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2016年11月12日 (土) 03:53時点における版
エルヴィス・プレスリー | |
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エルヴィス・プレスリー (ホワイトハウスにて・1970年) | |
基本情報 | |
出生名 |
エルヴィス・アーロン・プレスリー Elvis Aron Presley |
別名 |
エルヴィス ザ・キング・オブ・ロックンロール ザ・キング |
生誕 | 1935年1月8日 |
出身地 |
アメリカ合衆国 ミシシッピ州テューペロ |
死没 | 1977年8月16日(42歳没) |
ジャンル |
ロックンロール ポップ・ミュージック ロカビリー カントリー・ミュージック ゴスペル ブルース リズム・アンド・ブルース |
職業 |
歌手 俳優 作詞家 作曲家 |
担当楽器 |
ボーカル ギター ピアノ |
活動期間 | 1954年 - 1977年 |
レーベル |
サン・レコード RCAビクター |
エルヴィス・アーロン・プレスリー (Elvis Aron Presley, 1935年1月8日 - 1977年8月16日)は、アメリカのミュージシャン、映画俳優。
概要
1950年代にチャック・ベリーやファッツ・ドミノ、リトル・リチャード、バディ・ホリーらと共にロック・アンド・ロール(ロックンロール)の誕生と普及に大きく貢献した、いわゆる創始者の一人であり、後進のアーティストに多大な影響を与えた。その功績からキング・オブ・ロックンロールまたはキングと称され、ギネス・ワールド・レコーズでは「史上最も成功したソロ・アーティスト」として認定されている。1950年代に、アメリカやイギリスをはじめとする多くの若者をロックンロールによって熱狂させ、それは20世紀の音楽の中でも最大級のムーブメントを引き起こした。また、極貧の幼少時代から一気にスーパースターにまで上り詰めたことから、アメリカンドリームの象徴であるとされる。後に同じく世界を席巻したザ・ビートルズのメンバーが憧れ続けたことでも知られる。
今まで保守的な大人たちは「ロックは若者を悪くする(非行にさせる)」と考えプレスリーの音楽を禁止し弾圧運動を展開していったが、それを跳ね返すかのように若者たちの間でさらにブームは拡大していった。これによって多くの人々が初めてロックンロールに触れ、ロックンロールは一気にメジャーなものとなった。また、いままで音楽を聞かなかった若年層(特に若い女性)が、音楽を積極的に聞くようになった。さらに、音楽だけでなくファッションや髪型などの流行も若者たちの間に芽生え、若者文化が台頭した。
初期のプレスリーのスタイルは黒人の音楽であるリズムアンドブルースと白人の音楽であるカントリー・アンド・ウェスタンを掛け合わせたような音楽といわれている。それは深刻な人種問題を抱えていた当時のアメリカではありえないことであり、画期的なことであった。
1977年8月16日、自宅であるグレイスランドにて42歳の若さで死去した。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第3位。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第3位。
「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第1位[1]。
経歴
1935年ミシシッピ州テューペロに生まれる。後にテネシー州メンフィスへ渡った。ミドルネームは公文書、サイン共にAronだが、墓石にはAaronと表記されている。
身長は183cm。髪は茶褐色であるが黒く染めていた。飲酒はしない。趣味はバッジ収集。愛車は59年型キャデラック。好きな食べ物はピーナッツバター・サンド。熱心なキリスト教プロテスタントの信者であり、9歳の時に洗礼を受けた。
空手8段とされている。
1967年5月1日にプリシラ・プレスリーと結婚し、1968年2月1日に長女で一人娘のリサ・マリー・プレスリーが誕生した。
プレスリーは最初「The Hillbilly Cat(田舎者の猫)」という名前で歌手活動を始め、その後すぐに歌いながらヒップを揺らすその歌唱スタイルから、(彼に批判的な人々から)「Elvis the Pelvis(骨盤のエルヴィス)」と呼ばれた。アメリカのバラエティー番組『エド・サリヴァン・ショー』の3度目の出演の際には、保守的な視聴者の抗議を配慮した番組関係者が意図的にプレスリーの上半身だけを放送したというエピソードが伝えられている。その際にサリヴァンが「このエルヴィス・プレスリーはすばらしい青年です」と紹介したことからサリヴァンにも罵声が飛んだ。しかしこのおかげでプレスリーへの批判は少なくなった。また、フロリダの演奏では下半身を動かすなとPTAやYMCAに言われ、小指を動かして歌った。この時には警官がショーを撮影し、下半身を動かすと逮捕されることになっていた。ステージでの華やかさに反して緊張しやすい性格で、レコード会社の門を叩けずに、入り口付近でウロウロ、ソワソワしていたこともあった模様。「初舞台の時には死ぬほど緊張した。観客の声が怖かったんだ」との言葉も残っている。
KWKラジオではプレスリーのレコード(「ハウンドドッグ」)を叩き割り、「ロックンロールとは絶縁だ」と放送。ロックンロールが青少年の非行の原因だと中傷され、PTAはテレビ放送の禁止を要求など、様々な中傷の標的になった。
プレスリーは友達だと思った人間には尽くすタイプだった。反対に「エルヴィスのお金や贈り物を求めて近付いてくる人間には、その姿勢に気付き距離を置いていたようである」とバンド・メンバーは回想している。
プレスリーの記録は多数あり、例えば、最も成功したソロアーティスト、最多ヒットシングル記録(151回)、1日で最もレコードを売り上げたアーティスト(死の翌日)、等がギネスによって認定されている。
生い立ち
プレスリーは1935年1月8日、ミシシッピ州テュペロの小さな家で生まれた。父ヴァーノン・エルヴィス・プレスリー、母グラディス・ラブ・プレスリーの3人家族であった(プレスリーには双子の兄弟ジェシー・ガーロン・プレスリーがいたが、誕生時に死亡している)。父ヴァーノンが不渡小切手で服役するなど非常に貧しい幼少時代であったが、両親はエルヴィスを大事に育てた。11歳の誕生日にはライフルを欲しがったが、当然母親に却下され、代わりに与えられたのがギターであった。これを機に自宅の地下洗濯部屋で練習し音楽に傾倒していった。
1949年にロウダーデール・コート公営住宅に転居し、プレスリーが13歳の時にテネシー州メンフィスへと引っ越した。メンフィスは非常に貧しい黒人の労働者階級が多かったため、そのような環境の中で黒人の音楽を聴いて育った。エリス公会堂のゴスペルのショーも欠かさずに観に行っていた。ある日、毎回欠かさず観に来ていたエルヴィスだったが、入場料を払えないとの理由で1度欠席した。これに気を留めたのがJ.D.サムナーで「では次回からは楽屋口から入るといいよ」と告げ、エルヴィスは無料でショーを観ることができた(70年代のコンサートではJ.D.サムナー&ザ・スタンプス・カルテットをコーラス隊として迎えている)。このことが後のプレスリーの音楽性に大きな影響を与えたとされる。プレスリーは高校卒業後、精密金型会社で働いた後にクラウン・エレクトリック社に転職しトラック運転手として働いていた。
1950年代のアメリカでは音楽も人種隔離的な扱いを受けている部分が多く残っており、当時のロックンロールのヒットソングも黒人の曲を白人がカバーし、そのカバー版が白人向けの商品として宣伝され、チャートに掲載され、またラジオなどで流れる傾向にあった。たとえ同じ歌を同じ編曲で歌ったとしても、黒人が歌えばリズム・アンド・ブルースに、白人が歌えばカントリー・アンド・ウェスタンに分類されることが常識だった。プレスリーは、このような状況にあって黒人のように歌うことができる白人歌手として発掘された。
1970年代、プレスリーがツアーをはじめた時、ツアー先の白人プロモーターから「黒人娘(コーラスを務めた“ザ・スウィート・インスピレーションズ”のことを言ったものだが、実際にはもっとひどい差別的な言い方をされた)は連れてこないでくれ」と連絡を受けたことが度々あった。プレスリーは「彼女たちを来させないなら僕も行かない」と言い張り、向こうが謝罪し、多額のお金を積んだが、絶対に行かなかった。
サン・レコード
1953年の夏にプレスリーはメンフィスのサン・スタジオで最初の両面デモ・アセテート盤を録音するため4ドルを支払った。収録曲は当時のポピュラーなバラード “My Happiness” と “That’s When Your Heartaches Begin” であった。サン・レコードの創業者サム・フィリップスとアシスタントのマリオン・ケイスカーはその録音を聞きエルヴィスの才能を感じ、1954年6月に行方不明の歌手の代理としてプレスリーを呼んだ。セッションは実り多いものであったかは分からなかったが、サムは地元のミュージシャン、スコッティ・ムーア、ビル・ブラックと共にプレスリーを売り出すこととした。
1954年7月5日のリハーサル休憩中にプレスリーは “That’s All Right, Mama” をいじくり始め、サムはプレスリーが適所を得たかもしれないと考えて録音ボタンを押した。即興での演奏でドラムスが不在であったため、ベースをかき鳴らしての演奏となった。B面に “Blue Moon of Kentucky” が収録されたシングルは、WHBQラジオが放送した二日後に、メンフィスでのローカル・ヒットとなった。また、公演旅行はプレスリーの評判をテネシー中に広げることとなった。ラジオを聴いた人たちは黒人歌手だと勘違いしていた。
サンとの契約下でプレスリーは5枚のシングルをリリースした。
- “That’s All Right / Blue Moon Of Kentucky” - Sun 209, 1954年7月19日
- “Good Rockin’ Tonight / I Don’t Care if the Sun Don't Shine” - Sun 210, 1954年9月25日
- “Milkcow Blues Boogie / You’re A Heartbreaker” - Sun 215, 1954年12月28日
- “Baby Let’s Play House / I’m Left, You’re Right, She’s Gone” - Sun 217, 1955年4月10日
- “Mystery Train / I Forgot To Remember To Forget” - Sun 223, 1955年8月6日
これらの多くはリズム・アンド・ブルースまたはカントリー・アンド・ウェスタンのヒット曲のエネルギッシュなカバーであった。レーベルには「エルヴィス・プレスリー、スコッティー・アンド・ビル」とクレジットされた。10曲の中で最短の曲は1分55秒、最長のもので2分38秒である。
1955年8月18日にプレスリーの両親はプロデューサーのトム・パーカー(通称・パーカー大佐)との契約書に署名し、サン・スタジオとの関係は終了した。
RCAとの契約
プレスリーは1955年11月21日にRCAレコードと契約した。1956年1月28日に「CBS-TVトミー・ドーシー・ステージ・ショウ」にてTVに初出演し、黒人のR&Bを歌う。そこでプレスリーは白人らしからぬパフォーマンスを披露したが、これに対してPTAや宗教団体から激しい非難を浴びせられた。しかし、その激しい非難にもかかわらず、それを見た若者たちは、プレスリーのファンになっていった。
1956年1月27日に第6弾シングル “Heartbreak Hotel / I Was the One” がリリースされた。これは1956年4月にチャートの1位に達した。Heartbreak Hotel はその後数多く登場したミュージシャンに多大な影響を与えた。
レコーディング場所について1950年代はニューヨークにあるRCAスタジオを利用したことがあったが、プレスリーのキャリアにおいて、主演映画の挿入歌以外のレコーディング場所で最も利用されたのはテネシー州ナッシュヴィルにあるRCAスタジオBである。しかし、1972年以降はハリウッドにあるRCAスタジオや地元メンフィスのスタジオを利用した。更に1976年になると、RCAスタッフがプレスリーの自宅(グレイスランド、ジャングルルーム)に録音機材を持ち込み、レコーディングを行った。
後年レコーディング自体に関心を示さなくなったのは、RCAのミキシングやアレンジがプレスリーの意向にそぐわなかったことや良質な楽曲がなくなったこと、コーラスがプレスリーの要求にこたえられなかったこと、体調面など様々な理由があった。
プレスリーは一発撮りと呼ばれる1テイク完成型のスタジオ・ライブ形式のレコーディング・スタイルにこだわった(いくつかのテイクをつなぎ合わせて一つの曲として発表する形式やパートごとの別録りといった選択肢もあったが、プレスリーはそれを嫌い、現在まで発表された曲数が700以上ある中で、そのような形式で発表した曲は少ない)。そのため、プレスリーの死去後現在まで様々な未発表テイクが発掘されており、その中には発表されたテイクと違った趣向のものもある。後年、レコーディングに関心がなくなった頃は、体調不良を訴え、「歌のレコーディングは後で必ずするからミュージックだけ録音しておいてくれ」と言うこともあったが、ほとんどの場合、それは実現しなかった。
1956年12月4日、プレスリーはカール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイスがレコーディングしているサン・レコードに立ち寄り、彼らとジャム・セッションを行なった。フィリップスにはもうプレスリーの演奏をリリースする権利はなかったが、このセッションを録音した。ジョニー・キャッシュも共に演奏していたと長い間考えられていたが、フィリップスが撮らせた写真でしか確認することができない[2]。このセッションは伝説的な『ミリオン・ダラー・カルテット』と呼ばれるようになった。年末の『ウォール・ストリート・ジャーナル』一面で、プレスリー関連商品が2千2百万ドルを売り上げ、レコード売り上げがトップであることを報じられた[3]。また『ビルボード』誌で100位以内にランクインした曲数が史上最高となった[4]。音楽業界最大手の1つであるRCAでの最初の1年間、RCAのレコード売り上げの半数がプレスリーのレコードであった[5]。
軍歴
1958年1月20日に、プレスリーはアメリカ陸軍への徴兵通知を受けた。当時のアメリカは徴兵制を施行しており、陸軍の徴兵期間は2年間である。プレスリーは特例措置を受けることなく、他と変わらぬ普通の一兵士として西ドイツにあるアメリカ陸軍基地で勤務し、1960年3月5日に満期除隊した[6]。
徴兵命令が来た際、プレスリーは「闇に響く声」を撮影中で、徴兵を少し延期したことでも話題になった。徴兵局はパラマウントからの延期の申し入れに対し、「エルヴィスをよこして頭を下げさせろ」と伝えた。翌日、プレスリーは徴兵局へ出向き、延期の申し入れを行った。
プレスリーは軍在籍中に空手の黒帯を取得し、軍曹まで昇進した。また在籍中、病気にかかり軍の病院において扁桃腺炎だと診断された。その際、医師はプレスリーの声が変調するのを恐れて、扁桃腺の切除手術は行わなかったが、回復し健康を取り戻した。
結婚そして離婚
1967年5月1日には、ラスベガスのアラジン・ホテルでプリシラ・アン・ボーリューと結婚。プリシラはプレスリーのドイツでの所属部隊長の継子であった。プレスリーは未成年であったプリシラを自分の父親とその妻の家に同居させ、有名なカトリックの女子高に通わせて、きちんと卒業させるということをプリシラの母親と継父に約束してプリシラをメンフィスで暮らせるようにした。しかし、程なく二人はグレイスランドで一緒に暮らすようになっていく。8年後に結婚し、1968年2月1日には娘リサ・マリー・プレスリーが生まれる。
その4年後、結婚前から続いているプレスリーの生活習慣(昼と夜が逆転した生活)、メンフィス・マフィア(エルヴィスの取り巻き)といつも一緒の生活、さらに年間何ヶ月にも及ぶコンサートツアーによる別居生活などのさまざまな理由から、プリシラは空手教師のもとに走り、二人の結婚生活は破綻してしまう。グレイスランドを出たプリシラはリサ・マリーを引き取り、ロサンゼルスに住居を移す。1973年10月9日に正式離婚。
離婚後もプレスリーとプリシラは友人関係にあり、以前よりも密に連絡を取り合うようになったという。プレスリーがツアーでロサンゼルスにいるときは、プリシラの家を訪れたり、なにか事あるごとにプリシラをグレイスランドに呼び寄せたりして精神的にプリシラを頼りにしていた。二人は、リサ・マリーがまだ幼かったこともあって、二人が離婚したことでリサが不幸にならないようにと願っていた。リサとプレスリーは頻繁に会っていたようだ。プレスリーが死んだその日もリサはグレイスランドにいた。
映画との関わり
歌手として有名になっていくにつれて、映画配給会社数社から出演の依頼がプレスリーのもとに届いた。プレスリーは大変喜んで、劇場に通いつめ、演技を独学で勉強した。初出演映画にはパーカー大佐がプレスリーを映画の主演にさせたかったので20世紀FOX配給 Rino Brothers を選んだ。プレスリーはシリアスな演技派を目指していた為、映画内での歌には興味がないと公言していたが、結局パーカー大佐の要請で4曲も歌う羽目になりタイトルも Love Me Tender に変更されて公開された。プレスリーは当時のガールフレンドに「映画会社がアホな曲を用意してきたんだよ。せっかくのいいストーリーが台無しになっちゃったよ」と不満を漏らしている。
陸軍入隊前までの1958年までに4作の映画が製作されたが、いずれも挿入歌ありの主演映画に終始し、おまけに映画挿入歌を収めたアルバムが好評だったため、当時のショウビジネスの世界に新たなビジネスの形態を作り出した。1960年に陸軍除隊するとパーカー大佐は配給会社数社と長期に渡り出演契約を結んだ為、1969年まで1年に3本のペースで27本もの映画の製作が行われ、活動の拠点をハリウッドに移さざるをえなかった。おおよその映画は制作費を抑えた挿入歌アルバム付きのものが多かったが、G.I. Blues、Blue Hawaii、Viva LasVegas(ラスヴェガス万才)等、話題になったものもある。結局、1956年から1969年まで計31本の映画が公開された中で、プレスリーが望んだ(主題歌以外の)歌のない映画は、1969年公開の Charro!(殺し屋の烙印)のみであった。 この映画が製作された頃のプレスリーは1960年代初期と違い、映画への意欲が薄らいでいた時期ではあった(1968年のカムバックを経て、残った契約の消化を急いでいた)が、久しぶりに前向きに臨んだ西部劇で役作りの為にあごひげまではやし撮影された。しかし、プレスリーの主演映画に対する世間の注目度が低かったこと、脚本の出来もイマイチだったことなどが原因で映画の興行成績は振るわなかった。そういう状況の中、ミュージカル映画の枠を超えていなかったこと、台本の出来の悪さ[7]、また、プレスリーが力を入れて撮影したシーンがカットされたことなど、プレスリーの仕事への不満は募っていき、それが歌手としてコンサート活動を再開するきっかけになった。
歌手活動の本格再開後も、1970年8月のラスベガス公演やリハーサル風景を収めたドキュメンタリー映画 Elvis: That’s the Way It Is(エルヴィス・オン・ステージ)や1972年4月のコンサート・ツアーの模様を収めたドキュメンタリー映画 ELVIS On Tour(エルヴィス・オン・ツアー)が製作され、好評だった。それ以降は映画の公開はなかったが、プレスリーの死後の1981年には、ほとんどを生前の映像等で構成したライフ・ストーリー的映画 This Is ELVIS が公開された。これらを合わせると、プレスリーが主演した映画は計34本となる。
1974年8月19日、ラスベガス公演中のプレスリーの楽屋をバーブラ・ストライザンドが訪れた。バーブラは自らが主演する映画 A Star Is Born(スター誕生)での共演をプレスリーに依頼し、プレスリー自身も非常に乗り気だったと伝えられているが、後日パーカー大佐が出演料を理由に断った。
1970年代半ば、プレスリー自身が起案し出演する空手家が主人公の映画の撮影を行ったが、完成することはなかった。理由の一つとして、プレスリーの体調が悪くなることが多く空手を続けられる状況ではなくなり、8段だった空手自体をやめてしまったことが挙げられる。ちなみに、空手の後の太り始めた頃からの趣味はラケットボールで、医師からの勧めで始めた。プレスリーは自宅であるグレイスランドの敷地内に専用コートを建てた。亡くなる1977年8月16日の早朝も友人たちとプレーし、汗を流した。
出演作品
32本の映画出演作(ドキュメンタリーは除いて)全てが主役という驚異的な記録を残している。
- やさしく愛して Love Me Tender (1956年)
- さまよう青春 Loving You (1957年)
- 監獄ロック Jailhouse Rock (1957年)
- 闇に響く声 King Creole (1958年)
- G.I.ブルース G.I. Blues (1960年)
- 燃える平原児 Flaming Star (1960年)
- 嵐の季節 Wild in the Country (1961年)
- ブルー・ハワイ Blue Hawaii (1961年)
- 夢の渚 Follow That Dream (1962年)
- 恋のKOパンチ Kid Galahad (1962年)
- ガール!ガール!ガール! Girls! Girls! Girls! (1962年)
- ヤング・ヤング・パレード It Happened at the World's Fair (1963年)
- アカプルコの海 Fun in Acapulco (1963年)
- キッスン・カズン Kissin' Cousins (1963年)
- ラスベガス万才 Viva Las Vegas (1964年)
- 青春カーニバル Roustabout (1964年)
- フロリダ万才 Girl Happy (1965年)
- いかすぜ!この恋 Tickle Me (1965年)
- ハレム万才 Harum Scarum (1965年)
- フランキーandジョニー Frankie and Johnny (1966年)
- ハワイアン・パラダイス Paradise, Hawaiian Style (1966年)
- カリフォルニア万才 Spinout (1966年)
- ゴー!ゴー!ゴー! Easy Come, Easy Go (1967年)
- ダブル・トラブル Double Trouble (1967年)
- ブルー・マイアミ Clambake (1967年)
- ステイ・アウェイ・ジョー Stay Away, Joe (1968年)
- スピードウェイ Speedway (1968年)
- バギー万才 Live a Little, Love a Little (1968年)
- 殺し屋の烙印 Charro! (1969年)
- トラブル・ウィズ・ガール The Trouble with Girls (1969年)
- チェンジ・オブ・ハビット Change of Habit (1969年)
- エルビス・オン・ステージ Elvis: That's the Way It Is (1970年)
- エルビス・オン・ツアー Elvis on Tour (1972年)
パーカー大佐
プレスリーは終生アメリカ、カナダ以外でコンサートを行っていない(海外での公演を許さなかった理由は、移民であるパーカー大佐がアメリカの永住権を所持しておらず、カナダを例外としてアメリカ国外へいったん出国すると再入国を許されない事態を恐れた為だったと言われている。ちなみに、パーカー大佐が出身国に残してきた家族が、大佐がプレスリーに付き添う姿をテレビで見て仰天したという逸話が残されている)。その為、パーカー大佐は世界の公演希望に応えるため、衛星中継という方法で、ナマのプレスリーを世界へ送った。来日公演の要請に対しては、日本のゴールデンタイムに衛星生中継で視聴してもらえるよう、1973年1月14日、ハワイ時間深夜1時からコンサート『アロハ・フロム・ハワイ』を開催する形で応えた。このコンサートはチャリティ・ショーだった為、プレスリーをはじめバンド・メンバーはノーギャラであり、収益は全て、クイ・リー癌基金へ寄付された。この公演のチケットには値段が付いておらず、客が献金したい分だけ払えば、購入することが出来た。6000席の会場で7万5000ドル集まったわけだから、1人あたり12ドル50セント支払った計算になる。
プレスリーはパーカー大佐に対する不満をメンバーたちに漏らしていた。しかし、プレスリーはパーカー大佐をクビにすることはなかった。
離婚の財産分与の資金捻出のためという名目でパーカー大佐はプレスリーの楽曲の権利をRCAへ売り渡した。これは将来的に見ても大損な取引だったが、パーカー大佐自身がギャンブルで大損を出していたため、手っ取り早く大金を得るためにプレスリーに伝えないで独断で売った。離婚に必要な資金は175万ドルでエルヴィスならすぐに回収できるであろう金額だった。プレスリーがお金がなくなっていったのはこの権利で手に入る印税を受け取れなかったことが関係している。エルヴィス関係者からは「悪名高き73年の取引」といわれている。
コンサート・ツアー
1969年から過密スケジュールでキャリアを再開した。しかし、それはプレスリーを完全なワーカホリック状態へと追い込むものであった。1969年以降行ったライヴは1000回以上であり、平均すると1年におよそ125回のペースだった。
1969年よりネバダ州のラスベガスを中心にショーを行うようになっていた。
プレスリーのコンサートは時代を経て、大規模なものになっていった。1950年代はエルヴィスのヴォーカルにギター、ベース、ドラムスの一つのグループのような編成でロックンロール色を前面に出す構成だったが、瞬間最高視聴率約72%を記録した1968年のNBC-TVスペシャル以後、翌年にラスベガスのステージで歌手復帰してからは、ロックンロール以外にもレパートリーの幅を拡げ、ゴスペルやスタンダート・ナンバー等を取り入れた娯楽性を前面に出す構成に移行していった。バック・ミュージシャンもコーラス・グループやピアノ等が新たに加わり、オーケストラまで揃えた多人数の団体に膨れ上がった。
また、ラスベガスのステージ編成をそのまま地方公演に取り入れた。コンサート活動再開後、最後にコンサートを行った1977年6月26日インディアナポリス公演までチケットは売り切れ状態が続いた。1977年8月17日から始まる予定だったツアーも最終日の8月27日のメンフィス公演まで売り切れ、翌28日に同地で追加公演を行う予定だった。
ビートルズとの会見
プレスリーとビートルズは直接的な接点はなかったが、両者は1965年8月27日、ロサンゼルス市のプレスリーの邸宅で一度きりの会見を果たしたことがロック史に残る出来事として語られている。
ビートルズのマネージャーであるブライアン・エプスタインとパーカー大佐の間での「極秘の打ち合わせ」という名目だったが、どこからか漏れてしまい、案の定自宅周辺には野次馬が集まった。
諸説あるが、メンバーのジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターはバカだと思われないように装いながらも、心を躍らせて招かれた部屋に入った。そこでエルヴィスはテレビを見ながらベースを練習してくつろいでいた。「本物のエルヴィスだ」と感激した4人は呆然としてしまった。そこでプレスリーが「ずっとそうやって僕を見てるだけなら僕はもう寝るよ?せっかく演奏ができると思って待ってたのに」と声をかけたことから、慌てて4人は挨拶し、即興演奏が始まった。プレスリーはベースを演奏し、レノンとジョージはギター、マッカートニーはピアノを演奏した。リンゴはドラムキットが無かったため演奏しておらずビリヤードやサッカーを楽しんでいたという。
プレスリーは彼らの曲も歌い、そのあとで「君たちのレコードは全部持ってるよ」と言った。これに対してレノンは「僕はあなたのレコードは1枚も持っていない」と発言したことからその場が凍りついた。これはレノンの若気の至りとも、過激なジョークだったとも言われるが、プレスリーはその発言に気分を害してしまった。そしてその会見に実際に立ち会ったという記者のクリス・ハッチンスによれば、レノンはさらに当時アメリカ軍による関与が拡大を続けていたベトナム戦争にプレスリーが賛同する姿勢と、プレスリーのマンネリ気味であった映画を痛烈に批判した。これらの事がきっかけでジョンを嫌うようになったプレスリーは(事実上)マッカートニーやジョージが作曲した曲はコンサートで頻繁に取り上げているが、レノンの曲は歌っていない(レノンは以前もアメリカに公演に来た際、プレスリーを馬鹿にするような行動をとった)。
レノンはこの発言を反省したためか後日エルヴィスの取り巻きに「エルヴィスがいなければ今の自分は居ない」と伝えるよう頼んだという。しかしプレスリーはレノンがアメリカに住むようになり、ベトナム反戦運動を積極的に行った頃、ニクソン大統領に「ジョンを追放してほしい」と手紙を出したとも言われている。
この様に、レノンの発言と態度が場の雰囲気を壊したことで、この会見はとても「成功」したとは言えないものであった。そしてなにより惜しい事は、当時音楽界に於いて最も注目すべきこの会見を録音したテープが存在しないことである[8]。
アメリカ大統領との面会と麻薬撲滅
1970年12月21日にはわざわざワシントンD.C.にジェリー・シリングと2人で出向き、シークレット・サービスに手紙を手渡した。一市民であるプレスリーから大統領にあてた手紙である。その40分後、補佐官から「大統領が会いたい」と電話があった。ホテルに到着したデル・ソニー・ウェストが合流し3人でホワイトハウスへ行き、リチャード・ニクソン大統領に会った。右のツーショット写真はその際撮影されたものである。この時プレスリーは、麻薬撲滅に熱心であったニクソン大統領に対して、「ロックが麻薬使用に影響しているとは思わないが、責任は感じている」といい、麻薬取締官の資格を与えられた。翌週、プレスリーはそのバッジをみんなに見せびらかせて回った。
なお、プレスリーは警察官等のバッジ・コレクションをしており、大変な収集家であった。関係者以外が警察バッジを持つことは許されていない。つまりプレスリーは警察やその他の機関の資格を取得していた。麻薬の不法所持者を逮捕するために飛行機を止めたり、プレスリーのバッグを盗んだ男を逮捕したりしている。
アロハ・フロム・ハワイ
1973年1月14日、ハワイ州ホノルルで行われたコンサート。全世界40ヶ国、15億人以上に視聴され、コンサートで初めて衛星生中継された。アメリカでは4月4日に放送され、既にこのコンサートのライヴアルバムが発売されていたにもかかわらず、この放送を視聴した世帯数は、人類初の月面着陸の映像を視聴した世帯数より多かった[9]。
ハワイの現地時間の午前0時に始まった。これは日本のゴールデン・タイム(午後7時)にあわせたものである。放送は約2時間続いた。このコンサートはプレスリーの愛唱歌でもあった「アイル・リメンバー・ユー」の作者、クイ・リーの遺族らによって創設された“クイ・リー癌基金”のためのチャリティー・コンサートとして開催された。
なお、ホノルルのパール・ハーバーにある「アリゾナ記念館」は、プレスリーが1961年に行ったチャリティ・ショーによって建てられたものである。プレスリーによると「1日100万ドル使い続けても使い切れない」とのこと。友人には車や宝石を頻繁にプレゼントした。ただし、プレスリーはまるで日課のように多方面、数え切れないほどの多くの団体に寄付した。殆どが非公式や匿名で行われたものだった為、明確には把握出来ていない。
死と埋葬
1977年8月16日にテネシー州メンフィスの自宅、グレイスランドで没した。ガールフレンドのジンジャー・アルデンによって寝室のバスルームの床に倒れているところを発見され、バプテスト記念病院へ搬送されたが、医師は午後3時30分、プレスリーの死亡を確認した。42歳没。検視後、死因は処方薬の極端な誤用による不整脈と公式に発表された[10]。
晩年、プレスリーはストレスからくる過食症に陥ったことが原因で体重が激増したことに加え、1975年くらいからは主治医だったジョージ・ニコポウラスから処方された睡眠薬などを「誤った使い方」で服用していた。「処方ドラッグをやっていた」とグレン・D・ハーディンなどのメンバー、さらにデル・ソニー・ウェストなどのメンフィス・マフィアのメンバーたちも語っている。
グレンは詳しいことは死ぬまで語るつもりはないといっているが、ソニー・ウェストは暴露本を書いて中傷したとされた。このことについてソニーは「まだ存命中だったエルヴィスを救うためだった」と述べた。違法なドラッグは一切使用していないが、この処方ドラッグの影響で癇癪持ちになり、体調も維持できなくなってしまった。
当初はメンフィスのフォレスト・ヒル墓地で母親の隣に埋葬されたが、遺体の盗掘未遂事件後に、母親と共にグレイスランドに再埋葬された。グレイスランドには、プレスリーの様々な遺品やピンクや緑に塗られたキャディラック、愛娘の名前をつけた自家用機、コンベア880型「リサ・マリー号」などが展示されており、現在も世界中からファンや観光客が訪れている。スコティ・ムーアは「エルヴィスの葬儀は見世物ショーになるだろう」と感じ、式に出席しなかった。
死後
プレスリーの急死後、その肖像権は非常に危うい位置にあった。プレスリーはステージ以外の事は人任せであった。肖像権は一応管理はされていたのだが杜撰だったため、金儲けの道具とされ、プレスリーのイメージを損なうものであっても簡単に商品化できた。
存命中にはプレスリーは多くの「名義貸し」のつもりで契約書にサインしていたが、相手は「エルヴィスが利益になる」と考え、膨大な予算をプレスリーに用意させようとした(ソニー・ウェストの暴露テープに電話の内容が記録されている)。
死去後まもなくして遺族らが膨大なプレスリーの物的財産を管理する組織を結成、肖像権も管理しようと訴訟を起こした(当時、亡くなった人々の肖像権の取り扱いは帰属等がはっきりしていなかった)。遺族らは勝訴し、肖像権を手に入れ、以後今日までしっかりと管理されている。
肖像権が管理できるようになって、「エルヴィス・プレスリー」という名を使い現在まで様々なプロジェクトを世界に向かって発信してきた。プレスリーのキャリアはサン・レコードからデビューした1954年から死去する1977年である。本業の歌の部門では、数多くの未発表テイクが発掘されている。
最近の話題だと新編集された曲が2002年のFIFAワールドカップの公式テーマソングになったり、未発表映像も発掘され、1968年のTVスペシャルや1973年のアロハ・フロム・ハワイのアウトテイクを収録した完全版がリリースされ好評だった。その他、側近や友人、家族らが語るプレスリーの人物像に焦点をあてた物や、プレスリーのゴスペルに対する思いを映像化した物もある。
それ以外にもプレスリーをモチーフにした映画の製作やプレスリーの曲が数多くの映画の挿入歌に使用される事も多い。プレスリーに因んだセリフも数多くの映画の中で聞くことが出来る。ブロードウェイのミュージカルにも取り上げられる等、そのような話題はとどまる事を知らない。プレスリーの記録であるナンバー1ヒット曲数18曲が、マライア・キャリーによって近年追いつかれた。
プレスリーの物まね、または成りきる(演じる)事を生業とする人々が世界に存在し、その数は8万5000人と言われている[11]。また、エルヴィスを尊敬するアーティストも多く、そのようなアーティスト達が一堂に会したトリビュート・コンサートが実現した。
更に1997年には新たなる試みとして、プレスリーのコンサート映像を使用し、それにあわせて当時のバンド・メンバーが演奏するエルヴィス・ザ・コンサート(現エルヴィス・プレスリー・イン・コンサート)のメンフィス公演が行われ、以後全米各地のほか、ほぼ年に1回のペースでアメリカ以外の地域でツアーを行っている。
死後、プレスリーの生存説、目撃情報などが相次いで報告された。年をとったプレスリーを見たという証言がある一方、若い頃そのままのプレスリーを見たという証言もある。プレスリーが生きているという確実な証拠には300万ドル(約3億4000万円)が支払われる。またプレスリーの生存説を、ジョン・レノンが生前語ったことがある。レノンによると、「死んだはずのプレスリーと電話で喋った」というが、レノンは麻薬の所持で逮捕されたこともある程の麻薬使用者のため、これを本気にするものはいなかった。なお、レノンはプレスリーの死からわずか3年後の1980年に射殺された。
世界に与えた影響
ヨーロッパにおいて、ロックンロールという新しい音楽への興味を生じさせた。クリフ・リチャード、ボブ・ディラン、ジョン・レノン、ルー・リード、ロバート・プラント、ブルース・スプリングスティーン、ジョン・ボン・ジョヴィなどをはじめとする多数のアーティストがミュージシャンを志したきっかけとなった。冷戦下で、プレスリーはヨーロッパ進出を考えていたアメリカのミュージシャンの先駆者になった。
世界中のティーンエイジャーは、プレスリーの「ダックテール」と呼ばれる横髪を後ろへなで付けるヘアスタイルをこぞって真似し始めた。そして、黒いズボンや緩い開襟シャツといったプレスリーのニュールックは、ファッションの新たな潮流を作り、その大きな需要を生み出した。プレスリーの影響は、経済大国における大量消費を行う最初のティーンエイジャー世代を生み出した。エルヴィス・プレスリーを慕うミュージシャンに、ドイツのオペラ歌手ペーター・ホフマンらがいる。
1977年にジミー・カーター大統領は「エルヴィス・プレスリーの死は、我が国から大事な一部分を奪いとったようなものだ。彼の音楽とその個性は白人のカントリー音楽と、黒人特有のリズム・アンド・ブルースのスタイルを融合させ、永久にアメリカの大衆文化の様相を変えてしまった。彼は、祖国アメリカの活力、自由、気質を世界の人々に植え付けるシンボルだった。」と語った。ジェームズ・ブラウンは「彼は白人のアメリカ人に目線を下げるということを教えた」という言葉を書き残している。
アメリカ内務省のゲイル・ノートン長官は2006年3月27日、プレスリーが約20年間を過ごした、テネシー州メンフィスの邸宅「グレイスランド」を国の国定史跡に認定した。認定の式典は一般公開で行われ、娘であるリサ・マリー・プレスリーも出席した。
性格、嗜好
衣装関係
1970年代のプレスリーは真っ白なジャンプスーツが思い出されるが、それ以外にも紺や青、水色、赤などのジャンプスーツも着ている。1970年初期のジャンプスーツは動きやすさを念頭に置いたシンプルな衣装であった。それがどんどん派手になっていき、ケープまで登場した。金やダイヤモンドやルビーなどを施したジャンプスーツは25kg以上にもなっていた。
飲食等
酒も煙草もやらない。たまに葉巻を吸う程度である。「オン・ステージ」で観客から酒を渡された時も、口を付けるだけでほとんど飲んでいない。ステージ上で飲んでいるものは水かゲータレードである。
コーヒーや炭酸飲料、「ピーナッツバターとバナナのサンドイッチ」が大好きで、毎日のように食べていた。ただし、このサンドイッチは食べる前に多量のバターを溶かしたフライパンで揚げ焼きにしたもので、当然ながら高カロリーなため、プレスリーが30代以降体調を崩し、肥満化していった一因になったのではないかという指摘もある。
交友関係
メンバー等
- 70年代のプレスリーのバックバンドを務めたベースのジェリー・シェフはプレスリーから要請が来た時、最初は断るつもりで対面した。ジェリーは、ブルース以外の音楽には興味がなかったからだ。その場のセッションでエルヴィスがブルースをいじり始め、ジェリーはその歌い方に感銘を受け、バンドに参加する決心をしたという。しかし、ジェリーが本当に心を魅せられたのはプレスリーの温かい人柄であったという。雑用スタッフも決して邪険にせず、この曲は嫌いなどということも無かったという。プレスリーはジェリー・シェフにブルースのソロを振った際、ジェリーはブルース以外の曲も演ろうと思い(公演で何度もブルースは弾いてきたので)アドリブでケイジャンを弾いた。それ以降、メンバー紹介の際には「フェンダーベースのジェリー・シェフです。今夜は何を演ってくれるのでしょう?」とMCするようになった。
- ピアノのグレン・ハーディンは、プレスリーがリハーサルしていない曲をソロで振ってくることがあったため、それ以来、プレスリーにソロを要求されると思われる曲を練習していたという。
- プレスリー復帰後のショーでリズムギターを務めていたジョン・ウィルキンソンは、元々は歌手であった。プレスリーは休憩時間などにジョンに歌ってもらい、リラックスしていたようである。1990年代に左半身不随になり、2度とギターは弾けなくなってしまった。
- プレスリーの友人で警備担当であるケネディ警部補が同じく警官であった弟を亡くした時、プレスリーは葬儀の資金を全額負担し、バックコーラスであったJ.D.サムナー&スタンプス・カルテットにゴスペルを歌わせた。葬儀の際に野次馬で式が邪魔されるのを避けるため、プレスリーは警官の制服を着用し、他の参列した警官と共に式に出席した。
家族
- 父:ヴァーノン・エルヴィス・プレスリー/Vernon Elvis Presley (1916年4月19日 - 1979年6月26日)
- 母:グラディス・ラヴ・プレスリー/Gladys Love Smith Presley (1912年4月25日 - 1958年8月14日)
- 兄:ジェシー・ギャロン・プレスリー/Jesse Garon Presley (エルヴィスの双子の兄に当たり30分早く生まれたが、生後まもなく死去)
- 娘:リサ・マリー・プレスリー/[[::en::Lisa_Marie_Presley|Lisa Marie Presley]] (1968年2月1日 - )
- 前妻:プリシラ・プレスリー/[[::en::Priscilla_Presley|Priscilla Beaulieu Presley]] (1945年5月24日 - )
その他
- ジェームズ・ディーンの大ファンで、目標としていた。ディーンの代表作「理由なき反抗」の台詞を全て覚え、周りを驚かしたこともある。ちなみに、プレスリーの代表作「闇に響く声」は、ディーンのために書かれた作品であった。評論家たちはこの作品を、プレスリーの映画の中で最良の演技をしたと言った。
- モハメド・アリと交流があり、アリに金色のマントを送ったが、それを初めて着用して登場した試合で敗れたので、以後2度と着用することはなかったが、アリはそれを大事にした。アリは金色のマントをもらったので、お返しにプレスリーに金色のアリのサイン入りグローヴを送った。プレスリーもこれを大事にした。部屋に篭りがちだったプレスリーに、アリが「外に出てファンと交流した方がいい」とアドバイスした所、プレスリーは「もみくちゃにされるから外に出られない」と答えたという。ファンサービスが大好きだったアリは後年「エルヴィスは解っていなかった。ファンは誰もエルヴィスに危害を加える気は無かったんだ」と語っていた。だが実際はメンフィス・マフィアがプレスリーとファンの間に壁を作り、プレスリーをホテルの最上階に閉じ込めて、窓ガラスに銀紙を貼り、隔離していた。プレスリーが死に、自身も引退した後、アリは親友のカメラマンに「俺が通りを歩いてて、向こうの通りをエルヴィスが歩いてたら、人はどっちに注目すると思う」と訊ね、カメラマンが「難しいな。外国じゃあんただが、国内(アメリカ)じゃエルヴィスじゃないかな」と答えた。するとアリは「そうだろうな。エルヴィスは大分前に死んだから、人は彼が本物かどうか確かめようとするだろうな」と語ったという。
- 意外と知られていないが日本神話なども知っているようなところもある親日家であり、日本の首相だった小泉純一郎が大ファンで、プレスリーと誕生日が同じである。首相として訪米時にジョージ・W・ブッシュ大統領と共にグレイスランドを訪問し、このとき小泉は、大統領たちの前で遺族から借りたサングラスをはめてエア・ギターをしながら、「グローリー グローリー ハレルーヤー」と唄った。自身がいかにプレスリーの大ファンであることを示そうと、リパブリック讃歌を曲の一節に取り入れたプレスリーの代表曲「An American Trilogy(邦題:アメリカの祈り)」を自らの判断で披露したものであるが、この小泉の予期せぬ行動はブッシュ大統領夫妻らから苦笑を買った。
- 現在グレイスランドには元自家用機のコンベア880「リサ・マリー」(機体記号N880EP)が展示されており、機体内部を含めて公開されているが、世界でも数機しかないコンベア880の現存機の内の1つでもある。この機体は1975年にデルタ航空(当時の機体記号はN8809E)から購入したもので、没後の1979年に登録抹消されている。
- F1チームのB・A・Rの元オーナーのクレイグ・ポロックがかなり古いハーレー・ダビッドソンを約60万円で購入したところ、すぐ故障したので修理に出しシートを開けたらシートの裏に“親愛なるジェームズ・ディーンへ、エルビス・プレスリー”と書かれており、プレスリーからジェームズ・ディーンにプレゼントされたものとわかった為オークションに出展したところ、およそ1億2千万円の値がついた。
メンフィス
グレイスランドの前の通りはエルヴィス・プレスリー・ブールバード(大通り)という。世界中のプレスリーのファン、ファンクラブからの募金のみで運営しているセイント・パウロ・エルヴィス・プレスリー記念病院がある。
主な使用楽器
- マーティンD-18
- デビューから徴兵までコンサートで使い続けていたギター。RCAファースト・アルバムのジャケット写真(1955年フロリダ公演)など弦が切れた状態で演奏されていた。また、カントリー・ミュージシャンが使っていた革のギター・カバーを被せて使用した。ブリッジ・ピンを何度も紛失している。
- 1969年のステージ復帰後、長らくギブソン製を使っていたが、1977年のツアーで新品のD-18で演奏している。あまり弾きやすいギターではなかったようで、側近のソニーとの電話で「新しいマーティンのギターが弾きにくい」と愚痴をこぼしている。
- マーティンD-28
- 主にテレビ・ショウで使用された。ドーシー・ショウやミルトン・バール・ショウで使用。
- ギブソン・J-200
- 映画「さまよう青春」、「闇に響く声」などで使用された。ボディが大容量なため、大音量が出せる。1968年のTV番組「エルヴィス」ではシット・ダウン・ショウで使用。
- ギブソン・J-200(特注品)
- 1960年にプレスリーが特注で作ったギターで、通常のピックガードと異なり、プレスリーがデザインした幾何学的なピックガードを装着していた。また、指板にはELVIS PRESLEYとインレイが施されている。1969年の公演再開から1971年までステージで使い続けた。「エルビス・オン・ステージ」でも確認できる。ストロークが激しいため、ギター上部(ピックガードの反対側)はピックで塗装面がかなり削れてしまっている。
- ハグストロム・ヴァイキングII
- テレビ・ショウの「エルヴィス」で使用したギターでワイン・レッドのモデル。スウェーデン製。非常に硬質で特徴的な音色。オープニング、スタンド・アップ・ショウなどで使用されたが、プレスリーの所有物ではなく、テレビ出演に当たって借り受けたもの。
- ギブソン・ダヴ(特注品)
- 1971年からJ-200に代わって使用したギター。J-200と違い、スクエア・ショルダーとなっていて、角ばったデザインが特徴。DOVEという名称の由来となったピックガードの鳩のイラストは施されず、オール・ブラックのモデル。ピックガードは白とのプライ加工されており、縁取りが見えるようになっている。また、指板には筆記体でElvis Presleyとインレイが施されている。さらにアメリカ・ケンポー・カラテ協会のステッカーを貼っていた。
- ギブソン・ハミングバード
- 75年から76年にかけて使用していたギター。ハチドリのイラストが施されている。ダヴと同じくスクエア・ショルダー・タイプ。
- グレッチ6122カントリー・ジェントルマン
- ドキュメンタリー映画「エルビス・オン・ステージ」のMGMリハーサル撮影の合い間に使用したギター。同映画に収録されたインターナショナル・ホテルでの公演でも使用。プレスリーはイスに座り、このギターを弾きながら歌った。
- フェンダー・プレシジョンベース(オリジナル・プレシジョン・ベース)
- 1957年5月3日、映画「監獄ロック」の劇中曲「ベイビー・アイ・ドント・ケア」を収録中に使用。ベーシストのビル・ブラックはウッドベース奏者であり、与えられたエレクトリック・ベースを上手く扱うことができず、怒ってスタジオを出て行ってしまった。そこでエルヴィスが投げ出されたこのプレシジョン・ベースを弾いた。1957年にリニューアルされる前の仕様。
記録
プレスリーの記録には限りがないが、代表的なものや、興味深いものを挙げる。
ギネス・ワールド・レコーズ編
- 世界で最も成功したソロ・アーティスト
- 全米No.1シングル18曲(歴代2位)/全英18曲(歴代1位)
- 最多ゴールド、プラチナ、マルチ・プラチナレコード獲得数:140タイトル
- 全米No.1アルバム9作/全英6作
- 全米チャート入りレコード149作/全英98作
- シングル発売133枚
- 最も長時間No.1にエントリーしたアーティスト(80週)
- 最も長期に渡ってNo.1アルバムをチャートに送り込んだアーティスト(1956〜2002年)初のNo.1アルバム「エルヴィス・プレスリー登場!(1956)」から「ELVIS(2002年)」まで。
- 最多ヒットシングル記録(151曲)ビルボードtop100へのエントリー回数151回は最多。
- 1日で最もレコードを売ったアーティスト(エルヴィス・プレスリー/死の翌日、1977年8月17日) 2,000万枚以上の売り上げ。プレスリーの死の衝撃が物語れる。
- 世界に最もファンクラブが多いアーティスト(エルヴィス・プレスリー)世界で(死後にもかかわらず)625のファンクラブが現在活動中である。
- 世界で最も訪問される墓(グレイスランド) エルヴィスの墓であるグレイスランドは、年間約70万人が訪れる墓。死後18年にあたる1995年には、歴代最多の753,965人が訪れた。アメリカの国定史跡。
統計、評論家などによる投票
- ロックの殿堂(エルヴィス・プレスリー/米1986年)
- 1986年、アメリカで始まったロックの殿堂は、ロック史上優れたアーティストやプロデューサーを登録している。プレスリーは第1回目で選ばれた。
- UKミュージック・ホール・オブ・フェイム(エルヴィス・プレスリー/英2004年)
- 2004年、イギリスで始まった、UKミュージック・ホール・オブ・フェイム(音楽の殿堂)は、音楽史上優れたアーティストやプロデューサーを登録している。プレスリーは第1回目で選ばれた。2007年、この殿堂は資金不足のため、廃止された。
- カントリーの殿堂(エルヴィス・プレスリー/米1998年)
- 1998年、カントリー・ミュージック教会により、カントリーの殿堂入りを果たした。伝統的な同教会が認めたことは、プレスリーの音楽の真価を証明するものだった。9月23日、テネシー州、ナッシュビルのグランド・オール・オープリー・ハウスで授賞式が行なわれた。
- ゴスペルの殿堂(エルヴィス・プレスリー/米2001年)
- 2001年、ゴスペル・ミュージック教会により、ゴスペルの殿堂入りを果たした。11月27日に、テネシー州、フランクリンのピープルズ・チャーチで授賞式が行われた。ちなみにロックとカントリー、ゴスペルの3つの殿堂入りを果たしたのは、プレスリーとジョニー・キャッシュだけである。
- 世界の音楽を最も変えた曲(エルヴィス・プレスリー/That's All Right)
- イギリスの雑誌『Q』によって発表。音楽のジャーナリスト達の投票により決定。プレスリーの音楽の始まりであり、ロックの原点とも言われる曲「ザッツ・オール・ライト」が、「音楽と世界を永遠に変えた革新的な100曲」の第1位に選ばれた。2位はビートルズの「I Wanna Hold Your Hand」。
- 死後、最も売り上げが多いアーティスト(エルヴィス・プレスリー)
- 経済誌「Forbes」により毎年(10月下旬)発表。死んだ著名人の1年度の売り上げを順位付けしたものである。2001年から発表が始まり、プレスリーは2005年まで5年連続1位に輝いた。2006年は、カート・コバーンの著作権が売却されたことにより2位になったが、翌2007年には4900万ドル(約56億円)で再び首位を奪回し、2008年度も5200万ドル(約51億円)で1位になった。毎年大体50億〜60億あたりの売り上げを誇っている。
- イギリスで最もヒットしたアーティスト(エルヴィス・プレスリー)
- 「The Book Of British Hit Singles & Albums」が発表。プレスリーが「イギリスで1番売れたアーティスト・トップ100リスト」の第1位になった。1952年からのチャート・イン週間数の総計を基準としたものである。毎年発表される。上位にはクイーンやクリフ・リチャードらがいる。
雑誌や一般による投票
- ロック史上最高の服装(エルヴィス・プレスリー/白いジャンプ・スーツ)
- 約1万2千人の音楽ファンによって投票。「最高のロック・アウトフィットtop10」での投票で、プレスリーの「白いジャンプ・スーツ」が、ロック史上最高の服装として歴代第1位に選ばれた。2位は、カイリー・ミノーグの「ゴールドのホット・パンツ」。
- 最もサインに価値があるロック・ミュージシャン(エルヴィス・プレスリー)
- カリフォルニア州のサイン専門誌「Autograph Magazine」により発表。最もサインに価値のあるロック・ミュージシャン第1位に、プレスリーが選ばれた。2位はビートルズのポール・マッカートニー。
アルバムディスコグラフィー
公式リリース音源の数は800曲を超える。
プレスリーはストロークが強いため、ギターの弦をよく切っていた。また、サウンドホール上部は傷だらけになってしまっている(下部はピックガードが付いている)。
「ハウンド・ドッグ」を歌う際には、「僕はまだほんのガキでした」とMCするのがお約束。
Follow That Dream レーベル
プレスリーがそのキャリアにおいて発表した曲の未発表テイクが数多く存在するが、プライベート録音を含め、すべての残されたプレスリーの音源を聴きたいというファンの要望に応えるべく立ち上げられたものが、主演映画のタイトルから引用した Follow That Dream レーベルである。
このレーベルのアルバムは限定生産され、世界中のファン・クラブに優先的に流通させるので一般のCDショップ等に出回りにくい。1999年に第一弾 Barbank'68(1968年のNBC-TVスペシャルのリハーサルの模様を収録)がリリースされた。以後、定期的に貴重な音源が次々とリリースされ続けている。わずかだが一つの曲のすべてのテイクを聴くことが出来たり、コンサートアルバムはプレスリーのコンサートを体験することが出来なかったファンにも(音声だけだが)追体験出来るような内容になっている。
オリジナルアルバム
ライブ・アルバム
発売年 | タイトル | 最高位 | RIAA | |
---|---|---|---|---|
US Country | US | |||
1968 | エルヴィスNBC TVスペシャル (Elvis NBC-TV Special) | 8 | プラチナ | |
1970 | エルヴィス・オン・ステージVol.3 (Elvis in Person at the International Hotel) | ゴールド | ||
エルヴィス・オン・ステージVol.2 (On Stage: February 1970) | 13 | 13 | プラチナ | |
エルヴィス・オン・ステージVol.1 (That's the Way It Is) | 8 | 21 | ゴールド | |
1972 | エルヴィス・イン・ニューヨーク (Elvis: As Recorded at Madison Square Garden) | 22 | 11 | 3× マルチ-プラチナ |
1973 | エルヴィス・イン・ハワイ (Aloha from Hawaii: Via Satellite) | 1 | 1 | 5× マルチ-プラチナ |
1974 | ライヴ・イン・メンフィス (Elvis: As Recorded Live on Stage in Memphis) | 2 | 33 | ゴールド |
1977 | エルヴィス・イン・コンサート′77 (Elvis in Concert) | 1 | 5 | 3× マルチ-プラチナ |
1997 | アフタヌーン・イン・ザ・ガーデン (An Afternoon in the Garden) | |||
1998 | アロハ・フロム・ハワイ (Aloha From Hawaii - Via Satellite) | |||
タイガーマン〜NBC・ライヴ 1968 (Tiger Man) | ||||
メモリーズ〜'68カムバック・スペシャル (Memories: The '68 Comeback Special) | ||||
1999 | エルヴィス・ザ・コンサート〜1999ワールド・ツアー(Concert 1999 World Tour) | |||
2001 | グレイテスト・ヒッツ・ライヴ (The Live Greatest Hits) | |||
エルヴィス・ライヴ・イン・ラスベガス (Live In Las Vegas) | ||||
2007 | VIVA LAS VEGAS グレイテスト・ラスヴェガス・パフォーマンス (Elvis: Viva Las Vegas) | 54 | ||
2008 | 68カムバック・スペシャル・ボックス 40周年記念エディション (The Complete '68 Comeback Special: 40th Anniversary Edition) | |||
2012 | エルヴィス・イン・ニューヨーク 40周年記念エディション (Prince from Another Planet) | 187 |
シングル・ディスコグラフィー
プレスリーが1977年に亡くなるまでの21年間に、146曲が100位以内に、112曲が40位以内に、72曲が20位以内に、38曲が10位以内にチャートインした。1962年4月21日から2週連続で1位を獲得した「グッド・ラック・チャーム」を最後にプレスリーは1位から遠ざかったが、1969年11月1日、「サスピシャス・マインド」が1位を獲得し、「プレスリーの復活」と言われた。1972年10月28日には「バーニング・ラヴ」が2位まで上り詰めたが、チャック・ベリーの「マイ・ディンガリング」(1972年10月21日から2週連続1位)に阻止された。70年代においてはプレスリーは一度も1位を取ることはなかったが、2002年にリメイクされた「ア・リトル・レス・カンヴァセーション」は世界24カ国でナンバー1を取得した。アメリカにおいて1位を獲得したシングルの数は18作〈計80週間〉で、ビートルズの20作〈計59週間〉に次ぐ2位の記録となっている(Billboard誌に準拠)。
ロックン・ロール(1986年殿堂入り)、カントリー(1998年殿堂入り)、ゴスペル・ミュージック(2001年殿堂入り)の3部門のいずれも殿堂入りした初のアーティストとなった。また、今のところ3度グラミー賞を受賞しているが、3度ともロック部門ではなくゴスペル部門においての受賞であり、プレスリーは終生この事を誇りにした。
全米ナンバー1獲得曲
ナンバー1ヒットは全18曲、合計80週間である。曲数はビートルズに次ぐ歴代2位である。週間数に関しては歴代1位である。ちなみに2位はマライア・キャリーの79週。(ビルボードに準拠)
- ハートブレイク・ホテル (Heartbreak Hotel) 1956年 8週間連続1位
- アイ・ウォント・ユー、アイ・ニード・ユー、アイ・ラヴ・ユー (I Want You,I Need You,I Love You) 1956年 1週間1位
- ハウンド・ドッグ (Hound Dog) 1956年 11週間連続1位
- 冷たくしないで (Don’t Be Cruel) 1956年 11週間連続1位
- ラヴ・ミー・テンダー (Love Me Tender) 1956年 5週間連続1位
- トゥー・マッチ (Too Much) 1957年 3週間連続1位
- 恋にしびれて (All Shook Up) 1957年 9週間連続1位
- テディ・ベア (Teddy Bear) 1957年 7週間連続1位。エルヴィスは「なぜこんな曲が7週もNo.1になったのか」と疑問に思ったという。
- 監獄ロック (Jailhouse Rock) 1957年 8週間連続1位
- ドント (Don’t) 1957年 5週間連続1位
- 冷たい女 (Hard Headed Woman) 1958年 1週間1位
- 恋の大穴 (A Big Hunk o’ Love) 1959年 2週間連続1位
- 本命はお前だ (Stuck On You) 1960年 4週間連続1位
- イッツ・ナウ・オア・ネバー (It’s Now or Never) 1960年 5週間連続1位
- 今夜はひとりかい? (Are You Lonesome Tonight?) 1960年 6週間連続1位
- サレンダー (Surrender) 1960年 2週間連続1位
- グッド・ラック・チャーム (Good Luck Charm) 1961年 2週間連続1位
- サスピシャス・マインド (Suspicious Minds) 1969年 1週間1位
その他
- フール・サッチ・アズ・アイ ((Now and Then There's) A Fool Such as I)1959年 全米2位、全英1位
- 好きにならずにいられない (Can’t Help Falling in Love) 1961年 全米2位、全英1位
- 心の届かぬラヴ・レター (Return to Sender) 1962年 全米2位、全英1位
- イン・ザ・ゲットー (In the Ghetto) 1969年 全米3位、全英1位
- バーニング・ラヴ (Burning Love) 1972年 全米2位、全英7位
日本語文献
- ※近年刊行の一部。
- ピーター・グラルニック 『エルヴィス伝 復活後の軌跡 1958-1977』三井徹訳 みすず書房、2007年 大著
- アルフレッド・ワートハイマー撮影・文 『エルヴィス・プレスリー 21歳の肖像』夏目大訳 青志社 2007年 大著の写真集
- 『SCREEN特別編集 エルヴィス・プレスリーの伝説』 近代映画社 2005年
- 『文藝別冊 エルヴィス・プレスリー』 <KAWADE夢ムック>河出書房新社 2003年
- ボビー・アン・メイソン 『エルヴィス・プレスリー』外岡尚美訳<ペンギン評伝双書>岩波書店 2005年
- 前田絢子『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』角川選書 2007年
脚注
- ^ “Rocklist.net...Q Magazine Lists..”. Q - 100 Greatest Singers (2007年4月). 2013年5月21日閲覧。
- ^ Jorgensen 1998, p. 71.
- ^ Palladino 1996, p. 131.
- ^ Stanley & Coffey 1998, p. 37.
- ^ Victor 2008, p. 439.
- ^ RETURN OF THE KING: WHEN ELVIS LEFT THE ARMY - LIFE.TIME.com(ライフ).2013年9月10日閲覧.
- ^ プレスリーは映画の台本を叩きつけ、「ふざけるな! ボートにバイクに車の選手、全部同じストーリーだ」と激怒し、撮影現場に行かなかったこともあった。
- ^ これはパーカー大佐の要請ではなく、エプスタインがプレスリー側へ気を利かせて、会見内容の録音を一切許可しなかったためである。
- ^ http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2267718/2023790
- ^ ドーナツの食べ過ぎが原因だったというデマがあった。
- ^ http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2267718/2023790
関連項目
- ロックミュージシャンの一覧
- ジェームズ・バートン
- スコティ・ムーア
- リベラーチェ
- ペット・ショップ・ボーイズ
- リロ・アンド・スティッチ - 劇中で楽曲が使用されている。
- ホンキー・トンク・マン - エルヴィスの偽物ギミックの悪役レスラー。1980年代後半から1990年代にかけて、WWFなどで活躍した。
- 吉幾三
映画・メディア作品
- 映画『フォレスト・ガンプ/一期一会』 - 無名時代のプレスリーがガンプの家に泊まり、背骨の固定装置を足に着けたガンプの動きにヒントを得て独自のステージパフォーマンスを編み出すというくだりがある。また、劇中でガンプの母親が「子どもの見るものではない」と当時のプレスリーに対する親の考えが表されている。
- 映画『ミステリー・トレイン』(ジム・ジャームッシュ) - プレスリーのゆかりの地としてメンフィスを訪れる若い日本人観光客のカップルのエピソードが含まれている。女の子のミツコはプレスリーに心酔している。プレスリーの亡霊が登場したり、ラジオからプレスリーの曲が流れたりもする。
- 映画『ババ・ホ=テップ』(2006)(Bubba Ho-Tep)(邦題「プレスリーVSミイラ男」) の主人公はブルース・キャンベルが演ずるプレスリー。プレスリーは現在も、人知れず南部のとある老人ホームで余生を送っており、1977年に亡くなったのは実はそっくりさんだったという設定。
- TVシリーズ『フルハウス』 - 大のプレスリー・ファンであるジェシー・カツォポリス (Jesse Katsopolis) が主役。作品の随所にプレスリー関連のネタが登場する。1度だがラスベガスへ行ったときには「ラスベガス万才」と同じ空撮の映像にジョン・ステイモスが歌った「Viva Las Vegas」が流れる。また、まだ母体の中に居る段階の子供に生まれるまでずっとプレスリーの曲を聞かせようとしたり、子供部屋の装飾を全てプレスリーグッズにしようとするエピソードもあった(結果的には未遂に終わるが)。また初期はプレスリーを模した髪形をしていた。
- TVシリーズ『俺がハマーだ!』- プレスリー似た者コンテストの優勝者が次々と撲殺される事件が起き、おとり捜査のために主人公ハマー刑事がコンテストに出場するエピソードがある。
- ジャック・ウォマックの小説 Ambient や Elvissey(ともに未訳)で描かれる近未来世界では、プレスリーの復活を信じるE教会(the Chirch of E)という宗教が登場する。Elvissey では、E教会の信者たちが、プレスリーのそっくりさんファッションに身を固めて、Elcon という集会を開催するシーンがある。
- 映画『メン・イン・ブラック』 - トミー・リー・ジョーンズが車内でプレスリーの歌をかけるシーンでウィル・スミスが「エルヴィスは死んだんだぞ」と言うと「死んでないよ、故郷の星に帰ったのさ」と返すシーンがある。
外部リンク
- 公式ウェブサイト
- エルヴィス・プレスリー - allcinema
- エルヴィス・プレスリー - KINENOTE
- Elvis Presley - IMDb
- Elvis Presley - Discogs
- Elvis Presley Search Engine & Portal
- The Elvis Information Network - News, Reviews, Interviews & Articles. Updated daily - An Award winning website.
- Lauderdale Courts: Historic Home of Elvis 1949-1953History on teenage home and reservation/tour information.
- History and Lyrics Insight on Elvis
- Sockin' Swingin' Girls & Singin' Fansite dedicated to the films of Elvis Presley
- FBI Freedom of Information Act files on Elvis
- Always The King: Elvis fansite in German and English.
- ElvisNews: Updated several times a day, this website gives you a summary of every Elvis-related news around the world.
- Elvis Aron Presley: Fansite.
- BBC News article on Elvis Presley's Scottish roots
- Elvis in Hawaii: Information about the Aloha from Hawaii show(1973) and the Hawaiian movies.
- Elvis Presley: The King on Hotshotdigital.com
- Elvis In Norway: A very good source for news and reviews of new CD releases, both official and bootlegs.
- Elvis Presley - The Early Years Emphasis on Elvis' career in the '50s and '60s
- Elvis Tribute: Elvis fan stories, song poll, Elvis fanaticism test
- Rockabillyとは何か〜Elvis PresleyのSUN時代の楽曲分析 (国立情報学研究所CiNii内の論文情報)
- Rockabillyとは何か〜Elvis PresleyのSUN時代の楽曲分析 (論文の要約版)
- エルヴィス・プレスリー・オフィシャル・グッズ・ショップ - LOVE ME TENDER