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'''似島検疫所'''(にのしまけんえきしょ)は、[[大日本帝国陸軍|旧帝国陸軍]]によって[[広島県]][[安芸郡 (広島県)|安芸郡]][[仁保村 (広島県)|仁保島村]](現[[広島市]][[南区 (広島市)|南区]]似島町)の[[似島]]におかれた[[検疫所]]。戦争に際しては、施設内に[[捕虜]]収容所も設けられた。 |
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== 概要 == |
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[[ファイル:Ninoshimamap.jpg|thumb|250px|[[ランドサット]]衛星写真より作成。水色文字位置が似島。検疫所は海に面した島の東半分の敷地に置かれた。]] |
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| 1=Ninoshimamap.jpg |
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似島は[[瀬戸内海]]の[[広島湾]]に浮かぶ有人島で、明治時代時点では[[宇品]](本土)から南へ約4.4キロメートルに位置していた{{Sfn|戦役検疫誌|1907|p=121}}。 |
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| 2=水色文字位置が似島。[[ランドサット]]衛星写真より作成。検疫所は島東南部の湾にあった。 |
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| 3=Hiroshima_map_circa_1930.PNG |
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[[1895年]]、[[日清戦争]]の帰還兵および船舶のために、旧帝国陸軍が整備した検疫所で、一時は[[大日本帝国海軍|旧帝国海軍]]単独→陸軍・海軍が分割管理→陸軍単独と所管を替えながら[[太平洋戦争]]末期まで活動し、戦後は[[厚生省]](現[[厚生労働省]])の検疫所として活動したが、[[1958年]]閉鎖した。また、[[日露戦争]]および[[第一次世界大戦]]時には検疫所内に俘虜(捕虜)収容所が設けられ、当時としては貴重な文化交流が行われた記録が残っている。 |
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| 4=1930年ごろの広島市地図。右下に宇品港がある。上の写真と位置関係を参照。 |
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島には現在も、かつての検疫所の[[遺構]]がいくつか残っている。 |
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'''似島検疫所'''(にのしまけんえきしょ)は、[[大日本帝国陸軍]]の機関の一つ。[[瀬戸内海]]の[[広島湾]]に浮かぶ[[似島]]におかれた。戦争に際しては、施設内に[[捕虜]]収容所も設けられた。 |
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== 沿革 == |
== 沿革 == |
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=== 背景 === |
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[[ファイル:Hiroshima_map_circa_1930.PNG|thumb|250px|1930年ごろの広島市地図。右上に広島駅、右下に宇品港がある。上写真と位置関係を参照。]] |
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[[1895年]]([[明治]]28年)4月、[[日清戦争]]から帰還した兵士に対して伝染病の検疫・消毒を行うため、国内3ヵ所の検疫所の一つとして、[[広島湾]]に浮かぶ[[似島]](当時は[[広島県]][[安芸郡 (広島県)|安芸郡]][[仁保村 (広島県)|仁保島村]]、現在は[[広島市]][[南区 (広島市)|南区]]似島町)に設置が決定された。開設時の名称は'''臨時陸軍似島検疫所'''。似島に検疫所が置かれたのは、当時、[[東京]]起点の鉄道網の西端が[[広島駅|広島]]であり、出征兵士・輸送物資の玄関口となっていた[[広島港|宇品港]](現・広島港)のすぐ沖合に似島が位置していたからであり、似島の他には[[彦島]]([[下関市|下関]])・桜島([[大阪市|大阪]])に検疫所が設けられた。 |
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[[1894年]]([[明治]]27年)7月、[[日清戦争]]勃発、この際[[広島市]]に[[大本営]]([[広島大本営]])が置かれた。これは、当時東京を起点とする鉄道網の西端が[[広島駅]]であったこと、大型船が運用出来る港である宇品港([[広島港]])があったためであり、その港は出征兵士・輸送物資の玄関口、つまり[[兵站]]基地となった<ref name="exh04031">{{Cite web|publisher=広島市平和記念資料館|url=http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/exhibit/exh0403/exh04031.html|title=軍都広島と似島検疫所|accessdate=2014-05-17}}</ref>。 |
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この年には[[明治天皇]]が広島に移り、[[第7回帝国議会|帝国議会]]が広島で行なわれ、臨時首都として機能した。 |
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検疫所は[[後藤新平]](臨時陸軍検疫部事務局長)の指揮のもと2ヵ月の突貫工事で建設され、6月1日開所。当時最新の設備のもと同年10月末までに船舶441隻、人員137,000余におよぶ検疫が行われた。開所直後には[[北里柴三郎]]博士が新しい機器(蒸気式消毒罐)の実験のために訪れている。膨大な人員の検疫を成功させた後藤は検疫部長である[[児玉源太郎]][[事務次官等の一覧#陸軍次官|陸軍次官]]から大きく評価され、その後第4代[[台湾総督]]に就任した児玉によって[[台湾総督府#総務長官|民政局長]]に抜擢されることになる。[[1905年]](明治38年)1月には第二検疫所が設けられ、[[1906年]](明治39年)に[[陸軍運輸部]]の管轄となった<ref>臨時陸軍似島検疫所条例(明治39年6月12日勅令第148号)</ref>。 |
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{{See also|日清戦争#日本軍の損害}} |
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=== 捕虜収容所の設置 === |
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戦地では[[伝染病]]が流行した。これは広島も同様で、1895年(明治28年)3月から同年11月つまり戦争末期から終戦後兵士が凱旋して以降にかけて、県内で3,910人(死者2,957人)、うち市内1,308人の[[コレラ]]患者が発生した<ref name="summary63">{{Cite web|author=千田武志|publisher=医療と倫理を考える会|url=http://home.hiroshima-u.ac.jp/~humind1/iryou-rinri/summary63.html|title=明治期広島の医療とその特徴|accessdate=2014-05-17}}</ref>。 |
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[[ファイル:Genbaku_Dome_1.jpg|thumb|250px|広島県商品陳列所(1921〜33年頃)]] |
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[[日露戦争]]時の[[1905年]](明治38年)には検疫所内に[[ロシア]]人[[捕虜]]を収容する「露西亜俘虜収容所」がおかれた。[[1917年]]([[大正]]6年)には[[第一次世界大戦]]による[[ドイツ]]人捕虜545名が[[大阪市|大阪]]から移送されている。 |
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なかでも、当時大本営参謀総長である[[有栖川宮熾仁親王]]が広島で発症した[[腸チフス]]で1895年1月に死去するなど、指揮にも影響した。そこで広島では、例えば、陸軍による市街地の徹底消毒<ref name="summary63" />や、近代上水道布設など対策が取られるようになる。特に宇品へ上水を送る「広島軍用水道」は天皇の[[勅令]]という異例の形で決定した<ref>{{Cite web|publisher=広島市水道局|url=http://www.water.city.hiroshima.jp/jigyo/gaiyo/history/index.html|title=歴史編(明治~大正)|accessdate=2014-05-17}}</ref>。 |
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このドイツ人捕虜の中には菓子職人の[[カール・ユーハイム]]がいた。カールは似島検疫所内で、日本で初めてとなる[[バウムクーヘン]]を焼き上げている。また、[[1919年]](大正8年)に広島県商品陳列所(現在の[[原爆ドーム]])で行われた「似島独逸俘虜技術工芸品展覧会」でバウムクーヘンの製作即売も行っている(日本初のバウムクーヘン販売)。 |
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この状況の中で、医務局長として天皇とともに広島入りした軍医[[石黒忠悳]]が、戦争帰還兵に対して伝染病の検疫・消毒を行うため、大検疫所設置を主張<ref name="oshu">{{Cite web|publisher=後藤新平記念館|url=http://www.city.oshu.iwate.jp/shinpei/rel/print/10.html|title=後藤新平ゆかりの人々 石黒忠悳|accessdate=2014-05-17}}</ref>、創設されたのがこの似島検疫所である。 |
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また、同じく捕虜として収容された[[ソーセージ]]職人の[[ヘルマン・ウォルシュケ]]も「似島独逸俘虜技術工芸品展覧会」にソーセージを出品し、解放後も日本に残ってソーセージ文化を広めた。[[1934年]]([[昭和]]9年)[[阪神甲子園球場]]で行われた[[日米野球]]では、日本で初めて[[ホットドッグ]]を販売したことでも知られている<ref>[http://www.city.komae.tokyo.jp/index.cfm/28,808,138,52,html ヘルマンさん] [[狛江市]]公式</ref>。 |
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=== 検疫所創設 === |
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1919年(大正8年)には、このドイツ人捕虜チームと[[広島高等師範学校]]チーム・[[広島師範学校|広島県師範学校]]チームとで[[サッカー]]の試合が行われ、大差でドイツ人捕虜チームが勝利している。これらドイツ人捕虜チームとの試合は、日本初のサッカー国際試合とも言われている<ref name="青島から来た兵士たち">『青島から来た兵士たち』瀬戸武彦著 同学社 2006年 、12、103、108-111、126、127頁</ref>。出場選手の一人[[フーゴー・クライバー]](Hugo Klaiber)は、ドイツに帰国後ヴァンヴァイル市([[:de:Wannweil]])でサッカークラブ「SV Wannweil」を創設した。クラブは着実に成長し、後に[[ギド・ブッフバルト]](元[[サッカードイツ代表|ドイツ代表]]、元[[浦和レッドダイヤモンズ]]所属)を輩出している。また、このとき広島高師の[[主将]]を務めた[[田中敬孝]]は捕虜のサッカー技術の高さに驚き、試合後、軍の許可を得て捕虜からサッカーを教わっている。田中は翌年から[[広島県立広島国泰寺高等学校|広島一中]]の監督として指導し、ドイツ人から教わったという話を聞きつけた関西の師範学校から指導に来るよう頼まれるほど、捕虜のサッカー技術知識は需要があったという<ref>[http://www.tokyomirai.ac.jp/kiyou/pdf/02/03.pdf 在日ドイツ兵捕虜のサッカー交流とその教育遺産](pdf) 岸本肇 [[東京未来大学]] 2009</ref>。 |
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[[ファイル:Shimpei Gotō.jpg|thumb|200px|のちの後藤新平]] |
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[[1895年]](明治28年)4月1日、勅令第33号"臨時陸軍検疫部官制"公布、[[似島]]の字長谷に'''臨時陸軍似島検疫所'''として開設が決定した<ref name="exh04031" /><ref name="keneki">{{Cite web|publisher=似島臨海少年自然の家|url=http://www.cf.city.hiroshima.jp/rinkai/heiwa/heiwa004/keneki_sho.html|title=陸軍検疫所|accessdate=2014-05-18}}</ref>{{Sfn|臨戦地日誌|1899|p=557}}。似島に検疫所が置かれたのは、宇品港のすぐ沖合に位置していたからである<ref name="exh04031" />。 |
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[[後藤新平]]臨時陸軍検疫部事務局長の指揮のもと彦島検疫所([[下関市]][[彦島]])・桜島検疫所([[大阪市]]桜島)とともに整備され<ref name="oshu" />{{Sfn|臨戦地日誌|1899|p=619}}、うち似島は2ヵ月の突貫工事で建設され、同年5月30日完成{{Sfn|臨戦地日誌|1899|p=654}}、同年6月1日開所し検疫業務に入る<ref name="keneki" />{{Sfn|臨戦地日誌|1899|p=656}}。開所直後である同年6月7日には[[北里柴三郎]]博士が新しい熱気消毒用機器である蒸気式消毒罐の実験のために訪れている<ref name="keneki" />{{Sfn|臨戦地日誌|1899|p=660}}。また、同敷地内に付属の避病院(伝染病隔離施設)も設けられた{{Sfn|戦役検疫誌|1907|p=121}}。広島市内には分院もつくられ、その中の一つである似島避病院舟入分院はのち市に払い下げられ、現在は[[広島市立舟入市民病院]]として存続している<ref name="summary63" /><ref>{{Cite web|publisher=舟入市民病院|url=http://funairi-hospital.jp/hospital/index.html|title=病院のご紹介|accessdate=2014-05-17}}</ref>。 |
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=== 原子爆弾被災者の救護 === |
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なお日清戦争は同年4月21日終結{{Sfn|臨戦地日誌|pp=594-596}}、同年4月27日大本営を京都に移し明治天皇は広島出発した{{Sfn|臨戦地日誌|p=608}}ことから、検疫所の運営は皇族および主要高官が広島を離れたあとに開始したことになる。 |
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これら検疫事業は当時前例のない規模のもので<ref name="oshu" />、特に似島検疫所施設群は当時世界最大級のものだった<ref name="summary63" />。この検疫事業は当時海外でも評価が高く、例えば第3代ドイツ帝国皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]から激賞されている<ref name="oshu" />。ただこの間、検疫所職員の中で53人も病気感染による死亡者を出しており、その慰霊碑は現在市内[[東区 (広島市)|東区]][[饒津神社]]境内にある<ref>{{Cite web|publisher=饒津神社|url=http://www.nigitsu.jp/pc/contents24.html#inn01_20|title=臨時陸軍検疫部職員死者追悼之碑|accessdate=2014-05-17}}</ref>。 |
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対策が実り流行を過ぎた1895年9月ごろにはコレラ患者が激減している<ref name="summary63" />。膨大な人員の検疫を成功させた後藤は検疫部長である[[児玉源太郎]][[事務次官等の一覧#陸軍次官|陸軍次官]]から大きく評価され、その後第4代[[台湾総督]]に就任した児玉によって[[台湾総督府#総務長官|民政局長]]に抜擢されることになる([[児玉・後藤政治]])<ref>{{Cite web|publisher=後藤新平記念館|url=http://www.city.oshu.iwate.jp/shinpei/rel/print/12.html|title=後藤新平ゆかりの人々 児玉源太郎|accessdate=2014-05-17}}</ref>。また、この時期に[[乙未事変]]関係者の[[三浦梧楼]]達がここで検疫を受けていた最中に逮捕されている<ref name="minamidennsetu">{{Cite web|publisher=広島市|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/minami/gaido/dennsetu/kasi/kasi.pdf|format=PDF|title=南区七大伝説|accessdate=2014-05-19}}</ref>。 |
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=== 日清戦争以降 === |
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| topic = 1928年(昭和3年)9月第二次山東出兵検疫時撮影、[[中国放送]]所有の映像。 |
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| video1 = [http://www.rcc.net/prewar-film/hcity_content.htm#58 「昭和三年九月陸軍検疫状況」] |
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| topic = 1933年(昭和8年)製、[[広島県立文書館]]所有の絵葉書。陸軍運輸部が査閲、呉鎮守府が認可という特殊な形で発行している。 |
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| image1 = [http://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki_file/monjokan/picture/images/200407-1527_01.jpg 似ノ島陸軍検疫所 上陸桟橋] |
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| image2 = [http://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki_file/monjokan/picture/images/200407-1528_01.jpg 似ノ島陸軍検疫所 蒸気消毒所] |
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| image3 = [http://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki_file/monjokan/picture/images/200407-1529_01.jpg 似ノ島陸軍検疫所 衣類消毒室] |
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| image4 = [http://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki_file/monjokan/picture/images/200407-1530_01.jpg 似ノ島陸軍検疫所 入浴後休憩所] |
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| image5 = [http://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki_file/monjokan/picture/images/200407-1531_01.jpg 似ノ島陸軍検疫所 入浴前手拭分配所] |
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| image6 = [http://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki_file/monjokan/picture/images/200407-1532_01.jpg 似ノ島陸軍検疫所 銃ノ日光消毒] |
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| image7 = [http://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki_file/monjokan/picture/images/200407-1533_01.jpg 似ノ島陸軍検疫所 貴重品受渡所] |
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| image8 = [http://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki_file/monjokan/picture/images/200407-1534_01.jpg 似ノ島陸軍検疫所 乗船前集合所] |
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| image9 = [http://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki_file/monjokan/picture/images/200407-1535_01.jpg 似ノ島陸軍検疫所 将校入浴後休憩所] |
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| image10 = [http://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki_file/monjokan/picture/images/200407-1536_01.jpg 似ノ島陸軍検疫所 薬品消毒場] |
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| image11 = [http://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki_file/monjokan/picture/images/200407-1537_01.jpg 似ノ島陸軍検疫所 将校休憩所] |
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| image12 = [http://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki_file/monjokan/picture/images/200407-1538_01.jpg 似ノ島陸軍検疫所 凱旋歓迎情景] |
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その後、帰還兵の検疫も終了、陸軍[[第5師団 (日本軍)|第5師団]]に移管されるも検疫業務としては休止状態となった{{Sfn|海軍衛生制度史|1930|p=274}}。そこへ[[1897年]](明治30年)8月、[[大日本帝国海軍]]に移管され[[呉鎮守府]]所管となった{{Sfn|海軍衛生制度史|1930|p=274}}。 |
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[[日露戦争]]が始まると日清戦争時よりも更に傷病兵が出たことから、[[1904年]](明治37年)4月再び陸軍第5師団に移管され、この際の取り決めにより陸軍・海軍共にここで検疫を行うことになった{{Sfn|海軍衛生制度史|1930|p=275}}。施設の充実が始まり、[[1905年]](明治38年)1月字東大谷に「第二検疫所」が設けられ、当初からあった施設は「第一検疫所」と呼ばれるようになる<ref name="exh04031" /><ref name="20camp">{{Cite web|publisher=似島臨海少年自然の家|url=http://www.cf.city.hiroshima.jp/rinkai/heiwa/heiwa008/german%20prisoners%20camp.html|title=ドイツ人俘虜収容所|accessdate=2014-05-17}}</ref>。 |
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当時の陸軍および海軍の資料における正式名称は「似島検疫所第一消毒所」「似島検疫所第二消毒所」{{Sfn|戦役検疫誌|1907|p=}}{{Sfn|海軍衛生制度史|1930|p=275}}。検疫人数は一日あたり8,000人を想定して整備された{{Sfn|戦役検疫誌|1907|p=3}}。この戦争から日本人だけでなく俘虜(捕虜)も検疫している{{Sfn|戦役検疫誌|1907|pp=175-180}}。また第一検疫所にあった避病院は閉鎖され、広島衛戍病院(のち広島陸軍病院)で対応することになった{{Sfn|海軍衛生制度史|1930|p=275}}。[[1906年]](明治39年)に[[陸軍運輸部]]の管轄となった<ref name="keneki" /><ref>臨時陸軍似島検疫所条例(明治39年6月12日勅令第148号)</ref>。 |
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[[1910年]](明治43年)第一検疫所の大部分を海軍に移管、つまり第一を海軍が第二を陸軍が管理することになり、第一は「[[国立病院機構呉医療センター|呉海軍病院]]似島消毒所」として運用されることになった{{Sfn|海軍衛生制度史|1930|p=275}}。その後海軍消毒所(第一検疫所)は老朽化が進み、[[1923年]]([[大正]]12年)海軍消毒所は[[三ツ子島 (広島県)|三ツ子島]](呉海軍病院三ツ子島消毒所)に移設され、旧海軍消毒所つまり旧第一検疫所は倉庫として用いられるようになった{{Sfn|海軍衛生制度史|1930|p=275}}。なおこの倉庫群は[[太平洋戦争]]末期には陸軍の施設となる(下記参照)がまた陸軍に移管された時期は不明。[[1940年]]([[昭和]]15年)には第二検疫所の南側に軍馬用の「馬匹検疫所」が設置される<ref name="keneki" />。 |
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以下に、昭和初期までの検疫実績を示す(広島市調べ)<ref name="exh04031" />。なお[[日中戦争]]でも検疫が行われているが<ref name="minamidennsetu" />、記録は不明。 |
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::{|class="wikitable" style="text-align:right" |
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!!!期間!!船舶数(隻)!!人数(人) |
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|日清戦争||1895年6月1日~1896年1月11日||441||96,168 |
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|日露戦争||1904年1月1日~1906年6月14日||1,753||663,443 |
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|[[第一次世界大戦]]||1914年12月2日~1915年1月1日||95||45,564 |
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|[[シベリア出兵]]||1918年11月10日~1922年10月29日||296||152,188 |
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|- |
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|第一次[[山東出兵]]||1927年9月||-||約7,000 |
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|第二次山東出兵||1928年7月19日~1929年5月13日||44||27,947 |
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|} |
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{{wide image|Ninoshima060923.jpg|700px|東側からの似島と峠島(手前の小さな島)。峠島の向こうに見える建物付近に第一検疫所が、似島の左側に見える湾内で右よりに第二検疫所が、左よりに馬匹検疫所があった。}} |
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=== 捕虜収容所併設 === |
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元々この地に捕虜収容所が併設されたのは日露戦争の時である。1905年(明治38年)[[ロシア]]人捕虜を収容する「露西亜俘虜収容所」が似島第一検疫所に併設され、最大2,391人収容していた<ref name="keneki" /><ref name="20camp" />。だだこれら捕虜は検疫後一時的に収容されていたものであり、ここから宇品へ渡り全国の収容所へ送られたと現在では考えられている<ref name="minamidennsetu" />。 |
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{{ external media |
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| topic = 俘虜情報局発行の写真集 |
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| align = |
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| width = 250px |
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| video1 = [http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966639 『大正三四年戦役俘虜写真帖』], 1918年。この中に似島俘虜收容所の写真がある。 |
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}} |
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{{See also|第一次世界大戦下の日本}} |
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第一次世界大戦の局面で[[日独戦争]]が勃発、戦争終結後当時[[大阪市]]にあり[[ドイツ]]人捕虜を収容していた「大阪俘虜収容所」が手狭となったことから閉鎖し移転することになった<ref name="20camp" />。[[1917年]]([[大正]]6年)2月19日、その移転先として似島第二検疫所内に'''似島俘虜収容所'''が開設した<ref name="20camp" />。所長は大阪収容所所長の[[菅沼來]]がそのまま務め、ドイツ将兵536人、オーストリア兵9人、計545人が移送されている<ref name="20camp" />。 |
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第一次世界大戦勃発以降、俘虜収容所は全国各地につくられたが、それらは似島・[[久留米俘虜収容所]](福岡)・[[板東俘虜収容所]](徳島)・[[青野原演習場|青野原俘虜収容所]](兵庫)・[[名古屋俘虜収容所]](愛知)・[[習志野俘虜収容所]](千葉)と最終的に6つに統合され、中でも似島は板東とともに最終的に整備された俘虜収容所であり、唯一島に作られた収容所となった<ref name="20camp" /><ref name="naid110009559766">{{Cite web|author=岸本肇|publisher=東京未来大学研究紀要|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/110009559766|title=在日ドイツ兵捕虜のサッカー交流とその教育遺産|date=2009-03-20|accessdate=2014-05-17}}</ref>。 |
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ここに収容されたドイツ人捕虜は[[ハーグ陸戦条約]]で守られいくつかの自由が許されており、彼らの一部は日本の文化に多大な影響を与えている<ref name="naid110009559766" />。 |
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[[ファイル:Genbaku_Dome_1.jpg|thumb|250px|広島県商品陳列所]] |
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* [[カール・ユーハイム]] - [[バウムクーヘン]] |
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** 日独戦争当時、[[青島市|青島]]で暮らす非戦闘員だった<ref name="20camp" />。 |
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** 似島収容所内で、日本で初めてとなるバウムクーヘンを焼き上げて、[[1919年]](大正8年)3月4日から12日にかけて広島県商品陳列所(現在の[[原爆ドーム]])で行われた「似島独逸俘虜技術工芸品展覧会」で日本初となるバウムクーヘンの製作即売も行っている<ref name="20camp" /><ref name="naid110009559766" />。この展覧会の売れ筋商品だったこと、盛況の様子が地元紙[[中国新聞]]に取材されていることがわかっている<ref name="minamidennsetu" />。 |
|||
* [[ヘルマン・ウォルシュケ]] - [[ソーセージ]]・[[ホットドッグ]] |
|||
** ドイツでは食肉加工職人であり、日独戦争当時はドイツ兵だった<ref name="20camp" />。 |
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** ヘルマンの他、ヒューゴー・シュトルおよびルートヴィヒ・ケルンの3人は、[[広瀬・寺町|広瀬町]]上水入町(現広島市[[中区 (広島市)|中区]])にあったハム製造会社"酒井商会"で食肉加工の技術指導を行っている<ref name="20camp" /><ref name="minamidennsetu" />。この時の様子は大正8年12月25日付中国新聞に掲載されている。 |
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** ヘルマンも似島独逸俘虜技術工芸品展覧会でソーセージを出品した。ユーハイムに展覧会でバームクーヘンを出品するよう助言した一人でもある<ref name="20camp" />。 |
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** 解放後日本に留まり、[[1934年]]([[昭和]]9年)[[阪神甲子園球場]]で行われた[[日米野球]]で、日本で初めて[[ホットドッグ]]を販売した<ref name="20camp" /><ref>{{Cite web|publisher=狛江市|url=http://www.city.komae.tokyo.jp/index.cfm/28,808,138,52,html|title=ヘルマンさん|accessdate=2014-05-17}}</ref>。この「ヘルマンドック」は、復刻の形で2014年現在でも甲子園球場で販売されている<ref>{{Cite web|publisher=阪神甲子園球場|url=http://www.hanshin.co.jp/koshien/stadiuminfo/gourmet_infield/|title= グルメ・ショップガイド|accessdate=2014-05-18}}</ref>。 |
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* カール・F・グラーザーら"似島イレブン" - [[サッカー]] |
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** 元々ドイツ人捕虜サッカーチームは大阪収容所時代に結成されたもので一軍と二軍の2チーム存在し、彼らは資料によっては"似島イレブン"と呼ばれている<ref name="20camp" />。そのキャプテンがグラーザーだった。 |
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** 1919年1月26日、親善を目的として似島イレブン二軍チームと[[広島高等師範学校]]や[[広島師範学校|広島県師範学校]]や各附属学校合同チームと[[サッカー]]の試合が行われ、大差で似島イレブンが勝利している<ref name="20camp" /><ref name="naid110009559766" />。これらドイツ人捕虜チームとの試合は、日本初のサッカー国際試合とも言われている<ref name="20camp" /><ref name="青島から来た兵士たち">『青島から来た兵士たち』瀬戸武彦著 同学社 2006年 、12、103、108-111、126、127頁</ref>。 |
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** このとき広島高師の[[主将]]を務めた[[田中敬孝]]は捕虜のサッカー技術の高さに驚き、試合後、軍の許可を得てグラーザー達からサッカーを教わっている<ref name="20camp" /><ref name="naid110009559766" />。田中は翌年から[[広島県立広島国泰寺高等学校|広島一中]]の監督として指導し、ドイツ人から教わったという話を聞きつけた関西の師範学校から指導に来るよう頼まれるほど、捕虜のサッカー技術知識は需要があったという<ref name="naid110009559766" />。 |
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** ユーハイムは大阪収容所時代に[[ゴールキーパー (サッカー)|ゴールキーパー]]として参加していた記録が残っている<ref name="20camp" />。 |
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** 似島イレブンとして広島で試合に出た一人であるフーゴー・クライバーは、ドイツに帰国後{{仮リンク|ヴァンバイル|de|Wannweil}}でサッカークラブ「SV ヴァンバイル」を創設した<ref name="naid110009559766" />。このクラブは後にドイツ代表[[ギド・ブッフバルト]]を輩出している<ref name="naid110009559766" />。 |
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その他の交流として、1919年5月18日広島市内でドイツ人捕虜による音楽会が開かれた記録がある(詳細は不明)<ref name="keneki" />。 |
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第一次世界大戦終結後、随時ドイツ人捕虜は開放され、この収容所は[[1920年]](大正9年)4月1日閉鎖されている<ref name="20camp" />。 |
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=== 被爆者救護 === |
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{{Hidden|※注意 ここには検疫所に収容された被爆者の外傷の映像があります。<br />ご覧になりたい方は右端の「表示」をクリックしてください。 |
{{Hidden|※注意 ここには検疫所に収容された被爆者の外傷の映像があります。<br />ご覧になりたい方は右端の「表示」をクリックしてください。 |
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}} |
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[[太平洋戦争]]末期、帰還兵が減少したことから検疫業務がほぼ行われなくなった<ref name="exh04031" />。第一検疫所は倉庫群つまり[[広島陸軍兵器補給廠|陸軍兵器補給廠]]似島弾薬庫と陸軍運輸部似島倉庫として用いられ、第二検疫所と馬匹検疫所は陸軍[[船舶司令部]]所属(暁部隊)の船舶防疫部および船舶衛生隊が駐屯していた<ref name="exh04031" />。 |
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[[1945年]](昭和20年)[[8月6日]]、[[広島市への原子爆弾投下]]の際には、似島検疫所が被爆者救護のために重要な役割を果たした。[[爆心地]]からは海を隔てて約9キロメートルのところに位置し、直接の被害は爆風により窓ガラスが割れた程度<ref name="cyugoku">中国放送</ref>であった一方、[[広島市]]内の救護施設はまひ状態に陥ったため、船で続々と負傷者が搬入され応急処置を受けた。短時間に多数の患者が殺到し、また重篤な罹災者も多いわりに薬品類や医療器具・人的資源が絶対的に不足していたために、検疫所で息を引き取る者も多かった(運び込まれた時点で既に死亡しているケースも数多かった)<ref name="cyugoku" />。検疫所での処置数は被爆後20日間で10,000人といわれる<ref name="cyugoku" /><ref>[http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/visit/est/panel/A2/2111_2.htm 広島平和記念資料館公式サイト 似島検疫所も一役]</ref>。遺体は最初は焼かれたが、処理が間に合わないためにその後は単純埋葬とされた。身元不明の遺体も多く、一人ずつ墓を建てられないということで、後に千人塚が建立された<ref name="cyugoku" />。[[第2総軍]]教育参謀中佐で市内で被爆した[[李グウ|李{{lang|zh|鍝}}公]]も似島検疫所に運ばれ、この地で死去している。 |
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[[1945年]](昭和20年)[[8月6日]]午前8時15分、[[広島市への原子爆弾投下]]。似島は |
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その後、被爆した家族を探しに多くの遺族や関係者が当地を訪れた<ref name="cyugoku" /><ref name="chugoku20110727">[http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201107270039.html 原爆献水は似島検疫所跡から] [[中国新聞]] 2011年7月27日付</ref>。 |
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[[爆心地]]から海を隔てて島の北端で約8.3キロメートル、島の南端で約11.5キロメートルのところに位置した<ref>{{Cite web|publisher=広島市平和記念資料館|url=http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/visit/est/panel/A3/3107.htm|title=原子爆弾の投下|accessdate=2014-05-17}}</ref>。この際、似島検疫所は被爆者救護のために重要な役割を果たした。当時建物被害はほぼなく薬品類や医療器具の備蓄が約5,000人分あったことから、市内から船で被爆者が次々と運ばれていった<ref name="exh04033">{{Cite web|publisher=広島市平和記念資料館|url=http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/exhibit/exh0403/exh04033.html|title=被爆直後の救援活動|accessdate=2014-05-17}}</ref>。ここまで運び込まれたのは、市内中心部の病院がほぼ壊滅し残ったものも多数の被爆者が訪れたことから麻痺状態となったことに加え、当時[[原爆症]]が伝染病の一つである[[赤痢]]だと誤認<ref>{{Cite web|publisher=広島市平和記念資料館|url=http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/visit/est/panel/A3/3107.htm|title=被爆直後の広島|accessdate=2014-05-17}}</ref>されていた部分もある。更に、広島市は[[太田川]]水系の[[三角州]]に形成された街で市中心部へは船で遡って行くことが出来たことから、ここに駐屯していた暁部隊は船で救護に向かいそのままここまで運び込まれたためでもある<ref name="exh04033" />。倉庫として用いられていた旧第一検疫所ではなく、第二検疫所に運ばれている<ref name="keneki" />。 |
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同日午前10時ごろ、被爆者の第一陣が検疫所に到着、以降も受け入れが続き、薬もすぐ底をつき、同日夜には島内施設ではパンクする状況となり別の収容所へ移される事態となった<ref>{{Cite web|publisher=広島市平和記念資料館|url=http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/exhibit/exh0403/exh04034.html|title=似島にあふれる負傷者|accessdate=2014-05-17}}</ref><ref>{{Cite web|publisher=広島市平和記念資料館|url=http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/exhibit/exh0403/exh04035.html|title=苦しみ水を求める声、身内を捜して歩く人々|accessdate=2014-05-17}}</ref>。検疫所に運ばれた負傷者は被爆後20日間で10,000人といわれる<ref name="exh04031" />。 |
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=== 閉鎖と現在の状況 === |
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船で運ばれる途中でなくなった者や検疫所でなくなった者、更に宇品や[[金輪島]]・[[己斐]]などからも運び込まれたことからと死体が溢れかえり、当初は火葬されていたがそれよりも死体が増え続けることから、島に掘られた[[防空壕]]に入れ単純埋葬された<ref name="exh04036">{{Cite web|publisher=広島市平和記念資料館|url=http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/exhibit/exh0403/exh04036.html|title=死者を送る|accessdate=2014-05-17}}</ref>。身元不明の遺体も多く、一人ずつ墓を建てられないということで、後に千人塚が建立された<ref name="exh04036" />。 |
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原爆投下後の混乱の中で[[終戦の日]]となり、8月25日には検疫所は管理者不在のまま救護所としての使命を終えた。終戦翌年の[[1946年]](昭和21年)[[9月3日]]に敷地内に'''広島県戦災児教育所似島学園'''(現在の[[似島学園]])が開設され、新たなスタートをきることになった。 |
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検疫所に運ばれた人物の一人に、[[第2総軍]]教育参謀中佐で市内で被爆した[[李グウ|李{{lang|zh|鍝}}]]がおり、この地でなくなっている。 |
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上記の状況から似島はある時期には「サッカーの島」と呼ばれ<ref>[http://www.city.hiroshima.lg.jp/minami/gaido/boukenou/15/03.html 広島市公式サイトより「似島」]</ref>、似島学園創設者・森芳麿の息子である[[森健兒]]・[[森孝慈]]兄弟、[[堀口照幸]]や[[沖野等]]、[[広島市立似島中学校|似島中学校]]教諭の[[渡部英麿]]など、多くのサッカー選手を輩出している。 |
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同月12日ぐらいから負傷者は[[五日市町 (広島県)|五日市町]]・[[廿日市市|廿日市町]]・[[宮島町]]・[[大竹市|大竹町]]などの他の病院施設に移されていき、同月25日には残った500人の負傷者をすべて他へ転送され、救護所としての検疫所は閉鎖された<ref name="exh04037">{{Cite web|publisher=広島市平和記念資料館|url=http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/exhibit/exh0403/exh04037.html|title=臨時野戦病院の閉鎖とその後の検疫所|accessdate=2014-05-17}}</ref>。 |
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[[1971年]]、[[1990年]]、[[2004年]]と3度にわたり広島市は千人塚周辺の発掘作業を行い、遺骨や遺品を遺族に返還している<ref name="cyugoku" />。 |
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=== 閉鎖と現状 === |
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[[2011年]]([[平成]]23年)の[[広島平和記念式典]]では、[[原爆死没者慰霊碑]]に捧げる献水に当地の井戸水が採用されている<ref name="chugoku20110727" />。 |
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| topic = NHK平和アーカイブス |
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| video1 = [http://www.nhk.or.jp/peace/library/program/19720310.html ドキュメンタリー 似島の怒り] 1972年3月10日NHK放送分 |
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検疫所自体は戦後も用いられており、翌[[1946年]](昭和21年)から[[厚生省]]の管轄となり[[引き揚げ]]や[[復員]]兵の検疫を行いつつ規模縮小しながらも存続、[[1958年]](昭和33年)施設の老朽化に伴い似島検疫所は完全に閉鎖された<ref name="exh04037" />。 |
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一方で検疫所施設は戦後直後から他のものへと転用された。まず1946年9月3日第一検疫所敷地内に「広島県戦災児教育所似島学園」(現在の[[似島学園]])が開設される<ref>{{Cite web|publisher=広島市平和記念資料館|url=http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/exhibit/exh0403/exh04038.html|title=原爆孤児達|accessdate=2014-05-17}}</ref>。第二検疫所には[[1965年]](昭和40年)「平和養老館」と[[1984年]](昭和59年)「広島市似島臨海少年自然の家」が開設、馬匹検疫所には[[1949年]](昭和24年)[[広島市立似島小学校]]および[[広島市立似島中学校]]が移設している<ref name="keneki" />。 |
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==所長== |
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;臨時陸軍似島検疫所 |
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似島でなくなった人の具体的な数は現在もわかっていない。広島市は[[1947年]](昭和22年)以降数度に渡り島内で発掘作業を行い、遺骨や遺品を遺族に返還している<ref>{{Cite web|publisher=広島市平和記念資料館|url=http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/exhibit/exh0403/exh04039.html|title=遺骨の眠る似島|accessdate=2014-05-17}}</ref>。島内には検疫所関連の[[遺構]]や慰霊碑が多数存在している。 |
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似島には、捕虜収容所時代の文化が残っている。例えば似島臨海少年自然の家では、バウムクーヘン作りが体験できる<ref>{{Cite web|publisher=ひろしまナビゲーター|url=http://www.hiroshima-navi.or.jp/sightseeing/sports_leisure/camp/4858.php|title=広島市似島臨海少年自然の家|accessdate=2014-05-19}}</ref>。また似島はある時期には「サッカーの島」と呼ばれ<ref>{{Cite web|publisher=広島市|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/minami/gaido/boukenou/15/03.html|title=広島サッカーの聖地|accessdate=2014-05-17}}</ref>、似島学園創設者・森芳麿の息子である[[森健兒]]・[[森孝慈]]兄弟、[[堀口照幸]]や[[沖野等]]、似島中学校教諭の[[渡部英麿]]など、多くのサッカー選手を輩出している。 |
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[[2011年]]([[平成]]23年)の[[広島平和記念式典]]では、[[原爆死没者慰霊碑]]に捧げる献水に当地の井戸水が採用されている<ref>{{Cite web|publisher=中国新聞|url=http://www1.chugoku-np.co.jp/abom/2011/News/Hn201107270002.html|title=原爆献水は似島検疫所跡から|date=2011-07-27|accessdate=2014-05-17}}</ref>。 |
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== 略歴 == |
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{|class="wikitable" style="text-align:right" |
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!!!第一検疫所!!第二検疫所!!馬匹検疫所 |
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|1895年||臨時陸軍似島検疫所開所||rowspan="4"|--||rowspan="11"|-- |
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|- |
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|||移管、陸軍第5師団似島検疫所 |
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|- |
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|1897年||海軍に移管、海軍呉鎮守府似島検疫所 |
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|- |
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|1904年||陸軍に移管、陸軍第5師団似島検疫所 |
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|- |
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|1905年||陸軍第5師団似島検疫所第一||陸軍第二開所 |
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|- |
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|1905年||露西亜俘虜収容所併設 |
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|1906年||colspan="2"|移管、陸軍運輸部似島検疫所第一/第二消毒所 |
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|1910年||海軍に移管、呉海軍病院似島消毒所||陸軍運輸部似島検疫所 |
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|1917年||||似島俘虜収容所併設 |
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|1920年||||似島俘虜収容所閉所 |
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|1923年||閉鎖、倉庫に||陸軍似島検疫所 |
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|1940年||--||陸軍似島検疫所||陸軍馬匹検疫所開所 |
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|1945年||colspan="3"|広島市への原子爆弾投下 |
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|- |
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|1946年||似島学園開校||移管、厚生省似島検疫所||閉鎖 |
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|- |
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|1949年||似島学園||厚生省似島検疫所||市立似島小/似島中学校移転 |
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|- |
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|1958年||似島学園||閉鎖||似島小/似島中 |
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|1965年||似島学園||平和養老館開館||似島小/似島中 |
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|1984年||似島学園||似島臨海少年自然の家開設||似島小/似島中 |
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|} |
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== 所長 == |
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;陸軍似島検疫所 |
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*江間孚通 砲兵大佐:1895年5月6日 - {{Sfn|臨戦地日誌|1899|p=619}} |
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*石丸言知 憲兵中佐:1904年10月26日 - 1906年6月14日{{Sfn|戦役検疫誌|1907|p=515}} |
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*山本正熊 歩兵少佐:1906年6月15日 - {{Sfn|戦役検疫誌|1907|p=518}} |
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*福島知雄 歩兵少佐:1907年5月11日 - 7月26日 |
*福島知雄 歩兵少佐:1907年5月11日 - 7月26日 |
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;海軍呉海軍病院似島消毒所 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
{{脚注ヘルプ}} |
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{{Reflist |
{{Reflist}} |
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== 参考資料 == |
== 参考資料 == |
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* 『[[官報]]』 |
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* [http://www.rcc-tv.jp/kioku/back/06.htm#23 被爆60年 ヒロシマの記録] - 中国放送 |
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* 『ドイツからの贈りもの |
* 『ドイツからの贈りもの -国境を越えた奇跡の物語-』(2006年1月22日、[[テレビ新広島]]/[[フジテレビジョン|CX]]) |
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*: ドイツ人捕虜チームイレブンの写真から、子孫を探すドキュメンタリー。ユーハイムやウォルシュケのエピソードも登場した。 |
*: ドイツ人捕虜チームイレブンの写真から、子孫を探すドキュメンタリー。ユーハイムやウォルシュケのエピソードも登場した。 |
||
* {{Cite book|和書|author = 陸軍省|title = 明治三十七八年戦役検疫誌|url =http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/837225|date = 1907|accessdate = 2014-05-19|ref={{sfnRef|戦役検疫誌|1907}}}} |
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*『[[官報]]』 |
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* {{Cite book|和書|author=広島県庁|publisher=志熊直人 |title=広島臨戦地日誌 |url =http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991470/1|date = 1899|accessdate = 2014-05-19|ref={{sfnRef|臨戦地日誌|1899}}}} |
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* {{Cite book|和書|author=清水辰太|publisher=海軍軍医会 |title=海軍衛生制度史|volume =2 |url =http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1464432|date = 1930|accessdate = 2014-05-19|ref={{sfnRef|海軍衛生制度史|1930}}}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[牛田浄水場]] - 同時期に同目的つまり伝染病流布防止を目的として竣工した「広島軍用水道」の浄水場。こちらは児玉源太郎が工事責任者であった。 |
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* [[陸軍運輸部]] |
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* [[国立病院機構東広島医療センター]] - 日清戦争の傷痍軍人療養所として開設。 |
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* [[板東俘虜収容所]] |
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* [[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]] - 似島の南側である[[東能美島|江田島]]にあった海軍の施設。 |
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* [[習志野俘虜収容所]] |
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* [[日清戦争凱旋碑]] |
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* [[広島市への原子爆弾投下]] |
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* [[似島学園]] |
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== 外部リンク== |
== 外部リンク== |
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* [http://www.cf.city.hiroshima.jp/rinkai/heiwa/heiwa011/heiwa011.html 似島の遺構] - 似島臨海少年自然の家 |
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*[http://www.rcc.net/prewar-film/hcity_content.htm#58 「昭和三年九月陸軍検疫状況」より広島市南区似島町] |
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2014年6月6日 (金) 09:17時点における版
似島検疫所(にのしまけんえきしょ)は、旧帝国陸軍によって広島県安芸郡仁保島村(現広島市南区似島町)の似島におかれた検疫所。戦争に際しては、施設内に捕虜収容所も設けられた。
概要
似島は瀬戸内海の広島湾に浮かぶ有人島で、明治時代時点では宇品(本土)から南へ約4.4キロメートルに位置していた[1]。
1895年、日清戦争の帰還兵および船舶のために、旧帝国陸軍が整備した検疫所で、一時は旧帝国海軍単独→陸軍・海軍が分割管理→陸軍単独と所管を替えながら太平洋戦争末期まで活動し、戦後は厚生省(現厚生労働省)の検疫所として活動したが、1958年閉鎖した。また、日露戦争および第一次世界大戦時には検疫所内に俘虜(捕虜)収容所が設けられ、当時としては貴重な文化交流が行われた記録が残っている。
島には現在も、かつての検疫所の遺構がいくつか残っている。
沿革
背景
1894年(明治27年)7月、日清戦争勃発、この際広島市に大本営(広島大本営)が置かれた。これは、当時東京を起点とする鉄道網の西端が広島駅であったこと、大型船が運用出来る港である宇品港(広島港)があったためであり、その港は出征兵士・輸送物資の玄関口、つまり兵站基地となった[2]。
この年には明治天皇が広島に移り、帝国議会が広島で行なわれ、臨時首都として機能した。
戦地では伝染病が流行した。これは広島も同様で、1895年(明治28年)3月から同年11月つまり戦争末期から終戦後兵士が凱旋して以降にかけて、県内で3,910人(死者2,957人)、うち市内1,308人のコレラ患者が発生した[3]。
なかでも、当時大本営参謀総長である有栖川宮熾仁親王が広島で発症した腸チフスで1895年1月に死去するなど、指揮にも影響した。そこで広島では、例えば、陸軍による市街地の徹底消毒[3]や、近代上水道布設など対策が取られるようになる。特に宇品へ上水を送る「広島軍用水道」は天皇の勅令という異例の形で決定した[4]。
この状況の中で、医務局長として天皇とともに広島入りした軍医石黒忠悳が、戦争帰還兵に対して伝染病の検疫・消毒を行うため、大検疫所設置を主張[5]、創設されたのがこの似島検疫所である。
検疫所創設
1895年(明治28年)4月1日、勅令第33号"臨時陸軍検疫部官制"公布、似島の字長谷に臨時陸軍似島検疫所として開設が決定した[2][6][7]。似島に検疫所が置かれたのは、宇品港のすぐ沖合に位置していたからである[2]。
後藤新平臨時陸軍検疫部事務局長の指揮のもと彦島検疫所(下関市彦島)・桜島検疫所(大阪市桜島)とともに整備され[5][8]、うち似島は2ヵ月の突貫工事で建設され、同年5月30日完成[9]、同年6月1日開所し検疫業務に入る[6][10]。開所直後である同年6月7日には北里柴三郎博士が新しい熱気消毒用機器である蒸気式消毒罐の実験のために訪れている[6][11]。また、同敷地内に付属の避病院(伝染病隔離施設)も設けられた[1]。広島市内には分院もつくられ、その中の一つである似島避病院舟入分院はのち市に払い下げられ、現在は広島市立舟入市民病院として存続している[3][12]。
なお日清戦争は同年4月21日終結[13]、同年4月27日大本営を京都に移し明治天皇は広島出発した[14]ことから、検疫所の運営は皇族および主要高官が広島を離れたあとに開始したことになる。
これら検疫事業は当時前例のない規模のもので[5]、特に似島検疫所施設群は当時世界最大級のものだった[3]。この検疫事業は当時海外でも評価が高く、例えば第3代ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世から激賞されている[5]。ただこの間、検疫所職員の中で53人も病気感染による死亡者を出しており、その慰霊碑は現在市内東区饒津神社境内にある[15]。
対策が実り流行を過ぎた1895年9月ごろにはコレラ患者が激減している[3]。膨大な人員の検疫を成功させた後藤は検疫部長である児玉源太郎陸軍次官から大きく評価され、その後第4代台湾総督に就任した児玉によって民政局長に抜擢されることになる(児玉・後藤政治)[16]。また、この時期に乙未事変関係者の三浦梧楼達がここで検疫を受けていた最中に逮捕されている[17]。
日清戦争以降
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1928年(昭和3年)9月第二次山東出兵検疫時撮影、中国放送所有の映像。 | |
「昭和三年九月陸軍検疫状況」 |
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1933年(昭和8年)製、広島県立文書館所有の絵葉書。陸軍運輸部が査閲、呉鎮守府が認可という特殊な形で発行している。 | |
似ノ島陸軍検疫所 上陸桟橋 | |
似ノ島陸軍検疫所 蒸気消毒所 | |
似ノ島陸軍検疫所 衣類消毒室 | |
似ノ島陸軍検疫所 入浴後休憩所 | |
似ノ島陸軍検疫所 入浴前手拭分配所 | |
似ノ島陸軍検疫所 銃ノ日光消毒 | |
似ノ島陸軍検疫所 貴重品受渡所 | |
似ノ島陸軍検疫所 乗船前集合所 | |
似ノ島陸軍検疫所 将校入浴後休憩所 | |
似ノ島陸軍検疫所 薬品消毒場 | |
似ノ島陸軍検疫所 将校休憩所 | |
似ノ島陸軍検疫所 凱旋歓迎情景 |
その後、帰還兵の検疫も終了、陸軍第5師団に移管されるも検疫業務としては休止状態となった[18]。そこへ1897年(明治30年)8月、大日本帝国海軍に移管され呉鎮守府所管となった[18]。
日露戦争が始まると日清戦争時よりも更に傷病兵が出たことから、1904年(明治37年)4月再び陸軍第5師団に移管され、この際の取り決めにより陸軍・海軍共にここで検疫を行うことになった[19]。施設の充実が始まり、1905年(明治38年)1月字東大谷に「第二検疫所」が設けられ、当初からあった施設は「第一検疫所」と呼ばれるようになる[2][20]。
当時の陸軍および海軍の資料における正式名称は「似島検疫所第一消毒所」「似島検疫所第二消毒所」[21][19]。検疫人数は一日あたり8,000人を想定して整備された[22]。この戦争から日本人だけでなく俘虜(捕虜)も検疫している[23]。また第一検疫所にあった避病院は閉鎖され、広島衛戍病院(のち広島陸軍病院)で対応することになった[19]。1906年(明治39年)に陸軍運輸部の管轄となった[6][24]。
1910年(明治43年)第一検疫所の大部分を海軍に移管、つまり第一を海軍が第二を陸軍が管理することになり、第一は「呉海軍病院似島消毒所」として運用されることになった[19]。その後海軍消毒所(第一検疫所)は老朽化が進み、1923年(大正12年)海軍消毒所は三ツ子島(呉海軍病院三ツ子島消毒所)に移設され、旧海軍消毒所つまり旧第一検疫所は倉庫として用いられるようになった[19]。なおこの倉庫群は太平洋戦争末期には陸軍の施設となる(下記参照)がまた陸軍に移管された時期は不明。1940年(昭和15年)には第二検疫所の南側に軍馬用の「馬匹検疫所」が設置される[6]。
以下に、昭和初期までの検疫実績を示す(広島市調べ)[2]。なお日中戦争でも検疫が行われているが[17]、記録は不明。
捕虜収容所併設
元々この地に捕虜収容所が併設されたのは日露戦争の時である。1905年(明治38年)ロシア人捕虜を収容する「露西亜俘虜収容所」が似島第一検疫所に併設され、最大2,391人収容していた[6][20]。だだこれら捕虜は検疫後一時的に収容されていたものであり、ここから宇品へ渡り全国の収容所へ送られたと現在では考えられている[17]。
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俘虜情報局発行の写真集 | |
『大正三四年戦役俘虜写真帖』, 1918年。この中に似島俘虜收容所の写真がある。 |
第一次世界大戦の局面で日独戦争が勃発、戦争終結後当時大阪市にありドイツ人捕虜を収容していた「大阪俘虜収容所」が手狭となったことから閉鎖し移転することになった[20]。1917年(大正6年)2月19日、その移転先として似島第二検疫所内に似島俘虜収容所が開設した[20]。所長は大阪収容所所長の菅沼來がそのまま務め、ドイツ将兵536人、オーストリア兵9人、計545人が移送されている[20]。
第一次世界大戦勃発以降、俘虜収容所は全国各地につくられたが、それらは似島・久留米俘虜収容所(福岡)・板東俘虜収容所(徳島)・青野原俘虜収容所(兵庫)・名古屋俘虜収容所(愛知)・習志野俘虜収容所(千葉)と最終的に6つに統合され、中でも似島は板東とともに最終的に整備された俘虜収容所であり、唯一島に作られた収容所となった[20][25]。
ここに収容されたドイツ人捕虜はハーグ陸戦条約で守られいくつかの自由が許されており、彼らの一部は日本の文化に多大な影響を与えている[25]。
- カール・ユーハイム - バウムクーヘン
- ヘルマン・ウォルシュケ - ソーセージ・ホットドッグ
- ドイツでは食肉加工職人であり、日独戦争当時はドイツ兵だった[20]。
- ヘルマンの他、ヒューゴー・シュトルおよびルートヴィヒ・ケルンの3人は、広瀬町上水入町(現広島市中区)にあったハム製造会社"酒井商会"で食肉加工の技術指導を行っている[20][17]。この時の様子は大正8年12月25日付中国新聞に掲載されている。
- ヘルマンも似島独逸俘虜技術工芸品展覧会でソーセージを出品した。ユーハイムに展覧会でバームクーヘンを出品するよう助言した一人でもある[20]。
- 解放後日本に留まり、1934年(昭和9年)阪神甲子園球場で行われた日米野球で、日本で初めてホットドッグを販売した[20][26]。この「ヘルマンドック」は、復刻の形で2014年現在でも甲子園球場で販売されている[27]。
- カール・F・グラーザーら"似島イレブン" - サッカー
- 元々ドイツ人捕虜サッカーチームは大阪収容所時代に結成されたもので一軍と二軍の2チーム存在し、彼らは資料によっては"似島イレブン"と呼ばれている[20]。そのキャプテンがグラーザーだった。
- 1919年1月26日、親善を目的として似島イレブン二軍チームと広島高等師範学校や広島県師範学校や各附属学校合同チームとサッカーの試合が行われ、大差で似島イレブンが勝利している[20][25]。これらドイツ人捕虜チームとの試合は、日本初のサッカー国際試合とも言われている[20][28]。
- このとき広島高師の主将を務めた田中敬孝は捕虜のサッカー技術の高さに驚き、試合後、軍の許可を得てグラーザー達からサッカーを教わっている[20][25]。田中は翌年から広島一中の監督として指導し、ドイツ人から教わったという話を聞きつけた関西の師範学校から指導に来るよう頼まれるほど、捕虜のサッカー技術知識は需要があったという[25]。
- ユーハイムは大阪収容所時代にゴールキーパーとして参加していた記録が残っている[20]。
- 似島イレブンとして広島で試合に出た一人であるフーゴー・クライバーは、ドイツに帰国後ヴァンバイルでサッカークラブ「SV ヴァンバイル」を創設した[25]。このクラブは後にドイツ代表ギド・ブッフバルトを輩出している[25]。
その他の交流として、1919年5月18日広島市内でドイツ人捕虜による音楽会が開かれた記録がある(詳細は不明)[6]。
第一次世界大戦終結後、随時ドイツ人捕虜は開放され、この収容所は1920年(大正9年)4月1日閉鎖されている[20]。
被爆者救護
太平洋戦争末期、帰還兵が減少したことから検疫業務がほぼ行われなくなった[2]。第一検疫所は倉庫群つまり陸軍兵器補給廠似島弾薬庫と陸軍運輸部似島倉庫として用いられ、第二検疫所と馬匹検疫所は陸軍船舶司令部所属(暁部隊)の船舶防疫部および船舶衛生隊が駐屯していた[2]。
1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、広島市への原子爆弾投下。似島は 爆心地から海を隔てて島の北端で約8.3キロメートル、島の南端で約11.5キロメートルのところに位置した[29]。この際、似島検疫所は被爆者救護のために重要な役割を果たした。当時建物被害はほぼなく薬品類や医療器具の備蓄が約5,000人分あったことから、市内から船で被爆者が次々と運ばれていった[30]。ここまで運び込まれたのは、市内中心部の病院がほぼ壊滅し残ったものも多数の被爆者が訪れたことから麻痺状態となったことに加え、当時原爆症が伝染病の一つである赤痢だと誤認[31]されていた部分もある。更に、広島市は太田川水系の三角州に形成された街で市中心部へは船で遡って行くことが出来たことから、ここに駐屯していた暁部隊は船で救護に向かいそのままここまで運び込まれたためでもある[30]。倉庫として用いられていた旧第一検疫所ではなく、第二検疫所に運ばれている[6]。
同日午前10時ごろ、被爆者の第一陣が検疫所に到着、以降も受け入れが続き、薬もすぐ底をつき、同日夜には島内施設ではパンクする状況となり別の収容所へ移される事態となった[32][33]。検疫所に運ばれた負傷者は被爆後20日間で10,000人といわれる[2]。 船で運ばれる途中でなくなった者や検疫所でなくなった者、更に宇品や金輪島・己斐などからも運び込まれたことからと死体が溢れかえり、当初は火葬されていたがそれよりも死体が増え続けることから、島に掘られた防空壕に入れ単純埋葬された[34]。身元不明の遺体も多く、一人ずつ墓を建てられないということで、後に千人塚が建立された[34]。
検疫所に運ばれた人物の一人に、第2総軍教育参謀中佐で市内で被爆した李鍝がおり、この地でなくなっている。
同月12日ぐらいから負傷者は五日市町・廿日市町・宮島町・大竹町などの他の病院施設に移されていき、同月25日には残った500人の負傷者をすべて他へ転送され、救護所としての検疫所は閉鎖された[35]。
閉鎖と現状
映像外部リンク | |
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NHK平和アーカイブス | |
ドキュメンタリー 似島の怒り 1972年3月10日NHK放送分 |
検疫所自体は戦後も用いられており、翌1946年(昭和21年)から厚生省の管轄となり引き揚げや復員兵の検疫を行いつつ規模縮小しながらも存続、1958年(昭和33年)施設の老朽化に伴い似島検疫所は完全に閉鎖された[35]。
一方で検疫所施設は戦後直後から他のものへと転用された。まず1946年9月3日第一検疫所敷地内に「広島県戦災児教育所似島学園」(現在の似島学園)が開設される[36]。第二検疫所には1965年(昭和40年)「平和養老館」と1984年(昭和59年)「広島市似島臨海少年自然の家」が開設、馬匹検疫所には1949年(昭和24年)広島市立似島小学校および広島市立似島中学校が移設している[6]。
似島でなくなった人の具体的な数は現在もわかっていない。広島市は1947年(昭和22年)以降数度に渡り島内で発掘作業を行い、遺骨や遺品を遺族に返還している[37]。島内には検疫所関連の遺構や慰霊碑が多数存在している。
似島には、捕虜収容所時代の文化が残っている。例えば似島臨海少年自然の家では、バウムクーヘン作りが体験できる[38]。また似島はある時期には「サッカーの島」と呼ばれ[39]、似島学園創設者・森芳麿の息子である森健兒・森孝慈兄弟、堀口照幸や沖野等、似島中学校教諭の渡部英麿など、多くのサッカー選手を輩出している。
2011年(平成23年)の広島平和記念式典では、原爆死没者慰霊碑に捧げる献水に当地の井戸水が採用されている[40]。
略歴
第一検疫所 | 第二検疫所 | 馬匹検疫所 | |
---|---|---|---|
1895年 | 臨時陸軍似島検疫所開所 | -- | -- |
移管、陸軍第5師団似島検疫所 | |||
1897年 | 海軍に移管、海軍呉鎮守府似島検疫所 | ||
1904年 | 陸軍に移管、陸軍第5師団似島検疫所 | ||
1905年 | 陸軍第5師団似島検疫所第一 | 陸軍第二開所 | |
1905年 | 露西亜俘虜収容所併設 | ||
1906年 | 移管、陸軍運輸部似島検疫所第一/第二消毒所 | ||
1910年 | 海軍に移管、呉海軍病院似島消毒所 | 陸軍運輸部似島検疫所 | |
1917年 | 似島俘虜収容所併設 | ||
1920年 | 似島俘虜収容所閉所 | ||
1923年 | 閉鎖、倉庫に | 陸軍似島検疫所 | |
1940年 | -- | 陸軍似島検疫所 | 陸軍馬匹検疫所開所 |
1945年 | 広島市への原子爆弾投下 | ||
1946年 | 似島学園開校 | 移管、厚生省似島検疫所 | 閉鎖 |
1949年 | 似島学園 | 厚生省似島検疫所 | 市立似島小/似島中学校移転 |
1958年 | 似島学園 | 閉鎖 | 似島小/似島中 |
1965年 | 似島学園 | 平和養老館開館 | 似島小/似島中 |
1984年 | 似島学園 | 似島臨海少年自然の家開設 | 似島小/似島中 |
所長
- 陸軍似島検疫所
- 江間孚通 砲兵大佐:1895年5月6日 - [8]
- 石丸言知 憲兵中佐:1904年10月26日 - 1906年6月14日[41]
- 山本正熊 歩兵少佐:1906年6月15日 - [42]
- 福島知雄 歩兵少佐:1907年5月11日 - 7月26日
- 海軍呉海軍病院似島消毒所
脚注
- ^ a b 戦役検疫誌 1907, p. 121.
- ^ a b c d e f g h “軍都広島と似島検疫所”. 広島市平和記念資料館. 2014年5月17日閲覧。
- ^ a b c d e 千田武志. “明治期広島の医療とその特徴”. 医療と倫理を考える会. 2014年5月17日閲覧。
- ^ “歴史編(明治~大正)”. 広島市水道局. 2014年5月17日閲覧。
- ^ a b c d “後藤新平ゆかりの人々 石黒忠悳”. 後藤新平記念館. 2014年5月17日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i “陸軍検疫所”. 似島臨海少年自然の家. 2014年5月18日閲覧。
- ^ 臨戦地日誌 1899, p. 557.
- ^ a b 臨戦地日誌 1899, p. 619.
- ^ 臨戦地日誌 1899, p. 654.
- ^ 臨戦地日誌 1899, p. 656.
- ^ 臨戦地日誌 1899, p. 660.
- ^ “病院のご紹介”. 舟入市民病院. 2014年5月17日閲覧。
- ^ 臨戦地日誌, pp. 594–596.
- ^ 臨戦地日誌, p. 608.
- ^ “臨時陸軍検疫部職員死者追悼之碑”. 饒津神社. 2014年5月17日閲覧。
- ^ “後藤新平ゆかりの人々 児玉源太郎”. 後藤新平記念館. 2014年5月17日閲覧。
- ^ a b c d e “南区七大伝説” (PDF). 広島市. 2014年5月19日閲覧。
- ^ a b 海軍衛生制度史 1930, p. 274.
- ^ a b c d e 海軍衛生制度史 1930, p. 275.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r “ドイツ人俘虜収容所”. 似島臨海少年自然の家. 2014年5月17日閲覧。
- ^ 戦役検疫誌 1907.
- ^ 戦役検疫誌 1907, p. 3.
- ^ 戦役検疫誌 1907, pp. 175–180.
- ^ 臨時陸軍似島検疫所条例(明治39年6月12日勅令第148号)
- ^ a b c d e f g h 岸本肇 (2009年3月20日). “在日ドイツ兵捕虜のサッカー交流とその教育遺産”. 東京未来大学研究紀要. 2014年5月17日閲覧。
- ^ “ヘルマンさん”. 狛江市. 2014年5月17日閲覧。
- ^ “グルメ・ショップガイド”. 阪神甲子園球場. 2014年5月18日閲覧。
- ^ 『青島から来た兵士たち』瀬戸武彦著 同学社 2006年 、12、103、108-111、126、127頁
- ^ “原子爆弾の投下”. 広島市平和記念資料館. 2014年5月17日閲覧。
- ^ a b “被爆直後の救援活動”. 広島市平和記念資料館. 2014年5月17日閲覧。
- ^ “被爆直後の広島”. 広島市平和記念資料館. 2014年5月17日閲覧。
- ^ “似島にあふれる負傷者”. 広島市平和記念資料館. 2014年5月17日閲覧。
- ^ “苦しみ水を求める声、身内を捜して歩く人々”. 広島市平和記念資料館. 2014年5月17日閲覧。
- ^ a b “死者を送る”. 広島市平和記念資料館. 2014年5月17日閲覧。
- ^ a b “臨時野戦病院の閉鎖とその後の検疫所”. 広島市平和記念資料館. 2014年5月17日閲覧。
- ^ “原爆孤児達”. 広島市平和記念資料館. 2014年5月17日閲覧。
- ^ “遺骨の眠る似島”. 広島市平和記念資料館. 2014年5月17日閲覧。
- ^ “広島市似島臨海少年自然の家”. ひろしまナビゲーター. 2014年5月19日閲覧。
- ^ “広島サッカーの聖地”. 広島市. 2014年5月17日閲覧。
- ^ “原爆献水は似島検疫所跡から”. 中国新聞 (2011年7月27日). 2014年5月17日閲覧。
- ^ 戦役検疫誌 1907, p. 515.
- ^ 戦役検疫誌 1907, p. 518.
参考資料
- 『官報』
- 『ドイツからの贈りもの -国境を越えた奇跡の物語-』(2006年1月22日、テレビ新広島/CX)
- ドイツ人捕虜チームイレブンの写真から、子孫を探すドキュメンタリー。ユーハイムやウォルシュケのエピソードも登場した。
- 陸軍省『明治三十七八年戦役検疫誌』1907年 。2014年5月19日閲覧。
- 広島県庁『広島臨戦地日誌』志熊直人、1899年 。2014年5月19日閲覧。
- 清水辰太『海軍衛生制度史』 2巻、海軍軍医会、1930年 。2014年5月19日閲覧。
関連項目
- 牛田浄水場 - 同時期に同目的つまり伝染病流布防止を目的として竣工した「広島軍用水道」の浄水場。こちらは児玉源太郎が工事責任者であった。
- 国立病院機構東広島医療センター - 日清戦争の傷痍軍人療養所として開設。
- 海軍兵学校 - 似島の南側である江田島にあった海軍の施設。
- 日清戦争凱旋碑
外部リンク
- 似島の遺構 - 似島臨海少年自然の家