「一人っ子政策」の版間の差分
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[[File:One child policy.jpg|thumb|right|280px|「国家の富強と家庭の幸福の為にあなたも計画生育を実行してください」と記した看板]] |
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'''一人っ子政策'''(ひとりっこせいさく、{{Lang-zh|一孩政策}}、 |
'''一人っ子政策'''(ひとりっこせいさく、{{Lang-zh|一孩政策}})では、[[中華人民共和国]]における三転四転、紆余曲折を経た人口政策の歴史と<ref name="wakabayashi49">若林(1994年)49ページ</ref>、とりわけ1979年から導入された厳格な人口抑制策('''計画生育政策'''、{{簡体字|计划生育政策}}、{{ピン音|jìhuà shēngyù zhèngcè}})の内容と、近年のその緩和について説明する。 |
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== 中華人民共和国建国後の人口動態史 == |
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[[2015年]]10月下旬に開催する[[中国共産党中央委員会|中国共産党第18期中央委員会]]第5回全体会議にて、「一人っ子政策」を完全に廃止し、すべての夫婦に2人目の子供を産むことを認めると決定した<ref name="jiji">{{Cite news|title=中国、「一人っ子政策」完全廃止=独自の産児制限、36年で終止符|newspaper=時事ドットコム|date=2015-10-29|url=http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2015102900926|accessdate=2015-10-29}}</ref>。 |
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中華人民共和国建国前の旧中国では、[[1840年]]の[[アヘン戦争]]から[[1949年]]の建国に至るまでの109年間に4億1000万人から5億4000万人と、1億3000万人、年平均0.26パーセントの人口増加率にしか過ぎなかった<ref name="wakabayashi34">若林(1994年)34ページ</ref>。内戦や自然災害も多く、多産多死の「人口転換」前の段階であり、人口は停滞し続けた<ref name="wakabayashi34"/>。しかし、その後社会は安定し、人口が急増し始める<ref name="wakabayashi34"/>。建国後の出生率の変動過程に注目しつつ、建国後の人口動態史を時期区分すると以下の4つの段階に区分される<ref name="wakabayashi35">若林(1994年)35ページ</ref>。 |
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===第1段階(1949年から1959年)・第1次人口増加期=== |
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[[1952年]]までをその前半期とする<ref name="wakabayashi35"/>。出生率の急上昇と死亡率の急低下により、自然増加率も2パーセント前後の高い水準にあった<ref name="wakabayashi35"/><ref name="yin32">尹(2010年)32ページ</ref>。[[1950年]]に制定された『中華人民共和国婚姻法』の理念(数千年来の旧中国の家父長的な家族制度の打破することなくして社会主義国家建設は実現できないとの考え)を徹底させる運動が展開され<ref name="wakabayashi35"/><ref name="kato155">加藤(2008年)155ページ</ref>、それまでは身分階層的に結婚できなかった層(多額の持参金を払えなかった男性など)を含めて、結婚ブームが巻き起こった<ref name="wakabayashi35"/><ref name=”kubo48">久保(2011年)48ページ</ref>。『婚姻法』は、建国前までに見られた、賃借妻や売買婚などの封建的婚姻制度から女性を解放することを目的としていた<ref name="wakabayashi35"/><ref name="kato156">加藤(2008年)156ページ</ref>。この時期の社会経済政策の柱は、旧[[ソビエト連邦]]の影響をうけ、子供に対する特別手当支給、不妊手術や人工妊娠中絶の禁止など、出生を奨励するものであった<ref name="wakabayashi36">若林(1994年)36ページ</ref>。[[1953年]]から[[1957年]]までは、第1次人口増加期の後半期になる<ref name="wakabayashi36"/>。1950年から出生率の低下が見られたが、死亡率の低下が著しく、戦乱もなかったため自然増加率はなお2.23パーセントと高水準を維持した<ref name="wakabayashi36"/><ref name=”kubo101">久保(2011年)101ページ</ref>。 |
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===第2段階(1959年から1962年)・「2000万人非正常死」の時期=== |
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この時期には、異常な自然災害を契機とし、[[1958年]]から始まった「[[大躍進]]」(積極的に経済を拡大しようとする政策)運動の失敗、誤った生産報告に起因する過剰な食糧の取り立て、旧ソビエトの全面撤退に対する債務返済のための無理な農産物輸送という3つの悪循環が生じたといわれた<ref name="wakabayashi36"/><ref name="yin33">尹(2010年)33ページ</ref>。これについては後年「天災」というよりも、食糧分配の不均衡などの政策上の過ちによる「人災」であったことが明らかにされた<ref name="wakabayashi36"/>。小島後掲書によると、後退は食糧凶作からはじまったが、最大の理由は水利・植林・鉄造りなどに農民が動員されすぎ、収穫時に十分な刈り取りができなかったことにあるとされる<ref name="kojima42">小島(1997年)42ページ</ref>。その他、男性が動員された後の作業を受け持った主婦が不慣れだったり、公共食堂のタダ食いで種子まで食べてしまい、翌年の蒔きつけができなかったことも原因である<ref name="kojima43">小島(1997年)43ページ</ref>。[[1960年]]の死亡率が出生率を上回る「絶対減」が生じ、自然増加率はマイナス0.45パーセントとなった<ref name="wakabayashi36"/>。人口ピラミッド上でも1960年出生コーホート(同時出生集団)人口がくびれており、世界各国の[[人口ピラミッド]]でもまれにみるピラミッド形状となる<ref name="wakabayashi38">若林(1994年)38ページ</ref>。このことからしても、当時の「大災害期」のすさまじさ(「2000万人非正常死」といわれる)が推測できる<ref name="wakabayashi38"/><ref name=”kubo116">久保(2011年)116ページ</ref>。実際、今日でも死者の数を伝える正確な記録、資料は残されていない<ref name="amako53">天児(2013年)53ページ</ref>。しかし様々な形で伝えられる数字は、実に1500万人から4000万人に及んでいる<ref name="amako53"/>。総人口の2.5パーセントから6パーセントに及ぶ餓死者の数である<ref name="amako53"/>。もちろん餓死線上の人々はその数倍に及ぶと考えられる<ref name="amako53"/>。 |
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===第3段階(1963年から1971年)・第2次人口増加期=== |
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一般に出生率は、何かの原因によって急低下するとその直後に反動や揺り戻しがあるとされるが、第3段階はその時期にあたり、[[1963年]]の出生率は4.337パーセントを記録した<ref name="wakabayashi38"/>。自然増加率は3パーセントの効率を続け、[[1970年]]には1年間に2321万人という史上最高の純増を示した<ref name="wakabayashi38"/>。この時期に出生した集団により1980年後半以降の第3次ベビーブームが生じたので、「一人っ子政策」をやむなく継続せざるをえなくなっている<ref name="wakabayashi38"/>。 |
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===第4段階(1971年以降)・出生率低下期=== |
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[[1969年]]に3.411パーセントと高かった出生率は[[1979年]]には1.782パーセントと半減した<ref name="wakabayashi38"/><ref name="yin33"/>。人口の純増も1970年の2321万人から1980年の1163万人へと半減している<ref name="wakabayashi38"/>。わずか10年間にこのような出生減を達成した経験は、終戦後の日本以外世界史的にも極めてまれな事例である<ref name="wakabayashi38"/>。 |
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以下に、中国の人口変動の表を示す<ref name="yin32">尹(2010年)32ページ</ref>。単位は、年末総人口が1万人、出生率・死亡率。自然増加率はパーセント、平均寿命は年である。 |
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{|class="wikitable" style="text-align:right" |
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!年次!!年末総人口!!出生率!!死亡率!!自然増加率!!合計出生率!!男性平均寿命!!女性平均寿命 |
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|- |
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!1950 |
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|55,196||37.00||18.00||19.00||5.81||46.70||49.20 |
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|- |
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!1955 |
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|61,465||32.60||12.28||20.32||6.26||-||- |
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|- |
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!1960 |
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|66,207||20.86||25.43||-4.57||4.02||-||- |
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|- |
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!1965 |
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|72,538||37.88||9.50||28.38||6.08||-||- |
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|- |
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!1970 |
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|82,992||33.43||7.60||25.83||5.81||63.20||65.20 |
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|- |
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!1975 |
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|92,420||23.01||7.32||15.69||3.58||-||- |
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|- |
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!1978 |
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|96,259||18.25||6.25||12.00||2.73||-||- |
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|- |
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!1980 |
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|98,705||18.21||6.34||11.87||2.31||66.40||69.25 |
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|- |
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!1985 |
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|105,851||21.04||6.78||14.26||2.20||-||- |
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|- |
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!1990 |
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|114,333||21.06||6.67||14.39||2.31||66.84||70.47 |
|||
|- |
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!1995 |
|||
|121,121||17.12||6.57||10.55||1.86||-||- |
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|- |
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!2000 |
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|126,743||14.03||6.45||7.58||1.68-1.77||69.63||74.45 |
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|- |
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!2005 |
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|130,756||12.40||6.51||5.89||1.74||70.72||74.45 |
|||
|- |
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!2007 |
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|132,129||12.10||6.93||5.17||1.57||-||- |
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|- |
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|} |
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== 中華人民共和国の人口政策史 == |
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== 例外規定 == |
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中華人民共和国の人口政策史は三転四転と紆余曲折し、苦難の道のりであった<ref name="wakabayashi49"/><ref name="yin41">尹(2010年)41ページ</ref>。 |
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*[[漢族]]に次いで人口が多い[[チワン族]]以外の[[中国の少数民族|少数民族]]に対しては免除され、反対に人口が増えるという結果になっている。 |
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*中国人(厳密には[[漢民族]])同士の夫婦のみに適用されるため、夫もしくは妻のいずれかが[[外国人]]もしくは少数民族の場合、この政策は適用されない。 |
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*中国国内の漢民族同士の夫婦でも、[[香港]]や[[マカオ]]は適用対象外地域([[一国二制度]])である。 |
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*[[都市]]部では一人っ子政策は強化ないし遵守されたが、例外として[[双子]]以上の[[多胎児]]の場合、全員が戸籍を持つことが許可された。 |
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[[1949年]]の建国直後の中国では、人口の多いのは重要な財産であるとの楽観的な人口思想のもと、人口増加政策が進められた<ref name="wakabayashi49"/>。[[社会主義]]社会は人口問題など存在しないという主張がされる一方で、「人口は幾何(等比)級的に増加するが、食糧は算術(等差)級的にしか増加しない」という[[マルサス]]人口論は資本主義擁護のもっとも反動的な理論であるとされた<ref name="wakabayashi49"/>。 |
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== 政策によって引き起こされた問題 == |
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[[File:Chinapop.svg|lang=ja|thumb|300px|2015年の中国の人口ピラミッド。5歳ごとに区切られており、最下段が0-5歳。]] |
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一人っ子政策により、中国はある程度の人口抑制に成功した。しかし、その一方で本政策はいくつかの問題を抱えている。 |
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[[1953年]]中国で初めての人口センサスがおこなわれたが、その結果は衝撃的なものであった<ref name="wakabayashi49"/>。人口センサス実施前は4億人から5億人と見込まれていたが、実施してみると6億193万人(国外[[華僑]]、留学生人口を含む)という、予想より1億人多い結果が出た<ref name="wakabayashi49"/>。さらに農業危機にもぶつかったこともあり、中国の人口増加政策は、政策転換を余儀なくされた<ref name="wakabayashi49"/>。そのため[[1954年]]から[[1957年]]には、計画出産が公式に奨励された<ref name="wakabayashi49"/>。 |
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; 黒孩子の問題 |
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: 子供は戸籍上では夫婦一組に対し一人しか持たないとしても、密かに産んだ子供が戸籍外で生まれ、成長していった。こうして生まれた子供達は「[[黒孩子]]」(ヘイハイズ)と呼ばれ、国民として認められないため、学校教育や医療などの行政サービスを受けることができないといった状況にある。 |
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; 罰金の問題 |
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: 一人っ子政策は違反すると罰金を払うことになるが、高額所得者は罰金と引き換えに、第二子以降も変わらずに産んでいる。このため、政府は罰金の増加(年収の3倍〜10倍以上)、違反者の公表、税金や社会保障での待遇格差をつけるなど、対策の強化を検討している<ref>{{Cite news|title=名声や財産を利用した産児制限逃れ、政府が対策に本腰|newspaper=レコードチャイナ|date=2008-03-10|url=http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=16492}}</ref>。 |
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: 一方で、この罰金(「社会扶養費」という)が行政部門の財源として軽視できないものになっているともいう。また、ここから生まれた既得権益による地方行政部門の腐敗も指摘されている。利権の多い罰金徴収を担当する各行政レベルに存在する計画出産委員会は、多くの若者の就職希望先になっているともされる<ref>{{Cite news|title=罰金徴収に躍起となる“一人っ子政策”管理部門-中国|newspaper=サーチナ|date=2010-05-19|url=http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0519&f=column_0519_003.shtml}}{{リンク切れ|date=2015年10月}}</ref>。 |
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; 男女比の問題 |
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: 漢民族の伝統に従うと、男子が親の面倒を見ることになる上、特に農村部においては[[ブルーカラー|肉体労働]]を積極的に手伝ってくれる男児の[[出産]]を希望する農民が多いため、妊娠時に性別検査を行い、胎児が女子の場合は中絶手術を行うケースが多発している。このため、結果として男女比が偏っている。21世紀に入り、一人っ子政策の下生まれ育った「[[80後]]」(バーリンホウ、1980年代に生まれた人)が[[成人]]に達しているが、上述したとおり男女比がいびつなため、男で結婚できない者が急増している。これについては、[[結婚#中国]]、[[三高#中国]]などを参照。 |
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; 甘やかされ世代の問題 |
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: 中国の一人っ子は両親と祖父母の6人(全員存命であった場合)の大人から一身に愛情を受けて育つため甘やかされ、[[小皇帝]](女児の場合小公主)とも呼ばれ、それ以前の世代とは異なる価値観を持っている。甘やかされて自分で家事を行う経験も乏しいため、自分だけで生活しなければならなくなっても、家事ができないケースがある<ref>{{Cite news|title=ついに1億人突破!人口抑制には成功も…-中国|newspaper=レコードチャイナ|date=2008-07-08|url=http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=21298}}</ref>。 |
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: 一人っ子政策のため、精神的・肉体的に脆弱な兵士が目立つ。甘やかされて育った若者が兵士として[[徴兵]]されている。おかげで過酷な訓練では、倒れる兵士が続出している<ref>[[加藤健二郎]]・古是三春 『ホントに強いぞ[[自衛隊]]![[中国人民解放軍]]との戦争に勝てる50の理由』徳間書店、2010年。</ref>。 |
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; 労働力不足の問題 |
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: 人口抑制を進めた結果、2015年頃を境に労働力人口が減少に転じるという統計もあり、中国経済へ深刻な影響を与える可能性も指摘されている<ref>{{Cite news|title=人口構造大変革、中国に労働力不足の時代が到来|newspaper=サーチナ|date=2006-06-26|url=http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2006&d=0626&f=column_0626_001.shtml}}{{リンク切れ|date=2015年10月}}</ref>。 |
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しかし、これも長く続かなかった<ref name="wakabayashi49"/>。[[1958年]]6月から「[[大躍進]]」が始まり、積極的に経済を拡大させようとする政策がとられた<ref name="wakabayashi50">若林(1994年)50ページ</ref>。すでに[[1957年]]の[[全国人民代表大会]]において「新人口論」を提出し、人口抑制策を説いていた[[馬寅初]]・[[北京大学]]学長は、ブルジョア右派分子として厳しく批判され、[[1960年]]3月に学長職を追われた<ref name="wakabayashi50"/><ref name="yin41"/>。この後、「大躍進」の失敗と、3年連続の自然災害により、食糧危機が発生しても、出生抑制を主張することは人民の飢餓に対する危機感をかきたてることになるとの「政治的配慮」から、計画出産への政策転換はなかなか行われなかった<ref name="wakabayashi50"/>。 |
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[[新疆ウイグル自治区]]や[[広西チワン族自治区]]などでは、一人っ子政策を進めようとする行政と、それに対抗する民衆との間で、衝突が起きる事例がある。ウイグル族は一人っ子政策の対象外であるが、現在はこれらの地域でも漢民族の方が多数派になっているためである。 |
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ようやく[[1962年]]、出生率がピークになり、人口問題が相当深刻になってから、[[1962年]]に中央・地方を通じて計画出産指導機構が設けられ、[[1964年]]に計画出産弁公室になった<ref name="wakabayashi50"/>。しかし、折しも「[[文化大革命]]」が開始され、計画出産運動は中断されてしまう<ref name="wakabayashi50"/>。[[1965年]]から[[1971年]]までのわずか6年間で人口の純増は1億2691万人に達し、1840年のアヘン戦争から人民共和国成立までの109年間の人口増にほぼ等しい数の純増となった<ref name="wakabayashi51">若林(1994年)51ページ</ref>。 |
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== 規制の緩和 == |
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上記の問題に鑑み、中国では地方都市や農村単位で様々な例外を設けるなど、段階的に第2,3子の出産に対する規制を緩和して来た。2011年現在では、[[河南省]]を除くほとんどの地域で規制は緩和されていたが、同年11月30日に、河南省でも夫婦が共に一人っ子であるか、または[[農村戸籍]]の夫婦で第1子が女児であった場合に第2子の出産を認める様に、条例改正案を提出し可決された。これにより、条件付きではあるが中国全土で第2子が認められることになった。 |
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[[1971年]]初め、[[周恩来]]首相の提唱で計画出産活動が始動し、文革終結後の1972年頃から農村を含めたより広範な計画出産活動が再開された<ref name="wakabayashi51"/><ref name="yin42">尹(2010年)42ページ</ref>。[[1973年]]8月に[[国務院]]に「計画出産指導小組」が設立され、「晩婚、晩産、1組の夫婦に子供2人まで」が提唱された<ref name="wakabayashi51"/>。1960年第の計画出産運動が大都市のみにとどまったのに対し、1970年代のそれは農村を巻き込み、全国レベルの出生率の急減に明らかな効果を示した<ref name="wakabayashi51"/>。 |
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== 廃止 == |
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[[1978年]]当時中国社会科学院院長であった[[胡喬木]]は、「1977年の国民1人あたりの平均食糧は、1955年前の水準にしか相当しない。食糧生産の伸びは、人口の伸びにしか相当しない」と指摘した<ref name="wakabayashi51"/>。現代化を早期に進めていくためには基盤作りとして人口抑制の必要性を説くこの発言は衝撃の発言であり、「一人っ子政策」導入の大きな契機となった<ref name="wakabayashi51"/>。また、この胡の指摘は、当時の中国社会主義農業政策の根幹である「[[人民公社]]」方式が国の食糧の増産という課題を解決しなかったことを歴然と判明させることとなり、「[[生産責任制]]」という資本主義的な制度の導入の根拠ともなった<ref name="wakabayashi51"/>。 |
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2015年[[10月29日]]、[[中国共産党]]は第18期中央委員会第5回全体会議にて一人っ子政策を完全廃止すると決定したことを表明した。1979年から続く同政策は36年で終止符を打つことになる。[[2013年]]の[[規制緩和]]による第2子出産を申請する夫婦が予想外に伸びなかったことが要因<ref name="jiji" />。 |
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== 一人っ子政策のしくみ == |
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その主たる柱は、「晩婚」・「晩産」・「少生」・「稀」(2人の子供の間を延ばして4年前後にする)・「優生」である<ref name="yin42"/><ref name="tandou153">丹藤(2000年)153ページ</ref><ref name="wakabayashi58">若林(1994年)58ページ</ref>。この国策としての人口計画施行の法的根拠としては、第1に『中華人民共和国憲法』上の規定と<ref name="wakabayashi59">若林(1994年)59ページ</ref><ref name="kato159">加藤(2008年)159ページ</ref>、第2に1980年改正の『中華人民共和国婚姻法』(1980年改正法)<ref name="wakabayashi59"/><ref name="kato159"/>、第3に各地区の計画出産条例がある<ref name="wakabayashi59"/>。 |
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===『中華人民共和国憲法』の規定=== |
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*「国家は計画出産を推進して人口の増加を経済発展計画に適応させる」<ref name="wakabayashi59"/>。 |
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*「夫婦は双方ともに計画出産の義務を負う」<ref name="wakabayashi59"/> |
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===『中華人民共和国婚姻法』の規定=== |
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*法定婚姻年齢を引き上げ、男22歳・女20歳と世界的にも高齢とした<ref name="wakabayashi59"/>。もっとも少数民族は弾力的に引き下げ、男20歳・女18歳とし、補充規定を定めた<ref name="wakabayashi59"/>。 |
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*婚姻の自由、一夫一婦制、男女平等という基本的支柱<ref name="kato158">加藤(2008年)158ページ</ref>とならべ、「夫婦は双方とも計画出産の義務を負う」と明記した<ref name="wakabayashi59"/>。 |
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*一人っ子政策を推進することから必然的に生じてくる諸問題を解決するため、「婿入りの奨励」、「子女が父母どちらの姓をも自由に証することができること」、「夫婦別姓の権利」、「家庭内における地位や遺産についての男女平等」、「嬰児の溺殺その他の嬰児虐殺行為の禁止」がうたわれた<ref name="wakabayashi60">若林(1994年)60ページ</ref>。 |
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離婚についても、感情に亀裂が生じ、調停しても効果がない場合には、広く認められるようになった<ref name="wakabayashi60"/>。 |
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*優生保護の観点から、「直系血族または4親等以内の傍系血族」、「ハンセン病の治療をしていない患者、あるいはその他医学上結婚すべきでないと認められる疾病の患者」の婚姻禁止を明記した<ref name="wakabayashi60"/>。 |
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===各地区の計画出産条例の規定=== |
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*婚姻法に定めた結婚年齢を上乗せして(都市部;男27歳・女25歳、農村部;男25歳・女23歳)規制した<ref name="wakabayashi63">若林(1994年)63ページ</ref>。 |
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*第1子をもうけた夫婦が2子目を産まないと宣言して、「一人っ子証」を受領する<ref name="wakabayashi62">若林(1994年)62ページ</ref>。2子以上は特定の条件を満たす夫婦のみ許可され、出産間隔4年を経て、許可が必要であるとの規制を定めている<ref name="wakabayashi64">若林(1994年)64ページ</ref>。 |
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*超過出産や計画外出産に対する経済的な制裁と処罰をそれぞれ定めている<ref name="wakabayashi63"/>。賞罰制度をまとめると以下のようになる<ref name="wakabayashi63"/>。 |
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===賞罰制度のまとめ=== |
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「一人っ子」宣言をした夫婦は「七優先」という優遇策をうけている<ref name="wakabayashi63"/>。 |
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*月5元(当時の平均月収の約1割)の奨励金を子供が14歳になるまで受領できる。 |
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*託児所への優先入学、学費免除 |
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*学校への優先入学、学費補助 |
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*医療費支給 |
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*就職の優先 |
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*都市部における住宅の優遇配分、農村における「自留地」の優先配分 |
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*退休金(年金)の加算と割り増し |
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「一人っ子」宣言をしなかった夫婦は以下の不利益を受ける<ref name="wakabayashi63"/>。 |
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*超過出産費(多子女費ともいう)の徴収、夫婦双方賃金カット |
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*社会養育費(託児費・学費)の徴収 |
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*医療費と出産入院費の自弁 |
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*昇給や昇進の停止 |
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少子高齢化が明らかになっても、中国政府が一人っ子政策の廃止になかなか踏み込まなかったのは、これらの罰則によって生じる罰金が魅力的であったためとされる<ref name="newsweek4077">{{cite news |title= 一人っ子政策ついに廃止でも変われない中国 |newspaper=[[ニューズウィーク]] |date=2015-11-6 |url=http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2015/11/post-4077.php | accessdate=2015-11-7 }}</ref>。 |
|||
===各地区の計画出産条例による第2子出産が許可される例外的な場合=== |
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都市部住民・農村部住民・少数民族で異なる規制を定めた<ref name="wakabayashi68">若林(1994年)68ページ</ref>。 |
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まず、国家幹部、職員労働者、その他都市部住民に対しては、全国共通して、原則1夫婦あたり子供1人で、以下の場合のみ例外的に第2子が許可される<ref name="wakabayashi68"/>。 |
|||
#第1子が非遺伝性の身体障害者で働けない場合 |
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#夫婦双方がともに一人っ子(ただし、のちの[[2013年]]に夫婦どちらかが一人っ子であれば第2子の出産を認められることに緩和される<ref name="asahi20151027-1">朝日新聞(2015年10月27日)第1面</ref>。) |
|||
#結婚後5年以上不妊で、養子をもらって以降妊娠した場合 |
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#夫婦双方が帰国し定住している華僑 |
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次に農村部住民については、以下の3類型に分かれる<ref name="wakabayashi68"/>。 |
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#第1類型、第2子の出産について厳格な所定条件をみたした場合のみ許可し、第2子の割合を全体の10パーセント以内におさえる<ref name="wakabayashi68"/>。この類型の規制は、北京、天津、上海の3直轄地と、人口のきわめて多い四川省、江蘇省のみが定める<ref name="wakabayashi68"/>。 |
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#第2類型、第1子目が女児の場合、出産間隔を4から5年あけるとともに、母親が28歳以上の場合に第2子を許可する<ref name="wakabayashi68"/>。この類型の規制は、河北、内蒙古、山西、遼寧、吉林、黒竜江など18の地区が定める<ref name="wakabayashi68"/>。 |
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#第3類型、第1子が男児でも第2子の出産が認められる、もっとも緩い類型で、寧夏、雲南、青海、広東、海南の5地区が定める<ref name="wakabayashi68"/>。 |
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少数民族に対しては、以下の4類型となる<ref name="wakabayashi70">若林(1994年)70ページ</ref>。 |
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#第1類型、転入した少数民族が、転入前の居住地から第2子出産許可を得ており、すでに妊娠している場合には、第2子の出産が許可される<ref name="wakabayashi70"/>。北京、天津、上海の3都市で定められる<ref name="wakabayashi70"/>。 |
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#第2類型、都市部と農村部を問わず、夫婦双方が少数民族である場合、第2子の出産が許可される<ref name="wakabayashi70"/>。河北、山西、内蒙古、吉林、黒竜江、安徽、福建、山東、広西、雲南、貴州など12州で定められる<ref name="wakabayashi70"/>。 |
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#第3類型、都市部と農村部を問わず、夫婦双方のどちらかが少数民族である場合、第2子の出産が許可される<ref name="wakabayashi70"/>。寧夏、青海で定められる<ref name="wakabayashi70"/>。 |
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#第4類型、夫婦双方が少数民族で、どちらかが農民、または夫婦のどちらかが少数民族で、双方が農民である場合に、第2子の出産が許可される<ref name="wakabayashi70"/>。遼寧、湖南で定められる<ref name="wakabayashi70"/>。 |
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== 一人っ子政策のきっかけと展開 == |
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[[1972年]]12月[[天津市]]に住む、女児1人をもつ1女性工場労働者が、「生産と建設のため、もう男の子を欲しがりません」と宣言し、これを伝え聞いた天津医学院の女性教師44人の連名で、「一人っ子提議書」が出されたことがきっかけである<ref name="wakabayashi61">若林(1994年)61ページ</ref>。翌1979年1月26日全国計画出産弁公室主任会議が開催され、ここで初めて全国レベルでの一人っ子政策の基本路線が検討された<ref name="wakabayashi61"/>。この会議の直後、「一人っ子証(独生子女証)」が天津市や四川省で試行され始めた<ref name="wakabayashi62">若林(1994年)62ページ</ref>。そして同年8月22日公布の「上海市革命委員会の計画出産推進に関する若干の規定」が最初の条例となった<ref name="wakabayashi62"/>。その後以下の4段階で推進された<ref name="wakabayashi65">若林(1994年)65ページ</ref>。 |
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#1979年から1984年までの第1期は、1979年の全国計画出産弁公室主任会議に始まり、1980年の「公開書簡」によって国策として本格的に軌道にのせた時期である<ref name="wakabayashi65"/>。制度出発当初、第2子の出産条件についての明記がなかったが、1981年ごろになると、以下の特殊事情の3条件が全国に共通して示された<ref name="wakabayashi65"/>。<1>第1子が非遺伝性の身体障害者で働けない場合、<2>再婚で一方に子があり、他方が初婚の場合、<3>長年不妊で養子を迎えた後で懐妊した場合、それぞれの該当者は、申請して許可を受けた場合に計画的に第2子を産むことができる<ref name="wakabayashi65"/>。いずれにしても第3子を産むことは許されない<ref name="wakabayashi65"/>。なお少数民族に対しては、計画出産は奨励するが、第2子を産む枠は拡大されている<ref name="wakabayashi65"/>。 |
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#1984年から1985年までが第2期にあたる。1984年8月にメキシコで国連の国際人口会議が開催された<ref name="wakabayashi66">若林(1994年)66ページ</ref>。アメリカの[[レーガン]]政権が強制妊娠中絶・女嬰児殺害の手段で人口抑制をしているとの見地から中国政府を批判し、国連人口基金への援助停止を決定した。このような国際世論への配慮に加え、農村では厳しい政策の実施は困難であることから第2子の出産条件の拡大・緩和策に転換した<ref name="wakabayashi66"/>。具体的には、「農村で女子1人しか出産しておらず、困難があることが確認され、第2子の出産を望む」場合が追記され、男子労働力の確保、家の継承や老人扶養という伝統的思想がなお残存する農村で第2子出産を認めた<ref name="wakabayashi66"/>。 |
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#1986年から1987年が第3期にあたる<ref name="wakabayashi66"/>。農村では第1子が女児で政策どおりの実施に困難がある場合に4年の出産間隔をおいて、第2子の出産を許可することが浸透していった<ref name="wakabayashi67">若林(1994年)67ページ</ref>。男子労働力の確保への願望は、家族単位での農業経営にあたる機会が増える「生産責任制」導入後いっそう強まった<ref name="wakabayashi67"/>。農村での出産政策の調整を全国的に広げて行った<ref name="wakabayashi67"/>。 |
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#1987年以降が第4期にあたる<ref name="wakabayashi67"/>。全国的に各地区レベルの「計画出産条例」を制定・改定していった確定整備期である<ref name="wakabayashi67"/>。 |
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== 一人っ子政策で生じた問題点 == |
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一人っ子政策の影響と長寿化のため、中国の人口の高齢化は急速に進むと予想された<ref name="tanaka171">田中(2011年)171ページ</ref>。これに社会保障制度の設計が追い付かず、中国は高齢化への備えが不十分なまま少子・高齢化社会へ突入することになる<ref name="tanaka171"/>。このことが貯蓄の減少・消費の低迷・設備投資の鈍化などを通じて経済成長にボディーブローのように影響を与えることが懸念された<ref name="tanaka171"/>。一人っ子政策が開始されて、四半世紀が経ち、都市部の若者の多くは、兄弟姉妹を持たず、「1-2-4体制」(子供1人を2人の親と4人の祖父母が世話をする)の中で成長したことで、他者とのコミュニケーションの能力に欠けた利己的な子供を生みだしていると言われる<ref name="matsuoka155">松岡(2008年)155ページ</ref>。また、第2子以降を産んだことによる不利益を恐れて公式に届出がなされず[[無戸籍者|戸籍に登録されない]]ままとなっている、いわゆる[[黒孩子]]が多数発生しており、2010年の中国政府の統計においてすらその数は1300万人に上るとされている<ref>{{cite news|url=http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151105-00000032-jij_afp-int|title=中国1300万人の無戸籍児、一人っ子政策の「負の遺産」|date=2015-11-05|accessdate=2015-11-06|agency=[[AFPBB]]|publisher=[[Yahoo!ニュース]]}}</ref>。 |
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== 一人っ子政策の緩和と政策変更 == |
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以上のような内容をもっていた「一人っ子」政策であったが、[[2015年]]10月29日に閉幕した中国共産党の重要会議である中央委員会第5回全体会議(5中全会)により、「一人っ子」政策の廃止が決定された<ref name="asahi20151027-1"/>。同会議は、経済の中期計画である「第13次5カ年計画」案を採択し、その会議後に発表されたコミュニケ(公表文)では、「1組の夫婦が2人の子供を産む政策を全面的に実施し、人口高齢化への対策を進める」とした<ref name="asahi20151027-1"/>。中国の人口学者はここ10年来、早期の政策変更を訴えてきたが、地方政府は学校などを建設することなどの負担増から政策変更には反対していた<ref name="asahi20151027-10">朝日新聞(2015年10月27日)第10面</ref>。[[2013年]]には「夫婦どちらかが一人っ子ならば第2子の出産を認める」との緩和に踏み切っていた<ref name="asahi20151027-1"/>。だが新制度の利用率は低迷し、2年後にさらなる変更を迫られた<ref name="asahi20151027-1"/>。[[2012年]]には、労働人口が初めて減少に向かったとされ、2020年代に至ると年間790万人のペースで労働人口が急減していくと予想されており<ref name="asahi20151027-10"/>、「一人っ子」政策が世界的にも例のない速度で少子高齢化社会を引き起こし、経済成長にも悪影響を及ぼすと意識された<ref name="asahi20151027-1"/>。先に高齢化と人口減少を迎えた隣国日本が、潜在的な経済成長率の低下に苦しむ姿を間のあたりにしているだけに、政権の危機感は強かった<ref name="asahi20151027-10"/>。ただし、中国共産党は、計画出産そのものについては「基本政策として堅持する」として、2人までの制限は残すという姿勢を見せており、「子供を産みたい」という両親の思いを国家が一方的に制限する構図は続く<ref name="asahi20151027-10"/>。中国政府の国家衛生・計画出産委員会は、10月30日、共産党が前日に「一人っ子」政策の変更を決めたことを受けて、2030年の人口が14億5000万人に増えるとの予測を明らかにした<ref name="asahi20151031-13">朝日新聞(2015年10月31日)第13面</ref>。同委員会によると今回の政策変更で、すべての夫婦が2人目を産むことができるようになり、子供を産めるようになる夫婦は全国で約9000万組と見込まれ、少子化に歯止めがかかると期待する<ref name="asahi20151031-13"/>。現在の新生児数は年間1700万人から1800万人とみられるが、今後数年間は増加に転じ、ピーク時には年間2000万人を超えると予測した<ref name="asahi20151031-13"/>。同時にこの政策変更によって子供の数が増えても、資源の消費に影響があるが許容の範囲内であるとしている<ref name="asahi20151031-13"/>。一方、子供向け用品などの需要が増えたり、労働人口も2050年時点で、これまでの予測より約3000万人増え、経済面のプラス効果があるとしている<ref name="asahi20151031-13"/>。国家衛生・計画出産委員会の王培安副主任は11月10日、上述の共産党による緩和策により、すべての夫婦に2人目を産むことが認められることで、労働人口の減少が緩やかになるとの予測の発表をした<ref name="asahi20151111-6">朝日新聞(2015年11月11日)第6面</ref>。将来の潜在経済成長率を0.5パーセント引き上げるとの試算を発表した<ref name="asahi20151111-6"/>。 |
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以下は、上記緩和策に対しての日本企業の反応の一例である。2014年の個人情報の漏洩問題と少子化で、国内通信教育の会員数が激減している教育大手の[[ベネッセ]]ホールディングスは、新たな海外展開と介護事業を新たな主力事業に据えようとしている<ref name="20151031asahi">朝日新聞(2015年10月31日)朝刊第11面</ref>。すでに中国事業は会員数83万人と、日本国内の会員数76万人を上回る<ref name="20151031asahi"/>。日本の幼児に絶大な人気を誇る「[[しまじろう]]」は、中国でも「巧虎(チャオフー)」として親しまれており、会員数拡大のカギにする<ref name="20151031asahi"/>。原田泳幸・同社社長は「一人っ子政策の見直しも追い風」と話した<ref name="20151031asahi"/>。 |
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== 出典 == |
== 出典 == |
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== 参考文献 == |
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* 若林敬子男著『中国 人口超大国のゆくえ』(1994年)岩波新書 |
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* 早瀬保子・大淵寛編著『人口学ライブラリー8 世界主要国・地域の人口問題』(2010年)原書房(第2章中国;人口政策と少子高齢化、執筆担当;尹豪) |
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* 丹藤佳紀著『中国現代ことば事情』(2000年)岩波新書 |
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* 久保亨著『シリーズ中国近現代史4 社会主義への挑戦1945-1971』(2011年)岩波新書 |
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* 天児慧著『中華人民共和国史(新版)』(2013年)岩波新書 |
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* 西村幸次郎編『現代中国法講義(第3版)』(2008年)法律文化社(第8章家族法、執筆担当;加藤美穂子) |
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* 小島麗逸著『現代中国の経済』(1997年)岩波新書 |
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* 国分良成編『中国は、いま』(2011年)岩波新書(第7章 岐路に立つ中国経済 発展パターンの転換は可能か、執筆担当;田中修) |
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* 愛知大学現代中国学部編『現代中国ハンドブック(第3版)』(2008年)あるむ(「家族」の項、執筆担当;松岡正) |
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* 朝日新聞2015年10月27日朝刊第1面「一人っ子政策を中国が廃止 経済減速2人目容認に転換」 |
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* 朝日新聞2015年10月27日朝刊第10面「進む少子化 中国危機感」 |
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* 朝日新聞2015年10月31日朝刊第13面「中国「二人っ子」なら14.5億人 政府が2030年人口予測」 |
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* 朝日新聞2015年10月31日朝刊第11面「ベネッセ、海外へ活路 中期経営計画幼児教育に照準」 |
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* 朝日新聞2015年11月11日朝刊第6面「脱一人っ子で「成長効果」 |
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== 関連項目 == |
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* [[ローマクラブ]] |
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* [[成長の限界]] |
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* [[馬寅初]] |
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* [[大有国]] |
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== 外部リンク == |
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{{Commonscat|Population policy in China|「一人っ子政策」を含む中国の人口政策}} |
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* [http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/548 「一人っ子政策」の弊害]([http://jbpress.ismedia.jp/ JBpress] 2009年2月9日) |
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[[Category:中華人民共和国の政治]] |
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2015年11月28日 (土) 21:41時点における版
一人っ子政策(ひとりっこせいさく、中国語: 一孩政策)では、中華人民共和国における三転四転、紆余曲折を経た人口政策の歴史と[1]、とりわけ1979年から導入された厳格な人口抑制策(計画生育政策、簡体字: 计划生育政策、拼音: )の内容と、近年のその緩和について説明する。
中華人民共和国建国後の人口動態史
中華人民共和国建国前の旧中国では、1840年のアヘン戦争から1949年の建国に至るまでの109年間に4億1000万人から5億4000万人と、1億3000万人、年平均0.26パーセントの人口増加率にしか過ぎなかった[2]。内戦や自然災害も多く、多産多死の「人口転換」前の段階であり、人口は停滞し続けた[2]。しかし、その後社会は安定し、人口が急増し始める[2]。建国後の出生率の変動過程に注目しつつ、建国後の人口動態史を時期区分すると以下の4つの段階に区分される[3]。
第1段階(1949年から1959年)・第1次人口増加期
1952年までをその前半期とする[3]。出生率の急上昇と死亡率の急低下により、自然増加率も2パーセント前後の高い水準にあった[3][4]。1950年に制定された『中華人民共和国婚姻法』の理念(数千年来の旧中国の家父長的な家族制度の打破することなくして社会主義国家建設は実現できないとの考え)を徹底させる運動が展開され[3][5]、それまでは身分階層的に結婚できなかった層(多額の持参金を払えなかった男性など)を含めて、結婚ブームが巻き起こった[3][6]。『婚姻法』は、建国前までに見られた、賃借妻や売買婚などの封建的婚姻制度から女性を解放することを目的としていた[3][7]。この時期の社会経済政策の柱は、旧ソビエト連邦の影響をうけ、子供に対する特別手当支給、不妊手術や人工妊娠中絶の禁止など、出生を奨励するものであった[8]。1953年から1957年までは、第1次人口増加期の後半期になる[8]。1950年から出生率の低下が見られたが、死亡率の低下が著しく、戦乱もなかったため自然増加率はなお2.23パーセントと高水準を維持した[8][9]。
第2段階(1959年から1962年)・「2000万人非正常死」の時期
この時期には、異常な自然災害を契機とし、1958年から始まった「大躍進」(積極的に経済を拡大しようとする政策)運動の失敗、誤った生産報告に起因する過剰な食糧の取り立て、旧ソビエトの全面撤退に対する債務返済のための無理な農産物輸送という3つの悪循環が生じたといわれた[8][10]。これについては後年「天災」というよりも、食糧分配の不均衡などの政策上の過ちによる「人災」であったことが明らかにされた[8]。小島後掲書によると、後退は食糧凶作からはじまったが、最大の理由は水利・植林・鉄造りなどに農民が動員されすぎ、収穫時に十分な刈り取りができなかったことにあるとされる[11]。その他、男性が動員された後の作業を受け持った主婦が不慣れだったり、公共食堂のタダ食いで種子まで食べてしまい、翌年の蒔きつけができなかったことも原因である[12]。1960年の死亡率が出生率を上回る「絶対減」が生じ、自然増加率はマイナス0.45パーセントとなった[8]。人口ピラミッド上でも1960年出生コーホート(同時出生集団)人口がくびれており、世界各国の人口ピラミッドでもまれにみるピラミッド形状となる[13]。このことからしても、当時の「大災害期」のすさまじさ(「2000万人非正常死」といわれる)が推測できる[13][14]。実際、今日でも死者の数を伝える正確な記録、資料は残されていない[15]。しかし様々な形で伝えられる数字は、実に1500万人から4000万人に及んでいる[15]。総人口の2.5パーセントから6パーセントに及ぶ餓死者の数である[15]。もちろん餓死線上の人々はその数倍に及ぶと考えられる[15]。
第3段階(1963年から1971年)・第2次人口増加期
一般に出生率は、何かの原因によって急低下するとその直後に反動や揺り戻しがあるとされるが、第3段階はその時期にあたり、1963年の出生率は4.337パーセントを記録した[13]。自然増加率は3パーセントの効率を続け、1970年には1年間に2321万人という史上最高の純増を示した[13]。この時期に出生した集団により1980年後半以降の第3次ベビーブームが生じたので、「一人っ子政策」をやむなく継続せざるをえなくなっている[13]。
第4段階(1971年以降)・出生率低下期
1969年に3.411パーセントと高かった出生率は1979年には1.782パーセントと半減した[13][10]。人口の純増も1970年の2321万人から1980年の1163万人へと半減している[13]。わずか10年間にこのような出生減を達成した経験は、終戦後の日本以外世界史的にも極めてまれな事例である[13]。 以下に、中国の人口変動の表を示す[4]。単位は、年末総人口が1万人、出生率・死亡率。自然増加率はパーセント、平均寿命は年である。
年次 | 年末総人口 | 出生率 | 死亡率 | 自然増加率 | 合計出生率 | 男性平均寿命 | 女性平均寿命 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1950 | 55,196 | 37.00 | 18.00 | 19.00 | 5.81 | 46.70 | 49.20 |
1955 | 61,465 | 32.60 | 12.28 | 20.32 | 6.26 | - | - |
1960 | 66,207 | 20.86 | 25.43 | -4.57 | 4.02 | - | - |
1965 | 72,538 | 37.88 | 9.50 | 28.38 | 6.08 | - | - |
1970 | 82,992 | 33.43 | 7.60 | 25.83 | 5.81 | 63.20 | 65.20 |
1975 | 92,420 | 23.01 | 7.32 | 15.69 | 3.58 | - | - |
1978 | 96,259 | 18.25 | 6.25 | 12.00 | 2.73 | - | - |
1980 | 98,705 | 18.21 | 6.34 | 11.87 | 2.31 | 66.40 | 69.25 |
1985 | 105,851 | 21.04 | 6.78 | 14.26 | 2.20 | - | - |
1990 | 114,333 | 21.06 | 6.67 | 14.39 | 2.31 | 66.84 | 70.47 |
1995 | 121,121 | 17.12 | 6.57 | 10.55 | 1.86 | - | - |
2000 | 126,743 | 14.03 | 6.45 | 7.58 | 1.68-1.77 | 69.63 | 74.45 |
2005 | 130,756 | 12.40 | 6.51 | 5.89 | 1.74 | 70.72 | 74.45 |
2007 | 132,129 | 12.10 | 6.93 | 5.17 | 1.57 | - | - |
中華人民共和国の人口政策史
中華人民共和国の人口政策史は三転四転と紆余曲折し、苦難の道のりであった[1][16]。
1949年の建国直後の中国では、人口の多いのは重要な財産であるとの楽観的な人口思想のもと、人口増加政策が進められた[1]。社会主義社会は人口問題など存在しないという主張がされる一方で、「人口は幾何(等比)級的に増加するが、食糧は算術(等差)級的にしか増加しない」というマルサス人口論は資本主義擁護のもっとも反動的な理論であるとされた[1]。
1953年中国で初めての人口センサスがおこなわれたが、その結果は衝撃的なものであった[1]。人口センサス実施前は4億人から5億人と見込まれていたが、実施してみると6億193万人(国外華僑、留学生人口を含む)という、予想より1億人多い結果が出た[1]。さらに農業危機にもぶつかったこともあり、中国の人口増加政策は、政策転換を余儀なくされた[1]。そのため1954年から1957年には、計画出産が公式に奨励された[1]。
しかし、これも長く続かなかった[1]。1958年6月から「大躍進」が始まり、積極的に経済を拡大させようとする政策がとられた[17]。すでに1957年の全国人民代表大会において「新人口論」を提出し、人口抑制策を説いていた馬寅初・北京大学学長は、ブルジョア右派分子として厳しく批判され、1960年3月に学長職を追われた[17][16]。この後、「大躍進」の失敗と、3年連続の自然災害により、食糧危機が発生しても、出生抑制を主張することは人民の飢餓に対する危機感をかきたてることになるとの「政治的配慮」から、計画出産への政策転換はなかなか行われなかった[17]。
ようやく1962年、出生率がピークになり、人口問題が相当深刻になってから、1962年に中央・地方を通じて計画出産指導機構が設けられ、1964年に計画出産弁公室になった[17]。しかし、折しも「文化大革命」が開始され、計画出産運動は中断されてしまう[17]。1965年から1971年までのわずか6年間で人口の純増は1億2691万人に達し、1840年のアヘン戦争から人民共和国成立までの109年間の人口増にほぼ等しい数の純増となった[18]。
1971年初め、周恩来首相の提唱で計画出産活動が始動し、文革終結後の1972年頃から農村を含めたより広範な計画出産活動が再開された[18][19]。1973年8月に国務院に「計画出産指導小組」が設立され、「晩婚、晩産、1組の夫婦に子供2人まで」が提唱された[18]。1960年第の計画出産運動が大都市のみにとどまったのに対し、1970年代のそれは農村を巻き込み、全国レベルの出生率の急減に明らかな効果を示した[18]。 1978年当時中国社会科学院院長であった胡喬木は、「1977年の国民1人あたりの平均食糧は、1955年前の水準にしか相当しない。食糧生産の伸びは、人口の伸びにしか相当しない」と指摘した[18]。現代化を早期に進めていくためには基盤作りとして人口抑制の必要性を説くこの発言は衝撃の発言であり、「一人っ子政策」導入の大きな契機となった[18]。また、この胡の指摘は、当時の中国社会主義農業政策の根幹である「人民公社」方式が国の食糧の増産という課題を解決しなかったことを歴然と判明させることとなり、「生産責任制」という資本主義的な制度の導入の根拠ともなった[18]。
一人っ子政策のしくみ
その主たる柱は、「晩婚」・「晩産」・「少生」・「稀」(2人の子供の間を延ばして4年前後にする)・「優生」である[19][20][21]。この国策としての人口計画施行の法的根拠としては、第1に『中華人民共和国憲法』上の規定と[22][23]、第2に1980年改正の『中華人民共和国婚姻法』(1980年改正法)[22][23]、第3に各地区の計画出産条例がある[22]。
『中華人民共和国憲法』の規定
『中華人民共和国婚姻法』の規定
- 法定婚姻年齢を引き上げ、男22歳・女20歳と世界的にも高齢とした[22]。もっとも少数民族は弾力的に引き下げ、男20歳・女18歳とし、補充規定を定めた[22]。
- 婚姻の自由、一夫一婦制、男女平等という基本的支柱[24]とならべ、「夫婦は双方とも計画出産の義務を負う」と明記した[22]。
- 一人っ子政策を推進することから必然的に生じてくる諸問題を解決するため、「婿入りの奨励」、「子女が父母どちらの姓をも自由に証することができること」、「夫婦別姓の権利」、「家庭内における地位や遺産についての男女平等」、「嬰児の溺殺その他の嬰児虐殺行為の禁止」がうたわれた[25]。
離婚についても、感情に亀裂が生じ、調停しても効果がない場合には、広く認められるようになった[25]。
- 優生保護の観点から、「直系血族または4親等以内の傍系血族」、「ハンセン病の治療をしていない患者、あるいはその他医学上結婚すべきでないと認められる疾病の患者」の婚姻禁止を明記した[25]。
各地区の計画出産条例の規定
- 婚姻法に定めた結婚年齢を上乗せして(都市部;男27歳・女25歳、農村部;男25歳・女23歳)規制した[26]。
- 第1子をもうけた夫婦が2子目を産まないと宣言して、「一人っ子証」を受領する[27]。2子以上は特定の条件を満たす夫婦のみ許可され、出産間隔4年を経て、許可が必要であるとの規制を定めている[28]。
- 超過出産や計画外出産に対する経済的な制裁と処罰をそれぞれ定めている[26]。賞罰制度をまとめると以下のようになる[26]。
賞罰制度のまとめ
「一人っ子」宣言をした夫婦は「七優先」という優遇策をうけている[26]。
- 月5元(当時の平均月収の約1割)の奨励金を子供が14歳になるまで受領できる。
- 託児所への優先入学、学費免除
- 学校への優先入学、学費補助
- 医療費支給
- 就職の優先
- 都市部における住宅の優遇配分、農村における「自留地」の優先配分
- 退休金(年金)の加算と割り増し
「一人っ子」宣言をしなかった夫婦は以下の不利益を受ける[26]。
- 超過出産費(多子女費ともいう)の徴収、夫婦双方賃金カット
- 社会養育費(託児費・学費)の徴収
- 医療費と出産入院費の自弁
- 昇給や昇進の停止
少子高齢化が明らかになっても、中国政府が一人っ子政策の廃止になかなか踏み込まなかったのは、これらの罰則によって生じる罰金が魅力的であったためとされる[29]。
各地区の計画出産条例による第2子出産が許可される例外的な場合
都市部住民・農村部住民・少数民族で異なる規制を定めた[30]。
まず、国家幹部、職員労働者、その他都市部住民に対しては、全国共通して、原則1夫婦あたり子供1人で、以下の場合のみ例外的に第2子が許可される[30]。
- 第1子が非遺伝性の身体障害者で働けない場合
- 夫婦双方がともに一人っ子(ただし、のちの2013年に夫婦どちらかが一人っ子であれば第2子の出産を認められることに緩和される[31]。)
- 結婚後5年以上不妊で、養子をもらって以降妊娠した場合
- 夫婦双方が帰国し定住している華僑
次に農村部住民については、以下の3類型に分かれる[30]。
- 第1類型、第2子の出産について厳格な所定条件をみたした場合のみ許可し、第2子の割合を全体の10パーセント以内におさえる[30]。この類型の規制は、北京、天津、上海の3直轄地と、人口のきわめて多い四川省、江蘇省のみが定める[30]。
- 第2類型、第1子目が女児の場合、出産間隔を4から5年あけるとともに、母親が28歳以上の場合に第2子を許可する[30]。この類型の規制は、河北、内蒙古、山西、遼寧、吉林、黒竜江など18の地区が定める[30]。
- 第3類型、第1子が男児でも第2子の出産が認められる、もっとも緩い類型で、寧夏、雲南、青海、広東、海南の5地区が定める[30]。
少数民族に対しては、以下の4類型となる[32]。
- 第1類型、転入した少数民族が、転入前の居住地から第2子出産許可を得ており、すでに妊娠している場合には、第2子の出産が許可される[32]。北京、天津、上海の3都市で定められる[32]。
- 第2類型、都市部と農村部を問わず、夫婦双方が少数民族である場合、第2子の出産が許可される[32]。河北、山西、内蒙古、吉林、黒竜江、安徽、福建、山東、広西、雲南、貴州など12州で定められる[32]。
- 第3類型、都市部と農村部を問わず、夫婦双方のどちらかが少数民族である場合、第2子の出産が許可される[32]。寧夏、青海で定められる[32]。
- 第4類型、夫婦双方が少数民族で、どちらかが農民、または夫婦のどちらかが少数民族で、双方が農民である場合に、第2子の出産が許可される[32]。遼寧、湖南で定められる[32]。
一人っ子政策のきっかけと展開
1972年12月天津市に住む、女児1人をもつ1女性工場労働者が、「生産と建設のため、もう男の子を欲しがりません」と宣言し、これを伝え聞いた天津医学院の女性教師44人の連名で、「一人っ子提議書」が出されたことがきっかけである[33]。翌1979年1月26日全国計画出産弁公室主任会議が開催され、ここで初めて全国レベルでの一人っ子政策の基本路線が検討された[33]。この会議の直後、「一人っ子証(独生子女証)」が天津市や四川省で試行され始めた[27]。そして同年8月22日公布の「上海市革命委員会の計画出産推進に関する若干の規定」が最初の条例となった[27]。その後以下の4段階で推進された[34]。
- 1979年から1984年までの第1期は、1979年の全国計画出産弁公室主任会議に始まり、1980年の「公開書簡」によって国策として本格的に軌道にのせた時期である[34]。制度出発当初、第2子の出産条件についての明記がなかったが、1981年ごろになると、以下の特殊事情の3条件が全国に共通して示された[34]。<1>第1子が非遺伝性の身体障害者で働けない場合、<2>再婚で一方に子があり、他方が初婚の場合、<3>長年不妊で養子を迎えた後で懐妊した場合、それぞれの該当者は、申請して許可を受けた場合に計画的に第2子を産むことができる[34]。いずれにしても第3子を産むことは許されない[34]。なお少数民族に対しては、計画出産は奨励するが、第2子を産む枠は拡大されている[34]。
- 1984年から1985年までが第2期にあたる。1984年8月にメキシコで国連の国際人口会議が開催された[35]。アメリカのレーガン政権が強制妊娠中絶・女嬰児殺害の手段で人口抑制をしているとの見地から中国政府を批判し、国連人口基金への援助停止を決定した。このような国際世論への配慮に加え、農村では厳しい政策の実施は困難であることから第2子の出産条件の拡大・緩和策に転換した[35]。具体的には、「農村で女子1人しか出産しておらず、困難があることが確認され、第2子の出産を望む」場合が追記され、男子労働力の確保、家の継承や老人扶養という伝統的思想がなお残存する農村で第2子出産を認めた[35]。
- 1986年から1987年が第3期にあたる[35]。農村では第1子が女児で政策どおりの実施に困難がある場合に4年の出産間隔をおいて、第2子の出産を許可することが浸透していった[36]。男子労働力の確保への願望は、家族単位での農業経営にあたる機会が増える「生産責任制」導入後いっそう強まった[36]。農村での出産政策の調整を全国的に広げて行った[36]。
- 1987年以降が第4期にあたる[36]。全国的に各地区レベルの「計画出産条例」を制定・改定していった確定整備期である[36]。
一人っ子政策で生じた問題点
一人っ子政策の影響と長寿化のため、中国の人口の高齢化は急速に進むと予想された[37]。これに社会保障制度の設計が追い付かず、中国は高齢化への備えが不十分なまま少子・高齢化社会へ突入することになる[37]。このことが貯蓄の減少・消費の低迷・設備投資の鈍化などを通じて経済成長にボディーブローのように影響を与えることが懸念された[37]。一人っ子政策が開始されて、四半世紀が経ち、都市部の若者の多くは、兄弟姉妹を持たず、「1-2-4体制」(子供1人を2人の親と4人の祖父母が世話をする)の中で成長したことで、他者とのコミュニケーションの能力に欠けた利己的な子供を生みだしていると言われる[38]。また、第2子以降を産んだことによる不利益を恐れて公式に届出がなされず戸籍に登録されないままとなっている、いわゆる黒孩子が多数発生しており、2010年の中国政府の統計においてすらその数は1300万人に上るとされている[39]。
一人っ子政策の緩和と政策変更
以上のような内容をもっていた「一人っ子」政策であったが、2015年10月29日に閉幕した中国共産党の重要会議である中央委員会第5回全体会議(5中全会)により、「一人っ子」政策の廃止が決定された[31]。同会議は、経済の中期計画である「第13次5カ年計画」案を採択し、その会議後に発表されたコミュニケ(公表文)では、「1組の夫婦が2人の子供を産む政策を全面的に実施し、人口高齢化への対策を進める」とした[31]。中国の人口学者はここ10年来、早期の政策変更を訴えてきたが、地方政府は学校などを建設することなどの負担増から政策変更には反対していた[40]。2013年には「夫婦どちらかが一人っ子ならば第2子の出産を認める」との緩和に踏み切っていた[31]。だが新制度の利用率は低迷し、2年後にさらなる変更を迫られた[31]。2012年には、労働人口が初めて減少に向かったとされ、2020年代に至ると年間790万人のペースで労働人口が急減していくと予想されており[40]、「一人っ子」政策が世界的にも例のない速度で少子高齢化社会を引き起こし、経済成長にも悪影響を及ぼすと意識された[31]。先に高齢化と人口減少を迎えた隣国日本が、潜在的な経済成長率の低下に苦しむ姿を間のあたりにしているだけに、政権の危機感は強かった[40]。ただし、中国共産党は、計画出産そのものについては「基本政策として堅持する」として、2人までの制限は残すという姿勢を見せており、「子供を産みたい」という両親の思いを国家が一方的に制限する構図は続く[40]。中国政府の国家衛生・計画出産委員会は、10月30日、共産党が前日に「一人っ子」政策の変更を決めたことを受けて、2030年の人口が14億5000万人に増えるとの予測を明らかにした[41]。同委員会によると今回の政策変更で、すべての夫婦が2人目を産むことができるようになり、子供を産めるようになる夫婦は全国で約9000万組と見込まれ、少子化に歯止めがかかると期待する[41]。現在の新生児数は年間1700万人から1800万人とみられるが、今後数年間は増加に転じ、ピーク時には年間2000万人を超えると予測した[41]。同時にこの政策変更によって子供の数が増えても、資源の消費に影響があるが許容の範囲内であるとしている[41]。一方、子供向け用品などの需要が増えたり、労働人口も2050年時点で、これまでの予測より約3000万人増え、経済面のプラス効果があるとしている[41]。国家衛生・計画出産委員会の王培安副主任は11月10日、上述の共産党による緩和策により、すべての夫婦に2人目を産むことが認められることで、労働人口の減少が緩やかになるとの予測の発表をした[42]。将来の潜在経済成長率を0.5パーセント引き上げるとの試算を発表した[42]。
以下は、上記緩和策に対しての日本企業の反応の一例である。2014年の個人情報の漏洩問題と少子化で、国内通信教育の会員数が激減している教育大手のベネッセホールディングスは、新たな海外展開と介護事業を新たな主力事業に据えようとしている[43]。すでに中国事業は会員数83万人と、日本国内の会員数76万人を上回る[43]。日本の幼児に絶大な人気を誇る「しまじろう」は、中国でも「巧虎(チャオフー)」として親しまれており、会員数拡大のカギにする[43]。原田泳幸・同社社長は「一人っ子政策の見直しも追い風」と話した[43]。
出典
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参考文献
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- 久保亨著『シリーズ中国近現代史4 社会主義への挑戦1945-1971』(2011年)岩波新書
- 天児慧著『中華人民共和国史(新版)』(2013年)岩波新書
- 西村幸次郎編『現代中国法講義(第3版)』(2008年)法律文化社(第8章家族法、執筆担当;加藤美穂子)
- 小島麗逸著『現代中国の経済』(1997年)岩波新書
- 国分良成編『中国は、いま』(2011年)岩波新書(第7章 岐路に立つ中国経済 発展パターンの転換は可能か、執筆担当;田中修)
- 愛知大学現代中国学部編『現代中国ハンドブック(第3版)』(2008年)あるむ(「家族」の項、執筆担当;松岡正)
- 朝日新聞2015年10月27日朝刊第1面「一人っ子政策を中国が廃止 経済減速2人目容認に転換」
- 朝日新聞2015年10月27日朝刊第10面「進む少子化 中国危機感」
- 朝日新聞2015年10月31日朝刊第13面「中国「二人っ子」なら14.5億人 政府が2030年人口予測」
- 朝日新聞2015年10月31日朝刊第11面「ベネッセ、海外へ活路 中期経営計画幼児教育に照準」
- 朝日新聞2015年11月11日朝刊第6面「脱一人っ子で「成長効果」