「湯山池」の版間の差分
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重文の指定範囲を明示。冑の説明中、「柊形」は小札の形状であることを明示。古墳時代のカブトは通常「冑」と表記。 |
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{{Infobox 湖 |
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== 新田開発の歴史 == |
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|名称=湯山池 |
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池の東の峠を越した浜湯山には、[[安政]]年間まで'''湯山池'''という[[潟湖]]があった。その頃は砂丘の砂の移動が激しく、浜湯山の人々は飛砂に苦しめられた。[[庄屋]]の'''宿院義般'''は農民の窮状を救うため、植林をして飛砂を止めると共に、湯山池を干拓して新田を作ることにした。湯山池の水位より多鯰ヶ池の水位が16mも高かったため、[[トンネル]]を掘りその水流に砂を流して湯山池を[[干拓]]した。トンネルは多鯰ヶ池の水面下3.6mの水準で、幅・高さともに1.8m、全長382mという設計だった。工事は[[1859年]]([[安政]]6年)に始められ、[[1862年]]([[文久]]2年)に一応の完成を見ている。[[明治維新]]後も事業は継続され、[[1871年]]([[明治]]4年)には池全体50ヘクタールが埋め立てられた。[[トンネル]]は今も夏場の[[灌漑]][[用水路]]として機能している。 |
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|画像= |
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|所在地=[[鳥取県]]旧[[福部村]](存在していた当時の所在)<!--福部村は鳥取市に合併していますが、湯山池は鳥取市に存在していたことがないので福部村としました。--> |
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| 緯度度 = 35|緯度分 = 32|緯度秒 = 36.8 |
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| 経度度 = 134|経度分 = 15|経度秒 = 6.9 |
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|面積= |
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|周囲長= |
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|最大水深= |
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|平均水深= |
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|貯水量= |
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|標高= |
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|成因=潟湖 |
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|淡汽= |
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|湖沼型= |
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|透明度= |
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{{Location map | Japan Tottori |
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| lat_deg = 35 | lat_min = 32 | lat_sec = 36.8 | lat_dir = N |
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| lon_deg = 134 | lon_min = 15 | lon_sec = 6.9| lon_dir = E |
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| label = 湯山池 |
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| position = top |
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| mark = Blue_pog.svg |
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| marksize = 9 |
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| width = 280 |
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| float = right |
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| caption = かつての湯山池の位置 |
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| alt = かつての湯山池の位置 |
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'''湯山池'''(ゆやまいけ)は[[鳥取県]]にあった池である。[[江戸時代]]から[[昭和]]にかけて[[干拓]]が行われて農地となり、池としては現存しない。 |
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==概要== |
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湯山池は現在の[[鳥取市]]福部町(旧[[福部村]])湯山地区一帯にあった。北は福部砂丘([[鳥取砂丘]]の東部。「湯山砂丘」とも)によって[[日本海]]と隔てられており、南には[[摩尼山 (鳥取県)|摩尼山]]の山裾が迫っている。浜湯山から西へ峠を越すと[[多鯰ヶ池]]がある。現在は[[二級河川]]の[[塩見川_(鳥取県)|塩見川]]の支流、江川の上流域にあたり、埋め立てによって海抜4m程度の低地になっている<ref name="角川_湯山"/><ref name="角川_江川"/>。 |
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湯山池一帯はかつては海とつながる入り江で、池畔にあたる地域からは縄文時代から奈良時代に至るまでの様々な遺跡が見つかっている。中世の記録では潟湖になっており、水産物の豊富な池だった。近世に埋め立てが始まったが、砂丘の影響で干拓は思うように進まず、完全に埋め立てられて水域が消滅したのは昭和30年代である<ref name="平凡_湯山"/>。 |
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==かつての湯山池== |
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[[ファイル:湯山付近800.jpg|thumb|350px|right|塩見川河口付近]] |
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===伝承に登場する水域=== |
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[[塩見川_(鳥取県)|塩見川]]の下流一帯は、かつて日本海とつながる入り江だった。伝承では、[[神功皇后]]が[[敦賀市|敦賀]]([[高志国]])から九州征伐(あるいは[[三韓征伐]])に向かうときにこの入り江に寄港したとされている<ref name="角川_湯山"/><ref name="角川_江川"/><ref name="角川_福部村"/>。 |
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この入り江は、やがて福部砂丘([[鳥取砂丘]]の東部)の発達によって海と切り離され、[[潟湖]]となっていった。『[[因幡志]]』では海との接続部には水門があったとされている<ref name="角川_江川"/>。潟湖は西側の「上池」と東側の「下池」という2つの水域に分かれており、上池と下池は小さな川で繋がっていた。江戸時代には、上池を'''湯山池'''、下池を'''細川池'''と呼ぶようになっていた<ref name="平凡_細川"/><ref name="角川_湯山"/><ref name="角川_福部村"/>。「湯山」という地名は、かつてこの辺りに温泉があったことによるとされている<ref name="大日本_湯山池"/>。 |
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===周辺の遺跡=== |
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このあたりには数多くの遺跡が確認されており、湯山池の北畔からは'''直浪遺跡'''(すくなみいせき)という[[縄文時代]]から[[奈良時代]]にかけての居住跡が確認された。初めて確認されたのは1946(昭和21)年の干拓工事の際で、1990(平成2)年までに数回の発掘調査が行われた。遺跡からは石器、土器、木器が出土していて、特に縄文中期の土器の形式は山陽方面や丹後方面との繋がりを示唆するものである。確認された住居跡は[[古墳時代]]中期のものだが、出土遺物から縄文期にも定住地だったと推測されている<ref name="鳥県庁_砂丘の歴史"/><ref name="平凡_直浪"/><ref name="湖池"/>。 |
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湯山池の南岸では、「大谷山」と呼ばれる尾根の先端部にある湯山神社の脇から古墳('''湯山6号墳''')が検出されている。これは[[国道9号]]の工事で確認されたもので、調査時には既に損壊しており正確な形状などは不明だが、直径13メートルあまりの円墳で、遺物から5世紀前半のものと推測されている。石棺や遺物出土しており、なかでも武具一揃えとして見つかった鉄製冑は、[[ヒイラギ|柊]]葉形の切り込みのある特殊な小札を用いたもので、古墳時代の高度な技術を伝える貴重な考古資料とみなされている。この鉄兜は「小札鋲留眉庇付冑」として鳥取県の保護文化財に指定されている。古墳の位置には[[鳥取バイパス]]([[国道9号]])の[[福部インターチェンジ]]が設けられており古墳は現存しない<ref name="平凡_直浪"/><ref name="鉄兜"/><ref name="市兜"/><ref name="大百科_湯山墳"/>。 |
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「下池」にあたる細川池の方面では、東岸の栗谷で'''栗谷遺跡'''が確認されている。この遺跡は縄文時代前期から[[弥生時代]]にかけての住居跡と古墳時代の祭祀跡を伴う大規模なもので、1961(昭和36)年に確認されると、山陰地方の重要な遺跡の一つとみなされるようになった。とくに1000点を超す土器・木器や編物が出土しており、縄文時代の自然遺物が良好な状態で検出されたものとして貴重である。これらの出土品のうち、木製杓子5点を含む土器、石器、編物製品等の一括遺物が「'''鳥取県栗谷遺跡出土品'''」の名称で国の[[重要文化財]]に指定されている<ref name="PREF-TT-栗谷遺跡"/><ref name="角川_栗谷"/><ref name="平凡_栗谷"/><ref name="大百科_栗谷遺跡"/>。 |
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このほか、[[立岩山 (鳥取県)|立岩山]]山麓の坂谷神社(坂谷権現祠)には未解読の文字が遺されており、「謎の古代文字」とされている<ref name="大百科_立岩山"/><ref name="大日本_栗谷"/>。([[豊国文字]]も参照。) |
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===湯山池岸を通る古道=== |
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[[ファイル:古山陰道の2ルート.jpg|thumb|right|200px|古代の山陰道ルートの2説]] |
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[[ファイル:湯山付近II800.jpg|thumb|350px|right|江戸時代の但馬往来の3ルート]] |
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[[山陰道]]は古代([[飛鳥時代]])に成立した[[五畿七道]]のひとつである。山陰道は[[畿内]]から[[但馬国]]([[兵庫県]]北部)を経由して[[因幡国]](鳥取県東部)に入り、さらに西の[[伯耆国]]、[[出雲国]]へと続いていた。しかしその古い経路は山間部を中心に不詳な部分が多く、特に因幡国東部では明らかになっていない<ref name="因伯交通_山陰道"/><ref name="岩美町誌_巨濃路"/>。 |
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但馬国から[[蒲生峠]]を越えて因幡国に入ったのち、因幡国の[[国庁]]へ至る経路にはおおまかに2つの説がある。一つは蒲生峠から[[十王峠 (鳥取県)|十王峠]]を越えて[[袋川]]上流にぬけ、袋川沿いに[[国府町 (鳥取県)|国府]]を目指すルートで、概ねいまの[[鳥取県道31号鳥取国府岩美線|県道31号]]に相当する。もう一つは蒲生峠から[[蒲生川 (鳥取県)|蒲生川]]にそって下り、[[駟馳山|駟馳山峠]]を越え、塩見川支流の箭渓川に沿って国府を目指すルートである。これはおおよそ現在の[[国道9号]]および[[鳥取県道43号鳥取福部線|県道43号]]にあたる<ref name="因伯交通_山陰道"/><ref name="角川_十王峠"/>。 |
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後者の節では、古道が湯山池・細川池の池畔を通っており、細川地区が「佐尉」駅にあたると推定されている<ref name="平凡_福部村"/>。 |
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江戸時代になると因幡国は[[鳥取藩]]の支配地となった。[[鳥取城]]から但馬国へ向かう街道として'''但馬往来'''が整備されるようになり、これが湯山を経由していた。但馬往来の本筋は「'''中道通り'''」と呼ばれており、鳥取城から砂丘地をぬけて多鯰ヶ池北岸を通り、浜湯山から湯山池の北岸に沿って細川へ通じていた。脇道として「'''山道通り'''」があり、摩尼寺を経由して峠越えにより山湯山におり、湯山池の南岸を伝って細川へ至る道だった。このほか海岸沿いを行く「'''灘通り'''」もあった。中通りや灘通りは砂丘を通るが、すぐに道が砂に埋もれてしまうため、道中に案内標識が整備されていた<ref name="平凡_福部村"/><ref name="平凡_湯山"/><ref name="平凡_但馬往来"/>。 |
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中道通りは、[[鳥取バイパス]]が開通する前の[[国道9号]]におおむね相当する。現在はバイパスが開通し、中道通りが[[鳥取県道265号湯山鳥取線|県道265号]]、灘通りが[[鳥取県道319号鳥取砂丘細川線|県道319号]]におおよそ相当するほか、山道通りの一部が[[鳥取県道224号一本松覚寺線|県道224号]]に相当している。 |
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===江戸時代の湯山池=== |
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江戸中期の1795([[寛政]]7)年に著された『[[因幡志]]』によれば、湯山池は周囲が50町(約5.5km)の池だった。ただしこれに先だって[[享保]]年間(1716-1736年)から既に湯山池や細川池の干拓が始まっている<ref name="大日本_湯山池"/><ref name="平凡_湯山"/>。 |
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湯山池では淡水漁業が行われていた。主な漁獲物は[[コイ|鯉]]、[[フナ|鮒]]、[[ウナギ|鰻]]、<!--「𩵥」(魚偏に犬)、-->[[ナマズ目|鱺]](オオナマズ)や小エビなどの魚介類のほか、[[ヒシ]]なども産物になった。なかでも名物は晩春の小エビを塩煮にした「'''湯山エビ'''」で、鳥取城下で売られていた<ref name="平凡_湯山"/>。 |
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== 干拓の歴史 == |
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江戸時代中期から、細川池(下池)と湯山池(上池)の干拓が始まった。江川、箭渓川、塩見川が集まるこの水域は勾配が極端に小さく、海水が逆流するほどだった<ref group="注">「塩見川」の名は満潮のときに海水が逆流することに由来するという説がある。</ref>。そのうえ冬になると偏西風に押し戻された砂によって河口が閉塞しやすく、洪水が絶えない地域だった<ref name="平凡_細川"/><ref name="平凡_湯山"/><ref name="角川_塩見川"/>。 |
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===初期の干拓事業=== |
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[[享保]]年間(1716-1736年)から[[鳥取藩]]の指導のもとで両池の干拓が始められた。指導者の一人に、鳥取各地で潟湖の干拓を行った和田徳兵衛(和田得中)がいる。事業の中心になったのは細川池で、[[寛政]]年間(1789-1801年)には細川池は一通り埋め立てが終わった。湯山池のまわりでも干拓が行われたが、前述のとおり、湯山池は周囲5kmほどの水域として残っていた。しかし、ひとまず干拓事業は完成したものの、これらの新田はすぐに水没してしまった。砂丘からの飛砂によって水路が埋まってしまい、排水不良となるためであるこのため数年毎に排水路を改修する必要があり、これは費用と労力の両面で住民に大きな負担となった。例を挙げると、1818([[文政]]元)年の細川池の水路改修では、延べ8000人以上が駆りだされている<ref name="平凡_細川"/><ref name="平凡_湯山"/>。 |
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翌1819(文政2)年には鳥取の[[興禅寺 (鳥取市)|興禅寺]]が開発資金を出資して、湯山池と細川池共同の水路改修が行われた。この工事では、いまの塩見川の下流にあたる河口付近が堀り割られ、湯山池の水を一気に抜いて水路の砂を押し流す手法がとられた。これによって25[[町歩]](約25[[ヘクタール]])の新田が生まれたが、約20年でこれらも再び水没した<ref name="平凡_湯山"/>。 |
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とりわけ湯山池の方面では砂丘からの飛砂の影響が大きかった。飛砂は水路や田畑ばかりでなく、山林や家屋までも飲み込むほどの勢いがあり、住民はその対策だけで疲弊し、村は貧困のままだった<ref name="平凡_湯山"/><ref name="大百科_宿院"/>。 |
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===安政の干拓事業=== |
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その頃起きた[[天保の大飢饉]](鳥取では「[[申年がしん]]」と呼ばれる)によって、1830年代から1840年代の[[鳥取藩]]でも大きな被害を出した。このため鳥取藩では湯山池の干拓事業に乗り出すことになった<ref name="平凡_湯山"/>。 |
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この半官半民の事業に取り組んだのが安藤仁平(あんどうにへい、1825-1876)や宿院六平太('''宿院義般'''、しゅくいんぎはん、1831-1891)である。義般は浜湯山の[[庄屋]]の出で、1845([[弘化]]2)年から鳥取藩の書記に仕えていた。義般は水路が埋まる原因である飛砂そのものを止める必要があると考え、庄屋である父を説き伏せて |
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出資させ、砂丘地への植林を行って砂防林とする取り組みを1857([[安政]]4年)にはじめた<ref name="鳥県庁_DB安藤"/><ref name="鳥県庁_DB宿院"/><ref name="大百科_宿院"/><ref name="平凡_湯山"/><ref name="湖池"/>。 |
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これと同時に干拓をすすめる工事も企てられた。これに利用されたのが湯山池の西にあった[[多鯰ヶ池]]である。当時、峠によって隔てられている湯山池と多鯰ヶ池は水位が同じであると考えられていた。義般は自ら「宿院式測量機」を考案、これによって離れた場所にある両池の測量を行い、多鯰ヶ池のほうが湯山池よりも5[[丈]]7[[寸]]7[[分 (数)|分]](約15m38cm)、水面が高いことを発見した<ref name="鳥大_多鯰ヶ池"/><ref name="鳥県庁_DB宿院"/><ref name="大百科_宿院"/>。 |
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義般は、峠を穿つトンネルを堀って多鯰ヶ池と湯山池を繋ぐ水路を造り、落差を利用した多鯰ヶ池からの水流で砂を押し流し、湯山池を砂で埋め立てて干拓するプランをたてた。トンネルは多鯰ヶ池の水面下3.6mの水準で、幅・高さともに1[[間]](約1.8m)、全長212[[間]](約385m {{refnest|group="注"|『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』では「212間(約400m)<ref name="角川_湯山"/>」、『鳥取県の地名([[日本歴史地名大系]])』では「212間<ref name="平凡_湯山"/>」、「野外学習ハンドブック」では「382m<ref name="鳥大_多鯰ヶ池"/>」などとなっている。ここでは「212間」をもとに1間=1.818mとして計算し、1.818m×212間=385.416≒385mとした。(1間を1.8mとすると、1.8×212間=381.6m≒382mとなる。)}})という設計になっていて、このトンネルを含めて全長約1200mの暗渠水路が造営されることになった<ref name="大百科_宿院"/><ref name="平凡_湯山"/><ref name="鳥大_多鯰ヶ池"/>。 |
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義般らはトンネル工事のため、[[但馬国]]の[[生野銀山]]へ行って坑夫を雇い入れた。工事は[[1859年]]([[安政]]6年)に始まり、トンネルは1年あまりをかけて完成した。その後も工事が続けられ、1862([[文久]]2)年には水路の総延長が1600間あまり(約2.9km)に及んだ。当初の目論見では40町歩(約40ha)の新田が得られるはずだったが、この時点で完成したのは約半分の20町歩(約20ha)だった。一連の工事の総工費は2200両あまりにもなった<ref name="角川_湯山"/><ref name="平凡_湯山"/><ref name="大百科_宿院"/>。 |
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===明治の干拓事業=== |
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しかし、こうして完成した新田もまもなく地盤沈下が始まって再び沼沢地へと戻っていった。宿院義般らによる埋立事業は[[明治時代]]に入っても続けられ、1870(明治3)年から1871(明治4)年にかけて総面積50町歩(約50ha)の田地が作られた。これらの新田まわりには「御上新田」や「流し」といった地名が遺されている。義般は砂丘地への植林も続けながら、[[殖産興業]]の施策として砂丘地での[[クワ|桑]]の栽培と[[養蚕業|養蚕事業]]を興した<ref name="平凡_湯山"/><ref name="大百科_宿院"/>。 |
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義般やその下で干拓事業に関わった浜湯山の村民たちは測量技術・土木技術の実績をかわれ、技師として明治新政府に雇い入れられた。1874(明治7)年からは全国をまわり、[[但馬国|但馬]]、[[越前国|越前]]、[[近江国|近江]]、[[琉球王国|琉球]]などの測量を手がけた。晩年の義般は官営事業のため[[北海道]]に渡って開拓の指揮を行うとともに、事業を興した。1891(明治24)年に北海道から鳥取へ帰郷する途中に、山形で病死した<ref name="鳥県庁_DB宿院"/><ref name="大百科_宿院"/>。 |
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1871年の干拓事業では50haが埋め立てられたことになっており、これは湯山池のほぼ全域に相当する。しかし実際にはその後も干拓地の水没が繰り返された。明治時代から大正時代にかけての旧[[陸地測量部]]による地図・「細川」では、もともとの面積の約4分の1ほどの水域として湯山池の姿が描かれている<ref name="平凡_湯山"/><ref name="地図1900"/><ref name="地図1915"/>。 |
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===池の消滅=== |
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干拓はその後も繰り返され、1925([[大正]]14)年から1926(大正5)年、1932([[昭和]]7)年、1952(昭和27)年にも行われた。[[太平洋戦争]]後にアメリカ軍が撮影した航空写真には湯山池の様子が残されている。池は1957(昭和32)年から1958(昭和33)年にかけての干拓事業で完全に姿を消した<ref name="平凡_湯山"/>。 |
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義般が築いた多鯰ヶ池からの水路はいまも[[灌漑]][[用水路]]として使われており、これが多鯰ヶ池から流出する唯一の水流となっている<ref name="湖池"/>。 |
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{| style="background-color:rgba( 180, 200, 190, 0.25 )" |
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|+昭和期の湯山池周辺の変遷 |
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|[[ファイル:湯山池1947USA.jpg|thumb|350px]]||[[ファイル:湯山池1948USA.jpg|thumb|right|350px]]||[[ファイル:湯山池1952USA.jpg|thumb|329px]] |
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|-style="font-size:0.8em;color:#2d3a49;text-align:center;" |
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|米軍による湯山地区の空中写真(1947年11月撮影)。<br>赤枠は1909年時点での湯山池の範囲。||1948年10月撮影||1952年11月撮影 |
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|- |
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|[[ファイル:湯山池1961.jpg|thumb|350px]]||[[ファイル:湯山池2013.jpg|thumb|260px]] |
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|-style="font-size:0.8em;color:#2d3a49;text-align:center;" |
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|1961年2月撮影||2013年9月撮影 |
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|} |
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==脚注== |
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===注釈=== |
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{{Reflist|group=注}} |
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===出典=== |
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{{Reflist|colwidth=30em |
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|refs= |
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<!--遺跡関連--> |
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*<ref name="鉄兜">[[鳥取県|鳥取県庁]] 教育委員会事務局 文化財課 文化財係 とっとり文化財ナビ[http://db.pref.tottori.jp/bunkazainavi.nsf/bunkazai_web_view/2622619094B32FDC4925796F0007FDCC?OpenDocument 「小札鋲留眉庇付冑」]2015年11月14日閲覧。</ref> |
|||
*<ref name="市兜">[[鳥取市|鳥取市役所]] {{PDFlink|[http://www.city.tottori.lg.jp/www/contents/1217546996210/activesqr/common/other/4ed72c0b007.pdf 「小札鋲留眉庇付冑」]}}2015年11月14日閲覧。</ref> |
|||
*<ref name="PREF-TT-栗谷遺跡">[[鳥取県庁|鳥取県]] 教育委員会事務局 文化財課 文化財係 とっとり文化財ナビ[http://db.pref.tottori.jp/bunkazainavi.nsf/bunkazai_web_view/6EE2C97065EA48234925796F0007FC77?OpenDocument 「鳥取県栗谷遺跡出土品」]2015年10月7日閲覧。</ref> |
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<!--古道関連 --> |
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*<ref name="因伯交通_山陰道">『古代中世因伯の交通』p11-44</ref> |
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*<ref name="岩美町誌_巨濃路">『岩美町誌』p116-121</ref> |
|||
*<ref name="角川_十王峠">『日本地名大辞典 31 鳥取県([[角川日本地名大辞典]])』p409-410「十王峠」「十王川」</ref> |
|||
<!--多鯰ヶ池関連--> |
|||
*<ref name="鳥大_多鯰ヶ池">[[鳥取大学]] 教師のための山陰海岸ジオパーク 野外学習ハンドブック [http://www.rs.tottori-u.ac.jp/geopark-handbook/d6.html 多鯰ヶ池(たねがいけ)],星見清晴・著,2015年11月13日閲覧。</ref> |
|||
*<ref name="鳥県庁_砂丘の歴史">[[鳥取県|鳥取県庁]] 生活環境部 砂丘事務所 鳥取砂丘再生会議事務局 [http://www.tottorisakyusaisei.jp/index.php?view=4752 鳥取砂丘の歴史]2015年11月13日閲覧。</ref> |
|||
*<ref name="鳥県庁_DB宿院">[[鳥取県|鳥取県庁]] 鳥取県郷土人物文献データベース[http://db.pref.tottori.jp/HomePerson.nsf/DataPersonView/06F840E6587AA5B64925700000120B4A?OpenDocument 宿院義般]</ref> |
|||
*<ref name="鳥県庁_DB安藤">[[鳥取県|鳥取県庁]] 鳥取県郷土人物文献データベース[http://db.pref.tottori.jp/HomePerson.nsf/6543afeb38ae969749256e2000360790/6bce804baecedbd24925700000118103?OpenDocument 安藤仁平]</ref> |
|||
<!--GSI--> |
|||
*<ref name="地図1900">国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス 大日本帝國陸地測量部 2万正式図「細川」[http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1440057&isDetail=false]2015年11月13日閲覧。</ref> |
|||
*<ref name="地図1915">国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス 大日本帝國陸地測量部 2万正式図「細川」[http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1440058&isDetail=false]2015年11月13日閲覧。</ref> |
|||
<!--文献--> |
|||
*<ref name="大日本_湯山池">『増補 [[大日本地名辞書]]』第三巻 中国・四国,p297「湯山池」</ref> |
|||
*<ref name="大日本_栗谷">『増補 [[大日本地名辞書]]』第三巻 中国・四国、p297「栗谷」</ref> |
|||
*<ref name="湖池">『因伯の湖と池 -流転する水のロマンと歴史-』,p15-20</ref> |
|||
<!--大百科--> |
|||
*<ref name="大百科_栗谷遺跡">『鳥取県大百科事典』p271「栗谷遺跡」</ref> |
|||
*<ref name="大百科_宿院">『鳥取県大百科事典』p422「宿院義般」</ref> |
|||
*<ref name="大百科_立岩山">『鳥取県大百科事典』p554「立岩山」</ref> |
|||
*<ref name="大百科_湯山墳">『鳥取県大百科事典』p982「湯山六号墳」</ref> |
|||
<!--角川--> |
|||
*<ref name="角川_湯山">『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』p811-812「湯山」「湯山池」</ref> |
|||
*<ref name="角川_塩見川">『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』p380「塩見」「塩見川」</ref> |
|||
*<ref name="角川_江川">『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』p146「江川」</ref> |
|||
*<ref name="角川_福部村">『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』p933-937「福部村」</ref> |
|||
*<ref name="角川_栗谷">『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』p312-313「栗谷」</ref> |
|||
<!--平凡--> |
|||
*<ref name="平凡_但馬往来">『鳥取県の地名([[日本歴史地名大系]])』p41「但馬往来」</ref> |
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===参考文献=== |
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*『増補 [[大日本地名辞書]]』第三巻 中国・四国,[[吉田東伍]]・著,[[冨山房]],1900,1970 |
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*『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』,角川書店,1982,ISBN 978-4040013107 |
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*『鳥取県大百科事典』,新日本海新聞社鳥取県大百科事典編纂委員会・編,新日本海新聞社,1984 |
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*『とっとり土地改良史』,「とっとり土地改良史」編集委員会,水土里ネットとっとり(鳥取県鳥改良事業団体連合会)・刊,2004 |
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*『鳥取県の地名([[日本歴史地名大系]])』,[[平凡社]],1992 |
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*鳥取県史ブックレット12『古代中世因伯の交通』,錦織勤・著,鳥取県立公文書館 県史編さん室・編,鳥取県・刊,2013 |
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*『岩美町誌』,岩美町誌刊行委員会,1968 |
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*『因伯の湖と池 -流転する水のロマンと歴史-』,山田一仁,たたら書房,2000,ISBN 9784803600957 |
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*鳥取県歴史の道調査報告書第9集『歴史の道調査報告書 法美往来 鹿野往来』,鳥取県教育委員会,1991 |
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==関連項目== |
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*[[多鯰ヶ池]] |
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[[Category:日本の池]] |
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[[Category:現存しない湖]] |
2015年11月27日 (金) 08:49時点における版
湯山池 | |
---|---|
所在地 | 鳥取県旧福部村(存在していた当時の所在) |
位置 | |
成因 | 潟湖 |
プロジェクト 地形 |
湯山池(ゆやまいけ)は鳥取県にあった池である。江戸時代から昭和にかけて干拓が行われて農地となり、池としては現存しない。
概要
湯山池は現在の鳥取市福部町(旧福部村)湯山地区一帯にあった。北は福部砂丘(鳥取砂丘の東部。「湯山砂丘」とも)によって日本海と隔てられており、南には摩尼山の山裾が迫っている。浜湯山から西へ峠を越すと多鯰ヶ池がある。現在は二級河川の塩見川の支流、江川の上流域にあたり、埋め立てによって海抜4m程度の低地になっている[1][2]。
湯山池一帯はかつては海とつながる入り江で、池畔にあたる地域からは縄文時代から奈良時代に至るまでの様々な遺跡が見つかっている。中世の記録では潟湖になっており、水産物の豊富な池だった。近世に埋め立てが始まったが、砂丘の影響で干拓は思うように進まず、完全に埋め立てられて水域が消滅したのは昭和30年代である[3]。
かつての湯山池
伝承に登場する水域
塩見川の下流一帯は、かつて日本海とつながる入り江だった。伝承では、神功皇后が敦賀(高志国)から九州征伐(あるいは三韓征伐)に向かうときにこの入り江に寄港したとされている[1][2][4]。
この入り江は、やがて福部砂丘(鳥取砂丘の東部)の発達によって海と切り離され、潟湖となっていった。『因幡志』では海との接続部には水門があったとされている[2]。潟湖は西側の「上池」と東側の「下池」という2つの水域に分かれており、上池と下池は小さな川で繋がっていた。江戸時代には、上池を湯山池、下池を細川池と呼ぶようになっていた[5][1][4]。「湯山」という地名は、かつてこの辺りに温泉があったことによるとされている[6]。
周辺の遺跡
このあたりには数多くの遺跡が確認されており、湯山池の北畔からは直浪遺跡(すくなみいせき)という縄文時代から奈良時代にかけての居住跡が確認された。初めて確認されたのは1946(昭和21)年の干拓工事の際で、1990(平成2)年までに数回の発掘調査が行われた。遺跡からは石器、土器、木器が出土していて、特に縄文中期の土器の形式は山陽方面や丹後方面との繋がりを示唆するものである。確認された住居跡は古墳時代中期のものだが、出土遺物から縄文期にも定住地だったと推測されている[7][8][9]。
湯山池の南岸では、「大谷山」と呼ばれる尾根の先端部にある湯山神社の脇から古墳(湯山6号墳)が検出されている。これは国道9号の工事で確認されたもので、調査時には既に損壊しており正確な形状などは不明だが、直径13メートルあまりの円墳で、遺物から5世紀前半のものと推測されている。石棺や遺物出土しており、なかでも武具一揃えとして見つかった鉄製冑は、柊葉形の切り込みのある特殊な小札を用いたもので、古墳時代の高度な技術を伝える貴重な考古資料とみなされている。この鉄兜は「小札鋲留眉庇付冑」として鳥取県の保護文化財に指定されている。古墳の位置には鳥取バイパス(国道9号)の福部インターチェンジが設けられており古墳は現存しない[8][10][11][12]。
「下池」にあたる細川池の方面では、東岸の栗谷で栗谷遺跡が確認されている。この遺跡は縄文時代前期から弥生時代にかけての住居跡と古墳時代の祭祀跡を伴う大規模なもので、1961(昭和36)年に確認されると、山陰地方の重要な遺跡の一つとみなされるようになった。とくに1000点を超す土器・木器や編物が出土しており、縄文時代の自然遺物が良好な状態で検出されたものとして貴重である。これらの出土品のうち、木製杓子5点を含む土器、石器、編物製品等の一括遺物が「鳥取県栗谷遺跡出土品」の名称で国の重要文化財に指定されている[13][14][15][16]。
このほか、立岩山山麓の坂谷神社(坂谷権現祠)には未解読の文字が遺されており、「謎の古代文字」とされている[17][18]。(豊国文字も参照。)
湯山池岸を通る古道
山陰道は古代(飛鳥時代)に成立した五畿七道のひとつである。山陰道は畿内から但馬国(兵庫県北部)を経由して因幡国(鳥取県東部)に入り、さらに西の伯耆国、出雲国へと続いていた。しかしその古い経路は山間部を中心に不詳な部分が多く、特に因幡国東部では明らかになっていない[19][20]。
但馬国から蒲生峠を越えて因幡国に入ったのち、因幡国の国庁へ至る経路にはおおまかに2つの説がある。一つは蒲生峠から十王峠を越えて袋川上流にぬけ、袋川沿いに国府を目指すルートで、概ねいまの県道31号に相当する。もう一つは蒲生峠から蒲生川にそって下り、駟馳山峠を越え、塩見川支流の箭渓川に沿って国府を目指すルートである。これはおおよそ現在の国道9号および県道43号にあたる[19][21]。
後者の節では、古道が湯山池・細川池の池畔を通っており、細川地区が「佐尉」駅にあたると推定されている[22]。
江戸時代になると因幡国は鳥取藩の支配地となった。鳥取城から但馬国へ向かう街道として但馬往来が整備されるようになり、これが湯山を経由していた。但馬往来の本筋は「中道通り」と呼ばれており、鳥取城から砂丘地をぬけて多鯰ヶ池北岸を通り、浜湯山から湯山池の北岸に沿って細川へ通じていた。脇道として「山道通り」があり、摩尼寺を経由して峠越えにより山湯山におり、湯山池の南岸を伝って細川へ至る道だった。このほか海岸沿いを行く「灘通り」もあった。中通りや灘通りは砂丘を通るが、すぐに道が砂に埋もれてしまうため、道中に案内標識が整備されていた[22][3][23]。
中道通りは、鳥取バイパスが開通する前の国道9号におおむね相当する。現在はバイパスが開通し、中道通りが県道265号、灘通りが県道319号におおよそ相当するほか、山道通りの一部が県道224号に相当している。
江戸時代の湯山池
江戸中期の1795(寛政7)年に著された『因幡志』によれば、湯山池は周囲が50町(約5.5km)の池だった。ただしこれに先だって享保年間(1716-1736年)から既に湯山池や細川池の干拓が始まっている[6][3]。
湯山池では淡水漁業が行われていた。主な漁獲物は鯉、鮒、鰻、鱺(オオナマズ)や小エビなどの魚介類のほか、ヒシなども産物になった。なかでも名物は晩春の小エビを塩煮にした「湯山エビ」で、鳥取城下で売られていた[3]。
干拓の歴史
江戸時代中期から、細川池(下池)と湯山池(上池)の干拓が始まった。江川、箭渓川、塩見川が集まるこの水域は勾配が極端に小さく、海水が逆流するほどだった[注 1]。そのうえ冬になると偏西風に押し戻された砂によって河口が閉塞しやすく、洪水が絶えない地域だった[5][3][24]。
初期の干拓事業
享保年間(1716-1736年)から鳥取藩の指導のもとで両池の干拓が始められた。指導者の一人に、鳥取各地で潟湖の干拓を行った和田徳兵衛(和田得中)がいる。事業の中心になったのは細川池で、寛政年間(1789-1801年)には細川池は一通り埋め立てが終わった。湯山池のまわりでも干拓が行われたが、前述のとおり、湯山池は周囲5kmほどの水域として残っていた。しかし、ひとまず干拓事業は完成したものの、これらの新田はすぐに水没してしまった。砂丘からの飛砂によって水路が埋まってしまい、排水不良となるためであるこのため数年毎に排水路を改修する必要があり、これは費用と労力の両面で住民に大きな負担となった。例を挙げると、1818(文政元)年の細川池の水路改修では、延べ8000人以上が駆りだされている[5][3]。
翌1819(文政2)年には鳥取の興禅寺が開発資金を出資して、湯山池と細川池共同の水路改修が行われた。この工事では、いまの塩見川の下流にあたる河口付近が堀り割られ、湯山池の水を一気に抜いて水路の砂を押し流す手法がとられた。これによって25町歩(約25ヘクタール)の新田が生まれたが、約20年でこれらも再び水没した[3]。
とりわけ湯山池の方面では砂丘からの飛砂の影響が大きかった。飛砂は水路や田畑ばかりでなく、山林や家屋までも飲み込むほどの勢いがあり、住民はその対策だけで疲弊し、村は貧困のままだった[3][25]。
安政の干拓事業
その頃起きた天保の大飢饉(鳥取では「申年がしん」と呼ばれる)によって、1830年代から1840年代の鳥取藩でも大きな被害を出した。このため鳥取藩では湯山池の干拓事業に乗り出すことになった[3]。
この半官半民の事業に取り組んだのが安藤仁平(あんどうにへい、1825-1876)や宿院六平太(宿院義般、しゅくいんぎはん、1831-1891)である。義般は浜湯山の庄屋の出で、1845(弘化2)年から鳥取藩の書記に仕えていた。義般は水路が埋まる原因である飛砂そのものを止める必要があると考え、庄屋である父を説き伏せて 出資させ、砂丘地への植林を行って砂防林とする取り組みを1857(安政4年)にはじめた[26][27][25][3][9]。
これと同時に干拓をすすめる工事も企てられた。これに利用されたのが湯山池の西にあった多鯰ヶ池である。当時、峠によって隔てられている湯山池と多鯰ヶ池は水位が同じであると考えられていた。義般は自ら「宿院式測量機」を考案、これによって離れた場所にある両池の測量を行い、多鯰ヶ池のほうが湯山池よりも5丈7寸7分(約15m38cm)、水面が高いことを発見した[28][27][25]。
義般は、峠を穿つトンネルを堀って多鯰ヶ池と湯山池を繋ぐ水路を造り、落差を利用した多鯰ヶ池からの水流で砂を押し流し、湯山池を砂で埋め立てて干拓するプランをたてた。トンネルは多鯰ヶ池の水面下3.6mの水準で、幅・高さともに1間(約1.8m)、全長212間(約385m [注 2])という設計になっていて、このトンネルを含めて全長約1200mの暗渠水路が造営されることになった[25][3][28]。
義般らはトンネル工事のため、但馬国の生野銀山へ行って坑夫を雇い入れた。工事は1859年(安政6年)に始まり、トンネルは1年あまりをかけて完成した。その後も工事が続けられ、1862(文久2)年には水路の総延長が1600間あまり(約2.9km)に及んだ。当初の目論見では40町歩(約40ha)の新田が得られるはずだったが、この時点で完成したのは約半分の20町歩(約20ha)だった。一連の工事の総工費は2200両あまりにもなった[1][3][25]。
明治の干拓事業
しかし、こうして完成した新田もまもなく地盤沈下が始まって再び沼沢地へと戻っていった。宿院義般らによる埋立事業は明治時代に入っても続けられ、1870(明治3)年から1871(明治4)年にかけて総面積50町歩(約50ha)の田地が作られた。これらの新田まわりには「御上新田」や「流し」といった地名が遺されている。義般は砂丘地への植林も続けながら、殖産興業の施策として砂丘地での桑の栽培と養蚕事業を興した[3][25]。
義般やその下で干拓事業に関わった浜湯山の村民たちは測量技術・土木技術の実績をかわれ、技師として明治新政府に雇い入れられた。1874(明治7)年からは全国をまわり、但馬、越前、近江、琉球などの測量を手がけた。晩年の義般は官営事業のため北海道に渡って開拓の指揮を行うとともに、事業を興した。1891(明治24)年に北海道から鳥取へ帰郷する途中に、山形で病死した[27][25]。
1871年の干拓事業では50haが埋め立てられたことになっており、これは湯山池のほぼ全域に相当する。しかし実際にはその後も干拓地の水没が繰り返された。明治時代から大正時代にかけての旧陸地測量部による地図・「細川」では、もともとの面積の約4分の1ほどの水域として湯山池の姿が描かれている[3][29][30]。
池の消滅
干拓はその後も繰り返され、1925(大正14)年から1926(大正5)年、1932(昭和7)年、1952(昭和27)年にも行われた。太平洋戦争後にアメリカ軍が撮影した航空写真には湯山池の様子が残されている。池は1957(昭和32)年から1958(昭和33)年にかけての干拓事業で完全に姿を消した[3]。
義般が築いた多鯰ヶ池からの水路はいまも灌漑用水路として使われており、これが多鯰ヶ池から流出する唯一の水流となっている[9]。
米軍による湯山地区の空中写真(1947年11月撮影)。 赤枠は1909年時点での湯山池の範囲。 |
1948年10月撮影 | 1952年11月撮影 |
1961年2月撮影 | 2013年9月撮影 |
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e 『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』p811-812「湯山」「湯山池」
- ^ a b c 『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』p146「江川」
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』p103「湯山池」
- ^ a b 『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』p933-937「福部村」
- ^ a b c 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』p101「細川池」
- ^ a b 『増補 大日本地名辞書』第三巻 中国・四国,p297「湯山池」
- ^ 鳥取県庁 生活環境部 砂丘事務所 鳥取砂丘再生会議事務局 鳥取砂丘の歴史2015年11月13日閲覧。
- ^ a b 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』p103-104「直浪遺跡」「湯山六号墳」
- ^ a b c 『因伯の湖と池 -流転する水のロマンと歴史-』,p15-20
- ^ 鳥取県庁 教育委員会事務局 文化財課 文化財係 とっとり文化財ナビ「小札鋲留眉庇付冑」2015年11月14日閲覧。
- ^ 鳥取市役所 「小札鋲留眉庇付冑」 (PDF) 2015年11月14日閲覧。
- ^ 『鳥取県大百科事典』p982「湯山六号墳」
- ^ 鳥取県 教育委員会事務局 文化財課 文化財係 とっとり文化財ナビ「鳥取県栗谷遺跡出土品」2015年10月7日閲覧。
- ^ 『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』p312-313「栗谷」
- ^ 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』p105「栗谷村」「栗谷遺跡」
- ^ 『鳥取県大百科事典』p271「栗谷遺跡」
- ^ 『鳥取県大百科事典』p554「立岩山」
- ^ 『増補 大日本地名辞書』第三巻 中国・四国、p297「栗谷」
- ^ a b 『古代中世因伯の交通』p11-44
- ^ 『岩美町誌』p116-121
- ^ 『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』p409-410「十王峠」「十王川」
- ^ a b 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』p99-100「福部村」
- ^ 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』p41「但馬往来」
- ^ 『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』p380「塩見」「塩見川」
- ^ a b c d e f g 『鳥取県大百科事典』p422「宿院義般」
- ^ 鳥取県庁 鳥取県郷土人物文献データベース安藤仁平
- ^ a b c 鳥取県庁 鳥取県郷土人物文献データベース宿院義般
- ^ a b c 鳥取大学 教師のための山陰海岸ジオパーク 野外学習ハンドブック 多鯰ヶ池(たねがいけ),星見清晴・著,2015年11月13日閲覧。
- ^ 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス 大日本帝國陸地測量部 2万正式図「細川」[1]2015年11月13日閲覧。
- ^ 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス 大日本帝國陸地測量部 2万正式図「細川」[2]2015年11月13日閲覧。
参考文献
- 『増補 大日本地名辞書』第三巻 中国・四国,吉田東伍・著,冨山房,1900,1970
- 『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』,角川書店,1982,ISBN 978-4040013107
- 『鳥取県大百科事典』,新日本海新聞社鳥取県大百科事典編纂委員会・編,新日本海新聞社,1984
- 『とっとり土地改良史』,「とっとり土地改良史」編集委員会,水土里ネットとっとり(鳥取県鳥改良事業団体連合会)・刊,2004
- 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』,平凡社,1992
- 鳥取県史ブックレット12『古代中世因伯の交通』,錦織勤・著,鳥取県立公文書館 県史編さん室・編,鳥取県・刊,2013
- 『岩美町誌』,岩美町誌刊行委員会,1968
- 『因伯の湖と池 -流転する水のロマンと歴史-』,山田一仁,たたら書房,2000,ISBN 9784803600957
- 鳥取県歴史の道調査報告書第9集『歴史の道調査報告書 法美往来 鹿野往来』,鳥取県教育委員会,1991