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2016年11月11日 (金) 02:45時点における版
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 兵庫県姫路市 |
生年月日 | 1956年4月5日(68歳) |
身長 体重 |
180 cm 82 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1976年 ドラフト1位 |
初出場 | 1977年4月7日 |
最終出場 | 1984年7月7日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
| |
監督・コーチ歴 | |
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この表について
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藤城 和明(ふじしろ かずあき、1956年4月5日 - )は、兵庫県姫路市出身の元プロ野球選手(投手)。歌手等のタレント活動も行っている。
来歴・人物
姫路市立琴丘高校を卒業後、新日鐵広畑に入社。1976年の都市対抗に出場。1回戦では大昭和製紙北海道を相手にリリーフで好投、延長13回の接戦を制し初勝利を記録する。2回戦では先発し日本鉱業佐賀関の藤沢公也、萩野友康の継投の前に惜敗する[1]が、各球団の注目を集めた。
1976年のドラフト1位指名で読売ジャイアンツに入団、1977年にはルーキーながら開幕5試合目に先発で登板する。緩いカーブを武器とし大いに期待されたが、独特の二段モーションからか伸び悩んだ。フォーム改造後、1979年には先発陣の一角として4勝、翌年も4勝を記録するが、その後は登板機会が減る。1982年のシーズン開幕直後に、笹本信二捕手との交換トレードで阪急ブレーブスに移籍。阪急でも先発要員として期待されたが不本意な成績に終わり(勝ち星は移籍1年目に挙げた3勝のみ)、1985年オフに戦力外通告を受けた。1986年はロッテオリオンズに在籍したが、公式戦での登板機会は無く、この年限りで引退。
歌が上手く、現役時代は、毎年オフに開かれる球団対抗の歌合戦の常連だった。引退後はその歌唱力を活かし、ムード歌謡グループの敏いとうとハッピー&ブルーに参加した。元巨人選手の歌手転向は、柳田真宏に次ぐ事例。その後は、テレビ番組でリポーターを務めるなど、タレントとして活動した。
1993年、古巣・巨人のコーチとして、プロ球界に復帰を果たす。退団後は、1998年に韓国プロ野球・三星ライオンズでコーチを務め、帰国後はCS・J SPORTSやフジテレビ739で解説者として活躍した。
そして2005年、新発足した四国アイランドリーグ・高知ファイティングドッグスの監督に就任した。初年度はチームをリーグ初優勝に導き、2006年も前期優勝(この年より前後期制)を果たしたが、後期優勝の香川オリーブガイナーズとの年度優勝決定戦(チャンピオンシップ)には惜敗した。2007年は前後期とも3位で、年度チャンピオンシップへの進出は成らなかった。このシーズン中にチームの運営問題が浮上し、松山でのシーズン最終戦では試合終了後、グラウンドでファンにチームの存続を訴えた[2]。最終的にチームの存続は決まったが、球団側は藤城と2008年度の契約を結ばない事を発表し、退任が決まった。リーグ発足時の4人の監督の中では、最も長く当初の球団で務めた事になる。
高知を退団後、IT企業「ユー・エス・イー」に勤務するとともに、同社の軟式野球部で監督を務めている[3]。その傍らワールド・ハイビジョン・チャンネル『TwellV プロ野球中継』において千葉ロッテマリーンズ戦の解説も務めた。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1977 | 巨人 | 15 | 9 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | 0 | -- | .400 | 189 | 42.0 | 50 | 7 | 19 | 0 | 0 | 30 | 0 | 0 | 25 | 22 | 4.71 | 1.64 |
1978 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 14 | 3.0 | 2 | 1 | 3 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 1 | 3.00 | 1.67 | |
1979 | 27 | 12 | 1 | 1 | 0 | 4 | 7 | 0 | -- | .364 | 328 | 76.2 | 68 | 13 | 33 | 1 | 3 | 59 | 1 | 0 | 42 | 34 | 3.97 | 1.32 | |
1980 | 18 | 11 | 1 | 1 | 0 | 4 | 3 | 0 | -- | .571 | 227 | 54.1 | 51 | 7 | 24 | 0 | 0 | 46 | 1 | 0 | 30 | 30 | 5.00 | 1.38 | |
1981 | 12 | 5 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | -- | .333 | 170 | 38.1 | 40 | 5 | 15 | 1 | 0 | 34 | 2 | 0 | 26 | 24 | 5.68 | 1.43 | |
1982 | 阪急 | 19 | 12 | 2 | 1 | 0 | 3 | 4 | 0 | -- | .429 | 372 | 85.2 | 85 | 7 | 40 | 1 | 3 | 52 | 1 | 0 | 39 | 39 | 4.08 | 1.46 |
1984 | 8 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 39 | 9.1 | 8 | 0 | 6 | 0 | 0 | 2 | 1 | 1 | 5 | 5 | 4.82 | 1.50 | |
通算:7年 | 101 | 51 | 4 | 3 | 0 | 14 | 19 | 0 | -- | .424 | 1156 | 309.1 | 304 | 40 | 140 | 3 | 6 | 224 | 6 | 1 | 168 | 155 | 4.51 | 1.44 |
記録
- 初登板・初先発:1977年4月7日、対大洋ホエールズ3回戦(川崎球場)、1回2失点
- 初奪三振:1977年4月23日、対広島東洋カープ4回戦(広島市民球場)、8回裏に松原明夫から
- 初勝利・初先発勝利:1977年5月9日、対ヤクルトスワローズ8回戦(後楽園球場)、7回2/3を1失点
- 初完投勝利・初完封勝利:1979年5月30日、対中日ドラゴンズ6回戦(後楽園球場)
背番号
- 22 (1977年 - 1982年途中)
- 28 (1982年途中 - 1985年)
- 13 (1986年)
- 73 (1993年 - 1997年)
脚注
- ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
- ^ 野球西国巡り第42回 - SPORTS COMMUNICATIONS(2007年11月6日。藤城の執筆)
- ^ 元「巨人ドラ1」が歌手をへて野球部監督に★元巨人、阪急、ロッテ 「株式会社ユー・エス・イー」軟式野球部監督・藤城和明さん(55)(夕刊フジ2011年9月28日 2015年6月29日閲覧)