiner_of_Kimble|label=ジョン・ガーディナー}}(2021年 -)({{仮リンク|無所属貴族院議員|label=無所属|en|Non-affiliated members of the House of Lords}})<ref>{{cite web |url=https://lordsbusiness.parliament.uk/ItemOfBusiness?itemOfBusinessId=96456&sectionId=40&businessPaperDate=2021-05-11 |title=House of Lords: Senior Deputy Speaker |publisher=[[Parliament of the United Kingdom|UK Parliament]] |date=11 May 2021 |accessdate=12 May 2021}}</ref>
*貴族院院内総務:バジルドンのスミス女男爵[[アンジェラ・スミス (バジルドンのスミス女男爵)|アンジェラ・スミス]](2024年 - )([[労働党 (イギリス)|労働党]])<ref>https://www.parliament.uk/biographies/lords/baroness-smith-of-basildon/4170 ,2019年10月11日閲覧</ref>
*貴族院院内副総務:ハイベリーのコリンズ男爵[[レイ・コリンズ (ハイベリーのコリンズ男爵)|レイ・コリンズ]](2024年 - )(労働党)<ref>https://members.parliament.uk/member/4222/career</ref>
*影の内閣[[貴族院院内総務]]:ツルー男爵{{仮リンク|ニコラス・ツルー (ツルー男爵)|en|Nicholas_True,_Baron_True|label=ニコラス・ツルー}}(2024年 -)([[保守党 (イギリス)|保守党]])<ref>{{Cite web |title=Lord True CBE has been appointed Lord Privy Seal and Leader of the House of Lords |url=https://twitter.com/10downingstreet/status/1567232981852356609 |access-date=2022-09-06 |website=Twitter |language=en}}</ref>
*[[儀仗衛士隊隊長]]:サザークのケネディ男爵{{仮リンク|ロイ・ケネディ (サザークのケネディ男爵)|en|Roy_Kennedy,_Baron_Kennedy_of_Southwark|label=ロイ・ケネディ}}(2024年 - )(保守党)<ref>{{Cite web |url=https://members.parliament.uk/member/4311/career |title=Baroness Williams of Trafford |access-date=2022-11-14 |publisher=House of Lords}}</ref>
*[[国王親衛隊隊長]]:フィーラー女男爵{{仮リンク|マーガレット・フィーラー (フィーラー男爵)|label=マーガレット・フィーラー|en|Margaret_Wheeler,_Baroness_Wheeler}}(2024年 - )(保守党)<ref>https://www.parliament.uk/biographies/lords/earl-of-courtown/3359 ,2019年10月11日閲覧</ref>

=== 現在の党派別議席配分 ===
2024年7月時点でのイギリス貴族院の党派別議席配分状況は以下の通り<ref>https://www.parliament.uk/mps-lords-and-offices/lords/composition-of-the-lords/ ,2024年7月31日閲覧</ref>。
{|class="wikitable"
|-
! 党派名
! [[一代貴族]]
! [[世襲貴族]]
! [[聖職貴族]]
! 合計
|-
| style="text-align:center;"| [[保守党 (イギリス)|保守党]]
| style="text-align:center;"| 232
| style="text-align:center;" | 45
| style="text-align:center;" | –
| style="text-align:center;"| '''277'''
|-
| style="text-align:center;"| [[労働党 (イギリス)|労働党]]
| style="text-align:center;"| 181
| style="text-align:center;" | 4
| style="text-align:center;"| –
| style="text-align:center;"| '''185'''
|-
| style="text-align:center;"| [[自由民主党 (イギリス)|自由民主党]]
| style="text-align:center;"| 75
| style="text-align:center;" | 4
| style="text-align:center;"| –
| style="text-align:center;"| '''79'''
|-
| style="text-align:center;"| [[クロスベンチャー|中立派]]
| style="text-align:center;"| 150
| style="text-align:center;" | 33
| style="text-align:center;" | –
| style="text-align:center;"| '''183'''
|-
| style="text-align:center;"| [[聖職貴族]]
| style="text-align:center;"| –
| style="text-align:center;"| –
| style="text-align:center;"| 25
| style="text-align:center;" | '''25'''
|-
| style="text-align:center;"| その他
| style="text-align:center;"| 50
| style="text-align:center;" | 2
| style="text-align:center;" | –
| style="text-align:center;"| '''52'''
|-
| style="text-align:center;"| 議長
| style="text-align:center;"| 1
| style="text-align:center;" | 0
| style="text-align:center;" | –
| style="text-align:center;"| '''1'''
|- style="text-align:center;"
! '''合計'''
||'''675'''
||'''88'''
||'''25'''
||'''805'''
|}

一代貴族には定数がないため、貴族院議員数は日々変化する。現在の議席数は[http://www.parliament.uk/mps-lords-and-offices/lords/composition-of-the-lords/ 貴族院ウェブサイト上]で確認できる。世襲貴族と聖職貴族にはそれぞれ92議席、26議席の定数があるが、それに足りていない時は請暇議員や資格停止議員がいるか、直近に死亡・退任していて一時的に空席になっているかである。上記の場合だと世襲貴族議員の欠員1名は請暇議員であり、聖職貴族議員の欠員1名は主教退任で一時空席になっていることによる。一代貴族にも請暇議員35名と資格停止議員11名がおり、これらの者も全て合わせた2013年5月時点の全貴族院議員総数は811人であった<ref name="岡田(2014)91" />。

中立派と聖職貴族は会派として一つの組織になっているものの、所属議員に党議拘束をかけていない<ref name="岡田(2014)92" />。

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{reflist|20em}}

== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|editor=岡田信弘|editor-link=岡田信弘|date=2014年|title=二院制の比較研究: 英・仏・独・伊と日本の二院制|publisher=[[日本評論社]]|isbn=978-4535520202|ref=岡田(2014)}}
*{{Cite book|和書|author=海保眞夫|authorlink=海保眞夫|date=1999年|title=イギリスの大貴族|series= [[平凡社新書]]020|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4582850208|ref=海保(1999)}}
*{{Cite book|和書|author=加藤紘捷|authorlink=加藤紘捷|date=2002年|title=概説 イギリス憲法―由来・展開そして改革|publisher=[[勁草書房]]|isbn=978-4326402076|ref=加藤(2002)}}
*{{Cite book|和書|author=君塚直隆|authorlink=君塚直隆|date=2006年|title=パクス・ブリタニカのイギリス外交 パーマストンと会議外交の時代|publisher=[[有斐閣]]|isbn=978-4641173224|ref=君塚(2006)}}
*{{Cite book|和書|author1=古賀豪|authorlink1=古賀豪|author2=奥村牧人|authorlink2=奥村牧人|author3=那須俊貴|authorlink3=那須俊貴|year=2009|title=主要国の議会制度|url=http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/document/2010/200901b.pdf|format=PDF|publisher=[[国立国会図書館]]調査及び立法考査局|ref=古賀(2010)}}
*{{Cite book|和書|author=近藤申一|authorlink=近藤申一|date=1970年|title=イギリス議会政治史 上 |publisher=[[敬文堂]]|isbn=978-4767001715|ref=近藤(1970)上}}
*{{Cite book|和書|author=神戸史雄|authorlink=神戸史雄|date=2005年|title=イギリス憲法読本|publisher=[[丸善出版サービスセンター]]|isbn=978-4896301793|ref=神戸(2005)}}
*{{Cite journal|和書|author=[[高野敏樹]]|year=2010|title=イギリスにおける「憲法改革」と最高裁判所の創設 イギリスの憲法伝統とヨーロッパ法体系の相克|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8226552?tocOpened=1 |journal=上智短期大学紀要|naid=40018968579 |publisher=[[上智短期大学]]|ref=高野(2010)}}
*{{Cite journal|和書|author=田中嘉彦|year=2009|title=英国ブレア政権下の貴族院改革 : 第二院の構成と機能|url=https://doi.org/10.15057/17144 |volume=8 |issue=1 |pages=221-302 |journal=一橋法学 |publisher=一橋大学大学院法学研究科|ref=田中(2009)}}
*{{Cite book|和書|author=中村英勝|authorlink=中村英勝|date=1959年|title=イギリス議会史|publisher=[[有斐閣]]|asin=B000JASYVI|ref=中村(1959)}}
*{{Cite book|和書|author=幡新大実|authorlink=幡新大実|date=2013年|title=イギリス憲法1憲政|publisher=[[東信堂]]|isbn=978-4798901749|ref=幡新(2013)}}
*{{Cite book|和書|author=エリック・バーレント|authorlink=エリック・バーレント|translator=[[佐伯宣親]]|date=2004年|title=英国憲法入門|publisher=[[成文堂]]|isbn=978-4792303808|ref=バー(2004)}}
*{{Cite book|和書|author=前田英昭|authorlink=前田英昭|date=1976年|title=イギリスの上院改革|publisher=[[木鐸社]]|asin=B000J9IN6U|ref=前田(1976)}}
*{{Cite book|和書|author=山田邦夫|authorlink=山田邦夫|year=2013|title=英国貴族院改革の行方 ―頓挫した上院公選化法案―|url=https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8200260_po_074702.pdf?contentNo=1|format=PDF|publisher=[[国立国会図書館]]|ref=山田(2013)}}
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ジョン・マリオット|en|John Marriott (British politician)}}|date =1914年(大正3年)|title=英国の憲法政治|translator=[[占部百太郎]]|url={{NDLDC|980830}}|asin=B0098TWQW4|publisher=[[慶応義塾出版局]]|ref=マリ(1914)}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[イギリスの議会]]
{{イギリスの政治}}
* [[イギリスの議会]]
*[[庶民院]]
*[[キュア・レジス]]
* [[庶民院 (イギリス)|庶民院]]
* [[キュリア・レジス]]
*[[貴族代表議員]]
* [[貴族代表議員]]
*[[イギリス最高裁判所]]
*[[ソールズベリー・ドクトリン]]
* [[ソールズベリー・ドクトリン]]
* [[1999年貴族院改革後における世襲貴族在籍議員一覧]]
* [[2015年貴族院(除名及び停止)法]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commons category|House of Lords}}
* {{commonscat-inline|House of Lords|イギリスの貴族院}}
* [http://www.parliament.uk/lords/ UK Parliament - House of Lords](公式サイト){{en icon}}
* [http://www.parliament.uk/lords/ UK Parliament - House of Lords](公式サイト){{en icon}}


{{立法府の上院}}

<references /><!--{{イギリスの政治}}「執政府」節の脚注を表示-->

{{authority control}}
{{Good article}}


{{DEFAULTSORT:きそくいん いきりす}}
{{DEFAULTSORT:きそくいん いきりす}}
114行目: 442行目:
[[Category:上院]]
[[Category:上院]]
[[Category:かつて存在したイギリスの裁判所]]
[[Category:かつて存在したイギリスの裁判所]]
[[Category:14世紀設立]]
{{Link GA|zh}}
[[Category:ウェストミンスター・システム]]

2024年11月22日 (金) 21:10時点における最新版

イギリスの旗 イギリスの議会
貴族院
(きぞくいん)

House of Lords
紋章もしくはロゴ
種類
種類
沿革
設立14世紀前半
役職
アルクリィースのマクフォール男爵
ジョン・マクフォール無所属英語版)、
2021年5月1日より現職
上級副議長
キンブルのガーディナー男爵
ジョン・ガーディナー英語版無所属英語版)、
2021年5月11日より現職
バジルドンのスミス女男爵
アンジェラ・スミス労働党)、
2024年7月5日より現職
影の院内総務
ツルー男爵ニコラス・ツルー英語版保守党)、
2024年7月5日より現職
構成
定数790[1][注釈 1]
院内勢力
議長
  議長 (1)
聖職貴族
  主教 (25)
世俗貴族
国王陛下の政府
  労働党 (177)
国王陛下の野党
  保守党(273)
その他の野党
  緑の党 (2)
  無所属英語版 (38)
中立派
(2024年5月24日時点)
任期
終身
歳費・報酬無報酬であるが、非課税の日当と経費が支払われる。
選挙
非公選
選挙区改正Boundary Commissions
議事堂
イギリスの旗 イギリスロンドン
ウェストミンスター宮殿
ウェブサイト
UK Parliament - House of Lords

貴族院(きぞくいん、英語: House of Lords、略称:the Lords)は、イギリスの議会を構成する議院のひとつで、上院に相当する。

中世にイングランド議会から庶民院が分離したことで成立した。貴族によって構成される本院は、庶民院と異なり非公選かつ聖職貴族を除き終身任期制である。議会法制定以降は、立法機関としての権能は庶民院に劣後する。1999年以降は世襲貴族の議席が制限されており、一代貴族が議員の大半を占めている。かつては最高裁判所としての権能も有していたが、2009年に連合王国最高裁判所が新設されたことでその権能は喪失した。

歴史

[編集]

貴族院の成立

[編集]
議会が庶民院と貴族院に分離する前の13世紀にプランタジネット朝イングランド王エドワード1世が召集した議会を描いた絵画。

イギリスの統治機関の多くは1066年のノルマン・コンクエスト後に創設されたイングランド王封建的臣下である直属受封者英語版(貴族)によって構成される国王諮問機関キュリア・レジス(国王裁判所の意[注釈 2])から分化したものである[3][4]。イギリスの議会であるパーラメント(Parliament of England)もその一つである。ジョン王が1215年に発布したマグナ・カルタ12条は国王はキュリア・レジスの大会議である全般諮問会議(commune consilium、パーラメントはこれの特定の会合として発足)の同意なく、課税してはならない旨を定めている[5]

パーラメントも初期には直属受封者のみで構成されていたが[5]、12世紀から13世紀にかけて陪審員制度の確立(代議制への萌芽)、地方自治体の発展に伴う封建勢力の後退、騎士や市民などの中流階級の勃興、国王と貴族の対立などが起こり[6]、そのような背景から13世紀にイングランド王はパーラメントに州や都市の代表を加えるようになった。これによってパーラメントは代議制議会の性格を有するようになった[7]

パーラメント(以降議会)が庶民院と貴族院に分離したのは、14世紀前期から中期頃と見られている。州代表の騎士と都市代表の市民が議会から分離して庶民院の実質を形成し、また下級聖職者が議会を去ったことで、議会残存部分(高位聖職者[注釈 3]、伯爵、男爵[注釈 4])が貴族院の実質を持つようになったのである[10][11]。14世紀末頃までには庶民院の構成はかなり明確となり、それに伴って貴族院も明瞭になっていった[12]

フランス旧領地を回復する戦費調達のためにイングランド王は、円滑な税の徴収を欲しており、それには議会の了解を得ることが必要であった。そのため国王は議会への譲歩を進め、その譲歩の一つが制定法だった。14世紀末までには両院は立法協賛権を課税協賛権と同様に慣例として確立した[13][14]

両院の力関係でいえば、もともとは貴族院の方が圧倒的に強く、庶民院はその副次的存在として「請願者(Petitioners)」に過ぎなかった[15][16]。しかし封建貢納が金銭化などで形骸化すると庶民院は納税者集会の性格を強めていき、国王も無視することができない存在に成長した。ランカスター朝ヘンリー4世の時代の1407年には税の問題については庶民院で先議することが決定され[17][18]、続くヘンリー5世の時代の1414年には法制定権上の庶民院と貴族院の同格性が確認されている[19]

議会の中心母体の一つに高級裁判所パーラメントがあったので、議会は当初より司法機能を有したが、その機能は庶民院より貴族院の方が強かった。特に14世紀末に庶民院が弾劾権(国王の大臣を貴族院に告発する権利)を確立するに及んで、司法権は貴族院にあり、庶民院にないことが明確化した。以降貴族院は、庶民院に弾劾された貴族・庶民を裁判する権利、重罪で告発された貴族を裁判する権利、そして下級裁判所の判決を覆すことができる最高裁判所としての権能を有するようになった[20]

初期のイングランド議会における貴族とは、直属受封者のうち、国王から直接に議会召集令状(writ of summons)を出され、それによって貴族領と認定された所領を所有する者のことであった。しかし14世紀末頃から国王が勅許状で貴族称号を与えて新貴族創家を行うようになり、それ以降は貴族領の有無に関わりなく、貴族称号を持って議会に議席を有する者が貴族と看做されるようになった[21][22]

1502年の公式文書から、貴族院を構成する高位聖職者と爵位保有者を指して「聖職貴族及び世俗貴族(Lords Spiritual and Temporal)」と呼ぶようになった。また貴族院(House of Lords)という呼び方もこの頃から使用されるようになり、1510年から『貴族院日誌(House of Lords journals)』の印刷が開始されている[12][23]

庶民院に対する劣後

[編集]
18世紀初頭の貴族院を描いた絵画(ピーター・ティルマンズ画、ロイヤル・コレクション

15世紀中期の薔薇戦争は、封建貴族を没落させ、新興中産階級を台頭させた。テューダー朝期には貴族は「王室の藩屏」と化し、独立性を失った。一方新興中産階級は次々と庶民院に出てきてテューダー朝の王権と協力関係を築き、教会を追い落とすことを狙って宗教改革を推進した[24]。この宗教改革で聖職貴族も発言力を低下させ、貴族院の力は低下した[25]。このような状況からテューダー朝期の議会は「従順議会(Docile Parliament)」とも呼ばれるが、議会が中世から獲得してきた諸権利が失われたわけではなく、庶民院の影響力はこの時期にどんどん増した[26]

ステュアート朝期の17世紀前期までには庶民院はあらゆる王権(行政権)に介入するようになり、国王と庶民院の対立が深刻化した[27]。17世紀半ばにピューリタン革命が発生し、王政は廃されて共和政が樹立された。この際に「王室の藩屏」たる貴族院も廃止され、一院制になった[28][注釈 5]。1660年には王政復古があり、貴族院も復古したが、これは絶対王政の復古を意味するものではなく、国王は再び革命が起こらないよう腐心せざるを得なくなり、したがってますます議会に逆らうのが困難となっていった[30]

1689年の名誉革命によって権利章典が議会で制定された。これにより王権は大幅に制限され、議会権力の王権に対する優位が確立された[31]。これ以降、庶民院における信任を背景に政府が成立するという議院内閣制(政党内閣制)が発展していく[32]。そのため政治の実権は庶民院が掌握するところとなり、貴族院の影は薄くなっていった。庶民院から支持を得ているが、貴族院で多数を得ていないという政府は、しばしば国王大権の貴族創家で貴族院を抑え込むようになった[33][注釈 6]

1707年にイングランドとスコットランドが合同してグレートブリテン王国が成立すると、スコットランド貴族のうち互選された16人が貴族代表議員としてイギリス貴族院に議席を置くことになった。また1801年にアイルランドと合同した際にもアイルランド貴族のうち28人が貴族代表議員としてイギリス貴族院に議席を有することになった[35]

1911年、議会法案の貴族院通過を描いた絵画

18世紀末頃から大量の叙爵が行われるようになり、貴族院議員数が急増した。その結果、貴族院はこれまでの「比較的少数の国王の世襲的助言者」という立場から「特権階級の既得権擁護機関」と化し始めた。19世紀から20世紀初頭にかけての貴族院は、保守党が政権にある時は協調し、自由党が政権に就くとその改革の妨害にあたることが多かった。その結果、自由党支持層に貴族院改革の機運が高まり、自由党政権期の1911年に議会法が制定された。これにより貴族院は財政法案に関する否決・修正権限を失い、またそれ以外の法案についても庶民院において3回可決された場合は否決しても無意味となった(庶民院の優越)[36]。ただしこの段階では貴族院は庶民院で通過された法案を2年も引き延ばすことが可能だった[37]

なお20世紀以降は貴族院議員が首相になることは憲法慣習として避けられるようになった。最後の貴族院議員の首相は1902年7月まで首相を務めた第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルである[38][39]。ただしこの憲法慣習は首相を任命する国王を拘束するものではなく、1963年10月には第14代ヒューム伯爵アレグザンダー・ダグラス=ヒュームが任命されている。この時にはヒューム自身が憲法慣習を守るためにただちに爵位を返上して補欠選挙に出馬し、庶民院議員へ鞍替えしている[39][注釈 7]

現代の貴族院改革

[編集]
1997年から2007年にかけて首相を務めたトニー・ブレア。1999年の貴族院法で世襲貴族の議席を大幅制限し、2005年の憲法改革法で貴族院の最高裁判所機能を除去する貴族院改革を実施した。

1945年に成立した労働党政権は、保守党が多数を占める貴族院が議会法に基づく停止的拒否権を行使することを懸念した。これに対して保守党貴族院院内総務クランボーン子爵(後の第5代ソールズベリー侯爵)ロバート・ガスコイン=セシルは、「庶民院総選挙で明確にマニフェスト(政権公約)として掲げられ、有権者の信任を得た法案について、貴族院は否決したり大幅修正してはならない」とするソールズベリー・ドクトリンを表明した[41][42]

1949年には議会法の改正があり、貴族院が庶民院で可決された法案の成立を引きのばせる期間はこれまでの2年から1年に短縮された[37]

1958年には保守党首相ハロルド・マクミランにより一代貴族法が制定され、男女問わず一代に限り貴族院議員に登用できるようになった。これにより貴族院の党派議席配分の変更や幅広い人材登用がやりやすくなった[43]。この後、労働党は世襲貴族の新設を行わない旨を宣言し、保守党もそれに倣うと見られていたが、1983年には保守党首相マーガレット・サッチャーが、その慣例を破ってウィリアム・ホワイトローを世襲貴族ホワイトロー子爵に推薦して話題となった[44]

貴族院の一代貴族の占める割合は増加の一途をたどり、貴族院改革前夜の1998年2月の時点では世襲貴族は貴族院の59%(759名)にまで減少していた(対する一代貴族は484名)[45]

1963年の貴族法で世襲貴族は世襲事由が生じた時から1年以内であれば自分1代についてのみ爵位を放棄し、平民になるという選択(=貴族院議員にならないので庶民院の選挙権・被選挙権を得る)ができるようになった。また、それまで貴族院議員になれなかった女性世襲貴族とスコットランド貴族も貴族院議員に列することになった[43]

1999年にはブレア政権によって貴族院法が制定され、世襲貴族の議席は92議席を残して削除された。以降の貴族院は一代貴族が中心となっている[46]。そのためこれ以降の貴族院は身分制議会というより任命制議会に近くなっている[47]。また世襲貴族の多くが去ったことで貴族院の半永久的な保守党多数状態は終わり、以降の貴族院の勢力図は保革伯仲化し、中立派(クロスベンチャー)が重要な存在となった(貴族院の中立性)[48]。中立派の一代貴族は退職公務員、学者、経済人、作家、労働組合幹部、芸術・科学の第一人者などから貴族院任命委員会英語版が推薦して叙爵するのが一般的であるため、優れた専門性を有しているとされる(貴族院の専門性)[49]

ブレア政権が2005年に制定した憲法改革法により2009年から連合王国最高裁判所(Supreme Court of the United Kingdom)が新設され、貴族院は中世以来保持してきた最高裁判所としての権能を失った[50]

2007年3月7日に議会で貴族院の構成に関する自由投票が行われ、庶民院では全員選挙制、および80%選挙・20%任命制の意見が可決されている(貴族院では全員任命制が可決される)[51]。2010年の庶民院総選挙でも保守党・労働党・自民党の主要三政党がいずれも貴族院改革に前向きな姿勢を示した。この選挙後に成立したキャメロン保守党・自民党連立政権は2012年6月に貴族院公選制導入の法案[注釈 8]を議会に提出したが、与党から多数の造反者が出たため、法案は撤回され、2015年イギリス総選挙後まで棚上げされることになり[52]、選挙後も再提出は行われていない。

その後は2014年貴族院改革法英語版2015年貴族院(除名及び停止)法などの小規模な改革が行われている。

2024年庶民院総選挙に勝利した、労働党のスターマー政権は、9月5日、世襲貴族議員の全廃法案を提出した。法案は可決の見通しで、開院以来存在した世襲貴族議員は全く姿を消すことになる[53][54]

議員構成

[編集]

世襲貴族

[編集]


貴族院議場の様子。赤い議会用ローブを纏った議員でひしめく。左が現在の風景(2023年)、右が19世紀初頭の議場を描いた絵画。

1999年の貴族院改革以前には世襲貴族は原則として全員が貴族院に議席を有していた[注釈 9]。そのため20世紀に爵位が乱発された際には議員数が1000人を超えたこともあった[55]。貴族院は長年にわたって世襲貴族を中心にして構成されてきた(ただし欠席者が多かった[56])。1958年に一代貴族制度が導入された後も1999年に至るまで世襲貴族が貴族院の多数を占めていた[57]

しかし1999年のトニー・ブレア政権の貴族院改革によって、世襲貴族の議席は世襲貴族議員の互選で選ばれた90名(当時の貴族院の党派に応じて案分された75名と院内役職にあった15名)に紋章院総裁[注釈 10]を世襲するノーフォーク公爵家式部卿[注釈 11]を世襲で主に担うチャムリー侯爵家を加えた92議席に限定され、ほとんどの世襲貴族が議席を失った[60][61]。以降、貴族院に議席を持つ世襲貴族は「例外貴族(excepted peers)」と呼ばれている[61]

世襲貴族議員の任期は終身である。世襲貴族の議席に定数が設けられている現在では、ある世襲貴族議員が死去すると、世襲貴族議員の互選で世襲貴族の中から新しい議員を選出することになっている[61]

かつては女性世襲貴族[注釈 12]は貴族院議員になれなかったが、1963年貴族法で女性世襲貴族にも貴族院議員となる道が開かれた。また同法により世襲貴族は、爵位継承から一年以内であれば自分一代について爵位を放棄して平民になることが可能となった。これは貴族院議員たる貴族が庶民院の選挙権および庶民院議員資格を有さないことへの救済処置であった[43]。ただし、貴族院議員でない貴族は、爵位を放棄せずとも庶民院議員選挙権および庶民院議員資格を有する。1999年の貴族院改革後は大半の世襲貴族が貴族院議員でなくなっており、彼らはこれに該当する(これ以前は「貴族院議員ではない貴族」に該当するのはアイルランド貴族だけだった)[62][63]。貴族院改革後も世襲貴族が爵位一代放棄を行う権利は失われていないが、貴族院議員たる貴族(「例外貴族」)は爵位一代放棄を行うことができなくなった[64]

世襲貴族は創設時に応じてイングランド貴族スコットランド貴族グレートブリテン貴族連合王国貴族に分かれており[56]、また公爵(Duke)、侯爵(Marquess)、伯爵(Earl)、子爵(Viscount)、男爵(Baron)の5等級から成るが、貴族院での活動においてこれらの区別に重要性はない[45]

世襲貴族創家の権限は現在でも国王大権に属するが、立憲主義の慣例に基づいて、首相の助言によるべきと考えられている[56]。もっとも王族以外への世襲貴族創家は、1984年に元首相ハロルド・マクミランストックトン伯爵に叙されたのを最後に途絶えており、現在では臣民が新規に世襲貴族に叙される可能性は低い[44]

非民主性が最も強い上、かつ中立性や専門性を有しているわけでもないことから、貴族院改革論において擁護することが最も困難な存在になっている[65]

一代貴族

[編集]

一代貴族(Life Peer)の先例は古くは14世紀から見られるが[66]、現在のイギリスの一代貴族制度は1958年の一代貴族法に基づくものである。一代貴族は爵位を世襲できないが、終身で貴族院議員となる[67]。彼らには爵位の等級はなく、全員が男爵である[61]

1999年の貴族院改革により、世襲貴族の議席は大幅に減り、一代貴族が大多数となった[46]。これにより貴族院は「もっぱら先祖の活躍と地位のみに基づく」世襲貴族中心の議院から本人の実績や経験に基づく一代貴族が中心の議院へと転換された[68]

一代貴族は、首相の助言に基づく国王の勅許状によって叙爵される。首相による人選は首相独自の判断による場合もあれば、政府から独立した貴族院任命委員会英語版の推薦に基づく場合もある[61][69]。叙爵されるのは主に政界・官界・軍・司法界などで活躍した者であり、男女問わないが[61]、叙爵に明確な基準があるわけではないため、首相の裁量権が大きくなりがちである[70]。2014年現在のところ確立されている首相裁量権を制限する習律としては「政党政治的叙爵に際して首相は自らが所属する政党だけではなく、他の党の人間も叙爵しなければならない」ことと「クロスベンチャー議員(中立派議員 各分野の専門家が多い)の叙爵は首相の直接指名ではなく貴族院任命委員会の指名に依らなければならない」ことの2つがある[69]。貴族院任命委員会は2000年に設立され、求人のような透明・厳格な過程でもって指名を公募し、また政党政治的指名に際してもその人物の「適格性」を評価する機能を持つ(ただしこの「適格性」評価はその人物が立派な人間であることを保証するためのものであり、議員資格に照らした適格性や任命数の統制などはこの機関では検討しない)[71]

一代貴族の授爵は首相退任時(退任する首相が次の首相に叙爵候補リストを残す)と総選挙時(引退を表明した庶民院議員たちを叙する)に行われることが多い。2010年の政権交代時には退任するブラウン労働党政権が通例を大きく超える32名の叙爵リスト(多くは労働党系 後任のキャメロンはうち29名の叙爵を女王に助言した)を残したため、「前回総選挙で各党が獲得した得票率を反映させる」ことを連立政権プログラムに掲げるキャメロン保守党・自民党連立政権としては、バランスをとるために与党系も大量に叙爵せざるをえなくなり、結果キャメロンの首相就任から1年以内に117人も一代貴族に叙され、2011年4月には一代貴族総数が792人に達した。現行制度だとこうした首相の「授爵合戦」が行われた場合に一代貴族が急増することが懸念されており、首相の裁量権を抑制する改革の必要性も唱えられている[70][72]

法服貴族

[編集]
法服と鬘をまとう裁判官キルオーウェンのラッセル男爵英語版

イギリスでは中世から2009年まで貴族院が最高裁判所機能を有した。近代になると法曹の貴族院議員が必要との認識が高まり、1876年に上訴管轄権法が制定され、常任上訴貴族(法服貴族、Lords of Appeal in Ordinary)という一代貴族が置かれるようになった[73]。一代貴族としてはこれが最初の制度である[45]。略称で法服貴族(Law Lords)と呼ぶ[74]。爵位は男爵である[61][75]。法服貴族設置後はそれ以外の貴族院議員は貴族院の司法的機能に関与してはならないとの憲法慣習ができた[74]

この貴族は当初4人までとされていたが、その後、上訴管轄権法改正で徐々に増やされていき(1913年に6名、1929年に7名、1947年に9名)、1968年裁判法英語版で11名に増員され、さらに1994年の裁判官定数令(Maximum Number of Judges Order)で12名になった[75]。12人のうち2人はスコットランド高等法院英語版出身者にするのが慣例だった[61]。かつて裁判官は終身だったが、後に70歳の定年制が設けられた。しかし裁判官としての定年を迎えても一代貴族であることに変わりはないので貴族院議員としては終身である[61]

2005年の憲法改革法により2009年から連合王国最高裁判所(Supreme Court of the United Kingdom)が新設され、貴族院から最高裁判所機能が失われたのに伴い、今後新たに常任上訴貴族が任命されることは無くなった[75]

憲法改革法の規定により最初の最高裁判所裁判官12人は常任上訴貴族が横滑りすることになり、彼らはその間貴族院登院を停止されることになった[76][77][注釈 13]。ただし常任上訴貴族が一代貴族であることは変わらないので、最高裁判所裁判官を辞すれば貴族院議員の地位が復活する[78]。最高裁判所裁判官に転じた常任上訴貴族のうち2010年9月30日に最初に退任したニューディゲイトのサヴィル男爵マーク・サヴィル英語版は、停止されていた貴族院登院を回復され、以降も退任によって同様に回復された。

聖職貴族

[編集]
議場にて故・エディンバラ公の追悼演説を行う聖職貴族(カンタベリー大主教ジャスティン・ウェルビー)。

国教会の高位聖職者であるカンタベリー大主教ヨーク大主教ロンドン主教英語版ダラム主教英語版ウィンチェスター主教英語版の5人と、そのほかの教区主教[注釈 14]のうち21名をあわせた計26名は聖職貴族(Lords Spiritual)として貴族院に議席を保有する。なお、聖職貴族以外の貴族院議員(世襲貴族・一代貴族・常任上訴貴族)は聖職貴族に対して世俗貴族(Lords Temporal)と呼ばれる。

高位聖職者5人以外の議席は、貴族院議員たる教区主教の死亡・退任によって先任順に次の教区主教が貴族院議員となる[79]。ただし、2014年に女性の主教就任が認められると2015年聖職貴族(女性)法が制定され、2015年から10年間は女性主教が優先的に貴族院議員となることが定められた。

聖職貴族の議席は聖職者個人ではなくその主教位によるため、彼らは主教に留まっている間のみ貴族院議員であり、主教を辞すと貴族院議員たる地位も失う。また、主教位が変わった時にはその都度貴族院に紹介されて宣誓することになる。例えばカンタベリー大主教ジャスティン・ウェルビーは、2012年にダラム主教として[80]、2013年にカンタベリー大主教として[81]、それぞれ貴族院に紹介され、宣誓している。主教には70歳の定年が設けられているので、それまでには辞職することになるが[56]、カンタベリー大主教とヨーク大主教のみは大主教を退いた後に一代貴族に列するのが例となっている[45]

聖職貴族は院内で一つに固まって独自会派を形成しているが、中立派(クロスベンチャー)と同様に特定の政策に対して党議拘束を行っていない[82]

貴族院議員たる国教会聖職者は庶民院議員資格を有さないが、貴族院議員でない国教会聖職者は2001年[注釈 15]から庶民院議員資格を有する[84]

聖職貴族は世俗貴族(世襲貴族・一代貴族)が急増した近現代においては貴族院の少数勢力に過ぎないが、中世の頃には世襲貴族の数が少なかったために貴族院の半分以上を占めている時期もあった[85]。たとえばヘンリー8世即位時(1509年)の貴族院は世襲貴族36人と聖職貴族48人で構成されていた[86]。現行の26人という聖職貴族の議員数は1878年主教職法(Bishoprics Act 1878)の定めによる[79]

運営

[編集]

法案審議手続き

[編集]
貴族院議場にある国王の玉座。
2013年1月18日、訪英中のアメリカ合衆国国防長官レオン・パネッタの貴族院見学を案内するイギリス軍事担当閣外大臣英語版アンドリュー・ロバサン英語版

財政法案(Finance act)については庶民院が先議権を有する[87]。また議会法の規定に基づき、財政法案の中でも歳入・歳出のみに関する金銭法案(Money Bill)については貴族院は1か月の遅延権を有するのみで一切修正することができない[88][89]。非財政法案は庶民院・貴族院どちらから先議しても構わない[87]。法案が財政法案に当たるかどうか判断する権限は議会法の規定により庶民院議長にある[90]。論争的でない法案は貴族院で先議されることが多く、政府提出法案の約3分の1は貴族院で先議されている[91]。法案審議の方法は貴族院も庶民院も大きな差異はないが、庶民院で先議していた場合は貴族院での審議は比較的簡潔に行われる[92]

実際に法案を議会に提出する前に政府は法案骨子をグリーン・ペーパー英語版として公開する。またそれに対する各方面からの意見を考慮ないし反論して政策意図を世に問うホワイト・ペーパー(白書)を公開する。イギリスでは法案を議会に提出した後に法案やその審議を批判することは議会侮辱に相当する可能性があるため、このように法案提出前に法案の詳細を公開することで国民やマスコミの批評を受け付ける。またこの段階から議会での討論も受けるので、国民・マスコミからの批評に政府がいかに答えるかが議会内での与野党討論・修正動議提出に影響を与える[93]

このやりとりを経て法案は庶民院もしくは貴族院に提出される。貴族院では、大法官(2005年まで。以降は、貴族院議員が就任した場合で以下の役を兼務していない場合)・貴族院院内総務名誉帯剣紳士隊長(貴族院与党院内幹事長)・国王警護ヨーマン隊長(貴族院与党院内副幹事長)・侍従たる議員英語版(貴族院与党院内幹事)などに任命された与党貴族院議員たちが法案可決のための院内交渉に当たる[92]

貴族院は庶民院と同様に本会議中心主義(読会制)で運営されている。第一読会は形式的なやり取りだけで終わり、法案はただちに第二読会へ送付される。第二読会は法案の概要や目的について討議し、「第二読会を終了する」との動議が可決されると委員会へ送付される。委員会では法案の内容に応じて常任委員会、全院委員会、特別常任委員会のいずれかに送付され、そこで討議されて修正を受ける。貴族院では大抵の場合、全院委員会に送付されている(貴族院議員は登院者がそれほど多くないので全院委員会で行っても弊害が少ない)。なお全院委員会以外で修正された法案は本会議に報告され、本会議の再考慮を仰ぐ。委員会に出席しなかった議員に発言の機会を与えるためである(全院委員会の場合はこの段階は省略)。続いて第三読会にかけられる。庶民院における第三読会は形式的なものだが、貴族院ではここでも修正討論が行われる。「第三読会を終了する」との動議が可決されると法案はその院を通過する[94]

ほとんどの場合、法案は庶民院においても貴族院においても修正を受ける。庶民院では政治的な観点での修正が主だが、貴族院では字句の整合性・法理的整合性の観点からの修正が主である。そのため貴族院での修正討論は細部にまでわたることが多い。貴族院は政治的な修正はほとんどしないので庶民院に送付されても賛成を得られるのが通常である。庶民院が貴族院の修正を否決した場合は庶民院は貴族院に否決理由を述べて再審議を要求するが、それでも両院が合意できなければ議会法に基づく処置がなされる[92]。ただし現実には議会法の定めが利用されることはほとんどなく、庶民院が貴族院の修正を否決して貴族院に戻した場合は、貴族院はそれに賛成して対決を避けるのが一般的である[95]

貴族院での表決方法には発声表決と分列表決が取られている。発声表決とは貴族院議長の呼びかけに対して議員たちが「Content(賛成)」「Not Content(反対)」と声を上げ、議長が声の大きい方を可決させる表決方法である。その議長判断に対して異議が出された場合は分列表決が行われる。これは賛否に応じて二列に分かれた議員たちが議場の左右に存在する賛成者用廊下と反対者用廊下を通過して別々の入口から再度貴族院議場に入場し、その際に計算係(tellers)が数を数えてその人数の大小で表決する方法である[96]

かつての最高裁判所機能について

[編集]
連合王国最高裁判所

2009年まで保持された貴族院の上訴裁判権は、14世紀中に確立されたものである[97]

貴族院の上訴管轄権は古くはイングランド王国内の裁判所(とりわけ王座裁判所)の上訴に限られていたが、ウェールズやアイルランドの属領化でこれらの地域の裁判所の上訴案件も扱うようになり、さらに1707年のスコットランド統合でスコットランド高等法院英語版からの上訴案件も扱うようになった(ただしスコットランド高等法院の上訴は民事のみだった)。アイルランドの上訴管轄権は、1783年に一時アイルランド貴族院へ移管されたものの、1800年のアイルランド統合で結局イギリス貴族院へ戻っている[98]

上訴裁判権は貴族院の一部ではなく、貴族院全体に属するのが原則であるが、1844年の判例以降、上訴案件を扱う時の貴族院の審議は法律に明るい貴族院議員のみで行う慣例ができた。しかしそうそう法律に明るい貴族院議員がいるわけではないので、1876年には上訴管轄権法が制定され、司法官僚が法服貴族(一代貴族)として貴族院議員に登用されるようになった[97]

1948年まで上訴案件の審議は、貴族院全体が上訴案件を裁くという形式を重んじて貴族院本会議場で行われていた。しかし戦時中に庶民院本会議場が空襲で焼失し、貴族院本会議場が庶民院の仮議場として使われるようになったのを機に上訴案件審議は委員会室で行われるようになり、1948年5月にはこれを常態化させる形で委員会室を使う事が定められた(「上訴委員会(Appellate Committee)」と呼ばれる)。1960年代には第二上訴委員会も設置され、同時並行で二案件を審議できるようになった。上訴委員会は通常5人の法服貴族(難しい問題では7人)で法廷を構成した。ただし上訴委員会で判決を下すことはできず、上訴委員会は報告を本会議に送り、本会議での採決によって判決が下された[98]

しかし上院が最高裁判所機能を有するというのは、近代立憲主義の憲法原則とされる権力分立の観点からは問題視され、ヨーロッパ人権条約(第6条で「法律にもとづいて設置された裁判所において独立した公平な裁判を受ける権利が保障される」べきことを要請)をはじめとするEU法体系にも抵触する可能性が高かった。そのためトニー・ブレア政権は2005年に憲法改革法を制定。これに基づいて2009年10月1日をもって貴族院の最高裁判所権能は連合王国最高裁判所に移行することとなった[99]

行政権との関係

[編集]

慣習により現在のイギリス政府は庶民院の信任を背景に成立しているが、貴族院の信任を受ける必要はないと考えられている。20世紀を通じて労働党政権時も貴族院は常に保守党によって多数を握られていたし、1999年貴族院改革以降の貴族院はどこの党も多数派になっていないためである[100]

また非公選制議会たる貴族院が問責動議を可決させるべきではないというのは貴族院内で広く認識されており、20世紀中に貴族院で問責動議が可決されたことはない[100]。同様に内閣不信任決議を行った事もない。1993年に貴族院から内閣不信任動議が出されたことはあるものの、可決に至っていない。万が一可決された場合どうなるかは分からない。貴族院の内閣不信任は首相に辞任を強制する力はないかもしれないが、1世紀以上可決された事例がないので不明である[101]

19世紀までさかのぼると1864年7月に庶民院・貴族院両方で行われた第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル内閣に対する不信任動議採決で、庶民院では否決、貴族院では可決という結果が出たが、パーマストン卿は庶民院の採決の方が重いとして総辞職を拒否した事例が存在する[102]

貴族院及び貴族院議員の特権・待遇・条件など

[編集]

特権

[編集]

歴史的に貴族院は王権と対立することが少なかったので、貴族院議員には議員特権意識は薄いが、院の自律権と貴族固有の権利として以下のような特権を保持している[103]

  • 貴族とその従者は不可侵権(不逮捕特権)が認められている。1700年と1703年の慣習及び制定法を根拠とする。近時の例では1963年に裁判所命令違反と裁判所侮辱で民事逮捕されそうになった貴族が貴族不可侵権を主張して逮捕を免れた例(ストートン男爵事件)が存在する[104]。ただし、1989年に金銭未払にかかる裁判所命令違反により逮捕寸前となった貴族については「(貴族院議員のマンクロフト男爵は本件について)議員不逮捕特権の保護を受けない」との裁判所判断がなされており[104][105]、一貫的ではない。(バークレイズ 対 マンクロフト卿事件)また、刑事事件の逮捕に対しては不可侵権を主張できない。この場合は会期中であっても逮捕される(庶民院議員も同様)[106]
  • かつては慣習上の貴族の特権として、一般刑事犯罪のうち、国事犯罪、重罪、不法投獄罪に問われている場合は、裁判所ではなく貴族院で裁かれた。その最後の例は1935年の殺人事件である。しかし1948年の刑法で貴族も一般裁判所で裁かれることになった[106]
  • 貴族院も庶民院も院内における言論の自由を有する。これは14世紀末以来の慣例であり、1689年の権利章典9項において明文化されたことで確固たる物となった[107]。具体的には両院の議員が議会内で行った言論・審議について議会外で責任を問われない権利(院内で違法な言論を行ったとしても刑事訴追も民事訴追もされない。ただし議会から懲罰はされうる[108])、審議を非公開にする権利、審議の模様を伝える情報手段を統制する権利の3つである[109]
  • 貴族院および貴族全員が、王への拝謁権を有する。庶民院も院全体としては王への拝謁権を有するが(庶民院議長が行使できる)、個々の庶民院議員には拝謁権は認められていない。対して貴族は個々が王への拝謁権が認められている。ただ現代では国王の政治的権力が制限されているので、拝謁権を行使しても事実上意味がない[110]
  • 庶民院と同様に議院として院内の議事を定める権利を有する。これに基づき院内を自治することができ、王権も裁判所もそれに介入することはできない[106]
  • 庶民院と同様に院や議員の特権への侵害、院への侮辱英語版に対して加罰権を有する。被告は議員であるなしを問わない。被告の逮捕は院の議長の発する逮捕令状に基づいて黒杖官によって行われる(警察の協力も得る)。院の委員会で証人喚問などの審議が行った後、本会議で裁判を行う。有罪判決が下った被告には罰を与えることができる。どのような罰が下されるかは両院ごとに時代によって異なるが、大体の場合、投獄(議会はこのためにビッグベンの下に牢獄を用意している)・罰金・譴責・訓戒などの罰が下される。被告が議員だった時は登院停止や議員資格はく奪などの罰もありえる[111]。実際の議会侮辱の懲罰例は1880年が最後となっている[112]

待遇

[編集]

貴族院議員は、無報酬である。ただし、日当、旅費などを受け取ることができる。日当は、166 ポンドまたは 332 ポンドの出席手当を受け取ることができる[113]。対して庶民院議員は1911年以降報酬が出されている。貴族院議員や1911年以前の庶民院議員が無報酬であるのは彼らのほとんどが大地主あるいは企業経営者の一族であって、巨額の資産を持っているからである。20世紀以降台頭した労働党の議員はそうではない者が多く、労働組合からの政治献金で生計を立てていたが、労働組合の資金を政治献金に使うことを禁じる貴族院判決が出たことでそれが成り立たなくなり、代わりの救済措置として1911年から庶民院議員のみ報酬が出されるようになった。一方、貴族院議員は一代貴族であってもそれ以前の職業生活の中での蓄えと一般よりはるかに高い年金があるために無報酬でもやっていけるため、現在でも無報酬となっている[114]

聖職貴族以外の貴族院議員は原則として終身であり、辞職や除名といった制度はなく、特定の場合に議員資格を停止されるか「請暇の許可(leave of absence)」の申請ができるだけであった[72]。この従来の制度は2014年貴族院改革法英語版制定に伴って、一定条件下における失職を認めるように改善された[115]。加えて、翌年に成立した2015年貴族院法は貴族院の議決によって、議員の除名及び登院停止を認めるに至った[115]

貴族院議員は庶民院の選挙権および庶民院議員資格を有さない(貴族院議員ではない貴族・国教会聖職者は有する)[63]

条件

[編集]

貴族院議員たる地位を認められない事由として「1. 外国人、2. 二十一歳以下、3. 大逆罪に問われた者のうち刑の執行か恩赦を受けていない者、4. 不行跡で破産した者(不運で破産した者は問題にされない)、5. 貴族院の決定で追放された者」が定められている[116]

裁判官の職にある者、庶民院議員である者、欧州議会議員である者は貴族院議員になれない[72]

また国教徒以外の者(非国教徒カトリックユダヤ教徒など)は両院から議員資格を認められなかった時期がある。イギリスでは16世紀のテューダー朝ヘンリー8世エリザベス1世)によってプロテスタントの国教が定められて以降「プロテスタント王国」たることが国体の支柱だった。そのため1678年には審査法が制定され、両院議員から国教徒以外の者は排除された。この状態は1世紀以上続いたが、非国教徒は1828年の審査法廃止によって、カトリックは1829年のカトリック救済法によって、ユダヤ教徒は1858年のユダヤ人救済法英語版によってそれぞれ議員資格を認められた[117][118]

議員となった者(貴族院・庶民院問わず)は、新議会の最初の出席や王位継承があった場合に以下の忠誠宣誓英語版を行わなければ、議院に出席し表決に参加することはできない。宣誓は以下のとおりである[119]

私(氏名)は、エリザベス女王陛下、法の定めるその相続人及び承継者に対し、誠実であり、かつ真の忠順を保持することを全能の神にかけて誓います。されば神よ、授けたまえ[注釈 16]
I... swear by Almighty God that I will be faithful and bear true allegiance to Her Majesty Queen Elizabeth, her heirs and successors, according to law. So help me God. — 忠誠宣誓英語版(1868年宣誓法による)

貴族院の役職

[編集]

貴族院議長

[編集]
貴族院で演説する保守党貴族院院内総務ソールズベリー侯爵と自由党席からそれを聞く海軍大臣ノースブルック伯爵と外務大臣グランヴィル伯爵。議長席に座っているのが大法官(貴族院議長)セルボーン伯爵(1882年7月5日の『バニティ・フェア』誌の挿絵)。

中世から2009年まで貴族院議長は大法官 (Lord Chancellor) が務めた。大法官は605年まで遡る事ができると言われる最も歴史ある官職であるため、現在でも臣下の宮中序列ではカンタベリー大主教に次ぐ第2位とされており、首相よりも上位者である[122][123]。大法官は貴族院において議長と裁判長(貴族院は2009年まで最高裁判所であった)を務めつつ、内閣においては法務大臣的閣僚職を務める。つまり立法権と司法権の頂点に立ち、行政でも要職にあり、また裁判官の任免権も持っていたので司法行政権能もあった。そのため三権分立論者からは最大の批判の対象となってきた[123]

2003年3月には欧州評議会がイギリス政府は大法官の権能を修正すべき旨の決議を行っている[124]

これを受けて、2005年の憲法改革法によって大法官の地位も変更されることとなった。貴族院議長たる地位を失い、また2009年から連合王国最高裁判所が新設されるのに伴って司法機能も喪失した[125][77]

これ以降、貴族院議長(Lord Speaker)は貴族院議員からの互選で選出されることになった[125][77]。最初の貴族院議長選挙英語版は2006年に実施された[126]

貴族院議長の任期は5年であり、2期まで務めることができる[127]。貴族院議長は党派的行動を取らないことが期待される[127]。貴族院議長は大法官以来の沿革で庶民院議長と異なり、院の秩序を保つ権利を有しない。その権利は院全体が有する(つまり貴族院の秩序や討議準則の維持は全出席議員の責任)[128][129]

その他の役職

[編集]
  • 貴族院院内総務(Leader of the House of Lords)
    議員職であり、閣内大臣ポスト[92]。貴族院与党のトップ。
  • 儀仗衛士隊隊長(Captain of the Honourable Corps of Gentlemen-at-Arms)
    議員職。宮中職ポストだが、貴族院与党院内幹事長(Chief Whip)の立場の者が就任するのが慣例である[130]
  • 国王親衛隊隊長(Captain of the Yeomen of the Guard)
    議員職。宮中職ポストだが、貴族院与党院内副幹事長の立場の者が務めるのが慣例である[131]
  • 侍従たる議員英語版(Lord-in-waiting)
    議員職。宮中職ポストだが、貴族院与党院内幹事(Whip)の立場にある3人が務めるのが慣例である[132]
  • 黒杖官(Black Rod)
    非議員職であり、国王により任命される。庶民院における守衛官と同じ役割を果たし、院内の秩序維持、および議長の儀杖・メイスの護持の任にあたる[133]
  • 議会事務総長英語版(Clerk of the Parliaments)
    非議員職であり、国王により任命される。貴族院事務局の責任者であり、貴族院の事務を統括する。また貴族院が法案を可決した旨の公証を出したり、両院間の文書を受諾・伝達したり、国王の裁可を得た法案を法律として公示するなどの業務も行う[134]。議会から庶民院が分離する前の1315年から存在する役職である。庶民院にも同じ役職として庶民院事務総長英語版が存在する(庶民院事務総長職は1363年に設置された)[133]

貴族院の意義

[編集]
貴族院議場。
2013年1月18日、議長席を指差すアメリカ国防長官レオン・パネッタと案内役のイギリス軍事担当閣外大臣アンドリュー・ロバサン。

貴族院の意義については以下のような指摘がなされている。

まず庶民院(政党政治)を抑制して、その暴走を阻止することである。ヘイルシャム男爵クィンティン・ホッグは「選挙による独裁」(elective dictatorship)を阻止することが貴族院の役割と論じている。ジェームズ・ブライスも多数決は必ずしも国民の最善の意思を表すものではないため、多数決制度の欠点を補う意味で第二院が必要との認識を示している[135]

また庶民院を補完する役割も重要である。選挙のない貴族院は有権者の顔色をうかがう必要がないため、庶民院が指摘しにくい国民に不人気だが重要な視点などを指摘しうるし、庶民院議員が選挙区サービスに忙しいのに対し、貴族院議員は政治に専念できるのでより重厚な議論も期待できる。これについてウォルター・バジョットは「理想的な庶民院が存在する場合には、貴族院は不必要であり、またそれゆえに有害でもある。しかし現実の庶民院を見ると、修正機能を持ち、また政治に専念する第二院を並置しておくことは必要不可欠とは言えないまでも、極めて有用である」と論じている[136]

ジョン・スチュアート・ミルも「一般国民を代表する民主的機関の欠陥は特別な訓練と知識である。その適切な是正策は特別な訓練と知識を持つ機関を民主的機関に対置することである。一方の院が国民の感情を代表するとすれば、他方の院は実際の公務の経験によってためされ、確証され、かつ実際の経験によって強化された個人的価値観の代表する。また一方が国民の院であるとすれば、他方は政治家の院である。言いかえれば、重要な政務または仕事の経験をしたことがある、あらゆる生気あふれる公人から成る評議会とすべきだ。そのような議院は単に抑制力というだけではなく推進力ともなろう」と論じている[137]

かつての世襲貴族ばかりの状況の中では貴族院が政治への専門性を有しているのか疑問視する声もあったが[138]、一代貴族制導入後の貴族院は、各分野に高度な専門知識を有する議員を擁しているといって差し支えない状態である(各分野で活躍した者が一代貴族に任命されるので)[139]。また1999年に世襲貴族(保守党が多い)の議席が制限されたことで中立派(クロスベンチャー)と呼ばれる議員たちの比重が上がり、以降は特定の政党が支配的になっておらず、庶民院よりも政党政治に中立的である[48][140]。この「専門性」と「中立性」により、現在でも庶民院の補完者としての貴族院の存在価値は高いと言われている[141]

左派寄りとされる『ガーディアン』紙のコラムで貴族院完全公選化を訴えていたコラムニストのティモシー・アッシュも2010年に貴族院に対する考えを変えたとしたうえで「(1999年貴族院改革から)この10年間、まさに英国の皮肉というべきは、この非民主的で古めかしくて時代錯誤な組織が、選挙で選ばれた政府の大衆独裁的な傾向に抗する防波堤でもあったことだ。(略)上院の特別委員会はエキスパートとして法律案を精査し、しばしば改善を加えている。公表された報告書のいくつかは第一級のものだ。公共政策の議論にとび切りの貢献をしている貴族院議員ならすぐに何人も挙げることができる。そんななかで最も優れているのは、最も非民主的に選ばれた、無所属のクロスベンチャーたちなのだ。」と論じた[142]

「国民世論や党派対立から超越した衆愚に陥らない有識者集団」として、特に「憲法の番人」としての役割を果たすことが期待される。そのため貴族院から最高裁判所機能を取り除いた2005年の憲法改革法は、貴族院の憲法院としての権威を低下させる改革とする批判も一部に存在する[143]

庶民院の修正の院として第二院を置くこと自体はイギリス社会に広く認知されており、一院制移行論は主流を為していない[144]。一方で「民主的正当性」を重視する立場からは貴族院は批判される。世襲貴族はもちろんのこと、一代貴族も任命制であり、民意の委託を受けているわけではないためである[145]。そのため第二院も公選制へ移行すべきとする議論があるが、「専門性」や「中立性」など貴族院の利点とされる要素を公選制のもとでも保てるのかが問題となる。どのぐらいの割合を公選制とするのか、どのような選挙制度にするのか、庶民院との差別化をどのように行うか、どのように政党化を抑止するのかなどに論点がある[146]

イギリスには「壊れていない物を直すな」という格言があり、貴族院改革反対論者はこの格言をしばしば引用する。2012年のキャメロン政権の公選制導入の貴族院改革法案も反対が多く挫折した[142]

存在意義の具体例として、近年ではEU離脱法案を巡る審議が挙げられる。2020年1月に、貴族院はジョンソン首相の意向に反して、離脱後も英国に住むEU出身者の在留資格や難民の子供の保護を保証する内容を含む修正案を可決した[147][注釈 17]

貴族院の現況

[編集]

現在の役職

[編集]

2024年7月26日現在のイギリス貴族院の主な役職者は次の通り。

現在の貴族院議長アルクリィースのマクフォール男爵ジョン・マクフォール。 伝統的な議長の制服を羽織る。

現在の党派別議席配分

[編集]

2024年7月時点でのイギリス貴族院の党派別議席配分状況は以下の通り[155]

党派名 一代貴族 世襲貴族 聖職貴族 合計
保守党 232 45 277
労働党 181 4 185
自由民主党 75 4 79
中立派 150 33 183
聖職貴族 25 25
その他 50 2 52
議長 1 0 1
合計 675 88 25 805

一代貴族には定数がないため、貴族院議員数は日々変化する。現在の議席数は貴族院ウェブサイト上で確認できる。世襲貴族と聖職貴族にはそれぞれ92議席、26議席の定数があるが、それに足りていない時は請暇議員や資格停止議員がいるか、直近に死亡・退任していて一時的に空席になっているかである。上記の場合だと世襲貴族議員の欠員1名は請暇議員であり、聖職貴族議員の欠員1名は主教退任で一時空席になっていることによる。一代貴族にも請暇議員35名と資格停止議員11名がおり、これらの者も全て合わせた2013年5月時点の全貴族院議員総数は811人であった[69]

中立派と聖職貴族は会派として一つの組織になっているものの、所属議員に党議拘束をかけていない[82]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 議席数は不定であり、その都度変わる。この議席数は2024年5月24日時点のものである。
  2. ^ 当時は行政権・立法権・司法権を分離させる概念がまだなく、行政権も立法権も広義の意味での裁判権の中に属していた[2]
  3. ^ 下級聖職者は俗事目的の議会を嫌って去ったが、高位聖職者は男爵領所有者(直属受封者)でもあったため、そちらの立場を優先して議会に残り、異階級の男爵と融合していったのである[8]
  4. ^ 当初、貴族身分はごく少数の伯爵(Earl)と大多数の男爵(Baron)だけだった。Baronはもともと称号ではなく直属受封者を意味していた。一方Earlは特定の州に特権的支配権を持つ者の称号であった。しかし大陸から輸入された三爵位が加わり、新貴族創設が国王の勅許状のみによるようになってから、男爵も称号化し、公爵(Duke)、侯爵(Marquess)、伯爵(Earl)、子爵(Viscount)、男爵(Baron)の5等級の貴族称号の階級が確立された[9]
  5. ^ ただし1656年には護国卿オリバー・クロムウェルによって護国卿が任命した者から構成される第二院が創設されており、共和政期ずっと一院制だったわけではない[29]
  6. ^ たとえば、1712年のユトレヒト条約批准をめぐって当時のトーリー党政権は、ホイッグ党が多数を占める貴族院で否決される事を憂慮して、アン女王の大権で12家の貴族創家を行い、トーリー党の貴族院多数状態を強引に作り出した[34]
  7. ^ 20世紀以降は首相以外の主要閣僚についても貴族院議員の就任を避ける傾向があるが、外務大臣は他の主要閣僚と比べると貴族院議員が就任する例がやや多めである(初代ハリファックス伯爵エドワード・ウッド、第14代ヒューム伯爵アレグザンダー・ダグラス=ヒューム、第6代キャリントン男爵ピーター・キャリントン)。貴族院議員が外務大臣を務めている時は庶民院における外交問題の対応は首相が行う[40]
  8. ^ キャメロン内閣が2012年に提出した貴族院改革法案は「8割公選制・2割任命制、任命制は一代貴族のみとし、世襲貴族議席は全廃。庶民院優越制度は維持。任期は3議会期(通例15年)を1期とする」ことを概要とする[52]
  9. ^ ただしアイルランド貴族スコットランド貴族貴族代表議員を除き貴族院議員とはならなかった。スコットランド貴族は1963年の貴族法によって全員が貴族院議員に列している[43]
  10. ^ 紋章誤使用に関する民事法廷騎士法廷英語版の唯一の裁判官職。騎士法廷は14世紀に創設され、1737年以降は長きに渡って開廷されなかったが、1955年に裁判を行って、いまだ健在であることを見せつけた[58]
  11. ^ ウェストミンスター宮殿内で両院のいずれにも属さない部分(特に女王のお召し替えの間とロイヤル・ギャラリー)を管理する役職[59]
  12. ^ 世襲貴族の爵位の継承方法はその爵位の勅許状で決められており、特例で女系継承が認められている場合もある[56]
  13. ^ 最高裁判所裁判官に転じなかった常任上訴貴族が2人おり、1人は控訴院記録長官となったために規定により登院を停止され、1人は継続して貴族院議員であった。
  14. ^ 対象となるのは国教会の42の教区から、前述の5教区とイギリス国外のみで構成されるソドー・マン教区英語版ヨーロッパ教区を除いた35教区の主教
  15. ^ 1801年庶民院聖職者欠格法英語版の規定により聖職者には庶民院議員資格がなかったが、2001年庶民院聖職者欠格廃止法英語版により、貴族院議員たる国教会聖職者以外は庶民院議員から排除されないこととなった[83]
  16. ^ この宣誓は聖書(キリスト教徒新約聖書ユダヤ教徒旧約聖書)を右手に掲げて持ちながら行う。手を挙げて行うスコットランド方式も認められる。また身体上の理由があれば、議院の許可を得て座りながら行うことも許される。宣誓を終えたら宣誓簿に署名して貴族院議長と握手する[120]1888年宣誓法英語版以降は、神に宣誓したくない無神論者のために「私(氏名)は、エリザベス女王陛下、法の定めるその相続人及び承継者に対し、誠実であり、かつ真の忠順を保持することを、厳粛に心から真実に宣言し、確約いたします(I... do solemnly, sincerely and truly declare and affirm that I will be faithful and bear true allegiance to Her Majesty Queen Elizabeth, her heirs and successors, according to law.)。」とする確約の宣誓も認められるようになった[119][121]
  17. ^ ただ、この法案はその後下院で否決されたため、上院の抵抗は無駄に終わった。

出典

[編集]
  1. ^ Lords by party, type of peerage and gender”. Parliament of the United Kingdom. 2021年12月20日閲覧。
  2. ^ 中村(1959) p.16
  3. ^ 田中(2009) p.221
  4. ^ 中村(1959) p.16-18
  5. ^ a b 中村(1959) p.20
  6. ^ 中村(1959) p.21-29
  7. ^ 中村(1959) p.31-35
  8. ^ 近藤(1970)上巻 p.113
  9. ^ 近藤(1970)上巻 p.161/163-164
  10. ^ 近藤(1970)上巻 p.100-103/113
  11. ^ 中村(1959) p.43-50
  12. ^ a b 近藤(1970)上巻 p.114
  13. ^ 神戸(2005) pp.30-31
  14. ^ マリオット(1914) p.236
  15. ^ 田中(2009) p.223-224
  16. ^ マリオット(1914) p.236-237
  17. ^ マリオット(1914) p.234
  18. ^ 神戸(2005) p.60
  19. ^ 神戸(2005) p.59-60
  20. ^ 近藤(1970)上巻 p.118-121
  21. ^ 中村(1959) p.51
  22. ^ 近藤(1970)上巻 p.164
  23. ^ 中村(1959) p.70
  24. ^ 中村(1959) p.66/70-71
  25. ^ 田中(2009) p.224
  26. ^ 中村(1959) p.68-69/71
  27. ^ 神戸(2005) p.60
  28. ^ 中村(1959) p.96
  29. ^ 中村(1959) p.101
  30. ^ 中村(1959) p.102-104
  31. ^ 中村(1959) p.116-117
  32. ^ 中村(1959) p.121
  33. ^ 中村(1959) p.169-170
  34. ^ 中村(1959) p.169
  35. ^ 中村(1959) p.168-169
  36. ^ 中村(1959) p.171
  37. ^ a b バーレント(2004) p.116
  38. ^ 田中(2009) p.232
  39. ^ a b 神戸(2005) p.180
  40. ^ 神戸(2005) p.175
  41. ^ 田中(2009) p.233
  42. ^ 岡田(2014) p.96
  43. ^ a b c d 田中(2009) p.235
  44. ^ a b 海保(1999) p.11
  45. ^ a b c d 田中(2009) p.279
  46. ^ a b 田中(2009) p.229
  47. ^ 田中(2009) p.229/298
  48. ^ a b 幡新(2013) p.143-144
  49. ^ 岡田(2014) p.90-92/
  50. ^ 高野(2010) p.83-84/89
  51. ^ 田中(2009) p.253
  52. ^ a b 山田(2013) p.2
  53. ^ Sam Francis (2024年9月5日). “Labour launches bid to get rid of hereditary peers” (英語). BBC. https://www.bbc.com/news/articles/cgl2j90ydzgo 2024年9月6日閲覧。 
  54. ^ Eleni Courea (2024年9月5日). “Ministers introduce plans to remove all hereditary peers from Lords” (英語). ガーディアン. https://www.theguardian.com/politics/article/2024/sep/05/ministers-introduce-plans-to-remove-all-hereditary-peers-from-lords 2024年9月6日閲覧。 
  55. ^ 海保(1999) p.10
  56. ^ a b c d e 神戸(2005) p.100
  57. ^ 田中(2009) p.236/279
  58. ^ 神戸(2005) p.264
  59. ^ 前田(1976) p.199
  60. ^ 田中(2009) p.241
  61. ^ a b c d e f g h i 神戸(2005) p.101
  62. ^ 加藤(2002) p.194
  63. ^ a b 神戸(2005) p.88-89/108
  64. ^ 神戸(2005) p.108
  65. ^ 岡田(2014) p.97
  66. ^ 前田(1976) p.5
  67. ^ 前田(1976) p.3
  68. ^ 山田(2013) p.40
  69. ^ a b c 岡田(2014) p.91
  70. ^ a b 山田(2013) p.41
  71. ^ 岡田(2014) p.91-92
  72. ^ a b c 岡田(2014) p.147
  73. ^ 前田(1976) p.6-7
  74. ^ a b 加藤(2002) p.153
  75. ^ a b c 幡新(2013) p.143
  76. ^ 高野(2010) p.84/89
  77. ^ a b c 神戸(2005) p.380
  78. ^ 古賀・奥村・那須(2010) p.14
  79. ^ a b 加藤(2002) p.181
  80. ^ 貴族院会議録734巻248号(2012年1月12日)
  81. ^ 貴族院会議録743巻116号(2013年2月26日)
  82. ^ a b 岡田(2014) p.92
  83. ^ 幡新(2013) p.148
  84. ^ 神戸(2005) p.89
  85. ^ 近藤(1970)上巻 p.169-170
  86. ^ マリオット(1914) p.184
  87. ^ a b 神戸(2005) p.65
  88. ^ 幡新(2013) p.159
  89. ^ 岡田(2014) p.95
  90. ^ 加藤(2002) p.180
  91. ^ 岡田(2014) p.93
  92. ^ a b c d 神戸(2005) p.73
  93. ^ 神戸(2005) p.66
  94. ^ 神戸(2005) p.68-69/73
  95. ^ 幡新(2013) p.159-160
  96. ^ 古賀・奥村・那須(2010) p.17-18
  97. ^ a b 神戸(2005) p.109
  98. ^ a b 神戸(2005) p.110
  99. ^ 高野(2010) p.83-86
  100. ^ a b 岡田(2014) p.93-94
  101. ^ 神戸(2005) p.179
  102. ^ 君塚(2006) p.256-257
  103. ^ 神戸(2005) p.130
  104. ^ a b Chapter 12 Parliamentary Privilege and related matters §12.06”. Companion to the Standing Orders and guide to the Proceedings of the House of Lords. United Kingdom Parliament (2010年). 13 June 2010閲覧。
  105. ^ 『Mancroft 'upset'』. 63290. London,England: The Times. (1989-1-13). p. 2. https://go-gale-com.wikipedialibrary.idm.oclc.org/ps/i.do?p=TTDA&u=wikipedia&id=GALE%7CIF0503224388&v=2.1&it=r&sid=ebsco 2022年11月14日閲覧。 
  106. ^ a b c 神戸(2005) p.131
  107. ^ 神戸(2005) p.124/131
  108. ^ 幡新(2013) p.171-172
  109. ^ 神戸(2005) p.124
  110. ^ 神戸(2005) p.125/131
  111. ^ 神戸(2005) p.99/104/126/131
  112. ^ 幡新(2013) p.171
  113. ^ House of Lords expenses”. UK Parliament. 2023年3月12日閲覧。
  114. ^ 神戸(2005) p.127-128
  115. ^ a b 田中 嘉彦『英国の貴族院改革―ウェストミンスター・モデルと第二院』(初版)成文堂、2015年9月30日、165-166頁。ISBN 978-4-7923-3336-2 
  116. ^ 神戸(2005) p.102
  117. ^ 幡新(2013) p.185-187
  118. ^ 加藤(2002) p.253-254
  119. ^ a b 前田(1976) p.191
  120. ^ 前田(1976) p.192
  121. ^ 幡新(2013) p.175/185
  122. ^ 高野(2010) p.85
  123. ^ a b 神戸(2005) p.102-103
  124. ^ 高野(2010) p.86
  125. ^ a b 高野(2010) p.84
  126. ^ 古賀・奥村・那須(2010) p.16
  127. ^ a b 古賀・奥村・那須(2010) p.17
  128. ^ 神戸(2005) p.103
  129. ^ 岡田(2014) p.146-147
  130. ^ 前田(1976) p.131
  131. ^ 前田(1976) p.131-132
  132. ^ 前田(1976) p.132
  133. ^ a b 神戸(2005) p.99/104
  134. ^ 前田(1976) p.200
  135. ^ 田中(2009) p.226-227
  136. ^ 田中(2009) p.226-227/238
  137. ^ 前田(1976) p.119
  138. ^ 前田(1976) p.64
  139. ^ 田中(2009) p.234/281-284/302
  140. ^ 田中(2009) p.239/293
  141. ^ 田中(2009) p.302
  142. ^ a b 山田(2013) p.45
  143. ^ 幡新(2013) p.144-146
  144. ^ 田中(2009) p.229/299
  145. ^ 田中(2009) p.236-237
  146. ^ 田中(2009) p.299
  147. ^ 英上院、EU離脱関連法巡り政権の意向に反する修正案可決”. Reuters. 2020年4月18日閲覧。
  148. ^ Lord McFall of Alcluith is next Lord Speaker”. UK Parliament (21 April 2021). 21 April 2021閲覧。
  149. ^ House of Lords: Senior Deputy Speaker”. UK Parliament (11 May 2021). 12 May 2021閲覧。
  150. ^ https://www.parliament.uk/biographies/lords/baroness-smith-of-basildon/4170 ,2019年10月11日閲覧
  151. ^ https://members.parliament.uk/member/4222/career
  152. ^ Lord True CBE has been appointed Lord Privy Seal and Leader of the House of Lords” (英語). Twitter. 2022年9月6日閲覧。
  153. ^ Baroness Williams of Trafford”. House of Lords. 2022年11月14日閲覧。
  154. ^ https://www.parliament.uk/biographies/lords/earl-of-courtown/3359 ,2019年10月11日閲覧
  155. ^ https://www.parliament.uk/mps-lords-and-offices/lords/composition-of-the-lords/ ,2024年7月31日閲覧

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]
  1. ^ 英国・公的機関改革の最近の動向”. 内閣官房. 2020年7月2日閲覧。