「デルシム (競走馬)」の版間の差分
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3か月の休み明け、[[アダナ]]で行われた条件戦で2勝目を挙げた。以後地方の競馬場の開催に4回出走して1着1回2着3回の好成績で[[イスタンブール]]開催に復帰。[[1981年]][[4月26日]]に[[ヴェリエフェンディ競馬場]]で行われたオルハン・メケル・フリーハンデキャップを制して臨んだG1[[エルケック・タイ・デネメ]](トルコ2000ギニー、[[ヴェリエフェンディ競馬場]]芝1600メートル)で2着に入った。 |
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1600メートルでは距離が短すぎるところを見せたデルシムは、以後は長距離路線に進み、[[6月6日]]のサイト・アクソン賞を制した後、[[ミュミン・チュルグン]]({{lang|tr|Mümin Çılgın}})騎乗で[[6月29日]]のG1[[ガジ賞]](トルコダービー、ヴェリエフェンディ競馬場芝2400メートル)に出走した。1000メートル地点で後方15番手に付けていたデルシムは、800メートルで先頭集団に取り付くとペースを上げ、1着でゴールインした<ref name="a"></ref>。タイムは2分29秒9、賞金は150万旧トルコリラであった(この年からインフレが加速し、翌年は倍になっている)。 |
1600メートルでは距離が短すぎるところを見せたデルシムは、以後は長距離路線に進み、[[6月6日]]のサイト・アクソン賞を制した後、[[ミュミン・チュルグン]]({{lang|tr|Mümin Çılgın}})騎乗で[[6月29日]]のG1[[ガジ賞]](トルコダービー、ヴェリエフェンディ競馬場芝2400メートル)に出走した。1000メートル地点で後方15番手に付けていたデルシムは、800メートルで先頭集団に取り付くとペースを上げ、1着でゴールインした<ref name="a"></ref>。タイムは2分29秒9、賞金は150万旧トルコリラであった(この年からインフレが加速し、翌年は倍になっている)。 |
2016年10月18日 (火) 12:36時点における版
デルシム | |
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品種 | サラブレッド |
性別 | 牡 |
毛色 | 栗毛 |
生誕 | 1978年3月9日 |
死没 | 2011年4月11日 |
父 | Calaboose |
母 | Saika |
母の父 | Floche Royale |
生国 | トルコ |
生産者 | Ahmet Cemal Kura |
馬主 | Ahmet Cemal Kura |
調教師 | Ali Rıza Demirtaş |
競走成績 | |
生涯成績 | 15戦6勝 |
デルシム(トルコ語: Dersim、1978年 - 2011年)は、トルコの競走馬。1981年のガジ杯(トルコダービー)に優勝した。同年秋の第1回ジャパンカップに招待され来日したことで日本でも名前を知られるが、日本滞在中に故障し、出走はかなわなかった。
戦績
2歳時
1980年10月26日の未勝利戦でデビュー。2連敗の後、11月27日の未勝利戦で勝ち上がった。次走、シーズンの最後にハンデキャップ戦に出走したが、3着に終わった[1]。
3歳時
2歳時に目立った成績ではなかったデルシムは、3歳時に本格化した。
3か月の休み明け、アダナで行われた条件戦で2勝目を挙げた。以後地方の競馬場の開催に4回出走して1着1回2着3回の好成績でイスタンブール開催に復帰。1981年4月26日にヴェリエフェンディ競馬場で行われたオルハン・メケル・フリーハンデキャップを制して臨んだG1エルケック・タイ・デネメ(トルコ2000ギニー、ヴェリエフェンディ競馬場芝1600メートル)で2着に入った。
1600メートルでは距離が短すぎるところを見せたデルシムは、以後は長距離路線に進み、6月6日のサイト・アクソン賞を制した後、ミュミン・チュルグン(Mümin Çılgın)騎乗で6月29日のG1ガジ賞(トルコダービー、ヴェリエフェンディ競馬場芝2400メートル)に出走した。1000メートル地点で後方15番手に付けていたデルシムは、800メートルで先頭集団に取り付くとペースを上げ、1着でゴールインした[1]。タイムは2分29秒9、賞金は150万旧トルコリラであった(この年からインフレが加速し、翌年は倍になっている)。
次走G3の2着を経て、秋の3歳古馬混合G1トルコジョッキークラブ賞(ヴェリエフェンディ競馬場芝2400メートル)に出走したが、前々年のガジ賞勝利馬ドクターセフェロフ(Dr. Seferof)の2着に敗れた。
第1回ジャパンカップへの招待と故障
1981年に入ってから11戦して5勝(うちG1を1勝)、2着6回(うちG1を2回)の好成績を挙げてきたデルシムの陣営は、次の目標として海外遠征を選び、日本中央競馬会(JRA)からのジャパンカップへの招待を受諾した。
歴史的挑戦となるはずだったデルシムの海外遠征は出だしから苦難続きのものとなった。10月24日に経由地フランクフルト行きのチャーター貨物機で出国することになったが、デルシムは初めて見る飛行機を不安がって乗り込みを嫌がった。しかも目隠しをしてなんとか乗り込ませようとした貨物機は双発のプロペラ機だったが、一方のエンジンが故障してしまい、結局出国は延期になった。
エンジンの解体修理を待って1週間後の10月30日の7時にデルシムは貨物機に乗せられたが、再びプロペラの不調で離陸前に整備をすることになり、13時30分にようやく飛び立った[1]。
日本に着いたデルシムは、検疫を受けた後、11月22日のジャパンカップに向けて調整が行われた。日本のマスコミには「トルコのヒカルイマイ」のキャッチフレーズで紹介されたが、本番一週間前の11月14日に屈腱炎を発症していることが発表された。これによりデルシムはジャパンカップに出走することがかなわず、そのまま帰国、引退に追い込まれた。
引退後
現役期間が短く、勝利した大レースもガジ賞のみであるデルシムは、トルコにおいてもそれほど強く記憶される名馬ではなく、ガジ賞歴代最多勝騎手であるミュミン・チュルグンの記録達成に貢献した一頭という程度の存在である[1]。
トルコで種牡馬入りし、トルコのスタッドブックによると、1984年生まれから1998年生まれまで産駒が血統登録されている[2]。産駒からはトルコジョッキークラブのウェブサイトで"Major Races"とされているような大競走の勝ち馬は出ていない[3]。
血統表
デルシムの血統(ブランドフォード系 / Hyperion4×4×5=15.625%) | (血統表の出典) | |||
父 Calaboose 1966 栗毛 |
父の父 Crepello1954 栗毛 |
Donatello | Blenheim | |
Delleana | ||||
Crepuscule | Mieuxce | |||
Red Sunset | ||||
父の母 La Fresnes1953 栗毛 |
Court Martial | Fair Trial | ||
Instantaneous | ||||
Pin Stripe | Hyperion | |||
Herringbone | ||||
母 Saika 1965 栗毛 |
Floche Royale 1957 栗毛 |
Caerlaverock | Hyperion | |
Blue Angel | ||||
Polaris | Legal Fare I | |||
Santalin | ||||
母の母 Firuze Hatun1960 鹿毛 |
Rock Star | Rockefella | ||
Cosmetic | ||||
Lambingtime | Anamnestes | |||
First Four F-No.2-f |
母サイカ(Saika)はトルコ内国産馬で1968年のディシ・タイ・デネメ(トルコ1000ギニー)とクスラック賞(トルコオークス)の勝ち馬[3]。