コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「羊蹄丸」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Zody (会話 | 投稿記録)
m 誕生: 節の階層修正
(2人の利用者による、間の2版が非表示)
4行目: 4行目:
|画像 = JR hokkaidou youteimaru.jpg
|画像 = JR hokkaidou youteimaru.jpg
|画像説明 = JR北海道に継承後の羊蹄丸
|画像説明 = JR北海道に継承後の羊蹄丸
|種別 = [[鉄道連絡船]]
|種別 = [[鉄道連絡船|車載客船]]
|クラス =
|クラス =
|船籍 = {{JPN}}
|船籍 = {{JPN}}
|所有者 =
|所有者 =
|運航者 = [[日本国有鉄道]]<br />[[北海道旅客鉄道]]
|運航者 = [[日本国有鉄道]]<br />[[北海道旅客鉄道]]
|建造所 = [[日立造船]]大阪桜島工場
|建造所 = [[日立造船]]桜島工場
|母港 = 国鉄時代: [[東京港]]<br />民営化後: [[函館港]]
|母港 = 国鉄時代: [[東京港]]<br />民営化後: [[函館港]]
|姉妹船 = 津軽丸 八甲田丸 松前丸<br />大雪丸 摩周十和田丸<br />(八甲田丸以外は2代
|姉妹船 = [[津軽丸 (2代)|津軽丸(2代)]]・[[青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸|八甲田]] <br /> [[松前丸 (2代)|松前丸(2代)]]・[[大雪丸 (2代)|大雪(2代)]] <br /> [[函館市青函連絡船記念館摩周丸|摩周丸(2代)]]・[[十和田丸 (2代)|十和田丸(2代]]
|建造費 = 18億2500万円 (当時)
|建造費 = 18億2500万円
|信号符字 = JQBM
|信号符字 = JQBM
|発注 =
|発注 =
|起工 = [[1964年]][[7月8日]]
|起工 = [[1964年]](昭和39年)[[10月8日]]
|進水 = [[1965年]][[2月20日]]
|進水 = [[1965年]](昭和40年)[[2月20日]]
|竣工 = [[1965年]](昭和40年)[[7月20日]]
|竣工 =
|就航 = [[1965年]][[8月5日]]
|就航 = [[1965年]](昭和40年)[[8月5日]]
|終航 = [[1988年]][[3月13日]] (定期運航)<br />1988年9月18日 (暫定運航)
|終航 = [[1988年]](昭和63年)[[3月13日]] (定期運航)<br /> [[1988年]](昭和63年)[[9月18日]] (暫定運航)
|最後 = 博物館船として展示後、2014解体
|最後 = 博物館船として展示後<br />[[2013]](平成25年)4月解体
|要目注記 = 新造時
|総トン数 = 5,375.93トン (8,311.48トン<ref>昭和45年の規則改正以前の測定値</ref>)
|総トン数 = 8,311.48トン(5,375.93トン<ref>船舶積量測度法改正規則(1967.8.1.)による改測登録(1970.9.8.)後の総トン数:古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p162 成山堂書店1988</ref>)
|全長 = 132.00m
|全長 = 132.00m
|垂線間長 = 123.00m
|型幅 = 17.90m
|型幅 = 17.90m
|型深さ = 7.20m
|型深さ = 7.20m
|満載喫水 = 5.20m
|高さ =
|主機 = 単動4サイクルトランクピストン排気ターボ過給機付ディーゼル機関<br />[[三井造船|三井]]B&W 1226 MTBF-40V <br />8台
|喫水 =
|最大出力 = 13,325軸馬力<ref name="koseki329">航跡p329 国鉄青函船舶鉄道管理局1978</ref>
|主機 = 単動4サイクルトランクピストン排気ターボ過給機付ディーゼル機関<br />三井B&W 1226 MTBF-40V 8台
|出力 =
|定格出力 = 1,600制動馬力×8
|最大速力 = 21.16[[ノット]] <ref>古川達郎 続連絡船ドックp11 船舶技術協会1971</ref><ref name="koseki329"/><ref name="eikonokoseki370">青函連絡船栄光の航跡p371青函連絡船要目表 国鉄青函船舶鉄道管理局1978</ref>
|最大速力 =21.16[[ノット]](時速約39キロ)
|航海速力 = 18.20ノット(時速約34キロ)
|航海速力 = 18.20[[ノット]]
|旅客定員 = 1,200名
|航続距離 =
|乗員 = 53名
|旅客定員 = 1200名 (新造時)<br />1330名 (一時)<br />1286名 (終航時)
|車両搭載数 = [[国鉄ワム60000形貨車|ワム]]換算48両
|乗員 =
|車両搭載数 = [[有蓋車|ワム]]換算48両
|その他 = [[救命胴衣]]数: 旅客用1700個<br />鉄道電報略号: ヨテマ
|その他 = [[救命胴衣]]数: 旅客用1700個<br />鉄道電報略号: ヨテマ
|備考 =
|備考 =
}}
}}
'''羊蹄丸'''(ようていまる)は、[[1965年]](昭和40年)から[[1988年]](昭和63年)まで[[日本国有鉄道]](国鉄)および[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)の[[青函連絡船|青函航路]]に就していた[[鉄道連絡船]]で。このの船としては2代目である。[[電報略号 (鉄道)|鉄道電報略号]]は「ヨテマ」
'''羊蹄丸'''(ようていまる)は、[[1965年]](昭和40年)から[[1988年]](昭和63年)まで[[日本国有鉄道]](国鉄)および[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)の[[青函連絡船|青函航路]]で運された[[鉄道連絡船|車載客船]]で、同航路におけ羊蹄丸という船名は2代目であった


== 概要 ==
[[洞爺丸事故]]を教訓とした「連絡船近代化計画」後の自動化新型船である[[津軽丸 (2代)|津軽丸]]型の第6船である。これらの新型船は[[青函航路]]青森 - 函館間の113.0kmを3時間50分で結び、海の新幹線と呼ばれた。
※津軽丸型の詳細は[[津軽丸 (2代)]]参照


[[1960年]]代初頭(昭和30年代半ば過ぎ)の[[青函連絡船]]の主力は、終戦前後に建造された船質の良くない[[戦時標準船]]ならびにそれに準じる船で、既に老朽化していた。これらの代替と、[[高度経済成長]]による輸送需要の著しい増大に対応するため建造されたのが[[津軽丸 (2代)|津軽丸]]型車載客船で、羊蹄丸はその第6船であった。この型の船は[[洞爺丸事故|洞爺丸事件]]や[[紫雲丸事故|紫雲丸事件]]を教訓とした安全性重視の設計と、当時の造船・海運界の最先端を行く自動化を誇り、[[青函航路]] 青森 - 函館間113.0kmを従来より40分短縮<ref>上りは50分短縮</ref>した3時間50分で結び、海の新幹線と呼ばれた。
津軽丸型6隻の船名は一応公募という形が取られたが、本船の船名は先代の洞爺丸型の羊蹄丸から引き継がれたもので、由来は「蝦夷富士」と呼ばれる[[北海道]]の[[羊蹄山]]にちなんでいる。船体に取り付けられている羊蹄山とイルカが描かれたシンボルマークもこれに由来する。終航後[[1996年]](平成8年)[[3月22日]]から2011年9月30日まで東京お台場[[船の科学館]]にて屋外展示されていた。


津軽丸型6隻の船名は一応公募という形が取られたが、本船の船名は[[洞爺丸]]型の[[羊蹄丸 (初代)|羊蹄丸(初代)]]から引き継がれたもので、[[1977年]](昭和52年)に船体に取り付けられ羊蹄山とイルカが描かれたシンボルマークもこれに由来した。終航後は、[[1992年]](平成4年)に [[イタリア]]、[[ジェノヴァ国際博覧会]]に展示された後、[[1996年]](平成8年)[[3月22日]]から[[2011年]](平成23年)9月30日まで[[東京都|東京]]の[[船の科学館]]に展示されていたが、[[2012年]](平成24年)7月から翌年4月にかけ、[[香川県]] [[多度津町]]で解体された。
== 誕生 ==
羊蹄丸は[[競争入札]]の結果[[大阪市]]にある[[日立造船]]株式会社桜島工場で建造された。建造時には船名が決まっていなかったため、桜島工場内で第4068番船と呼ばれていた。日立造船は[[青函連絡船]]建造はこれが初めてであった。


=== 建造 ===
建造方法は造船では一般的な[[ブロック工法]]である。コアブロック同士を[[電気溶接]]で繋ぐブロック工法では溶接により熱せられた鉄板が冷却と供に縮むことが常である。さらに羊蹄丸は複雑な構造であり、かつ薄い鋼板で建造されたことによりこの傾向がさらに強かった。建造にあたり船体の長さが設計より縮むことは、船内有効レール長が縮むことにつながり、設計上の積載貨車数が確保できないこととなるため、許されなかった。日立造船では早い時期から細かな縮み防止策を立て、細心の注意を払いながら工事を進めた結果、設計通りの寸法で完成することができた。なお公称搭載車両数は、左舷側の1番線から、[[国鉄ワム80000形貨車|ワム車]]換算で12両、14両、10両、12両の合計48両であった。
現在はテーマパーク「[[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン]]」となっている場所にあった[[日立造船]]株式会社桜島工場の第4,068番船として建造されたが、本造船所にとって[[青函連絡船]]建造は初めてであった<ref>古川達郎 鉄道連絡船細見p115~117 JTBパブリッシング2008</ref>。建造方式は他の津軽丸型同様、既に当時広く普及していた[[ブロック工法]]で、これは予め工場で分割製作した船体ブロックを船台上で[[電気溶接]]して繋いでゆく工法であった。複数のブロックを同時に製作できるため工期短縮ができたが、溶接により熱せられた鋼板が冷却とともに縮むことを念頭にブロックを船台上に搭載する「位置決め」が重要であった。さらに[[鉄道連絡船|車載客船]]では、その複雑な構造のため溶接使用量が多く、比較的薄い鋼板を用いたこともあり、溶接による歪の発生が多発し、歪取り作業が増加して船体収縮や船体変形の傾向を強めた。しかし船体の長さが計画より縮むことは、鉄道車両を積載する船内軌道の有効長が縮むことになり、これは計画した車両数を積載できなくなることを意味する<ref>古川達郎 続連絡船ドックp33~37 船舶技術協会1971</ref>。このような困難な課題を克服しながら、羊蹄丸は計画通りの寸法で完成することができた。なお積載車両数は、左舷側の船1番線から、[[国鉄ワム60000形貨車|ワム]]換算で12両、14両、10両、12両の合計48両であった。


また[[大雪丸 (2代)|大雪丸(2代)]]・[[函館市青函連絡船記念館摩周丸|摩周丸(2代)]]同様、本船でも搭載主機械と主発電機の機種が[[津軽丸 (2代)|津軽丸型]]第3船までと異なり、機関部全体で約100トンの重量増加となって<ref>泉益生 連絡船のメモ(下巻)p274 船舶技術協会1977</ref>、船体の一層の軽量化が求められた。このため、溝形プレスを施した薄鋼板“ハット・プレート”(コルゲートプレート)を航海甲板の甲板室外板へ広く採用し<ref>古川達郎 続連絡船ドックp41 船舶技術協会1971</ref><ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p166 成山堂書店1988</ref>、外観上の特徴となった。
代連絡船に比べ極力人手を省いた設計である自動化船である[[津軽丸 (2代)|津軽丸型]]はシリで建造され、当初、羊蹄丸は津軽丸型最終建造船となる予定であった。そのため、シリーズ最終船として、本船のみ船名のイニシャルを前部マストに表示していなかった。津軽丸型は、後に[[十和田丸]]が追加建造され、7隻となった。


ほぼ同時並行建造の[[函館市青函連絡船記念館摩周丸|摩周丸(2代)]]同様、車両甲板プラットホームから2等出入口広間への階段設置や<ref>古川達郎 鉄道連絡船細見p148 JTBパブリッシング2008</ref>、航海甲板後端後部消音器室後ろ側への歩行スペース拡張、鎖レバー・ブロック式甲種緊締具の部分導入も行われた<ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p283 成山堂書店1988</ref>。
== 安全 ==

事故の教訓から防水設備、復原性など安全を第一に考えた船体設計・構造を採用。その他当時最新の船舶用[[レーダー]]、乗客全員を収容できる多数の膨張式[[救命いかだ]](ライフラフト)、緊急時ライフラフトへ乗り移るための世界初の膨張式滑り台、[[火災報知機|火災警報装置]]、[[スプリンクラー設備]]などの安全設備が装備された。
当時最端の自動化・遠隔操縦化を導入し、運航定員を先代の半数以下の53名とした。[[津軽丸 (2代)|津軽丸型]]は年間3隻のペ連続して建造され、当初、6隻目の本船が津軽丸型最終建造船となる予定で、シリーズ最終船として、本船のみ船名のイニシャルを前部マストに表示しなかったとされたが<ref>大神隆 青函連絡船物語p264 交通新聞社2014</ref>、後に[[十和田丸 (2代)|十和田丸(2代)]]が追加建造され、7隻となった。

=== 安全対策 ===
車両甲板船尾開口部への水密扉設置はもちろんのこと、車両甲板下の船体を12枚の水密隔壁で13区画に分け、隣接する2区画に浸水しても沈まない構造とし、船体中央部の5区画では、船底だけでなく側面もヒーリングタンク等で二重構造とした<ref>古川達郎 続連絡船ドックp166 船舶技術協会1971</ref><ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p168 成山堂書店1988</ref>。さらに乗客全員を収容できる多数の膨張式[[救命いかだ]](ライフラフト)と、緊急時に海面に投下された[[救命いかだ]]へ、客室から乗り移るための世界初の膨張式滑り台、[[火災報知機|火災警報装置]]、[[スプリンクラー設備]]などの安全設備が装備された。


== 船体色 ==
== 船体色 ==
=== 現役時代 ===
=== 建造中~現役時代 ===
[[洞爺丸]]の代船として建造された[[十和田丸 (初代)|十和田丸(初代)]]以前の青函連絡船の外舷下部塗色は黒と決められていたが、十和田丸(初代)で薄緑(10GY6/4)が採用され、これが好評であったことから、既存の車載客船もその後、全船、緑系統の“とくさ色”(10GY5/4)に塗色変更されていた。津軽丸型では、当初、船体の塗色は建造する造船所に一任ていたが、その結果、津軽丸以外は全て、無難と思われた緑系統の塗色で工事が進められた<ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p230 船舶技術協会1988</ref>。このため、羊蹄丸でも、外舷下部を薄緑(10GY6/4)、上部を象牙色(2.5Y9/2)塗装で建造されていたが、青函連絡船を運用していた現地局から、まぎらわしいので、船ごとに色を塗り分けて欲しいとの要望があり、羊蹄丸では進水後に[[えんじ色|エンジ]](4.5R3.3/9)と[[クリーム色]](2.5Y9/4)に塗り替えられた<ref>古川達郎 続連絡船ドックp295 船舶技術協会1971</ref>。その後、津軽丸型では各船すべて違う船体色に塗り分けられることとなり、結果「津軽海峡に美しい花が咲いた」と喜ばれた。なおこのエンジ色は[[1958年]](昭和33年)[[11月]][[東海道本線]]に登場した初の電車[[行列車|特急]]「[[こだま (列)|こだま]]」号の窓周りの色と同じであ
[[洞爺丸]]の代船として建造された[[十和田丸 (初代)|十和田丸(初代)]]以前の青函連絡船の外舷下部塗色は黒と決められていたが、十和田丸(初代)で薄緑(10GY6/4)が採用され、これが好評であったことから、既存の車載客船もその後、全船、緑系統の“とくさ色”(10GY5/4)に塗色変更されていた。津軽丸型では、当初、船体の塗色は建造する造船所に一任されていたが、その結果、津軽丸以外は全て、無難と思われた緑系統の塗色で工事が進められた<ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p230 成山堂書店1988</ref>。このため、羊蹄丸でも、外舷下部を薄緑(10GY6/4)、上部を象牙色(2.5Y9/2)塗装で建造中のところ、青函連絡船を運用していた現地局から、まぎらわしいので、船ごとに色を塗り分けて欲しいとの要望があり、羊蹄丸では進水後に[[えんじ色|エンジ]](4.5R3.3/9)と[[クリーム色]](2.5Y9/4)に塗り替えられた<ref>古川達郎 続連絡船ドックp295 船舶技術協会1971</ref>。その後、津軽丸型では各船すべて違う船体色に塗り分けられることとなり、結果「津軽海峡に美しい花が咲いた」と喜ばれた。なおこのエンジ色は[[1958年]](昭和33年)[[11月]][[東海道本線]]で運転開始した初の電車特急[[国鉄181系電車|151系「こだま]]の窓周りの色であった


{{clear}}
{{clear}}
=== 展示中 ===
=== 展示中 ===
ジェノヴァ国際博覧会日本館パビリオンに使用する際に外装を白/青へと塗色変更。その後、船の科学館での展示に際し塗り分け線が下げられるなどして青函連絡船当時とは異なる外観となっていたが、[[2003年]](平成15年)に現役当時の塗色へ復元された。
ジェノヴァ国際博覧会日本館パビリオンに使用する際に外装を白/青へと塗色変更。その後、船の科学館での展示に際し塗り分け線が下げられるなど青函連絡船当時とは異なる外観となっていたが、[[2003年]](平成15年)に現役当時の塗色へ復元された。


== ファンネルマーク ==
== ファンネルマーク ==
[[画像:JNR logo on Yotei-maru 20080614.jpg|thumb|230px|right|煙突にあるJNR(国鉄)ロゴ]]
[[画像:JNR logo on Yotei-maru 20080614.jpg|thumb|230px|right|煙突にあるJNR(国鉄)ロゴ]]
[[ファンネルマーク]]は煙突につけられた所有者を識別するマークで、[[比羅夫丸]]・[[田村丸]]就航翌年の[[1909年]](明治42年)、かつて官設鉄道が創業時から[[1885年]](明治18年)まで所属していた[[工部省]]の「工」の赤文字をファンネルマークとすることを「鉄道院汽船塗装規程第4条」で規定し、以後長らく「工」が使われてきたが<ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p251 成山堂書店1988</ref>、[[1964年]](昭和39年)建造の[[津軽丸 (2代)|津軽丸(2代)]]からは、[[国鉄181系電車|151系「こだま」形]]特急電車に取り付けられた[[日本国有鉄道]]「JNR」(Japanese National Railways)を図案化したマークを赤色(7.5R4/14<ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p235 成山堂書店1988</ref>)にし、ファンネルマークとして使用した。しかしこのマークのオリジナルの縦横比は1:8とファンネルマークには横長過ぎたため、[[松前丸 (2代)|松前丸(2代)]]以外の津軽丸型第1~5船では縦横比1.5:8に修正のうえ、煙突にはJNRマークが収まる白鉢巻塗装を施し、[[渡島丸 (2代) |渡島丸(2代)]]型6隻を含む羊蹄丸以降の建造船では更に2:8に修正し、鉢巻もそれに合わせ太くし、その鉢巻上に貼り付けられた<ref>松前丸は1.75:8で当初鉢巻なし、横幅は全船6.4m:古川達郎 続連絡船ドックp49 船舶技術協会1971</ref>。
[[ファンネルマーク]]とは煙突につけられている所有者を識別するためのマークのことである。[[明治|明治時代]]には、鉄道が所属していた「[[工部省]]」の「工」を赤色で掲げ、[[1964年]](昭和39年)の津軽丸(2代目)から[[日本国有鉄道]]の「JNR」(Japanese National Railways)となる。色は赤で表示された。津軽丸型連絡船の「JNR」マークは各船によって縦横比が異なるが、本船以降に建造された各船は、一般的に縦が広くなっていた。[[1987年]](昭和62年)の[[国鉄分割民営化]]によって青函連絡船はJR北海道が継承する事となり、船籍が国鉄本社のある東京から青函連絡船の母港の函館に、ファンネルマークもJR北海道のシンボルマーク「[[JR]] ([[コーポレートカラー]]はライトグリーン)」に変更された。なお、ジェノバ国際博覧会の展示船への改造時に、ファンネルマークは「JNR」に戻され、船籍も東京に変更されていた。

[[1987年]](昭和62年)の[[国鉄分割民営化]]により青函連絡船は[[北海道旅客鉄道|JR北海道]]に継承され、船籍港は国鉄本社のあった東京から青函連絡船母港の函館に変更され、ファンネルマークもJR北海道のマーク「[[JR]]」 ([[コーポレートカラー]]はライトグリーン)に変更されたが、JNRほど横長ではないJRマークを、変形することなくJNRが収まっていた太さの異なる鉢巻に合わせた大きさで作成されたため、大小2種類のJRマークが出現した。なお、[[ジェノヴァ国際博覧会]]の展示船への改造時に、ファンネルマークは「JNR」に戻され、船籍港も東京に戻された。


{{clear}}
{{clear}}
70行目: 78行目:
== 沿革 ==
== 沿革 ==
[[ファイル:Yotei-maru June 2008.jpg|thumb|right|230px|船の科学館にて係留中の羊蹄丸]]
[[ファイル:Yotei-maru June 2008.jpg|thumb|right|230px|船の科学館にて係留中の羊蹄丸]]
*[[1964年]](昭和39年)[[7月8日]] - [[日立造船]]桜島工場にて起工
*[[1964年]](昭和39年)[[10月8日]] -起工
*[[1965年]](昭和40年)[[2月20日]] - 日立造船桜島場にて進水。
*[[1965年]](昭和40年)[[7月20日]] –竣
**[[8月5日]] - 国鉄[[青函連絡船]]として青函航路に就航。
**[[8月5日]] - 就航。
**[[10月1日]] - 改正により、3時間50分運航時間に統一された
**[[10月1日]] - ダイヤ改正により、常時津軽丸型で運航する客貨便の3時間50分運航開始
*[[1973年]](昭和48年)[[12月28日]] –旅客定員 通年1,330名<ref>航跡p345 国鉄青函船舶鉄道管理局1978</ref>
*[[1977年]](昭和52年)[[3月7日]] - 青函航路開設70周年を記念し各連絡船の「シンボルマーク」を発表。後に船体に掲示
*[[1977年]](昭和52年)[[3月7日]] - 青函航路開設70周年を記念し各連絡船の「シンボルマーク」を発表。
**[[6月]] – 両舷外壁に「シンボルマーク」設置
**[[7月]] – 遊歩甲板室後壁に「シンボルマーク」設置<ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p250 成山堂書店1988</ref>
*[[1978年]](昭和53年)[[5月1日]] –喫茶室「サロン海峡」開設、旅客定員1,286名<ref>航跡p347 国鉄青函船舶鉄道管理局1978</ref>
*[[1986年]](昭和61年)[[10月6日]] - 青函連絡船70万航海達成。70万航海目の船となった。
*[[1986年]](昭和61年)[[10月6日]] - 青函連絡船70万航海達成。70万航海目の船となった。
*[[1987年]](昭和62年)[[4月1日]] - 国鉄分割民営化に伴い、JR北海道に継承。[[船籍港]]も東京から函館に変更。
*[[1987年]](昭和62年)[[4月1日]] - 国鉄分割民営化に伴い、JR北海道に継承。船籍港も東京から函館に変更。
*[[1988年]](昭和63年)[[3月13日]] - 青函連絡船、[[函館港|函館]]17時00分出航-[[青森港|青森]]20時55分到着、上り22便にて終航。
*[[1988年]](昭和63年)[[3月13日]] - [[函館港|函館]]第1岸壁17時00分出航-[[青森港|青森]]第2岸壁20時55分到着、上り22便で青函連絡船定期運航終航。
**[[6月3日]]–[[9月18日]] - 「[[青函トンネル開通記念博覧会]]」(青函博)でのイベントの一環として「アンコール運航」と銘打って、十和田丸と共に1日計4便の暫定復活運航を行う。最終便は青森発函館行き下り3便。
**[[6月3日]]–[[9月18日]] - 「[[青函トンネル開通記念博覧会]]」(青函博)でのイベントの一環として「アンコール運航」と銘打って、十和田丸と共に1日計4便の暫定復活運航を行う。最終便は青森発函館行き下り3便。
**暫定運航期間中は夜間、函館と青森の桟橋にそれぞれ繋留され、シップホテルとしても利用されていた。函館には羊蹄丸、青森には十和田丸。利用に際しては「青函くつろぎカード」の事前購入を要した。宿泊料金は桟敷席の雑魚寝で一晩2500円、寝台室は部屋単位の発売で一室4名1万6000円だった。
**暫定運航期間中は夜間、函館と青森の桟橋にそれぞれ繋留され、シップホテルとしても利用されていた。函館には羊蹄丸、青森には十和田丸。利用に際しては「青函くつろぎカード」の事前購入を要した。宿泊料金は桟敷席の雑魚寝で一晩2500円、寝台室は部屋単位の発売で一室4名1万6000円だった。
**7月 - [[船の科学館|日本海事科学振興財団]](船の科学館)が購入。
**7月 - [[船の科学館|日本海事科学振興財団]](船の科学館)が購入。
**9月 - 船体引渡し。ディーゼル機関車[[国鉄DE10形ディーゼル機関車|DE10 30]]と客車[[国鉄スハ43系客車|スハフ44 25]]積載。当初[[1994年]](平成6年)開催を目指していた東京都主催の「[[世界都市博覧会]]」での展示公開準備のため[[三井造船]]千葉事業所へ回航、そのまま係船<ref name="sonogo23">古川達郎 鉄道連絡船のその後p23 成山堂書店2002</ref><ref>大神隆 青函連絡船物語p265 交通新聞社2014</ref>
**9月 - 船体引渡し。
*[[1992年]](平成4)[[515日]][[8月15日]] - [[イタリア]]、[[ジェノヴァ国際博覧会]]の日本館パビリオンとなる。これに先立ち[[1991年]](平成3年)4月–1992年1月までの間[[三井造船]]由良事業所・千葉事業所で改装工事を行なった
*[[1991年]](平成3)1月~4月–[[ジェノヴァ国際博覧会]] 出展ため[[三井造船]]千葉事業所で改装工事着手、プロペラ撤去、バウスラスタートンネル閉鎖その他水線下開口部閉鎖、外舷色白と青に変更<ref>大神隆 青函連絡船物語p266 交通新聞社2014</ref>
**4月~12月 -[[三井造船]]由良事業所へ回航、船首車両甲板下の船員居住区から総括制御室までが撤去され、第1主機室最左舷の主機械(三井造船製)が同社で保存するため陸揚げされ、ファンネルマークがJNRに戻された<ref>大神隆 青函連絡船物語p266、267 交通新聞社2014</ref>。
* [[1994年]](平成6年)東京都主催の「[[世界都市博覧会]]」に羊蹄丸を公開する計画があったが、当時の[[青島幸男]]東京都知事が同博覧会の中止を[[公約]]ていたため2年延期の後に中止決定され、羊蹄丸公開も白紙撤回された。
**12月 -[[三井造船]]千葉事業所に戻り内装工事。
*[[1992年]](平成4年)2月-[[三井造船]]千葉事業所での改造工事竣工<ref>大神隆 青函連絡船物語p267 交通新聞社2014</ref>
*[[1992年]](平成4年)[[5月15日]]–[[8月15日]] - [[イタリア]]、[[ジェノヴァ国際博覧会]]の日本館パビリオンとなる。
*[[1995年]](平成7年)[[5月31日]]–当初計画から2年延期の[[1996年]](平成8年)開予定の「[[世界都市博覧会]]」が、[[青島幸男]]東京都知事が同博覧会の中止を[[公約]]に当選し、中止決定羊蹄丸公開も白紙撤回された。
*[[1995年]](平成7年)7月–船の科学館展示のため[[三井造船]]由良事業所で改装工事施行<ref name="sonogo23"/>
**10月–船の科学館の前面水域に係留<ref>大神隆 青函連絡船物語p268 交通新聞社2014</ref>
*[[1996年]](平成8年)3月22日 - 船の科学館別館([[フローティングパビリオン羊蹄丸]])として一般公開された。
*[[1996年]](平成8年)3月22日 - 船の科学館別館([[フローティングパビリオン羊蹄丸]])として一般公開された。
*[[2003年]](平成15年)- 2001年の[[九州南西海域工作船事件]]で自沈した[[不審船]]から引き上げられた武器等の遺留品を船内で1年あまりにわたり展示。
*[[2003年]](平成15年)-[[ 2001年]](平成13年)の[[九州南西海域工作船事件]]で自沈した[[不審船]]から引き上げられた武器等の遺留品を船内で1年あまりにわたり展示。
*[[2008年]](平成20年)[[3月7日]] - 青函連絡船100周年記念行事を羊蹄丸・[[青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸|八甲田丸]]・[[函館市青函連絡船記念館摩周丸|摩周丸]]それぞれの会場で同時に行った。
*[[2008年]](平成20年)[[3月7日]] - 青函連絡船100周年記念行事を羊蹄丸・[[青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸|八甲田丸]]・[[函館市青函連絡船記念館摩周丸|摩周丸]]それぞれの会場で同時に行った。
*[[2011年]](平成23年)[[7月1日]] - 船の科学館のリニューアルに合わせ、同年9月30日限りで閉鎖することを発表<ref>[http://www.funenokagakukan.or.jp/kaiji/kyuushi.html 船の科学館 本館展示の休止について] 船の科学館お知らせ 2011年7月15日告示</ref>。同8月31日無償譲渡の仮申し込み受付を終了。同9月1日には、51件の問い合わせと35件の譲渡申し込みがあったと発表された<ref>http://www.funenokagakukan.or.jp/pdf/youteimaru.pdf</ref>。
*[[2011年]](平成23年)[[7月1日]] - 船の科学館のリニューアルに合わせ、同年9月30日限りで閉鎖することを発表<ref>[http://www.funenokagakukan.or.jp/kaiji/kyuushi.html 船の科学館 本館展示の休止について] 船の科学館お知らせ 2011年7月15日告示</ref>。同8月31日無償譲渡の仮申し込み受付を終了。同9月1日には、51件の問い合わせと35件の譲渡申し込みがあったと発表された<ref>http://www.funenokagakukan.or.jp/pdf/youteimaru.pdf</ref>。
* 2011年(平成23年)[[9月30日]] - 15時45分から休館記念式典として[[満艦飾|満船飾]]、出港の模擬実演などを実施。17時を以て船の科学館別館としての保存展示を終了。
* 2011年(平成23年)[[9月30日]] - 15時45分から休館記念式典として[[満艦飾|満船飾]]、出港の模擬実演などを実施。17時を以て船の科学館別館としての保存展示を終了。
*[[2011年]](平成23年)[[11月8日]] - 愛媛県新居浜市『えひめ東予シップリサイクル研究会』への無償譲渡が決定。2012年に新居浜東港で一般公開後、解体され資源リサイクルのための研究に供される<ref>[http://sankei.jp.msn.com/region/news/111108/tky11110821330012-n1.htm 羊蹄丸、愛媛に譲渡 船舶リサイクル研究のため]msn産経ニュース 2011年11月8日</ref>。
*[[2011年]](平成23年)[[11月8日]] - [[愛媛県]][[新居浜市]]『えひめ東予シップリサイクル研究会』への無償譲渡が決定。2012年に[[新居浜東港]]で一般公開後、解体され資源リサイクルのための研究に供される<ref>[http://sankei.jp.msn.com/region/news/111108/tky11110821330012-n1.htm 羊蹄丸、愛媛に譲渡 船舶リサイクル研究のため]msn産経ニュース 2011年11月8日</ref>。
[[File:Yōtei Maru at niihama east port.jpg|thumb|新居浜東港にて公開中の羊蹄丸(2012年4月28日)]]
[[File:Yōtei Maru at niihama east port.jpg|thumb|新居浜東港にて公開中の羊蹄丸(2012年4月28日)]]
*[[2012年]](平成24年)[[3月25日]]解体のため午前8時30分船の科学館より 曳航船とよら丸の曳航にて出発、29日、新居浜東港に到着。
*[[2012年]](平成24年)[[3月25日]]解体のため午前8時30分船の科学館より 曳航船とよら丸の曳航にて出発、29日、新居浜東港に到着。
**[[4月27日]]〜[[6月10日]] - 新居浜市制施行75周年記念、新居浜高専創立50周年記念事業の一環として、新居浜東港黒島埠頭にて最後の一般公開。最終日には、国鉄社旗の掲揚、青函連絡船としての最終便の出航時刻に合わせ17時に函館出航の模擬が行われるなどした。
**[[4月27日]]〜[[6月10日]]- 新居浜市制施行75周年記念、新居浜高専創立50周年記念事業の一環として、新居浜東港黒島埠頭にて最後の一般公開。最終日には、国鉄社旗の掲揚、青函連絡船としての最終便の出航時刻に合わせ17時に函館出航の模擬が行われた。
**[[6月]] –一般公開終了後、車両甲板にあった「青函ワールド」のセットならびに「青函ワールド」ミニシアター観賞用のグリーン自由椅子席3脚搬出し[[青森市|青森]]の[[青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸|八甲田丸]] へ移送<ref>「青函ワールド」およびグリーン自由椅子席2脚は直接、残り1脚は搬出作業担当会社から個人経由で八甲田丸へ</ref>
**[[7月]]4日・5日-新居浜東港黒島埠頭にて船尾扉開放し車両甲板に積載していたスハフ44 25とDE10 30搬出<ref>https://www.youtube.com/watch?v=9QFVSzIpymk「羊蹄丸」内から鉄道車両を搬出・愛媛新聞</ref>
**[[7月]] -[[香川県]][[多度津町]]の宮地サルベージの岸壁にて解体工事開始
**[[7月]] -[[香川県]][[多度津町]]の宮地サルベージの岸壁にて解体工事開始
*[[2013年]](平成25年)4月 - 解体終了
*[[2013年]](平成25年)4月 - 解体終了
98行目: 118行目:


{{clear}}
{{clear}}

== 輸送・運航実績 ==
== 輸送・運航実績 ==
*運航期間 - 22年7か月
*運航期間 - 22年7か月
111行目: 132行目:


== 脚註 ==
== 脚註 ==
{{Reflist}}
{{Reflist|2}}


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
121行目: 142行目:
[[Category:青函連絡船の船舶]]
[[Category:青函連絡船の船舶]]
[[Category:北海道旅客鉄道の船舶]]
[[Category:北海道旅客鉄道の船舶]]
[[Category:1965年進水船]]
[[Category:1965年竣工船]]
[[Category:1965年竣工船]]
[[Category:博物館船]]
[[Category:博物館船]]
[[Category:日立造船が建造した船舶]]

2015年6月22日 (月) 15:24時点における版

羊蹄丸
JR北海道に継承後の羊蹄丸
基本情報
船種 車載客船
船籍 日本の旗 日本
運用者 日本国有鉄道
北海道旅客鉄道
建造所 日立造船桜島工場
母港 国鉄時代: 東京港
民営化後: 函館港
姉妹船 津軽丸(2代)八甲田丸
松前丸(2代)大雪丸(2代)
摩周丸(2代)十和田丸(2代)
建造費 18億2500万円
信号符字 JQBM
経歴
起工 1964年(昭和39年)10月8日
進水 1965年(昭和40年)2月20日
竣工 1965年(昭和40年)7月20日
就航 1965年(昭和40年)8月5日
終航 1988年(昭和63年)3月13日 (定期運航)
1988年(昭和63年)9月18日 (暫定運航)
最後 博物館船として展示後
2013年(平成25年)4月解体
要目 (新造時)
総トン数 8,311.48トン(5,375.93トン[1]
全長 132.00m
垂線間長 123.00m
型幅 17.90m
型深さ 7.20m
満載喫水 5.20m
主機関 単動4サイクルトランクピストン排気ターボ過給機付ディーゼル機関
三井B&W 1226 MTBF-40V
8台
最大出力 13,325軸馬力[2]
定格出力 1,600制動馬力×8
最大速力 21.16ノット [3][2][4]
航海速力 18.20ノット
旅客定員 1,200名
乗組員 53名
車両搭載数 ワム換算48両
その他 救命胴衣数: 旅客用1700個
鉄道電報略号: ヨテマ
テンプレートを表示

羊蹄丸(ようていまる)は、1965年(昭和40年)から1988年(昭和63年)まで日本国有鉄道(国鉄)および北海道旅客鉄道(JR北海道)の青函航路で運航された車載客船で、同航路における羊蹄丸という船名は2代目であった。

概要

※津軽丸型の詳細は津軽丸 (2代)参照

1960年代初頭(昭和30年代半ば過ぎ)の青函連絡船の主力は、終戦前後に建造された船質の良くない戦時標準船ならびにそれに準じる船で、既に老朽化していた。これらの代替と、高度経済成長による輸送需要の著しい増大に対応するため建造されたのが津軽丸型車載客船で、羊蹄丸はその第6船であった。この型の船は洞爺丸事件紫雲丸事件を教訓とした安全性重視の設計と、当時の造船・海運界の最先端を行く自動化を誇り、青函航路 青森 - 函館間113.0kmを従来より40分短縮[5]した3時間50分で結び、海の新幹線と呼ばれた。

津軽丸型6隻の船名は一応公募という形が取られたが、本船の船名は洞爺丸型の羊蹄丸(初代)から引き継がれたもので、1977年(昭和52年)に船体に取り付けられた羊蹄山とイルカが描かれたシンボルマークもこれに由来した。終航後は、1992年(平成4年)に イタリアジェノヴァ国際博覧会に展示された後、1996年(平成8年)3月22日から2011年(平成23年)9月30日まで東京船の科学館に展示されていたが、2012年(平成24年)7月から翌年4月にかけ、香川県 多度津町で解体された。

建造

現在はテーマパーク「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」となっている場所にあった日立造船株式会社桜島工場の第4,068番船として建造されたが、本造船所にとって青函連絡船建造は初めてであった[6]。建造方式は他の津軽丸型同様、既に当時広く普及していたブロック工法で、これは予め工場で分割製作した船体ブロックを船台上で電気溶接して繋いでゆく工法であった。複数のブロックを同時に製作できるため工期短縮ができたが、溶接により熱せられた鋼板が冷却とともに縮むことを念頭にブロックを船台上に搭載する「位置決め」が重要であった。さらに車載客船では、その複雑な構造のため溶接使用量が多く、比較的薄い鋼板を用いたこともあり、溶接による歪の発生が多発し、歪取り作業が増加して船体収縮や船体変形の傾向を強めた。しかし船体の長さが計画より縮むことは、鉄道車両を積載する船内軌道の有効長が縮むことになり、これは計画した車両数を積載できなくなることを意味する[7]。このような困難な課題を克服しながら、羊蹄丸は計画通りの寸法で完成することができた。なお積載車両数は、左舷側の船1番線から、ワム換算で12両、14両、10両、12両の合計48両であった。

また大雪丸(2代)摩周丸(2代)同様、本船でも搭載主機械と主発電機の機種が津軽丸型第3船までと異なり、機関部全体で約100トンの重量増加となって[8]、船体の一層の軽量化が求められた。このため、溝形プレスを施した薄鋼板“ハット・プレート”(コルゲートプレート)を航海甲板の甲板室外板へ広く採用し[9][10]、外観上の特徴となった。

ほぼ同時並行建造の摩周丸(2代)同様、車両甲板プラットホームから2等出入口広間への階段設置や[11]、航海甲板後端後部消音器室後ろ側への歩行スペース拡張、鎖レバー・ブロック式甲種緊締具の部分導入も行われた[12]

当時最先端の自動化・遠隔操縦化を導入し、運航定員を先代の半数以下の53名とした。津軽丸型は年間3隻のペースで連続して建造され、当初、6隻目の本船が津軽丸型最終建造船となる予定で、シリーズ最終船として、本船のみ船名のイニシャルを前部マストに表示しなかったとされたが[13]、後に十和田丸(2代)が追加建造され、7隻となった。

安全対策

車両甲板船尾開口部への水密扉設置はもちろんのこと、車両甲板下の船体を12枚の水密隔壁で13区画に分け、隣接する2区画に浸水しても沈まない構造とし、船体中央部の5区画では、船底だけでなく側面もヒーリングタンク等で二重構造とした[14][15]。さらに乗客全員を収容できる多数の膨張式救命いかだ(ライフラフト)と、緊急時に海面に投下された救命いかだへ、客室から乗り移るための世界初の膨張式滑り台、火災警報装置スプリンクラー設備などの安全設備が装備された。

船体色

建造中~現役時代

洞爺丸の代船として建造された十和田丸(初代)以前の青函連絡船の外舷下部塗色は黒と決められていたが、十和田丸(初代)で薄緑(10GY6/4)が採用され、これが好評であったことから、既存の車載客船もその後、全船、緑系統の“とくさ色”(10GY5/4)に塗色変更されていた。津軽丸型では、当初、船体の塗色は建造する造船所に一任されていたが、その結果、津軽丸以外は全て、無難と思われた緑系統の塗色で工事が進められた[16]。このため、羊蹄丸でも、外舷下部を薄緑(10GY6/4)、上部を象牙色(2.5Y9/2)塗装で建造中のところ、青函連絡船を運用していた現地局から、まぎらわしいので、船ごとに色を塗り分けて欲しいとの要望があり、羊蹄丸では進水後にエンジ(4.5R3.3/9)とクリーム色(2.5Y9/4)に塗り替えられた[17]。その後、津軽丸型では各船すべて違う船体色に塗り分けられることとなり、結果「津軽海峡に美しい花が咲いた」と喜ばれた。なおこのエンジ色は1958年(昭和33年)11月東海道本線で運転開始した初の電車特急151系「こだま」の窓周りの色であった。

展示中

ジェノヴァ国際博覧会日本館パビリオンに使用する際に外装を白/青へと塗色変更。その後、船の科学館での展示に際し塗り分け線が下げられるなど、青函連絡船当時とは異なる外観となっていたが、2003年(平成15年)に現役当時の塗色へ復元された。

ファンネルマーク

煙突にあるJNR(国鉄)ロゴ

ファンネルマークは煙突につけられた所有者を識別するマークで、比羅夫丸田村丸就航翌年の1909年(明治42年)、かつて官設鉄道が創業時から1885年(明治18年)まで所属していた工部省の「工」の赤文字をファンネルマークとすることを「鉄道院汽船塗装規程第4条」で規定し、以後長らく「工」が使われてきたが[18]1964年(昭和39年)建造の津軽丸(2代)からは、151系「こだま」形特急電車に取り付けられた日本国有鉄道「JNR」(Japanese National Railways)を図案化したマークを赤色(7.5R4/14[19])にし、ファンネルマークとして使用した。しかしこのマークのオリジナルの縦横比は1:8とファンネルマークには横長過ぎたため、松前丸(2代)以外の津軽丸型第1~5船では縦横比1.5:8に修正のうえ、煙突にはJNRマークが収まる白鉢巻塗装を施し、渡島丸(2代)型6隻を含む羊蹄丸以降の建造船では更に2:8に修正し、鉢巻もそれに合わせ太くし、その鉢巻上に貼り付けられた[20]

1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化により青函連絡船はJR北海道に継承され、船籍港は国鉄本社のあった東京から青函連絡船母港の函館に変更され、ファンネルマークもJR北海道のマーク「JR」 (コーポレートカラーはライトグリーン)に変更されたが、JNRほど横長ではないJRマークを、変形することなくJNRが収まっていた太さの異なる鉢巻に合わせた大きさで作成されたため、大小2種類のJRマークが出現した。なお、ジェノヴァ国際博覧会の展示船への改造時に、ファンネルマークは「JNR」に戻され、船籍港も東京に戻された。

沿革

船の科学館にて係留中の羊蹄丸
  • 1964年(昭和39年)10月8日 -起工
  • 1965年(昭和40年)7月20日 –竣工
    • 8月5日 - 就航。
    • 10月1日 - ダイヤ改正により、常時津軽丸型で運航する客貨便の3時間50分運航開始。
  • 1973年(昭和48年)12月28日 –旅客定員 通年1,330名[21]
  • 1977年(昭和52年)3月7日 - 青函航路開設70周年を記念し各連絡船の「シンボルマーク」を発表。
    • 6月 – 両舷外壁に「シンボルマーク」設置
    • 7月 – 遊歩甲板室後壁に「シンボルマーク」設置[22]
  • 1978年(昭和53年)5月1日 –喫茶室「サロン海峡」開設、旅客定員1,286名[23]
  • 1986年(昭和61年)10月6日 - 青函連絡船70万航海達成。70万航海目の船となった。
  • 1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化に伴い、JR北海道に継承。船籍港も東京から函館に変更。
  • 1988年(昭和63年)3月13日 - 函館第1岸壁17時00分出航-青森第2岸壁20時55分到着、上り22便で青函連絡船定期運航終航。
    • 6月3日9月18日 - 「青函トンネル開通記念博覧会」(青函博)でのイベントの一環として「アンコール運航」と銘打って、十和田丸と共に1日計4便の暫定復活運航を行う。最終便は青森発函館行き下り3便。
    • 暫定運航期間中は夜間、函館と青森の桟橋にそれぞれ繋留され、シップホテルとしても利用されていた。函館には羊蹄丸、青森には十和田丸。利用に際しては「青函くつろぎカード」の事前購入を要した。宿泊料金は桟敷席の雑魚寝で一晩2500円、寝台室は部屋単位の発売で一室4名1万6000円だった。
    • 7月 - 日本海事科学振興財団(船の科学館)が購入。
    • 9月 - 船体引渡し。ディーゼル機関車DE10 30と客車スハフ44 25積載。当初1994年(平成6年)開催を目指していた東京都主催の「世界都市博覧会」での展示公開準備のため三井造船千葉事業所へ回航、そのまま係船[24][25]
  • 1991年(平成3年)1月~4月–ジェノヴァ国際博覧会 出展のため三井造船千葉事業所で改装工事着手、プロペラ撤去、バウスラスタートンネル閉鎖その他水線下開口部閉鎖、外舷色を白と青に変更[26]
    • 4月~12月 -三井造船由良事業所へ回航、船首車両甲板下の船員居住区から総括制御室までが撤去され、第1主機室最左舷の主機械(三井造船製)が同社で保存するため陸揚げされ、ファンネルマークがJNRに戻された[27]
    • 12月 -三井造船千葉事業所に戻り内装工事。
  • 1992年(平成4年)2月-三井造船千葉事業所での改造工事竣工[28]
  • 1992年(平成4年)5月15日8月15日 - イタリアジェノヴァ国際博覧会の日本館パビリオンとなる。
  • 1995年(平成7年)5月31日–当初計画から2年延期の1996年(平成8年)開催予定の「世界都市博覧会」が、青島幸男東京都知事が同博覧会の中止を公約に当選し、中止決定。羊蹄丸公開も白紙撤回された。
  • 1995年(平成7年)7月–船の科学館展示のため三井造船由良事業所で改装工事施行[24]
    • 10月–船の科学館の前面水域に係留[29]
  • 1996年(平成8年)3月22日 - 船の科学館別館(フローティングパビリオン羊蹄丸)として一般公開された。
  • 2003年(平成15年)-2001年(平成13年)の九州南西海域工作船事件で自沈した不審船から引き上げられた武器等の遺留品を船内で1年あまりにわたり展示。
  • 2008年(平成20年)3月7日 - 青函連絡船100周年記念行事を羊蹄丸・八甲田丸摩周丸それぞれの会場で同時に行った。
  • 2011年(平成23年)7月1日 - 船の科学館のリニューアルに合わせ、同年9月30日限りで閉鎖することを発表[30]。同8月31日無償譲渡の仮申し込み受付を終了。同9月1日には、51件の問い合わせと35件の譲渡申し込みがあったと発表された[31]
  • 2011年(平成23年)9月30日 - 15時45分から休館記念式典として満船飾、出港の模擬実演などを実施。17時を以て船の科学館別館としての保存展示を終了。
  • 2011年(平成23年)11月8日 - 愛媛県新居浜市『えひめ東予シップリサイクル研究会』への無償譲渡が決定。2012年に新居浜東港で一般公開後、解体され資源リサイクルのための研究に供される[32]
新居浜東港にて公開中の羊蹄丸(2012年4月28日)
  • 2012年(平成24年)3月25日解体のため午前8時30分船の科学館より 曳航船とよら丸の曳航にて出発、29日、新居浜東港に到着。
    • 4月27日6月10日- 新居浜市制施行75周年記念、新居浜高専創立50周年記念事業の一環として、新居浜東港黒島埠頭にて最後の一般公開。最終日には、国鉄社旗の掲揚、青函連絡船としての最終便の出航時刻に合わせ17時に函館出航の模擬が行われた。
    • 6月 –一般公開終了後、車両甲板にあった「青函ワールド」のセットならびに「青函ワールド」ミニシアター観賞用のグリーン自由椅子席3脚搬出し青森八甲田丸 へ移送[33]
    • 7月4日・5日-新居浜東港黒島埠頭にて船尾扉開放し車両甲板に積載していたスハフ44 25とDE10 30搬出[34]
    • 7月 -香川県多度津町の宮地サルベージの岸壁にて解体工事開始
  • 2013年(平成25年)4月 - 解体終了
    • 11月14日-この解体作業がシップリサイクル条約(未発効)に沿って完全実施されたことを日本海事協会が認定。これは同一船舶としては世界初であった[35][36]

輸送・運航実績

  • 運航期間 - 22年7か月
  • 総運航回数 - 3万5826回
  • 総運航距離 - 403万5060km(地球101周に相当する)
  • 延べ旅客数 - 1178万3164人

関連項目

脚註

  1. ^ 船舶積量測度法改正規則(1967.8.1.)による改測登録(1970.9.8.)後の総トン数:古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p162 成山堂書店1988
  2. ^ a b 航跡p329 国鉄青函船舶鉄道管理局1978
  3. ^ 古川達郎 続連絡船ドックp11 船舶技術協会1971
  4. ^ 青函連絡船栄光の航跡p371青函連絡船要目表 国鉄青函船舶鉄道管理局1978
  5. ^ 上りは50分短縮
  6. ^ 古川達郎 鉄道連絡船細見p115~117 JTBパブリッシング2008
  7. ^ 古川達郎 続連絡船ドックp33~37 船舶技術協会1971
  8. ^ 泉益生 連絡船のメモ(下巻)p274 船舶技術協会1977
  9. ^ 古川達郎 続連絡船ドックp41 船舶技術協会1971
  10. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p166 成山堂書店1988
  11. ^ 古川達郎 鉄道連絡船細見p148 JTBパブリッシング2008
  12. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p283 成山堂書店1988
  13. ^ 大神隆 青函連絡船物語p264 交通新聞社2014
  14. ^ 古川達郎 続連絡船ドックp166 船舶技術協会1971
  15. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p168 成山堂書店1988
  16. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p230 成山堂書店1988
  17. ^ 古川達郎 続連絡船ドックp295 船舶技術協会1971
  18. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p251 成山堂書店1988
  19. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p235 成山堂書店1988
  20. ^ 松前丸は1.75:8で当初鉢巻なし、横幅は全船6.4m:古川達郎 続連絡船ドックp49 船舶技術協会1971
  21. ^ 航跡p345 国鉄青函船舶鉄道管理局1978
  22. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p250 成山堂書店1988
  23. ^ 航跡p347 国鉄青函船舶鉄道管理局1978
  24. ^ a b 古川達郎 鉄道連絡船のその後p23 成山堂書店2002
  25. ^ 大神隆 青函連絡船物語p265 交通新聞社2014
  26. ^ 大神隆 青函連絡船物語p266 交通新聞社2014
  27. ^ 大神隆 青函連絡船物語p266、267 交通新聞社2014
  28. ^ 大神隆 青函連絡船物語p267 交通新聞社2014
  29. ^ 大神隆 青函連絡船物語p268 交通新聞社2014
  30. ^ 船の科学館 本館展示の休止について 船の科学館お知らせ 2011年7月15日告示
  31. ^ http://www.funenokagakukan.or.jp/pdf/youteimaru.pdf
  32. ^ 羊蹄丸、愛媛に譲渡 船舶リサイクル研究のためmsn産経ニュース 2011年11月8日
  33. ^ 「青函ワールド」およびグリーン自由椅子席2脚は直接、残り1脚は搬出作業担当会社から個人経由で八甲田丸へ
  34. ^ https://www.youtube.com/watch?v=9QFVSzIpymk「羊蹄丸」内から鉄道車両を搬出・愛媛新聞
  35. ^ 読売新聞2013年11月16日夕刊3版13面
  36. ^ シップリサイクル条約「羊蹄丸」を初認定 えひめ東予研解体協力 産経新聞2013年11月16日

外部リンク