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「西国三十三所」の版間の差分

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'''西国三十三所'''(さいごくさんじゅうさんしょ、さいこくさんじゅうさんしょ)は、[[近畿]]2府4県と[[岐阜県]]に点在する33か所の[[観音菩薩|観音]]信仰の[[霊場]]の総称<ref>「西国三十三箇所」(さいごくさんじゅうさんかしょ)とする表記もあるが、近世以前にはもっぱら「三十三所」と称され、[http://www.saikoku33.gr.jp/ 西国三十三所札所会]や各種の文献でも同じく「三十三所」の表記を採る。また、「西国」は「さいこく」と清音で読む場合もある。</ref>。これらの霊場を札所とした巡礼は日本で最も歴史がある巡礼行であり、現在も多くの参拝者が訪れている。
'''西国三十三所'''(さいごくさんじゅうさんしょ、さいこくさんじゅうさんしょ)は、[[近畿]]2府4県と[[岐阜県]]に点在する33か所の[[観音菩薩|観音]]信仰の[[霊場]]の総称<ref>「西国三十三箇所」(さいごくさんじゅうさんかしょ)とする表記もあるが、近世以前にはもっぱら「三十三所」と称され、[http://www.saikoku33.gr.jp/ 西国三十三所札所会]や各種の文献でも同じく「三十三所」の表記を採る。また、「西国」は「さいこく」と清音で読む場合もある。</ref>。これらの霊場を札所とした巡礼は日本で最も歴史がある巡礼行であり、現在も多くの参拝者が訪れている。


「三十三」とは、『[[法華経|妙法蓮華経]]観世音菩薩普門品第二十五』([[観音経]])に説かれる、観音菩薩が[[衆生]]を救うとき33の姿に変化するという信仰に由来し、その功徳に与るために三十三の霊場を巡拝することを意味し<ref>三石[2005: 30]</ref>、西国三十三所の観音菩薩を巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できるとされる。
「三十三」とは、『[[法華経|妙法蓮華経]]観世音菩薩普門品第二十五』([[観音経]])に説かれる、観音菩薩が[[衆生]]を救うとき33の姿に変化するという信仰に由来し、その功徳に与るために三十三の霊場を巡拝することを意味し<ref>三石[2005: 30]</ref>、西国三十三所の観音菩薩を巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できるとされる。


== 成立と歴史 ==
== 成立と歴史 ==
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前者の例として挙げられるのは、[[後鳥羽天皇|後鳥羽院]]の13回、[[後白河天皇|後白河院]]の27回といった参詣であり、こうした盛行に影響されて三十三所の順路が影響を受けて、12世紀後半には那智山を一番札所とするようになったと考えられている<ref name="Yoshii_1996_54"/>。
前者の例として挙げられるのは、[[後鳥羽天皇|後鳥羽院]]の13回、[[後白河天皇|後白河院]]の27回といった参詣であり、こうした盛行に影響されて三十三所の順路が影響を受けて、12世紀後半には那智山を一番札所とするようになったと考えられている<ref name="Yoshii_1996_54"/>。


後者の西国三十三所における熊野那智山の位置付けであるが、熊野那智山には三十三所の開創や巡礼との関係が多数ある。伝説上の開創を[[裸形]]とし、[[奈良時代]]以前から特別な聖地であった那智山には、三十三所の伝説上の開創である花山院が[[寛和]]2年([[986年]])に参詣をしたことに由来して、多数の伝承が見られる。それらの伝承には、例えば[[那智滝]]で花山院が千日滝籠行を行ったとするほか、滝元千手堂の本尊を花山院に結びつけたり、[[阿弥陀寺 (那智勝浦町)|妙法山]]に庵や墓所があったとするものが見られ、那智山における花山院伝承は非常に重要である<ref name="Yoshii_1996_54"/>。また、中世には諸国を廻国遊行する廻国巡礼行者が多数いたが、三十三所を巡る三十三度行者なる行者に那智山の住僧が多数なっていただけでなく、その往来手形もまた那智山が管掌するところであったと青岸渡寺伝来の史料は伝えている<ref>吉井[1996: 54-55]</ref>。こうした点から分かるように、当初摂関期の観音信仰をもとにしていた三十三所は、院政期に熊野詣の盛行の影響下で熊野那智山を一番札所とするようになり、花山院の伝承の喧伝や三十三度行者の活動を通じて、熊野那智山により広められていった<ref>吉井[1996: 55]</ref>。なお、従来から三十三所に関わっていた園城寺も熊野三山検校職に任じられており、熊野那智山を一番札所とすることに影響したと考えられる。また、園城寺の影響下にある[[三室戸寺]]を一時期の結願札所としたのも園城寺の関係とされる。<ref>白木[2008: 34]</ref>三十三所が固定化し、東国からの俗人も交えて民衆化するのは15世紀半ばを下る時期のことであった<ref>吉井[1990: 20]、戸田[1992: 271]</ref>。結願札所が東国からの便が良い美濃谷汲山に移されたのもこの時期とされる
後者の西国三十三所における熊野那智山の位置付けであるが、熊野那智山には三十三所の開創や巡礼との関係が多数ある。伝説上の開創を[[裸形]]とし、[[奈良時代]]以前から特別な聖地であった那智山には、三十三所の伝説上の開創である花山院が[[寛和]]2年([[986年]])に参詣をしたことに由来して、多数の伝承が見られる。それらの伝承には、例えば[[那智滝]]で花山院が千日滝籠行を行ったとするほか、滝元千手堂の本尊を花山院に結びつけたり、[[阿弥陀寺 (那智勝浦町)|妙法山]]に庵や墓所があったとするものが見られ、那智山における花山院伝承は非常に重要である<ref name="Yoshii_1996_54"/>。また、中世には諸国を廻国遊行する廻国巡礼行者が多数いたが、三十三所を巡る三十三度行者なる行者に那智山の住僧が多数なっていただけでなく、その往来手形もまた那智山が管掌するところであったと青岸渡寺伝来の史料は伝えている<ref>吉井[1996: 54-55]</ref>。こうした点から分かるように、当初摂関期の観音信仰をもとにしていた三十三所は、院政期に熊野詣の盛行の影響下で熊野那智山を一番札所とするようになり、花山院の伝承の喧伝や三十三度行者の活動を通じて、熊野那智山により広められていった<ref>吉井[1996: 55]</ref>。なお、従来から三十三所に関わっていた園城寺も熊野三山検校職に任じられており、熊野那智山を一番札所とすることに影響したと考えられる。また、園城寺の影響下にある[[三室戸寺]]を一時期の結願札所としたのも園城寺の関係とされる。<ref>白木[2008: 34]</ref>三十三所が固定化し、東国からの俗人も交えて民衆化するのは15世紀半ばを下る時期のことであった<ref>吉井[1990: 20]、戸田[1992: 271]</ref>。結願札所が東国からの便が良い美濃谷汲山に移されたのもこの時期とされる。


=== 中世三十三所寺院における信仰と巡礼 ===
=== 中世三十三所寺院における信仰と巡礼 ===
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現在でも鉄道会社やバス会社によって多くの巡礼ツアーが組まれており利用者も多い<ref>[[京都京阪バス]]では西国三十三所の内数箇所と、番外としてツアーにより近隣の寺院数箇所とを組み合わせた巡礼ツアーを定番コースとして開催している。</ref>。
現在でも鉄道会社やバス会社によって多くの巡礼ツアーが組まれており利用者も多い<ref>[[京都京阪バス]]では西国三十三所の内数箇所と、番外としてツアーにより近隣の寺院数箇所とを組み合わせた巡礼ツアーを定番コースとして開催している。</ref>。


== 西国写し霊場との関係 ==
== 西国写し霊場==
西国霊場巡礼が盛んになると、地方の大名などが自分の居住する周辺に西国霊場を勧請して新たな観音巡礼を作るようになった。これを「西国写し霊場」という。最も早期の西国写し霊場は[[源頼朝]]創建と伝える[[坂東三十三箇所]]であるが、これは鎌倉時代の天福二年(1234)以前には既にあったという確実な史料<ref>[http://www.bandou.gr.jp/about/history.php 坂東三十三観音公式サイト]</ref>があり、かなり古いものである。この時期には京都に[[洛陽三十三ヶ所]]も作られた。室町時代になると秩父に[[秩父三十四箇所]]も創建され、西国・坂東・秩父を合わせて「百観音」というようになり、百観音巡礼をする修験者なども増加した。
西国霊場巡礼が盛んになると、地方の大名などが自分の居住する周辺に西国霊場を勧請して新たな観音巡礼を作るようになった。これを'''「西国写し霊場」'''という。最も早期の西国写し霊場は[[源頼朝]]創建と伝える[[坂東三十三箇所]]であるが、これは鎌倉時代の天福二年(1234)以前には既にあったという確実な史料<ref>[http://www.bandou.gr.jp/about/history.php 坂東三十三観音公式サイト]</ref>があり、かなり古いものである。この時期には京都に[[洛陽三十三ヶ所]]も作られた。室町時代になると秩父に[[秩父三十四箇所]]も創建され、西国・坂東・秩父を合わせて「百観音」というようになり、百観音巡礼をする修験者なども増加した。


江戸時代になると全国あちこちに西国写し霊場が作られ、現在もあちこちに写し霊場が作られている。これらの写し霊場にはいくつかの類型があることが指摘されている。以下にその例を挙げる。<ref>以下の分類は、田上善夫『地方霊場の開創とその巡拝路について』富山大学教育学部紀要、2004などを参考とした。</ref>
江戸時代になると[[山形藩]]主最上家が信仰を奨励し、開創伝説にも最上家が深く関わっている[[最上三十三観音霊場]]のように、藩内に西国写し霊場を設けることで領民の信仰とリクリエーションを図る大名も出、[[江戸三十三観音]]のように、西国巡礼がなかなか出来ない庶民たちが江戸市中の西国霊場に似た寺社を西国の札所に見立てたものも出現した。
* 地方霊場
[[坂東三十三箇所]]・[[中国三十三観音霊場]]などのように、一地方に散在する観音奉安寺院を巡礼するもの。
* 一国霊場
[[和泉西国三十三箇所]]・[[播磨西国三十三箇所]]・[[最上三十三観音霊場]]などのように、[[令制国]]一国若しくは江戸時代の[[藩]]の領域にある観音奉安寺院を巡礼するもの。播磨西国三十三箇所のように地元の僧侶が西国霊場寺院を中心に巡礼ルートを設定するものや、[[山形藩]]主最上家が信仰を奨励し、開創伝説にも最上家が深く関わっている[[最上三十三観音霊場]]のように、藩内に西国写し霊場を設けることで領民の信仰とリクリエーションを図る大名によるものがある。
* 一郡霊場
[[江戸三十三箇所]]・鎌倉郡三十三箇所(現在の[[鎌倉三十三箇所]])のように、[[郡]]などの国や藩領よりも小さな領域に、西国巡礼がなかなか出来ない庶民たちが巡礼ルートを設置したもの。例えば江戸三十三箇所は[[洛陽三十三ヶ所]]にならい、江戸市中の西国霊場に似た寺社を西国の札所に見立てたものである。<ref>例を上げれば、東京上野の[[五條天神社]]・穴稲荷堂から見える[[不忍池]]の景色が西国13番石山寺から見える[[琵琶湖]]の景色によく似ていることから、明治以前は穴稲荷を江戸三十三箇所の一つとしていたように、西国霊場に似た景色や、由来の似た寺院を選定していた。</ref>
* 小規模(里山)霊場
[[里山]]に三十三所の本尊を模した石仏を三十三体(もしくは西国・坂東・秩父合わせて百体)建立し、修験道で信仰対象にされていた里山の山道に沿って巡礼できるようにしたもの。<ref>田上2004では、富山県東砺波郡井波町の八乙女山霊場、山形県の岩部山三十三観音霊場などが例として挙げられており、何れも修験道の影響力が強い地方であることを指摘している。</ref>


== 西国三十三所札所寺院の一覧 ==
== 西国三十三所札所寺院の一覧 ==

2015年3月24日 (火) 14:10時点における版

西国三十三所札所(京都府に所在するものを除く)
西国三十三所札所(京都府に所在するもの)

西国三十三所(さいごくさんじゅうさんしょ、さいこくさんじゅうさんしょ)は、近畿2府4県と岐阜県に点在する33か所の観音信仰の霊場の総称[1]。これらの霊場を札所とした巡礼は日本で最も歴史がある巡礼行であり、現在も多くの参拝者が訪れている。

「三十三」とは、『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』(観音経)に説かれる、観世音菩薩が衆生を救うとき33の姿に変化するという信仰に由来し、その功徳に与るために三十三の霊場を巡拝することを意味し[2]、西国三十三所の観音菩薩を巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できるとされる。

成立と歴史

伝承

三十三所巡礼の起源については、中山寺の縁起である『中山寺来由記』、華厳寺(三十三番札所)の縁起である『谷汲山根元由来記』などに大略次のように記されている。

養老2年(718年)、大和国の長谷寺の開基である徳道上人が62歳のとき、病のために亡くなるが冥土の入口で閻魔大王に会い、生前の罪業によって地獄へ送られる者があまりにも多いことから、日本にある三十三箇所の観音霊場を巡れば滅罪の功徳があるので、巡礼によって人々を救うように託宣を受けるとともに起請文と三十三の宝印を授かり現世に戻された。そしてこの宝印に従って霊場を定めたとされる。上人と弟子たちはこの三十三所巡礼を人々に説くが世間の信用が得られずあまり普及しなかったため、機が熟すのを待つこととし、閻魔大王から授かった宝印を摂津国中山寺の石櫃に納めた。そして月日がたち、徳道は隠居所の法起院で80歳で示寂し、三十三所巡礼は忘れ去られていった[3]

徳道上人が中山寺に宝印を納めてから約270年後、花山院安和元年〈968年〉 - 寛弘5年〈1008年〉)が紀州国那智山で参籠していた折、熊野権現が姿を現し、徳道上人が定めた三十三の観音霊場を再興するように託宣を授けた。そして中山寺で宝印を探し出し、播磨国書写山圓教寺性空上人の勧めにより、河内国石川寺(叡福寺)の仏眼上人を先達として三十三所霊場を巡礼したことから、やがて人々に広まっていったという(中山寺の弁光上人を伴ったとする縁起もある)。仏眼が笈摺・納め札などの巡礼方式を定め、花山院が各寺院の御詠歌を作ったといい、現在の三十三所巡礼がここに定められたというのである。

開創

しかしながら、札所寺院のうち、善峯寺は法皇没後の長元2年(1029年)創建である。また、花山院とともに札所を巡ったとされる仏眼上人は、石川寺の聖徳太子廟の前に忽然と現れたとされる伝説的な僧で、実在が疑問視されている。以上のことから、三十三所巡礼の始祖を徳道上人、中興を花山院とする伝承は史実ではない[4]。また、御詠歌も十返舎一九が「テニヲハも整っておらず仮名の間違いも多く、到底論ずるに足るものではない」というように花山院の作とは認めにくい[5]

西国三十三所の前身に相当するものは、院政期の観音信仰の隆盛を前提として[6]、11世紀ごろに成立していた[7]。史料上で確認できる初出は、近江国園城寺(三井寺)の僧の伝記を集成した『寺門高僧記』中の「行尊伝」と「覚忠伝」にみられる「観音霊場三十三所巡礼記」である。行尊の巡礼を史実と認めるか否か、異論が存在する[8]が、これに次ぐ覚忠の巡礼は確実に史実と考えられている[9]。行尊と覚忠の巡礼記を比較すると、三十三所の寺院の組み合わせは一致するものの順番が相違し、両者とも三室戸寺で巡礼を終えているが、行尊は一番札所を長谷寺、覚忠は那智山としている[10]。行尊自身はさておき、行尊伝の伝える順番での巡礼が確かに行われていたと見え、栂尾山高山寺に伝わる「観音丗三所日記」(承元5年〈1211年〉)に収められたある覚書は、長谷寺伝の書物に依拠しつつ、行尊伝と同じ順番での巡礼を伝えている[11]。この時期の三十三所の順序や寺院の組み合わせは様々で、何種類もの観音霊場巡礼が併存し、ひとつの寺院がいくつもの観音霊場に数えられていた[12]。その中で現在の三十三所は、行尊・覚忠がいずれも園城寺の僧であることからも伺えるように、園城寺系の僧による修行の一環として巡礼されたものであり、三十三所中天台宗寺院が十九ヶ所と非常に多いことも園城寺が三十三所の成立に関わった影響と考えられている[13]

庶民が11ヶ国にもまたがる33の霊場を巡礼することは、中世初めにはきわめて困難である[14]。中世初めにおいては、三十三所すべてを巡る巡礼が主として各種の聖や修行者によって行われていたとはいえ、観音信仰の性格からして、一般俗人を排除することは考えにくいことであり[15]、一国のみ、ないし限られた区間のみを辿る巡礼を重ねて、三十三所に結縁・結願することを願っての巡礼が行われていたと考えられている[16]

西国三十三所の確立

長谷寺は平安時代初期頃から霊験著しい観音霊場寺院として、特に朝廷から崇敬を寄せられただけでなく、摂関期には藤原道長が参詣するなど、重要な観音霊場であった。こうした長谷寺の位置付けゆえに三十三所の一番となったと見られることから、11世紀末頃(1093年 - 1094年頃)と見られる行尊の巡礼が長谷寺から始まることは自然なことと考えられる[17]。だが、12世紀後半の覚忠の巡礼において、長谷寺から遠く隔たった那智山が第一番となるには大きな変化があったと見なければならず、それには熊野詣の盛行と西国三十三所における熊野那智山の位置という2つの点を見なければならない[18]

前者の例として挙げられるのは、後鳥羽院の13回、後白河院の27回といった参詣であり、こうした盛行に影響されて三十三所の順路が影響を受けて、12世紀後半には那智山を一番札所とするようになったと考えられている[18]

後者の西国三十三所における熊野那智山の位置付けであるが、熊野那智山には三十三所の開創や巡礼との関係が多数ある。伝説上の開創を裸形とし、奈良時代以前から特別な聖地であった那智山には、三十三所の伝説上の開創である花山院が寛和2年(986年)に参詣をしたことに由来して、多数の伝承が見られる。それらの伝承には、例えば那智滝で花山院が千日滝籠行を行ったとするほか、滝元千手堂の本尊を花山院に結びつけたり、妙法山に庵や墓所があったとするものが見られ、那智山における花山院伝承は非常に重要である[18]。また、中世には諸国を廻国遊行する廻国巡礼行者が多数いたが、三十三所を巡る三十三度行者なる行者に那智山の住僧が多数なっていただけでなく、その往来手形もまた那智山が管掌するところであったと青岸渡寺伝来の史料は伝えている[19]。こうした点から分かるように、当初摂関期の観音信仰をもとにしていた三十三所は、院政期に熊野詣の盛行の影響下で熊野那智山を一番札所とするようになり、花山院の伝承の喧伝や三十三度行者の活動を通じて、熊野那智山により広められていった[20]。なお、従来から三十三所に関わっていた園城寺も熊野三山検校職に任じられており、熊野那智山を一番札所とすることに影響したと考えられる。また、園城寺の影響下にある三室戸寺を一時期の結願札所としたのも園城寺の関係とされる。[21]三十三所が固定化し、東国からの俗人も交えて民衆化するのは15世紀半ばを下る時期のことであった[22]。結願札所が東国からの便が良い美濃谷汲山に移されたのもこの時期とされる。

中世三十三所寺院における信仰と巡礼

那智山青岸渡寺

西国三十三所に算えられる寺院は、第一番の那智山青岸渡寺から第三十三番の谷汲山華厳寺までに番外三か寺を加えて36あり、その組み合わせは『寺門高僧記』以来、変化が無い。これら36の寺院は、規模をもとに4つに分類される[23]。一つ目は権門寺院に相当する有力寺院であり、興福寺南円堂(第九番)や醍醐寺(第十一番)など、6か寺が該当する。これらの寺院のうち、清水寺石山寺は三十三所に先立つ貴族の観音信仰において対象とされた各寺院の本尊がそのまま三十三所の信仰対象となっているが、他の4か寺では対象となっているのは寺の本尊ではなく、子院の本尊であることから、たまたま庶民信仰を集めた堂舎が三十三所に連なったと見られている[24]

二つ目は地方の有力寺院で、青岸渡寺(第一番)を始めとして24か寺と、数的に全体の3分の2を占め、三十三所の中心的存在である[25]。これらの寺院は多数の子院を従えた一山寺院であり、数百人、時には千人を越える僧を擁する地方の有力寺院[26]であった。寺院の本尊と三十三所の信仰対象とは多くの場合において一致するが、三十三所巡礼寺院であることは寺の性格全体にとってあまり重要ではなかった[24]

例えば、一番札所である那智の本尊は今日に至るまで那智滝本地仏たる千手観音であるが、三十三所としての本尊は如意輪観音である。千手観音とならんで如意輪観音が信仰の対象となるのは、12世紀初めごろと見られ、藤原宗忠の『中右記』にその様子が見える[27]。宗忠は、熊野権現本殿の前に設けられ、参詣者が参籠礼拝する「礼堂」に導かれ、社僧から如意輪験所の由縁を説かれたのち、滝殿とその傍らの千手堂に参詣しており、如意輪堂は古くからの観音霊山内の新たな霊場であった[27]

三つ目は京都市中の中小寺院で、六波羅蜜寺(第十七番)ほか4か寺が該当する[25]。これらの寺院は平安時代から盛んになった京都近郊の洛中洛外七観音霊場巡礼に由来する寺院である[24]。六波羅蜜寺の他、行願寺(第十九番)、頂法寺(第十八番)は三十三所寺院であるとともに、洛中洛外七観音の一角であり、こうした京都近郊の観音巡礼寺院としての性格は清水寺や石山寺にもあてはまる。こうしたことから、三十三所の成立は、京都近郊の観音巡礼を歴史的前提とし[28]、それらと地方の著名な観音信仰寺院との融合によるものであることが分かる[24]

四つ目の地方の小規模寺院は番外の3か寺が該当する。これら寺院はいずれも小規模な寺院であるが、三十三所巡礼の縁起にまつわる寺院であり、三十三所の隆盛とともに花山院の縁起が広く知れ渡り、参詣者を集めるようになったことで番外に加えられた[28]

各寺院で三十三所を支え、三十三所巡礼を行じた三十三所の担い手は、当初、山伏や前述の三十三度行者のような廻国巡礼行者、熊野比丘尼、各種の勧進聖、一般の僧侶といった宗教者の集団であって、こうした聖に導かれる形で民衆も巡礼を行っていた[29]。こうした宗教者は、各地で勧進を募っては、集めた願物によって堂舎の造営・修造、燈明料の維持にあたっており、勧進聖としての活動を通じて一山の経済を支えていた[30]。とりわけ室町幕府の支配の弛緩する15世紀以後、各地の寺社はかつてのように公権力の保護に依存しえなくなる[31]。かわって、各地の寺社が依存したのが、勧進聖による本願所であった[32]。なかでも、那智山の勧進聖たちは、各地を巡って三十三所の組織化に努めた[33]。青岸渡寺を第一番とし、華厳寺を第三十三番とする順序が史料上に初見されるのは、勧進聖の活動が定着するのと同じ15世紀中頃のことである[33]。さらに勧進聖たちは、巡礼の庶民を対象にした宿所を設けるなど、より多くの巡礼を招き、さらに多くの奉加や散銭を獲得することを目指した[34]。こうした過程を経て、当初、もっぱら修行僧や修験者らのものだった西国三十三所巡礼は、室町時代中期には庶民による巡礼として定着していった[35]

庶民への勧進活動に当たって三十三所寺院であることが大きな効果を持つことから、一山における勧進聖の経済的役割は大きく、寺院側も堂舎の造営・修造にあたって巡礼からの奉加に期待を寄せていた。そのため、室町時代中期(戦国時代)から中世末期にかけて発された、寺院修覆のための勧進状や縁起では三十三所寺院であることが強調されるとともに、勧進状や縁起を携えて勧進を担った聖の拠点たる子院群が一山を支える状況が生み出された[36]。しかしながら、こうした勧進聖の集団の寺院内における地位は低く、あくまで下僧としてもっぱら扱われたために正式の法会や祭礼に参加することはできなかった[37]。有力とはいえ寺院内の一勢力に過ぎない勧進聖集団にもっぱら支えられていた[24]という事情は、各寺院における三十三所の位置付けを低いものにとどめさせた[38]。三十三所諸寺院の蔵する中世古文書は数千点に達するが、縁起や勧進状の類を除くと、三十三所に関係する古文書の数はわずかに十数通にすぎず、三十三所寺院であることは各寺院の持つ多様な性格の一つに過ぎなかった[26]

近世における庶民化

江戸時代には観音巡礼が広まり、関東の坂東三十三箇所秩父三十四箇所と併せて日本百観音と言われるようになり、江戸時代初期からは「巡礼講」が各地で組まれ団体の巡礼が盛んに行われた。地域などから依頼を受けて三十三所を33回巡礼することで満願となる「三十三度行者」と呼ばれる職業的な巡礼者もいた。これら巡礼講や三十三度行者の満願を供養した石碑である「満願供養塔」は日本各地に残っている。江戸からの巡礼者は、まず伊勢神宮に参拝した後で第一番の青岸渡寺へ向かい、途中高野山比叡山などにも参拝しつつ、結願の33番谷汲山を目指した。そして帰途にお礼参りとして信濃善光寺を参拝するのが通例となっていた。三十三所で巡礼を終わらせずに別の寺院にも参拝している理由としては、江戸からの行程の途中に善光寺があること、観音の本地が善光寺阿弥陀如来とされたことなどが指摘されている。一方、お礼参り(=巡礼の終了)の善光寺を敢えてしない巡礼者もいた。「巡礼の終わりは死に急ぐ」という俗信に依ってだという[39]

近世には、幕藩体制が整えられて社会が安定し、寺社の経済的再建が進むにつれ、本願への抑圧と寺社運営からの排除が進んだ。こうした排除は、例えば那智山では、延享元年(1744年)の裁許状をもって本願所から造営修理権・勧進権が剥奪されるまでに至った[40]。だが、本願所によって募られていた庶民の奉加と散銭は、寺社の造営に依然として欠かせないものであった。例えば、勧進活動に替わるものとしての本尊開帳も享保年間(1716年 - 1735年)には、幕府により、寺社焼失のような例外を除いて33年に1度のみとする規制が加えられた[41]。そこで寺社の側では、いっそう増加する庶民巡礼から奉加・散銭を得るべく、寺院全体を三十三所の巡礼寺院として宣伝した[42]

巡礼者側も三十三所に加え、坂東三十三箇所や現在では新西国三十三箇所観音霊場に入っている別の観音霊場を参拝することもあった。例えば文化年間に西国巡礼を行った益子広三郎は、伊勢神宮→1番青岸渡寺→(現在の新西国5番)道成寺→得生寺→2番紀三井寺…という順序で巡礼しており、四国の金毘羅宮などの何の関係のない神社まで参拝しているという。益子の場合、帰途には坂東18番の日光山まで参拝している[43]

巡礼

善光寺(長野県長野市)

霊場は一般的に「札所」という。かつての巡礼者が本尊である観音菩薩との結縁を願って、氏名や生国を記した木製や銅製の札を寺院の堂に打ち付けていたことに由来する。札所では参拝の後、写経とお布施として納経料を納め、納経帳に宝印の印影を授かる。写経の代わりに納経札を納める巡礼者もいる。

巡礼の道中に、開基である徳道上人や再興させた花山院のゆかりの寺院が番外霊場として3か所含まれている。新西国三十三箇所観音霊場に入っている、三十三所ではない観音を祀る寺に参拝する人もいる[44]。そして結願のお礼参りとして、最後に信州の善光寺に参拝し計37か所を巡礼する[45]。また、高野山金剛峯寺の奥の院、比叡山延暦寺の根本中堂、奈良の東大寺の二月堂、大阪の四天王寺を番外霊場に含んでいる場合もあり、お礼参りは善光寺を含め5か所の中から一つを選べばよいとする説もある。

第一番から第三十三番までの巡礼道は約1000kmであり四国八十八箇所の遍路道約1400kmと比較すれば短いが、京都市内をのぞいて札所間の距離が長いため、現在では全行程を歩き巡礼する人はとても少なく、自家用車や公共交通機関を利用する人がほとんどである。1935年3月から1か月間「西国三十三ヶ所札所連合会」が阪急電鉄とタイアップして「観音霊場西国三十三ヶ所阪急沿線出開扉」を開催した。これには33日間で40万人以上が訪れたと言われている[46]

現在でも鉄道会社やバス会社によって多くの巡礼ツアーが組まれており利用者も多い[47]

西国写し霊場

西国霊場巡礼が盛んになると、地方の大名などが自分の居住する周辺に西国霊場を勧請して新たな観音巡礼を作るようになった。これを「西国写し霊場」という。最も早期の西国写し霊場は源頼朝創建と伝える坂東三十三箇所であるが、これは鎌倉時代の天福二年(1234)以前には既にあったという確実な史料[48]があり、かなり古いものである。この時期には京都に洛陽三十三ヶ所も作られた。室町時代になると秩父に秩父三十四箇所も創建され、西国・坂東・秩父を合わせて「百観音」というようになり、百観音巡礼をする修験者なども増加した。

江戸時代になると全国あちこちに西国写し霊場が作られ、現在もあちこちに写し霊場が作られている。これらの写し霊場にはいくつかの類型があることが指摘されている。以下にその例を挙げる。[49]

  • 地方霊場

坂東三十三箇所中国三十三観音霊場などのように、一地方に散在する観音奉安寺院を巡礼するもの。

  • 一国霊場

和泉西国三十三箇所播磨西国三十三箇所最上三十三観音霊場などのように、令制国一国若しくは江戸時代のの領域にある観音奉安寺院を巡礼するもの。播磨西国三十三箇所のように地元の僧侶が西国霊場寺院を中心に巡礼ルートを設定するものや、山形藩主最上家が信仰を奨励し、開創伝説にも最上家が深く関わっている最上三十三観音霊場のように、藩内に西国写し霊場を設けることで領民の信仰とリクリエーションを図る大名によるものがある。

  • 一郡霊場

江戸三十三箇所・鎌倉郡三十三箇所(現在の鎌倉三十三箇所)のように、などの国や藩領よりも小さな領域に、西国巡礼がなかなか出来ない庶民たちが巡礼ルートを設置したもの。例えば江戸三十三箇所は洛陽三十三ヶ所にならい、江戸市中の西国霊場に似た寺社を西国の札所に見立てたものである。[50]

  • 小規模(里山)霊場

里山に三十三所の本尊を模した石仏を三十三体(もしくは西国・坂東・秩父合わせて百体)建立し、修験道で信仰対象にされていた里山の山道に沿って巡礼できるようにしたもの。[51]

西国三十三所札所寺院の一覧

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  • 山号寺号通称・別称の欄は50音順ソート。開扉時期の欄は頻度順ソート。
山号 寺号 通称/別称 札所本尊 開扉時期 宗旨 所在地
01 なち/那智山 せいかんと/青岸渡寺 なち/那智山寺 如意輪観音 d-年3回 天台宗 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山8
02 きみい/紀三井山 こんこうほう/金剛宝寺
護国院
きみい/紀三井寺 十一面観音 f-50年毎 救世観音宗 和歌山県和歌山市紀三井寺1201
03 ふうもう/風猛山 こかわ/粉河寺 千手観音 g-開扉なし 粉河観音宗 和歌山県紀の川市粉河2787
04 まきお/槇尾山 せふく/施福寺 まきお/槇尾寺 千手観音 c-05/01-05/15-5月1日 - 15日 天台宗 大阪府和泉市槇尾山町136
05 しうん/紫雲山 ふしい/葛井寺 ふしい/藤井寺 千手観音 b-毎月18日 真言宗御室派 大阪府藤井寺市藤井寺1-16-21
06 つほさか/壺阪山 みなみほつけ/南法華寺 つほさか/壺阪寺 千手観音 a-毎日 真言宗
(豊山系単立)
奈良県高市郡高取町壺阪3
07 とうこう/東光山 りゆうかい/龍蓋寺 おか/岡寺 如意輪観音 a-毎日 真言宗豊山派 奈良県高市郡明日香村岡806
07-08番外 ふさん/豊山 ほうきいん/法起院 とうとうしようにんひよう/徳道上人廟 h- 真言宗豊山派 奈良県桜井市初瀬776
08 ふさん/豊山 はせ/長谷寺 はせ/初瀬寺 十一面観音 a-毎日 真言宗豊山派 奈良県桜井市初瀬731-1
09 こうふく/興福寺
(南円堂)
不空羂索観音 c-10/17-10月17日 法相宗 奈良県奈良市登大路町48
10 みようしようさん/明星山 みむろと/三室戸寺 みむろと/御室戸寺 千手観音 e-不定 本山修験宗 京都府宇治市菟道滋賀谷21
11 みゆきやま/深雪山 かみたいこ/上醍醐寺
(准胝堂)
准胝観音 c-05/15-05/21-5月15日 - 21日 真言宗醍醐派 京都府京都市伏見区醍醐醍醐山1(2008年に落雷により准胝堂が焼失したため、再建までの間、札所は下醍醐の大講堂(観音堂と改称)に移されている。)
12 いわま/岩間山 しようほう/正法寺 いわまてら/岩間寺 千手観音 e-不定 真言宗醍醐派 滋賀県大津市石山内畑町82
13 せつこうさん/石光山 いしやまてら/石山寺 如意輪観音 f-33年毎 東寺真言宗 滋賀県大津市石山寺1-1-1
14 なからさん/長等山 おんしよう/園城寺
観音堂
みいてら/三井寺 如意輪観音 f-33年毎 天台寺門宗 滋賀県大津市園城寺町246
14-15番外 かちようさん/華頂山 かんけい/元慶寺 h- 天台宗 京都府京都市山科区北花山河原町13
15 しんなちさん/新那智山 かんのん/観音寺 いまくまのかんのん/今熊野観音寺 十一面観音 c-09/21-09/23-9月21日 - 23日 真言宗泉涌寺派 京都府京都市東山区泉涌寺山内町32
16 おとわさん/音羽山 きよみす/清水寺 千手観音 f-33年毎 北法相宗 京都府京都市東山区清水1丁目294
17 ふたらくさん/補陀洛山 ろくはらみつ/六波羅蜜寺 十一面観音 f-12年毎 真言宗智山派 京都府京都市東山区五条大和大路上ル東入2丁目轆轤町81-1
18 しうんさん/紫雲山 ちようほう/頂法寺 ろつかくとう/六角堂 如意輪観音 e-不定 天台系単立 京都府京都市中京区六角東洞院西入堂之前町248
19 れいゆうさん/霊麀山 きようかん/行願寺 こうとう/革堂 千手観音 c-01/17-01/18-1月17日 - 18日 天台宗 京都府京都市中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町17
20 にしやま/西山 よしみね/善峯寺 よしみねさん 千手観音 b-毎月第2日曜 善峯観音宗
(天台系単立)
京都府京都市西京区大原野小塩町1372
21 ほたいさん/菩提山 あなお/穴太寺 あなお/穴穂寺
菩提寺
聖観音 f-33年毎 天台宗 京都府亀岡市曽我部町穴太東ノ辻46
22 ふたらく/補陀洛山 そうし/総持寺 千手観音 c-04/15-04/21-4月15日 - 21日 高野山真言宗 大阪府茨木市総持寺1-6-1
23 おうちようさん/応頂山 かつおう/勝尾寺 みろく/弥勒寺 千手観音 b-毎月18日 高野山真言宗 大阪府箕面市粟生間谷2914-1
24 しうんさん/紫雲山 なかやま/中山寺 なかやまかんのん/中山観音 十一面観音 b-毎月18日 真言宗中山寺派 兵庫県宝塚市中山寺2-11-1
24-25番外 とうこうさん/東光山 かさんいんほたいし/花山院
菩提寺
にんしのおてら/尼寺のお寺 h- 真言宗花山院派 兵庫県三田市尼寺352
25 みたけさん/御嶽山 きよみす/清水寺 はんしゆうきよみす/播州清水寺
清水さん
千手観音 a-毎日 天台宗 兵庫県加東市平木1194
26 ほつけさん/法華山 いちしよう/一乗寺 聖観音 e-不定 天台宗 兵庫県加西市坂本町821-17
27 しよしやさん/書寫山 えんきよう/圓教寺 にしのひえいさん/西の比叡山 如意輪観音 c-01/18-1月18日 天台宗 兵庫県姫路市書写2968
28 なりあいさん/成相山 なりあい/成相寺 ないあい/成相さん 聖観音 f-33年毎 真言宗
(古義系単立)
京都府宮津市成相寺339
29 あおはさん/青葉山 まつのお/松尾寺 まつのおさん 馬頭観音 e-不定 真言宗醍醐派 京都府舞鶴市松尾532
30 かんこんさん/厳金山 ほうこん/宝厳寺 ちくふしまほうこん/竹生島宝厳寺 千手観音 f-60年毎 真言宗豊山派 滋賀県長浜市早崎町1664-1
31 いきやさん/姨綺耶山 ちようめい/長命寺 千手観音
十一面観音
聖観音
e-不定 単立 滋賀県近江八幡市長命寺町157
32 きぬかさやま/繖山 かんのんしよう/観音正寺 ふつほうりゆうこう/仏法興隆寺 千手観音 a-毎日 単立(天台系) 滋賀県近江八幡市安土町石寺2
33 たにくみさん/谷汲山 けこん/華厳寺 たにぐみさん 十一面観音 e-不定 天台宗 岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳積23

札所本尊

像種

西国三十三所の札所本尊はすべて観音菩薩である。なお、札所本尊と寺院全体の本尊とは異なる場合もある。たとえば、4番施福寺では札所本尊は千手観音であるが、寺本尊は弥勒菩薩であり、21番穴太寺では札所本尊は聖観音であるが、寺本尊は薬師如来である。

観音菩薩(観世音菩薩、観自在菩薩)の像には、一面二臂の聖観音(しょうかんのん)の他に、十一面観音、千手観音など、さまざまな超人間的性質をそなえた変化観音(へんげかんのん)がある。西国三十三所の札所本尊を像種別にみると、以下のとおりで、千手観音像がもっとも多い。

  • 千手観音 15か寺
  • 十一面観音 7か寺
  • 聖観音 4か寺
  • 如意輪観音 6か寺
  • 馬頭観音 1か寺
  • 准胝観音 1か寺
  • 不空羂索観音 1か寺

上記の合計は33ではなく35になっている。これは、31番長命寺において千手観音、十一面観音、聖観音の3体を本尊とし、「千手十一面聖観音三尊一体」と称しているためである。文化財として貴重なものも多く、5番葛井寺の千手観音像、9番興福寺南円堂の不空羂索観音像は何れも国宝 に指定されている。

札所本尊の秘仏化

西国三十三所の札所本尊は秘仏となっているものが多く、秘仏でないのは6番南法華寺(壺阪寺)の千手観音、7番岡寺(龍蓋寺)の如意輪観音、8番長谷寺の十一面観音、25番播州清水寺の千手観音、32番観音正寺の千手観音の5箇所のみとなっている[52]。これらの秘仏の中には、月1回、年1回など定期的に開扉されるものと、数十年に1回しか開扉されないものとがある。

2008年が西国巡礼の中興者とされる花山院の一千年忌にあたることから、同年から2010年にかけて、西国三十三所の全札所において順次「結縁開帳」が行われている。この「結縁開帳」では、平素厳重な秘仏として公開されなかった札所本尊も開扉されることとなった。

以下は、2008年から2010年にかけての「結縁開帳」にて開扉された札所本尊のうち、前回の公開から半世紀以上を経ていたものである。

  • 10番三室戸寺(千手観音) - 結縁開帳では2009年10月1日 - 11月30日開扉。前回開扉は1925年。
  • 18番頂法寺(如意輪観音) - 結縁開帳では2008年11月8日 - 2009年1月5日、2009年3月3日 - 4月12日開扉。前回開扉は1872年。
  • 29番松尾寺(馬頭観音) - 結縁開帳では2008年10月1日から1年間開扉。前回開扉は1931年。
  • 31番長命寺(千手観音・十一面観音・聖観音) - 結縁開帳では2009年10月1日 - 10月31日開扉。前回開扉は1948年。
  • 33番華厳寺(十一面観音) - 結縁開帳では2009年3月1日 - 3月14日開扉。前回開扉は1955年。

なお、3番粉河寺の本尊千手観音像は絶対の秘仏で、2008年 - 2010年の結縁開帳でも公開はされなかった。粉河寺では、2008年10月1日から10月31日まで「結縁開帳」が行われたが、この際開帳されたのは本堂の本尊ではなく、本堂の隣にある千手堂の千手観音像であった。また、10番三室戸寺の千手観音像、33番華厳寺の十一面観音像などは厳重な秘仏で開扉の日も定められておらず、像の写真も公表されていない。

御詠歌

漢語の経典や声明(しょうみょう)と異なり和歌の賛仏歌として「御詠歌」が多くの宗派・寺院で採用されているが、この「御詠歌」の起源は花山院が西国三十三所の各札所で詠まれた御製の和歌を後世の巡礼者が節をつけて巡礼歌として歌ったものであるとされている[53]。西国三十三所の御詠歌は、宗派にもよるが近畿地方一円で死者を弔うために葬儀から四十九日法要まで親族によって毎夜唱えられたり、お盆の仏事において参加者全員で合唱する習慣などがある。

ギャラリー

脚注

  1. ^ 「西国三十三箇所」(さいごくさんじゅうさんかしょ)とする表記もあるが、近世以前にはもっぱら「三十三所」と称され、西国三十三所札所会や各種の文献でも同じく「三十三所」の表記を採る。また、「西国」は「さいこく」と清音で読む場合もある。
  2. ^ 三石[2005: 30]
  3. ^ 「伝承」の節全体にわたって次の文献およびサイトを参照した。
    • 戸田 芳実、1992、「西国巡礼の歴史と信仰」、『歴史と古道』、人文書院 ISBN 4409520180 pp. 265-271
    • 白木 利幸(監修)西国三十三所札所会(協力)、2008、『西国三十三所観音巡礼の本』、学習研究社〈エソテリカ別冊〉 ISBN 9784056052138 pp. 20-34
    • 西国三十三所札所会 (2007年). “西国三十三所巡礼とは”. 三十三所巡礼の旅. 西国三十三所札所会. 2011年7月1日閲覧。
  4. ^ 吉井[1990: 15]
  5. ^ 白木[2008: 97]
  6. ^ 吉井[1990: 3、15]
  7. ^ 吉井[1990: 3、18]
  8. ^ 例えば、行尊伝に見られる寺院が行尊が巡礼を行ったと見られる年代には巡礼を集められるほど確立した寺院ではなく、また、行尊の巡礼記も前後の記事とのつながりが不自然であることから、史実と認めない立場をとる速水侑の所説を吉井[1990; 1996]は紹介している。しかしながら、寺院の成立年代の推定の誤りや、そもそも行尊伝における記事の配列の不自然さが史料全体にわたるものであることを見落としているといった速水の説の弱点を指摘する吉井は、行尊伝を確実な史料とし、その三十三所巡礼を史実と判断している。以上、吉井[1990; 1996]による。
  9. ^ 吉井[1996: 51-53]
  10. ^ 吉井[1996: 53]
  11. ^ 戸田[1992: 269]
  12. ^ 吉井[1990: 17-19]
  13. ^ 白木[2008: 34]。園城寺は天台宗総本山の一つである。園城寺の中には西国三十三所に加え、坂東三十三ヶ所・秩父三十四ヶ所の観音を全て合祀した「百体観音堂」があり、園城寺百体観音堂に参拝するだけで全ての札所を巡ったのと同じ利益があると考えられていた。(白木[2008: 12])
  14. ^ 戸田[1992: 270]
  15. ^ 戸田[1992: 270]
  16. ^ 戸田[1992: 269-270]
  17. ^ 吉井[1996: 53-54]
  18. ^ a b c 吉井[1996: 54]
  19. ^ 吉井[1996: 54-55]
  20. ^ 吉井[1996: 55]
  21. ^ 白木[2008: 34]
  22. ^ 吉井[1990: 20]、戸田[1992: 271]
  23. ^ 吉井[1996: 48]。以下、三十三所寺院の分類について、吉井[1996]に従う。
  24. ^ a b c d e 吉井[1996: 50]
  25. ^ a b 吉井[1996: 48]
  26. ^ a b 吉井[1996: 58]
  27. ^ a b 戸田[1992: 267]
  28. ^ a b 吉井[1996: 51]
  29. ^ 吉井[1996: 55-57]
  30. ^ 吉井[1996: 59]
  31. ^ 下坂[2003: 431]、太田[2008: 160-161]
  32. ^ 下坂[2003: 217]
  33. ^ a b 吉井[1990: 20]
  34. ^ 大田[2008: 177-179]
  35. ^ 吉井[1990: 21-22]
  36. ^ 吉井[1996: 60]
  37. ^ 吉井[1996: 58-59、63]
  38. ^ 吉井[1996: 63]
  39. ^ 白木[2008]
  40. ^ 太田[2008: 230-232]。庄司 千賀、1987、「熊野新宮の本願庵主とその活動」(『熊野誌』第33号、熊野地方史研究会)をも参照。
  41. ^ 浅野[1990:26]
  42. ^ 吉井[1990: 26-27]
  43. ^ 白木[2008]
  44. ^ 例えば、奈良県内の三十三所6番壷阪寺・7番岡寺と、新西国9番飛鳥寺・新西国10番橘寺などのように、霊場自身が隣接しているため、同じ観音霊場としてひとまとめに扱われることもある。地球の歩き方編集室『御朱印でめぐる奈良の古寺』(2012)。前述のように江戸期から三十三所以外の観音奉安寺院も参拝するケースはあった。
  45. ^ 善光寺に加え、同じ信州の北向観音をも参拝するケースも有る。安宅夏夫『坂東三十三ヵ所 秩父三十四ヵ所めぐり』JTBキャンブックス
  46. ^ 森正人『四国遍路の近現代』創元社
  47. ^ 京都京阪バスでは西国三十三所の内数箇所と、番外としてツアーにより近隣の寺院数箇所とを組み合わせた巡礼ツアーを定番コースとして開催している。
  48. ^ 坂東三十三観音公式サイト
  49. ^ 以下の分類は、田上善夫『地方霊場の開創とその巡拝路について』富山大学教育学部紀要、2004などを参考とした。
  50. ^ 例を上げれば、東京上野の五條天神社・穴稲荷堂から見える不忍池の景色が西国13番石山寺から見える琵琶湖の景色によく似ていることから、明治以前は穴稲荷を江戸三十三箇所の一つとしていたように、西国霊場に似た景色や、由来の似た寺院を選定していた。
  51. ^ 田上2004では、富山県東砺波郡井波町の八乙女山霊場、山形県の岩部山三十三観音霊場などが例として挙げられており、何れも修験道の影響力が強い地方であることを指摘している。
  52. ^ 播州清水寺では、根本中堂本尊の十一面観音像は秘仏だが、札所本尊である大講堂の千手観音像は拝観可能である。
  53. ^ ただし、西国三十三所の御詠歌のほとんどは作者・作期不明であり、現在のように整えられたのは室町時代頃と推定されている。参考文献の和田、1998、pp16 - 22参照。

参考文献

  • 浅野 清(編)、1990、『西国三十三所霊場寺院の総合的研究』、中央公論美術出版
  • 太田 直之、2008、『中世の社寺と信仰 - 勧進と勧進聖の時代』、弘文堂〈久伊豆神社小教院叢書6〉 ISBN 978-4-335-16051-6
  • 西国三十三所札所会(編)、2008、『西国三十三所結縁御開帳公式ガイドブック』、講談社 ISBN 978-4062147477
  • ―、2003、『描かれた日本の中世 - 絵図分析論』、法藏館 ISBN 4-8318-7478-7
  • 白木 利幸(監修)西国三十三所札所会(協力)、2008、『西国三十三所観音巡礼の本』、学習研究社〈エソテリカ別冊〉 ISBN 9784056052138 pp. 20-34
  • 三石 学、2005、「西国三十三所巡礼」、『国文学 解釈と鑑賞』70巻5号(平成17年5月号)、至文堂、NAID 40006714737 pp. 30-38
  • 奈良国立博物館・NHKプラネット近畿(編)、2008、『西国三十三所観音 霊場の祈りと美 - 特別展』、奈良国立博物館
  • 吉井 敏幸、1990、「西国三十三所の成立と巡礼寺院の庶民化」、浅野 清(編)『西国三十三所霊場寺院の総合的研究』、中央公論美術出版 pp. 14-29
  • ―、1996、「西国三十三所の成立と巡礼寺院の庶民化」、真野 俊和(編)『本尊巡礼』、雄山閣出版〈講座日本の巡礼 第1巻〉 ISBN 4639013663 pp. 46-67
  • 和田 嘉寿男、1998、『御詠歌の旅 西国三十三札所を巡る』、和泉書院 ISBN 4870889242

関連項目

外部リンク