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2016年6月8日 (水) 03:21時点における版
タイガー戸口 Tiger Toguchi | |
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プロフィール | |
リングネーム |
タイガー戸口 キム・ドク タイガー・チャン・リー ヤマト 青鬼 戸口正徳 |
本名 | 表正徳 |
ニックネーム | 野性の虎 |
身長 | 193cm |
体重 | 125kg(全盛時) |
誕生日 | 1948年2月7日(76歳) |
出身地 | 東京都葛飾区出身 |
所属 | フリー |
スポーツ歴 |
バスケットボール 柔道 |
トレーナー |
カール・ゴッチ ドリー・ファンク・ジュニア |
デビュー | 1968年 |
タイガー戸口(タイガーとぐち、1948年2月7日 - )は、東京都葛飾区出身のプロレスラー。キム・ドク、タイガー・チャン・リーのリングネームでも知られる。
在日韓国人2世で、本名は表 正徳(表 正德 / ピョ・ジョンドク / 표 정덕 / Pyo Jeongdeok)、日本名は母方の名字から戸口 正徳(とぐち まさのり)[1]。
来歴
修徳高等学校ではバスケットボールと柔道で活躍。1967年、大木金太郎の誘いにより日本プロレスに入門。同時期に柔道界からは坂口征二も入門していたことから、この入門に柔道関係者達が激怒し、戸口を奪い返しに会場まで押しかける一幕があった。そのため、特錬(トレーニング)と称して約半年間、韓国でほとぼりを冷ましていた。帰国後の1968年、柴田勝久戦でデビュー。当時若手向けに行なわれていたカール・ゴッチのレスリング教室で猛練習を積んでいた縁で1969年、アントニオ猪木の新技(卍固め)の名前を一般公募する際の実験台となった。
1972年、日本プロレス崩壊直前にアメリカ遠征に出発し、キム・ドク(Kim Duk)を名乗る。遠征中に日本プロレス崩壊を迎え、日本プロレス崩壊後はそのままアメリカに残り、ロサンゼルスを皮切りに、東洋系の大型ヒールとして各地の主要マーケットを転戦、1973年10月にはNWAトライステート地区でUSタッグ王座を獲得した[2]。1975年からはAWAに参戦し、10月25日にミルウォーキーにてバーン・ガニアのAWA世界ヘビー級王座に挑戦している[3]。1977年はNWAミッドアトランティック地区に登場[4]、グレート・マレンコをマネージャーに、ワフー・マクダニエルとの抗争やマスクド・スーパースターとのタッグなどで活躍した[5][6]。
1976年10月に一時帰国し、日本プロレス時代に付き人を務めていた大木金太郎と韓国師弟タッグを結成して全日本プロレスに参戦。10月28日の蔵前国技館大会にてジャイアント馬場&ジャンボ鶴田を破り、インターナショナル・タッグ王座を奪取する[7]。その後も日本では大木との師弟コンビで活動し、インターナショナル・タッグ王座には1977年11月7日にも韓国のソウルにて馬場&鶴田を下し再び戴冠[7]。国際プロレスにも揃って参戦した。また、体格や格闘技経験が拮抗していたことから「ジャンボ鶴田のライバル」と目され鶴田との抗争を展開、2度のUNヘビー級王座戦を含め、対戦成績はすべて引き分けである(なかでも1978年9月13日、愛知県体育館におけるUN戦は全日本初期の名勝負に数えられており、60分フルタイムの後に5分の延長戦が組まれ、それでも引き分けとなった)。
1979年、それまでのフリーから正式に全日本所属となり、馬場、鶴田に次ぐNo.3の地位を与えられる。ディック・マードックに移っていたUNヘビー級王座への挑戦や、ハーリー・レイスのNWA世界ヘビー級王座への挑戦、プリンス・トンガと両A面でテーマ曲のシングルレコードが発売されるなど、当時の馬場の扱いは天龍源一郎よりも格上であった。
1981年、IWGPへの参加を唱えて新日本プロレスへ移籍。これは両団体間の引き抜き合戦の中での一コマなのだが、後に本人は移籍の決め手として、「当時アメリカに家族がいて、全日に頼んだが飛行機のチケット代を出してくれなかった。しかし、新日は往復チケットを毎回用意するとのオファーがあったから」と述べている。また、「このまま全日にいても(全日生え抜きの)ジャンボの上に行けるわけでもないし」とも語っている。新日参戦後すぐに、IWGPアジア予選リーグ戦の名目で猪木とのシングルマッチが9月23日に田園コロシアムのメインイベントとして組まれるが、この試合前のセレモニーにラッシャー木村とアニマル浜口(後のはぐれ国際軍団)が登場してマイクアピールを行い、さらにはセミファイナルにてスタン・ハンセン対アンドレ・ザ・ジャイアントの歴史的名勝負も行われたなど、試合自体の印象が薄くなる不運に見舞われた。その後は日米を行き来し、1982年年末のMSGタッグリーグ戦ではキラー・カーンと組んで準優勝。
1983年3月3日、NWAセントラル・ステーツ地区でヤス藤井と組み、ボブ・ブラウン&バズ・タイラーを破って同地区のタッグタイトルを獲得[8]。同年夏からはタイガー・チャン・リー(Tiger Chung Lee)を名乗り、ミスター・フジのパートナーとしてWWFに参戦[9]。8月27日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンに初出場し、トニー・ガレアから勝利を収める[10]。ミル・マスカラスとのシングルマッチも組まれ、ティト・サンタナが保持していたインターコンチネンタル・ヘビー級王座にも度々挑戦した[11]。1984年1月にはフジとのタッグでハルク・ホーガン&ボブ・バックランドの新旧WWF王者コンビとも対戦している[12]。以降もWWFにはジョバーのポジションで1987年頃まで在籍した[13]。
その間、新日内では軍団抗争が繰り広げられており、キラー・カーンの絡みなどから維新軍団扱いを受けるが、ほとんど新日参戦がなかったため、実体はなかった。1984年のジャパンプロレス勢の新日離脱を受け、手薄となった日本人選手のヘルプの形で新日正規軍扱いとなった。しかし、親交があったとはいえ堂々とジャパンプロレス社長の大塚直樹を訪ねるなどの行動があったため、扱いは悪くなり、デビューしたてだったアノアロ・アティサノエ(小錦の兄)にシングルで敗退。そこで大塚の仕掛けでジャパンへの移籍→全日マット復帰を目論むが、馬場の反対で実現せず、しばらく日本を離れた。
1988年に公開されたアーノルド・シュワルツェネッガー主演映画『レッドブル』に出演。冒頭でシュワルツェネッガーのパンチを喰らいサウナの外に吹っ飛ばされるロシアン・マフィアの一員を演じた。
その後は、栗栖正伸とピラニア軍団を名乗ってキム・ドクとして新日本へ、プエルトリコ軍団としてW★INGプロモーションへ、青鬼なるマスクマンとしてWARへ参戦(パートナーの「赤鬼」はWWF時代の盟友ドン・ムラコ)。さらに石川孝志率いる新東京プロレスにも登場。この間、1993年にメキシコのUWAで覆面レスラーのヤマト(Yamato)に変身、同年8月にドス・カラスに敗れマスクを剥がされるが、翌1994年3月にはカネックを破りUWA世界ヘビー級王座を奪取した[14]。
1999年の馬場の死に際しては、全日本所属でないプロレスラーとしては一番早く弔問に訪れた。その縁あってか、2001年に前年選手の大量離脱に見舞われた全日本へ復帰するも長くは続かず、ミスター・ポーゴの興したWWSへの参戦を最後にセミリタイアし、以降はNPO団体に勤務している。
2009年10月12日の『蝶野正洋25周年特別興行 ARISTTRIST in 両国国技館』の時間差バトルロイヤルに参戦、全14選手が参加した乱戦であったがラスト4人まで勝ち残り往年の雄姿を見せた。
2010年3月14日にはDDTに出場、星誕期をパートナーに『タイガー戸口チャレンジ』と題した変則タッグマッチを行い、松永智充、高尾蒼馬、伊橋剛太の若手3選手に胸を貸した[15][16]。
近年は東京都内にて戸井克成、渡辺宏志らと共に若手選手の育成に携わり、レッド・タイガー、雷電、雅角らをデビューさせている。2011年5月6日には、新木場1stRINGにて行われた福祉と格闘技の交流イベント『バトルエイド』に出場、雷電をパートナーに戸井克成&レッド・タイガーと対戦した。
エピソード
- プロレス専門誌の名鑑等では、全日本プロレス離脱後も継続してライバル欄には必ず「ジャンボ鶴田」と記載されていた。
- 松永光弘がメキシコに遠征中に体調を崩し、言葉が通じないので病院にも行けず困り果てていた際、偶然現地で出会った戸口に状況を説明すると、医者の手配からプロモーターとの交渉まで代行してくれたという。
- アメリカ合衆国への永住権を保持しており、日本語、韓国語、英語、スペイン語と四か国語を話すことができる。特に英語は若手の頃から堪能で、日本プロレスで外人係を務めていたジョー樋口が負傷等でシリーズ帯同できなくなった際には臨時に外人係を務めていた。
- 若手時代、試合前のトレーニング中にジャイアント馬場から「いまいくつ(何歳)だ?」と聞かれ、戸口が22歳、一緒にトレーニングをしていたサムソン・クツワダが23歳と答えたところ、「そうか、俺は君らの歳の頃にはニューヨークにいたぞ」などと言われて強い衝撃を受け、一層トレーニングに励み、試合後には関係者に自分のファイト内容について聞いて回るようになった。
- 父親の表福昌は、竜錦の四股名で十両まで務めていた(戸口が4歳の時に引退)。力道山の先輩にあたり、戸口も小学校4年生の時に父親と一緒に力道山に会ったことがある[1]。中学卒業時も力道山にプロレス入りを打診しに行ったが、「友達の子供は預かれない」として断られたという[1]。
- タイガー戸口というリングネームはファン公募で選ばれたが、そのときに「ビッグマウス戸口」だの「たちつて戸口」などと書かれた葉書があったという。
得意技
- キウイ・ロール
- 膝を攻める関節技。上記、ジャンボ鶴田戦(1978年9月13日、愛知県体育館、UN戦)の1本目で鶴田からギブアップを奪った。
- ブレーンバスター
- ツームストーン・パイルドライバー
- かける前に相手を右肩に担ぐことや、かけた後にフォールに入り、レフェリーの1・2・3のカウントの声と同時に自分でそのカウントの数字を指で作り観客にアピールするのが特徴。
- かんぬきスープレックス
- ニー・ドロップ
- ショルダーバスター(肩砕き)
- 全日本プロレス時代に決め技として多用。
獲得タイトル
- インターナショナル・タッグ王座:2回(w / 大木金太郎) [7]
- NWA USタッグ王座(トライステート版):1回(w / スタン・コワルスキー) [2]
- WWCカリビアン・ヘビー級王座:2回 [17]
- UWA世界ヘビー級王座:1回 [14]
入場テーマ曲
- スリーパー・ホールド(作曲:難波弘之、演奏:ヘッド・ロックス)
脚注
- ^ a b c 『Gスピリッツ Vol.20』P98(2011年、辰巳出版、ISBN 4777809218)
- ^ a b “NWA United States Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月27日閲覧。
- ^ “The Records of AWA World Heavyweight Championship Matches 1975”. Wrestling-Titles.com. 2011年7月7日閲覧。
- ^ “The WCW matches fought by Kim Duk in 1977”. Wrestlingdata.com. 2016年1月8日閲覧。
- ^ “Wahoo McDaniel Match Results”. Mid-Atlantic Wrestling Gateway. 2011年7月7日閲覧。
- ^ “Bill Eadie Interview Part Three”. Mid-Atlantic Wrestling Gateway. 2009年3月14日閲覧。
- ^ a b c “NWA International Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月27日閲覧。
- ^ a b “NWA Central States Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月27日閲覧。
- ^ “The WWE matches fought by Kim Duk in 1983”. Wrestlingdata.com. 2016年1月8日閲覧。
- ^ “Madison Square Garden - The 80s”. The History of WWE. 2016年1月8日閲覧。
- ^ 『Gスピリッツ Vol.21』P72(2011年、辰巳出版、ISBN 4777809463)
- ^ “WWE Yearly Results 1984”. The History of WWE. 2009年8月25日閲覧。
- ^ “The WWE matches fought by Kim Duk in 1987”. Wrestlingdata.com. 2016年1月8日閲覧。
- ^ a b “UWA World Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月27日閲覧。
- ^ “タイガー戸口チャレンジ開催”. DDT Pro-Wrestling Official Website. 2010年2月19日閲覧。
- ^ “Judgement 2010 ~DDT13周年記念興行~”. DDT Pro-Wrestling Official Website. 2010年3月15日閲覧。
- ^ “WWC Caribbean Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月27日閲覧。