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'''理蕃政策'''(りばんせいさく) |
'''理蕃政策'''(りばんせいさく)においては、清朝統治下及び日本統治下の台湾において行われた先住系諸民族(現在の呼称;台湾原住民)に対する対応策の歴史について説明する。 |
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== 前史―清朝による理蕃政策 == |
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== 概要 == |
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漢族系の移民による開拓が、山岳部を中心とする辺境の地に及ぶに伴い、先住民族の生活圏を狭め、彼らの伝統的な生活様式を壊していった<ref name="dai47">戴(1988年)47ページ</ref>。行政当局はこれらへの対応策を策定せざるを得なり、いわゆる「理蕃政策」の必要にせまられた<ref name="dai47"/>。開拓者達は先住系諸民族に対して、酒肉、布、ガラス玉等を与え慰撫しながら開拓をした。ときには集団を組んで暴力的に闖入したので、「民(漢)蕃紛争」を呼び起こした<ref name="dai47"/>。[[清国]]による併合直後は、平地に住む「熟蕃」(のちに平埔族と呼ばれる)への漸進的な同化政策が主であった。[[1715年]]には帰属した「蕃社」(蕃人の部落)は53社におよんだ<ref name="dai47"/>。しかし平地から離れた僻地に住む「生蕃」(のちに高砂族と呼ばれる)に対しては、同化政策は容易ではなかった<ref name="dai47"/>。漢民族が山地に入りこむことによって、先住民族と衝突を起こすことを防ぐために、漢民族と先住民族との間に境界石を立て、両者の相互侵犯を禁止しようとしたが、効果は薄かった<ref name="dai47"/>。 |
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初期の対原住民政策は、[[1895年]]の[[下関条約]]以前に台湾を領有していた[[清朝]]の対原住民政策を引き継ぐ形で始まった。台湾接収当初、[[台湾総督府]]は平野部に住む漢民族による抵抗運動の鎮圧に忙殺されていたので[[隘勇線]](あいゆうせん)と呼ばれる封鎖線を敷き、原住民を居住区域に閉じこめる措置がとられた程度であった。 |
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== 台湾総督府による初期理蕃政策 == |
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平野部の平定がすすむに従って台湾総督府は原住民の住む山地への浸透をはかり、抵抗する部族に対する討伐が繰り返された。帰順した部族に対しては本格的な理蕃政策が開始され、1910年の「五箇年計画理蕃事業」から本格化した。原住民の居住地は「特別居住区域」とされ、一般の法律が適用されず、警察が司法・行政権を執行した。 |
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[[1894年]](明治27年)の[[日清戦争]]の結果[[1895年]](明治28年)[[下関条約]]の締結を経て台湾は日本に清朝より割譲されたが、台湾に居住していた住民は[[台湾民主国]]を樹立して頑強にこれに抵抗した<ref name="kondou35">近藤(1992年)35ページ</ref>。明治国家にしてみれば、予想外に激烈であったため、初代[[台湾総督]][[樺山資紀]]から第4代の[[児玉源太郎]]までの期間は、台湾北部と西部を中心とする漢民族が居住する「平地」の軍事的制圧と治安維持に専念せざるを得なかった<ref name="kondou35"/>。漢民族が集中する「平地」で、支配領域を拡大するための戦闘行為を続ける一方で、先住民族を敵に回す愚を避けたのである<ref name="kondou36">近藤(1992年)36ページ</ref>。 |
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== 五箇年理蕃計画 == |
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そもそも山地先住民族は、オランダ人支配、鄭氏政権、清国統治の各時代を通じて服従したことはなく、支配権力も徹底的に鎮圧してまで服従させることはなかった<ref name="itou96">伊藤(1993年)96ページ</ref>。この点で平地先住民族が、支配権力による教科が進んでおり、異民族との交流や通婚を通じて漢民族化が進んでいたのとは対照的である<ref name="itou96"/>。山地先住民族には、支配権力の交代も関係なく、ましては服従などは無縁の存在であった<ref name="itou96"/>。そして新たな支配者にたいしては、自らの生活空間を侵犯する者として反感を強めていた<ref name="itou96"/>。 |
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総督府は、「平地」の抗日ゲリラを鎮圧すると、[[台湾総督府]]は先住民族の住む山岳部への浸透をはかるため、「蕃地」に住む「蕃人」に対する政策、すなわち「理蕃」政策を模索することになる<ref name="kondou36"/>。新領土としての台湾の経営確立を急ぎたい児玉は、『野生禽獣ニ斉シ』い「蕃人」は、誘導などの緩慢な手段でなく、いきおい絶滅させるという政策を構想した<ref name="kondou36"/>。しかし、総督府参事官持地六三郎は、「蕃地」は利源の宝庫であることに着目し、「蕃人」に対しての研究と「蕃地の状況」を知悉した後、「威嚇して後撫する」方針を採用するように提案した<ref name="kondou36"/>。第5代総督の[[佐久間左馬太]]は、持地のこの提案を踏襲した<ref name="kondou36"/>。[[1909年]](明治42年)に「五箇年理蕃計画」として5か年にわたる「北蕃」の「討伐」を開始した<ref name="kondou36"/>。佐久間の「討伐」は、以下の手順で行われた<ref name="kondou36"/>。 |
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#官庁の命令に対する絶対遵守と「[[隘勇制度|隘勇線]]」と呼ばれる防御ライン内への侵入禁止などを内容とする帰順勧告を出す<ref name="kondou36"/>。 |
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#帰順勧告に従わない場合には「隘勇線」で塩や銃の流入を防ぎながら、「隘勇線」を徐々に前進させる<ref name="kondou36"/>。これにより、先住民族を標高3000メートル級の高山が連なる台湾中央山系に追いあげ、追いつめ、餓死か降伏かの択一を迫る<ref name="oe10">大江(1992年)10ページ</ref>。 |
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#「隘勇線」を前進させた後は、再び山嶺を開いて道路を設け、要所には火砲を配置した堡類を構築した<ref name="kondou37">近藤(1992年)37ページ</ref>。 |
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#先住民族がそれに抗しきれず帰順すると、抵抗手段だった銃器が押収された。 |
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#銃器を押収した地域からは軍隊が撤収し、帰順条件を維持させる作業が警察に課された<ref name="kondou37"/>。警察は、「蕃地道路」とか「警察道路」と呼ぶ道路を開き、その道路沿いに警察官吏駐在所、警戒所、分遣所を次々設置した<ref name="kondou37"/>。 |
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== 理蕃警察機構の形成 == |
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[[Image:Er nd 3037 TaiwaneseAborigines.jpg|thumb|200px|境界線に設けられた交易所]] |
[[Image:Er nd 3037 TaiwaneseAborigines.jpg|thumb|200px|境界線に設けられた交易所]] |
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先住民族より銃器を取り上げた後に警察官が管轄することになった「蕃地」は、もともと樟脳の原料の確保のために、総督府殖産部が管轄していた<ref name="kondou37"/>。1899年(明治32年)に[[樟脳]]専売制を開始し、製脳事業を台湾経営の主要財源に充てるべく、「蕃地」を国有化もしている<ref name="kondou37"/>。しかし「蕃地」へ入っていくには、「蕃害」と呼ばれた抵抗に遭うため、「理蕃警察」と呼ばれる独自の警察に「蕃地」の管轄が移行した<ref name="kondou37"/>。総督府中央には、警務局理蕃課に監察、整備、受産、教育、衛生、交易、蕃地開発の6つの係がおかれた<ref name="kondou37"/>。地方には警務局から直接指示を受けていた州庁理蕃課や理蕃係がおかれ、終始一貫して「蕃地」行政の全てを一元的に管轄した<ref name="kondou38">近藤(1992年)38ページ</ref>。 |
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具体的には以下の様な事が行われた。医療など特別な技術を要するものを除いて、現地に駐在する警察官が行った。 |
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「蕃地」は、行政的にも「平地」と切り離され、普通の行政法令が行われない蕃人居住の地とされ、特有の法令しかも主として特有の警察法令が行われているだけの「特別行政区」となったのである<ref name="kondou39">近藤(1992年)39ページ</ref>。そもそも「平地」においても、台湾警察は、「[[匪徒刑罰令]]」、「[[罰金及笞刑処分例]]」、「犯罪即決例」(警察署長などが軽罪の一部を即決できた)などの本国に見られないような苛酷な弾圧法規を有していた<ref name="kondou39"/>。「蕃地」では、「平地」の弾圧法すらも敷かれていないほど理蕃警察に大きな権限が与えられていた<ref name="kondou39"/>。理蕃警察はすべての行政を兼ねた<ref name="kondou39"/>。個々の警察官は、学校の教師にもなり、病院の医者にもなり、受産機関の技師にもなり、交易所の取引担当者にもなった。理蕃警察は、先住民族の生殺与奪の権利を握っていたのである<ref name="kondou39"/>。 |
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*出草(しゅっそう…いわゆる[[首狩り]])に代表される原住民固有の風習の根絶 |
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*土地の国有化 |
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*平地住民(漢民族)との分離 |
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*原住民部族のリーダーを東京などに招く(懐柔と威嚇を兼ねる措置) |
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*殖産興業、貨幣経済の導入 |
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*蕃童教育所の設置による初等教育・日本語の普及 |
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*日本人(主として警察官)と原住民の女性との政略結婚 |
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*優秀な原住民の子弟を警察官などに登用する |
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*強制移住(平地定住化) |
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== 土地収奪と集団移住 == |
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== 効果 == |
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[[1930年]](昭和5年)から8年に及ぶ「蕃地開発調査」が行われ、現地警察官の立会のもとに「蕃社」単位で水田用あるいは畑作地用の適地を選定し、先住民族の安定した生活に必要な面積を、一人あたり2.883平方メートル、総面積にして24万3665平方メートルと査定した<ref name="kondou45">近藤(1992年)45ページ</ref>。総督府は先に、先住民族の専有する蕃地の総面積を44.5万平方メートルと算定していたので、差引20万平方メートルを収奪できると見込んだことになる<ref name="kondou45"/>。先住民族は、先祖伝来の土地から駆逐され、総督府があらかじめ「平地」へ用意していた「保留地」へ集団移住させられた<ref name="kondou45"/>。当初は移住先の保留地が肥沃であり、集団移住も順調に進んだ<ref name="kondou47">近藤(1992年)47ページ</ref>。しかし、台湾西部では、肥沃地はまたたく間に減少し、[[1934年]](昭和9年)には、「平地」以外にも保留地を求めざるを得ないと認めざるを得なかった<ref name="kondou47"/>。さらには、先に移住がされていた土地に、後から追加して移住させる「割り込み移住」も行われた<ref name="kondou47"/>。 |
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警察官が原住民の村々にくまなく駐在して威圧と指導を行った結果、当初散発的に起こっていた武力的な抵抗は影を潜めていった。しかしながら、当初の理蕃事業はその理念とは裏腹に原住民達に対して差別的な印象を与えるものであった。また、当時の国民一般の台湾原住民に対する意識も同様であり、雑誌等の誌面には「けっして人間とは思われない」などの記述がされていた。こうしたなか理蕃事業の先進地域と見なされていた霧社で起こった原住民による最大にして最後の蜂起が[[1930年]]の[[霧社事件]]である。こうした蜂起は日本の警察・軍によって鎮圧された。 |
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== 霧社事件と理蕃政策の見直し == |
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霧社事件の発生に衝撃を受けた[[台湾総督府]]は理蕃政策そのものに抜本的な見直しを行い[[1931年]]に「理蕃政策大綱」を制定した。これによって原住民の呼称は、平地に住むものは「平埔蕃」から「平埔族」に、山地に住むものは「生蕃」から「高砂族」に改められた。日本人と同等の民族として位置づけられ、[[皇民化教育]]が最優先されるようになった。 |
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理蕃警察は、先住民族の生殺与奪を握っており、そのような中、理蕃事業の先進地域と見なされていた霧社で、最大にして最後の先住民族蜂起である[[霧社事件]]が1930年(昭和5年)10月27日に発生した<ref name="kondou53">近藤(1992年)53ページ</ref>。この蜂起は日本の警察と軍によって鎮圧されたが、これに大きな衝撃を受けた総督府は、理蕃政策そのものの抜本的な見直しを迫られた<ref name="kondou54">近藤(1992年)54ページ</ref>。新たに台湾総督に就任した太田政弘は、着任した訓示の中で霧社事件の善後策を政治課題とすることを表明した<ref name="kondou54"/>。太田の下で理蕃体制の再建を図った新警務局長井上英や理蕃課長石川定俊は、同事件の原因を特定しようとした。井上は、同事件の原因を「警察官が往々にして欺瞞等をもって蕃人に臨むこと」や「官紀上許すべからざる非違」があったと示唆した。理蕃警察官の質や勤務条件に「理蕃の根本問題」を見て取ったのである<ref name="kondou54"/>。[[1931年]](昭和6年)12月28日に「理蕃政策大綱」を制定し、理蕃警察官の「座右の銘」とさせた<ref name="kondou54"/>。同大綱第1項には、「理蕃は蕃人を教化し、其の生活の安定を図り、一視同仁の聖徳に浴せしむることを以って目的とする」とある<ref name="kondou56">近藤(1992年)56ページ</ref>。このとき「一視同仁」の対象が「蕃人」では、具合が悪いので、先住民族の呼称を、平地に住む「熟蕃」は「平埔族」に、山地に住む「生蕃」は「高砂族」へとそれぞれ改めた<ref name="kondou57">近藤(1992年)57ページ</ref><ref name="dai80">戴(1988年)80ページ</ref>。すなわち、「理蕃」をして先住民族の征服ではなく、「一視同仁」という高邁な事業として昇華させ、警察官に高邁な天職意識を植え付けるとともに、先住民族への憎悪軽視の対象としないことを意識させることにより、霧社事件のような「不祥事」の再発を防ごうとしたのである<ref name="kondou56"/>。厳重な警戒態勢のもとでの皇民化政策こそが、霧社事件後の理蕃政策となった<ref name="kondou56"/>。 |
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== 皇民化運動と先住民族 == |
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結果的に『[[産経新聞]]』の取材によると、台湾原住民は「日本統治が台湾を発展させた」と考える人が多く、特に日本統治時代に日本側が原住民の文化についての詳細な調査・記録や研究をおこなったことが、原住民が自らの伝統文化を継承するにあたって大きな助けになっていると評価をしている<ref>{{cite news |
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| author = 今泉有美子 |
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[[日中戦争]]の開始と、これに伴い武官総督制が復活する。それとともに、本格的な皇民化運動が推進される。[[1937年]](昭和12年)4月から、台湾人の母語の使用が制限され、新聞の漢文欄も廃止され、伝統的宗教行事も禁止された<ref name="dai80"/>。さらに日本語の使用強制、天照大神の奉祀や日本式姓名への改姓名運動が終戦直前まで強行された<ref name="dai80"/>。そして[[アジア・太平洋戦争]]の勃発後、先住民族の青年たちは、一転して同胞扱いされ、南方作戦へ動員され、再び犠牲となることとなった<ref name="dai80"/>。陸海軍から供出を命ぜられた総督府が、軍後方任務の労務者、山地戦要員として前後8回ほど「[[高砂義勇隊]]」を編成して先住民族を南方戦線に送った<ref name="kondou58">近藤(1992年)58ページ</ref>。その高砂義勇隊を指揮したのは、理蕃警察官であった。「蕃社」における警察支配の構造がそのまま戦場に移動していったのである<ref name="kondou58"/>。また先住民族統治技術のマニュアルとしての「理蕃大綱」は、「文化の低い南方原住民指導の一大指針、すなわち無二の指導者心得帳たりうるもの」として、南方の少数民族に対しても用いられようとした<ref name="kondou58"/>。 |
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| url = http://sankei.jp.msn.com/world/china/091224/chn0912240124000-n1.htm |
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| title = 日本が残した先住民の資料 「台湾文化守った」 テーマパーク建設に貢献 |
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| newspaper = 産経新聞 |
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| date = 2009-12-24 |
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| accessdate = 2010-01-02 |
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== 国民党統治下 == |
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[[1945年]]の[[日本の降伏]]により、第2次大戦後は「理蕃」という名前こそ改められたが、基本的な枠組みは[[国民政府|国民党政府]]に継承された。現在も原住民の居住地域は「山地管制区」と呼ばれ、外部の人間が出入りし、経済活動を行うことが制限されている。(これは現在では隔離政策と言うよりも保護措置として受け止められている。) |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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== 参考文献 == |
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* 載國煇「台湾―人間・歴史・心性―」(1988年)岩波新書 |
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* 岩波講座「近代日本と植民地(第2巻)帝国統治の構造」所収、近藤正巳「2台湾総督府の「理蕃」体制と霧社事件」 |
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* 伊藤潔「台湾-四百年の歴史と展望」(1993年)中公新書 |
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* 岩波講座「近代日本と植民地(第2巻)帝国統治の構造」所収、大江志乃夫「1植民地戦争と総督府の成立」 |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[台湾原住民]] |
* [[台湾原住民]] |
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* [[同化政策]] |
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* [[樟脳と台湾]] |
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* [[匪徒刑罰令]] |
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* [[罰金及笞刑処分例]] |
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* [[皇民化]] |
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2014年10月15日 (水) 09:17時点における版
理蕃政策(りばんせいさく)においては、清朝統治下及び日本統治下の台湾において行われた先住系諸民族(現在の呼称;台湾原住民)に対する対応策の歴史について説明する。
前史―清朝による理蕃政策
漢族系の移民による開拓が、山岳部を中心とする辺境の地に及ぶに伴い、先住民族の生活圏を狭め、彼らの伝統的な生活様式を壊していった[1]。行政当局はこれらへの対応策を策定せざるを得なり、いわゆる「理蕃政策」の必要にせまられた[1]。開拓者達は先住系諸民族に対して、酒肉、布、ガラス玉等を与え慰撫しながら開拓をした。ときには集団を組んで暴力的に闖入したので、「民(漢)蕃紛争」を呼び起こした[1]。清国による併合直後は、平地に住む「熟蕃」(のちに平埔族と呼ばれる)への漸進的な同化政策が主であった。1715年には帰属した「蕃社」(蕃人の部落)は53社におよんだ[1]。しかし平地から離れた僻地に住む「生蕃」(のちに高砂族と呼ばれる)に対しては、同化政策は容易ではなかった[1]。漢民族が山地に入りこむことによって、先住民族と衝突を起こすことを防ぐために、漢民族と先住民族との間に境界石を立て、両者の相互侵犯を禁止しようとしたが、効果は薄かった[1]。
台湾総督府による初期理蕃政策
1894年(明治27年)の日清戦争の結果1895年(明治28年)下関条約の締結を経て台湾は日本に清朝より割譲されたが、台湾に居住していた住民は台湾民主国を樹立して頑強にこれに抵抗した[2]。明治国家にしてみれば、予想外に激烈であったため、初代台湾総督樺山資紀から第4代の児玉源太郎までの期間は、台湾北部と西部を中心とする漢民族が居住する「平地」の軍事的制圧と治安維持に専念せざるを得なかった[2]。漢民族が集中する「平地」で、支配領域を拡大するための戦闘行為を続ける一方で、先住民族を敵に回す愚を避けたのである[3]。
五箇年理蕃計画
そもそも山地先住民族は、オランダ人支配、鄭氏政権、清国統治の各時代を通じて服従したことはなく、支配権力も徹底的に鎮圧してまで服従させることはなかった[4]。この点で平地先住民族が、支配権力による教科が進んでおり、異民族との交流や通婚を通じて漢民族化が進んでいたのとは対照的である[4]。山地先住民族には、支配権力の交代も関係なく、ましては服従などは無縁の存在であった[4]。そして新たな支配者にたいしては、自らの生活空間を侵犯する者として反感を強めていた[4]。 総督府は、「平地」の抗日ゲリラを鎮圧すると、台湾総督府は先住民族の住む山岳部への浸透をはかるため、「蕃地」に住む「蕃人」に対する政策、すなわち「理蕃」政策を模索することになる[3]。新領土としての台湾の経営確立を急ぎたい児玉は、『野生禽獣ニ斉シ』い「蕃人」は、誘導などの緩慢な手段でなく、いきおい絶滅させるという政策を構想した[3]。しかし、総督府参事官持地六三郎は、「蕃地」は利源の宝庫であることに着目し、「蕃人」に対しての研究と「蕃地の状況」を知悉した後、「威嚇して後撫する」方針を採用するように提案した[3]。第5代総督の佐久間左馬太は、持地のこの提案を踏襲した[3]。1909年(明治42年)に「五箇年理蕃計画」として5か年にわたる「北蕃」の「討伐」を開始した[3]。佐久間の「討伐」は、以下の手順で行われた[3]。
- 官庁の命令に対する絶対遵守と「隘勇線」と呼ばれる防御ライン内への侵入禁止などを内容とする帰順勧告を出す[3]。
- 帰順勧告に従わない場合には「隘勇線」で塩や銃の流入を防ぎながら、「隘勇線」を徐々に前進させる[3]。これにより、先住民族を標高3000メートル級の高山が連なる台湾中央山系に追いあげ、追いつめ、餓死か降伏かの択一を迫る[5]。
- 「隘勇線」を前進させた後は、再び山嶺を開いて道路を設け、要所には火砲を配置した堡類を構築した[6]。
- 先住民族がそれに抗しきれず帰順すると、抵抗手段だった銃器が押収された。
- 銃器を押収した地域からは軍隊が撤収し、帰順条件を維持させる作業が警察に課された[6]。警察は、「蕃地道路」とか「警察道路」と呼ぶ道路を開き、その道路沿いに警察官吏駐在所、警戒所、分遣所を次々設置した[6]。
理蕃警察機構の形成
先住民族より銃器を取り上げた後に警察官が管轄することになった「蕃地」は、もともと樟脳の原料の確保のために、総督府殖産部が管轄していた[6]。1899年(明治32年)に樟脳専売制を開始し、製脳事業を台湾経営の主要財源に充てるべく、「蕃地」を国有化もしている[6]。しかし「蕃地」へ入っていくには、「蕃害」と呼ばれた抵抗に遭うため、「理蕃警察」と呼ばれる独自の警察に「蕃地」の管轄が移行した[6]。総督府中央には、警務局理蕃課に監察、整備、受産、教育、衛生、交易、蕃地開発の6つの係がおかれた[6]。地方には警務局から直接指示を受けていた州庁理蕃課や理蕃係がおかれ、終始一貫して「蕃地」行政の全てを一元的に管轄した[7]。 「蕃地」は、行政的にも「平地」と切り離され、普通の行政法令が行われない蕃人居住の地とされ、特有の法令しかも主として特有の警察法令が行われているだけの「特別行政区」となったのである[8]。そもそも「平地」においても、台湾警察は、「匪徒刑罰令」、「罰金及笞刑処分例」、「犯罪即決例」(警察署長などが軽罪の一部を即決できた)などの本国に見られないような苛酷な弾圧法規を有していた[8]。「蕃地」では、「平地」の弾圧法すらも敷かれていないほど理蕃警察に大きな権限が与えられていた[8]。理蕃警察はすべての行政を兼ねた[8]。個々の警察官は、学校の教師にもなり、病院の医者にもなり、受産機関の技師にもなり、交易所の取引担当者にもなった。理蕃警察は、先住民族の生殺与奪の権利を握っていたのである[8]。
土地収奪と集団移住
1930年(昭和5年)から8年に及ぶ「蕃地開発調査」が行われ、現地警察官の立会のもとに「蕃社」単位で水田用あるいは畑作地用の適地を選定し、先住民族の安定した生活に必要な面積を、一人あたり2.883平方メートル、総面積にして24万3665平方メートルと査定した[9]。総督府は先に、先住民族の専有する蕃地の総面積を44.5万平方メートルと算定していたので、差引20万平方メートルを収奪できると見込んだことになる[9]。先住民族は、先祖伝来の土地から駆逐され、総督府があらかじめ「平地」へ用意していた「保留地」へ集団移住させられた[9]。当初は移住先の保留地が肥沃であり、集団移住も順調に進んだ[10]。しかし、台湾西部では、肥沃地はまたたく間に減少し、1934年(昭和9年)には、「平地」以外にも保留地を求めざるを得ないと認めざるを得なかった[10]。さらには、先に移住がされていた土地に、後から追加して移住させる「割り込み移住」も行われた[10]。
霧社事件と理蕃政策の見直し
理蕃警察は、先住民族の生殺与奪を握っており、そのような中、理蕃事業の先進地域と見なされていた霧社で、最大にして最後の先住民族蜂起である霧社事件が1930年(昭和5年)10月27日に発生した[11]。この蜂起は日本の警察と軍によって鎮圧されたが、これに大きな衝撃を受けた総督府は、理蕃政策そのものの抜本的な見直しを迫られた[12]。新たに台湾総督に就任した太田政弘は、着任した訓示の中で霧社事件の善後策を政治課題とすることを表明した[12]。太田の下で理蕃体制の再建を図った新警務局長井上英や理蕃課長石川定俊は、同事件の原因を特定しようとした。井上は、同事件の原因を「警察官が往々にして欺瞞等をもって蕃人に臨むこと」や「官紀上許すべからざる非違」があったと示唆した。理蕃警察官の質や勤務条件に「理蕃の根本問題」を見て取ったのである[12]。1931年(昭和6年)12月28日に「理蕃政策大綱」を制定し、理蕃警察官の「座右の銘」とさせた[12]。同大綱第1項には、「理蕃は蕃人を教化し、其の生活の安定を図り、一視同仁の聖徳に浴せしむることを以って目的とする」とある[13]。このとき「一視同仁」の対象が「蕃人」では、具合が悪いので、先住民族の呼称を、平地に住む「熟蕃」は「平埔族」に、山地に住む「生蕃」は「高砂族」へとそれぞれ改めた[14][15]。すなわち、「理蕃」をして先住民族の征服ではなく、「一視同仁」という高邁な事業として昇華させ、警察官に高邁な天職意識を植え付けるとともに、先住民族への憎悪軽視の対象としないことを意識させることにより、霧社事件のような「不祥事」の再発を防ごうとしたのである[13]。厳重な警戒態勢のもとでの皇民化政策こそが、霧社事件後の理蕃政策となった[13]。
皇民化運動と先住民族
日中戦争の開始と、これに伴い武官総督制が復活する。それとともに、本格的な皇民化運動が推進される。1937年(昭和12年)4月から、台湾人の母語の使用が制限され、新聞の漢文欄も廃止され、伝統的宗教行事も禁止された[15]。さらに日本語の使用強制、天照大神の奉祀や日本式姓名への改姓名運動が終戦直前まで強行された[15]。そしてアジア・太平洋戦争の勃発後、先住民族の青年たちは、一転して同胞扱いされ、南方作戦へ動員され、再び犠牲となることとなった[15]。陸海軍から供出を命ぜられた総督府が、軍後方任務の労務者、山地戦要員として前後8回ほど「高砂義勇隊」を編成して先住民族を南方戦線に送った[16]。その高砂義勇隊を指揮したのは、理蕃警察官であった。「蕃社」における警察支配の構造がそのまま戦場に移動していったのである[16]。また先住民族統治技術のマニュアルとしての「理蕃大綱」は、「文化の低い南方原住民指導の一大指針、すなわち無二の指導者心得帳たりうるもの」として、南方の少数民族に対しても用いられようとした[16]。
脚注
- ^ a b c d e f 戴(1988年)47ページ
- ^ a b 近藤(1992年)35ページ
- ^ a b c d e f g h i 近藤(1992年)36ページ
- ^ a b c d 伊藤(1993年)96ページ
- ^ 大江(1992年)10ページ
- ^ a b c d e f g 近藤(1992年)37ページ
- ^ 近藤(1992年)38ページ
- ^ a b c d e 近藤(1992年)39ページ
- ^ a b c 近藤(1992年)45ページ
- ^ a b c 近藤(1992年)47ページ
- ^ 近藤(1992年)53ページ
- ^ a b c d 近藤(1992年)54ページ
- ^ a b c 近藤(1992年)56ページ
- ^ 近藤(1992年)57ページ
- ^ a b c d 戴(1988年)80ページ
- ^ a b c 近藤(1992年)58ページ
参考文献
- 載國煇「台湾―人間・歴史・心性―」(1988年)岩波新書
- 岩波講座「近代日本と植民地(第2巻)帝国統治の構造」所収、近藤正巳「2台湾総督府の「理蕃」体制と霧社事件」
- 伊藤潔「台湾-四百年の歴史と展望」(1993年)中公新書
- 岩波講座「近代日本と植民地(第2巻)帝国統治の構造」所収、大江志乃夫「1植民地戦争と総督府の成立」