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地元の小さなバンドに入って腕を磨き、[[1959年]]ごろ、[[ロニー・ホーキンス]]とバックバンドのホークスに出会う。この時は加入しなかったが、ガースの豊富な音楽の知識に惚れ込んだホークスの一員[[ロビー・ロバートソン]]や[[リヴォン・ヘルム]]の口利きで[[1961年]]、ホークスに加入する。(リヴォンの証言では[[1960年]]の暮)この時、バンド入りを両親に反対されるのを恐れ、ガースがメンバーの音楽教師の肩書きで加入しレッスン料をとるという約束が交わされたと、映画『[[ラスト・ワルツ]]』でリヴォンが証言している。
地元の小さなバンドに入って腕を磨き、[[1959年]]ごろ、[[ロニー・ホーキンス]]とバックバンドのホークスに出会う。この時は加入しなかったが、ガースの豊富な音楽の知識に惚れ込んだホークスの一員[[ロビー・ロバートソン]]や[[リヴォン・ヘルム]]の口利きで[[1961年]]、ホークスに加入する。(リヴォンの証言では[[1960年]]の暮)この時、バンド入りを両親に反対されるのを恐れ、ガースがメンバーの音楽教師の肩書きで加入しレッスン料をとるという約束が交わされたと、映画『[[ラスト・ワルツ]]』でリヴォンが証言している。


「狂気の教授」というあだ名をもち、ステージでは優れたオルガン演奏を行う傍ら、練習では他のメンバーに演奏技法や編曲などを教えた。始め彼の真面目な雰囲気は周囲にとけ込めなかったが、だんだん認められバンドに無くてはならない存在となった。'''「ガースが入ってきてホークスのサウンドはロックンロールオーケストラのようになった。サウンドがずっと豊かになったのが確実に感じられた。」'''とリヴォンが証言している。(リヴォン・ヘルム著・菅野彰子訳「軌跡」[[1994年]] 音楽之友社刊より)リック・ダンコの証言では「オルガンを演奏し始めると、ガースの弾く曲によって、お客は泣いたり笑ったり、シンフォニーのように曲が、色彩豊かになったね。」とそのテクニックの巧さをたたえている。当のガースは「俺じゃなくて、ロニー・ホーキンスの名前でお客さんが来てるんだと思ってたんだ。実は俺のほうが客寄せだったんだね。(笑)ただ座ってただけで、別に何もしてなかったのに。」と述べている<ref>『SHINKO MUSIC MOOK The Dig Specisal Edition ザ・バンド&ボブ・デイラン』シンコーミュージックエンターテイメント、2012年 ISBN978-4-401-63717-1 C9473</ref>。
「狂気の教授」というあだ名をもち、ステージでは優れたオルガン演奏を行う傍ら、練習では他のメンバーに演奏技法や編曲などを教えた。始め彼の真面目な雰囲気は周囲にとけ込めなかったが、だんだん認められバンドに無くてはならない存在となった。'''「ガースが入ってきてホークスのサウンドはロックンロールオーケストラのようになった。サウンドがずっと豊かになったのが確実に感じられた。」'''とリヴォンが証言している。(リヴォン・ヘルム著・菅野彰子訳「軌跡」[[1994年]] 音楽之友社刊より)リック・ダンコの証言では「オルガンを演奏し始めると、ガースの弾く曲によって、お客は泣いたり笑ったり、シンフォニーのように曲が、色彩豊かになったね。」とそのテクニックの巧さをたたえている。当のガースは「俺じゃなくて、ロニー・ホーキンスの名前でお客さんが来てるんだと思ってたんだ。実は俺のほうが客寄せだったんだね。(笑)ただ座ってただけで、別に何もしてなかったのに。」と述べている<ref>『SHINKO MUSIC MOOK The Dig Specisal Edition ザ・バンド&ボブ・デイラン』シンコーミュージックエンターテイメント、2012年 ISBN 978-4-401-63717-1 C9473</ref>。


[[1964年]]、ホークスがロニーから独立し[[ボブ・ディラン]]のバックバンドになってもガースの存在は大きく、ロック色を強めたディランの作品「[[寂しき4番街]]」([[1965年]])「スーナー・オア・レーター」([[1966年]])や、イギリス公演のライブアルバムには彼の嵐のようなオルガンのサウンドが聞ける。
[[1964年]]、ホークスがロニーから独立し[[ボブ・ディラン]]のバックバンドになってもガースの存在は大きく、ロック色を強めたディランの作品「[[寂しき4番街]]」([[1965年]])「スーナー・オア・レーター」([[1966年]])や、イギリス公演のライブアルバムには彼の嵐のようなオルガンのサウンドが聞ける。

2016年11月15日 (火) 13:54時点における版

ガース・ハドソン
出生名 ERIC GARTH HUDSON
生誕 (1937-08-02) 1937年8月2日(87歳)
出身地 カナダの旗 カナダオンタリオ州ロンドン
ジャンル ロックンロール, R&B
ロック, ブルース,
カントリー・ミュージック
フォークミュージック
職業 キーボーディスト
オルガニスト
サックス奏者
担当楽器 キーボード
シンセサイザー
アコーディオン
サックス
活動期間 1949年 -
共同作業者 ザ・バンド

ガース・ハドソンGARTH HUDSON1937年8月2日 - )は、カナダ生まれのロックミュージシャン。アメリカを代表するロックバンド「ザ・バンド」のメンバー。キーボードシンセサイザーアコーディオンサックスなどを担当。本名はエリック・ガース・ハドソンである。

バイオグラフィー

ザ・バンド以前

カナダのオンタリオ州ロンドンの生まれ、政府の農業検査官で昆虫学者を父に持つ厳格な家庭であったが、両親とも音楽好きでガース自身も幼少の頃から音楽に親しんだ。少年時代には親戚の葬儀屋のオルガンで賛美歌を演奏したり、父親のオルガンを分解しては組み立てなおすなど、オルガンに興味を持っていた。また、家庭教師から正式の音楽教育を受け、バッハモーツァルトなどのクラシック音楽にも親しみ、ショパンのピアノ曲を特に好んだ。

本来は父親の道を進むつもりであったが、音楽好きが嵩じてウエスタン・オンタリオ大学に入学し音楽理論と和声楽を学ぶ。やがて従来の音楽に飽き足らなくなり、ラジオから流れてくるリズムアンドブルースやロックンロールに興味を持つようになる。

地元の小さなバンドに入って腕を磨き、1959年ごろ、ロニー・ホーキンスとバックバンドのホークスに出会う。この時は加入しなかったが、ガースの豊富な音楽の知識に惚れ込んだホークスの一員ロビー・ロバートソンリヴォン・ヘルムの口利きで1961年、ホークスに加入する。(リヴォンの証言では1960年の暮)この時、バンド入りを両親に反対されるのを恐れ、ガースがメンバーの音楽教師の肩書きで加入しレッスン料をとるという約束が交わされたと、映画『ラスト・ワルツ』でリヴォンが証言している。

「狂気の教授」というあだ名をもち、ステージでは優れたオルガン演奏を行う傍ら、練習では他のメンバーに演奏技法や編曲などを教えた。始め彼の真面目な雰囲気は周囲にとけ込めなかったが、だんだん認められバンドに無くてはならない存在となった。「ガースが入ってきてホークスのサウンドはロックンロールオーケストラのようになった。サウンドがずっと豊かになったのが確実に感じられた。」とリヴォンが証言している。(リヴォン・ヘルム著・菅野彰子訳「軌跡」1994年 音楽之友社刊より)リック・ダンコの証言では「オルガンを演奏し始めると、ガースの弾く曲によって、お客は泣いたり笑ったり、シンフォニーのように曲が、色彩豊かになったね。」とそのテクニックの巧さをたたえている。当のガースは「俺じゃなくて、ロニー・ホーキンスの名前でお客さんが来てるんだと思ってたんだ。実は俺のほうが客寄せだったんだね。(笑)ただ座ってただけで、別に何もしてなかったのに。」と述べている[1]

1964年、ホークスがロニーから独立しボブ・ディランのバックバンドになってもガースの存在は大きく、ロック色を強めたディランの作品「寂しき4番街」(1965年)「スーナー・オア・レーター」(1966年)や、イギリス公演のライブアルバムには彼の嵐のようなオルガンのサウンドが聞ける。

ザ・バンド全盛期

1968年、ザ・バンドとしてアルバム『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』が発表される。ガースの重厚にして変幻自在のオルガンはバンドのサウンドに深みを加えることとなり、多くのファンの支持を得た。「チェスト・フィーバー」の冒頭部のオルガンは彼が幼少期に親しんだ賛美歌の影響が見られる。後年ガースは「英国国教会は、僕が知っている教会の中でも、最良の音楽的伝統を有している。」[2]と語っている。

2作目の『ザ・バンド』では彼の才能がさらに伸びる。「ラグ・ママ・ラグ」のラグタイム風のピアノ演奏を披露、「ロッキン・チェア」ではアコーディオンを担当するなど多才振りを見せ、「クリプル・クリーク」では当時まだ新しかったクラビネットを演奏している。(アルバムのクレジットには、オルガン・クラビネット・ピアノ・アコーディオン・ソプラノサックス・アルトサックス・スライドトランペットを担当するとある。) その上手さは、前述の「ラスト・ワルツ」や残された映像から伺われるが、譜面はおろか盤面を見ずに両手で違った旋律を奏でていて驚くばかりである。彼はボーカルを担当することは無く、専ら後ろの方でキーボードを操ることに専念している。研究熱心で、ツアーやセッションで訪れると必ず質屋を訪問し、気に入った楽器や古い音楽の資料を探した。

デビュー当時から老成した感じのするメンバーたちであったが、特に最年長のガースは広い額に顔半分を覆う髭面で、一番の老け顔であった。また、シンセサイザーや音楽機器を巧に操作してアルバムのサウンドを作り上げる能力にも長けていた。

ラスト・ワルツ以降

1976年バンド解散まで活躍。1983年にはロビー抜きでザ・バンドを再編成する。このときガースが加入するかしないかで再編成が決まることになっていたという。現在は、コンピューターによる音楽関係の事業、他のミュージシャンのセッションに参加するなど活発な音楽活動を続けている。

ディスコグラフィー

参加作品

  • 吉田拓郎「Shangre-La」サックス・アコーディオン奏者として参加。

脚注

  1. ^ 『SHINKO MUSIC MOOK The Dig Specisal Edition ザ・バンド&ボブ・デイラン』シンコーミュージックエンターテイメント、2012年 ISBN 978-4-401-63717-1 C9473
  2. ^ ローリングストーンズ誌のインタビュー P・ホプキンス著・奥田祐士訳『流れ者のブルース』1994年・大栄書店