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[[1931年]]、[[イゼール県]][[グルノーブル郡]]の町[[ラ・トロンシュ]]に生まれる。パリの[[リセ・ルイ=ル=グラン]]に進学、[[ジャック・デリダ|デリダ]]、[[ピエール・ブルデュー|ブルデュー]]、{{仮リンク|ミシェル・ドゥギー|fr|Michel Deguy}}らと親交を結ぶ<ref>[http://www.louismarin.fr/spip.php?article10 Bourdieu, P.; Derrida, J. "{{Fr|Entretien entre Pierre Bourdieu et Jacques Derrida}}"](''Liber'', n° 12, 1992)</ref><ref>Bennington, Geoffrey; Derrida, Jacques, ''Jacques Derrida'', Univ. of Chicago Pr., 1999, p. 228-229.</ref>。[[1950年]]、パリ[[高等師範学校]](エコール・ノルマル)に入学<ref>[http://www.archicubes.ens.fr/gene/main.php?base=13&nom_recherche=marin&prenom_recherche=louis&rech=1 {{Fr|Annuaire (Association des anciens élèves, élèves et amis de l'École normale supérieure)}}]</ref>。[[ルイ・アルチュセール|アルチュセール]]、[[ミシェル・フーコー|フーコー]]の指導を受ける<ref name="bio_asoc">[http://www.louismarin.fr/spip.php?article25 Pousin, Frédéric; Robic, Sylvie "{{Fr|Des pas de côté}}"]</ref>。[[1953年]]、[[アグレガシオン|大学教員資格]](哲学)取得<ref name="bio_uci">[http://www.lib.uci.edu/about/publications/wellek/marin.html "Louis Marin" (Wellek Library Lecturer Bibliographies, University of California)]</ref>。{{仮リンク|アンリ・グイエ|fr|Henri Gouhier}}</small>のもとで[[パスカル]]と[[ポール・ロワイヤル論理学]]についての博士論文(のちに ''{{Fr|La Critique du discours}}'' として出版)の準備を開始<ref name="bio_asoc" />。 |
[[1931年]]、[[イゼール県]][[グルノーブル郡]]の町[[ラ・トロンシュ]]に生まれる。パリの[[リセ・ルイ=ル=グラン]]に進学、[[ジャック・デリダ|デリダ]]、[[ピエール・ブルデュー|ブルデュー]]、{{仮リンク|ミシェル・ドゥギー|fr|Michel Deguy}}らと親交を結ぶ<ref>[http://www.louismarin.fr/spip.php?article10 Bourdieu, P.; Derrida, J. "{{Fr|Entretien entre Pierre Bourdieu et Jacques Derrida}}"](''Liber'', n° 12, 1992)</ref><ref>Bennington, Geoffrey; Derrida, Jacques, ''Jacques Derrida'', Univ. of Chicago Pr., 1999, p. 228-229.</ref>。[[1950年]]、パリ[[高等師範学校]](エコール・ノルマル)に入学<ref>[http://www.archicubes.ens.fr/gene/main.php?base=13&nom_recherche=marin&prenom_recherche=louis&rech=1 {{Fr|Annuaire (Association des anciens élèves, élèves et amis de l'École normale supérieure)}}]</ref>。[[ルイ・アルチュセール|アルチュセール]]、[[ミシェル・フーコー|フーコー]]の指導を受ける<ref name="bio_asoc">[http://www.louismarin.fr/spip.php?article25 Pousin, Frédéric; Robic, Sylvie "{{Fr|Des pas de côté}}"]</ref>。[[1953年]]、[[アグレガシオン|大学教員資格]](哲学)取得<ref name="bio_uci">[http://www.lib.uci.edu/about/publications/wellek/marin.html "Louis Marin" (Wellek Library Lecturer Bibliographies, University of California)]</ref>。{{仮リンク|アンリ・グイエ|fr|Henri Gouhier}}</small>のもとで[[パスカル]]と[[ポール・ロワイヤル論理学]]についての博士論文(のちに ''{{Fr|La Critique du discours}}'' として出版)の準備を開始<ref name="bio_asoc" />。 |
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複数の教職を経た後、[[1961年]]から[[トルコ]]のフランス大使館文化[[参事官]]として勤務(1964年まで)。当時[[イスタンブル大学]]で教えていた記号学者{{仮リンク|アルジルダス・ジュリアン・グレマス|label=A・J・グレマス|fr|Algirdas Julien Greimas}}の個人的なゼミナールに出席<ref name="bio_asoc" />。[[1964年]]からロンドンの{{仮リンク|アンスティチュ・フランセ|fr|Institut français du Royaume Uni}}の所長補佐(1967年まで)。このとき{{仮リンク|アンソニー・ブラント|en|Anthony Blunt}}、{{仮リンク|エドガー・ウィント|en|Edgar Wind}}ら、[[ヴァールブルク研究所]]周辺との接点を持つ<ref name="bio_asoc" /><ref name="expo_inha">[http://www.inha.fr/spip.php?article1862 Careri, Giovanni "{{Fr|Louis Marin. Le pouvoir dans ses représentations}}"]</ref>。記号学と美術史は後々にわたってマランの思考の源泉となる。 |
複数の教職を経た後、[[1961年]]から[[トルコ]]のフランス大使館文化[[参事官]]として勤務(1964年まで)。当時[[イスタンブール大学]]で教えていた記号学者{{仮リンク|アルジルダス・ジュリアン・グレマス|label=A・J・グレマス|fr|Algirdas Julien Greimas}}の個人的なゼミナールに出席<ref name="bio_asoc" />。[[1964年]]からロンドンの{{仮リンク|アンスティチュ・フランセ|fr|Institut français du Royaume Uni}}の所長補佐(1967年まで)。このとき{{仮リンク|アンソニー・ブラント|en|Anthony Blunt}}、{{仮リンク|エドガー・ウィント|en|Edgar Wind}}ら、[[ヴァールブルク研究所]]周辺との接点を持つ<ref name="bio_asoc" /><ref name="expo_inha">[http://www.inha.fr/spip.php?article1862 Careri, Giovanni "{{Fr|Louis Marin. Le pouvoir dans ses représentations}}"]</ref>。記号学と美術史は後々にわたってマランの思考の源泉となる。 |
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[[1967年]]、パリ、[[パリ第10大学|ナンテール大学]]教授に就任(1970年まで)。また、前年にグレマスが設立し[[構造主義]]的[[言語学]]、記号学の発信源となっていた記号=言語学研究グループ({{Fr|Groupe de recherche sémio-linguistique}})に参加。[[1968年]]のいわゆる[[五月革命 (フランス)|五月革命]](ナンテール大学はその中心のひとつだった)においては積極的に行動するも、その敗北に失望する<ref name="bio_asoc" />。[[カリフォルニア大学]]の招きに応じ、[[カリフォルニア大学サンディエゴ校|サンディエゴ校]]で教鞭をとる(1970年 - 1974年)。[[1974年]]、[[ジョンズ・ホプキンス大学]]教授に就任(1977年まで)<ref name="bio_uci" />。この間、アメリカとフランスを行き来しながら、1973年に博士論文を完成。また、[[ミシェル・ド・セルトー]]らと交流しつつ聖書の記号学的分析を多数発表する(''{{Fr|Sémiotique de la Passion}}''、''{{Fr|Le Récit évangélique}}'')。1975年には、[[ジャン・ボードリヤール]]らとともに雑誌『{{仮リンク|Traverses|fr|Revue Traverses}}』の創刊に加わり、しばしば寄稿する。 |
[[1967年]]、パリ、[[パリ第10大学|ナンテール大学]]教授に就任(1970年まで)。また、前年にグレマスが設立し[[構造主義]]的[[言語学]]、記号学の発信源となっていた記号=言語学研究グループ({{Fr|Groupe de recherche sémio-linguistique}})に参加。[[1968年]]のいわゆる[[五月革命 (フランス)|五月革命]](ナンテール大学はその中心のひとつだった)においては積極的に行動するも、その敗北に失望する<ref name="bio_asoc" />。[[カリフォルニア大学]]の招きに応じ、[[カリフォルニア大学サンディエゴ校|サンディエゴ校]]で教鞭をとる(1970年 - 1974年)。[[1974年]]、[[ジョンズ・ホプキンス大学]]教授に就任(1977年まで)<ref name="bio_uci" />。この間、アメリカとフランスを行き来しながら、1973年に博士論文を完成。また、[[ミシェル・ド・セルトー]]らと交流しつつ聖書の記号学的分析を多数発表する(''{{Fr|Sémiotique de la Passion}}''、''{{Fr|Le Récit évangélique}}'')。1975年には、[[ジャン・ボードリヤール]]らとともに雑誌『{{仮リンク|Traverses|fr|Revue Traverses}}』の創刊に加わり、しばしば寄稿する。 |
2016年10月18日 (火) 13:04時点における版
生誕 |
1931年5月22日 ラ・トロンシュ(イゼール県) |
---|---|
死没 |
1992年10月29日(61歳没) パリ |
時代 | 20世紀の哲学 |
地域 | 西洋哲学 |
学派 | 構造主義、記号学 |
研究分野 | 芸術学、政治哲学、17世紀フランス史 |
ルイ・マラン(Louis Marin、1931年5月22日 - 1992年10月29日)は、フランスの哲学者、歴史家、記号学者。
記号学の方法論を背景に、表象のシステム、とりわけ表象と権力の関係、自己表象(自伝、自画像)、表象不可能性(崇高)などに着目した研究を行った。その対象は多岐にわたるが、特に、パスカルおよびポール・ロワイヤル論理学、17世紀絵画(プッサン、カラヴァッジョ、フィリップ・ド・シャンパーニュ)などの研究によって、「今日最も偉大な17世紀研究者の一人」[1]と見なされる。
そのほか、聖書、シャルル・ペローの童話、ユートピア論、スタンダール(『アンリ・ブリュラールの生涯』)、近現代美術についても多数の著作がある。
経歴
1931年、イゼール県グルノーブル郡の町ラ・トロンシュに生まれる。パリのリセ・ルイ=ル=グランに進学、デリダ、ブルデュー、ミシェル・ドゥギーらと親交を結ぶ[2][3]。1950年、パリ高等師範学校(エコール・ノルマル)に入学[4]。アルチュセール、フーコーの指導を受ける[5]。1953年、大学教員資格(哲学)取得[6]。アンリ・グイエのもとでパスカルとポール・ロワイヤル論理学についての博士論文(のちに La Critique du discours として出版)の準備を開始[5]。
複数の教職を経た後、1961年からトルコのフランス大使館文化参事官として勤務(1964年まで)。当時イスタンブール大学で教えていた記号学者A・J・グレマスの個人的なゼミナールに出席[5]。1964年からロンドンのアンスティチュ・フランセの所長補佐(1967年まで)。このときアンソニー・ブラント、エドガー・ウィントら、ヴァールブルク研究所周辺との接点を持つ[5][7]。記号学と美術史は後々にわたってマランの思考の源泉となる。
1967年、パリ、ナンテール大学教授に就任(1970年まで)。また、前年にグレマスが設立し構造主義的言語学、記号学の発信源となっていた記号=言語学研究グループ(Groupe de recherche sémio-linguistique)に参加。1968年のいわゆる五月革命(ナンテール大学はその中心のひとつだった)においては積極的に行動するも、その敗北に失望する[5]。カリフォルニア大学の招きに応じ、サンディエゴ校で教鞭をとる(1970年 - 1974年)。1974年、ジョンズ・ホプキンス大学教授に就任(1977年まで)[6]。この間、アメリカとフランスを行き来しながら、1973年に博士論文を完成。また、ミシェル・ド・セルトーらと交流しつつ聖書の記号学的分析を多数発表する(Sémiotique de la Passion、Le Récit évangélique)。1975年には、ジャン・ボードリヤールらとともに雑誌『Traverses』の創刊に加わり、しばしば寄稿する。
1977年、社会科学高等研究院(EHESS)の研究指導教授(Directeur d'études)に就任(1992年の死去まで)、ユベール・ダミッシュらとともに同研究院の美術史・美術理論研究部門(CEHTA:Centre d'Histoire et Théorie des Arts)の設立メンバーとなる[8]。1985年、ジョンズ・ホプキンス大学客員教授に就任[6]。
1992年10月、死去。
主要著作
- Études sémiologiques : Écritures, peintures(Klincksieck、1971年、2005年再刊)
- Sémiotique de la Passion : topiques et figures(Aubier-Montaigne、1971年)
- Utopiques : jeux d'espaces(Éditions de Minuit、1973年)
- 『ユートピア的なもの――空間の遊戯』(梶野吉郎訳、法政大学出版局、1995年)
- Le Récit évangélique(Cl. Chabrolとの共著、Aubier-Montaigne、1974年)
- La Critique du discours : études sur la Logique de Port Royal et les Pensées de Pascal(Éditions de Minuit、1975年)
- Détruire la peinture(Éditions Galilée、1977年、再刊:Éditions Flamarion、1997年)
- 『絵画を破壊する』(梶野吉郎、尾形弘人訳、法政大学出版局、2000年)
- Le récit est un piège(Éditions de Minuit、1978年)
- 『語りは罠』(鎌田博夫訳、法政大学出版局、1996年)
- La Voix excommuniée : Essais de mémoire(Éditions Galilée、1981年)
- 『声の回復――回想の試み』(梶野吉郎訳、法政大学出版局、1989年)
- Le Portrait du roi(Éditions de Minuit、1981年)
- 『王の肖像――権力と表象の歴史哲学的考察』(渡辺香根夫訳、法政大学出版局、2002年)
- La Parole mangée et autres essais théologico-politiques(Klincksieck、1986年)
- 『食べられる言葉』(梶野吉郎訳、法政大学出版局、1999年)
- Jean-Charles Blais : du figurable en peinture(Éditions Blusson、1988年)
- Opacité de la peinture : Essais sur la représentation en Quattrocento(Éditions Usher、1989年、再刊:Éditions de l'EHESS、2006年)
- Lectures traversières(Albin Michel、1992年)
死後出版
- Des pouvoirs de l'image : gloses(Éditions du Seuil-Gallimard、1993年)
- De la représentation(Éditions du Seuil、1994年)
- Philippe de Champaigne ou La présence cachée(Hazan、1995年)
- Sublime Poussin(Éditions du Seuil、1995年)
- 『崇高なるプッサン』(矢橋透訳、みすず書房、2000年)
- Pascal et Port-Royal(PUF、1997年)
- De l'entretien(Éditions de Minuit、1997年)
- L’Écriture de soi : Ignace de Loyola, Montaigne, Stendhal, Roland Barthes(PUF、1999年)
- Politiques de la représentation(Kimé、2005年)
その他の日本語訳
- 「イメージの記述――プーサンの一風景画について」(横張誠訳、『エピステーメー』1976年3月号、朝日出版社)
- 「ピラトの前のイエス――構造分析の試み」(久米博訳、『構造主義と聖書解釈』、ヨルダン社、1977年)
- 「絵を読む――プッサンをめぐって」(岡村多佳夫訳、『美術手帖』1983年2月号、3月号、美術出版社)
- 「上下する竹」(柴田道子訳、『ニッポン(Traverses 5)』、今村仁司監修、リブロポート、1990年)
- 「絵画を読む――プッサンの一通の手紙(一六三九年)をめぐって」(露崎俊和訳、ロジェ・シャルチエ『書物から読書へ』、水林章他訳、みすず書房、1992年)
- 「アレクサンドル・コジェーヴ「歴史の終焉」をめぐる二つの注記」(野村直正訳、『世紀末の政治(Traverses 6)』、今村仁司監修、リブロポート、1992年)
- 「絵画の「ナショナリズム」をめぐる冷静な考察」(『Too French:art contemporain français=フランス現代美術展』、原美術館、1992年)
- 「表象の枠組みと枠のいくつかの形象」(栗田秀法訳、『西洋美術研究』No. 9、三元社、2003年)
関連文献
- 久米博「聖書の構造分析」(『一橋論叢』73巻2号、1975年) (PDF)
"Les femmes au tombeau : essai d'analyse structurale d’un texte évangélique"(1971)(PDF) の要約を含む。 - 「パスカル・記号学・《日本効果》」(『へるめす』第6号、岩波書店、1986年) (PDF)
マランと中村雄二郎による対談。 - Derrida, Jacques "À force de deuil", 1993, in Chaque fois unique la fin du monde, Éditions Galilée, 2003
- デリダ、ジャック「ルイ・マラン(喪の力によって)」、(岩野卓司訳、デリダ、ジャック『そのたびごとにただ一つ、世界の終焉 Ⅱ』、土田知則他訳、岩波書店、2006年)
- Cohen, Alain J.-J.; Pezzini, Isabella; Quéré, Henri eds. Hommages à Louis Marin, Università di Urbino, 1995
- 佐々木健一「ルイ・マランさん追悼」(佐々木健一『ミモザ幻想』、勁草書房、1998年)
- Pousin, Frédéric; Robic, Sylvie eds. Signes, histoire, fictions : Autour de Louis Marin, Éditions Arguments, 2003
- Beyer, Vera; Voorhoeve, Jutta; Haverkamp, Anselm eds. Das Bild ist der König : Repräsentation nach Louis Marin, Wilhelm Fink Verlag, 2005 (目次PDF)
関連項目
外部リンク
- Association Louis Marin
- ルイ・マラン(The Passing) 著作リストと紹介。
脚注
- ^ デリダ(2006)、p. 3。また次の記事にも同様の表現がある。Damisch, Hubert "DISPARITION Le philosophe Louis Marin Une œuvre 'traversière", Le Monde, 2 novembre 1992, p. 15
- ^ Bourdieu, P.; Derrida, J. "Entretien entre Pierre Bourdieu et Jacques Derrida"(Liber, n° 12, 1992)
- ^ Bennington, Geoffrey; Derrida, Jacques, Jacques Derrida, Univ. of Chicago Pr., 1999, p. 228-229.
- ^ Annuaire (Association des anciens élèves, élèves et amis de l'École normale supérieure)
- ^ a b c d e Pousin, Frédéric; Robic, Sylvie "Des pas de côté"
- ^ a b c "Louis Marin" (Wellek Library Lecturer Bibliographies, University of California)
- ^ Careri, Giovanni "Louis Marin. Le pouvoir dans ses représentations"
- ^ Histoire et caractéristiques du Cehta