「バルシュ・マンチョ」の版間の差分
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2016年10月19日 (水) 11:28時点における版
バルシュ・マンチョ Barış Manço | |
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基本情報 | |
生誕 | 1943年1月2日 |
出身地 | トルコ・イスタンブール |
死没 | 1999年1月31日(56歳没) |
ジャンル | クラシック・ロック, オルタナティブ・ロック, アナトリアン・ロック |
職業 | 歌手、作詞家、作曲家、テレビプロデューサー |
活動期間 | 1958年–1999年 |
レーベル | Sayan, Yavuz Plak, CBS Disques / Grammofoonplaten S.A.B.V., Türküola, Emre Plak |
バルシュ・マンチョ(Barış Manço[1], 1943年1月2日 - 1999年1月31日)は、トルコのロック歌手、作曲家、テレビプロデューサー[2]。
三人兄弟の次男でファーストネーム「バルシュ」は平和、平穏や和らぎを意味する(長兄Savaş Manço、の「サバシュSavas」は戦争、競争、闘いの意がある。)。
彼はおよそ200曲を作曲や作詞をし、そのうちいくつかは英語、日本語、ギリシア語、イタリア語、ブルガリア語、ルーマニア語、ペルシャ語、ウルドゥー語、アラビア語に翻訳されている[3]。現代トルコでは国民的ミュージシャンと讃えられ1999年に心臓発作で急逝しているが、トルコで未だ根強い人気のある有名人、スターの一人である。
エルヴィス・プレスリーに影響を受けイスラム圏では批判に晒されやすいロック音楽をトルコに普及させ、シャドウズのエレキ・インストロメンタルに影響を受けたエルシン・コライ(en)や1967年に再編し英米ではのち現代民族音楽で評価されるモーラル(en)らを6~70年代に起用し「アナトリアン・ロック(トルコ・ロック)」を確立した。日米英では知名度から評価は低いが欧州では高い人気があった。
1967年交通事故に遭い重傷を負い顔面には傷跡が残りこれを隠す為に髭と頭髪を伸ばすようになった。
1980年9月12日クーデターの軍事クーデター発生は戒厳令で集会禁止から公演が限られ1980年代を通して音楽活動は停滞し映像プロデューサーなどの仕事機会を増やした。ニュースのコメンテーターなどを勤める際にはその人気から慎重に言葉を選び軍事政権に配慮する発言が多かったとされるが、紛争とテロリズムには現状を嘆き武力では発展や未来が無いことを強調し話し合いを呼びかける主旨は一貫していた[4]。欧州各地の公演では現地報道機関から音楽とは無関係なトルコ人やクルド人の出稼ぎ労働問題でトルコの国内問題に悪意有る質問に晒されることも多く、口調強くムスタファ・ケマル・アタテュルクの言葉を借りて言い返し、フランスのあるテレビ番組出演で同様の質問にはトルコリラ紙幣を一枚取り出して印刷された歴史上の旧跡や肖像画などを示してそれぞれの由来などを紹介し説明し始め、紙幣の解説を終えるとトルコの国内問題と各地の紛争もこの紙幣に描かれた人物や建造物などと同じくやがては歴史の一つになると語り、誇りと希望そして未来ある私たちはトルコ人以外の何ものでもない(問題は解決できる。)、との発言も残されている。
親日家
大の親日家として知られ公式の初来日は1990年の串本町で行われたエルトゥールル号遭難事件100年慰霊式典の参加を兼ねた親善訪問でこのときの交流から更に日本の好意を深めたという。翌年には後述する創価学会インタナショナルの後援で再来日を果たし以降来日を繰り返し1995年には日本ツアー公演が行われ実況録音盤が発売され、公演のほか各地では交流の機会を設けトルコと日本の友好親善活動に尽力している。この日本語版曲や実況録音盤から日本ではバルシュ・マンチョの知名度や人気が高いと一部のトルコ人には誤解されていた。
当時トルコではバルシュ・マンチョの名を知らぬものはいない、と言われたスターだったが普段は庶民的で質素、威丈高な態度を見せたことは無く気さくで控えめに接していたという。
ところが外人に日本人を見つけると積極的に話しかけることが多く、声を掛けられた旅行者などはあとで有名人と気がつく場合が殆どだったと云う。
トルコ観光に飽きたある日本人旅行者がホテル従業員にバルシュ・マンチョの邸宅を外から見物することを勧められ、その門前で記念写真を撮影していると本人が現れ日本人と知るとお茶に誘いに邸内に招き入れ歓迎された。帰宿して勧めた従業員に顛末を話すと見ず知らずの旅行者を家に入れてお茶は有り得ないことだと云い驚嘆されたという[5]。店先で値段交渉や雑談にはお茶が付き物だが赤の他人を自宅に招くことは無い。
イスタンブールモダ地区ユセフカミルパシャ通り[6]にある邸宅は現在記念館として公開されている。
創価学会インタナショナルの名誉会員で来日公演はその援助で行われたがバルシュ・マンチョは生涯ムスタファ・ケマル・アタテュルクを尊敬したイスラム教徒[7]でクルド労働者党のテロなどに胸を痛め民族や国境を越えた平和運動や活動に共感し加盟したものである[8]。
脚注
- ^ ヨーロッパのアルバムではBaris Manchoとも書かれる
- ^ Variety's Film Reviews 1985-1986 (Vol 19) by R R Bowker Publishing, ISBN 978-0-8352-2799-5
- ^ “Baris Manco” (英語). Light Millennium. 2011年9月29日閲覧。
- ^ 1960年と1980年9月12日クーデターに軍事クーデターが発生しキプロス問題対応などで軍部と政府の意見対応が異なり対立しバルシュ・マンチョが世を去った1999年に拘束されたアブドゥッラー・オジャランは変化した世界情勢の隙から軍部を出し抜き外交で追い詰めた政府側穏健策の勝利となった。
- ^ 何人かの日本人が同様の歓迎を受けている。近所以外に中心街などで初対面を果たしその場で約束をして後日オフ時間に訪問など。
- ^ 「ユセフカミルパシャ(Yusuf Kâmil Paşa[1])」通りの由来となった人物。
- ^ [2]
- ^ 池田大作を国際親善や文化活動の功労者と認める発言は多く残されている。