「桂才賀 (7代目)」の版間の差分
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2016年6月8日 (水) 00:20時点における版
- 初代司馬才賀 - 後の江戸4代目桂文治。
- 2代目桂才賀 - 4代目文治の門下。
- 3代目桂才賀 - 後の5代目桂文楽、2代目の実子、文楽襲名後8代目桂文楽に文楽の名を譲り、桂やまとを名乗った後桂才賀に復名した。3代目春風亭柳枝の門下。
- 4代目桂才賀 - 後の8代目桂文治、6代目三笑亭可楽の門下。
- 5代目桂才賀 - 後の7代目三笑亭可楽、5代目柳亭左楽の門下。
- 6代目桂才賀 - 後の江戸初代紙切り林家正楽(いわゆる紙切りの正楽)、6代目林家正蔵門下。
- 7代目桂才賀 - 本項にて詳述。
7代目
7代目 桂 才賀 | |
本名 | 谷 富夫 |
---|---|
生年月日 | 1950年7月12日(74歳) |
出身地 | 日本・東京都大田区 |
師匠 | 9代目桂文治 3代目古今亭志ん朝 |
名跡 | 1. 桂文太(1972年 - 1978年) 2. 古今亭朝次(1978年 - 1985年) 3. 7代目桂才賀(1985年 - ) |
出囃子 | 野毛山 |
活動期間 | 1972年 - |
活動内容 | 古典落語 |
所属 | 落語協会 |
受賞歴 | |
国立劇場金賞(1988年) | |
7代目桂 才賀(かつら さいが、1950年(昭和25年)7月12日 - )は、東京都大田区出身の落語家。落語協会所属。本名は谷 富夫(たに とみお)。出囃子は「野毛山」。紋は「鬼蔦」。
9代目桂文治に入門を申し込んだところ、「入門したければ自衛隊に3年入隊なさい」と言われ、本当に海上自衛隊員になって3年の任期を勤め上げ再度門を叩いた。当時、文治は断り文句のつもりでこの発言をしており、完全に忘れていた。しかしその後、めでたく入門したというエピソードを持っている[1]。
古今亭朝次時代の1980年に『笑点』(日本テレビ)の大喜利メンバーとなり、才賀襲名後の1988年まで出演していた。
『笑点』卒業後、テレビ東京『生放送!おもしろ寄席』におけるハリセン大喜利(司会:みのもんた、つまらない答えを出すと5代目鈴々舎馬風扮するハリセン大魔王に叩かれる。罵倒合戦が多かった)のレギュラーだったことがある。
少年院などへの慰問活動の際の共通の話題づくりのためにと自動車やバイクのレースに興味を持ち、国内B級、国内A級のライセンス、公式審判員の資格も取得。富士スピードウェイでの「富士フレッシュマンレース」(のち「富士チャンピオンレース」)の審判員を務めたこともある。
滅多にお目にかかることの出来ない「篠原流踊り」は、自身が主任を勤める高座で披露されることがある。ちなみに、背中に背負っている子役は立川左談次である。
略歴
- 1969年3月 - 自由ヶ丘学園高校卒業後、9代目桂文治に入門申請したところ自衛隊入隊を条件に出され入隊(舞鶴101期)。
- 1972年3月 - 海上自衛隊3年任期満了後、再度申請し正式に文治入門。しかし文治は自衛隊入門の件を忘れていた。前座名は兄弟子・桂文七(後の10代目翁家さん馬)の前座名でもある「文太」を名乗る。
- 1977年3月 - 二つ目昇進。
- 1978年5月 - 師匠・文治の死去に伴い、3代目古今亭志ん朝門下となり「古今亭朝次」と改名。師匠が高座名を命名することがほとんどの落語界では珍しく、この名は自ら考えたものである。
- 1980年11月2日 - 10月5日に急死した4代目三遊亭小圓遊の後任として『笑点』の若手大喜利から大喜利メンバーとして参入。
- 1982年 - 映画『鬼龍院花子の生涯』に出演。
- 1985年9月 - 兄弟子・古今亭志ん輔と共に真打昇進し、7代目桂才賀襲名。昇進披露を『笑点』番組内で執り行う。
- 1988年
- 2008年8月 - 刑務所、少年院の25年にわたる慰問活動を綴った『刑務所通いはやめられねぇ』を出版。
弟子
笑点での朝次→才賀
『笑点』若手大喜利での活躍が認められて、1980年11月2日に大喜利メンバーに抜擢される。加入当時、4代目三遊亭小圓遊の急死(1980年10月5日)により欠員が出ていて補充するためであった。色紋付は林家九蔵(現:三遊亭好楽)が着ていたピンクの色紋付を着用することとなり、1988年3月27日の卒業まで通した(九蔵が水色の色紋付を引き継ぎ、才賀の勇退後はピンクに復し、同時に好楽が笑点に復帰した)。
歴代『笑点』メンバーで、加入当時二つ目であったのは才賀が最後である(小遊三以降は加入以前に真打昇進)。
三遊亭小圓遊の後を引き継ぎキザなキャラクターを踏襲した。1983年にメンバー入りした三遊亭小遊三とは自称色男の小遊三とキザな立ち回りの才賀で罵倒合戦が繰り広げられた。
慰問活動
全国の刑務所、拘置所、少年院への慰問活動を積極的に行っていることで有名である。もともとは、笑点メンバー時代の1983年に妻の実家のある沖縄県の沖縄少年院に慰問に行ったのが最初で、その後北海少年院、久里浜少年院と慰問に訪れるが、この3つの少年院の院長が偶然にも同一人物(人事異動で沖縄→北海道→久里浜と転勤していた)だったという縁もあり、久里浜少年院の慰問の際に篤志面接委員の委嘱を受けて承諾。以後、少年院はもちろん、少年院で関係を持った職員達が刑務所や拘置所に異動したこともありそちらへの慰問も行うようになっていく。
1993年には自らを隊長に芸人慰問団「統幕芸激隊」を結成(「統幕」は統合幕僚会議の略。「芸激」は芸で激励するの意。才賀が「慰問」では辛気臭いということで命名)。現在は副隊長の大田家元九郎、「甲板士官」の三遊亭歌武蔵ら総勢78名、大阪支部もできるほどになっている。
篤志面接委員ということもあり、慰問を通じて感じた家族や社会の抱える問題についての講演活動も行っている。
関連書籍
- 子供を叱れない大人たちへ(2003年11月発行/実務教育出版):著書 ISBN 4788907135
- 刑務所通いはやめられねぇ 〜笑わせて、泣かせる落語家慰問〜(2008年8月発行/亜紀書房):著書 ISBN 9784750508108
脚注
- ^ 元「笑点」メンバー・桂才賀、“受刑者を誰よりも笑わせてきた噺家”の半生に迫る - 2016年5月29日 日刊SPA!