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2016年6月8日 (水) 04:25時点における版
広津 和郎 (ひろつ かずお) | |
---|---|
誕生 |
1891年12月5日 日本 東京府東京市牛込区矢来町 |
死没 |
1968年9月21日(76歳没) 日本 静岡県熱海市 |
墓地 | 日本・谷中霊園 |
職業 | 小説家・文芸評論家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 学士(文学) |
最終学歴 | 早稲田大学英文科 |
ジャンル | 小説・文芸評論 |
文学活動 | 私小説・奇蹟派 |
代表作 |
『神経病時代』(1917年) 『死児を抱いて』(1919年) 『風雨強かるべし』(1933年) 『松川事件と裁判』(ノンフィクション、1964年) |
主な受賞歴 |
野間文芸賞(1963年) 毎日出版文化賞(1963年) |
親族 |
父・広津柳浪(小説家) 長女・広津桃子(小説家・随筆家) |
ウィキポータル 文学 |
広津 和郎(廣津 和郎、ひろつ かずお、1891年(明治24年)12月5日 - 1968年(昭和43年)9月21日)は、日本の小説家、文芸評論家、翻訳家である。明治期に活動した硯友社の小説家・広津柳浪の子。
年譜
伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。 |
- 1891年(明治24年)
- 1898年(明治31年) 7歳
- 1900年(明治33年)9歳
- 東京牛込弁天町に転居、以後頻繁に東京市内を移転した。
- 1902年(明治35年)11歳
- 父・広津柳浪が再婚し継母・潔子を迎えた。
- 1904年(明治37年)13歳
- 1905年(明治38年)14歳
- 1907年(明治40年)16歳
- 正宗白鳥の『妖怪画』を読み小説に関心をもった。
- 1908年(明治41年)17歳
- 『微笑』が「万朝報」の懸賞小説に当選、賞金10円を得た。
- 1909年(明治42年)18歳
- 1910年(明治43年)19歳
- 1912年(明治45年/大正元年)21歳
- 1913年(大正2年)22歳
- 早稲田大学を卒業した。
- 一家の生活が窮乏し東京麻布霞町の借家から追い立てられ、麻布本村町に転居した。
- 徴兵検査で「第一乙種砲兵」と判定された。
- 生活費を稼ぐためにギ・ド・モーパッサンの『女の一生』を翻訳して植竹書院から出版した。
- 1914年(大正3年)23歳
- 1915年(大正4年)24歳
- 年上の下宿の娘・神山ふくと男女の関係となり煩悶した。
- 毎夕新聞を退社し、相馬泰三の紹介で植竹書院翻訳部に入社した。
- 宇野浩二とともに三保の松原に旅行しトルストイの『戦争と平和』を翻訳した。(翻訳終了で植竹書院退社)
- 父・広津柳浪の作品集の印税を届けに名古屋の父のもとへ行き、父を知多半島の師崎海岸に転地療養させた。
- 東京へ戻り、神山ふくと距離をおくために西片町の宇野浩二の家に同居、鍋井克之・沢田正二郎・渡瀬淳子・江口渙・永瀬義郎・広島晃甫らと交際した。
- 兄・俊夫が会社で使い込みをしたことが発覚、病身の父・広津柳浪が善後策を相談するために上京してきた。
- 神山ふくが妊娠したので東京池上の農家で出産させることにした。
- 父の療養費・娘の出産費などを賄うために茅原華山が主宰する雑誌『洪水以後』に入社し文芸時評を担当、文芸批評家として注目されるようになった(翌年、廃刊)。
- 神山ふくが長男・賢樹を出産した。
- 1916年(大正5年)25歳
- 1917年(大正6年)26歳
- 1918年(大正7年)27歳
- 1919年(大正8年)28歳
- 1921年(大正10年)30歳
- 1923年(大正12年)32歳
- 友人と出版社・芸術社を作り、『武者小路実篤全集』を出版するが失敗し借金を抱えた。
- 関東大震災で被災、鎌倉の父母を見舞った後、芸術社の集金のため大阪・京都・神戸に行った。
- 銀座のカフェ・ライオンの女給・松沢はまと知り合った。
- 1924年(大正13年)33歳
- 「散文芸術の位置」を雑誌『新潮』に発表、散文芸術は従来の美学では律し得ないものであることを主張した。
- 1925年(大正14年)34歳
- 1926年(大正15年・昭和元年)35歳
- 1927年(昭和2年)36歳
- 1928年(昭和3年)37歳
- 1929年(昭和4年)38歳
- 芸術社の債務償還や兄夫婦の生活費のために大森書房を設立した。
- 1930年(昭和5年)39歳
- 1933年(昭和8年)42歳
- 1934年(昭和9年)43歳
- 1935年(昭和10年)44歳
- 1936年(昭和11年)45歳
- 人民文庫講演会で「散文精神について」と題して講演し、暗黒な社会状況にめげず生きとおしていく精神が散文精神であると主張した。
- 1937年(昭和12年)46歳
- 「心臓の問題」「歴史を逆転させるもの」を雑誌『文芸春秋』に発表した。
- 長男・賢樹が腎臓結核となり手術を受けた。
- 1938年(昭和13年)47歳
- この頃、X子がしばしば服毒(睡眠薬カルモチンや砒素)自殺を計り、妻・はまが問題解決に尽力した。
- 継母・潔子が病弱となったため世田谷豪徳寺の家に戻った。
- 1939年(昭和14年)48歳
- 長男・賢樹、継母・潔子が病死した。
- 「国民にも言はせて欲しい」を雑誌『文芸春秋』に発表した。
- 1940年(昭和15年)49歳
- 1941年(昭和16年)50歳
- 1942年(昭和17年)51歳
- 1944年(昭和19年)53歳
- 世田谷豪徳寺の家を売り世田谷四丁目の家を買い転居した。
- 静岡県熱海市清水町に疎開した。
- 1945年(昭和20年)54歳
- 1946年(昭和21年)55歳
- 国立熱海病院で診察の結果膀胱癌ではなくバンビロームと判り手術を受けた。
- 1948年(昭和23年)57歳
- 熱海に転居してきた志賀直哉と再び親しく交際するようになった。
- 1949年(昭和24年)58歳
- 1950年(昭和25年)59歳
- 熱海の大火で清水町の家が焼失、下天神町の新居に移った。
- 1951年(昭和26年)60歳
- 1952年(昭和27年)61歳
- 東京本郷森川町の双葉館に仕事場をもち、熱海から通った。
- 1953年(昭和28年)62歳
- 1957年(昭和32年)66歳
- 東京文京区大塚のアパートに仕事場をもち、熱海から通った。
- 1958年(昭和33年)67歳
- 松川事件対策協議会の会長となった。
- 1959年(昭和34年)68歳
- 松川事件の最高裁判決で第二審判決は破棄され仙台高裁に差し戻しとなった。
- 1961年(昭和36年)70歳
- 1962年(昭和37年)71歳
- 妻・はまが死去した。
- 1963年(昭和38年)72歳
- 松川事件の最終判決がくだり、被告全員の無罪が確定した。
- 1968年(昭和43年)77歳
- 心臓発作をおこして熱海国立病院で死去した。
脚注
- ^ 祖父・広津藍渓は久留米有馬家に仕えた儒学者、父・弘信は長崎で医業を営む傍ら征韓論者として使節に参加したり外務省嘱託となった。
- ^ 祖父・蒲池鎮克は西国郡代を勤めた大身旗本。父・蒲池鎮厚は旧旗本。
- ^ 近くの横寺町に尾崎紅葉の家があったために紅葉をはじめ泉鏡花・小栗風葉・柳川春葉・川上眉山など硯友社の同人がしばしば訪ねてきた。
- ^ この頃、父・広津柳浪のもとに舟木重雄らが訪れるようになり雑誌『にひしお』を発刊した。
- ^ 早大文学部長だった島村抱月の美学講義や片上伸(片上天弦)の英文学講義などを受けた。また文芸協会解散の頃には早大教授だった坪内逍遥邸でジョージ・バーナード・ショー研究の講義を受けた。
- ^ 社会部長の永代静雄は田山花袋の「蒲団」の女主人公の恋人のモデルとなった人物で、光用穆の友人でもあった。
- ^ 宇野浩二『青春期』参照。
- ^ 上京し興信所に就職し一時和郎とともに西片町の宇野浩二の家に居候したが、その後神山ふくのいる永田町の下宿にころがりこんで和郎の着物などを質入してしまった。そのため和郎の召集解除のときは兄ではなく神山ふくが着替えの着物を用意して迎えに来た。
- ^ 好景気の時代の悩むインテリ青年の苦悩を描き、新しい時代を予感させる作品となった。
- ^ 片岡鉄兵の頼みで本人と知らずに共産党幹部の田中清玄・佐野博に宿を提供したり、街頭連絡中の間宮茂輔が訪ねて来たりした。
- ^ 偶然湯本館を訪れていた三好達治が翻訳に力を貸してくれることになった。また梶井基次郎も訪れてきて、普段は和郎の手許にはいない長男・賢樹と川遊びをしてくれた。
- ^ 婦人公論の雑誌広告の内容とそれに対する菊池寛の投稿原稿を中央公論社が勝手に改題したことが紛争の原因であった。『続年月のあしおと』参照。
- ^ プロレタリア文学の流れには直接加わらなかったが、〈同伴者作家〉と呼ばれたように、社会の現実をみつめる作品を書いた。連載中に内務省と警視庁から「触れてはならない事項」十五か条(左翼運動の具体的な方法を書いてはいけない、留置場の光景を書いてはいけない、取調べの模様を書いてはいけない、作全体の上に左翼に対する同情があってはいけない等々)が指示されたという。
- ^ 『続・年月のあしおと』参照。
- ^ 奈良滞在中に妻・はまから「コトバヲツツシンデクダサイ ハマ」という文学報国会での舌禍を戒める電報が届いた。
- ^ 病気療養中でこの裁判に関われなかった宇野浩二から次のような電報が届いた。「ヒロツクンイマワユウコトバナシ/オメデトウヨロコンデバンザイ/ゴケンショウヲイノル/ウノコウジ」
作品解題
- 『神経病時代』(1918年) のち岩波文庫
- 新聞記者鈴本定吉は家庭ではヒステリーの妻に、職場では味気ない仕事に憂鬱な毎日を送っていた。友人の遠山は借金まみれの生活をし、同じく友人の河野は日頃道で出会う女への恋に熱中していた。ある日、定吉は遠山から遊郭への同行を強要されたり、新聞の割付の不手際から社長に叱責された憤懣から給仕を殴りつけたり、遠山に金を融通するために時計を質入れしたことを妻に叱責され妻を叩いたりして精神的に徐々に追い詰められていった。そして妻の離縁を考え始めたある日、妻から新たな妊娠を告げられるのであった。
- 「二人の不幸者」(1918年)
- 生きる力が弱く世間にうまく処していけない30歳前後の2人の男・押川と蠣崎が主人公である。押川は生活のために不本意ながら政治ゴロの経営する雑誌社で編集者として働いていた。彼は様々な恋愛経験を持ち、忘れられない女性もいたが、なぜか職場の電話番をしていた染井という平凡な女性と結婚の約束をしてしまい、これも仕方がないとあきらめるのであった。蠣崎は小説家志望で定職はなく収入もほとんどなかった。彼は今までほとんど恋愛経験がなかったが、偶々隣に越してきた娼婦上がりの女に惚れこみ、彼女が妾奉公に行かせられてしまうのを阻もうとしたが、周旋屋の男に腕力で阻まれてしまうのであった。
- 『ストリンドベルグ評伝』春陽堂(泰西文豪評伝叢書)1919
- 『握手』天佑社 1919
- 『明るみへ』新潮社 1919
- 『横田の恋』春陽堂(新興文芸叢書)1920
- 『作者の感想』聚英閣 1920
- 『朝の影』聚英閣 1920
- 『お光と千鶴子』金星堂 1921
- 「死児を抱いて」(1922年)
- 石川家の家庭教師よし子の居室で発見されたミイラ化した乳児の死体。失踪したよし子から石川家に手紙が届きその経緯が説き明かされた。よし子は、両親を亡くした後、女学校を中退し叔母の家に引き取られ裁縫などを習っていたが、そこに下宿した元学生の水沼と関係をもち妊娠してしまった。しかし水沼には「久野さん」という過去に付き合った忘れられない女性がいたため、水沼はよし子を女性として愛することはできず、やがて持病の肺結核が重篤となって死んでしまった。よし子は一人で産婆宅で子供を産んだが、私生児として届けを出す決意がつかずにいるうちに子供が急逝してしまったので、埋葬も出来ず死体を持ち歩いていたのであった。
- 『ひとりの部屋』新潮社(短篇シリイズ)1925
- 『現代短篇小説選集 1 少女』文芸日本社 1925
- 『秋の一夜』改造社 1926
- 『生きて行く 戯曲集』改造社 1927
- 「薄暮の都会」(1928年)小説
- 国友新造は作家志望だが性格が弱く、友人の妹井出綾子に恋心を抱いているが自身の病気(肺病)や故郷で窮迫している家族のことを考えると積極的な態度に出られずにいた。今井蝶子(山田順子がモデル)は夫の援助で上京し作家・女優を目指して雑誌記者五十嵐(足立欽一がモデル)、挿絵画家山路水華(竹久夢二がモデル)などと関係をもち、やがて夫安彦(増川才吉がモデル)が破産した後は小説家宮田春潮(徳田秋聲がモデル)の愛人となった。富士ゆき子は映画製作所の幹部や監督と関係をもちそれを足場に女優としての地位を築き、新井梅子も画家小峰秋風や映画製作所宣伝部長磯村藤次郎などと関係をもち女優を目指すが同僚の女優の誘いにのって売春をする羽目に陥ってしまった。
- 『女給』(1930年)小説
- (女給小夜子)北海道岩見沢である男の子を孕んだことがきっかけで上京、様々な仕事に就くがたいした収入にならず苦しい生活の中で出産した。子供の玩具欲しさにデパートで万引きしたり夜の公園で刑事に不審尋問されたりした挙句、関口のカッフェで働くことにした。その後、そのカッフェに居られなくなり岩見沢に帰るが、結局子供を里子に出して再度上京し、銀座のカッフェ・Tで働くことにした。そこで馴染みになった客が詩人の吉水(菊池寛がモデル)と会社員の相良であった。特に相良は小夜子との結婚を強引に迫ってきたため、小夜子は郷里の岩見沢に逃げ、それを追ってきた相良に結婚できないことを言い渡したために相良は自殺未遂事件をおこした。やがて小夜子は3回目の上京をし、今度は銀座のカッフェ・シャノアールに出た。そこでライバルの京子にお馴染み客の吉水を奪われ、客として来た相良に結婚詐欺呼ばわりされ警察の調べを受けた。
- (女給君代)豊橋から身を立てるため上京し、やがて小さな喫茶店を持つことを夢に銀座のカッフェ・シャノアールで女給となった。そこで知り合ったのがA大学のラグビー選手掛川で、掛川の強引な口説きに屈して、やがて男女の関係となった。逢瀬を重ねるうちにやがて君代は身重となってしまった。それを知った掛川は徐々に君代と距離を置くようになり、「女給では誰の子供を孕んだか怪しいものだ」と君代を侮辱した。しかも掛川には君代の他に妊娠させられた掛川の下宿の娘や弊履の如く捨てられた女給の登美子など多くの犠牲者がいた。思い余った君代は掛川の郷里小樽まで出かけて行くが掛川は口実を設けて会おうとはしなかった。君代は帰京した後、小夜子とともにシャノアールをやめ、カッフェ・ミキに出るようになったが、そこで偶然掛川に出会い、君代は小夜子とともに掛川を激しく詰問するのであった。
- 『六大学リーグ戦史』芦田公平共著 誠文堂 1932
- 『過去』岡倉書房 1934
- 『小説作法講義』万昇堂 1934
- 『昭和初年のインテリ作家』改造社(文芸復興叢書)1934
- 『風雨強かるべし』(1934年)小説 のち岩波文庫、新日本文庫
- 弾圧が強化されていた左翼運動に共感しつつも実際運動には飛び込んでいけず精神的に動揺し続ける大学生佐貫駿一を主人公にした物語である。実際運動に携わり逮捕された旧友八代の妻ハル子と駿一のかなわぬ恋、駿一の亡父の親友で新興資本家の飯島千太の倒産・没落、ブルジョア的生活に疑問を持ち経済的な自立を目指し駿一と結ばれる千太の娘ヒサヨなどが描かれている。
- 『一時期』黎明社 1935
- 『青春行路』三笠書房 1935
- 『母は護る』三笠書房 1938
- 『青麦』学芸社 1939
- 『巷の歴史』中央公論社 1940
- 『愛と死と』牧野書店 1940
- 『芸術の味』全国書房 1942
- 『父と子』報国社 1942
- 「若き日』(1919年ー1943年)小説 のち岩波文庫
- 小島(広津和郎自身がモデル)は小学校から大学まで同じ学校に通った友人杉野とは相性が悪くあまり好意をもてなかったが、肺病病みの彼の父や善良そうで小柄な彼の母、そして無邪気で快活な妹千鶴子には親しみを感じるのであった。小島の父(広津柳浪がモデル)は硯友社の同人であったが自然主義文学の台頭におされ文筆の仕事もなく一家は極貧の生活を強いられるようになった。その頃、久しぶりに千鶴子と再会した小島は彼女にほのかな恋情を抱き芝居などに誘ったりするのだが、自らの経済状況を考えると求婚する勇気をもてず、杉野の妨害にもあってそのまま千鶴子とは会わなくなってしまった。やがて千鶴子は意に満たない相手と結婚するが、父譲りの肺病で亡くなってしまった。
- 『夢殿礼讃』全国書房 1946
- 『美しき樹海』民友社 1946
- 『女の敵』新生社 1947
- 『動物小品』創芸社 1947
- 『大和路』鎌倉文庫 1947
- 『散文精神について 評論集』新生社 1947
- 『別離』全国書房 1948
- 『冬の芽』大日本雄弁会講談社 1949
- 『狂った季節』六興出版社 1950
- 『若い人達』中央公論社 1950
- 『同時代の作家たち』文藝春秋新社 1951 のち新潮文庫、角川文庫、岩波文庫(新編)
- 『壁の風景画』創芸社 1951
- 『ひさとその女友達』角川文庫 1954
- 『泉へのみち』朝日新聞社 1954 のち角川文庫、新日本文庫
- 『誘蛾灯』朝日新聞社 1955
- 『松川裁判』全3巻 筑摩書房 1955-1958 のち中公文庫
- 松川裁判の第2審判決を研究したもの。
- 『美しき隣人』宝文館 1957
- 『小磯家の姉妹』角川書店 1957
- 『自由と責任についての考察』中央公論社 1958
- 『松川事件のうちそと』光書房 1959
- 『松川裁判の問題点』中央公論社 1959
- 『街はそよ風』中央公論社 1960
- 『年月のあしおと』〈正・続〉 講談社 1963-1967、のち講談社文庫、同文芸文庫全4冊
- 『松川事件と裁判 検察官の論理』岩波書店 1964
- 被告の無罪確定後に全体をふりかえる。
- 『広津和郎初期文芸評論 洪水以後時代・作者の感想』講談社 1965
翻訳
- 女の一生 モウパツサン 植竹書院 1913 のち角川文庫
- ユーゴー物語 世界名著物語 実業之日本社 1914
- 貧しき人々 ドストエフスキー 天弦堂 1915
- トルストイ叢書 第6 コサック 新潮社 1917
- トルストイ叢書 第8 クロイツエルソナタ・吹雪 新潮社 1917
- ドストイェーフスキー全集 カラマゾフ家の兄弟 ドストイヱフスキー全集刊行会 1920-1921
- 美貌の友 ベラミイ モウパッサン 天佑社 1922
- サロメ ワイルド 文芸日本社 1925(世界文芸映画傑作集)
- 貧しき人々 ドストイエフスキー 内外出版協会 1927
- テス ハーデー 世界大衆文学全集 改造社 1930
- 脂肪の塊 モオパツサン 新潮社 1938
関連人物
- 蒲池鎮克 母方の曽祖父。江戸幕府最後の西国郡代。
- 蒲池鎮厚 母方の祖父。
- 倉富勇三郎 枢密院議長、夫人が和郎の叔母
- 宇野浩二 早稲田時代からの友人で、作家仲間
- 谷崎精二 同じく早稲田からの友人で、谷崎潤一郎の弟
- 有馬頼義 作家で久留米藩主有馬家の出身。倉富が有馬家に相談役として関わった。
- 松山省三 カフェー・プランタンで最初に麻雀を行う。