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「ベーラ3世 (ハンガリー王)」の版間の差分

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'''ベーラ3世''' ({{lang-hu|III. Béla}}、{{lang-hr|Bela III}}、{{lang-sk|Belo III}}、[[1148年]]頃 - [[1196年]][[4月23日]])は、 [[ハンガリー王国]][[アールパード朝]]の[[ハンガリー国王一覧|ハンガリー国王]]、および[[クロアチア国王]](在位:[[1172年]] - 1196年)。ハンガリー王[[ゲーザ2世]]と[[エフロシニヤ・ムスチスラヴナ]]の次男にあたる。


== 概要 ==
'''ベーラ3世'''(III. Béla, [[1148年]] - [[1196年]][[4月23日]])は、[[ハンガリー王国]][[アールパード朝]]の国王(在位:[[1172年]] - 1196年)。[[ゲーザ2世]]の次男。
[[1161年]]頃にベーラは母のエフロシニヤからクロアチア、[[ダルマチア]]中央部、[[シルミウム]]を含む公国を授与された。[[1162年]]にハンガリー王に即位した兄[[イシュトヴァーン3世]]と[[東ローマ帝国の皇帝一覧|ビザンツ(東ローマ)皇帝]][[マヌエル1世コムネノス]]の間に結ばれた条約によって、ベーラは[[1163年]]に[[コンスタンティノープル]]に移送される。コンスタンティノープルに送られたベーラはマヌエル1世から「アレクシオス」の名前、上級の宮廷職として新設された[[専制公|デスポト]]の称号を与えられ、マヌエル1世の娘マリア・コムネナとの婚約が取り決められた。イシュトヴァーン3世はベーラの世襲地であるクロアチア、ダルマチア、シルミウムにおけるビザンツの支配力の抑制を試み、[[1164年]]から[[1167年]]にかけてハンガリーとビザンツの間に武力衝突が発生する。[[1165年]]にマヌエル1世から帝位継承者に指名されたベーラは3度にわたるハンガリー遠征に従軍した。[[1169年]]にマヌエル1世が男子(後のビザンツ皇帝[[アレクシオス2世コムネノス|アレクシオス2世]])を授かると、ベーラとマリアの婚約は解消される。マヌエル1世はベーラからデスポトの称号を没収し、下位の[[カエサル (称号)|カエサル]]の称号を授与した。


1172年3月4日にイシュトヴァーン3世が没した時、ベーラはハンガリーへの帰国を決意し、出発に際してビザンツとの戦争を行わないことを誓約した。ハンガリーの高位聖職者と貴族は満場一致でベーラの即位を承認するが、[[エステルゴム大司教]]ルカーチはベーラの[[聖職売買]]の疑惑を挙げて即位に反対した。最終的に[[教皇]][[アレクサンデル3世 (ローマ教皇)|アレクサンデル3世]]の承認を受けて、[[1173年]][[1月18日]]にベーラは[[カロチャ大司教]]からハンガリー王に戴冠された。即位したベーラは競争相手である弟のゲーザを逮捕し、10年以上にわたって彼を獄中に監禁する。マヌエル1世の死後にビザンツ内で起きた混乱に乗じて、ベーラはクロアチア、ダルマチア、シルミウムをビザンツから奪回した。[[1188年]]には[[ガーリチ公国]]を占領するが、2年足らずで喪失した。
即位前は人質として[[東ローマ帝国]]の皇帝[[マヌエル1世コムネノス]]のもとで過ごした。マヌエル1世は40歳を過ぎても男児に恵まれなかったため、聡明なベーラ3世を娘婿に迎えてマヌエル1世の祖父の名である「[[アレクシオス1世コムネノス|アレクシオス]]」という名とデスポテース([[専制侯]]、当時は皇帝に次ぐ地位)の位を与え、帝位継承者として遇したが、[[1169年]]にマヌエル1世に男児が誕生したこと(後の[[アレクシオス2世コムネノス]])、[[1172年]]に兄でハンガリー王であった[[イシュトヴァーン3世]]が嗣子なくして死去したこともあって、ベーラ3世は帰国し、ハンガリー王として即位することとなった。


ベーラ3世は当時のヨーロッパの君主の中で最も裕福な人物とされているが、その根拠となる収入表の信憑性は疑問視されている。ベーラ3世の時代には筆写による記録が推進され、14世紀以降のハンガリーの[[年代記]]ではベーラは宮廷裁判所の確立に大きな役割を果たしたことが述べられている。
即位後は貴族らの内紛を鎮め、東ローマ帝国と同盟を結んだ。[[ミュリオケファロンの戦い]]でも援軍を送っている。[[1180年]]にマヌエル1世が死ぬと積極的な対外進出を行ない、[[ボスニア]]や[[セルビア]]、[[クロアチア]]、[[ダルマチア]]、[[ヴェネツィア共和国]]からの[[ザダル|ザラ]]奪取など、その戦果には目覚ましいものがあった。
また、ベーラの治世に[[エステルゴム]]に建てられた宮殿は、中央ヨーロッパにおける最初期の[[ゴシック様式|ゴシック建設]]の一つに挙げられている。


== 生涯 ==
ベーラ3世の時代にハンガリー王国は全盛期を迎えた。しかしベーラ3世の死後、長男の[[イムレ1世]]と次男の[[アンドラーシュ2世]](エンドレ2世)との間で王位継承争いが起こった結果、王国は混乱し、衰退することとなった。
=== 幼少期 ===
[[File:Gejza2 UH.jpg|thumb|right|190px|ゲーザ2世の印章]]
ベーラ3世はハンガリー王[[ゲーザ2世]]と[[キエフ]]の[[エフロシニヤ・ムスチスラヴナ]]の次男として生まれるが{{sfn|Makk|1994|p=91}}{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=204}}、彼の誕生日についての記録は残されていない{{sfn|Makk|1994|p=91}}{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=204}}。後世に実施された遺骨の調査によって没時の年齢が49歳前後であることが明らかになり、1148年頃に生まれたと推定されている{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=204}}。


ベーラ3世と同時代の歴史家[[ヨハネス・キンナモス]]の「ゲーザ2世は生きている間に領土を分配した」<ref>''Deeds of John and Manuel Comnenus by John Kinnamos'' (5.5), p. 163.</ref>という記述は、ゲーザ2世が幼少期のベーラに領土を授与したことを示している{{sfn|Makk|1989|pp=77, 123}}。ベーラに与えられた領土については諸説分かれており、キンナモスの「ベーラの相続地」に関する記述から数十年にわたってハンガリー王国の宗主権を受け入れていた[[シベニク]]、[[スプリト]]、[[トロギル]]を含む[[ダルマチア]]中央部はベーラの世襲地に確実に含まれていたと考えられている<ref>''Deeds of John and Manuel Comnenus by John Kinnamos'' (5.17), p. 187.</ref>{{sfn|Makk|1989|p=77}}{{sfn|Stephenson|2000|pp=198, 251}}{{sfn|Magdalino|1993|p=79}}。歴史家のFerenc MakkとGyula Moravcsik はベーラが[[クロアチア]]を授与されたという点で意見が一致しているが{{sfn|Makk|1989|pp=77, 155}}、[[シルミウム]]が領地に含まれていたか、父の死後に相続したかについては研究者の間で意見が分かれている{{sfn|Makk|1989|p=77}}{{sfn|Magdalino|1993|p=79}}{{sfn|Curta|2006|p=332}}{{sfn|Treadgold|1997|p=646}}。また、Warren Treadgoldはベーラの世襲地には[[ボスニア]]も含まれていたと主張している{{sfn|Treadgold|1997|p=646}}。ベーラがゲーザ2世から公国を授与された正確な日付は判明していないが、Makkは[[1161年]]頃に公国を与えられたと考えている{{sfn|Makk|1989|p=77}}。
現存する[[聖イシュトヴァーンの王冠]]はこの時代に作られたと考えられている。


1162年5月31日にゲーザ2世が没した後、ゲーザ2世の長男[[イシュトヴァーン3世]]がハンガリー王位を継承した{{sfn|Makk|1989|p=79}}。イシュトヴァーン3世は即位して間もなく、反乱を起こした叔父の[[ラースロー2世|ラースロー]]、[[イシュトヴァーン4世|イシュトヴァーン]]によってハンガリーを追放される{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=205}}{{sfn|Engel|2001|p=52}}。ラースローたちの反乱にはビザンツ皇帝[[マヌエル1世コムネノス|マヌエル1世]]も加担していたが、[[1163年]]の半ばにハンガリーに帰国したイシュトヴァーン3世は武力によって王位を回復した{{sfn|Treadgold|1997|p=646}}。反乱が発生した1162年から1163年にかけての時期のベーラの動向は確認できないが、兄と叔父たちの間で中立を保っていたと考えられている{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=205}}。
== 結婚 ==
* マリア・コムネナ([[マヌエル1世コムネノス]]の皇女) - 1163年婚約、1169年破棄。
* アニェス・ド・シャティヨン([[アンティオキア公国|アンティオキア女公]][[コンスタンス (アンティオキア女公)|コンスタンス]]と[[ルノー・ド・シャティヨン]]の娘) - 1172年結婚、6子をもうけた。
** [[イムレ1世]](1174年 - 1204年)
** [[マルギト (東ローマ皇后)|マルギト]](1175年 - 1223年) - 東ローマ皇帝[[イサキオス2世アンゲロス]]の皇后。後に[[モンフェッラート侯国|モンフェラート]]侯[[ボニファチオ (モンフェラート侯)|ボニファチオ]]と結婚
** [[アンドラーシュ2世]]
** シャラモン(夭折)
** イシュトヴァーン(夭折)
** [[コンスタンツィエ・ウヘルスカー|コンスタンツィア]](1180年 - 1240年) - [[ボヘミア王国|ボヘミア]]王[[オタカル1世]]妃
* [[マルグリット・ド・フランス (1158-1197)|マルグリット・ド・フランス]]([[フランス王国|フランス]]王[[ルイ7世 (フランス王)|ルイ7世]]の三女。[[イングランド王国|イングランド]]王[[ヘンリー2世 (イングランド王)|ヘンリー2世]]の嗣子および共同君主[[若ヘンリー王|若ヘンリー]]の未亡人) - 1186年結婚。子供はいなかった。


1163年にマヌエル1世はイシュトヴァーン3世と和約を結び、ラースローらイシュトヴァーン3世の政敵への支援を絶った{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=205}}{{sfn|Makk|1994|p=86}}。和平と引き換えにイシュトヴァーン3世はベーラをビザンツ帝国の首都[[コンスタンティノープル]]に送り、ビザンツがベーラが相続した公国を領有することに同意し{{sfn|Magdalino|1993|p=79}}{{sfn|Curta|2006|p=332}}、マヌエル1世はベーラと娘のマリアの結婚を約束した{{sfn|Treadgold|1997|p=646}}{{sfn|Fine|1991|p=240}}。


=== デスポテース・アレクシオス ===
{{先代次代|[[ハンガリー国王一覧|ハンガリー国王]]|1172年 - 1196年|[[イシュトヴァーン3世]]|[[イムレ1世]]}}
[[File:Manuel I Comnenus.jpg|thumb |right |190px |ビザンツ皇帝マヌエル1世 - ベーラ=アレクシオスは1165年から1169年の間、皇帝の後継者に指名されていた。]]
マヌエル1世の元から派遣された使者に伴われ、1163年末にベーラはコンスタンティノープルに到着した{{sfn|Makk|1989|p=86}}。ベーラはアレクシオスに改名し、従来は皇帝だけが使用していた[[専制公|デスポテース]]の称号を与えられ{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=206}}{{sfn|Stephenson|2000|p=251}}、ベーラとマヌエル1世の娘マリアの結婚が正式に発表された{{sfn|Makk|1989|p=86}}。


1164年夏にイシュトヴァーン3世はシルミウムに侵入する{{sfn|Makk|1989|p=90}}{{sfn|Stephenson|2000|p=252}}。キンナモスによって、マヌエル1世はイシュトヴァーン3世の元に軍を率いて進み、「ハンガリーに対して戦争を行うのではなく、ベーラの土地を回復するのだ」<ref>''Deeds of John and Manuel Comnenus by John Kinnamos'' (5.6), p. 165.</ref>と述べたことが記されている{{sfn|Stephenson|2000|p=252}}。ハンガリーの迎撃に際して、ベーラはかつて反乱を起こした叔父のイシュトヴァーンや縁戚のステファノス・カラマノスとともにマヌエル1世に従軍した{{sfn|Makk|1989|pp=68,90}}。戦争の開始から間も無くイシュトヴァーン3世は平和条約に調印し、ベーラに与えられていた領地に対する権利の放棄を認めなければならなかった{{sfn|Treadgold|1997|p=646}}{{sfn|Makk|1989|p=91}}。ビザンツ軍はシルミウムを占領し、シルミウムはビザンツの行政区画に編入された{{sfn|Makk|1989|pp=91–92}}。

[[1165年]]春、イシュトヴァーン3世はシルミウムへの新たな軍事作戦を開始する{{sfn|Makk|1989|p=91}}{{sfn|Curta|2006|p=333}}。マヌエル1世はハンガリー軍の迎撃を命じ、ベーラは再びマヌエルに同行した{{sfn|Makk|1989|p=92}}。ビザンツ軍がジモニ(現在の[[セルビア]]の[[ゼムン]])を奪還した後、ベーラは捕虜としたハンガリー兵の処刑を取りやめるよう、マヌエル1世に願い出た{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=207}}。また、ビザンツ軍はダルマチアを占領する{{sfn|Makk|1989|p=92}}。イシュトヴァーン3世とマヌエル1世の間に結ばれた新たな平和条約によって、ベーラの公国の宗主権がビザンツ帝国にあることが確認され{{sfn|Fine|1991|p=241}}、ダルマチアとボスニアはビザンツの[[テマ制|テマ]]に編入される{{sfn|Makk|1989|p=92}}。

1165年の秋に、マヌエル1世は公に自分の娘とベーラを後継者に指名し、ビザンツの貴族たちにベーラへの忠誠を宣誓させた{{sfn|Makk|1989|p=92}}{{sfn|Stephenson|2000|p=257}}。マヌエル1世の従兄弟である[[アンドロニコス1世コムネノス|アンドロニコス・コムネノス]]だけは勇気を奮ってマヌエル1世の行動を非難し、「全てのローマ人の男には王女と床を共にする価値がないと考えて、あらゆる人物の中からこの外国の侵入者をローマの皇帝に選び、支配者の椅子に座らせるとは皇帝は気が狂ってしまわれたのか?」<ref>''O City of Byzantium, Annals of Niketas Choniates'' (4.137) , p. 78.</ref>と抗弁したことが、同時代の人間である[[ニケタス・コニアテス]]によって伝えられている{{sfn|Makk|1989|p=92}}。[[1166年]]春、[[プロトストラトル]]のAlexios Axouchがハンガリー軍のシルミウム侵入に対する報復の軍を率いて出撃すると、ベーラは彼に同行した{{sfn|Makk|1989|p=99}}。1166年4月11日にマヌエル1世はベーラとマリアの間に結ばれていた七等親間の婚約を無効とするコンスタンティノープル総主教府の決定を受け取った{{sfn|Stephenson|2000|p=258}}。1166年の秋にマヌエル1世はシチリアの新王[[グリエルモ2世]]にマリアとの結婚を持ちかける{{sfn|Makk|1989|p=99}}。

[[1167年]]にハンガリーとビザンツの間に新たな戦争が勃発し、同時代の歴史家ラーエヴィンはベーラがイシュトヴァーン3世に対して「王国を要求した」<ref>''The Deeds of Frederick Barbarossa'' (Appendix) p. 337.</ref>ことが戦争の原因であると記している{{sfn|Makk|1989|p=100}}。また、ミューゲルンのハインリヒはベーラの軍隊に多くのハンガリー人が従軍していた事を記録し、「ハンガリー王国の権利はベーラに属する」と述べている{{sfn|Makk|1989|p=101}}。1167年7月8日にビザンツ軍は{{仮リンク|シルミウムの戦い|en|Battle of Sirmium}}でハンガリー軍に大勝を収める{{sfn|Makk|1989|p=100}}{{sfn|Fine|1991|p=242}}。戦後ハンガリー軍とビザンツ軍の間に和平条約が調印され、ビザンツがダルマチア中央部、ボスニア、シルミウムの支配権を有することが確認された{{sfn|Fine|1991|p=242}}。

=== 「カエサル・アレクシオス」として ===
[[1169年]]9月14日にマヌエル1世の妃[[マリー・ダンティオケ|マリア]]は男児を産み、生まれた子供は[[アレクシオス2世コムネノス|アレクシオス]]と名付けられた{{sfn|Makk|1989|p=106}}{{sfn|Treadgold|1997|p=647}}。マヌエル1世はベーラと娘のマリアの婚約を解消し{{sfn|Makk|1989|p=106}}、ベーラのデスポテースの称号を剥奪した上で下位の称号である「[[カエサル (称号)|カエサル]]」を授与した{{sfn|Makk|1989|p=106}}{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=209}}。[[1170年]]春にベーラはマヌエル1世の義理の姉妹である{{仮リンク|アニェス・ド・シャティヨン|en|Agnes of Antioch|label=アグネス}}と結婚し{{sfn|Makk|1989|p=106}}{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=209}}、二人は中東に聖地巡礼の旅に出た{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=209}}。[[エルサレム]]に到着した二人は歓迎を受け、歓待の対価として[[聖ヨハネ騎士団]]に10,000[[ベザント]]を寄贈した{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=209}}{{sfn|Magdalino|1993|p=81}}。ベーラが寄付に際して発行した書状には「Lord A., Duke of Hungary, Dalmatia and Croatia」という称号が記されていたが、マヌエル1世が授けたカエサルの称号は含まれていなかった{{sfn|Makk|1989|p=106}}。

=== ハンガリー国王への即位 ===
[[1172年]]3月4日にハンガリーのイシュトヴァーン3世が没する{{sfn|Bartl|Čičaj|Kohútova|Letz|2002|p=29}}{{sfn|Engel|2001|p=53}}。[[エステルゴム]]に滞在していた{{仮リンク|リューベックのアーノルド|de|Arnold von Lübeck}}はイシュトヴァーン3世がベーラの支持者によって毒殺されたことを示唆する噂を記録しているが、この噂の真偽を検証する資料はアーノルドの記録のほかには存在しない{{sfn|Stephenson|2000|pp=267–268}}{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=209}}。

ハンガリーの使節団はマヌエル1世、セルディカ(現在の[[ブルガリア]]の[[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]])のベーラの元を訪れた{{sfn|Makk|1989|p=107}}{{sfn|Fine|1991|p=242}}。キンナモスの記録によれば、彼の兄弟が亡くなった後に「ベーラに正統性がある」ため「ベーラを王として派遣する」ことを求めたという。また、キンナモスはマヌエル1世が自身とビザンツ帝国のために「"promised an oath to observe for the whole course of his life whatever would be beneficial」上でベーラを王としたと伝えている。また、[[1196年]]にビザンツ皇帝[[イサキオス2世アンゲロス|イサキオス2世]]によって作成された書簡には、ベーラはセルビアがビザンツを攻撃した場合、彼らに援助を行わないことも約束していたことが記されている{{sfn|Makk|1989|p=107}}。

4月下旬、あるいは5月上旬にベーラ夫妻は[[セーケシュフェヘールヴァール]]に到着する{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=210}}。[[1179年]]に教皇[[アレクサンデル3世 (ローマ教皇)|アレクサンデル3世]]にむけて書かれた手紙には、ベーラは「ハンガリー王国の要人」によって全会一致で国王に選出されたことが記されている{{sfn|Makk|1989|p=108}}。しかし、[[エステルゴム大司教]]ルカーチが戴冠式の実施を拒否したため、ベーラの戴冠式は延期される{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=210}}。ベーラが議会の参加者に高価な衣服を贈っていたため、大司教は王が聖職の売買を行っていると非難した{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=211}}{{sfn|Berend|Urbańczyk|Wiszewski|2013|p=383}}。大司教ルカーチはベーラの治世において「[[東西教会の分裂|東西教会のシスマ]]」の影響が増大することを恐れていたと考えられているが{{sfn|Makk|1989|p=108}}{{sfn|Engel|2001|p=53}}{{sfn|Berend|Urbańczyk|Wiszewski|2013|p=383}}、それにも関わらず大多数の封建貴族と高位聖職者はベーラへの忠誠を保ち続けていた{{sfn|Berend|Urbańczyk|Wiszewski|2013|pp=178, 202}}{{sfn|Makk|1989|pp=108, 110}}。ベーラは大司教ルカーチに対抗するため、[[聖座]]に支援を求めた{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=211}}。ベーラの要請に応じて、アレクサンデル3世は[[カロチャ大司教]]にベーラを聖別し、「頭上に王冠を置く」ことを認めた{{sfn|Makk|1989|p=109}}。[[1173年]]1月18日にベーラの戴冠式が行われた{{sfn|Bartl|Čičaj|Kohútova|Letz|2002|p=29}}。ベーラはエステルゴム大司教がハンガリー王位の戴冠を行う権利を確認する憲章を発布した{{sfn|Kristó|Makk|1996|pp=212–213}}。いわゆるギリシャ王冠とラテン王冠が結合して[[聖イシュトヴァーンの王冠]]となったのは、彼の治世と考えられている{{sfn|Berend|Urbańczyk|Wiszewski|2013|pp=151–152}}。

=== ハンガリー国内での対立 ===
ベーラはエステルゴム大司教ルカーチを疎んじるようになり、ベーラの治世の初年にルカーチの待遇は悪化する{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=212}}。従来ハンガリー王室の人間への洗礼の施しはエステルゴム大司教の職務となっていたが{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=212}}、[[1174年]]にルカーチに代えてカロチャ大司教がベーラの長子[[イムレ1世|イムレ]]に洗礼を授ける。

ベーラは弟のゲーザを獄中に閉じ込めていたが、1174年から[[1175年]]の間にゲーザは脱獄して[[オーストリア]]に亡命する{{sfn|Makk|1989|p=109}}{{sfn|Kristó|Makk|1981|p=63}}。[[オーストリア公]][[ハインリヒ2世 (オーストリア公)|ハインリヒ2世]]がゲーザの引渡しを拒んだため、ベーラは[[ボヘミア公]][[ソビェスラフ2世]]と計らってオーストリアの襲撃を計画した{{sfn|Makk|1989|p=111}}。マヌエル1世が[[アナトリア半島]]のイスラーム国家[[ルーム・セルジューク朝]]に対して遠征を実施した際にベーラはマヌエル1世の元に援軍を派遣するが、[[1176年]]9月17日の[[ミュリオケファロンの戦い]]でビザンツ・ハンガリーの連合軍は敗北を喫する{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=213}}{{sfn|Magdalino|1993|pp=96, 98}}{{sfn|Makk|1989|p=113}}。

ゲーザは[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]と面会するためにソビェスラフ2世の説得を試みたが、ソビェスラフ2世はゲーザを逮捕し、[[1177年]]にゲーザはハンガリー王国に引き渡された{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=213}}{{sfn|Makk|1989|p=111}}。ベーラは再びゲーザを投獄し、彼らの母親であるエフロシニヤもベーラによって幽閉される{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=213}}{{sfn|Makk|1989|p=111}}。フリードリヒ1世はゲーザを逮捕したソビェスラフ2世への報復として彼を廃位し、新たに[[プシェミスル家]]の一員である[[ベドジフ (ボヘミア公)|ベドジフ]](ハインリヒ)をボヘミア公位に就けた{{sfn|Makk|1989|p=111}}。さらにフリードリヒ1世はボヘミアに攻撃を加えるために[[レオポルト5世 (オーストリア公)|レオポルト5世]]を新たなオーストリア公に推戴するが{{sfn|Makk|1989|p=111}}、ベーラはレオポルト5世に武力の行使を示唆し、ボヘミアから手を引かせることに成功した{{sfn|Makk|1989|p=112}}。

1176年頃、長らくベーラから重用されていたカロチャ大司教{{仮リンク|アンドラーシュ (カロチャ大司教)|en|Andrew, Archbishop of Kalocsa|label=アンドラーシュ}}がベーラを侮辱する事件が起きる{{sfn|Makk|1989|p=114}}{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=214}}。ベーラはすぐさまアンドラーシュと彼の支持者であるセーケシュフェヘールヴァールの司教座聖堂首席司祭の地位を奪い、大司教の財産を押収した{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=214}}{{sfn|Makk|1989|p=114}}。教皇アレクサンデル3世はベーラを[[教会法]]に照らして処罰するが、ルカーチと和解したベーラは彼から刑の解除の宣告を受け、アンドラーシュを追放した{{sfn|Makk|1989|p=114}}。両者の衝突は教皇庁の仲介によって終息し、アンドラーシュはベーラに許しを乞う代わりに、ベーラは彼をカロチャ大司教の地位に復職させる{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=214}}。

=== 国内の改革と対外拡張 ===
ベーラの招きに応じて、フランスの[[シトー会]]の修道士がハンガリーを訪れ、[[1179年]]から[[1184年]]の間に{{仮リンク|ジルク|en|Zirc}}、{{仮リンク|セントゴッタールド|en|Szentgotthárd}}、{{仮リンク|ピリス山地|en|Pilis Mountains}}などの土地にシトー会の修道院が新設された{{sfn|Berend|Urbańczyk|Wiszewski|2013|p=359}}。1180年代に入るとベーラは威厳のある王城とエステルゴムの新たな大聖堂の建設を開始し{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=214}}、常に国内を巡察していた{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=215}}。Bulkeszi(現在のセルビアのMaglić)で発見された碑文には、ベーラがこの村に誘致されたドイツ人移住者の名付け親になったことが記されている{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=219}}{{sfn|Kristó|Makk|1981|p=86}}。

[[File:Bela3 pecet.jpg|thumb |left |190px |alt=A man wearing a crown sits on the throne with a scepter and an orb in his hands |ベーラ3世の印章]]
ベーラはコンスタンティノープルの宮廷でよく組織化された行政機構の重要性を学んでいた{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=217}}。『{{仮リンク|彩飾年代記|en|Chronicon Pictum}}』には、ハンガリーがローマ帝国の宮廷で慣例的に使用されていたものと同一の形式の訴状を導入したことが記されており<ref>''The Hungarian Illuminated Chronicle'' (ch. 171.122), p. 139.</ref>、これはベーラの治世に王室裁判所が独立した行政機関として機能し始めたことを示している{{sfn|Rady|2000|p=66}}{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=217}}{{sfn|Kontler|1999|p=71}}。ベーラは筆記の重要性を強調し、1181年に自分の面前であらゆる{{仮リンク|特許状|en|Letters patent}}を書き残すように命令した{{sfn|Rady|2000|p=66}}{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=217}}{{sfn|Kontler|1999|p=71}}。

1180年9月24日にマヌエル1世が没し{{sfn|Makk|1989|p=115}}、この事件から6か月以内にベーラはダルマチアの宗主権を回復するが、この出来事についての同時代の詳細な記述は確認されていない{{sfn|Fine|1991|p=289}}{{sfn|Stephenson|2000|pp=281–282}}{{sfn|Magaš|2007|p=57}}。13世紀のスプリトの聖職者トマスは、マヌエル1世が没して間もなく[[スプリト]]の住民は「ハンガリーの支配に帰した」<ref>''Archdeacon Thomas of Split: History of the Bishops of Salona and Split'' (ch. 22.), p. 131.</ref>ことを記している{{sfn|Stephenson|2000|p=281}}。1181年初頭には[[ザダル]]もベーラの宗主権を受け入れた{{sfn|Stephenson|2000|p=281}}。ハンガリーの拡張に対するビザンツ帝国の反応について、史学者のジョン.V.A.ファインは[[アドリア海]]沿岸部に[[ヴェネツィア共和国]]が進出するよりもハンガリーの支配下に置かれたほうが良いとビザンツ側は判断したと推測し、著書の中で「表面上は血を流さず、帝国の同意の上で」ハンガリーはダルマチアの宗主権を回復したと記している{{sfn|Fine|1991|p=289}}。

ハンガリーがシルミウムを奪回した経緯についても不明瞭な点がある{{sfn|Makk|1989|p=116}}。[[アンドロニコス1世コムネノス|アンドロニコス・コムネノス]]は、皇帝[[アレクシオス2世コムネノス|アレクシオス2世]]の母[[マリー・ダンティオケ|マリア]]が彼女の義理の兄弟であるベーラを扇動して[[1182年]]5月に[[ベオグラード]]と[[ブラニチェヴォ郡|ブラニチェヴォ]]を含む地域を攻撃させたと非難したが、アンドロニコスの発言は当時ハンガリーがシルミウムを占領していたことを示唆している{{sfn|Makk|1989|p=116}}。 同月にアンドロニコスはマリアを逮捕し、年末には彼女を殺害する{{sfn|Treadgold|1997|pp=652–653}}{{sfn|Makk|1989|p=117}}。ベーラはビザンツ帝国の無政府状態に乗じて[[1183年]]前半に[[ニシュ]]とセルディカに進出し{{sfn|Curta|2006|pp=334–335}}、セルディカでは聖遺物である[[リラのイオアン|リラの聖イヴァン]]の棺を押収し、「盛大な儀礼を催してハンガリーに護送し、敬意をもってエステルゴムの教会に安置する」<ref>''Life of John of Rila from the Stishen (Sofia) Prologue'', p. 266.</ref>ことを命令したことが記録されている{{sfn|Makk|1989|p=117}}。Makkはベーラがドナウ川以南の地域から撤退したと記しているが{{sfn|Makk|1989|p=117}}、反対にポール・スティーブンソンはベーラがそれらの土地を保有し続けたと主張している{{sfn|Stephenson|2000|p=282}}。

1183年末にアンドロニコス・コムネノスはアレクシオス2世を殺害する{{sfn|Stephenson|2000|p=282}}。アンドロニコスと敵対する勢力はベーラを含む多くの君主にアンドロニコスへの攻撃を促す書簡を送り、[[1185年]]初頭にハンガリー軍がビザンツ領に侵入したことが伝えられている{{sfn|Makk|1989|p=119}}。1183年9月にアンドロニコスが廃位された後、ベーラは新たに皇帝となったイサキオス2世との間で和平条約に調印する{{sfn|Makk|1989|p=120}}。イサキオス2世はベーラの娘マルギトと結婚し、ベーラは娘の婚資としてニシュとブラニチェヴォを含む地域をビザンツに譲渡し{{sfn|Curta|2006|p=335}}{{sfn|Stephenson|2000|p=283}}、リラの聖イヴァンの棺もセルディカに返還された{{sfn|Curta|2006|p=335}}。[[1186年]]2月にベーラはフランス王[[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世]]の娘[[マルグリット・ド・フランス (1158-1197)|マルグリット]]と結婚する{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=220}}。

[[File:Bela 3.jpg|thumb|right|セントゴッタールド修道院の設立(Stephan Dorfmeister作、1795年頃)]]
[[1187年]]にザダルは[[ヴェネツィアのドージェ一覧|ヴェネツィア共和国のドージェ]]・[[オリオ・マストロピエノ]]の包囲を受けるが、ヴェネツィアの艦隊は防備を固められた町を陥落させることができなかった{{sfn|Makk|1989|p=120}}。[[1188年]]末に[[ボヤール]](貴族)の反乱に遭った[[ガーリチ公|ガーリチ(ガリツィア)公]][[ウラジーミル・ヤロスラヴィチ (ガーリチ公)|ウラジーミル・ヤロスラヴィチ]]がハンガリーに亡命する{{sfn|Dimnik|2003|p=191}}。ガリツィアは[[ヴォルイニ公]][[ロマン・ムスティスラーヴィチ]]の支配下に入るが、ロマンはガリツィアに侵入したハンガリー軍の攻撃を受けて退却した{{sfn|Dimnik|2003|p=191}}{{sfn|Engel|2001|p=54}}。ロマンが敗れた後もウラジーミルの地位は回復されず、ベーラは彼を投獄し、息子の[[アンドラーシュ2世|アンドラーシュ]]をガリツィアの統治者に任命する{{sfn|Makk|1989|p=121}}{{sfn|Dimnik|2003|p=193}}。ガリツィア征服の象徴として、ベーラはガリツィア王の称号を加えた{{sfn|Makk|1989|p=121}}。

1187年夏に神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が指揮するドイツの[[第3回十字軍|十字軍]]がハンガリー国内を通過した{{sfn|Makk|1989|p=122}}。ベーラはフリードリヒを歓待し、バルカン半島を通過する十字軍を護衛するために軍隊を派遣した{{sfn|Makk|1989|p=122}}{{sfn|Stephenson|2000|p=294}}。また、ベーラはフリードリヒの要求に応じて獄中のゲーザを釈放し、ゲーザはハンガリーを出国して十字軍に参加する{{sfn|Makk|1989|p=122}}{{sfn|Engel|2001|p=54}}。バルカン半島を進軍するドイツ十字軍とビザンツ帝国との関係は悪化し、半ば戦争状態に突入していたが、ベーラの仲介によってフリードリヒとイサキオス2世は和約を結んだ{{sfn|Makk|1989|p=122}}。

[[1189年]]/[[1190年]]の初めにウラジーミル・ヤロスラヴィチが脱獄し{{sfn|Makk|1989|p=121}}{{sfn|Dimnik|2003|pp=193–194}}、ウラジーミルは[[長子領|ポーランド]][[ポーランド君主一覧|大公]][[カジミェシュ2世]]の力を借りてアンドラーシュをガリツィアから追放し、公国の支配を回復した{{sfn|Makk|1989|p=121}}。[[1191年]]にベーラはフィリッポポリス(現在のブルガリアの[[プロヴディフ]])とシルミウムで娘婿のイサキオス2世と会談を行うが、交渉の結果は不明である{{sfn|Treadgold|1997|p=121}}{{sfn|Makk|1989|p=123}}。[[1192年]]に教皇庁はベーラからの働きかけを受けてハンガリー王[[ラースロー1世]]を列聖する{{sfn|Berend|Urbańczyk|Wiszewski|2013|p=192}}。1193年初頭にハンガリー軍は[[セルビア]]に侵入するが{{sfn|Makk|1989|p=123}}、イサキオス2世は武力の行使を暗示してハンガリー軍の撤退を要求した{{sfn|Makk|1989|p=123}}。同時期にヴェネツィア共和国のドージェ・[[エンリコ・ダンドロ]]はザダルの占領を試みるが、二度目の攻撃も失敗に終わる{{sfn|Makk|1989|p=120}}。また、1193年にはクロアチアの貴族{{仮リンク|フランコパン家|en|House of Frankopan}}の一員であるクルクのバルトロメウにモドルシュ郡を授与している{{sfn|Curta|2006|p=347}}。<!-- This is the earliest certain example of an office being granted as a hereditary dignity in the Kingdom of Hungary{{sfn|Rady|2000|p=30}}. -->

=== 晩年(1194年 - 1196年) ===
[[1194年]]にベーラは将来のハンガリー王として戴冠した長男の[[イムレ1世|イムレ]]をクロアチア、ダルマチアの統治者に命じる{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=222}}{{sfn|Magaš|2007|p=58}}。同年のアルカディオポリスの戦いでビザンツ軍が[[第二次ブルガリア帝国|ブルガリア]]、[[キプチャク|クマン人]]、[[ヴラフ人]]の連合軍に敗れ、ベーラはビザンツに援軍を派遣しようとした{{sfn|Treadgold|1997|p=659}}{{sfn|Stephenson|2000|p=303}}。しかし、[[1195年]]4月にイサキオス2世が兄弟の[[アレクシオス3世アンゲロス|アレクシオス]]によって廃位されたため、援軍の派遣は中止される{{sfn|Makk|1989|pp=123–124}}{{sfn|Stephenson|2000|pp=303–304}}。神聖ローマ皇帝[[ハインリヒ6世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ6世]]は廃位されたイサキオスの支援を名目とするビザンツへの遠征を企てるが、ベーラは臣下にハインリヒの遠征への参加を禁止した{{sfn|Makk|1989|p=124}}。

ベーラは聖地を奪還する十字軍に参加したいと考えており、その願望の表れとして十字架を携えていた{{sfn|Berend|Urbańczyk|Wiszewski|2013|p=234}}。しかし、1196年4月23日にベーラは病没し、宿願を果たすことはできなかった{{sfn|Engel|2001|p=54}}{{sfn|Bartl|Čičaj|Kohútova|Letz|2002|p=30}}{{sfn|Berend|Urbańczyk|Wiszewski|2013|p=234}}。ベーラの遺体は{{仮リンク|聖イシュトヴァーン大聖堂 (セーケシュフェヘールヴァール)|en|Székesfehérvár Basilica|label=セーケシュフェヘールヴァールのバシリカ}}に埋葬された{{sfn|Engel|2001|p=54}}。

同時代の人物であるロンドンのリチャードはベーラの身長が際立って高いことを記しており、19世紀に実施された発掘調査の結果、リチャードの記述を根拠としてベーラの遺体が同定され、遺骨の状態から身長は190cmだと推定されている{{sfn|Engel|2001|p=54}}{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=222}}。掘り起こされた遺体は[[ブダペスト]]の[[マーチャーシュ聖堂]]に改葬される{{sfn|Engel|2001|p=54}}{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=222}}。

== 家族 ==
[[File:Sarkopharg Béla III.JPG|thumb|right|190px|ベーラ3世の墓]]
ベーラの最初の妻である{{仮リンク|アニェス・ド・シャティヨン|en|Agnes of Antioch|label=アグネス}}は[[アンティオキア公]][[ルノー・ド・シャティヨン]]と[[コンスタンス (アンティオキア女公)|コンスタンス]]の間に生まれた娘である{{sfn|Runciman|1951|p=365, Appendix 3}}。アグネスは1149年頃に生まれ、1184年頃に没した{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=209}}。1170年に二人が結婚したとき、アグネスはコンスタンティノープルで「アンナ」に改名した{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=209}}{{sfn|Makk|1989|p=106}}。

[[1174年]]にベーラとアンナの最初の子である[[イムレ1世|イムレ]]が生まれ{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=209, Appendix 4}}、[[1177年]]頃に次男の[[アンドラーシュ2世|アンドラーシュ]]が誕生した{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=229, Appendix 4}}。ほかにシャラモンとイシュトヴァーンという名前の男児をもうけたが、いずれも幼少時に没している{{sfn|Makk|1994|p=92}}。

[[1175年]]にイムレの妹[[マルギト (東ローマ皇后)|マルギト]]が生まれ、マルギトはコンスタンティノープルでマリアに改名した{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=220, Appendix 4}}{{sfn|Stephenson|2000|p=283}}。マリアは9歳、もしくは10歳の時、当時30歳のビザンツ皇帝[[イサキオス2世アンゲロス|イサキオス2世]]の元に嫁ぐ{{sfn|Makk|1989|p=120}}{{sfn|Stephenson|2000|p=283}}。1204年にイサキオス2世は没し、彼の死後に[[第四回十字軍]]によってコンスタンティノープルが占領される{{sfn|Treadgold|1997|pp=660, 665–666}}。コンスタンティノープルが陥落した後、マリアは十字軍の指導者の一人で[[テッサロニキ]]を獲得した[[ボニファチオ (モンフェラート侯)|モンフェラート侯ボニファチオ]]と再婚した{{sfn|Lock|1995|p=37}}。史学者のMakkは1210年頃にボニファチオに先立たれたマリアはサントメールの騎士ニコラス1世と再婚したと記しているが{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=Appendix 4}}、ピーター・ロックはマリアとニコラス1世の妻は別人だと見なしている{{sfn|Lock|1995|p=371}}。ベーラの次女[[コンスタンツィエ・ウヘルスカー|コンスタンツィア]]は[[1198年]]頃にボヘミア公[[オタカル1世]]の元に嫁いだ{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=Appendix 4}}。ベーラとアンナの間に生まれた3人目の娘は早世し、名前も明らかになっていない{{sfn|Makk|1994|p=92}}。

アンナが没した後、ベーラはマヌエル1世の姉妹テオドラ・コムネナの孫娘で祖母と同名の王女テオドラに結婚を申し込んだ{{sfn|Makk|1989|p=119}}{{sfn|Stephenson|2000|p=283}}。しかし、テオドラは修道院に入っていたため、1185年にコンスタンディヌーポリ総主教庁によって結婚の申し出は却下された{{sfn|Makk|1989|p=119}}{{sfn|Stephenson|2000|p=283}}。1185年末、もしくは1186年初にベーラは[[ザクセン公]][[ハインリヒ3世 (ザクセン公)|ハインリヒ獅子公]]の娘マティルデに結婚を申し込むが、マティルデの祖父である[[イングランド君主一覧|イングランド王]][[ヘンリー2世 (イングランド王)|ヘンリー2世]]によって縁談は妨げられる{{sfn|Makk|1989|p=120}}。結局、1186年の夏にベーラはヘンリー2世の義理の娘で夫の[[若ヘンリー王]]に先立たれた[[マルグリット・ド・フランス (1158-1197)|マルグリット]](マルギト)と再婚することになる{{sfn|Makk|1989|p=120}}。マルギトはベーラよりも長く生き、彼の死後に中東に移住した{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=222}}。

== 政策 ==
ベーラ3世は中世のハンガリーの君主の中で最も著名な人物の一人であり、史学者のPál Engelはベーラの治世を「アールパード朝の最盛期であり、一時代の終わり」と表現している{{sfn|Engel|2001|p=52}}。王室裁判所の開設はハンガリー国内での筆記の普及に貢献し、1190年代には初めて封建貴族に特許状が発行された{{sfn|Engel|2001|p=122}}{{sfn|Berend|Urbańczyk|Wiszewski|2013|p=220}}。ベーラの収入を記録した同時代の史料には、ベーラ3世は170,000[[マルク (通貨)|マルク]]、純銀に換算して約23トンの年間収入を得ていたことが記されている{{sfn|Engel|2001|p=61}}{{sfn|Molnár|2001|p=46}}。記録されている数値が事実であれば、ハンガリー王室は同時代のフランス王室とイングランド王室を超える収入を得ていたことになるが、Pál Engelら多くの歴史家は史料の信憑性を疑問視している{{sfn|Engel|2001|p=61}}{{sfn|Kontler|1999|p=70}}{{sfn|Berend|Urbańczyk|Wiszewski|2013|p=287}}。

エステルゴムの町が火事によって焼失した後、1190年頃にベーラは王宮や大聖堂を再建するためにフランスから石工を招いた{{sfn|Kristó|Makk|1996|p=214}}{{sfn|Berend|Urbańczyk|Wiszewski|2013|p=209}}。石工によってハンガリーに新しい建築様式が導入され、新築された王宮と大聖堂は中欧における最初期の[[ゴシック様式|ゴシック建築]]の一例とされている{{sfn|Berend|Urbańczyk|Wiszewski|2013|p=209}}{{sfn|Kontler|1999|p=72}}。1190年頃にハンガリーで鋳造されていた貨幣には主としてコンスタンティノープルの教会で使用されていたtwo-barred crossを刻まれており、ベーラの治世にいわゆる「二重十字」が[[ハンガリーの国章]]の一部になったことを示している{{sfn|Berend|Urbańczyk|Wiszewski|2013|p=317}}。

== 脚注 ==
{{Reflist|3}}

== 参考文献 ==
=== 主要文献 ===
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*''Archdeacon Thomas of Split: History of the Bishops of Salona and Split'' (Latin text by Olga Perić, edited, translated and annotated by Damir Karbić, Mirjana Matijević Sokol and James Ross Sweeney) (2006). CEU Press. ISBN 963-7326-59-6.
*''Deeds of John and Manuel Comnenus by John Kinnamos'' (Translated by Charles M. Brand) (1976). Columbia University Press. ISBN 0-231-04080-6.
*"Life of John of Rila from the Stishen (Sofia) Prologue". In Petkov, Kiril (2008). ''The Voices of Medieval Bulgaria, Seventh-Fifteenth Century: The Records of a Bygone Culture''. Brill. pp.&nbsp;265–268. ISBN 978-90-04-16831-2.

*''O City of Byzantium, Annals of Niketas Choniatēs'' (Translated by Harry J. Magoulias) (1984). Wayne State University Press. ISBN 978-0-8143-1764-8.*''The Deeds of Frederick Barbarossa by Otto of Freising and his Continuator, Rahewin'' (Translated and annotated with an introduction by Charles Christopher Mierow with the collaboration of Richard Emery) (2004). Columbia University Press. ISBN 0-231-13419-3.
*''The Hungarian Illuminated Chronicle:'' Chronica de Gestis Hungarorum (Edited by Dezső Dercsényi) (1970). Corvina, Taplinger Publishing. ISBN 0-8008-4015-1.
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=== 副次文献 ===
{{Refbegin}}
*{{cite book |last1=Bartl |first1=Július |last2=Čičaj |first2=Viliam |last3=Kohútova |first3=Mária |last4=Letz |first4=Róbert |last5=Segeš |first5=Vladimír |last6=Škvarna |first6=Dušan |year=2002|title=Slovak History: Chronology & Lexicon |publisher= Bolchazy-Carducci Publishers, Slovenské Pedegogické Nakladatel'stvo |isbn=0-86516-444-4|ref=harv}}
*{{cite book |last1=Berend |first1=Nora |last2=Urbańczyk |first2=Przemysław |last3=Wiszewski |first3=Przemysław |year=2013 |title=Central Europe in the High Middle Ages: Bohemia, Hungary and Poland, c. 900-c. 1300 |publisher= Cambridge University Press |isbn=978-0-521-78156-5 |ref=harv}}
*{{cite book |last=Curta |first=Florin |year=2006 |title=Southeastern Europe in the Middle Ages, 500–1250 |publisher=Cambridge University Press |isbn=978-0-521-89452-4|ref=harv}}
*{{cite book |last=Dimnik |first=Martin |year=2003 |title=The Dynasty of Chernigov, 1146–1246 |publisher=Cambridge University Press |isbn=978-0-521-03981-9 |ref=harv}}
*{{cite book |last=Engel |first=Pál |year=2001 |title=The Realm of St Stephen: A History of Medieval Hungary, 895–1526 |publisher= I.B. Tauris Publishers |isbn=1-86064-061-3|ref=harv}}
*{{cite book |last=Fine |first=John V. A |year=1991 |title=The Early Medieval Balkans: A Critical Survey from the Sixth to the Late Twelfth century |publisher= The University of Michigan Press |isbn=0-472-08149-7|ref=harv}}
*{{cite book |last=Kontler |first=László |year=1999 |title=Millennium in Central Europe: A History of Hungary |publisher=Atlantisz Publishing House |isbn=963-9165-37-9 |ref=harv}}
*{{cite book |last1=Kristó |first1=Gyula |last2=Makk |first2=Ferenc |year=1981 |title=III. Béla emlékezete ''[Remembering Béla III]''|publisher=Magyar Helikon | isbn= |ref=harv|language=hu}}
*{{cite book |last1=Kristó |first1=Gyula |last2=Makk |first2=Ferenc |year=1996 |title=Az Árpád-ház uralkodói ''[Rulers of the House of Árpád]''|publisher=I.P.C. Könyvek | isbn=963-7930-97-3|ref=harv|language=hu}}
*{{cite book |last=Lock |first=Peter |year=1995 |title=The Franks in the Aegean, 1204–1500 |publisher= Longman |isbn=0-582-05139-8 |ref=harv}}
*{{cite book |last=Magaš |first=Branka |year=2007 |title=Croatia Through History |publisher=SAQI |isbn=978-0-86356-775-9|ref=harv}}
*{{cite book |last=Magdalino |first=Paul |year=1993 |title=The Empire of Manuel Komnenos, 1143–1180 |publisher=Cambridge University Press |isbn=0-521-52653-1|ref=harv}}
*{{cite book |last=Makk |first=Ferenc |year=1989 |title=The Árpáds and the Comneni: Political Relations between Hungary and Byzantium in the 12th century (Translated by György Novák)|publisher=Akadémiai Kiadó |isbn=963-05-5268-X|ref=harv}}
*{{cite book |last=Makk |first=Ferenc |editor1-last=Kristó |editor1-first=Gyula |editor2-last=Engel |editor2-first=Pál |editor3-last=Makk |editor3-first=Ferenc | title=Korai magyar történeti lexikon (9–14. század) ''[Encyclopedia of the Early Hungarian History (9th–14th centuries)]'' |publisher=Akadémiai Kiadó |year=1994 |pages=91–92 |chapter=III. Béla |isbn=963-05-6722-9|ref=harv|language=hu}}
*{{cite book |last=Molnár |first=Miklós |year=2001 |title=A Concise History of Hungary |publisher=Cambridge University Press |isbn=978-0-521-66142-3|ref=harv}}
*{{cite book |last=Rady |first=Martyn |year=2000 |title=Nobility, Land and Service in Medieval Hungary |publisher=Palgrave |isbn=0-333-80085-0 |ref=harv}}
*{{cite book |last=Runciman |first=Steven |year=1951 |title=A History of the Crusades, Volume II: The Kingdom of Jerusalem and the Frankish East 1100–1187 |publisher=Cambridge University Press |isbn=0-521-06162-8|ref=harv}}
*{{cite book |last=Stephenson |first=Paul |year=2000 |title=Byzantium's Balkan Frontier: A Political Study of the Northern Balkans, 900–1204 |publisher=Cambridge University Press |isbn= 978-0-521-02756-4|ref=harv}}
*{{cite book |last=Treadgold |first=Warren |year=1997 |title=A History of the Byzantine State and Society |publisher=Stanford University Press |isbn= 0-8047-2630-2|ref=harv}}

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2016年3月8日 (火) 13:30時点における版

ベーラ3世
III. Béla
ハンガリー王
在位 1172年5月4日 - 1196年4月23日
戴冠式 1773年1月13日

出生 1148年
死去 1196年4月23日
埋葬 エステルゴム
配偶者 アニェス・ド・シャティヨン
  マルグリット・ド・フランス
子女 イムレ1世
マルギト
アンドラーシュ2世
コンスタンツィアなど
家名 アールパード家
王朝 アールパード朝
父親 ゲーザ2世
母親 エウフロシネ・ムスチラヴァ
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ベーラ3世ハンガリー語: III. Bélaクロアチア語: Bela IIIスロバキア語: Belo III1148年頃 - 1196年4月23日)は、 ハンガリー王国アールパード朝ハンガリー国王、およびクロアチア国王(在位:1172年 - 1196年)。ハンガリー王ゲーザ2世エフロシニヤ・ムスチスラヴナの次男にあたる。

概要

1161年頃にベーラは母のエフロシニヤからクロアチア、ダルマチア中央部、シルミウムを含む公国を授与された。1162年にハンガリー王に即位した兄イシュトヴァーン3世ビザンツ(東ローマ)皇帝マヌエル1世コムネノスの間に結ばれた条約によって、ベーラは1163年コンスタンティノープルに移送される。コンスタンティノープルに送られたベーラはマヌエル1世から「アレクシオス」の名前、上級の宮廷職として新設されたデスポトの称号を与えられ、マヌエル1世の娘マリア・コムネナとの婚約が取り決められた。イシュトヴァーン3世はベーラの世襲地であるクロアチア、ダルマチア、シルミウムにおけるビザンツの支配力の抑制を試み、1164年から1167年にかけてハンガリーとビザンツの間に武力衝突が発生する。1165年にマヌエル1世から帝位継承者に指名されたベーラは3度にわたるハンガリー遠征に従軍した。1169年にマヌエル1世が男子(後のビザンツ皇帝アレクシオス2世)を授かると、ベーラとマリアの婚約は解消される。マヌエル1世はベーラからデスポトの称号を没収し、下位のカエサルの称号を授与した。

1172年3月4日にイシュトヴァーン3世が没した時、ベーラはハンガリーへの帰国を決意し、出発に際してビザンツとの戦争を行わないことを誓約した。ハンガリーの高位聖職者と貴族は満場一致でベーラの即位を承認するが、エステルゴム大司教ルカーチはベーラの聖職売買の疑惑を挙げて即位に反対した。最終的に教皇アレクサンデル3世の承認を受けて、1173年1月18日にベーラはカロチャ大司教からハンガリー王に戴冠された。即位したベーラは競争相手である弟のゲーザを逮捕し、10年以上にわたって彼を獄中に監禁する。マヌエル1世の死後にビザンツ内で起きた混乱に乗じて、ベーラはクロアチア、ダルマチア、シルミウムをビザンツから奪回した。1188年にはガーリチ公国を占領するが、2年足らずで喪失した。

ベーラ3世は当時のヨーロッパの君主の中で最も裕福な人物とされているが、その根拠となる収入表の信憑性は疑問視されている。ベーラ3世の時代には筆写による記録が推進され、14世紀以降のハンガリーの年代記ではベーラは宮廷裁判所の確立に大きな役割を果たしたことが述べられている。 また、ベーラの治世にエステルゴムに建てられた宮殿は、中央ヨーロッパにおける最初期のゴシック建設の一つに挙げられている。

生涯

幼少期

ゲーザ2世の印章

ベーラ3世はハンガリー王ゲーザ2世キエフエフロシニヤ・ムスチスラヴナの次男として生まれるが[1][2]、彼の誕生日についての記録は残されていない[1][2]。後世に実施された遺骨の調査によって没時の年齢が49歳前後であることが明らかになり、1148年頃に生まれたと推定されている[2]

ベーラ3世と同時代の歴史家ヨハネス・キンナモスの「ゲーザ2世は生きている間に領土を分配した」[3]という記述は、ゲーザ2世が幼少期のベーラに領土を授与したことを示している[4]。ベーラに与えられた領土については諸説分かれており、キンナモスの「ベーラの相続地」に関する記述から数十年にわたってハンガリー王国の宗主権を受け入れていたシベニクスプリトトロギルを含むダルマチア中央部はベーラの世襲地に確実に含まれていたと考えられている[5][6][7][8]。歴史家のFerenc MakkとGyula Moravcsik はベーラがクロアチアを授与されたという点で意見が一致しているが[9]シルミウムが領地に含まれていたか、父の死後に相続したかについては研究者の間で意見が分かれている[6][8][10][11]。また、Warren Treadgoldはベーラの世襲地にはボスニアも含まれていたと主張している[11]。ベーラがゲーザ2世から公国を授与された正確な日付は判明していないが、Makkは1161年頃に公国を与えられたと考えている[6]

1162年5月31日にゲーザ2世が没した後、ゲーザ2世の長男イシュトヴァーン3世がハンガリー王位を継承した[12]。イシュトヴァーン3世は即位して間もなく、反乱を起こした叔父のラースローイシュトヴァーンによってハンガリーを追放される[13][14]。ラースローたちの反乱にはビザンツ皇帝マヌエル1世も加担していたが、1163年の半ばにハンガリーに帰国したイシュトヴァーン3世は武力によって王位を回復した[11]。反乱が発生した1162年から1163年にかけての時期のベーラの動向は確認できないが、兄と叔父たちの間で中立を保っていたと考えられている[13]

1163年にマヌエル1世はイシュトヴァーン3世と和約を結び、ラースローらイシュトヴァーン3世の政敵への支援を絶った[13][15]。和平と引き換えにイシュトヴァーン3世はベーラをビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルに送り、ビザンツがベーラが相続した公国を領有することに同意し[8][10]、マヌエル1世はベーラと娘のマリアの結婚を約束した[11][16]

デスポテース・アレクシオス

ビザンツ皇帝マヌエル1世 - ベーラ=アレクシオスは1165年から1169年の間、皇帝の後継者に指名されていた。

マヌエル1世の元から派遣された使者に伴われ、1163年末にベーラはコンスタンティノープルに到着した[17]。ベーラはアレクシオスに改名し、従来は皇帝だけが使用していたデスポテースの称号を与えられ[18][19]、ベーラとマヌエル1世の娘マリアの結婚が正式に発表された[17]

1164年夏にイシュトヴァーン3世はシルミウムに侵入する[20][21]。キンナモスによって、マヌエル1世はイシュトヴァーン3世の元に軍を率いて進み、「ハンガリーに対して戦争を行うのではなく、ベーラの土地を回復するのだ」[22]と述べたことが記されている[21]。ハンガリーの迎撃に際して、ベーラはかつて反乱を起こした叔父のイシュトヴァーンや縁戚のステファノス・カラマノスとともにマヌエル1世に従軍した[23]。戦争の開始から間も無くイシュトヴァーン3世は平和条約に調印し、ベーラに与えられていた領地に対する権利の放棄を認めなければならなかった[11][24]。ビザンツ軍はシルミウムを占領し、シルミウムはビザンツの行政区画に編入された[25]

1165年春、イシュトヴァーン3世はシルミウムへの新たな軍事作戦を開始する[24][26]。マヌエル1世はハンガリー軍の迎撃を命じ、ベーラは再びマヌエルに同行した[27]。ビザンツ軍がジモニ(現在のセルビアゼムン)を奪還した後、ベーラは捕虜としたハンガリー兵の処刑を取りやめるよう、マヌエル1世に願い出た[28]。また、ビザンツ軍はダルマチアを占領する[27]。イシュトヴァーン3世とマヌエル1世の間に結ばれた新たな平和条約によって、ベーラの公国の宗主権がビザンツ帝国にあることが確認され[29]、ダルマチアとボスニアはビザンツのテマに編入される[27]

1165年の秋に、マヌエル1世は公に自分の娘とベーラを後継者に指名し、ビザンツの貴族たちにベーラへの忠誠を宣誓させた[27][30]。マヌエル1世の従兄弟であるアンドロニコス・コムネノスだけは勇気を奮ってマヌエル1世の行動を非難し、「全てのローマ人の男には王女と床を共にする価値がないと考えて、あらゆる人物の中からこの外国の侵入者をローマの皇帝に選び、支配者の椅子に座らせるとは皇帝は気が狂ってしまわれたのか?」[31]と抗弁したことが、同時代の人間であるニケタス・コニアテスによって伝えられている[27]1166年春、プロトストラトルのAlexios Axouchがハンガリー軍のシルミウム侵入に対する報復の軍を率いて出撃すると、ベーラは彼に同行した[32]。1166年4月11日にマヌエル1世はベーラとマリアの間に結ばれていた七等親間の婚約を無効とするコンスタンティノープル総主教府の決定を受け取った[33]。1166年の秋にマヌエル1世はシチリアの新王グリエルモ2世にマリアとの結婚を持ちかける[32]

1167年にハンガリーとビザンツの間に新たな戦争が勃発し、同時代の歴史家ラーエヴィンはベーラがイシュトヴァーン3世に対して「王国を要求した」[34]ことが戦争の原因であると記している[35]。また、ミューゲルンのハインリヒはベーラの軍隊に多くのハンガリー人が従軍していた事を記録し、「ハンガリー王国の権利はベーラに属する」と述べている[36]。1167年7月8日にビザンツ軍はシルミウムの戦い英語版でハンガリー軍に大勝を収める[35][37]。戦後ハンガリー軍とビザンツ軍の間に和平条約が調印され、ビザンツがダルマチア中央部、ボスニア、シルミウムの支配権を有することが確認された[37]

「カエサル・アレクシオス」として

1169年9月14日にマヌエル1世の妃マリアは男児を産み、生まれた子供はアレクシオスと名付けられた[38][39]。マヌエル1世はベーラと娘のマリアの婚約を解消し[38]、ベーラのデスポテースの称号を剥奪した上で下位の称号である「カエサル」を授与した[38][40]1170年春にベーラはマヌエル1世の義理の姉妹であるアグネス英語版と結婚し[38][40]、二人は中東に聖地巡礼の旅に出た[40]エルサレムに到着した二人は歓迎を受け、歓待の対価として聖ヨハネ騎士団に10,000ベザントを寄贈した[40][41]。ベーラが寄付に際して発行した書状には「Lord A., Duke of Hungary, Dalmatia and Croatia」という称号が記されていたが、マヌエル1世が授けたカエサルの称号は含まれていなかった[38]

ハンガリー国王への即位

1172年3月4日にハンガリーのイシュトヴァーン3世が没する[42][43]エステルゴムに滞在していたリューベックのアーノルドドイツ語版はイシュトヴァーン3世がベーラの支持者によって毒殺されたことを示唆する噂を記録しているが、この噂の真偽を検証する資料はアーノルドの記録のほかには存在しない[44][40]

ハンガリーの使節団はマヌエル1世、セルディカ(現在のブルガリアソフィア)のベーラの元を訪れた[45][37]。キンナモスの記録によれば、彼の兄弟が亡くなった後に「ベーラに正統性がある」ため「ベーラを王として派遣する」ことを求めたという。また、キンナモスはマヌエル1世が自身とビザンツ帝国のために「"promised an oath to observe for the whole course of his life whatever would be beneficial」上でベーラを王としたと伝えている。また、1196年にビザンツ皇帝イサキオス2世によって作成された書簡には、ベーラはセルビアがビザンツを攻撃した場合、彼らに援助を行わないことも約束していたことが記されている[45]

4月下旬、あるいは5月上旬にベーラ夫妻はセーケシュフェヘールヴァールに到着する[46]1179年に教皇アレクサンデル3世にむけて書かれた手紙には、ベーラは「ハンガリー王国の要人」によって全会一致で国王に選出されたことが記されている[47]。しかし、エステルゴム大司教ルカーチが戴冠式の実施を拒否したため、ベーラの戴冠式は延期される[46]。ベーラが議会の参加者に高価な衣服を贈っていたため、大司教は王が聖職の売買を行っていると非難した[48][49]。大司教ルカーチはベーラの治世において「東西教会のシスマ」の影響が増大することを恐れていたと考えられているが[47][43][49]、それにも関わらず大多数の封建貴族と高位聖職者はベーラへの忠誠を保ち続けていた[50][51]。ベーラは大司教ルカーチに対抗するため、聖座に支援を求めた[48]。ベーラの要請に応じて、アレクサンデル3世はカロチャ大司教にベーラを聖別し、「頭上に王冠を置く」ことを認めた[52]1173年1月18日にベーラの戴冠式が行われた[42]。ベーラはエステルゴム大司教がハンガリー王位の戴冠を行う権利を確認する憲章を発布した[53]。いわゆるギリシャ王冠とラテン王冠が結合して聖イシュトヴァーンの王冠となったのは、彼の治世と考えられている[54]

ハンガリー国内での対立

ベーラはエステルゴム大司教ルカーチを疎んじるようになり、ベーラの治世の初年にルカーチの待遇は悪化する[55]。従来ハンガリー王室の人間への洗礼の施しはエステルゴム大司教の職務となっていたが[55]1174年にルカーチに代えてカロチャ大司教がベーラの長子イムレに洗礼を授ける。

ベーラは弟のゲーザを獄中に閉じ込めていたが、1174年から1175年の間にゲーザは脱獄してオーストリアに亡命する[52][56]オーストリア公ハインリヒ2世がゲーザの引渡しを拒んだため、ベーラはボヘミア公ソビェスラフ2世と計らってオーストリアの襲撃を計画した[57]。マヌエル1世がアナトリア半島のイスラーム国家ルーム・セルジューク朝に対して遠征を実施した際にベーラはマヌエル1世の元に援軍を派遣するが、1176年9月17日のミュリオケファロンの戦いでビザンツ・ハンガリーの連合軍は敗北を喫する[58][59][60]

ゲーザは神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世と面会するためにソビェスラフ2世の説得を試みたが、ソビェスラフ2世はゲーザを逮捕し、1177年にゲーザはハンガリー王国に引き渡された[58][57]。ベーラは再びゲーザを投獄し、彼らの母親であるエフロシニヤもベーラによって幽閉される[58][57]。フリードリヒ1世はゲーザを逮捕したソビェスラフ2世への報復として彼を廃位し、新たにプシェミスル家の一員であるベドジフ(ハインリヒ)をボヘミア公位に就けた[57]。さらにフリードリヒ1世はボヘミアに攻撃を加えるためにレオポルト5世を新たなオーストリア公に推戴するが[57]、ベーラはレオポルト5世に武力の行使を示唆し、ボヘミアから手を引かせることに成功した[61]

1176年頃、長らくベーラから重用されていたカロチャ大司教アンドラーシュ英語版がベーラを侮辱する事件が起きる[62][63]。ベーラはすぐさまアンドラーシュと彼の支持者であるセーケシュフェヘールヴァールの司教座聖堂首席司祭の地位を奪い、大司教の財産を押収した[63][62]。教皇アレクサンデル3世はベーラを教会法に照らして処罰するが、ルカーチと和解したベーラは彼から刑の解除の宣告を受け、アンドラーシュを追放した[62]。両者の衝突は教皇庁の仲介によって終息し、アンドラーシュはベーラに許しを乞う代わりに、ベーラは彼をカロチャ大司教の地位に復職させる[63]

国内の改革と対外拡張

ベーラの招きに応じて、フランスのシトー会の修道士がハンガリーを訪れ、1179年から1184年の間にジルク英語版セントゴッタールド英語版ピリス山地英語版などの土地にシトー会の修道院が新設された[64]。1180年代に入るとベーラは威厳のある王城とエステルゴムの新たな大聖堂の建設を開始し[63]、常に国内を巡察していた[65]。Bulkeszi(現在のセルビアのMaglić)で発見された碑文には、ベーラがこの村に誘致されたドイツ人移住者の名付け親になったことが記されている[66][67]

A man wearing a crown sits on the throne with a scepter and an orb in his hands
ベーラ3世の印章

ベーラはコンスタンティノープルの宮廷でよく組織化された行政機構の重要性を学んでいた[68]。『彩飾年代記英語版』には、ハンガリーがローマ帝国の宮廷で慣例的に使用されていたものと同一の形式の訴状を導入したことが記されており[69]、これはベーラの治世に王室裁判所が独立した行政機関として機能し始めたことを示している[70][68][71]。ベーラは筆記の重要性を強調し、1181年に自分の面前であらゆる特許状を書き残すように命令した[70][68][71]

1180年9月24日にマヌエル1世が没し[72]、この事件から6か月以内にベーラはダルマチアの宗主権を回復するが、この出来事についての同時代の詳細な記述は確認されていない[73][74][75]。13世紀のスプリトの聖職者トマスは、マヌエル1世が没して間もなくスプリトの住民は「ハンガリーの支配に帰した」[76]ことを記している[77]。1181年初頭にはザダルもベーラの宗主権を受け入れた[77]。ハンガリーの拡張に対するビザンツ帝国の反応について、史学者のジョン.V.A.ファインはアドリア海沿岸部にヴェネツィア共和国が進出するよりもハンガリーの支配下に置かれたほうが良いとビザンツ側は判断したと推測し、著書の中で「表面上は血を流さず、帝国の同意の上で」ハンガリーはダルマチアの宗主権を回復したと記している[73]

ハンガリーがシルミウムを奪回した経緯についても不明瞭な点がある[78]アンドロニコス・コムネノスは、皇帝アレクシオス2世の母マリアが彼女の義理の兄弟であるベーラを扇動して1182年5月にベオグラードブラニチェヴォを含む地域を攻撃させたと非難したが、アンドロニコスの発言は当時ハンガリーがシルミウムを占領していたことを示唆している[78]。 同月にアンドロニコスはマリアを逮捕し、年末には彼女を殺害する[79][80]。ベーラはビザンツ帝国の無政府状態に乗じて1183年前半にニシュとセルディカに進出し[81]、セルディカでは聖遺物であるリラの聖イヴァンの棺を押収し、「盛大な儀礼を催してハンガリーに護送し、敬意をもってエステルゴムの教会に安置する」[82]ことを命令したことが記録されている[80]。Makkはベーラがドナウ川以南の地域から撤退したと記しているが[80]、反対にポール・スティーブンソンはベーラがそれらの土地を保有し続けたと主張している[83]

1183年末にアンドロニコス・コムネノスはアレクシオス2世を殺害する[83]。アンドロニコスと敵対する勢力はベーラを含む多くの君主にアンドロニコスへの攻撃を促す書簡を送り、1185年初頭にハンガリー軍がビザンツ領に侵入したことが伝えられている[84]。1183年9月にアンドロニコスが廃位された後、ベーラは新たに皇帝となったイサキオス2世との間で和平条約に調印する[85]。イサキオス2世はベーラの娘マルギトと結婚し、ベーラは娘の婚資としてニシュとブラニチェヴォを含む地域をビザンツに譲渡し[86][87]、リラの聖イヴァンの棺もセルディカに返還された[86]1186年2月にベーラはフランス王フィリップ2世の娘マルグリットと結婚する[88]

セントゴッタールド修道院の設立(Stephan Dorfmeister作、1795年頃)

1187年にザダルはヴェネツィア共和国のドージェオリオ・マストロピエノの包囲を受けるが、ヴェネツィアの艦隊は防備を固められた町を陥落させることができなかった[85]1188年末にボヤール(貴族)の反乱に遭ったガーリチ(ガリツィア)公ウラジーミル・ヤロスラヴィチがハンガリーに亡命する[89]。ガリツィアはヴォルイニ公ロマン・ムスティスラーヴィチの支配下に入るが、ロマンはガリツィアに侵入したハンガリー軍の攻撃を受けて退却した[89][90]。ロマンが敗れた後もウラジーミルの地位は回復されず、ベーラは彼を投獄し、息子のアンドラーシュをガリツィアの統治者に任命する[91][92]。ガリツィア征服の象徴として、ベーラはガリツィア王の称号を加えた[91]

1187年夏に神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が指揮するドイツの十字軍がハンガリー国内を通過した[93]。ベーラはフリードリヒを歓待し、バルカン半島を通過する十字軍を護衛するために軍隊を派遣した[93][94]。また、ベーラはフリードリヒの要求に応じて獄中のゲーザを釈放し、ゲーザはハンガリーを出国して十字軍に参加する[93][90]。バルカン半島を進軍するドイツ十字軍とビザンツ帝国との関係は悪化し、半ば戦争状態に突入していたが、ベーラの仲介によってフリードリヒとイサキオス2世は和約を結んだ[93]

1189年/1190年の初めにウラジーミル・ヤロスラヴィチが脱獄し[91][95]、ウラジーミルはポーランド大公カジミェシュ2世の力を借りてアンドラーシュをガリツィアから追放し、公国の支配を回復した[91]1191年にベーラはフィリッポポリス(現在のブルガリアのプロヴディフ)とシルミウムで娘婿のイサキオス2世と会談を行うが、交渉の結果は不明である[96][97]1192年に教皇庁はベーラからの働きかけを受けてハンガリー王ラースロー1世を列聖する[98]。1193年初頭にハンガリー軍はセルビアに侵入するが[97]、イサキオス2世は武力の行使を暗示してハンガリー軍の撤退を要求した[97]。同時期にヴェネツィア共和国のドージェ・エンリコ・ダンドロはザダルの占領を試みるが、二度目の攻撃も失敗に終わる[85]。また、1193年にはクロアチアの貴族フランコパン家英語版の一員であるクルクのバルトロメウにモドルシュ郡を授与している[99]

晩年(1194年 - 1196年)

1194年にベーラは将来のハンガリー王として戴冠した長男のイムレをクロアチア、ダルマチアの統治者に命じる[100][101]。同年のアルカディオポリスの戦いでビザンツ軍がブルガリアクマン人ヴラフ人の連合軍に敗れ、ベーラはビザンツに援軍を派遣しようとした[102][103]。しかし、1195年4月にイサキオス2世が兄弟のアレクシオスによって廃位されたため、援軍の派遣は中止される[104][105]。神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世は廃位されたイサキオスの支援を名目とするビザンツへの遠征を企てるが、ベーラは臣下にハインリヒの遠征への参加を禁止した[106]

ベーラは聖地を奪還する十字軍に参加したいと考えており、その願望の表れとして十字架を携えていた[107]。しかし、1196年4月23日にベーラは病没し、宿願を果たすことはできなかった[90][108][107]。ベーラの遺体はセーケシュフェヘールヴァールのバシリカ英語版に埋葬された[90]

同時代の人物であるロンドンのリチャードはベーラの身長が際立って高いことを記しており、19世紀に実施された発掘調査の結果、リチャードの記述を根拠としてベーラの遺体が同定され、遺骨の状態から身長は190cmだと推定されている[90][100]。掘り起こされた遺体はブダペストマーチャーシュ聖堂に改葬される[90][100]

家族

ファイル:Sarkopharg Béla III.JPG
ベーラ3世の墓

ベーラの最初の妻であるアグネス英語版アンティオキア公ルノー・ド・シャティヨンコンスタンスの間に生まれた娘である[109]。アグネスは1149年頃に生まれ、1184年頃に没した[40]。1170年に二人が結婚したとき、アグネスはコンスタンティノープルで「アンナ」に改名した[40][38]

1174年にベーラとアンナの最初の子であるイムレが生まれ[110]1177年頃に次男のアンドラーシュが誕生した[111]。ほかにシャラモンとイシュトヴァーンという名前の男児をもうけたが、いずれも幼少時に没している[112]

1175年にイムレの妹マルギトが生まれ、マルギトはコンスタンティノープルでマリアに改名した[113][87]。マリアは9歳、もしくは10歳の時、当時30歳のビザンツ皇帝イサキオス2世の元に嫁ぐ[85][87]。1204年にイサキオス2世は没し、彼の死後に第四回十字軍によってコンスタンティノープルが占領される[114]。コンスタンティノープルが陥落した後、マリアは十字軍の指導者の一人でテッサロニキを獲得したモンフェラート侯ボニファチオと再婚した[115]。史学者のMakkは1210年頃にボニファチオに先立たれたマリアはサントメールの騎士ニコラス1世と再婚したと記しているが[116]、ピーター・ロックはマリアとニコラス1世の妻は別人だと見なしている[117]。ベーラの次女コンスタンツィア1198年頃にボヘミア公オタカル1世の元に嫁いだ[116]。ベーラとアンナの間に生まれた3人目の娘は早世し、名前も明らかになっていない[112]

アンナが没した後、ベーラはマヌエル1世の姉妹テオドラ・コムネナの孫娘で祖母と同名の王女テオドラに結婚を申し込んだ[84][87]。しかし、テオドラは修道院に入っていたため、1185年にコンスタンディヌーポリ総主教庁によって結婚の申し出は却下された[84][87]。1185年末、もしくは1186年初にベーラはザクセン公ハインリヒ獅子公の娘マティルデに結婚を申し込むが、マティルデの祖父であるイングランド王ヘンリー2世によって縁談は妨げられる[85]。結局、1186年の夏にベーラはヘンリー2世の義理の娘で夫の若ヘンリー王に先立たれたマルグリット(マルギト)と再婚することになる[85]。マルギトはベーラよりも長く生き、彼の死後に中東に移住した[100]

政策

ベーラ3世は中世のハンガリーの君主の中で最も著名な人物の一人であり、史学者のPál Engelはベーラの治世を「アールパード朝の最盛期であり、一時代の終わり」と表現している[14]。王室裁判所の開設はハンガリー国内での筆記の普及に貢献し、1190年代には初めて封建貴族に特許状が発行された[118][119]。ベーラの収入を記録した同時代の史料には、ベーラ3世は170,000マルク、純銀に換算して約23トンの年間収入を得ていたことが記されている[120][121]。記録されている数値が事実であれば、ハンガリー王室は同時代のフランス王室とイングランド王室を超える収入を得ていたことになるが、Pál Engelら多くの歴史家は史料の信憑性を疑問視している[120][122][123]

エステルゴムの町が火事によって焼失した後、1190年頃にベーラは王宮や大聖堂を再建するためにフランスから石工を招いた[63][124]。石工によってハンガリーに新しい建築様式が導入され、新築された王宮と大聖堂は中欧における最初期のゴシック建築の一例とされている[124][125]。1190年頃にハンガリーで鋳造されていた貨幣には主としてコンスタンティノープルの教会で使用されていたtwo-barred crossを刻まれており、ベーラの治世にいわゆる「二重十字」がハンガリーの国章の一部になったことを示している[126]

脚注

  1. ^ a b Makk 1994, p. 91.
  2. ^ a b c Kristó & Makk 1996, p. 204.
  3. ^ Deeds of John and Manuel Comnenus by John Kinnamos (5.5), p. 163.
  4. ^ Makk 1989, pp. 77, 123.
  5. ^ Deeds of John and Manuel Comnenus by John Kinnamos (5.17), p. 187.
  6. ^ a b c Makk 1989, p. 77.
  7. ^ Stephenson 2000, pp. 198, 251.
  8. ^ a b c Magdalino 1993, p. 79.
  9. ^ Makk 1989, pp. 77, 155.
  10. ^ a b Curta 2006, p. 332.
  11. ^ a b c d e Treadgold 1997, p. 646.
  12. ^ Makk 1989, p. 79.
  13. ^ a b c Kristó & Makk 1996, p. 205.
  14. ^ a b Engel 2001, p. 52.
  15. ^ Makk 1994, p. 86.
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  17. ^ a b Makk 1989, p. 86.
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  19. ^ Stephenson 2000, p. 251.
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先代
イシュトヴァーン3世
ハンガリー国王
1172年 - 1196年
次代
イムレ1世